涅槃(ねはん)の世界
 
                    日本テーラワーダ仏教協会 A・スマナサーラ
                    き き て        金 光  寿 郎
 
金光:  今日はスリランカからお出でになっています日本テーラワーダ仏教協会の長老スマナサーラさんに、「涅槃の世界」というテーマでお話をして頂きます。スマナサーラさんは二十年前に日本に留学されたんですが、その前、スリランカ国立大学の先生をなさっていて、それから日本に留学され、その縁で日本のテーラワーダ仏教協会の長老のお仕事をずうっとなさっていらっしゃる方でございます。どうぞ宜しくお願い致します。
 
スマナサーラ:  よろしくお願い致します。
 
金光:  「テーラワーダ」というのはどういう意味なんでございますか。
 
スマナサーラ:  「テーラワーダ」というのはお釈迦様のお話を直接聞いて、一番お釈迦様に近かった弟子達という意味で、一番上に座った、
 
金光:  成る程。それで、「上座部(じょうざぶ)」という翻訳で、「上座部仏教」というふうにも言われているわけでございますね。そういうもっともお釈迦様に近いところで聞かれた伝統的な仏教の立場から、戦後、日本では五十年経って、随分みんな努力して、経済的には繁栄してきたわけでございますけれども、それで、「みんな幸せになったか」と言うと、どうもみているとあんまり幸せでもないし、それからいろんな事件、出来事をみていますと、なんでこんなことが起こるのかなあというような、いろんな悲惨な出来事も続いているようでございますが、そういう伝統的な仏教の立場からご覧になると、どういうふうにみていらっしゃいますか。
 
スマナサーラ:  その問題はいろんな点で考えられます。まず、言えることは「幸せ、幸せだ」というんだけれども、「何が幸せか」ということをはっきり明確に理解していないんですね。人類というのは誰でも。
 
金光:  物があって、お金があって、住むところがあって、豊かな食べる物もあって、というようなことを、まず幸せの基準として考えているんじゃないかと思いますが。
 
スマナサーラ:  そうですね。だから、「物」に基準を置いているんですね。我々から見れば、それは、「道具」なんですね。だから、道具だけ揃っているんです。だから、ずうっと、戦後からではなくて、昔からの人間というのは、兎に角、道具、家やら建物やら財産やら、いろんな道具を作るんですね。
 
金光:  それは、そうすると、二千年以上、昔と今も基本的なところは変わりないと、
 
スマナサーラ:  変わっていないんですね。「道具作って、道具作って」と言ったって、道具ですから道具を使わなければならないんですね。今、現代、我々生きている世界を見ると、動けない程道具ばっかりなんですね。
 
金光:  便利になった筈が、決して便利で幸せにはなっていない。
 
スマナサーラ:  だから、自分の家が道具いっぱいだったら、住めなくなっちゃいますからね。そうやって現代発展によって、世界中にいろんな物がありますけど、結局、道具の奴隷になっているんですね。だから、今、道具のために生きているのであって、道具を自分の幸せのために使う、というふうになっていないんです。ですから、手段が目的になった、ということです。だから、なかなか心の幸せというものは得られないだろう、と思いますけどね。
 
金光:  そうしますと、手段であるお金とか、或いは、いろんな道具、便利にどこへでも行けるようないろんな車だとか、列車とか、いろいろあるわけですけれども、それが出来て便利に行けるようになったにしても、それはあくまでも道具が便利になっただけの話で、それでほんとに幸せが貰えるか、というと、これはちょっと筋が違うということになるわけでございましょうか。
 
スマナサーラ:  そうですね。だから、どこかで我々は何か忘れているんですね、考え方が。それに面白いエピソードがございまして、お釈迦様の生きている時代で、クルという国の、コーラヴャという名前の王様で、その国では大変もの凄い裕福な家庭で、一人息子がいたんですね。その息子の名前はラッタパーラという名前なんです。その息子が若いうちに結婚して、奥さんが何人かいたみたいですけど、この両親にとっては大変可愛い子でした。その子がお釈迦様から話を聞いて、ある日、いきなり出家を決めてしまう。出家してしまうんです。「全部捨てるんだ」と。当たり前のことで、親が反対するんです。そうすると、「出家出来なかったら、私はもう断食して死にますよ」と。それぐらい覚悟して断食しちゃったんです。親は、「まあ、坊ちゃまだから、一日で腰を上げるだろう」と思っていたんだけど、一週間も水も飲まないで断食しちゃったんですね。それで、友だちが来て、「子供に出家を認めてあげなさい。そうでないと死んじゃいますよ。死ぬよりも生きていた方がいいではないですか」と言われた。それで出家を認めて貰って、出家して修行して悟るんですね。その出来事をコーラヴャ王様にとっては大変不思議でたまらないんですね。「何でこんなに裕福な家庭の、すべて揃っている人が全部捨てて出家したのか」と。そこで悟ってから、また親に顔を見せなくちゃいけないということで、また、家に戻るんですけれど、家はその日から仏教が大嫌いで、
 
金光:  息子が出家したから嫌いになった、
 
スマナサーラ:  大嫌いで、衣を着ている人を見ただけでも、ありったけの言葉で叱ったりして追い出すんですね。その人はそれ知りませんでしたし、何のことなく、その家に托鉢に行ったんですね。行ったら親が遠くから、「追い出せ」と、
 
金光:  自分の子供と気が付かないで、「追い出せ」と。
 
スマナサーラ: 「追い出せ」と言って、追い出しをするんですね。そこで、ラッタパーラさんがずうっと待っていても、食べ物も何も貰われない。そこで、召使いの女の人が物凄く腐っている食べられない食べ物があって、捨てようと外へ持って行ったんですね。行ったら、
このラッタパーラさんが「これ、捨てますか」と聞くと、
「そうですよ」と。
「捨てるんだったら、私の鉢に入れて下さい」と言った。
どうせ家の主人が、「追い出せ」と言った人だから、鉢の中に入れちゃったんですね。入れたら、その人が凄く酷い匂いがしていたわけですが、何のことなく、それを召し上がっているんですね。召し上がっている姿を召使いの人が見たら、なんとこの家の主人の息子さんなんですね。驚いて、お父さんに報告すると、
お父さんが来て、「なんということをしますか。家に入って美味しいご飯食べなさい」と言ったら、
「いいえ、結構ですよ。私は今日の食事は済みました」と言って帰るんですね。帰って、王様が狩りに使う森があって、この森の中で生活する。泊まったんですね。王様が、「狩りに行きたいんだ。遊びに行きたいんだ」と言われた。そこで、森を調べた家来の人々は、「あなたが随分よく話していた若い人が帰っているんだ」と言ったら、王様が、「じゃ、だったら狩りを止めて、その人に話をしましょう」と言って、この森に入るんですね。入って、王様がこの人にこう言うんですよ。「今の世の中で、人が出家するという場合は、全財産が無くなって、倒産して、
 
金光:  財産が全部無くなって、
 
スマナサーラ:  「財産が無くなって、倒産して、生きる方法が何もなかった場合は、いったん出家するんだ。或いは、まあ歳取って、自分に仕事も出来ない。家の人々に面倒くさく思われる。そうすると、詰まらなくなって、家に居たってしようがない。そういうことで出家するんだ。或いは、伝染病などに罹って、全部親戚が亡くなったら出家するんだ。そういうふうなことで出家するんだけど、あなたは何一つ問題ないのになんでこういうことになったんですか。私には分かりません」と。
 
金光:  行き場が無くなったら、どうしていいか分からなくなるような人が出家するのは分かるけれども、財産はあるし、身体も丈夫だし、家族も揃っているのに、何で出家するのか、と。
 
スマナサーラ:  そうすると、王様の思考に合わせて答えました。「私たちに、お釈迦様は絶対的に永久的に変わらない四つの真理を教えてくれたんです。それを聞いて、私は出家しました」と言って、この四つの真理を教えるんですね。
一番目はお釈迦様の言葉でいうならば、「ウパニーヤティ ローコー アッドウヴォ」という言葉で、「この世の中は常に変化していくんだ。永遠なものは何一つも ないんだ」と。
 
金光:  財産があっても、それも無くなることもあるんだ。常に変化する、と。
 
スマナサーラ:  すべて変化していくんだ、と。ですから、財産に依存したって、
 
金光:  財産もいつまでも頼りになるものにならない、と。
 
スマナサーラ:  王様は、「それでも分かりません。世の中が変化する、ということが分かりませ ん」と言われた。
「じゃ、王様は覚えていますか。王様の若い頃は凄い体力があって、誰とでも戦うことが出来たでしょう」と。
王様は、「はい。それは覚えていますよ。私も自分に超能力があるんじゃないかなあと思う程、凄い力強かった。誰も私に勝った者はないんだ」と言って、若い時の力自慢を言ったんです。
「今はどうですか」と聞いたら、
「今は八十歳の老人で、足を踏もうと思ったら、他のところを踏んでしまうんだ。家来の人が支えてくれなきゃ歩けないんだ」というふうに言うんです。
ですから、この坊さんが、「そういうことです。お釈迦様がおっしゃるのは。我々は体力を自慢していたって、毎日毎日それは消えていくんだ。それは昔も今もこれからも変わらないんだ」と。
「ああ、その通りでしょう」と。
そして、次の言葉を説明するんですね。それはパーリ語では、「アッターノ ローコー アナビッサロー」という言葉で、「この世の中で、私の物、私に何かあった ら助けてくれるもの、というものは、何一つもないんだ。この世の中で、いわゆる避難場所はないんだ。アナビッサロー自分の意のままに世の中は何もいきません」と言ったら、
王様は、「そう言われたって分かりません。私にはかなりの財産があるんだ」と。
 
金光:  頼りになるものが、財産もあるし、だから、まだ頼れるものはある筈だから、
 
スマナサーラ:  ある筈です。だから、王様だから、「命令すれば、何でも揃ってしまう」と。
 
金光:  だから、自分はまだ頼りになるものがあるんだぞ、と。
 
スマナサーラ:  「あるんだ」と言うわけですね。そうすると、このお坊さんが王様にこう聞くんですね。
「王様に何か慢性的な病気でも何かないですか」と。
「それはありますよ」と。何か王様に発作みたいな病気があったみたいですね。 そこで、
「その病気が発作を起こして、倒れたらどうしますか」と言ったら、
「私の妃とか、子供達、大臣たちみんな集まって、『王様がそろそろ死ぬかも知れません、そろそろ死ぬかも知りません』と、みんな心配して待っているんだ」と。
「それだったら、王様はみんなに、あなたの苦しみを分けてあげなさいよ。『みんなで私のこの病気の苦しみを分担して下さい』と、命令したらどうですか」と。
「そんなことは出来ません。私は一人でその苦しみを味わなければければいけないんだ。それは人に分けること出来ません」と言われた。
「お釈迦様はそういうことをおっしゃっているんだ。人に幾ら財産があっても、病気になったら自分でその面倒を見なくちゃいけないんだ。誰に命令したっても、病気なんか治してくれるわけではない」と。
そこで三番目のことを言うんですね。それはパーリ語で、「アッサコー ローコーサッバン パハーヤ ガンタッバン」という言葉で、意味はそれも同じ意味で、
「自分のものはありません。すべて捨てなくちゃいけないんだ」と。それに王様は反対するんです。自分には凄い財産がある、と。
 
金光:  国もあるし、領地もあれば、財産もあると。それを捨てなければならないというのは納得出来ないというわけですね。
 
スマナサーラ:  「納得出来ない。何でもありますよ」と。それでお坊さんが反論するんですね。
「あなたには素晴らしくすべて揃っていて、最高に幸せであると、私も認めますよ。でも、死ぬ時、持っていけますか。死ぬ時持って行って下さい」と言ったら、
「それは無理じゃ。自分が死んで亡くなったら、他の人々がそれを使うんだ」と。
「ですから、お釈迦様は、『自分のものではないんだ。全部置いていかなければいけないんだ』と教えたんだ」と。それで王様は納得するんですね。
 
金光:  それは亡くなった時の話で、生きている間は、自分にはまだあると、つい思いがちですよね。
 
スマナサーラ:  そうです。それでも財産にしても、全部使うわけじゃないでしょう。
 
金光:  それはそうですね。
 
スマナサーラ:  「宮殿を四つ持っているんだ」と言っても、身体一つです。「千人分位食べられるご馳走を作れます」と言ったって、お腹に入る量は少ないです。ですから、結局、そういうものは「自分のものにならないんだ。そういうものに依存しちゃったら苦しみだけですよ。だから、気を付けなさい」ということです。もっと面白いのはこの四番目なんですね。この四番目に言ったのは、「ウーノー ローコー アティットー タンハー ダーソー」「この世の中はいつでも何か欠けているんだ。人々は満たされていないんだ。世の中の人々は欲の奴隷ですよ」と。
 
金光:  自分はこんなに広い領地を持っていて、いろんな財産を持っていても、それで満ち足りているか、というと、
 
スマナサーラ:  「そうじゃない」と。「何か心の中で足らない。もっとあって欲しい、という気持がずうっと人間にはあるんではないか」と。それに王様が反論するんです。
「私には国があります。あんたが言っていることが分かりません」と言った。これは昔話ですから、昔の世界で理解しないと理解出来ないかも知りませんけど、
「じゃ、もし王様に聞きますけれども、もし、王様のところに凄い信頼出来る人が来て、その人が、『王様、隣の国は物凄い豊かないっぱいいろんな財産がある豊かな国ですよ。それで力がないんだ。ほんのちょっと行って攻めれば、その国もあなたの国に繋げることが簡単に出来ますよ』と言って、その国の中の情報を全部、あなたに教えてくれたら、あなたどうしますか」と言ったら、
「だったら、その国取っちゃいますよ」。
「そういうことだ。あなたはいま一つの国の王様なんですけど、出来れば隣りの国も取りたいんだ。だから、あんたは満たされていないんだ。王というのは、海までを自分の国にした、としても、海の向こう側の国も取りたくなるんだ。だから、どんな人間でも、幾らものがあっても、もうちょっとあればいいんではないか、というふうに、心が満たされていないのだ」と。
 
金光:  要するに、心が満たされていないと、そこには苦しみが出てくる、ということですね。
 
スマナサーラ:  苦しみがある。そうすると、奴隷になるんですね。「満たしたい、満たしたい」 というと。
 
金光:  そういう「満たしたい」「欲しい」という欲望の奴隷になってしまう。財産があっても、さらに欲しいというのは、やっぱりそういう欲しいという気持の奴隷になるという。
 
スマナサーラ:  奴隷になる。ですから、今の人間を見ても、幸せのために生きているんじゃなくて、奴隷になって、仕事のために生きている。財産のために生きている、というように苦しいんですね。例えば、勉強するということは子供たちにとっては凄く楽しいことと思いますけれども、今、楽しくないんですね。
 
金光:  楽しくないみたいですね。
 
スマナサーラ:  勉強の為に生きているものみたいな、奴隷になっているわけですね。仕事にしても、物凄く気持良く仕事をやるんだ、ということで仕事をして、楽しく家に帰ればいいんですけど、今、仕事が大事で、仕事する人々は仕事の奴隷なんですね。ですから、それも楽しくなくなっちゃうんですね。
 
金光:  そこでそうすると、それを楽しくする為にはどうすればいいのか、次の問題が出てくると思いますが。
 
スマナサーラ:  そうですね。それで、我々は幸せということを忘れている。
 
金光:  いや、一生懸命幸せが欲しいと思って、仕事をしたり、或いは、新しく便利な機械を作ったりしているわけですけれども、それだと幸せに直結しない、ということになるわけですか。
 
スマナサーラ:  そうですね。幸せはどこにあるかということを忘れてはダメですね。例えば、食べ物がない場合は食べ物があれば幸せだ、と思ってしまう。そうすると、物にいってしまうんですね。お金がない場合は、お金があれば幸せだ、と。物にいってしまうんですね。でも、そこで考えて欲しいのは、食べ物がない場合は自分が苦しい。精神的に苦しい。その苦しみがなかったら幸せではないか、と。お金が無くてもいいんだけど、お金がないと、なんか心の中に苦しみが生まれてくるんですね。この苦しみがなかったら、幸せでしょう、ということを覚えて欲しいんですけど、それを忘れちゃったんです。「お金さえあれば幸せだ。財産さえあれば幸せ」と思ってしまったんですね。
 
金光:  でも、やっぱり、それでも「財産が欲しい。無ければ困る」というふうに、つい考えてしまいますけれども。そこで、どういうふうに考えればよろしいんでしょうか。
 
スマナサーラ:  私が言いたいのは、「幸せをもう一度考え直して下さい」と。
 
金光:  何が幸せであるか。
 
スマナサーラ:  何が幸せであるか。心にある苦しみが我々の不幸であって、それさえなければ幸せですよ、と。
 
金光:  そうですね。
 
スマナサーラ:  心豊かで安らいでいるのは、お金があっても無くても、心の安らぎは消えません、と。歳を取っても、若くても、心の安らぎさえあれば、大変素晴らしいんじゃないかなあ、と。ですから、この心の安らぎ、心の中にある苦しみ、そこを考えて欲しいんですね。
 
金光:  今日のテーマの「涅槃」という、これはパーリ語だと、「ニッバーナ」、或いは、サンスクリットだと、「ニルヴァーナ」というふうに聞いておりますが、それは、日本語で言うと、「安らぎの世界」と訳されることもあるわけですが、そういう涅槃の世界、苦しみのない世界へ、どういうふうにすれば行けるかという方法も、当然お釈迦様は説いて下さっているわけでございますか。
 
スマナサーラ:  そうです。お釈迦様の仕事というのは、「人間に心の安らぎをどのように体験出来るか」という、その方法を教えることなんですね。ですから、凄く実践的で、凄く分かり易く、お釈迦様は「心の安らぎ」というものを教えているんです。
 
金光:  じゃ、道具、財産、そういうものはちょっと置いておいてですね、じゃ、どういう方法でその心をコントロールしていけばいいのか、どういうふうな生活をすれば良いのか、ちょっとその辺のお釈迦様の説かれた方法と言いますか、道筋、道をお話して頂けませんでしょうか。
 
スマナサーラ:  はい。その場合は「涅槃」「安らぎ」というのは何なのか、という。それに対して、それは一旦、「涅槃」と言って終えば、大体仏教の世界でみんな思っているのは、死んでからなんとかなるものだ、と。そういうものではなくて、ほんとに心で幸せを感じる。今、心で心の安らぎを感じているか、と。もっと平面的な言葉で言えば、「あなた笑いますか」という位の、「あなたは笑って生活出来ますか。心に何の心配事はすべて消えているんですか」ということで、我々は必ず明るく見た方がいいんですね。「涅槃」というものは。これは心の安らぎ。何の苦しみも悩みも何もないんだ、と。大変幸せだ、という状態なんですね。ですから、誰でもチャレンジした方がいいと思います。「何で私達は苦しんでいるんですか」というところを考えなくちゃいけないんですね。そこに出てくるのは、「心の問題、心の汚れ」というか、心は凄く汚れているんですね。汚れのことを、我々は「貪瞋痴(とんじんち)」という、
 
金光:  「貪り」と、「怒り」と、「愚痴」と言いますね。
 
スマナサーラ:  その三つにわけていますけど。何でそうなるんでしょうか、と。それは我々の生きる生き方の問題で、私達は生まれた時から、悪い方向へ教えられちゃうんですね。
 
金光:  と、言いますと、
 
スマナサーラ:  ということは、「幸せはこういうことである」という意味ではなくて、「出来るだけ勉強しなさい」「出来るだけ金儲けしなさい」「そうやって道具を揃えなさい」と。そういうことだから、頭が分からないんですね。「何が幸せか」と教えたっても分からないんですね。凄く悪い癖が付いているんですね。
 
金光:  じゃ、その癖が付いている、ということに気付くことが第一歩ということになるわけですか。
 
スマナサーラ:  それが第一歩になるわけですね。まず、この「悪い癖というのは何なのか」とね。例えば、教育というのは、仏教も、大変「知識」と「智慧」の両方を大事にするんだから、決して教育は悪いことではないんだけど、教育の場合でも、貪りで、怒りで教育をしようとするんです。そうすると、怒ったりするんですね。上手く勉強出来なかったら怒ったりする。
 
金光:  先生の教え方が悪い、という方向へいくわけですね。
 
スマナサーラ:  そうなんですね。誰かに当たろうとする。或いは、自分自身に当たろうとする。そうすると、せっかく幸せのために勉強するんだけど、自分に怒ったり、他人に怒ったりする。仕事でも同じことで、儲けなくてはいけないんだ、ということが出てきて、儲からない場合は、凄く腹が立ったりする。儲かる場合は凄く高慢で、何も分からなくなってしまったりする。
 
金光:  有頂天になって、大変喜んでしまう、ということがありますね。
 
スマナサーラ:  喜んでしまって、結局、失敗してしまうんですね。ですから、この心にいつでも怒る癖、欲張る癖、というのは付いているんですね。
 
金光:  その場合、「あの時、相手がこうしなかったら、自分は幸せだったろうに。或いは、あの時、財産が少し増えていたら、お金が貰えていたら、自分は幸せだろう」というふうな考え方、これはやっぱり悪い癖になるわけですか。
 
スマナサーラ:  それはもう当然悪い癖なんですね。だから、いつでも他人のせいにする、ということですからね。また過去のことを考えているんですね。
 
金光:  昔、こうだった。あれがなかったら幸せだったろう、というのは、
 
スマナサーラ:  「あの人がこうしたならば上手くいった筈だったのに」とかね。トコトン聞けば、「親がもっとしっかり私を育ててくれたならば」とか、
 
金光:  親が悪いという方に、
 
スマナサーラ:  「親が悪い」「社会が悪い」「国が悪い」というのは、結局、私は過去に文句を 言っていることではないか、と。だから、仏教は過去に文句をいうと、決して幸せにならないんだ、と。
 
金光:  そこでどういうふうに考えるんでしょうか。
 
スマナサーラ:  「今」ということにこなくちゃいけないんですね。我々が生きているのは今なんですね。今、失敗しちゃうと、これは後悔に繋がっちゃうんですね。だから、出来るだけ将来でもなく、過去でもなく、今というものに縛らなくちゃいけないんですね。
 
金光:  じゃ、勉強の場合だと、どういうふうに。昔のことなんか考えないで、今、
 
スマナサーラ:  全く、「今」というところで、「いま教えてくれることはいま理解するんだ」ということで。だから、いつでも我々の心の中で、「いま何をするべきか」ということは、一番大きなポイントであって、この悪い癖だから、そうなかなかなおらないんですね。例えば、試験勉強する時は試験のことを考えている。そうするストレス溜まっちゃうんです。
 
金光:  それはストレスが溜まるでしょうね。先の話で、
 
スマナサーラ:  先の話ですから。或いは、「何人試験受かる」とかね。そういうことを考えたりすると、頭の中で余計な概念で混乱させてしまったりするんですね。そうなるのは自分に欲があるからなんですね。
 
金光:  そうすると、お金が入らなかった、お金が足らないような時は、どう考えれば宜しいんでしょうか。やっぱり、「お金は要らない」というわけではないですよね。
 
スマナサーラ:  ではなくて、「今、どうすればいいんですか」と。例えば、お金が必要なのは来月かも知りませんし、来週かも知りませんし、どちらにしても、今やらなくてはならないということが人間にあるんです。だから、仏教で、「智慧」というのは、今の智慧なんですね。「今うまくいけばいい」という。なんか悪いように感ずるかも知れませんけども、「今理解しておきましょう」と。「今、ちゃんとやりましょう」と。
 
金光:  「いま自分に出来ることをやりましょう」という、
 
スマナサーラ:  「今、出来ることをやりましょう」ということになりますね。そうやって、「今 を大事をする」と、ドンドン、ドンドン智慧が出てくるんですよ。
 
金光:  ただ、そこでバブルの話にもっていきますと、バブルが弾(はじ)けて、それで買っていた不動産の値段が下がってきた。それで赤字が増えてきた。いま赤字を誤魔化すために何とかもってくるみたいな、「今、今」というと、そういう考え方になってしまう。これは具合が悪いわけですよね。
 
スマナサーラ:  だから、その人々は問題に出合わないんですね。問題を誤魔化しているんですね。
 
金光:  そうか。それは問題に正しく向かい合っているんじゃなくて、一時を騙(だま)すために、と言いますか、
 
スマナサーラ:  「今、騙そう」ということなんですね。
 
金光:  成る程。それは乗り越えるんじゃなくて、正面に向かうんじゃなくて、騙すところで乗り越えようとする、ということになるわけですね。
 
スマナサーラ:  そういうことをいつでも我々やっていますからね。だから、「過去に文句をいう」とか、「社会に対して文句をいう」ことは、自分を騙すことで、問題に出合いたくない。
 
金光:  そうですね。破綻を、どうにもならないような状況に陥りたくないわけですね。
 
スマナサーラ:  そうです。陥りたくないから、騙すということをやってしまいますね。
 
金光:  じゃ、そこでどうするか、というと、足りなきゃ足りないところで、真っ正面にそれを向かい合わないとしょうがない、ということになるわけですね。
 
スマナサーラ:  「ちゃんと向かわなければならない」と思ったら、「智慧が出てくる」と思いますね。ですから、瞬時に手を打たなくちゃいけない。物事は瞬間瞬間変化していくんだからね。ですから、バブルになったのは将来のこと。非論理的に考えてもダメでしょうし、
 
金光:  「いつまでもそういう状況が続く」と思っていたところが間違いの元ですね。
 
スマナサーラ:  瞬時に瞬時に考えて行動すれば良かったんですけれどね。
 
金光:  まあ、それも昔のこと。今これからどういうふうに間違い、悪い癖を正しい方向にもっていくのにはどうすればいいと、お釈迦様は教えていらっしゃっているんでしょうか。
 
スマナサーラ:  お釈迦様から言えば、「我々が物を追って、物だけさがしていく、という生き方は、無知な生き方だ。それでは、一向に幸せにならないんだ」と。まずそれを理解して欲しい。「人間には、心の安らぎ心の幸せというものが一番大事ですよ」と。「それは、今すぐにでも体験して欲しいんだ」と。だから、仏教でおしゃっているこの「涅槃」というものは、ちょっと頑張れば体験できるものなんですね。
 
金光:  「心の安らぎ」というのは、悪い癖に気が付けば、パアッとそこへ出られるものなんですか。
 
スマナサーラ:  そういう法則なんですね。心というのは、
 
金光:  では、是非それを、
 
スマナサーラ:  例えば、仏教では、「心を清らかになる法則」としていろいろありまして、瞑想法というのがあります。瞑想法について、お釈迦様がおっしゃった手法というのは、「観ましょう」という「観るという瞑想法」なんですね。パーリ語で、「ヴィパッサナー」というんですけどね。それは、観察する。観たら分かるんだ、という「観る瞑想」、
 
金光:  これは何でもすべて。心の中まで観る、ということになるわけですね。
 
スマナサーラ:  すべて客観的に観る。科学発展は何故出来たか、というところを考えても、それは物事のありかたを観えていたからでしょうね。物事の変化やら、何から何まで。これは信仰していったらうまくいかない。例えば、昔は、「地球は平らですよ」と信じていた。信じてばっかりいたら、永久的にそのままでしょうが、でも、観てみたんです。観てみたら、地球は平らではなくて、丸い球型だと分かりました。「それだったら心を観たらどうですか?」と言うのがお釈迦様の立場です。
 
金光:  どうやって見るんですか。
 
スマナサーラ:  それを「ヴィパッサナー」という。「観瞑想」の場合は、心を観るということは、二つに分けられます。一つはいきなり心を観る、ということはちょっと難しい。自分では認めたくないんですね。「我々は間違っている」とかね。例えば怒る人が自分が間違っているのを全然認めませんね。
 
金光:  それは相手が悪いんで、自分は正しい、
              、
スマナサーラ:  そうです。犯罪を起こす人も誰かのせいにするんです。
 
金光:  自分が犯罪を起こす場合は相手が悪いからこうだ、とか、
       、
スマナサーラ:  そうなんですね。
 
金光:  「自分がこうするのは、今までこういう目に遭ったから、こういうことをしても当然だ」とか、要するに、「ありのままの事実を見ないで、自分の都合のいいように見る」という癖が付くわけですね。
 
スマナサーラ:  そうですね。自分の都合によって考えて、例えば、「学校が面白くなかった」と言って、それから犯罪起こしたりする。「私が悪かった」ということを全然誰も思わない。
 
金光:  そうですね。学校に恨みがあるから犯罪を起こすみたいな、そういう現象が多いようですね。
 
スマナサーラ:  多いですから。お釈迦様が言うのは、「あんたが悪いんですよ」と。
 
金光:  相手ではなくて、「自分が悪い」と。
 
スマナサーラ:  「自分が悪いんだ」「自分がこうだったら、自分が悪いんだ」と。でも、それは理解し難いんですね。
 
金光:  し難いですね。
 
スマナサーラ:  そういうことだから、まず、「心を落ち着いて貰う」。そのためには、「身体を観てみて下さい」と。
 
金光:  「身体を観る」とは、どういうふうにするんですか。
 
スマナサーラ:  「身体を観る」ということは、身体の行動を見ることです。身体を屈んで見るとことではなくて、我々の心で身体を動かしているんですね。喋る時も、心でもって喋っているんですね。心の感情を言葉で表している。そうすると、どんなことを喋っているかと、ちょっと観察して見る。歩いたり座ったりすると、身体の感覚を感じて見る。「何で歩いているんですか」「何で座っているんですか」とかね。そうすると、この身体の感覚が見えてくるんですね。身体の感覚が見えてくると、かなり心が落ち着いてくるんです。それは七つの段階に分けてあります。
 
金光:  日本語では、「七覚支(しちかくし)」というふうな言葉がありますね。
 
スマナサーラ:  「七覚支」と、
 








 

一、念(ねん)
二、択法(ちゃくほう)
三、精進(しょうじん)
四、喜(き)
五、軽安(きょうあん)
六、定(じょう)
七、捨(しゃ)

 








 
 
金光:  「七つの悟りのための手段」と言いますか、そういう感じですね。
 
スマナサーラ:  そうです。
 
金光:  一番最初に、「念」というのがありますね。
 
スマナサーラ:  「念」ということ、これは、「悟りの段階」と言ったら何か大げさに感じるかも知れません。これは、「立派な人間に、精神的に、優れた立派な人間になりたければ、どうすればいいか」という段階と考えた方がいいと思いますね。
 
金光:  「念」というのはどういうふうなことですか。
 
スマナサーラ:  「念」というのは「気づく」こと。
 
金光:  「気づき」ですか、
 
スマナサーラ:  「気づき」ですね。
 
金光:  自分が、「いま何をしているか」「いま話している」「声が出ている」ということに気づく。
 
スマナサーラ:  それに気づく。「いま座っている」「いま暑い」「いま暖かい」「寒い」とかね。そういうことに気づく。
 
金光:  やってみないで、話を聞くと、「なんだそんなことか」というふうに、「その程度のことか」という気がしますけれど、実際やって見ると変わってくるんですか。
 
スマナサーラ:  確実に変わります。これも一週間やって見れば物凄く不思議に心が変わっていくんですね。
 
金光:  例えば、歩く時は、「いま歩いています」。
 
スマナサーラ:  「いま歩いて、左足で動いている」「いま右足で動いています」と。そうやっていると、この頭の中でずうっと混乱させている、この苦しみ、悩みの概念というのが一旦停止するんですね。
 
金光:  成る程。その時の行動を、自分で確認出来るわけですね。自分はこうだ。自分でこうだ、と。
 
スマナサーラ:  普段、我々歩く時は、「明日どうしましょうか」「昨日はどうだったんでしょうか」とか。だから、精神的に苦しんでいるんですね。苦しんで歩いているんですね。ですから、歩くこともろくに出来なくなってしまうんですね。歩く時、「いま左足」「いま右足」「いま左足」「いま右足」と、それだけ見て歩いちゃうと、過 去も消えちゃう。将来も消えちゃう。そうすると、いまだけ生きるいい癖がドンドン付いてくるんですね。それやったところで、心を観ることも出来るんです。心に帰すること、それはどういうことか、と。「いま怒っている」「いま混乱している」「いま寂しい気持です」「いま気持がいいんです」と、自分の感情に気づく。気づいてみるんですね。
 
金光:  二番目の「択(えらぶ)」という字に、「法」を書いて、「択法(ちゃくほう)」と読むようですが、これはいまのお話とどう続くんですか。
 
スマナサーラ:  「択法」というのはちょっと難しいかも知れませんけど、まず、この一番目はトコトン二、三週間、一ヶ月間位やって頂いたらいいんですよ。
 
金光:  「念の法」気づき、をやると、
 
スマナサーラ:  「気づき」をやる。そうすると、実際に、「生きるということは、どういうことか」と分かってくるんです。
 
金光:  具体的な行動としてはどういうことか、というのがいろいろ気が付いてくるわけですね。
 
スマナサーラ:  気が付いてきます。「これは簡単ではないか」と思う知れませんけれど、真理は 単純なんです。例えば、今のコンピュータがありますね。随分、情報化社会とか、いろいろ言ったりしますが、でも、コンピュータそれ自体単純なんですね。
 
金光:  原理は、
 
スマナサーラ:  原理はね。凄く単純なもので、大きな世界、現象の世界が出来上がってしまうんですよ。
 
金光:  自分の行動、心を含めて、行動を気付いていくと、これは単純化する。
 
スマナサーラ:  単純化するんです。トコトン単純化するんです。そうすると、身体が動く。身体には「痛み」とか、「楽しい感覚」がある。心の中で「悩み」とか、「楽しい」「厭な気持」「苦しい気持」とか、いろいろ幾つかの気持があります。そういうデータにまず気づく、ということで集まるんですね。そういうものはバラバラで、なんとなくバラバラでしょう。次にある「択法」というところになっちゃうんです。「択法」というのは漢字でちょっと理解し難いかも知りませんけれども、これは「分類する」。
 
金光:  今の言葉では、「分類する」。「怒っている」とか、「悩んでいる」とか、「歩いている」とか、「喜んでいる」とか、或いは、「いい匂いだ」とか、いろんなことを生活の中で考えますね。それが分類出来ると、どうすればいいんですか。
 
スマナサーラ:  自動的に分類出来るようになるんです。例えば、長い間座っていると、我々は、「ああ、疲れた。気持が悪い」と思って立つだけで、あんまり分類能力ないんですね。例えば、「座っている人は座っていると気持いい」と確認する。そうすると、「気持いいということが欲」ということがわかります。
 
金光:  ああ、「欲」というわけですか。
 
スマナサーラ:  それと同じく一時間座っていたところで、痛みが出てくるんですね。痛み出せば厭な気持出てくるんです。それはもう「怒り」というんです。
 
金光:  成る程。
 
スマナサーラ:  別に、「怒った」という意味ではなくて、それで分類なんですね。例えば、音が耳に入ると「楽しい」と思ったら、それは「欲」と言うんですね。
 
金光:  そうすると、楽しいことに気が付くと、楽しさの方に努力する。自然にそういうふうな方向に向いてくるわけですかね。
 
スマナサーラ:  その場合は、「欲の楽しみ」ですけど、一応まずそうやって分類する。それで分かってくるのは、やっぱり世の中で、心の中のものにしても、「怒り」と「欲」が生まれてくる。身体の感覚にしても、怒りと欲が生まれてくる。今まで自分が、「この欲ばっかり追っていたんだ」と。「何も分かっていなかった」と。そういう分類能力が分かってくるんですね。例えば、音楽というものを聞くと「楽しい」と。「聞く聞く聞く」ということばっかりを追っていく。でも、ほんとに長い間聞いていると楽しくないんですね。そうすると、これは楽しくない。「違うものをさがそう、違うものをさがそう」といっちゃうんです。そういう人々を「無知」と言うんですね。分かっていないんだから。この気づくことをして、択法、いわゆる分類能力のある人はよく分かるんですね。同じ音楽でも何回も聞くと楽しいわけじゃないんだ、と。そこで苦しみが生まれてくる、と。その代わりに新しい音楽聞いても、同じ問題だ、と。またそれが嫌になってくるんだ、と。じゃ、だったら、「楽しいものを追っかけていっても、何か意味がありますか」と。やっぱり、「結局、意味がない」と分かるわけですね。そういうことで、次の三番目ということが生まれてくる。これは「精進」ですね。
 
金光:  努力するわけですね。
 
スマナサーラ:  「何に精進するか」というと、やっぱり、「心に怒り、欲」そういうものに左右されないように精進する。「智慧も開発する」ために精進する。「より立派な心をつくる」ために精進する、ということに自然にいくんですね。
 
金光:  いま「智慧」という言葉をおっしゃいましたが、これはいろいろ気づきが続いて、いろんな自分の状態が分類出来てくる。そうすると、自然にその分類出来て、整理出来てくる時に、「智慧」が自然に湧いてくるということでございますか。
 
スマナサーラ:  そうなんです。「分類したら、そこに智慧がある」んです。これは科学と似ていて、ちゃんとデータをとって、データ分類して、コンピュータに入れたら、結果は瞬時に分かっていますね。データの配列がどのようになっているか、と。その人が、「心が不幸に回転している癖」と、「じゃ、幸福に回転させる為にはどうすればいいか」ということを、瞬時に分かっちゃうんですね。そこが「智慧」なんですね。瞬時に分かって、人は今までの悪い癖を直さなくちゃいけない。
 
金光:  そうすると、「怒り、腹が立っている」というのは、それは、「これで自分は腹を立てていることに気が付くと、それを止める方向の智慧も働く」ということになる。
 
スマナサーラ:  働きますね。「いま腹が立っているんだ」と分かったら、「直ぐ怒りが膨脹しない」んですね。「怒っている」と分からん人の場合は、「怒りを正当化」するんだから、ドンドン膨脹していく。これ「怒りですよ」と、みたところで、怒りはよくないと直ぐ分かるんですね。そこで膨脹しないようになる。「なんで怒ったんですか」と。「こうすれば怒らないでしょう」ということは、その人にだけ分かるんですね。
 
金光:  それで精進します。よい方向へ精進すると、その後、「喜ぶ」という「喜」というのがありますね。それから、「軽安(きょうあん)」。これはどういうことなんですか。
 
スマナサーラ:  「喜び」ということは、この一番目の「念」、二番目の「択法(ちゃくほう)」、三番目の「精進」まで実践した人に進んで生まれてくることなんですね。
 
金光:  喜びは、「自然に生まれてくる喜びがありますよ」ということなんですね。
 
スマナサーラ:  もの凄く自然に喜びが生まれてくる。喜びを実践する必要ないけど、だから、心にはもう汚れがない。勝手に怒ったりはしない。勝手に欲張ったりはしない。もの凄くうまくいくんですね。生きるということに何の苦しみもなく、そうすると、あるのは喜びだけなんですね。
 
金光:  成る程。その後、「軽安」とありますね。
 
スマナサーラ:  「軽安」というのはまた自然なことで、我々は軽くないんですね。何か喋るときでもいろんなことを考えたり悩んだりする。何か行動する時、かなり重いんですね。行動というのは。これは「煩悩がある」からなんですね。「心が汚れている」からなんですね。歩けない、喋れない、行動出来ない、とかね。心の問題を解決する人は軽く自由自在で、物凄くスムーズに動くんですよ。心がスムーズに動く。身体も同じく軽く動く。
 
金光:  だから、それで「軽安」と、「心も身体も軽い」ですよ。
 
スマナサーラ:  軽いんですね。軽安を説明するところで、身体の軽さと心の軽さと別々にちゃんと定義しているんです。
 
金光:  そうですか。
 
スマナサーラ:  いま、思い出しましたけど、お釈迦様が涅槃を体験した人のことを譬えにしていう場合は、「鳥のように」と言っているんですね。鳥がどこへ飛んでも、すべて持って行くんだ、と。いわゆる鳥がこの枝からあの枝に飛ぶということは、完全に引っ越しなんです。凄く軽いんですね。私たちは引っ越しじゃなくて、ほんのちょっと他へ行って来る時でも、仕事や用事で出掛けるだけでも、カバン持ったり、いろんなことをして大変重いんですね。でも、それと違って、心にいろんな束縛ない人にとっては、物凄く軽く動くんだ、と。「心は鳥の如くだ。どこへ行っても完全だ」という譬えがあります。ですから、この「軽安」というのはそうやって物凄い限りない心の自由というものが得られるんですね。
 
金光:  ほんとの「安らぎ、自由な安らぎの世界」ということですね。その後に、「定(じょう)」と「捨」というのがありますね。これはどういうことですか。
 
スマナサーラ:  で、そういうものが自然に生まれてくるもので、この六番目の「定」というのは、心が混乱する原因、悩みが消えてしまった状態ですね。「あれに悩む、これに悩む」ということも消えてしまった。そうすると、何をするにしてもそれだけ出来るんですね。
 
金光:  集中して出来る。
 
スマナサーラ:  集中出来るんですね。だから、物凄く落ち着いていられる。どんなことをしても、その中に瞬時に入り込んでいって集中することも出来る。いわゆる世の中のこと、すべて凄く軽く見えるんですね。トコトン単純化したんだから、宇宙の構造であろうが、自分の心のシステムであろうが、生命のシステムであろうが、すべて単純化して、単純に見えるんですね。そうすると、混乱する原因が一切消えるんです。心にいつでも落ち着き、というものが生まれてくる。それも自然な結果で、ちょっと頑張ってみれば落ちつきというのは、自動的に生まれてくる。
 
金光:  それでいいんじゃないか、と思いますが、あとに「捨」というのがありますが、これはどういうことなんですか。
 
スマナサーラ:  「捨」というのは「ウペッカー」と言って、「心の平安」という意味なんです。別に、「捨てる」という意味ではないんです。
 
金光:  あ、そうなんですか。
 
スマナサーラ:  だから、何故「捨てる」という漢字が充てられたか、私も分かりません。
 
金光:  元の意味はどういう、
 
スマナサーラ:  これは「平安」という。
 
金光:  「平安」という意味なんですか。要するに、「煩悩の悩みがなくなっている平安な状態を捨」という、
 
スマナサーラ:  「捨」という状態。それは、パーリ語で「ウペッカー」と言うんです。サンスクリット語で、「ウペックシャ」と言うんです。「ウペックシャ」というのは、「平等にただ観ている」。「observation」という英語の言葉がありますけれど、ただ、世の中はそういうことですよね。
 
金光:  そういう「観る」という。「世の中を全部観る」というのと同じような意味なんですか。
 
スマナサーラ:  同じような意味になってくるんです。
 
金光:  そうすると、「定」になって、心が落ち着いて、集中力が出来ると、自然に観られる。
 
スマナサーラ:  観えるんだ、と。今まで見ていたんだけど、これから「観られるようになった」という。大体始めた時の「気づき」ということから始まった努力が完成して、「気づいているんだ。常に観えているんだ」と、どんなものでも。だから、「ウペックシャ」というのは「感情がない」という意味もあります。そうすると、ちょっと、「感情がないとつまらないじゃないか」と思うかも知れませんけど、問題というのは、この感情なんです。我々は物が観えていないんです。私は瞑想を指導する時、みなさまにいうのは、「あんた方はバラの花を見たら、どういうことを感じますか」。「これ綺麗です、と言っていらっしゃる」。「これ違いますよ。これはあなたの固定概念で、真理ではありません。あなたが感情でバラの花を見たんだ。だから、観えていないんだ」と。「もし、あなたがバラの花が綺麗です、ということが事実で真実であるならば、猫にバラの花を見せて下さい」と。飼っている猫に、犬に。どっちでもいいんです。
 
金光:  猫でも犬でもバラの花を見せて、
 
スマナサーラ:  「見せてあげなさい」と。
 
金光:  そうすると、どうなりますか。
 
スマナサーラ:  猫にとってはこれ面白いことも、どんなこともないんですよ。
 
金光:  そういうことですか。
 
スマナサーラ:  だから、「バラの花が綺麗」ということは、「人間の主観」です。「人間だけの 考え方」です。それも小さい時から刷り込まれたんだから、そうなっているんです。もし、赤ちゃんの時からバラの花一本もってきて叱ったならば、「しっかりしなさよ」と、脅したりしたならば、バラの花が怖くなるんですから。
 
金光:  バラを見ると叱られる、と思う。
 
スマナサーラ:  「叱られる」と思いますからね。ですから、そういうのは「主観である」と。客観的に見ると、全てのもののほんとの姿が真理として見えてくるんだ、と。ですから、私が注意する場合は、「たとえバラの花が綺麗ということさえも、固定概念である」と。「ご飯が美味しい。それは固定概念である」と。我々は美味しいご飯、ご馳走を食べているんだからと、それをライオンにあげたら、ライオンは全然見ようともしないんです。ライオンには山猫の方がご馳走なんです。ですから、この「一切の固定概念から心が自由になった」ところが「捨」ウペッカーという七番目なんですね。そこで、「感情なし」ということは、より低い感情がないんですね。私は赤いバラの花が好きだから、いくら払っても買おう、と。私はこういうピンク色の服が好きだから、借金してでも買おうか、と。そういう感情でトラブルが起こる。
 
金光:  成る程。それは禍の元ですね。
 
スマナサーラ:  禍の元です。そういう感情一切なし。真理の次元からものを観ている。「何も固 定概念ない状態」が七番目の「捨」なんですね。
 
金光:  そのためには最初におっしゃった「念」、「気づき」というところからスタートしないと、いきなりお話聞いて、じゃ、固定概念なしに花を観よう、と思っても、それは出来ない。
 
スマナサーラ:  それは全く出来ない。ですから、「気づき」というところから始まるんです。だから、バラの花見て、バラの花が好きだ、というふうに思ったら先がないんです。その時は、「見えている。見えている」と。音が鳴ったら、「素晴らしい音楽ではないか」というふうに妄想するんじゃなくて、「音です」と。単純化するんですね。歩く時も、「左足動いています」「右足動いています」と。ご飯食べる時も、「ご飯取ります」「運びます」「入れます」「噛みます」「味わいます」「飲み込みます」という。訓練をわざわざしないと、長い間付いた悪い癖はもう直らないんですね。
 
金光:  生まれた時から癖が付いていますから。
 
スマナサーラ:  もうトコトン癖付くように我々は育てられていますから。
 
金光:  今の、例えば、「右足左足、右足左足」というその程度なら自分にも出来るだろうという気はしますけれども。ただ、続けていく、というのはなかなか難しいでしょう。
 
スマナサーラ:  それは精進しなくちゃね。
 
金光:  やっぱり精進はそこでいるわけですね。
 
スマナサーラ:  私はそれでも大丈夫だ、と思います。お釈迦様の道というのは万民に出来る道なんです。特別な人に悟ることが出来る。特別に出来ない、ということは全くないんです。科学的な真理だから、ちょっと話が分かる子供から、人の話を理解出来る年寄りまで、誰にでも出来ます。
 
金光:  例えば、病気で今寝ている人が居ますね。「私は病気だ、病気だ」なんと思っていたら、これ具合が悪いですね。
 
スマナサーラ:  それは暗い考え方で、病気になるのは当たり前ですから。ただ、自分の身体を観察する。お腹の方が痛みがある。
 
金光:  どこか痛いと、お腹痛いと、
 
スマナサーラ:  例えば、ちょっとお腹が痛い時、全身に痛いと思っちゃうでしょうね。「大変だ。どうしようか。もう痛くてしようがないから、早く薬くれ」と言う。そうでなくて、「お腹の方は痛みがある」「足の方は何のことはない」「胸の方はなんのことはない」「頭の方はなんのこともない」。そうすると、「お腹だけなんでしょう。それ位何のこともないんだ」というふうに分かってくるんですね。そこで「痛み」というものを見てみると、あ、これは瞬間、瞬間変わって、変わって、変わっていくものだ、と。この流れが川のように流れているんだ、と。それも分かってくるんですね。それで大体早く病気なんかも治る可能性もあるし、治らなくても、人は誰でも死にますからね。別にそんなに不思議なことでもないんですね。ですから、たとえ病気になって倒れてベットにいたっても、この観察瞑想法というのは出来ると思いますね。
 
金光:  今日のテーマの「涅槃」という、「ニッバーナ」ですね。これはなんにも感じないという世界では勿論なくて、事実、真理を、
 
スマナサーラ:  真理をいつでも体験する世界。
 
金光:  それが涅槃という。
 
スマナサーラ:  妄想のない世界。欲で世の中を見ない世界。怒りで世の中を見ない世界。
 
金光:  呆(ぼ)けの世界とは、呆けも感動しない。呆けてしまうと、
 
スマナサーラ:  それは無知の世界ですからね。何にも分からない世界。これはすべて分かっている世界。そういう差があるんですね。すべて分かっているんだから、落ち着くでしょうね。
 
金光:  成る程。
 
スマナサーラ:  だから、子供なんか何も分からないので混乱するでしょう。例えば、ちょっとした火事が起きたら、何も分からないと凄く混乱するでしょう。分かっていると、「まあ、いいわ、いいわ、直ぐ消しますから」と。落ち着いて消されますから。だから、「感情ないということは全て分かっている世界」という意味なんですね。
 
金光:  それは自分が愚痴の世界とか、そういうところにいることに気がつくとこころから、スタートして、怒っているな、という自分に気が付くところからスタートして、分類して、それで、悪い方へ進まないように精進して、あ、なんか身体が軽くなっているな、ということに気が付く。
 
スマナサーラ:  精進すればいいんですね。兎に角、最終的には自分で分かるんです。自分の心の怒りが出てこないんだ。出てくる筈がないんだ、と。全てのものは無常に変化しているんだ。欲のために生きているんじゃないんだ、と。
 
金光:  そういうことに気づく世界が「涅槃の世界」ということになるわけですね。どうも有り難うございました。
 
スマナサーラ:  ありがとうございました。
 
 
     これは平成十二年三月五日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。