菩薩と呼ばれた人々
 
                            浄瑠璃寺住職 佐 伯(さえき)  快 勝(かいしょう)
小田原山浄瑠璃寺住職。1932年、奈良県に生まれる。1955年、奈良教育大学卒業(国文学)。公立中学校教師を六年間つとめたあと浄瑠璃寺に入り、1968年、父・快龍師の跡をうけて同寺住職となり、現在に至る。「小田原説法」と題した説法誌も出している。1980年まで、京都府教育委員をつとめる。著書;「入門・仏教の常識」「入門仏事・法要の常識」「巡礼大和路の仏像」「古寺巡りの仏教常識」「菩薩道」「仏像を読む」「ブラフト神父との対話集・釈迦とキリストとの対話」
                            き き て  有 本  忠 雄
 
有本:  今日は京都府加茂町にございます浄瑠璃寺(じょうるりじ)にお邪魔を致しました。境内(けいだい)に入りますと、西に阿弥陀如来(あみだにょらい)像、そして、東に薬師如来像二体のご本尊が祀(まつ)られております。庭は浄土の世界を現したということで、丁度、中程に宝池(ほうち)、宝(たから)の池がございます。名刹古刹(めいさつこさつ)という言葉をよくお聞き致しますけれども、まさに三月に入りまして、お邪魔したこの浄瑠璃寺、古刹名刹に相応しい静かな境内でございます。今日は「菩薩と呼ばれた人々」と題しまして、浄瑠璃寺住職の佐伯快勝さんにお話を伺います。どうぞ宜しくお願い致します。
 
佐伯:  よろしゅう。
 
有本:  ほんとに静かな境内でございまして、ホッといたしますね。
 
佐伯:  ここはほんとに人間が入らなきゃ、鳥か風かぐらいしか音がないわけでね。ほんとに自然というのに包まれていると言いますかね。その中にこうして、今では文化財と呼ばれますけれども。今ございますものはお庭も建物も仏さまたちも平安時代のものでございます。この寺そのものは行基(ぎょうき)菩薩(奈良時代の僧:六六八ー七四九)の建立云々とありまして、奈良時代にこの辺りに小さな坊舎と言いますか、庵(いおり)と言いますか、奈良のお寺の真面目な坊さんたちが勉強する場所、そういうのが幾つもあったようです。その一つが今の浄瑠璃寺に成長していくんですね。出発は薬師如来、それで追っかけて阿弥陀様が出来て、そして、阿弥陀様のお浄土の池を造って、阿弥陀の世界を再現するんです。文字通り東方浄瑠璃浄土の薬師さんが東にいて、西方極楽の阿弥陀さんが西にいるという。浄土の方位そのままを忠実に現した、そういう格好でございますね。
 
有本:  この「真言律宗」という宗派ですが、簡単に申しますと。
 
佐伯:  宗祖は興正(こうしょう)菩薩(叡尊:鎌倉中期の律宗の僧。西大寺の中興開山:一二0一ー一二九0)と言いまして、いわゆる、西大寺・叡尊さんです。この方が鎌倉時代に興した奈良仏教の一つなんです。今の「何宗何派」ということは、昔はないわけでして、このお寺も出来た時には、何宗もないわけです。どの勉強もみんなそのお寺でやるわけです。だんだん鎌倉時代あたりには宗派が出来上がってきます。その中で「真言」というのはいわゆる大自 然の神秘が、いのちの世界、そこに仏をみ、神をみるわけですね。そういうことが、「大変な時代になるほど大事なんだ」ということを、醍醐寺で勉強なさっていた時に、叡尊さんが師匠に教えられるわけです。こういう酷(ひど)い時代の凡夫に、「真言密教こそ妙薬だ」と。ところが、そのことを受けて真言の勉強をずうっとなさるんですけれど、そこで真言の勉強をしている人間自体が「どうもおかしい」と。はっきりと、「魔道に堕(お)つ」なんという言葉をお使いになっていますね。「真言の輩(やから)、多く魔道に堕(お)つ」と。「何でこういうふうな酷(ひど)い状態になっておるのか」ということを、また勉強したら、「仏教で一番大事な戒律がおろそかにされている」と。平安の末期から、この辺りがその一つの拠点なんですが、真面目な坊さんたちが「戒律復興」という運動を興しておりまして、それに取り組むわけです。そして、結局は、「真言」と「戒律」とを車の両輪のようにする。この教えこそが大事だということで、それが一つの宗派になるわけです。それで「真言律」という。
 
有本:  そうですか。和尚さんはこの浄瑠璃寺でお生まれですか。
 
佐伯:  いいえ。奈良の白毫寺(びゃくごうじ)で生まれておるんです。先代がかけ持ちをしておりまして、戦争に負ける直前位からこちらに僕も移ってきたんでございます。
 
有本:  そうですか。住職になるためにお生まれになったようなものですが、ご経歴を拝見しますと、教育大学ですか、先生になるための大学を卒業しておられる。
 
佐伯:  僕等のころは「学芸大学」と言いました。途中で名前が変わりましたが、教師の養成の過程を踏みまして、専門は国文学をやっておりました。国文学というのは、これはすべてと言っていいほど、仏教の考え方が濃厚に出てまいりますね。そのことでちょっと囓(かじ)ったと言いますか、仏教専門の勉強ではないんですけれども、国文学を通して、仏教の話をちょいちょいと意識するというようなことがございました。また、そこを卒業してから、奈良県の公立の中学校で六年間務めさせて頂きました。僕は一人っ子でございまして、それまでお寺で、また一人っ子というのはほんとに視野が狭もうございますね。それが六年間、中学校でいろんな子供たちとその後ろにいる親、職業もほんとにいろいろございますし、家族のあり方もほんとにいろいろあって、それでいっぺんに視野を広げさせて貰ったんです。そのことがあって、お寺の仕事というのは大変大事なものだ、ということが、やっとそうなってから分かったような気がします。だから、案外早い時期にそういう気になれたというのは、まさに六年間務めたからだなあ、と。先代が本山の仕事が忙しくなり、こっちがどうしても人手がなくなりまして、急に辞めさせて頂いて、お寺に入ったというような、そういう経歴でございます。
 
有本:  そうですか。さて、今日は「菩薩と呼ばれた人々」ということでお話を伺うんですが、私たちは日常、割合、「菩薩」「如来さま」と、言葉では出てくるんですが、じゃ、一体、「菩薩とは」ということになりますと、なかなか我々一般の者には分かり難いんでございますが、
 
佐伯:  ほんとにおっしゃる通り、「如来」と「菩薩」なんて言いますけれども、案外、ごちゃ混ぜにされて、すべて「仏さま」というような言葉で括られたりします。厳密に申しますと、「仏」というのは「如来」。「菩薩」は「前段階」。そういう区切り方がよくされております。これは当初はそうだったんでしょうけれども、いわゆる「大乗仏教」と言いますか、「みんなの救い」を大事にすることが意識されてきた頃からは、むしろ、「菩薩は菩薩」「如来は如来」と、別々に考えた方が分かりがいいんだというふうに思います。「如来」というのはまさに現実と理想の間、ここに煩悩の川が横たわるということから、その川を渡り切って目標に到達した到達点が彼方の岸ということで「彼岸(ひがん)」なんですね。スタートラインはこの岸、「此岸(しがん)」でございますが、「それを渡りきって、ほんとの理想の世界、完成体として入っている人が如来」なんですね。ところが如来のいろいろな教えでは、「お釈迦様なんか数えきれぬほど生まれかわったという、前世の菩薩行が積み上がって如来になったんだ」というふうにされています。「菩薩はその前段階だ」ということになるんです。後の時代なりますと、「菩薩が簡単に如来になる」ということは、これはちょっと可能だとは誰も考えていないわけです。「如来というのはあくまで目標であり、建て前である」わけです。それに向かって、「自分自身を成長させていく」ということが一つの条件です。もう一つは、「自分が成長したって、他に遅れた人がおったら、それはダメなんだ」と。「みんなが到達して初めてほんとうの意味で幸せも来るし、ほんとの意味の完成になる」と。だから、「自分だけが先に向こう岸に着くということは、菩薩の考え方ではあり得ない。むしろ、みんなを何とかして前進させる。そのために自分が献身する。身を捧げる。このことが菩薩のあり方だ」というふうに思いますね。
 
有本:  お経なり、或いは、いろんな方々のお書きになったものに、菩薩についての定義みたいなものは書かれているんでございますか。
 
佐伯:  一番簡単に、それが集約されていますのは、「上に菩提を求める上求(じょうぐ)菩提(ぼだい)、下に衆生を化(か)す下化衆生(げけしゅじょう)。その上求菩提、下化衆生を同時に実践する人、それが菩薩だ」とこういう定義になりますね。一方では、「上を求め、一方ではみんなをそこへもっていく」という「上求菩提下化衆生」、これが菩薩のありかたを一言で表した一番大事な言葉だと思います。
 
有本:  「菩薩行」とか、「菩薩道」というふうな言い方をしますけれども、「菩薩行」で言えば、「そういう我を捨て、上を求める」というふうな、そういう境地になるための行であると。
 
佐伯:  そうです。だから、例えば、彼岸へ到達するということの実践の徳目に「六波羅蜜(ろくはらみつ)」(布施・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧)というのがございます。その一番先に出てくるのが「布施」なんです。自分が持っていて、相手に無いものを喜んで施すという布施(ふせ)。それから、五戒(殺生(せっしょう)・偸盗(ちゅうとう)・邪淫(じゃいん)・妄語・飲酒(おんじゅ))と言いまして、これをやってはいかんという戒律の大事な教えの一番最初の戒が「不殺生戒(ふせっしょうかい)」と言います。だから、「布施」以下六項目、それから「不殺生戒」以下五戒を実践するということが、教えの中心になるわけです。それをほんとにやれる人が菩薩道を歩む人。その道をとって歩んで行ったら正常の道なんだ、という教えですね。
 
有本:  私たちは、実際はお寺にお詣りをしますと、仏像に手を合わせ、仏像もいろいろありますので、知識をお持ちの方は別と致しまして、一般の方々は、先程の如来さまも、菩薩さまも、一緒であったり、あまり別々に考えたりは致しませんけれども、ここに西村公朝(こうちょう)先生のご本がありますので、これを使いながら、「如来さま」と「菩薩さま」のお話をちょっと伺いたいと思うんですが。
 
佐伯:  ここの釈迦如来ですけれども、どの如来でも、例えば、印相(いんそう)がちょっと違うだけで、姿、形、あり方は殆ど同じと考えていいんですね。如来の場合は完成していますから、一目見て仏像で分かりますのは、自らを飾り立てるという装飾品を一切外しているんです。菩薩は付けているのが原則なんです。だから、完成した人は飾りは付けないんです。だから、娑婆の我々も、必要以上に仰山飾り立てますと、自分で中味の無さをさらけ出しているんだ、という考え方があるんです。飾りがないことが一つ。それから見て直ぐ分かることの一つは、頭が違いますね。大体、髪の毛が長くて、そこに飾りが付いてあったり、冠被ったりしているのが菩薩です。ところが如来さんはクセ毛を象徴したという螺髪(らほつ)があるだけで、しかもそれが二段構えになっています。普通の頭の上にもう一段頭が盛り上がっている。これは本当の智慧と人徳が普通の者とは段が違う。盛り上がったものになっている。肉髻(にっけい)と言っています。その「二段構えの頭」と、それから「飾りのなさ」と、普通百パーセントではないですけれども、分かり易い一つの見分け方には、如来さんは「指の間に膜を張っています」ね。幔網相(まんもうそう)という。ところが菩薩は我々と同じ普通の指をしている。これなんかも、「彼岸まで渡りきった人が水掻きが出来た」と覚えておくとよく分かるんですね。その三カ所位見たら、「ああ、これは如来だ」とこうなりますね。ところが菩薩さんの絵を見ますと、ご覧のように、頭飾り付けていて、胸にも飾り付けていている。喉に輪が入っているんです。これは如来にも入っているんです。それから額(おでこ)に白毫(びゃくごう)という光るものを付けています。これは如来も菩薩も同じです。ただ、水掻きがない。だから、如来に非常に近いところまでいっているということに、仏像の場合はなるわけですね。だから、同じ菩薩でも、例えば、「お釈迦様」の両側には「文殊(もんじゅ)菩薩」「普賢(ふげん)菩薩」が付きますし、「阿弥陀如来(あみだにょらい)」さんには「観音(かんのん)菩薩」「勢至(せいし)菩薩」。ああいう菩薩は既に如来の力をほとんどもっていた。しかし、「敢えて途中で踏み止まって、我々を引っ張ってくれているんだ」とそういう解釈だろうと思います。だから、ほんとにお姿を見たら直ぐ分かるので、これは一口に言いますと、もし、如来のようなあんなお姿で町を歩いていましたらみなビックリしますし、そんなことあり得ないですよ。ところがこの菩薩さんは道を歩いていても不思議じゃないという姿なんですね。頭を丸めている地蔵菩薩だって、いわゆる我々のような寺の仕事をさせてもらって、頭を丸めて、袈裟を掛けて歩いていると、それが地蔵さんのお姿でしょう。だから、菩薩は現実娑婆の世界で見られる姿、如来は滅多に見られない姿。そういう区別で分かると思うんです。
 
有本:  菩薩さまも、お話に出ました「観音様」「地蔵菩薩」「文殊菩薩」「普賢菩薩」とか、それから、国宝だということで、「弥勒菩薩」が大変有名でございますけれども、この菩薩の中でもいろいろあるというのはまた意味があるんでございますか。
佐伯:  役割がいろいろ違うということですね。弥勒(みろく)菩薩で、普通の観音さんと同じような弥勒菩薩もございます。この考える人みたいなのがありますね。あの「弥勒菩薩」は装飾がないんです。だから、あれは「やがて衆生みんなを救うために、何をするべきか」ということを考えている若い行者さんだ、と考えられるんですね。それがだんだんと成長していく、そういう意味が弥勒さんにある。というのは、弥勒さんは、「お釈迦様の跡継ぎさん」とされていますから、将来、釈迦の後を嗣いで、「この娑婆へ出て活躍するためには、何をするか、ということを考えているんだ」と。それから、「地蔵菩薩」の場合は、大地の精なんですよね。目に見えない大地の底にあるものを生みだし、いのちを育み、作物を作りだしてくれるという、そういう凄い宝を地中の蔵に秘めているわけです。それの力が地蔵菩薩。だから同じ菩薩でも対照的に出てくるのが「虚空蔵(こくうぞう)菩薩」。宇宙の果てまで、空からいろいろ宝をくれる。その宝の蔵の虚空蔵さんと、地蔵さんが天と地、そういうふうな二大菩薩というのがあります。それから、「文殊菩薩」というのが古い時代から随分持てはやされています。これは今では簡単に、「智慧の文殊」なんて言っておりますが、智慧なんというのはいま考える我々の智慧と定義とは違うんですね。もっと基本的な、本当のいのちが、みんなで盛んに生きていけるための智慧なんですよ。根源的な智慧と言いますかね。名前が違う、菩薩も随分たくさん仏像にもございますけれども、それぞれがそれぞれの役割をしている。観音さんというのが、これが一番馴染み深い、たくさん祀られています。観音霊場なんていうのがございまして、三十三観音、三十三カ所廻る。それで頭には十一面、お顔が十一も付いている、あれなんかはもともとインドの神話に出てくる「天」と「空」と「地」という、「三界(さんがい)」と俗に言うそれぞれに十一の神々がいてくれる。その神の背後に、いわば神の後ろに、大きな力があるのが観音さんだ、と。それで十一顔を並べる。それが三界ですから、三十三いらっしゃるわけでしょ。それぞれに合わせた姿で出てくるから、三十三観音。観音さんはまた同じ菩薩でも、「変化(へんげ)観音」と言いまして、いろんな手のたくさんある、或いは顔が並んでいるというふうな形に出ているわけですよ。これなんかは、結局、あの手この手で人を救う、といういろんな方法論があるわけです。それを一本一本の手に表現して、それを一身に集約したものの姿だから、あれがそのまま出てきたら、それこそそんなものあり得ないということになるんですけれども、力としては、そういうことの表現です。やっぱり世間で見る、見られる人たちが、「こんなさまざまな能力をもっているんだ、ということを強調して、それを一身に表した」と解釈したら、これも分かってくると思うんです。
 
有本:  先程、「如来さまが彼岸にいらして、我々の身近には菩薩がいらっしゃる」と。そうしますと、歴史上と言いますか、「生き菩薩を挙げて頂きましょう」と申し上げましたら、どういう方々を、
 
佐伯:  そうですね。生きて活躍している菩薩。今、出て来たように、「上求菩提下化衆生」を実践している、「自分より先に、みんなを前進させよう」と努力をしている人は、みんな菩薩なんですよ。そういう意味で、直ぐに思い付きますのは、僕らの若い頃に、「あれが菩薩だ」と思うた一人の典型的な人が、インドのガンディー(Mohandàs Karamchand Gàndhì:一八六九ー一九四八:現代インドの政治指導者で思想家)さんですね。あの方は無抵抗主義ということで、それであれだけの力を発揮して、みんなを引き寄せて、凄い活動をしましたね。あれなんかを見ていると、まさに生き菩薩やな、と思います。日本では、宮沢賢治が、それにあたると思いますね。あの人もほんとに自分を捨てて、みんなのために。短い生涯で終わりますけれども、あの人がご長命であったら、何をしただろう、と思います。あれもまさに菩薩やなあと思いますね。それから、近いところでは、マザー・テレサ(Teresa,Mother:1910-1997:マケドニア生まれ。インドに渡りカトリックの修道女になる。「地上最悪の貧民窟」カルカッタのスラム街に住み、青空教室開設。インドに帰化。「死を待つ人々の家」を開設。)さんは、みんなが認める菩薩ですよね。それから、黒人運動で頑張ったキング(King,Martin Luther:1929-1968:黒人運動に無抵抗主義を貫き、最後には暗殺された)牧師は暗殺されますけれども、結局、自分を捨てて、自分の力、すべてをみんなのために頑張りますね。だから、ああいう人たちを見ていると、我々人間も菩薩になれるんだ、という気が致します。現に、この近くでも、今、生きている僕らより大分若い人ですけれども、もう何にもなかった地域に、ほんとに掘建(ほったて)小屋から始めて、障害を持つ人たち、いわゆるハンディを背負って、社会に出られない人たち、そういうのがあってはいかんのだ。同じ人間に生まれてきて、人間としての生活を何とかしてもてなきゃいかん、ということで、本気でそれに取り組んで、今かなり大きくなって、法人化も実現しました。その人には奥さんも子供さんもあるんですよ。その生活を見ていますと、「ああ、ここに菩薩がいやはった」という気がしますね。ボランティア活動でも、ほんとに献身的にやっている人たちというのが生き菩薩やなあ、と。ところが面白いことに、菩薩が出てくる時代というのは、大体世の中が酷い時代なんですね。安らかに安定した時代というのは、菩薩の活動というのは目立たないわけです。酷い時代になればなる程目立ってくるという。だから、ガンディーさんからずうっと、二十世紀だけでもこれはやっぱり酷い時代だから、こうなってきたんだなあ、という気もしますね。
 
有本:  歴史上の菩薩にお話を移したいんですが、興正菩薩・叡尊(えいそん)さんは鎌倉時代の方ですね。それ以前、奈良、平安、鎌倉と流れてきますと、奈良時代にも、
 
佐伯:  そうですね。「行基(ぎょうき)菩薩」(奈良時代の僧:六六八ー七四九)。それよりちょっと早い、俗に「役行者(えんのぎょうじゃ)」。「役小角(えんのおづぬ)」(奈良時代の山岳呪術者・修験道の祖。神変大菩薩:?ー七0一)さん。たまたま今年が千三百年の御遠忌(ごおんき)ですね。醍醐寺(だいごじ)、聖護院(しょうごいん)、大峰山の金峯山寺(きんぶぜんじ)の三山が合同で、今年は大きな御遠忌法要をなさるようです。ずうっと後ですが、「神変(じんべん)大菩薩」という菩薩号をやっぱりもらっていらっしゃいますね。役小角(えんのおづぬ)(神変(じんべん)大菩薩)とやや遅れて行基菩薩、これが古い時代の典型的な史上有名な菩薩ですよ。鎌倉に入って、興正菩薩・叡尊(一二0一ー一二九0)さんと、十六歳違うだけで、後を追って車の両輪のように活躍したのが忍性(にんしょう)、極楽寺忍性ということで、忍性菩薩ですね。この人たちが歴史上には特に有名な生きた菩薩ですね。
 
有本:  それでは最初の行基さんと役行者のお話を伺いたいと思うんですが、行基が何故その人から菩薩と言われたのか、その辺はどこに秘密と言いますか、行基菩薩がなさったことに対する尊敬の眼差しなんでございましょうか。
佐伯:  行基さんは若い頃、山へ入って、山林修行していますね。ところが一つの菩薩の教え、後で申し上げますけれども、山へ籠もっていたんではほんとの仕事は出来ないんだ、と。巷のほんとに困っている人たち、その中に入っていって、救済活動をしなければいかんということを途中から実践するわけです。行基さんの場合は途中からだんだんと盛んになっていくという感じですね。そのおやりになった仕事というのは実に凄いんです。まず、行基さんは「生身(しょうじん)文殊」と言いまして、「生きた文殊菩薩だ」というふうに言われていまして、それ が「行基菩薩」と言われる元になるんです。この行基さんも、一昨年がご遠忌で、去年が丁度亡くなって千二百五十年という節目の年に当たります。この行基さんが、公式の記録として認められているものに、池をお造りになった数だけで十五あるんです。用水路が七つ、それから橋をお架けになったのが六つ、水門を造ったのが三つ、堀川掘ったのが四つで、船泊まり、港を造ったのが二つです。それから、「布施屋(ふせや)」と言いまして、苦しんでいる人たちを、誰でもそこへ招いて、介護しながら食べ物を食べさす。その布施屋が実に九カ所に作られたという。その布施屋の役目も含めながら、道場とした、いわゆる有名な行基の四十九(しじゅうく)院と言われる四十九の道場、いわゆるお寺を造っていますね。それは昔から、「菩薩道の大事なものだ」と言われているものに、「開放された、誰でも入れる住まい」。そこで、「食べ物も頂ける、病気の時には看病もして貰える」というものを造るのが布施行の基本にあるんですね。それをほんとに絵に描いたようにやっておりますね。だから、この人がそれをやるのに、しかし、国は嫌悪するわけです。丁度この頃に、「大宝律令(たいほうりつりょう)」というのが出ました。「僧尼令(そうにりょう)」というのが出まして、そこにお寺の坊さんも尼さんも「こうせねばいかん」ということの大変な法律が施行された。これは実に縛っておりまして、「あれしたらいかん」「これしたらいかん」「山へ籠(こ)もって修行してもいかん」「人を直接、法を説いたり、或いは、呪文(じゅもん)を唱えて病を治してやるということはけしからん」「道場を造ってもいかん」。そうしたらお寺の坊さんとか、尼さんは何をするのかと言ったら、「公が認めたお寺の中で鎮護(ちんご)国家、国が全体として栄えますように、ということを祈るのが建前だ」と。「その祈りをしようと思ったら、身心が清らかであるべきだ。汚い人たちと接触しておったら汚れる」と。だから、それは一切禁止するんですね。そんなことを乗り越えてやりますから、物凄く圧力がかかる。あの人自身が凄い力をもっていましたから、最後まで弾圧仕切れなくて、それでもたもたしている間に、国としても「用水路を造ってくれるとか、池を造って貰うことがどれだけ有り難いか」ということが分かってくる。そこへいよいよ「東大寺の大仏さんを造ろう」ということの話が出てくる頃でして、大仏さんを造るのに、なかなか国が掛け声かけても、人々が動いてくれない。「行基に頼んだらいっぺんに出来るだろう」ということから、もう初めは散々叩いておいて、今度はお願いして、そして、ついには大僧正の位まで与えて、大事にするようになるんです。一番行基さんで象徴的だと思いますのは、布施屋なんです。布施屋は簡単に言うと、旅人を救済する施設です。今でこそあっちこっち旅行しますが、当時、そんなに旅人が旅するなんていうことはピンとこなかった。「一体どういうことだろう」と。そうしたら、何のことはない。都を造る、役所を造る。官大寺、官の造らす大きなお寺を造る。その時の凄い材料と人的資源が要るわけですね。これを全国に動員かけて呼び出すわけでしょう。このごろ発掘で出てくる木簡なんかでも、「どの国から何を貢いだ」というようなことがいっぱい書いてあります。そういうものをもって運んでくる人を、「運脚夫(うんきゃくふ)」というそうですね。それから、仕事をさせる人は「役人(えきにん)」と言うそうです。これを全国から集めてくる。不思議なことに、「来る途中で死んだ」という記録は殆どない。ということは、来る道中はやはりそれなりの手だてがあったんだろう、と。ところが帰りの人たちが途中で飢え死んでしまう。或いは、病気で倒れてしまう。だから、お国から詔(みことのり)として、「帰りのそういう人たちに食料を売れ」「囲うたらいかん。売り惜しみしてはいかん」というようなことを、お達ししていますね。ところが、そんなことを売れたって、一説では、ご褒美にお金をくれたそうですけれども、そのお金は都から出ますと通用しない、それで誰も売ってくれない。それを「ちょっとでも救おう」というので、街道の主なところに布施屋を作った。平安になりますと、国がそれを作らざるを得なくなった。だから、そういう意味で人々が「ほんとに凄い人だ」という。ところが考えてみたら、それだけのことをしようと思ったら、ちょっとしたお布施貰っているぐらいで出来る筈がないんですよ。そうすると、何がそれをさせたか。行基さんなんかに限らず、後の叡尊さんもそうですが、ああいう人たちがほんとにやっているということは、「みんなの生業(なりわい)が盛んになるように」ということで、「職業の指導」をしていますね。そして、有力な人たちに、「それに対して布施をすること」を説いて歩いていますね。それの根拠も、ちゃんと仏典に基(もと)からあるわけです。それをほんとに実践した人が、ああいう人だったなあ、と。行基さんが沢山の仕事をしたというのは、「どれだけそれを支えた人々が背後に、有力な人から、上の人まで含めて応援団がおったか」と。だから、菩薩はみんなそういう応援団をもっていますね。
 
有本:  「国家鎮護(ちんご)」ということで、奈良時代の仏教は一般市民の仏教では必ずしもなかった。その一般市民を味方に行基さんはする。だから、素晴らしい菩薩行が出来る。
 
佐伯:  そうなんですよ。だから、行基さん一人じゃないんですよ。その行基の仕事にほんとに惚れ込んで、手伝いに行ったたくさんの坊さんがおったと思います。それが、あっちこっちで活躍しますから。今なら、伝説的には日本中に、「行基が造った。行基がやった」という話がいっぱいあるわけです。だから、行基さんは一つのシンボルであったわけでしょう。凄い人だったと思いますね。
 
有本:  そういうふうに、「非常に一般市民から尊敬された」というか、「菩薩」と呼ばれるのも、権力が菩薩という名をおくるということじゃなくて、「人呼んで」という、
 
佐伯:  行基さんはまさに「人呼んで」ということが、『続日本紀(しょくにほんき)』に書いてございますね。
 
有本:  そうですね。「行基さんの後を嗣いで」というか、平安を挟んで鎌倉になりますと、叡尊さんと忍性さんということなんですが、やっぱりそのお二人方は、「行基さんの業績を受け継いだ」というか、
 
佐伯:  行基をほんとに慕っていましたね。忍性さんは、お母さんが文殊さんの信者さんであったこともあって、子供の時代から母に連れられて、行基さんの御廟(ごびょう)へしょっちゅうお詣りした、と。
 
有本:  そうですか。
 
佐伯:  それがむしろ文殊信仰なんかを、叡尊さんと奈良で広げた原動力になりますけれどもね。
 
有本:  その叡尊と忍性は十六ですか、お歳が違うのは。ほぼ同時代ということですが、このお二人方は行基さんと同じようなことをなさったと思うんですが、特徴的なことと言えば、叡尊さんは他にどんなことがございますか。
佐伯:  叡尊さんは大体「思索の人」ということで、「上求菩提」の方で、忍性さんは「下化衆生」の方を中心にやった。それが「車の両輪になった」というふうに言われておりますが、どちらも非常に行動なさっておりますね。叡尊さんで一つ象徴的なのは、晩年八十歳越してから、宇治川の橋を造っていますね。あれは大変なことなんです。それをやるに、もう歳で無理だと断っておったようですが、頼まれて、最後の力を振り絞ってやるんです。同時に、「そこを殺生禁断地にせよ」という条件を出すんですよ。ところが、漁師さんがそれに抵抗するわけですよ。そこでいろんなやり取りがあって、しかし、結局は説得してしまう。で、「殺生禁断地」にする。これは今でいう「保護区」ですよ。「いのちを大事にしよう」ということです。しかし、決してそれだけではなしに、お茶を作らせたんです。さらにそこで、流れを利用して晒しの仕事をさせた。その裏腹なんですね。だから、納得するわけでしょう。
 
有本:  成る程。生産性のあることを、
 
佐伯:  そう。興正菩薩・叡尊さんの場合は、西大寺を拠点にして、あっちこっちのお寺を新しく造ったり、再興したり、修理したりする。これも数相当なものでして、これは記録でハッキリ残されておりますけれども、興正菩薩のやったお寺というのは、少なくとも百以上建てているんです。もう一つの大きいな特色は、殺生禁断をあちこちでやらせていますね。その数が千三百五十六カ所記録されているんです。もう一つ凄いことは、戒律の復興で、自分自身が一番大変な受戒、戒を受ける、授かる。「自誓受戒(じせいじゅかい)」というのがございまして、これが戒律を受けるのに一番厳しいものなんです。人から受けるんではなしに、仏さんから直接受ける。大変な行があるんです。それを唐招提寺の覚盛(かくじょう)さんも含めて、四人で東大寺でやっているんですよ。それで、「自分が自信をもって、お釈迦さん以来の戒律をもって引き継いだ」と。その自信で以て、今度は弟子に授け、或いは、一般の人にも授けていくんです。この一般の人がやたらとたくさん戒を受けに来ていますね。結局、「僧俗合わせて、戒律を受けた」と記録に残されている人が、九万七千七百十人で、この殆どが一般の人なんです。専門家は限られていますからね。これは「一体どういうことか」と言いますと、当時戒律を授かるということは、仏の世界へ入れて貰うということで、人間として正式に認められる大事なことであって、普通の庶民はまずその窓口がなかったんです。だから、「ほんとの意味の戒律はみんなのためのものである」と、解放するわけですね。これをほんとに実践したことが叡尊さんの一つの大きな柱です。忍性さんも全くそれを引き継いで、当時の政治権力は鎌倉にいっているわけです。だから、関東へ布教に入るわけです。鎌倉へすぐに入れないので、筑波の山の麓から始まって、やがて鎌倉へ入った。極楽寺を拠点にして、これまた凄い仕事をしています。それをやりながら、今度は奈良でも引っ張られて、東大寺の大事な役をする。四天王寺さんのいわゆる別当、館長さんもする。もう新幹線もないのに、この東海道の往復を、何度もやっております。叡尊さんも頼まれて、とうとう最後に関東まで一遍出掛けております。そして、時の権力をもっている北条氏なんかに戒を授けた。しかも、そのお陰で、というので、西大寺に対して、大きな土地の寄進の申し出があるんですよ。これは最後まで突っぱねていますね。そのやり取りがいろいろ残っているんです。その時の断りの決め手となる曰くが振るっているんですよ。
 
     有縁(うえん)を厭(いと)い、無縁(むえん)を好む。
 
「どういうことか」と言ったら、その時に使っていた「有縁」というのは「権力とか、財力のある人と結び付くことを有縁」と言った。「無縁」というのは、「そういう人たちと繋がらない」。なぜそういうことを頑強にいうかと言ったら、うっかりそういうのと繋がっていたら、紐付きになるわけです。そうすると、「教団は崩壊する」という。「正しい教団は長持ちしないんだ」と。最後それが決め手になって、向こうも、それじゃ、と言って撤回するんですね。結局、「せめてこれだけさしてくれ」と言ったのが、「仏さんを作る時の材料ぐらいは出させてくれ」と。それは受けています。だから、ほんと凄い人だったなあと思いますね。それでまた忍性さんは、関東は鎌倉を中心にたくさん人が集まりますから、これまた大変な混沌とした時代だった。奈良時代に新しい国造りをしている。その時代の出発点で大変お金も要り、人も要り、ということで、布施屋の必要が出てきたわけです。今度はそれと同じことが、今まで皇族、貴族の権力が続いていたのが、護衛していた武士の時代になるわけですから、世の中の価値観が激変しますね。経済も大変動を起こす。だから、難民と呼ばれそうな人たちが、いっぱい鎌倉に集まるわけですよ。そこで倒れる人がたくさん出る。それで、布施屋に相応しい宿を造っていくんですね、「療病所を造った」というのが有名です。今でも極楽寺に製薬をした、薬を作った石の道具が残っております。病の人も飢えた人も救済する。同時に馬の病院まで作っているんです。当時、武士たちは馬で乗り回しているけれども、一つ怪我したり、病気になったら散々使っておいて殺したり捨てたりする。これも同じいのちじゃないか、と。だから、この動物のいのちを救う療病所を作った。もう面目躍如ですね。それは命を大事にするということから言いますと、興正菩薩・叡尊さんは蒙古の大軍が寄せて来た時に、敵国退散の祈願を国から頼まれて、たくさんの坊さんを集めてやっているんです。その時の願文(がんもん)がたまたま残っているんです。これを戦後に学者が見付けて、「大変な感動をした」という人がたくさんあったと言うんです。その時、祈っていた中味が、
 
     東の風をもって、來人(らいじん)を無傷で送り帰せ。
     帰った後で、その船が崩壊して、焼けてしまうように、
 
と書いて残してあるんですよ。「來人」というのは、やって来た敵の兵士ですね。
 
有本:  敵に塩をやるわけですね。
 
佐伯:  敵も身方も命は一緒だと。
 
有本:  そうですね。
 
佐伯:  だから、「いま、必要なのは、攻めて来よったから、それを元へ送り返したらいい」と。「東の風で送り返せ」と。ところがその後日談がありまして、「そんなに頼んだのに、自分の力が足りなかったから相手が死んだ。誠に残念である」とあるんですね。だから、菩薩というのは命の尊さ。それも人間だけではなしに、人間の敵、身方も含め、動物、植物も、すべての命。これが、「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」すべてのものに仏性(ぶっしょう)があるんだ、ということを、ほんとにみんなに見せるわけです。だから、あの当時というのは凄い時代であると同時に、凄い時代が凄い人を生み出すんだ、と。しかも、それがずうっと伝統的に繋がっておる、ということが分かりますね。
 
有本:  行基さんから始まりまして、叡尊、忍性と三人のお話を伺いますと、時代は多少違っていても、ほぼ根底に流れているものは一緒ですね。その根底が同じということは、三人の方々がやっぱり基盤にした多分何かがあるわけですね。
 
佐伯:  そう。それがね、ほんとの古い経典からずうっと続いて教えられている「福田(ふくでん)の思想」と言いまして、「六波羅蜜」の一番最初に出てくる「布施」が一番菩薩行の大事なものですけれども、布施の具体的なものを示しているわけですよ。大体、「立派な土に良い種さえ蒔けば、その種はたった一粒ささやかなものであっても、それが膨大なものになる。それがまた次の種になって無限に広がっていくんだ。だから、小さな善行(ぜんこう)も必ず大きくなるんだ」というのが「福田の思想」なんですね。その蒔く種が、福という。まさに、「幸せの田圃(たんぼ)というのはどういうものだ」と言ったら、昔は「仏法僧」なんですよ。「仏さんであり、その教えであり、それを実践する人々」。その三宝に種を撒くこと。それがだんだん拡大されていって、今度は自分の師匠、或いは、自分の親、そういう自分の目上に対する布施ですね。ところがそれの今度は逆が出てきまして、いまほんとに物を欲しい人、必要な人。これに布施しなければいかん。目上にするのは敬ってするというので、「敬田(きょうでん)」と言う。それから弱っている人苦しんでいる人たちにするのは慈悲の悲、「悲田(ひでん)」と言うんですね。ところが、大乗仏教になってくると、ウエートが悲田にかかってくるんです。まして、末法になると、「悲田こそ優れた田圃(たんぼ)である」と。そのことがずうっといろんなところに説かれている。ほんとに凄いことをやったなあと思うのは、六世紀の中国で、信行(しんぎょう)(五四0ー五九四)という人が中心になって、新しい教え、『三階教』(中国の僧信行がとなえた布施の行道)と言いまして、一階、二階、三階。一階は、「一番正しい釈迦の正法の時代」ですね。一乗の時代です。それから、「三乗の時代はちょっと形式化してしまった」という。そして、その次ぎに「末法」がくるわけですね。「末法は三階だ」というわけです。その三階の凡夫が「何をしなければいかんか」ということを教えるのが『三階教』だ、と。これを信行という人がやりました。丁度、その頃に、日本の平安時代に、「末法がきた」と言うている。五百年早いわけです。これ像法五百年計算するか、千年で計算するかで、二説あるわけですね。早い方を中国がとっているわけです。その時に信行さんがやったことがまた素晴らしいことです。まさに徹底しているんですよ。「自分以外のものすべて敬え。こんな時代になって、彼奴(あいつ)は良い、悪いなんて、正邪の判別をすることが間違っている。全部を敬わなければいかん」と。それの裏腹に、「自分自身は罪、過(あやま)ちが積み重なっているんだ、ということを自覚しなければならない。それは懺悔(さんげ)をすることによって、末法の人間が救われる可能性が出てくるんだ」という信念で広げていくわけですね。これは敦煌(とんこう)から出た中にあったということで、本にも出てきます、
 
     衆生ことごとく無始以来の宿債(しゅくさい)あり
 
衆生みな「無始」始まりの無いということで、大昔から。「宿債あり」積もり積もった罪があるのだ、と。これは、「人の一生の間に、善悪いろいろやりますね。 それを差し引きして、悪の方が多いのが決まってる。そうすると、それが精算出来ぬままに死んでしまう。その子がそれを受ける。継がなければいかんわけです。その受け継いだものがまたプラス、マイナスやって、また積もっていく。そういうのがもう大昔から積もり積もって、自分の中に背負うているという意識をせよ」という。だから、「それを払うための努力をしなきゃいかん」と。「そうでないと末法というのは全く救いがないのだ」と。「それを無くすには何をするか」ということですね。それが「布施」なんですよ。その布施を説く時に、「うまくいけば親や先祖の代の魂まで救われるよ」と言ってやったそうですね。その宿債の中味がその敦煌(とんこう)から出た中に、こういう面白いのが書いてあるんですね。宿債の溜まったやつの宿債の中味というのは、
 
     官に在りては法を曲げて財を蓄え
     商にありては人を誑(たぶら)かして利をむさぼり
     農にありてはもろもろの虫の命を殺し
 
と書いてあるんです。農でいえば一つの作物を作ろうと思ったら、いわゆる害虫雑草、そういうのを含めて、他の命を抑えんことにはそれが育ちませんね。それを積み上げてきているんじゃないか、と。最後に、
 
     工にありては仏物(ぶつもつ)を私し、
 
と書いてあるんです。工業の「工」ですね。細工するとか。「仏物というのは本来はみんなのものだ。自然にある材料を自分一人のものにして、それでものを作って、売り付けている。だから、人間は生きていこうと思ったら、必ずそうしてマイナス面が積み上がっていくんだ。だから、それは精算しなければいかん。精算の方法は何かと言ったら、苦しんでいる人たちに布施をすることだ。それで自分も救われるし、先祖もまた救われるんだ」と。これは行基も同じことだったと思うんです。これをやっぱり有力な人に説いて聞かしたために、大きな布施を受けられた。そして、その受けた布施が直ぐさまいま死にかかっている人を救ったとか、行き倒れの人を助けた、というところに、目の前で、それが活用されているわけです。橋を架けたとか、みんなのためになった、と。だから、そうなったら、人は金は出すんですね。布施はするんです。ところが、誑(たぶら)かして私しとか、法を曲げて財を蓄え、というようなことに使われると困るというので、みんなが金は出さないわけでしょう。その実践を自ら先頭に立ってやれる人、これが菩薩の定義なんですね。『三階教』の教えなんていうのは、まさに末法極まった時に、これしかない、と。ところが、それをやられることによって、ほんとの官は怒るわけですよ。とうとう唐の時代には潰されるんですね。丁度、『三階教』が興ってくる頃というのは、これは唐の時代がくる頃で、世の中が前向きに、今で言うバブルじゃないけど、凄い成長期なんですね。成長期は必ず乗り遅れが出てくるんですね。付いていけん人いきたくない人が出てくる。一部の人だけがずうっと上って、表面は華やかになるけれども、それに残された人たちが非常に身心ともにやられておる。それを救済するのが、自分の救いの根本(ねもと)ですよ、と。特に叡尊、忍性なんかが活躍した、その元になった文殊さんの信仰というのに、これは『文殊師利般(もんじゅしりほつ)涅槃経(ねはんきょう)』というのがございまして、
 
     もし人あって、仏を念じ、
     また供養して、福業を修めんとすれば、
     文殊は貧窮孤独苦悩の衆生に化身して、
     その行者の前に立つ。
     文殊に会いたくば、
     慈悲行をおこなえ。
     慈悲行ができれば文殊が眼前に現れる。
          (大意)
 
そこに出てくる文殊をほんとに信仰するなら、文殊さんが化身となって、行者の、衆生の前に現れてくれるんだ、と。「どんな姿で現れるか」と言ったら、「貧窮孤独苦悩の人となって」と。「貧しくて、行き詰まって、独りぼっちにされて、そして、本当に苦しんでいる人になって、文殊は出てくるんだ」と。だから、「文殊に供養することが自分に対する救いの供養なんだ」と。これは今でも言われていることですけども、ボランティアというのは、「本当に自分で喜んで好きでやらなければいかん」ということを言いますが、そのことなんですね。自分がやっている、供養させて貰う相手がいてくれるから、有り難い供養が出来て、自分が救われるのだ、と。だから、決して何か上の者が下の者に施しをするのとは、全く発想が違うんですね。させて貰うことが自分の救いだ、と。それがなければ、本当の意味の救済は成り立たないし、菩薩道というのは、それを歩む人の道であって、その教えというのが、「福田の教え。釈迦の原点だ」ということですね。
 
有本:  話を伺っておりますと、行基さん、叡尊さん、忍性さんにしても確かに出家をなさって菩薩道、菩薩行をなさった。でも、この古(いにしえ)の教えを待つまでもなく、現代人の我々も、例えば、我を捨てる、というふうなことから、何か菩薩道、菩薩行への一歩が踏み出せるような気がするんですが、
 
佐伯:  だから、「何をしたら良いか」というのは、この人たちがやったことを見たら、直ぐに分かるんですね。なかなか今の我々弱いですから、その実践に入れないので、モタモタしているわけです。本来、お寺なんというのは、お寺へさえ金を持っていけば、みんなそういういいところへ使うのだ、ということが分かっていれば、もっとみんなは力を合わせてくれると思いますね。それが出来ないから、これは我々の弱みでして、もたもたしていますけどもね。それよりやっぱりほんとにこんな酷い時代の救いは布施行よりない、と思うんですよ。もう一つ、それと平行して、一番古い菩薩である役小角(えんのおづぬ)行者さんがたまたま今年千三百年。そして、来年が叡尊さんの生誕八百年記念なんです。翌年が忍性の七百年御遠忌なんです。こんなにぐうっと集約してくるというのは、やっぱり今の時代の何か象徴的な、偶然ではない、重なりだと思うんですね。
 
有本:  確かに「自然と共生」とか、「地球に優しく」とか、いろんな言葉がありますが、まさに役行者を含め、今でいう環境学の実践者であった、と。
 
佐伯:  そうなんですよ。それはこの人たちがみんな大事にした『大日経』なんかの解釈本の中に出てくる不殺生戒の話で、
 
微細なるいのちも無造作にそれを排除したら、それがもとになっていのちの世界全体が崩壊する
 
と、ちゃんと書いてあるんです。だから、我々、もうちょっとそういうものを掘り起こして、いま自分が、「それでは何をするか」ということに結んでいかなければと思います。特に、来年は叡尊さんの八百年、その次は忍性さんのご遠忌七百年、こういう機会にこんなことを我々はもっともっと頑張って広めなければいけないな、と思うておるんです。
 
有本:  本当に素敵なお話を有り難うございました。
 
佐伯:  どうもどうも失礼致しました。
 
 
     これは、平成十二年三月十二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。