神の執事となるーヴォーリズの信仰と伝道ー
 
                         元近江兄弟社学園長 奥 村  直 彦
                         き き て     有 本  忠 雄
 
有本:  明治三十八年に来日してから、昭和三十九年に没するまで、日本の、主に滋賀県近江八幡市に住み、神の国の建設に勤(いそ)しむ生涯を送って、この地に骨を埋めたアメリカ人、ヴォーリズ(William Merrell Vories)、日本に帰化した後の名は一柳米来留(ひとつやなぎめれる)。この人の信仰と数々の類い希な事績を振り返って、人間が抱く信仰の力の強さを改めて考えてみたいと思います。今日はこのヴォーリズについて、近年益々研究を深めてこられた元近江兄弟社学園長の奥村直彦さんに、これからお話を伺います。どうぞよろしくお願いいたします。
 
奥村:  よろしくお願いいたします。
 
有本:  奥村さんは東京生まれの東京育ちでいらっしゃるわけですが、やはりご家庭もクリスチャンの一家でございますか。
 
奥村:  いいえ、違います。ただ、兄や姉が東京でミッションスクールへ行っていましたので、子どもの頃ですね、いわゆる内容は兎も角として、クリスマスをやったりなんかはしていました。家に聖書なんかもあったので、ちょっと見て、子どもの頃ですから、まだ絵本なんかで見ていた程度ですけどね。クリスチャンの家ではありません。
 
有本:  じゃ、もう東京生まれの東京育ちとおっしゃっても、こちらの方がもう生活が長くなりますね。
 
奥村:  そうですね。こっちの方が長く、関西人になりましたね。もともと、先祖は彦根だから関西かも知れませんけど。
 
有本:  ところで、今日のヴォーリズでございますけれども、ヴォーリズの印象は如何だったんですか。
奥村:  学校を出て、こちらへ教師として入った時に、最初にオリエンテーションで話を直接聞いたり、それから夏休みの前に、毎年教員の研修会が軽井沢でありました。その時に彼もおられました。終わってから、特に、「会いたい」と言って、会いに行ったんですね。そこで二時間程、一対一で喋ったんですね。その時の印象では七十半ば過ぎ位のお年寄りになっていましたけど、髪は真っ白で、おとなしい、温厚と言うか、そんな感じでしたね。おじいさんというほど、おじいさんぽっくないけれども、やっぱり老人には違いないですね。七十六位ですからね。
 
有本:  まだ、ヴォーリズの名前についてはご存知ない方も、例えば、「あの大学の建物がヴォーリズの設計であるよ」とか、「あのデパートはそうなんだよ」というようなことで言えば、「ああ、成る程。あの建物がヴォーリズが設計したのか」「あの建物なら知っている」という方が大変多いと思うんですが、近畿、特に近江八幡を中心に、ヴォーリズが設計した建物というのはかなり今でも残っているんでございますか。
奥村:  そうですね。どういう建物か、と言いますと、この辺では勿論、「近江ミッション」と言うか、「近江兄弟社」の建物、病院の旧本館とか、近江兄弟社学園の幼稚園、教育会館、旧YMCA会館。それから、ヴォーリズの記念館になっておりますが、彼の住んでいた家とか、それから、市内にたくさん近江ミッションの住宅があるんです。社員の方が昔住んでいた、そう言ったところがあります。県下になりますと、県下の各地の教会ですね。初めはYMCA会館だったんですが、それが例えば堅田(かただ)、今津(いまづ)、水口(みなくち)とか、いろいろあります。それから彼が赴任して来た滋賀県立(八幡)商業学校ですね。現在の八幡商業高校ですが、その建物も昭和の初めに建てておりますね。
 
有本:  いまご紹介頂いたのは滋賀県中心ですが、京都、大阪、神戸にもたくさんあるようですが、
 
奥村:  大学とか、学校関係を言いますと、同志社ではアーモスト館というのが有名ですがね。それから、関西学院大学はキャンパス全部をヴォーリズが設計したんです。ヴォーリズ建築の一つの見本みたいなものですね。西宮の神戸女学院大学もキャンパス全部設計したんです。そこではヴォーリズは、「建物も教育する」と言っていたんですね。
 
有本:  「建物も教育する」。成る程。
 
奥村:  私も教師でしたから分かるんですけど、教育環境というのは大事でしてね。まず両親とか、家庭とか、そういう家庭環境というのがありますね。これは揃っていなければいかんということではないですけれども、周りの人間環境、自然の環境、それから建物も環境だ、という考えですね。
 
有本:  成る程。
 
奥村:  大学だけで言えば、東京の明治学院大学のチャペルですね。そこでヴォーリズは自分の設計したチャペルで結婚式をしていますね。
 
有本:  そうですか。
 
奥村:  北は北海道から南は九州までたくさんあります。それから、商業建築で言えば、みなさんご存知なのは、大阪と京都、神戸の大丸デパートですね。大丸百貨店は、特に心斎橋の大丸は傑作だ、と言われています。
 
有本:  大学、あるいは、学校は教育機関として、「建物が大事だ」というようなお話がございましたけれども、ヴォーリズの設計の特徴と言いますと、他にどんなことが考えられますか。
 
奥村:  そうですね。私は建築が専門ではないので詳しいことは分かりませんが、見たり、聞いたりしたところでは、「スパニッシュ・ミッション・スタイル」と言いますかね、スペイン風のミッションの様式。アメリカで私も見ましたが、カリフォルニアの辺りに割合沢山あるんです。関西学院のキャンパスは殆どそれですね。兄弟社学園もそうでした。まあ言うなれば、クリーム色の壁に小豆色(あずきいろ)の瓦が乗っていて、ところどころにアーチがあったりして、どちらかと言えば、それがスペイン風らしいですね。一方では、ゴシック風のものとか、それから同志社のアーモスト館のように、ニューイングランドと言うか、アメリカのコロニアル・スタイルという植民地風のものもありますね。
 
有本:  建築設計技師としてのヴォーリズの顔を今伺いましたけれども、一八八O年にアメリカで生まれたということですが、そうしますと、ヴォーリズは建築家を将来の仕事というふうな考えだったんでございましょうかね。
 
奥村:  そうですね。ハッキリは分かりませんが、高校時代はデンバーというところで、イースト・デンバー・ハイスクールというところへ行っていたんです。その時分に興味をもったみたいですね。中学時代はアリゾナのフラッグスタッフというところです。その頃でしょうかね。特に、自分でも書いているのは高校時代ですね。大学に行くに当たって。マサチューセッツ工科大学、M・I・T・と言いますか、そこへ行きたいと思ったようですね。試験と言うか、入るのはアメリカの大学は入れてくれますからね。その試験には受かっていたんですが、経済事情がありまして、「一年過ぎてから来てもいい」ということだったんで、彼は近くのコロラド・スプリングスにあるコロラド大学に入ったんですね。ところが、そこは調べて見ますと、建築科はないんです。だから、当時二年位教養課程を済ましてから行くつもりであった、と思いますね。だから、最初はサイエンスのコースに入っているんです。
お父さんの方の先祖は、オランダから来たんですね。オランダでの先祖の信仰はオランダ改革派という宗派ですね。プロテスタントの。お母さんの方の先祖はイギリスから来たんです。それも長老派と言いますね。だから両方ともキリスト教の純粋な家庭から来ているんですね。最近分かったことですが、オランダのフォール・ヘースというところから来ているんですね。これはオランダ読みで、そのうちフォール・ヘースがヴォーリズになったんです。小さい時のエピソードとしては、子どもの頃、教会に連れて行かれて、それはレヴンワースという町ですが、子どもですから説教が分からない。ただ、パイプオルガンと聖歌隊に非常に感動したとか、その上に掲げてあった聖書の言葉を覚えてしまったとか、というようなことが言われておりますね。
 
有本:  そうですか。そのヴォーリズが建築家になる夢を捨てて、と言うと、語弊があるのかも分かりませんが、何故日本に来るんですか。
 
奥村:  要するに、コロラド大学で彼はYMCAに入ったんです。どこでもそうですけれども、学校の専門の勉強以外にクラブ活動をやりますね。どういうクラブに入るかというのが非常に大事ですね。彼の場合はYMCAと、もう一つはピアソンズ文学会に入る。詩も沢山書いているんですね。文学的教養もあったんですね。好きだったようで文学会にも入っていた。YMCAではいろいろ活動をしたんです。YMCA関係の「Student Volunteer Movement for Foreign Mission」と言いまして、外国伝道の為の大学生の奉仕団体があったんですね。それはYMCAと非常に関わりがあるんです。その団体の第四回の世界大会がカナダのトロントで開かれたんですね。そこへコロラド州の代表として行くことになったんです。そこへ出席した時のことは、彼の「自叙伝」に詳しく書いてあります。一九O二年の二月の末から三月の初めにかけて行われたんですね。その時行われた場所は今でもマッセイ・ホールと言いまして、残っているんです。これは当時、アメリカ大陸唯一の凄いホールで、日本で言えば、ちょうど、かつての日比谷公会堂のような感じで、いま古びておりますけれども、今でも使っているんです。そこの大会に行った時に、いろんな人が次々講演するわけですが、「China Inland Mission」と言いまして、イギリスの有名なハドソン・テイラーという人が中国伝道したんですね。その人の息子がお医者さんで、宣教医と言うんですが、その夫人のミセス・ハワード・テイラーが話をしたんですね。彼女は三回程話しているんです。その二回目に、「キリストの苦しみに与かる」と言う題で講演をした。その時に何を言ったかということが、今でもちゃんと記録が残っているんです。それを見ましたら、中国で義和団、北清事変ですね。義和団の乱があって、キリスト教とかを迫害して、いわゆるナショナリストの人たちですから、暴力的に虐殺されたりしたらしいですね。その話が大会中いろいろあったらしくて、みんな緊張した集まりだったんですね。その中でハワード・テイラー夫人が、「自分もそういう目にあった」という話を淡々とされたんですね。そして最後に、「私にはキリスト以上に大事なものはない。あなた方にはありますか」と聞いたんですね、みんなに向かって。「もし、キリストに従うことを妨げている何かが、あなた達の心の内にあるならば、今、ここに何かそういうものがありますか」とそう聞いたんですね。それを聞いた時に、ヴォーリズは、自分は建築家になって、お金を稼いで、それを自分のものにするんじゃなくて、そのお金を寄付して、海外へ行く宣教師をサポートしようと、こう思っていたみたいですね。ところが、「お前はどうするつもりなのか、というふうに、キリスト自身から聞かれているように感じた」と書いていますね。「瞬間、周りが暗くなって、話している婦人の顔だけがキリストの顔に見えた」と。「そんなのは幻想だ」と言えばそうかも知れないけれども、これは実存的なことで、他の第三者がそんなのはおかしいということは出来ないですね。彼の宗教経験ですから。これはキリスト教では召命(しょうめい)といいますがね。
 
有本:  「召命」というのは「命を召す」ですね。
 
奥村:  そうですね。「calling」といいます。「呼ばれる」ということです。「神様に呼ばれる」ということですね。「死ぬ」ということではなくて。ドイツ語で言うと、ベルーフと言いまして、職業という意味なんです。だから、「お前の職業はこれだ」というふうに、神様が決める。当時はそういう考えがありましたね、宗教改革以来。ですから、彼はその職業というか、「お前はどうするつもりだ」というのは、「建築家になるのか」と。「海外宣教には行かないのか」ということですね。その裏にはお母さんが熱心に祈っていたそうですね。お母さんは行きたかったそうですね。お母さんは女子神学校に行っていまして、海外宣教を夢見ていたそうですが、結婚したんで行かれなくなった。今度、生まれる子供にはぜひそうなって欲しい、という祈りをしていたそうです。日本で言えば、胎教みたいなものですかね。そういうことが背景にはあったから、彼はそうしなければならないという気はあったようですがね。だけど、「私は建築家になるんだ、と言い張っていたのが、神様に対して大変傲慢なことだった、と気が付いた」というんですね。それが原因で、それで、「私は行きます」ということで、サインをした。それで、その代わりどこへ行きたい、ということは言えないんですね。どこでもおっしゃるところへ行きます、というのが本当の献身ですね。
 
有本:  それで日本に、ということですが、その段階では、そうすると、日本のどこへというようなことも具体的には本人は知らないわけですね。
 
奥村:  もちろん、そうですね。その場合に、建築家になるという夢をそこで止めたわけですね。コロラド大学には神学部というのもないので、哲学科に変わるんです。コースを変えてしまうんです。言うならば、理科系から文科系に変わったということですね。そして、そこで一所懸命仕上げをして、卒業してから、近くのYMCAに主事補として務めるんです。そこへニューヨークのYMCAの本部から、「こういう要請があるけれども、お前、行くか」と手紙が来るわけですね。それがこの八幡商業学校だったわけです。というのは、当時、日本の文部省も、YMCAなどに頼んで、「英語の教師を欲しい」と言っていたわけです。そのルートがありまして、それでYMCAの仲介で彼は来たわけです。来るに当たっては、いろいろ条件があったと思います。自費で来るんですね。ボランティアですから。借りられますけど、返すということなんです。だから、「放課後ならば聖書を教えてもいい」という条件もあったんですね。それで彼は来たんだと思いますね。
 
有本:  英語の教師ということで、アメリカ人から本当に素敵な英語を勉強出来るという楽しみがあったとしても、本人は、今でこそ近江八幡というのは、京都や大阪のベッドタウンですから、拓けて参りましたけれども、明治末の近江八幡と言ったら田舎も田舎ですよね。
 
奥村:  私らが来た時でも、まだ寂しかったですからね、駅前なんかは。当時はもちろんです。だから、彼の日記に、自叙伝にも書いていますが、「町に着いてみたら」、それはちょうど一九O五年の二月二日の午後だったんですが、つまり明治三十八年ですね。「来てみたら、周りに家が十軒程あるだけで、後は田圃(たんぼ)の真ん中」と。ちょうど二月ですから、「風が吹き曝して寒くてしょうがない」「寂しいこんなところへ。どこに学校があるんだろうと思った」と書いてありますね。「もし上りの列車が来たら飛び乗って帰りたかった」とも言っておりますね。だから、その日の晩に、前任者のワードという先生のいるところへ泊めて貰って、その晩に書いた日記に有名な、「ホームシックである」とか、「寒い」とか、「頭が痛い」とか、それから、「孤独である─lonly」だとか、「But here!」と書いてあるんですね。「しかし、此処へ来てしまった」と。そういう日記が残っております。これは有名な言葉に今ではなっております。つまり、それ程徹底的に、「寒い、頭が痛い、寂しい、ホームシックだ、帰りたい、だけど来ちゃった」と。それは何故かと言うと、さっきのトロントで、神さまの召命に従ったからだ。今更逃げて帰るわけにいかない、という使命感みたいなものがあったと思います。
 
有本:  そうしますと、商業学校で英語を教え、授業とは別に、学生達、或いは町の方もいらっしゃったんですか、キリスト教を説くわけですね。
 
奥村:  それは学生相手ですね。だから、最初の授業に、「I'm lonly」と言うわけですね。英語で言うと、「Come and see me after school」と言ったんです。つまり、「授業後、私のところへ来なさい。私は一人ぼっちです」と言ったんです。そう言って授業を終わって出て行った、と。生徒の間でも、「それでは行ってみようか」と。この辺の言葉で言えば、「行ったろか」というものですね。そういうわけで生徒が押し掛けて来たんですね。それでその数がだんだん増えてきました。というのは、彼はお茶を出したり、トランプしたり、アメリカの絵葉書を見せたりして、最初から難しい話をしたわけじゃないんです。そのうちに、自分で聖書を買って来て、英語の聖書を買い与えて、それでやっていったんです。それでだんだん生徒が増えてきましたね。それで、YMCAを学校の中に、いわゆる「High school YMCA」というのを作ったんですね。大学のYMCAは「学Y」。YMCAには、「City Y」と言いまして、誰でも来られる都市のYMCAと、それから、大学とか、学校のYMCAですね。「学Y」と言います。当時は殆どなかったと思いますけど、「High school YMCA」というのを、「HiーY」と言ったんです。それからもう一つは企業のYMCAですね。勤労者の為のYMCA。そういうのをやっております。
 
有本:  いろんな困難があったにしても、英語の教師をしながら、そういうYMCAを中心とするキリスト教伝道が軌道に乗ってきたと思うんですが、二年位で学校の先生を解任されますよね。
 
奥村:  そうですね。日本という国はキリスト教は江戸時代には禁じられていましたし、明治になってからも、なかなか難しかったんですね。まだ彼が来た時は、明治ですから、一応は、自由はありましたけれども、やっぱり心情的にはなかなか受け入れられなかったんじゃないでしょうかね。それが一つと、あまり生徒が沢山YMCAに入ってきたりするものだから、ちょっと脅威を感じたんじゃないでしょうか。こんなに拡がったら、この学校は耶蘇教(やそきょう)の学校になってしまう、と。当時の言葉で言えば。それで地元の人なんかがいろいろ反対し始めたみたいですね。だけど、ヴォーリズが来た時の校長は非常に理解があって、YMCAを作らしたりしたんですね。次の方は違う宗教ですから、こう言ったんですね。「ヴォーリズ先生は英語の先生としては非常に満足である。だけども、キリスト教の布教活動は止めてもらえないか」と、こう言ったんですね。しかし、ヴォーリズはさっき言いましたように、「約束として、放課後ならばいい、と言っているんで来たんである。悪いことをしているわけではないから、それは困る」と言ったんです。「それならばやむを得ない。契約は今後は更新しません」という形で解任されたんですね。だから、「首を切った」と言えば実際上そうですね。「契約しない」ということは「首を切る」ということですからね。それで彼は、「だけども、そのことだけはハッキリさせてくれ」と。それで、「英語の先生として何も問題があったわけではない」ということは残っているわけですね。だけども、確かに考えてみれば、明治時代の当時の地方の小さな町だったここで、あまりにもそれが広がり過ぎたり、教会も、彼が来てから人数が増えた。小さな教会が既にあったんですけどね。そういうようなことを見ていて、地元の人が心配したのも分からないことではないですね。やっぱりそれは信教の自由という点では、今とまったく違いましたね。
 
有本:  それで解任される。学校の先生は辞めざるを得ないという条件の中で、彼は今度は何を始めるんですか。
 
奥村:  そのニュースがキリスト教の新聞に載りまして、たちまちいろんな学校からお呼びがかかるんです。「英語の先生に来てくれ」と言ってね。YMCAからもきました。ところが、彼は断ってこの地に留まったんです。そして何をしたかと言うと、YMCA会館を建てて、そこに教え子と一緒に住んで、将来のことに備えていたんでしょうね。それで一旦アメリカへ帰るんです。そして建築をやろうと思って、キリスト教の団体の後輩である、本当に建築の専門の人を呼んで来るんです。チェイビンという人です。明治四十三年に、「ヴォーリズ合名会社」という建築設計事務所を、小さな会社を創るんです。それが始まりですね。その前にもう一つありました。京都のYMCAの建物を、カーネギーですが、アメリカの当時の富豪はみんな、そういう社会事業に寄付していましたね。今もカーネギーホールとかありますね。彼は京都のYMCAを寄付をしたんですね。それを設計する技師がいたんですが、彼は東京の方にいるんで、「代理監督をしてくれ」と言われて、ヴォーリズがそこへ行くんですね、それがまあ本格的な建築家の始まりですね。目的が建築家になることではなくて、さっきの「神の国」を創るということが目的ですから、その為の資金を必要とするので、自分はまだその時は専門家ではない。途中で辞めていますから、素人には違いない。だから、彼は専門家を呼んで来たんです。事業をやり、その資金を作りながら伝道をしていったんですね。
 
有本:  そうしますと、「神の国というのは、聖書の中に随分出てくるよ」という話がありましたけれども、「神の国」というのは、キリスト教をベースにして、いろんなことをやりながら、我々の理想的な場所を作るというのか、生活改善というのか、
 
奥村:  それは神の国じゃないですね。一つはキリストが言われたように、「神の国は、ほら、そこにある。あそこにあるんじゃないか、というものではない。お前達の唯中にあるんだ」とこう言った言葉が、聖書に出ているんです。神の国というのは、それがまず最初ですね。それからもう一つはそれを具体化して理想郷みたいなものをつくろう、ということもあるわけです。二つあると思います。どちらが先かと言えば、その精神、宗教問題が先ですね。神の国ということは、「神の国に、神に相応(ふさわ)しく生きる」ということです。だから、何か変な王国を造るんじゃないんです。旧約時代には、イスラエル王国はそういうのを理想としたようですけどね。その辺でいうと、彼は後になって書いていますが、「どんな仕事でも神のことを忘れずにやるんだ」と言うんですね。「建築家にしても、ただ、建てればいいんじゃなくて、住む人の立場になって造る」というんですね。だから、ただ、儲ければいいというので、直ぐ壊れるような建売りみたいなものでなくて、きちんと造るから、最近、解体される時になかなか壊しにくいそうですね。寿命がきていても。それだけ堅牢に造られているという。それから使い易く、住む人が健康的に。彼の、『わが家の設計』とか、『わが家の設備』とかいう本がありますが、それにそう書いていますね。何故そう言ったことを考えたかというと、それはYMCAの、昔の本来の思想に、「神の国思想」が入っているんです。YMCAというのは、もとイギリスから始まったんです。初めは祈祷会から始まった。段階的に、今いろんなことをやっておりますが。彼は大学時代にそれをやっていたから、そういうことを考えたと思いますね。それと先祖からの長老派、ピュリータンの信仰ですね、それらが一緒になってヴォーリズが出来上がったんだと思いますね。どっちか一つだったらこうはなっていなかったでしょうね。
 
有本:  病院、学校、
 
奥村:  会社、
 
有本:  それから何があるんですか。
 
奥村:  元々あったのがYMCAでしょう、一番最初は。それから建築事務所でしょう。それから『湖畔の声』という雑誌を発行した。私が編集をやっている頃に七十年でしたから、もう九十年位になりますかね、続いているんです。通信伝道みたいなものですね。それから病院。結核療養所ですね、始まりは。それから、医薬品の会社。それから奥さんが始められたのが幼稚園で、それが今の学園になっています。教育事業ですね。今で言えば、社会事業ですね。今では老人福祉とかも始めております。当時はなかったんです。それからいろんなそういう社会事業は継続してやるためにお金が要る。例えば、会社の医薬品の商売にしても、「あなたはお客さんに対して、どれだけ売りましたか」ということも聞いたでしょうけれども、それじゃなくて、「ちゃんとキリストを伝えましたか」というようなことですね。そういうことを徹底しているんですね。資金的にも薬がよく売れましたね。それからどんどん施設も増やしていったり、県下の各地の会館を建て、教会を建てていった。それは昭和の初期だったと思いますね。それからもう一つ、「ガリラヤ丸」を医薬品会社のアメリカの人が寄付してくれた。
 
有本:  舟を、
 
奥村:  はい。琵琶湖周辺を伝道するに当たってですね。モーターボートと言っても、まあ言うならば、クルーザーですね。泊まれるようになっているんです。近江八幡から、例えば、昔の今津などというところは、当時は非常に交通が不便で大変行きにくいところだったんですね。そこへ舟に乗れば一直線で行けるわけですね。
 

 
ナレーター:  アメリカ人のヴォーリズがまずこの地に神の国を建設しようとした近江。そのほぼ中央にある近江八幡市。街の直ぐ北には葦が茂る西の湖を初め、織田信長が天下制覇を目指して築いた安土城(あづちじょう)の跡があります。そして街の西側には豊臣秀吉の甥の秀次(ひでつぐ)が築いた八幡城(はちまんじょう)の跡があります。秀次は信長の没後、安土の有力な町衆を悉くこの八幡に移して、新しい城下町を造りました。これが近江八幡市の始まりと言われます。八幡城の麓には秀次が造ったという掘り割りと、船着き場があって、物資は琵琶湖を経て、京へ運ばれて行きました。掘り割りは、今、「八幡堀」と呼ばれ、当時の面影を残しています。ヴォーリズは明治四十年、この近江八幡にキリスト教青年会館、いわゆるYMCAを創設したのを手始めに、建築事務所や、医薬品の製造販売会社、サナトリウム、近江兄弟社学園などを次々に創設して、キリスト教の伝道に励んでいきます。
 

 
有本:  「近江兄弟社」という会社ですね、組織というか。これは、「神の子、兄弟姉妹なんだ」ということから、「近江兄弟社」というふうな組織になるんでしょうかね。
 
奥村:  そうですね。初めは、「近江ミッション」と言っていたんです。日本語でいうと、「近江基督教伝道団」という名前だったんです、正式の名前は。それとは別に、「近江セールズ株式会社」とか、あるいは、「近江療養院」がここにあったんです。それで、そういうことをする為に財団法人を創った。それも「近江キリスト教慈善教化財団」という長ったらしい名前の財団を創ったんですね。そうして、だんだん事業が発展していくと、法的に整備しないとダメですね。そういう意味で、初めから計画的に、「近江兄弟社」を創ろうと思って創ったんじゃないんですね。だから、YMCAから始まって、どんどんこういうふうになって、そして、昭和九年、一九三四年に「近江ミッション」という名前を、「近江兄弟社」に改めたんです。それは「ミッション」と言うと、どうしても外国に本部がありまして、そこで献金を募(つの)って、人を派遣して来たり、学校を造ったりするわけでしょう。そうじゃなくて、「近江ミッション」はあくまでも自給自立の、独立して自分自らサポートしてやっていく伝道団ということで、「近江ミッション」と言っていたんです。どうも「ミッション」という名前が誤解されるから、英語でいうと、「Omi Brother-hood」と言っていますね。兄弟社というのは、そういう意味ですね。聖書にあるんですけど、「神の許にみんな平等である」「兄弟姉妹である」とありますね。人権問題とか、なんかいろいろ最近も分かって来ましたけれども、元々そういう考えがあるわけですね。
 
有本:  近江兄弟社を設立し、順調に、「神の国造り」と言いましょう か、結婚というようなことで、しかも日本人を選びますよね。
 
奥村:  奥さんになった方は一柳(ひとつやなぎ)さんというので、兵庫県の、昔の小野藩というところの藩主の子孫なんですね。そこの邸宅を建築するので、ヴォーリズが建築技師として出入りをしていたんですね。それで知り合ったんです。たまたまその奥さんになった満喜子(まきこ)さんという方は、アメリカに長いこと留学していまして、もちろん、英語が堪能だし、帰って来て通訳をしたりしていたんですね。ヴォーリズが言うには、「ただ、私は彼女の英語が上手いので、それで気にいったのではない」「自分のいわんとする建築に対する考えとか、そういうのを非常によく理解してくれて、賢い女性である」というようなことを書いていますね。そういったことで、そうなったんじゃないでしょうかね。ところが、当時はいわゆる昔の華族ですから、宮内省も親も当然反対しましたね。「二年位かかった」と、私にも奥さん自身言っていました。それは大変な反対だったみたいですね。それで最後には折れて、「やるからには社会の人たちに全部紹介出来るように、東京で式をやってくれ」と。ヴォーリズは八幡へ来て、ひっそりやろうと思っていたらしいんですけれども、それで結局盛大な式になってしまったんですね。それはしょうがないと思うんです。アメリカ人と娘が結婚するんだから、そんなこそこそとするんではなくて、ちゃんとする。当時の新聞に載ったようなニュースだったんですね。
 
有本:  そうですか。なかなかの賢夫人だったようですが、結婚を契機というか、結婚後、奥様の協力もあるでしょうけど、教育問題と言いますか、教育に非常に熱心にされる。
 
奥村:  そうですね。それで単なるお嬢さんでなくて、こっちへ来てからやっぱり言葉も違うし、言葉というのは、英語でなくて、日本語ですがね。私らもそうでしたけれども、関東弁で喋ると、この辺ではなんか違和感があったんでしょうね。そこで敬遠されたみたいですね、最初はみんなから。ところが町をウロウロしている子供を見て、今で言う学童保育のようなことを始めるんです。学校を終わってから、集めて、世話をして、今度幼児教育を始めて、それが「清友園」という、正式に認可されたのが、一九二二年、大正一一年です。それが始まりで、教育事業が始まったんです。賀川豊彦(かがわとよひこ)ってご存知ですね。
 
有本:  ええ。
 
奥村:  彼はヴォーリズと親しくしていたんです。賀川さんは、「ヴォーリズの事業で、ただ一つの欠点は教育事業がないことである」と書いているんですね。その「ないことである」と言っていたのを、奥さんが補って、ちゃんとやったわけですね。だから、賀川さんが言うには、「ヴォーリズにふさわしいのは、工業は建築ですからね。聖書学校なんか、そんなのを作ればいいじゃないか」と書いているんです。幼児教育から始まった。吉田さんという人は、今度は勤労女学校というのをつくるんですね。それとは別に、戦後になって新しく小学校、中学校も新設して、そして、全部一緒にして、「近江兄弟社学園」となったんですね。
 
有本:  そうですか。ところで、日本に帰化しますよね。これはどういう経緯なんですか。
 
奥村:  そこは、長いこと帰化していないのが何故かなあ、と思いますけれども。昭和十五年ですからね。その頃からそういうことを考え出し、もっと前から考えていたようです。それから友達と言うか、友達と言っても、キリスト教の東大の先生とか、いろいろおられるんですけど、有名な高木八尺(やさか)という先生、そういう人達がヴォーリズの帰化運動を始めるんですね。ところが、帰化するというのは難しかったんですよ、当時ね。日本人になるということは。要するに、天皇陛下の赤子(せきし)になるという言葉がありまして、子供になってしまうわけですね。だから、それで神道の方の儀式も必要ですし、ヴォーリズはその辺はちゃんと割り切ってやっているんですけど。帰化したのは何故か、という理由は、一言で言えば、「日本を 愛するからだ」とこう言っています。来た時の、先ず東海道線でこっちへ下って来る中に、「日本の山は緑が多いので、気に入った」と書いているんですよ。もし、これが禿げ山ばっかりであって、砂漠みたいなところであったら、気に入らなかったかも知れないけれども。それから不思議なことに、「明治天皇のディグニティというか、そういう「御稜威(みいつ)」のようなものが、大変他の君主にはないものだ」と、こう書いているんですね。御大葬の時の記事などを英語の「マスタード・シード」という雑誌に写真入りで載せているんですね。これは何故かなあ、と思うんです。そういうロイヤル・ファミリーに対する憧れみたいなものが、アメリカ人にはあるようですね。聞くとどうもね。それで結局、友達や仲間、兄弟社の仕事、それから教え子達、そういうことを全部総合して、日本を愛したということは事実でしょうね。もう一つは奥さんがアメリカ人と結婚しましたから、アメリカへ行けば市民権が取れるんですが、日本に居ましたから、ある意味では国籍が問題になってしまったんですね。それが彼の悩みというか、苦しみだったんでしょうね。
 
有本:  日本人に帰化して一柳という姓、奥様の姓ですか、になるわけですが、不幸にして、というか、太平洋戦争が始まりますよね。戦争中はどうしていたんですか。
 
奥村:  そうですね。ところが日本人になったんで、強制送還というのはなかったですね。ただやっぱり敵性國(てきせいこく)というか、当時の言葉では。アメリカですから、やっぱり監視されていた。彼にとって何よりも慰めだったと思うのは、東大、当時の東京帝国大学の文学部で英文学を教えに行っていたんですね。一週間に三日程、軽井沢から東京へ来て、それに通っていたんですね。また、京都でも、京大にも行っていたし、同志社にも行っていたんですね。それは短かったようですが。それも病気で、翌年の秋ぐらいに辞めるんですけども。それはヴォーリズにとっては、何よりの慰めじゃなかったですかね。
 
有本:  ご本人が『失敗者の自叙伝』を書いていますね。それを拝見すると、私が近江兄弟社の事業などを拝見すると、みんな成功しているやに思えるんですが、彼が、「余が自叙伝は失敗だよ」と。この「失敗者」というのはどう理解したらよろしいんですか。
 
奥村:  奥さんの書いたものに、自叙伝に序文を書いているんですが、それを見ますと、「彼の理想は高くて、なかなかいろんな屈折、挫折もあったので、彼は自分を失敗した、と思うように至った」と書いているんですね。ヴォーリズ自身のものを見ますと、確かに「兄弟社は自分の考えた」というか、「発展していくことはいいんですけども、いわゆる社員がみんな贅沢な暮らしをするのではない」というようなことを書いているところがあるんです。だから、それが失敗した。要するに、彼の場合は、何時でも神様というのがあるわけです。だから、「神に対して失敗、申し訳ない」という気があったんじゃないでしょうかね。
 
有本:  成る程。その他、奥村さんはヴォーリズの研究者としていろんな論文をお書きになっており、一部ですが、拝見致しますと、「祈りの人だった」ということをよくお書きになっていらっしゃいますが、ご紹介頂けますか。
 
奥村:  そうですね。ヴォーリズさんは毎年「書き初め」をしていたんですね。
 
有本:  ほう。
 
奥村:  漢字でね。教えた人がいるんですけど。それをみんな表装して、あっちこっちにありますが、学園にあったので覚えているのは、「祈りつつ前進」という言葉が書いてあるんです。「ただ、前へ進め進めじゃなくて、祈りながら進みなさい」ということですね。「祈りの人」というのもありましたね。愛唱聖句と言いますか、いつも主張していたのは、『マタイによる福音書』の六章の三十一節から三十三節あたりですね。特に有名な「山上(さんじょう)の説教」と言われるところですが、その終わりのところに、こういう言葉があるんですね。
 
     何よりもまず神の国と神の義(ぎ)とを求めなさい。
     そうすれば、これらのものはみな加えて与えられるであろう。
     だから、あすのことを思いわずらうな。
     あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。
     一日の苦労は、その一日だけで十分である。
          (新約聖書『マタイによる福音書』第六章より)
 
「何よりもまず神の国と神の義とを求めなさい」ということは、「神の国にふさわしい生き方をしなさい」ということですね。「これらのもの」というのは、「衣食住」ですね。この前に出てくるんですが、「何を食べようか、何を着ようかと思いわずらうな」と。「空の鳥を見なさい」とか、「野の花を見てご覧。何もしていないけども、神様は養っているではないか」と。「お前達はまして人間ではないのか」と。イエスがそう言っているところがあるんですね。その後にこの言葉が出てくるんです。だから、それを読んだ上で、ここを読むと、よく分かるんです。だから、「まず何よりも神の国と、神の義を求めなさい」と。「何を着ようか、何を食べようか」心配しちゃいかんということではないですよ。「思いわずらうな」が、先に行かないで、「まず、神の国を求めなさい」と。「そうすれば神様は必ず養って下さるんだから、それを信じなさい」と、こう言っているわけですね。それが彼の愛唱聖句なんですよ。だから、やっぱり「まず、仕事じゃなくて、まず信仰だった」わけですね。ただそれは、「信仰、信仰」と言っていたら、いいんじゃなくて、もちろん一所懸命働いたわけです。で、こういう言葉があるんです。いろんな試練がありましたね。例えば、教師を首になるとか、来た時に寂しかったとか、いろいろあります。それで、こういうことを言っているんです。
 
     祈りの能力(ちから)がどれ程強いものであるかは、
     ただ祈りによりて能力(ちから)を受けしもののみ解し得る処で、
     理論理屈では到底説明できない。
         (一九三二年、クリスマス祝会でヴォーリズが述べた言葉より)
 
こう言っているんですね。ただ、「祈りは理屈ではない」と。「祈らない者にはなかなか理解出来ない能力(ちから)があるんだ」と言っているわけですね。ということは、ヴォーリズは「祈りの人」だった、ということですね。だから、ただ祈っていればいいんじゃないか。「そんなにただ祈っていればいいんじゃない」という人も多くありますがね。それはそうですよ。ただ祈っていれば天から何か降ってくるわけじゃないから。だけど、思いわずらうよりも、まず先に神を信じて祈りなさい、と。そうすれば必ず養われる。それが信仰ですね。
 
有本:  昭和三十九年ですから、東京オリンピックの年に亡くなったわけですね。間もなく二十一世紀を迎えようとするごく一般の市民に、ヴォーリスはどういうメッセージを残したのか。その辺、研究者としての奥村さん、如何でございますか。
 
奥村:  彼の信仰は、思想の根底には、「この世の中のものは、すべて自分を含めて、神様からの預かりものだ」という。聖書から見れば当然なんですけど、そういう考えがあるんです。そこを特に強調するのは、長老派の信仰だったんですが。それで預かりものであると。だから、今でこそ、「煙草は身体に悪い」と言い出したでしょう。ヴォーリズは禁酒、禁煙にうるさかったんですね。特に禁煙については、「神様から預かりものの身体に毒を入れてはいかん」と。まさに煙草は毒なんですね。そういうことを社員にも言ったんですね。なかなか守れない人もありましたけどね。だけど、基本的にはそういうことです。つまり、預かりものである。だから、粗末にしてはいけない。ピューリタンというのはそうなんですよ。預かりものだから質素に暮らす。倹約をする。合理的に過ごす、ということでしょう。贅沢しちゃいかんということはないけども、それの反対の考えですね。だから、その点では近江商人に似ているところがありますね。ただ、合理主義というのはそこなんですよ。合理主義と信仰とは矛盾するみたいに思いますけど、そうじゃないんですね。今みたいに神様の預託(よたく)と言いますか、預かりものという考えに立てばよく分かるんじゃないですか。私らも勉強したことですけど、マックス・ヴェーバーが、そういうことを言っていますがね。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」というのはそういうことです。ですから、みんな一所懸命働くということは、そこから来ているんですね。儲ける為じゃないということですね。結果として儲かるわけですね。それをまた、どういうふうに使うか、ということも、預かりものだから、自分のものに、懐に入れてはいけない、ということですね。社会の為に還元するというか。一貫しているわけじゃないでしょうかね。教育者として、奥さんは学園をつくったんですが、奥さんも同じような考えで、「神の国を」というか、神様の前に、全くこれもやっぱり全人(ぜんじん)教育と言いまして、そういう考えですね。YMCAがそうでしょう。三角形のマークがありますが、「spirit」「mind」「soul」---と言いまして、「魂と霊魂」と、「心と知恵、知能」もありますが、「身体」「body」ですね。三つが総合的に。そういうことをいうと、障害の方には、そういうのは差し支えで、そんな考えは理想主義、ギリシャ的な考えかも知れませんけどね。だけど、やっぱりどんな人でも平等に。イエスは特に病人とか、苦しんでいる人を癒してあげたわけでしょう。だから、その点では、「全き人」というのは、いろんな意味がありましてね。完全な理想的な体形とか、そんなものではないですね。もっと人格的に調和の取れた、ということだと思うんです。
 
有本:  お書きになったものの中に、「神の執事(しつじ)」という言葉がよく出て参りますね。その「神の執事」というのは、まさにいま神様から預かっている我々の肉体であったり、我々の使命であったりということなんですか。
 
奥村:  そうです。言葉を換えて言えば、「神の番頭さん」ということですね。その方が分かり易いですかね。商売でいう番頭さんですね。ご主人ではないわけです。ご主人は神様ですね。ご主人から預かって、それを忠実にこれを管理していくのが執事ですね。だから、主人がいて、神様である主人のもとで、全てを預かって、それを忠実に管理していく、と。自分自身もそうだということですね。
 
有本:  いずれにしましても、神の執事、神様が主人公で私達は僕(しもべ)。番頭なんだよ、というようなことが、もしかしたら我々現代人へのメッセージかも分かりませんね。
 
奥村:  そうですね。
 
有本:  常に、「私が主人だ」みたいな風潮が今ありますよね。
 
奥村:  そうですね。良い、悪いは別にして、日本には昔、天皇とかあって、それが主人みたいな感じだったでしょう。外国でも王様とかいて、それに仕えるという。そうじゃなくて、神様は主人で、自分達は僕(しもべ)、というか、忠実な執事なんだ、と。今の日本ではそういうのが一切無くなってしまったでしょう。教育でもね。公立の場合は、特に宗教教育も禁じられている。道徳教育はしたらいいと思うんです。それさえもなんだかんだと言われていますけどね。つまり、人間としての生き方を教えていないでしょう。ただ、早く計算出来る、数学が出来る、英語が出来るとかね。ただ、小さい時から塾だ、なんだと、駆り立てている。当然、そう言ったことは全く無知ですね。だから、やっぱりヴォーリズが言いたかったことは、ヴォーリズだけじゃないんですけれども、そういう宗教というか、考え方はやっぱり小さい時からきちんと環境としてもつ必要があるんじゃないでしょうか。私らだって、修身教育は、昔、小学校で受けていましたけれど、キリスト教だったわけじゃありません。ただ、母親が仏教やら、神仏にえらく熱心であれば、そういう影響はありますね。そういうものは大切にしなければいかんものだという、そういうものはなんか知らんけどあるという、それがまず先ですね。だから、この宗教でなければいかん、ということはありませんけれども。一番分かり易いのはキリスト教じゃないでしょうか。仏教は仏教でいいところは沢山ありますが、キリスト教の方は申し上げたような考えが大体基本ですね。
 
有本:  いま一時間お話を伺って参りまして、テレビをご覧のみなさんも奥村さんのお話からヴォーリズ像を描いていらっしゃると思うんですが、最後にもう一度奥村さんからご覧になったヴォーリズ像は、
 
奥村:  そうですね。見た感じはさっき申し上げましたけれども、書いたものを読んだりしてね、総合的に思うと、「まず、神の国と、神の義を求めなさい。そうすれば与えられる」という聖句を、本気になって信じていたんじゃないかと思いますね。そういう人は稀というか、私自身もなかなか出来ませんけど、そう思いますね。神の国は分かるけれども、そう言ったって、やっぱり明日どうするんだ、という暮らしの方もあるわけでしょう。だから、「そんなのは理想だ」と言ってしまえば、そうですけれども、本気になってそう信じれば、ちゃんと養われるかも分からないじゃないですか。そこを彼は本当にそう思って、その通りにやって来た。例えば、首を切られたり、何だという逆境の時でも、必ず信仰を失っていないんですね。一貫していることは、結局、だから養われていたわけですね。やっぱりそれは理屈じゃなくて、祈ってやってきた、という点は、そこが彼の最大の遺産だ、と思いますね。何を建てたとか、ということも大事ですけども、やっぱりその生き方が非常に強い印象をもっていますね。だから、町を造りに来たわけではありません。近江八幡の町づくりの先覚者みたいになっている面もあるんですけれども、そうではないんですね。本当の神の国の考え方を広めようとした、と。理想をやってみたいと思った、と。彼はよく「experiment」ということを言ったんですね。奥様もそうですけど。「実験」ですね。神の国のこの聖書の言葉を。「イエスキリストの原理」を実際生活に適応したいというのが、ヴォーリズの学生時代からの理想なんです。それはハッキリ書いていますね。それをやってみようとしたのが、これなんですね。それを彼としては失敗した、と思ったんでしょう。イエスキリストの原理とは何か、というと、「神を愛し、自分を愛するように隣り(となり)人(びと)を愛する」ということですね。これがキリストの原理です。「そんなことを言っていたら、当世、商売なんかしていられないじゃないか、と言っている人がいるけれども、そうではない」と、ヴォーリズは言っているんですね。必ず、それは信じてやれば、そうなるんだ、という程の信念というか、信仰というか、それはちょっとなかなか稀有なことだと思いますね。
 
有本:  そうですね。
 
奥村:  軽井沢の研修会の後で話したことがあるんですけど、その時、私は新米(しんまい)の教師ですから、「キリスト教教育はこういう理想だと思いますけど、どうですか」と言ったら、英語で喋ったんですけど、「exactly!」と、「その通りだ」と言ったことを覚えておりますね。それから、「先生は建築をやりたかったでしょうけど、それを神様に捧げてこられました。けれど、私は教師になりたくてなっているんですけど、いいんでしょうか」ということを聞いたことを覚えています。それは聖書の『ヤコブ書』に書いてあるんですけど、「その場合の教師というのは、学校の教師ではない」と言われましたけどね。だから、兎に角、その時の印象としては、成る程、人格が完成された、近いような人格の人だ、と思いました。若い時に、いろんな怒ったりも、勿論しましたね。先輩達に聞くと、遅刻すると怒るんですね。それもさっきの主張と結び付くんですよ。遅刻した、ということは、「あなたは人 の時間を盗みました」と、こういう言い方ですね。
 
有本:  ああ、成る程。
 
奥村:  そんなことは普通言いませんよね。だから、みんなが集まって、何時に集まろう、というのに、一人だけ来ないから待っていた、とすると、「あんたはみんなの時間を盗んだ」と言って怒られたとか、あるんですね。
 
有本:  どうも有り難うございました。
 
奥村:  いいえ、どうも失礼致しました。
 
 
     これは、平成十二年一月二十三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」に放映されたものである。