内なる自然をみつめる
 
                          京都大学名誉教授 河 合(かわい)  雅 雄(まさお)
一九二四年兵庫県生まれ。京都大学理学部動物学科卒。動物生態学・自然人類学専攻。理学博士。宮崎県幸島でニホンザルの文化的行動を発見。後にアフリカでのサル類の生態学調査を通して、家族を持ったサルをヒトとする独自の進化論を展開する。京都大学霊長類研究所教授・所長、日本霊長類学会会長、(財)日本モンキーセンター所長、兵庫県立人と自然の博物館館長など歴任。京都大学名誉教授。著書『森林がサルを生んだ』『少年動物誌』『河合雅雄著作集(全十三巻)』など多数。
                          き き て・詩 人  工 藤(くどう)  直 子(なおこ)
一九三五年台湾生まれ。詩人・児童文学作家。お茶の水女子大学中国文学科卒。博報堂に四年間勤めフリーとなる。人が生まれもっている感覚やこころ、動植物のかすかな気配などを素直に詩やお話しとして表現、また最近では造形表現を含め、多様な創作活動を展開する。詩集『てつがくのライオン』『のはらうた』、エッセイ『出会いと物語』など多数。
 
ナレーター:  猿の研究の第一人者として知られている河合雅雄さん。河合さんは京都大学霊長類研究所の中心メンバーとして、猿が独自の社会生活を営むことに注目。その独創的な研究は、世界から高い評価を得ています。河合さんの研究テーマは、「猿を通して人の由来を探ろう」というものです。これまでに日本猿やアフリカのヒヒなど、世界各地で調査研究を行い、猿と人を見つめてきました。「何故人は猿から進化したのか?」。その疑問はそのまま「人間とは何か」という大きな問題に繋がります。河合さんは、自然科学者であるとともに、児童文学者としても知られています。学問では捉えきれない動物たちの世界を、物語りとして描き出しているのです。今回、河合さんにお話を伺うのは、詩人の工藤直子さん。工藤さんは自然を題材とした多くの詩や童話を発表。創作を通して、子どもたちに生き物の姿をイメージ豊かに語り続けています。人間と動物たちを見る眼差しに相通じるものを感じる二人は、仕事などを通して交流が続いています。対談は河合さんの住む愛知県犬山市で行われました。
 

 
工藤:  今日は久しぶりにモンキーセンターへ伺いまして、ご一緒にいろんなところを見せて頂いて、とても楽しかったです。
河合:  そうですね。今日は天気もほんとにいいし、
 
工藤:  はい。いろんな人がもう楽しみに遊びに来ていらっしゃったんですけど、河合さんは、あそこはもうしょっちゅう今でもお出でになっていらっしゃるんですか。
 
河合:  今はしょっちゅうというほどじゃありません。やっぱりいまは兵庫県の博物館の方に務めていますし、なんかの時に、時々行っていますけど。
工藤:  私は明治村は初めてなんですけれども、
 
河合:  ああ、そうですか。
 
工藤:  なんかいろんな木々や、いっぱい小鳥もいて、なんか楽しいとこ ろで出会えて嬉しいです。
河合:  今、シジュウカラが鳴いていますね。
 
工藤:  鳴いていますね。
 
河合:  もうあの小鳥も減りましたね。
 
工藤:  ああ、そうですか。
 
河合:  前は、犬山には本当にいっぱいいたんですよ。
 
工藤:  やっぱり鳥と木々と言えば、雑木林(ぞうきばやし)なんですね。河合さんのご本など読ませて頂いたり、或いはお話されているのを聞いたりしていますと、「雑木林の思想」という言葉がよく出てきて、その「雑木林の思想」というのを、私たちみたいな人間にも分かるようにちゃんと伺いたいなあと思ったんですがね。
 
河合:  「思想」というと、ちょっと大袈裟な感じがするんだけどね。僕の思いみたいなものなんです。僕の友人が、「どんな森が好きか」とアンケートを取ってみたら、そうすると、やっぱり「檜の森」とか、「杉の森」とか、植林が好きなんです。こういうのを僕たちは「純林」と言っているわけです。「檜」だけ、「杉」だけ、
 
工藤:  純粋にその一種類だけ、という意味の。
 
河合:  それは、やっぱり日本人は「純」というのは好きだし、それと、「一斉林(いっせいりん)」とも言いますがね、その一斉が好きなんですね。そして、それは非常に役立つとみなさんは思っておりますよね。ところが雑木林というのは、字がもう雑ですから、「あんなものは雑木(ざつぼく)なんだ」「役に立たない木なんだ」と言うふうにして、なんか評判が悪いんです。けどね、例えば、純林なんというのは、檜や杉の林というと、動物が住めないわけですよ。先程も、シジュウカラが鳴いていたでしょう。ああいう鳥たちとか、獣とか、チョウチョウとか、昆虫もあまり住めない森がそういう一斉林です。ところが雑木林というのは、勿論、杉や檜もあるし、櫟(くぬぎ)や小楢(こなら)や樫の木もある。椿があったりいろいろな木がある。
 
工藤:  いろいろありますね。蔓が絡まっていますし、
 
河合:  そうそう。片栗(かたくり)とか、四季に応じていろんなものが咲いたり、スミレが咲いたりするでしょう。だからこそ、そこへチョウチョウが舞い、カブトムシがくるし、食べ物がいっぱいあるわけです。動物たちがいっぱい集まってくる非常に楽しい森が雑木林ですね。
 
工藤:  成る程。
 
河合:  それともう一つ大事なことは、そこでは地味な植物も、実も花もあんまり役に立たないようなものも、みんな一生懸命自分の生活を主張して生きているでしょう。
 
工藤:  それぞれが、
 
河合:  それぞれが。それがみんな一緒に生きている姿というものは物凄く好きなんです。そういうのは、子どもたちの教育になぞらえると、今の教育というのは、「純林的な教育」「一斉林の教育」。みんな平等で、同じようにみんな役立つように、つまり画一的、均一的になりがちになっているでしょう。けど、雑木林というのは、ほんとにいろんな個性をもった子どもたちが、それぞれそれぞれの個性をもって育っていく。そういうのが僕はとても好きなんです。
 
工藤:  成る程。
 
河合:  それと、バランスという考え方ね。これは何事も均一なほどバランスがいいという考え方もあります。僕たち生態学をやっている人間には、いろんなものが、さまざまなものが、いっぱい個性をもっているほどかえって多様の統一が出来る、とそういう考え方なんですね。
 
工藤:  実は、私は、「虫を子どもたちが好きになってくれ」とか、みなさん方が好きになってくれている詩を書きますので、小さい人たちとの交流がよくあります。そういう時に自分でよく思うのは、「沈黙の言葉だ」という感じがあるんですね。「はい、はい」とハキハキ返事をする人は、そういう人だし、ジーッとゆっくり感じていく人もいる、という。それはやっぱり雑木林のようなクラスとか、雑木林のような集まりというのは、私もそういう意味では好きですね。
 
河合:  それと今の子供たちは、ほんとに自然離れをしていると思うんですね。だから、僕はほんとに雑木林の中を歩いて欲しいと常々思っている。というのは、今の子供たちはあまり物が豊富で、しかも個室を貰うものですから、自分の個室へ入ったら、マンガの本はいっぱいある、テレビゲームはある、オーディオセットはある、テレビはある。そうやって、みんな物と対話しているでしょう。そうすると、感情が非常に無機的になるんですよ。感動を持たない。総ては発信するものを受け取っていて、自分からの自発的な発信能力が衰える。ところが、僕は、「自然にほんとに親しみましょう」という一番大きなのは、例えば、雑木林がありますね。そこにスミレも、ミミズも、鳥も、草も、木も、総てが生命をもったものでしょう。先程言ったように、それぞれが自分の生命をもって生きている。それで、「あ、綺麗なスミレ」と言った時、スミレと対話が始まるわけですね。それは自分が発信したわけでしょう。それはスミレが投げかけてくれたものを、自分がそう感じて、それを可愛いと思う人とか、美しいと思う人と、いろいろじゃないですか。そういう一つのスミレ見ても、みんなの思いが全部違う。こういうことがとても大事なんですね。
 
工藤:  成る程ね。
 
河合:  だから、それは生命(いのち)があるものと対話していくという、非常に大きないいこと だと思います。
 
工藤:  実際に、自分が何かをそう感じでいこう、と始める時には、例えば、どんなふうにスタートすればいいかなあというのがね。
 
河合:  僕は、「自然に親しめ、親しめ」とよくみなさんに奨めているんです。自然が好きなるということが一番大事でしょう。「じゃ、好きになるのはどうしたらいいんですか?」とよく言われるわけですね。それはあんまり関心がない人は困るんだけれど、僕は、「一つは名前を覚えて下さい」と言うんです。「名前を覚える」という のは、僕なんか、ここにテーブルがあり、本がある。物にちゃんと名前を付けているからほんとに親しみが出来るわけでしょう。何にも名前がなかったら、とっても不安になると思うんです。だから、自然でも、「ああ綺麗だなあ」と言うだけでなくて、やっぱり松があるとか、こう見たらね、
 
工藤:  さっきのシジュウカラとかね。
 
河合:  そうそう。そういうものを覚えていると、ほんとに自然が身近になって、自分の世界がこんなに広がるでしょう。「木にチョウチョウがとまっているなあ」というだけでなくて、「ああ、からたちの木にギンヤンマがとまっているなあ」と、そういうふうに見ると世界が凄く広くなるじゃないですか。
 
工藤:  それで、「河合さん」と言えば、「お猿さん」という感じで、「猿学(さるがく)」というんですか。「猿学」というのは面白い言葉ですね。
 
河合:  そうですね。ちょっと難しく言うと、我々は、「霊長類学」と言っているんです。「霊長類」というと、いわゆる猿と人間と合わせたのが、「霊長類」と言っているわけです。「霊長類学」という時には、勿論人間もキチッと、
 
工藤:  含まれて、
 
河合:  そう。ターゲットに入っているということですね。ということは、みなさんは言葉として知っている。「人間は猿から進化した」と言いますね。だから、猿と人間は凄く近いということをみなさん知っているんだけど、「ほんとにそうなんだろうか?」ということね。そういうことを一つ、また、「ほんとにそうだったら、どうして猿が人間に進化したんだろう? 人間はどうして生まれてきたんだろう?」という疑問が当然湧くじゃないですか。そういうことを調べよう。いわば、大きくは「霊長類の進化」、或いは、ちょっと狭くすると、「人類の進化」、そういうことを研究するのが、「霊長類学」、いわゆる「猿学」なんですね。
 
工藤:  結局、猿というのに出会いながら、人というのを調べているのでもあるんですか。
 
河合:  そうですよ。「猿学」というのは、猿だから、みなさんは学問的にいったら、動物学の仕事かと思うかも知れないけれども、実は人類学です。霊長類学は人類学の一つの分野です。だから、僕は、「人間を調べているんだ」と思っていますよ。「人間の勉強をしているんだ」と。けども、もう一つは、みなさんは非常に素朴な疑問をもっていて、例えば、大きくは、「この宇宙というのは何だ?」とか、「地球って、どうして出来たんだろう?」というように、同じように「人間って、どうしてこの地球に生まれてきたんだろう?」「人間とは何か?」ということは、どなたもやっぱり知りたいじゃないんですか。そういうことを何とか科学的にはっきりさせよう。科学的に、というのが大事ですね。これが、宗教的にだったら、「それは神が創ったんだ」と言ったら終いだしね。それはそれで一つの真実かも知れません。だけど、僕らは自然科学という手法を使って調べよう。つまり進化というレールの中で調べよう、ということですね。一番大きな問題は非常に大脳の大きな優れた知能をもった動物がおるということは現実なわけですよ。こんなやつがどうして生まれてきたんだろう。どうして猿から生まれたのか、ということが問題なんです。というのは、我々は哺乳類の一つでしょう。哺乳類というのは、狼とか、クジラとか、イルカとか、おりますね。狼というのは非常に賢い動物ですよ。イルカだって立派な脳をしていて賢い。そういうのはある程度止まっちゃって、それ以上の優れた知能をもつ動物をよう生み出さなかった。猿からだけがこう出てくるわけです。何んでなの? これは、答えはとても簡単です。猿というのは森の木の上に住んでいる動物だということなんですね。これが秘密!
 
工藤:  また、木が出てきましたね。
 
河合:  そうなんです。森なんですよ。さっきの雑木林でないけどね。それで、勿論、猿は熱帯雨林で生まれるんです。熱帯雨林の特長というのは、無茶苦茶木の種類が多い。私なんかアフリカの熱帯雨林を歩いているでしょう。日本だったら、森を歩くと、クヌギがあったり、小楢があった、ケヤキがあったりということでしょう。熱帯雨林の中を歩くと、大体出会う木、出会う木が大体違う。
 
工藤:  そんなに多様なんですか?
 
河合:  それと緑の物凄いかたまりですけども、ただ緑のかたまりじゃなくって、大体五層か六層ぐらいの層をなしているんですよ。
 
工藤:  高さがそれぞれに違う?
 
河合:  そう、木が違うから。大体一番上の緑の屋根、これを「林冠(りんかん)」―林の冠(かんむり)と言っているけど、林冠までが大体四十メートル、
 
工藤:  高いビルですね。
 
河合:  十階建てのビルですね、日本で言ったら。だから、熱帯の森というのは六階建ての緑の森、
 
工藤:  いろんな棲み分けしているわけですか?
 
河合:  熱帯雨林は階層構造になっているわけだけどね。けど、猿から見れば、食べ物は木の葉っぱ、果物、或いは花でしょう。そうすると、その一階から六階までいろんな食べ物があって凄いね、
 
工藤:  デパートみたいですね。
 
河合:  そうそう。食品売場のデパートに住んでいることになるわけでしょう。だから、猿というのは非常におかしな進化の舞台で育ってきまして、これは食べ物はいっぱいある。それはそういうことですよね。無限ぐらいあるわけですよ。それから競争相手が殆どいない。例えば、熱帯のジャングルは鳥がいっぱいいるでしょう。あれは葉っぱを食うのは一つもいない。全部果物を食っているわけね。
 
工藤:  木の上の連中で言えば、
 
河合:  そうそう。それから地面には有蹄類(ゆうているい)とか、それから象だとか、いろいろいっぱいいるけども、これは大体みんな果物を食べているんですよ。鹿の仲間でも葉っぱをあんまり食べないんです、森のやつは。だから、競争相手がない。にも関わらず、もっと凄いことがあって、いわゆる天敵が殆どいない。例えばアフリカでしたら、ライオンがおり、キリンがおり、大変でしょう。森の上の木の上におれば、大蛇とか、上から鷲とか、多少はありますよ。ゼロじゃないけども、自分の生存を脅かすくらいにいない。だから、食べ物はいっぱいある。種類はなんぼでもある。それに競争相手が殆どいない。それから天敵がいない。それだったら、天国じゃないですか。
 
工藤:  天国ですね。
 
河合:  楽園でしょう。だから、普通の動物たちはもっと苦労して苦労して生きているんですよ。
 
工藤:  生きるのに精一杯、
 
河合:  そう。それで何とか突破しようと思って進化していくわけですね。猿は楽園で進化する。そこが物凄く面白いところです。
 
工藤:  成る程ね。ほんとに当たり前のように、「人間は猿から」と思っていたけど、何故か?というのはわからない。
 
河合:  そこで今日こんな話すると長くなりますけどね、取り敢えず結論だけ言うと、人間になる為の身体的、社会的な基礎が森の中でできるんです。だから私たちの先祖はずうっと森の中におったわけでしょう。
 
工藤:  つい最近までそうだったわけですね。
 
河合:  ですから、こんなおかしなことを考えるんですね。今、「緑を回復しよう」とか、「緑を守ろう」とか、物凄くみなさん言うじゃないですか。反対する人は誰もいないでしょう。
 
工藤:  いないですね。
 
河合:  そして、確かに緑の中におれば、
 
工藤:  くつろぎますね。
 
河合:  くつろぐでしょう。ホッとするでしょう。安心感があるでしょう。なぜでしょう? これが全部赤とか、全部黄色、全部紫色なんかだったら、なんか落ち着かない。
 
工藤:  落ち着かないですね。
 
河合:  緑だったら落ち着くでしょう。
 
工藤:  成る程。
 
河合:  これはちょっとこじつけ的かも知れないけど、僕はこう思っているんです。何故かと言ったら、僕らは高等な猿の一種だから。というのは、猿は森で生まれたわけでしょう。六千五百万年前に地球上に誕生したんです。森の中に住んでいて、それで人間は五百万年前に生まれるんですね。約五百万年前。だから、人間の先祖の猿の世界は六千万年あるわけです。「その間何をしたか?」と言ったら、四方八方全部緑の世界にいたわけです。
 
工藤:  本当に木の上ですから、天地、左右、下もそうですね。
 
河合:  そうそう。全部染まるぐらい緑の中にいた。だから、緑の中で暮らしているということに適応していった。心理的な適応する。生理的な適応する。だから、木の中に行ったら非常に安心する。ホッとする。そういう気持が、僕は我々のDNAの中に入っちゃったんだと思います。それは、我々のいわば本性みたいなものでしょう。すべての人がもっている本性。
 
工藤:  それが内側に、「内なる自然」という言葉を、
 
河合:  そうそう。よう言って下さった、そういうことですね。僕が、「内なる自然」と言っているのは、そういう長い進化の中で、人間というのは生まれたわけでしょう。だから、人間の存在を支えているような基本的な諸性質、これを「内なる自然」と。だから、「緑を大事にしよう」と、みんな思うじゃないですか。それは内なる自然がそう呼び掛けているわけです。これはそういうことだけじゃなくて、あとでもちょっと話をするけども、家族をもつとか、みんなで仲良くするとか、こういうものも基本的に我々霊長類としてもっているものですね。
 
工藤:  基本的な性質、気質の筈なんですね。
 
河合:  そういうものを我々は、「内なる自然」と言いたいんです。もう一つ面白いのは、僕はこう思っているんです。それは楽園で進化した。これは素晴らしいとこですよね。ところがずうっと楽園ばっかりにおったら、猿は猿のままだった、と僕はそう思うんです。
 
工藤:  安心しているのなら、そこでいい筈なのに、何故猿のままでいなかったか?
 
河合:  そうすると、「どうして人間になったのか?」というと、森を出たやつがいるわけですよ。
 
工藤:  その楽園を、
 
河合:  楽園を出た。それは、勿論、猿の中でも高等な猿ね。チンパンジーとか、ゴジラみたいな優れたやつが、サバンナへ出て行って、そこで、サバンナへ出ると、今度はライオンがおり、チータがおり、ハイエナがおり、大変でしょう。物凄く苦労して、自分の本当に生きる為の力を発揮しないと生きられない。そこでは大変な努力と創意工夫というものがいるでしょう。そういう世界の中で、人間が出て来たんだと思います。楽園だけにおったらダメなんですよ。「買っても苦労しろ」と言うじゃないですか。
 
工藤:  なんかそういう我々のご先祖はそういう呼び声に引かれたようなところがある。なんかすぐそういうふうに文学的に考えてしまうんです。サバンナが呼んでいる。
 
河合:  そうだと思いますよ。楽園と言うと、「楽園追放」というじゃないですか。それは追放されたんじゃないですよ。自分で出て行ったんです。
 
工藤:  好奇心も入っていますからしら。
 
河合:  それは凄く大事だと思います。それを大脳が発達してくると、好奇心―とにかく未知なるものを知りたいんですね。わけの分からない、そういう一つの衝動と言っていいぐらいの意欲が出てきますね。だから、サバンナというのは未知の世界。物凄い生きていくには苦しい世界。一体どういうことだろう、ということと、それからやっぱり食べ物とか、そんなのが全部違ってくるんです。
 
工藤:  ああ、そうでしょうね。
 
河合:  大体、果物をパクパク食っていたのが、サバンナに出ていくと、肉が物凄くふんだんにあるわけですね。
 
工藤:  そうですね。
 
河合:  勿論、森の中で肉を食べることが始まった、と思っているんです。つまりハンティングはね。肉というのは凄く美味しいですよ。例えばチンパンジーはハンティングをします。あれは本当に猟ををするんですよ。イノシシの子を捕まえたり、サルを取ったりして食べるんです。だから、そういう好み―好き嫌いというのが凄く出てきます。好き嫌いというのは、悪いことのようによく言われるけども、これは僕は何をするんでも大事だと思います。
 
工藤:  それは食べるものに限らず、
 
河合:  そう思わないですか?
 
工藤:  思います。
 
河合:  そうでしょう。それだけで生きてきた。
 
工藤:  自分が元気でいるのは好奇心のお陰だというふうに思っていますね。
 
河合:  そうですね。ですから、それはやっぱり人間になっていく、非常に大きな心理的な動因です。勿論、生態的な動因とか、いろんなこと考えなければいけないですよ。けれど、まあそんなことはちょっと差し置いて、簡単にいうと、とにかく自分たちが出て行って、猿が人間になっていく。そのためには三つの大きな条件が必要だった、と僕は思っているわけです。一つは、身体のレベルですね。或いは自然のレベルと言っていいかも知れない。これは、「二本足で立って歩く」ということですね。猿は全部四本足で歩いているでしょう。二つ目は、社会のレベルで、「家族という小さな集団を作った」ということですね。
 
工藤:  家族というのはやっぱり大きなポイントなんですね。
 
河合:  非常に大きなポイントです。
 
工藤:  人間が人間である時の。
 
河合:  三つ目は、「言葉をあやつれる」と。
 
工藤:  言葉ね。
 
河合:  この三つの条件を満たした高等な猿を、僕は、「人間」とこう呼びたいんです。但し、まだまだ仮説です。それを誰も証明出来ません。世界中の人が認めている条件があります。それは、「二本足で立って歩くこと」。これは人間であることの第一の条件。これは殆どの学者がそう思っています。但し、「四本で歩いておった猿が、何で立つようになったのか?」というのは、まだキチッと説明出来ていない、残念ながら。ましてや、「家族という集団」をもつこと。これは日本の学者が言いだしたことです。それから「言葉がどうのこうの」というのは、これは実は人によって非常に違います。
 
工藤:  ああ、そうですか。
 
河合:  人間が生まれた時は、言葉はまだ持っていなかったんじゃないか、という人も結構いるんです。
 
工藤:  その人間という、ごく初期の、
 
河合:  生まれたとこの人間、
 
工藤:  誕生期の人間ですね。
 
河合:  そうそう。誕生期の人間。
 
工藤:  「ほう!ほう!」だけだったということですか。
 
河合:  それは声を使ってのコミニュケーションはしているんですけどね。勿論、その時は、「言葉というのはなんだ」「原語ってなんだ」ということをキチッと定義をし、論争しなければいけないんですけどね。だから、そういう研究も凄く進んでいるんですが、まだまだ三つのことは証明出来ていないけど、僕は仮説として、その三つだろうと思っています。だから、例えば、「内なる自然」なんていう言い方をすると、僕もやっぱり「歩く」ということ、「お喋りする」こと、それから、「家族を大事にする」こと、これは人間が存在する基本なんだ、と。ところが文明というものは、こういうものを全部押し流していく力をもっているでしょう。
 
工藤:  ああ、もう一つの人間の特徴である、
 
河合:  だから、今の人間は文明社会に生きていますので、そうすると人間であることの基本である三つ―僕は此処へ来るのでも、車に乗って来たじゃありませんか。あんまり歩かないじゃないですか。だから、僕はこんな万歩計というものを持って、「何歩歩いた」なんてやっているでしょう。とにかく歩くことは、我々が生きていく基本。やっぱりそういうところが文明に反抗しなければいかんわけですね。
 
工藤:  成る程。
 
河合:  だから、今、家族も非常に歪んでいるでしょう。それから、言葉も、いま特に若い人は非常に言葉の能力が低くなっていますね。それは何かといったら、どんどん映像文化とか、音声とかが発達して、受信一方になっちゃうと、発信する能力が低下するんですね。
 
工藤:  成る程ね。
 
河合:  だから、文明というものは、とても大事なんだけども、それはやっぱり「我々にとってなんだ」ということを、いつも考えていないといけないということでしょうね。
 
工藤:  でも、説得力がありますね。つまり、「もっと歩こう」とか、それから、「もっと言葉での交流をしよう」とか、「家族を大事に」というのが、ただ紙に書いた理論じゃなくて、連綿とした六千万年前のずうっと基本が、「我々が会得した基本というのはこれだよ」「これこそが自然と出会い易い場だよ」ということね。
 
河合:  人間であるための一つの試練だという考え方ね。
 
工藤:  緑に包まれていること、
 
河合:  そうそう。
 
工藤:  とても私は歩くのも好きだし、言葉も好きだし、
 
河合:  もっとも人間的じゃないですか。
 
工藤:  ええ。でも、ちゃんとそれを自分では、
 
河合:  好奇心も旺盛だし、
 
工藤:  はい。了解が出来たような気がします。
 

ナレーター: 河合さんは自宅の近くに畑を借り、四季折々の野菜作りを楽しんでいます。普段から自然に接し、生命(いのち)あるものとの対話を楽しむことは、豊かな心を育むうえで大切なことだと、河合さんは考えています。「豊かな心とは何か」。河合さんは猿を通して心の原点を求めてきました。それはこれからの私たちが、「どう生きていくか」というテーマに繋がるのです。
 

 
工藤:  私なんかは、言ってみれば、「カマキリのうた」を創る。しかも、カマキリに名前を付ける。カマキリになりきって書く。まあ童話の世界に擬人法というのがありますね。「あまり擬人化してしまうのもいかがなものか」というのが、かねがねちょっと気になっているんです。河合さんの『学問の冒険』を読ませて頂いていたら、「共感法」という言葉が目に飛び込みまして、それに共感してしまったんです。学問の世界でも、植物とか、猿とかに共感をする、というような一つのメッソードというのはあり得るのですか。
 
河合:  僕は思っているんですね。それは、「おれは本当の自然科学者だ」とそう自負している人からみれば、「こんなのは科学的な方法じゃない」という人も結構いるわけです。だけど、僕は、日本の猿学が凄く発達して伸びていった。これは、「共感法」というものを、みんなが理屈なしに取り入れていったことが大きいと思っています。それは、西洋流の従来の自然科学の方法でしたら、「絶対客観的であること。一切の主観を排除すること」ということが大事なわけでしょう。そのために、鳥を研究する時、テントの中に入って、そこから密かに望遠鏡で見て、一切鳥に影響を与えたらいけない。それが、「科学的方法だ」ともう決まっているわけです。ところが我々は山の猿を誘(おび)き出して、餌をやって、
 
工藤:  名前も付けて、
 
河合:  名前を付けて。そういう中に入り込んで、周り全部触るじゃないですか。そういうところで研究しているということは、もう猿の社会を妨害しているじゃないか、と。
 
工藤:  そういうことですね。
 
河合:  そういう見方は確かに出来ないことはないと思う。ただ、僕は、「餌付け」という言い方が悪いんで、例えば、僕はどっかの家へ行く時、ちょっと手土産持っていくじゃないですか。
 
工藤:  手土産?
 
河合:  「お近づきのしるし」にとか、こうやるでしょう。それと僕は、「同じだ」というわけ。だから、餌を与える、という、上から見るような態度ではいけないんで、あくまで猿と我々は動物として、対等で、お近づきのしるしを持って行くわけです。本当ですよ、受け取ってくれたら仲良くなる。ダメな時は絶対受け取ってくれない。
 
工藤:  それはとてもなんだか身につまされますね。分かりますね。
 
河合:  僕らの経験では、日本猿でも三年間受け取ってくれなかったことがあります。見向きもしてくれないんですよ。一番好きな柿を持って行ってもダメ。それはやっぱり不信感です。警戒しているわけですよ。毒が入っているとか、そんなことは思わないでしょうけれども、とにかく人間に対する不信感がある。受け取ってくれたというのは、その不信感がかなり取れた、ということですね。面白い経験があるんですよ。そうやってほんとに親しみが出てくると、顔の違いが全部分かってくる。
 
工藤:  成る程。
 
河合:  それは面白いものですよ。僕らは日本猿と長い付き合いでしょう。猿見たって、顔がみんな違うのが分かります。ところがアフリカへ行って、ゲラダヒヒというエチオピアの真っ黒の顔のヒヒの研究に行った時、呆然としましたよ。
 
工藤:  誰が誰か最初はわからない?
 
河合:  顔の違いが分からないもの、ほんとに。だから、初めはちょっと耳がくびれているとか、ここに膨らみ、いぼみたいなのがあるとか、そんな覚え方もするんです。そのうち向こうが我々を信頼して、受け取ってくれるでしょう。僕ら、ゲラダヒヒの中で、森の中で一緒に暮らすようになるでしょう。そうしたら、顔の違いが分かってくるんですよ。
 
工藤:  面白いものですね。
 
河合:  そういうものなんですよ。
 
工藤:  ということは、例えば、心という時に、人だけが心というものをもっている、というよりも、私はそのチンパンジーもだし、実を言うと、木にも心という言葉を入れたいような気がするくらいなんです。河合さんにとって、そういういろんな研究をされたうえから、或いは、今までのいろんな経験から、人の心、或いは、その心というのは、どんなふうな感じですか。
 
河合:  一般的には、さっき「共感法」と言ったのは、「僕の心と、猿の心が意気合い」ということだと思っているんです。それは一つの僕の主観ですからね。だけど、もっと具体的なことをいうと、日本猿だけでなく、猿たちは―チンパンジーも子供が死ぬと、お母さんはジッとこう持っているわけですよ。
 
工藤:  成る程。
 
河合:  そして、ことによるんですけども、ミイラになっても、骨になってもまだ持っていたという、とても涙ぐましいことがあります。だから、それは親子に対する非常に深い絆があるんですね。それからこんなこともあります。僕らがウガンダで研究していたゴジラのオスですね。それが豹に噛み殺されたんですよ。凄く大きな黒豹がそこにおるんです。ゴリラだって、巣を作って、意外に仰向けに寝るんですよ、そこの地べたに。そうすると、豹というのは上からズパッと襲ってくるでしょう。いくらゴジラが強かってもダメ。死んじゃったわけ。ゴジラのオスというのは非常に子供好きなんです。お母さんよりも子供とよく遊んでやるんですね。そうすると、そのオスが死んだ後、とっても可愛がっていた子供のゴジラが残ってずうーっと離れないんです、その死体から離れないんですね。そこへ行った見張りの人たちが、あんまり可哀想だから捕まえて、ロンドンの動物園へ送りましたけどね。でなかったら、ほって置いたら、
 
工藤:  そのまま、共倒れになるわけですね?
 
河合:  だったでしょうね。そういうのはやっぱり自分を可愛がってくれた人に対する思いでしょう。それから、僕もこんな経験があるんです。僕の人生の中でも、とても感動したことなんですが、エチオピアのゲラダヒヒの研究をしていました。それで、半年、群の中に入ってずうっと暮らしていたわけですね、朝から晩まで。日本に帰りますね。一年半経ってそこへ行きました。それはもうこんな断崖のところで、断崖に猿たち住んでいるんです。
 
工藤:  断崖がゲラダヒヒの、
 
河合:  寝るとこなんですよ。その上の草原で餌を食べるんですけど。あれはずうっと下にいることもあるわけです。僕が行った時、全然いないんですよ。崖に立って、僕はずうっと歩いて、ずうっと呼んでね。
 
工藤:  捜しまくって。何年ぶりだったですか。
 
河合:  一年半。そうしたら、大分行って、下から応答があったんです。「彼奴(あいつ)らおったなあ」と思ってね、待っていた。暫くしたら、みんな崖から上ってきたわけです。崖のところにずうっと並ぶじゃないですか。当然、僕もジッと見て、顔を思い出しますね。「あれはケン≠セ。アキラ≠セ。アジス≠セ。おった!おった!」と。向こうもやっぱり「彼奴(あいつ)」というのが分かるわけですね。それでお互いに歩み寄って、それで五、六メーターのところに座っているでしょう。そこから孤児の女の子がおるんですよ。孤児の少女が、
 
工藤:  ああ、親御さんが亡くなって、
 
河合:  それが僕らのよく横におった女の子で、
 
工藤:  一年半前にはね。
 
河井: それがちょこちょこと僕の前にトンと座った。僕が手を出したら、向こうも手を出して握手したんですよ。
 
工藤:  握手ですか。あら!
 
河合:  ほんとにエチオピアの高原のおおかた四千メートル近い草原ですね。ほんとに燦々たる光の中で、一年半ぶりの再開で握手した。ほんとにおとぎの世界みたいでしょう。工藤さんの詩の世界みたいで。僕はほんとに感動してね。それは、僕はほんとに懐かしいと思っているけど、向こうも見たものを、「懐かしい」と言っていいかどうか知らないけども、なんか一年半昔に暮らしていた人間が暫くやってきた。そういう思いがこう近づけていくわけでしょう。それはやっぱり僕とゲラダヒヒの心がなんかそこで出会った、という感じがするんです。そうでないとやって来ないですよ。
 
工藤:  いやぁ、そういう話を伺っていると、人と人が心を通わす時に、基本形というものがあるじゃないかなあという気がしますね。今みたいに、「あれ、出会ったなあ」「知っているね」「手を出した」「手を握った」みたいな、とっても真っ直ぐなシンプルなやつ。「借金申し込みにきたんじゃないか」とか、「あら私、いい格好しなきゃ」とか、そういういろんなのは入らない、出会いの基本みたいなものが、人と人との間にもう少したくさんになると、もっといいがなあと思いますね。
 
河合:  それはだんだんが薄れているんですね。
 
工藤:  ちょっと少ないですね、何かね。
 
河合:  例えば、ほんとの人間―高等な動物が付き合っている基本なんていうのは、何かと言われたら、とても難しいんだけれど。僕ら、猿の世界を見ていて、こういうことじゃないか、と思うわけですね。それは例えば、挨拶ということ。チンパンジーは非常によく挨拶するんです。握手もする。
 
工藤:  握手もするんですか!
 
河合:  お辞儀もする。
 
工藤:  あら、あら!
 
河合:  それから抱き合ったり、こうやって叩いたりね、前に平伏したり、ちょんとキスもする。
 
工藤:  成る程。
 
河合:  キスもこういうところへしたり、ちょ、ちょっとしたり、ほんとに口づけのキスをしたり、そういう挨拶を非常によくするんです。チンパンジーというのはオスもメスも子供もたくさん寄った百頭位の群を作るでしょう。高等なやつが一緒に暮らそうというと、非常にトラブルが多いわけですね。
 
工藤:  そうですね。摩擦もある。
 
河合:  そうやって、それを上手く抑えるような行動型が発達するわけです。その一つが挨拶ですね。だから、余所へどっか遊びに行って来て戻って来た、という時は、ちょっと挨拶して入るんですよね。
 
工藤:  成る程。
 
河合:  日本猿だったら、例えば、三日もどっかに遊びに行っていたら帰れません。入れてくれませんよ。何しにどこへ行っていた、と。チンパンジーの場合は一ヶ月位よく遊びにいくことがあるんですよ。帰って来たら、何となくこう入りにくいでしょう。そういう時は、ちょっと握手をして、お辞儀をして、挨拶して入って来るんです。だから、寝る前に、「お休み」というのは、「明日もよろく」ということですね。朝起きたら、「おはよう」というだけで、一遍に前の関係がストンと戻ってくる。だから、心のチャンネルをすっと繋いで、いい関係を回復する。そういうのは挨拶の効用だと思います。
 
工藤:  私はよく子供たち、小さい人たちと何十人かと一緒に出会うんです。多分、その時、河合さんがゲラダヒヒのところに手みやげを持って行くような感じでいるじゃないかなあと思うんです。一番気をつけるのが、「上からものを言わない」ということなんですね。「私もあなたと同じ歳、やったよ」と。一年生なら、「私も小学校一年生をやってきたよ」とか、中学生の人たちには、「私も中学校でジタバタしたよ」という。そこがなんか同じ土俵で出会うというふうにすると、やっぱり「わあーい!」と言って聞いてくれる。一番嬉しいのが触ってくれるんです。触ってくれたら、「ああ、仲良くなれた。安心してきてくれているんだなあ」と思うんです。なかなか触って貰うのは勲章のような気がするんですけれども。触感っていいですよね。
 
河合:  そうですよ。やっぱりいろんな五感がありますけれどね。触覚というのは非常に基本的なものだと思います。それは猿の子育てを見ていても、みんなこの頃「スキンシップが大事」なんていうけれど、霊長類の特徴は、お母さんがキチッと子供を抱いて育てる。いつでも皮膚と皮膚とがぴったり合っている。そこで子供を育っていくという、それが基本なんですよ。親子がずっと触れ合っている。肌と肌が触れ合うということね。これは物凄く大事なことだと思いますよ。
 
工藤:  河合さんの話を伺っていると、知的好奇心というか、好奇心と、それから、見る目線。「こうならこうでなければならない」みたいな、決まっていなくて、「こういうのも、こういうのもあって、その中で僕はこう思うよ」というふうに話されますでしょう。なんかやわらかい発想と言うんでしょうか。そういうのをなんか凄くたくさんある感じがするんです。そういうのを持ち続ける秘密みたいなのは?
 
河合:  「秘密」って、それは僕はやっぱり子供の時からも、滅茶苦茶自然が好きだったということが、非常にやっぱり影響しているんじゃないかなあ。例えば、僕は川が大好きで、子供の時、川に入り浸(びた)っていた。「遊び呆(ほう)ける」というんでしょうか。呆けていたわけ。そうしたら、ドジョウとか、カマツカが砂におるし、ナマズは石の中におるし、いろんなものがいっぱいいるあの楽しさ。たくさんおるからこそ、うまく川というのは成り立っているんだという。或いは、森というものはなりたっているんだという。それは理屈じゃなくて、なんか心の中にしみ込んでしまったな、と思いますよ。
 
工藤:  成る程。自分は、河合さんのように学問が出来ないんですけれども、それこそ雑木林的にミミズになりかわって歌を歌うとか、そういうのをやる。そういう役目もあっていいんですよね。
 
河合:  そうですね。だから、「共感法」とか、なんかこれは学問の世界で、名前を付けるなんか言っているけれども、これは情感の世界というのは、ほんとの身の周りの、ほんとの生命のあるものから無いものまで、なんかほんとの一体の世界になっているでしょう。僕は工藤さんの『のはらうた』が大好きなんです。ちょっと一つ読んでみて下さいよ。
 
工藤:  ええ。『のはらうた』というのは、いろんなネズミとか、歌っているんです。河合さんも創作をされますでしょう。その時はほんとに素晴らしい知識に裏付けされていますけれども、私の場合はイマジネーションなんです。例えば、今時の秋の日に、この雑木林の藪の中にいる野ネズミがちょっと寒くて振るえていて、そこに朝日が当たってきて、温かくなったとしたら、どうなるかなあ、と思って書きます。そうすると、こういうのになるんです。













 

ひなたぼっこ
        こねずみしゅん

でっかい うちゅうの なかから
ちっぽけな こねずみ いっぴき
みつけだして
おでこから しっぽのさきまで
あたためて くれるのね

おひさま
ぼく
どきどきするほど うれしい

 













 
と書くんです。
 
河合:  いいですね。
 
工藤:  まあ子ネズミがほんとにそう思っているかどうか分かりませんけれども、結局、自分もそうなんですね。こんなでっかい宇宙の中から、お日さまがいつも温めてくれる。
 
河合:  そうですね。
 
工藤:  という感じがあって、実は、こういう詩を好きになってくれるんです。だから、みんな河合さんがおっしゃっていたように、六千万年前の緑の中に包まれていた時の、
 
河合:  六千万年の記憶ですよ。
 
工藤:  今、ちょっと薄く皮が被っているだけで、ちょっと剥(む)けば、みんな同じ心をもっているじゃないかなあって、そういうふうに思いたい、と思うんですけどね。
 
河合:  そうですね。工藤さんの詩の「けやきだいさく」というのがあるでしょう。僕はあれ凄く好きなんですよ。ちょっと読んでみて下さい。
 
工藤:  読んでみます。「いのち」という詩です。ケヤキの木が、「だいさく」さんという名前です。














 

   いのち
       けやきだいざく
わしの しんぞうは
たくさんの
ことりたちである
ふところに だいて
とても あたたかいのである
だから わしは
いつまでも
いきていくのである
だから わしは
いつまでも
いきていて よいのである

 
 
河合:  いいですね。最後の締めくくりも、ほんとにいいと思う。生きていたい。それ から生きていることが、そういう存在自体がとってもいいことだ。それと、もう一つ、ケヤキというのは 大きく広がる木なんです。そこへこの小鳥たちがいっぱいとまっている。それはみんな各々いのちをもっているわけでしょう。いっぱいたくさんのいのちをすっぽ りこういう木の中で、みんなが生きているという、そういう感じがして、この詩は僕は凄く好きなんです。それともう一つは、これはちょっと話が飛ぶんだけど、日本人は、「森を大事にしよう。森を大事にしよう」と、こう言っていますね。ところが、「森とは何だ?」と聞いたら、みんなが植物のことしか考えていないの。
 
工藤:  ああ、そうか。森というと木だけ、
 
河合:  木のかたまりだ、と思っているの。ところがここがヨーロッパの人と違って、森と言えば、そこに住んでいる猪も、鳥もね、チョウチョウも、川が流れて魚もいる。これは全部で森なんですね。だから、これは一つの林の中に、生命をもった心臓がいっぱいいっぱい生きているという、こういうのが森ですね。
 
工藤:  私は、「雑木林の思想」というのに、ある種支えられる感じがするんです。つまり、「そうか私は私でいいんだなあ」と。
 
河合:  そうなんですよ。
 
工藤:  これは私の好きなほうを、丁寧に大事にしたらいいかなあ、というふうに思いて。
 
河合:  我々はいつも、「かつては子供だった」ということね。「大人はかつてはみんな子供だった」という言葉がありますね。僕は、この言葉は凄く大事な重みをもった言葉だと思います。これは事実そうだったんだけども、ところが子供の時のことを思い出す、というのは以外に難しいんですね。それはだけど、我々の記憶の中に全部本当にみんなもっているんだから、深く探っていけば思い当たっていくんだと思います。そういう思いこそが、子供に対する愛情だし、子供と接していく基本になるというふうに思いますね。
 
工藤:  やはりそういうようなお気持ちもあって、『少年動物誌』とか、そういうのをお書きになられた。かつて子供で、今も子供の心が、
 
河合:  ちょっと子供っぽ過ぎるところがあって困るんですけども。「ようこんなことを子どもの時に覚えていたなあ」と言われるんですよ。それは一つは、僕は身体が弱くって、あんまり学校へ行っていないんですよ、実は。半分位しか行っていないわけ。だから、僕の友だちは本と自然なんですね。ちょっと身体の調子のいい時は、野山へ行き、川へ行き、冬でもほんとに歩いていましたからね。そういうのが僕の世界としてあったでしょう。今、下手したら、子供は、学校が子供の世界として押しつけられるんですよ。「学校は」というよりも、いわゆる「勉強」。いい成績を取るためのいろんな手段、その世界を押し付けられ過ぎているというふうに思いますね。僕はかえって学校へ行かなかったから、自分の本来のものが出来た、という感じもするんですね。
 
工藤:  成る程ね。やっぱりそこもバランスなんでしょうね。片寄り過ぎている。じゃ、六千万年前からの内なる自然を大切にして、雑木林的に自分もつくるし周りとも出会う、こんな感じですか。
 
河合:  そうですね。
 
工藤:  いや、今日はなんかほんとにとても楽しい話でした。もうちょっとお伺いしたいですけど、後は今度は自分で、どれどれとまた好奇心を燃やしてみて見ます。有り難うございました。
 
河合:  こちらこそ、どうも。
 
 
     これは、平成十二年十月二十九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。