死と生と
 
                           東京大学名誉教授 脇 本(わきもと)  平 也(つねや)
1921年岡山県生まれ。1944年東京帝国大学文学部宗教学専攻、立教大学、東京大学、駒澤大学に歴任。現在東京大学名誉教授。著書に「評伝清澤満之」「死の比較宗教学」「宗教学入門」ほか。
                           き き て    金 光  寿 郎
 
金光:  今日は「死と生」との関係について、東京大学名誉教授で、宗教学がご専門の脇本平(つね)也(や)さんにお越し頂いております。
「死と生」という大きな問題でございますので、脇本先生の恩師であります岸本英夫(ひでお)先生の宗教学の研究と、それからその研究をなさっていた先生が晩年に癌の告知を受けられまして、で、十年間、癌と、それから死という問題に向き合って、非常に苦闘なさったわけですが、その辺の実際のお心の変化などを紹介しながら、この問題についてお話して頂きたいと思います。どうぞ宜しくお願い致します。
脇本:  よろしくお願い致します。
 
金光:  脇本先生が恩師である岸本先生にお会いになった最初は、いつ頃でございましょうか。
 
脇本:  私は東大の文学部に宗教学・宗教史学科という学科がございまして、そこへ入学したのが、昭和十七年、一九四二年の四月ですが、その時が先生との初対面ということになります。
 
金光:  昭和十六年に太平洋戦争が始まって、その次の年ですね。
 
脇本:  そうです。私が高等学校にいた頃、その前年の十二月八日に戦争が始まりました。我々はいずれ戦争に行かなければいけないということはもう見えていた時代だったんですけれども。
 
金光:  そういう時代で、岸本先生との、その当時のご関係で何か印象に残っているようなことがありましたら。
 
脇本:  はい。いろいろございますけれども、私は結局、昭和十七年四月に入学して、その当時は、大学はだんだん短縮で、卒業を早める卒業ってありましたですね。ですから、最初の一年生は半年で終わって二年生になりました。昭和十八年十月にはもう三年生になったわけです。その十八年に三年生になった時には、いわゆる学徒出陣というのが、その八月頃に決定しておりまして、私共は兵隊検査を受けて、いずれ兵隊にいくということで、陸軍とか海軍とかございますけれども、私は十二月十日に海軍に入るということが、
 
金光:  決まったわけですね。
 
脇本:  ええ。決まっておったわけです。その十月ですから、もう兵隊に行く直前。もうどうせ講義をゆっくり聴くということは出来ないということは分かっていたわけなんですが。
 
金光:  今映っていますね。その頃の写真でございますね。
 
脇本:  はい。そうです。これは昭和十八年の十月に新しい新入生が入って来まして、その新入生の研究室での顔合わせの後、安田講堂の前へ出て写した写真ですね。
 
金光:  一番前の立っていられる方が岸本先生ですか。
 
脇本:  そうです。岸本先生で、その当時はまだ大学では講師でいらっしゃったですね。
 
金光:  脇本先生もいらっしゃるんですか。
 
脇本:  私はその後ろから左へ二番目の、
 
金光:  座っていらっしゃる背広の方の後ろの方ですね。
 
脇本:  後ろです。ちょっと無精髭が生えていたかも知りませんが、これが私の兵隊行く直前です。この頃にもう講義を聴く機会はない。どうせ長くちゃんと聴けないけれども、まあ聴きおさめの最後の講義かなあというので、岸本先生の講義に出たんです。そうしたら、岸本先生が、「君たちの中にはこれから兵隊へ行く予定の人々が、かなりいるわけだけれども、その餞(はなむけ)の講義に「生と死の問題」それを宗教でどう扱うか」という、そういう宗教的な生死観(せいしかん)、岸本先生は仏教読みにすれば、生死(しょうじ)でしょうけれども、岸本先生は宗教学一般の立場からというので、「生死観(せいしかん)」とおっしゃっていましたが、その「宗教的な生死観に、類型として三つの類型がある」と。大体そういうお話をして下さったんですね。それが出掛けるに当たって、宗教的に死をどう受け止めるかという、その類型的な整理された見方ということでお話を伺いました。
 
金光:  では、その時は兵隊にいらっしゃる方は当然自分たちも死ぬかも知れんと。これは考えていられる。
 
脇本:  ええ。私どもはどうせ生きては帰れないかも知らない、ということは、みんなある程度覚悟はせざるを得なかった、という情況だったと思いますが。
 
金光:  先生の方もそういう前提でこういう話をしようとお考えになったんでございましょうね。
 
脇本:  そういうことですね。その当時の岸本先生は非常に御元気ですから、死に対する距離といいますか、それは聞いている出陣予定の学生の方がよっぽど死に近かったと思います。
 
金光:  その後、岸本先生が「生死観」というものを纏めて発表されているんですが、それはどういうことでございますか。
 
脇本:  それは講義の時は三つの類型を出されたんですが、私ども兵隊から帰りまして、戦後に先生が論文としてお書きになった。そこでは「生死観四態」という。四つの類型を出していらっしゃって、それが論文になっています。
 
 

   生死観四態
一、肉体的生命の存続を希求するもの
二、死後における生命の永存を信ずるもの
三、自己の生命を、それに代わる限りなき生命に托するもの
四、現実の生活の中に永遠の生命を感得するもの

 
 
金光:  まず、最初はどういうことなんでしょう。
 
脇本:  その生死観の四つの類型というのは、まず一つは、これも岸本先生の論文の要約になりますけれども、「肉体的生命の存続を希求するもの」、つまり肉体的な生命がそのままなんらかの形で続いていくということを希うということです。そういう宗教的な見方があるというんですね。それは、事例としては、道教で「神仙説」というのがあって、そこでは不老長寿の霊薬があって、その金丹を飲むと、肉体的にも不老長寿が得られると信じられている。或いは、その肉体の生命活動が一旦滅びても再び甦る。それでそのためにミイラとして肉体を保存しておくという古代エジプトの考え方とか、そういったやっぱり肉体に即して生命の存続を何らかの形で考えようとするような宗教思想です。
二番目には、「死んだ後、肉体とは違った生命が続いていくことを信じる」というタイプです。これは、いわゆる人間の身体には霊魂が宿っている。たとえ、身体は滅んでも霊魂は不滅である。そして、天国とか、極楽とか、来世に生まれ変わるという霊魂永続の思想です。
 
金光:  これは姿、形はいろいろあっても、現在でもそういうものは生きていますね。
 
脇本:  それはいろんなところに宗教思想として生きております。
三番目は、そういう霊魂という形ではなくて、「自分の生命を、その生命に代わる限りなきもの、無限なるもの、滅びざる生命に托する」という。そういう見方をなさっていますね。それは具体的な事例としては、例えば、芸術家にとっては作品がいわば永遠の生命をもつ。母親にとっては子供。これが自分の命を托することのできる、後々続いていく永遠の生命の代わりのものになる。或いは、自己が所属している民族、兵隊に出掛ける時、日本民族の為に、というふうな考え方がありましたが、それは民族であるとか、或いは、さらに広げて人類の歴史的な生命、そういうものに繋がるというふうに考える。これを第三番目の類型としています。
 
金光:  それには、自分の命をも托していいという、
 
脇本:  そうそう。自分の限りある命が、しかし、滅びざるものに受け継がれていくという。そういう形です。
もう一つ、最後には、何か外側に永遠に滅びざるものを目指しているものではなくて、自分自身の内側に眼を向けて、そして、自分が現在生きている現実の生命の一刻一刻のうちに、永遠の生命を実感する、体得する。そういう生き方を第四の類型として挙げていらっしゃるんです。これは岸本先生のご専門が宗教心理学というふうに、宗教体験とか、個人の内面とか、その辺に非常に重点をおいて、宗教を研究なさるという研究の立場もあったと思います。理想を描いて、その理想のために己を没頭して生きる。現在の一刻一刻の生活のうちに実は永遠なるものが宿っているということを実感していく。この体験の境地もまた生死観の一つとして、重要だとおっしゃっていたわけです。
 
金光:  宗教学がご専門だということですと、学というのは社会科学の一つとしての宗教学。ということは、客観的にそういう宗教現象としての生死観というものを見るという立場で、お纏めになったということになるわけですね。
 
脇本:  そうですね。岸本先生は、旧制の高等学校では理科にいらしゃった。大学に進む時も数学を専攻しようと思われた。最初はそう思ったけれども、「いざ、入学の時になって、宗教学に切り替えた」とおっしゃるんです。そういう意味で、かなり頭の傾向をしては理科的な頭をしていらっしゃったですね。そういうこともありまして、非常に合理的にものを考えていくという傾向の強い先生でした。そこで宗教を研究するに当たっても、非常に合理的に、経験科学的に宗教を研究する。ということは、つまり自分自身の信仰とか、自分のもっている宗教の立場とかいうものは、たとえあるにしても、暫く横に置いておいて、そして人間の生活現象として現れているさまざまな宗教現象、それは世界中には仏教があり、キリスト教があり、或いは、日本の神道があるというようにいろいろあるわけです。そういったさまざまな宗教を、いわば外側から客観的に観察して、それが人間の生活にとって、どういう意味をもつか、働きをもつか、ということを、いわば客観的に観察し記述する。そういう立場の学問が宗教学だ、ということをしきりに主張なさいました。若い頃からそういう姿勢で宗教の研究をなさっていたわけです。ですから、いまご紹介した宗教的な生死観というものに、どういうものがあるか、ということも、自分がその生死をどうとらえるか、という問題は暫く預けておいて、世界中の宗教を眺めて見ると、生とか死とかというものが、どのようにとらられているか。それを資料に基づいて整理して、タイプに分けてみる。それで、四つのタイプを出していらっしゃる。そういう研究をなさっていたわけですね。
 
金光:  その先生が晩年にご自分では予想もなさっていらっしゃらなかった癌に罹っていることを突然知らされたわけですね。それはどういう事情だったんでしょう。
 
脇本:  それは先生は若い頃、アメリカのハーバード大学に留学なさって、ハーバード大学で講義もなさったりしているんです。それで、アメリカとは非常に関係の深い先生です。ですから、戦後はアメリカからどんどん入ってくる新しい心理学とか、社会学とか、人類学という学問をどんどん吸収して、宗教を研究する学問の中にそういった人間の科学としての宗教学というものを打ち立てようと努力なさっていました。そういう業績がアメリカの方でも評価されておりました。そこで何回かアメリカへ行ったり来たりなさいます。昭和二十八年、一九五三年にスタンフォード大学の客員教授として招かれまして、スタンフォード大学で講義をなさるわけです。
 
金光:  その頃は単身赴任ですか。
 
脇本:  ええ。その時は、当時のことですから単身赴任です。それで宗教学関係の講義をいろいろなさっていらっしゃったんです。スタンフォード大学には医学部もあるんですが、それは昭和二十八年に出発なさる時に、「何か左頸部に何かグリグリのようなものが出来ちゃった」というようなことをおっしゃっていたんですね。それがだんだん大きくなって、卵ぐらいの大きさになった。それをスタンフォード大学の教授のお医者の先生が、「これはちょっと調べて診る必要があるぞ」ということでグリグリの摘出手術と検査をなさったんです。その時に、岸本先生自身はそれ程気にもかけない。まあなんかグリグリがあるなあ、ぐらいのつもりで、切開手術を受けたらしいです。その後数日経ってから傷口の抜糸のために、岸本先生は何気なく出て行った。軽い積もりでいたところが、医学部の先生が、手際よく抜糸をすました後で、なんか深刻な顔で、「これはちょっともう一度体の全体について精密調査を、再検査をしたい」と言われて、「再検査って、どういうことですか」と言ったら、「グリグリは単純な淋巴腺の腫脹ではなくて、増殖性のものだったので」といわれた。それまで暢気だった岸本先生も、それでハッとして、「増殖性というと、いわゆる癌ですか」というふうに聞いたら、「そうです。その疑いが充分なのです」という返答だった。これが私にとっての癌の宣告であった、と岸本先生はおっしゃっています。さらにお医者さんからは、「これは癌もかなり悪性のものであって、最悪の場合、このまま放置しておくと、あと半年の命」という話もあったそうです。
 
金光:  「半年」とハッキリ言われたんですか。
 
脇本:  いきなりそいういうふうに。その当時、日本ではまだ癌の告知というのは、あまりしない時代だったんです。アメリカではその時代から当人に告知する場合があったようです。それはお医者さんの方でもいろいろ考え、自分一人ではなくて周りの同僚とか、岸本先生をよく知っている人、宗教学関係の先生にも相談なさって、「岸本ならば、真っ直ぐ言って大丈夫だ」というふうに、お医者さんの方も思い定められたらしいというんですね。それで、「このままおいておくと、あと半年だ。だから、即刻手術しなければいけない」と。こういう「それが私にとっての癌の宣告であった」と。後で、先生は癌の宣告を受けた時を、そういうふうにおっしゃっていますね。
 
金光:  客観的にその生死観というのを研究なさっているのと、「自分が死ぬかも知れん」「お前は死ぬぞ」と。これは違いますね。
 
脇本:  しかも、「あと半年だ」と言われると、これはもうゴロッと違う。
 
金光:  それで、先生はどうなさったんですか。
 
脇本:  それで告知を受けた最初は寝耳に水で戸惑うような気持ちだったそうです。兎に角、こうしては居られない。講義の後の問題だとか、日本にある研究室関係、学会関係とか、いろいろ手術前に片付けておかなければいけないことがある。もし半年しかないんであったら、それ迄に片付けておかなければいけないというので、大変な勢いで同僚と一緒に走り回って準備なさった。昼間はこうして忙しく過ごし、夜になってから、一人だけで自分の部屋へ落ち着いて、そこで初めて、「おれの命はもうないかもしれない」という、それが真剣勝負の問題として、死が襲いかかってくるという体験をなさったようですね。これは先生が後で、その当時を回想なさって、述懐なさった文章が幾つかあるわけです。その中では、「ジッとしていられない。立っても居てもいられないような緊迫感であった。けれども、これではいけない。そこで強いて心を落ち着けて坐禅を組んだ」とおっしゃっている。岸本先生は先程宗教心理学ということを申しましたけれども、人間の一人一人の心の中の宗教体験、これを学問的に解明しよう、と。その体験というところでは、さまざまな宗教に修行があるわけです。その修行の体験というものを非常に重視なさって、岸本先生ご自身が学生時代から、坐禅を組んだり、或いは、山伏の修行をしたり、
 
金光:  いろいろな場で、ご自分も体験なさっていたんですか。
 
脇本:  そうです。坐禅の体験もずっと積んでいらっしゃった。そこで、落ち着かなければいけないというので、「坐禅を組んで、ジッと三十分位、坐禅を組むことが出来た。自分でも少し落ち着いたなというふうに考えた」。そういうふうなこともおっしゃっています。いよいよ死が自分自身の問題として迫った時には、他人の借り物の生死観では間尺に合わない。自分自身の体験の中で、身についたものとして生死観を鍛えるということが緊急に要請されてくる。そういう体験をなさるわけですね。以前元気なころに生死観を研究なさった背景には、勿論宗教的な生死(せいし)の問題について、主体的な関心があったからこそ現象としてのそういうものを類型的に整理研究なさっていたわけです。主体的な関心は、背景に置いておいて、知的に科学的に研究する。これが生死観の研究の姿勢だったわけです。ところが、今までやってきた客観的研究のままでは間尺に合わない。ここでは言ってみれば、逆転して、知的科学的関心は背景に退いて、主体的に死とどう向き合うかという、その主体的な関心が表に出てきて、死の問題と取り組むという姿勢になられたんだと思います。
 
金光:  それで、取り組んで、どうなったんでしょうか。
 
脇本:  先生はその過程を、その時その時に、随筆や論文のようなものに纏めて書き残されて発表されています。それが最終的には、『死を見つめる心』という遺稿集として、一冊の本に纏まったんです。そのいろいろな論文を眺めて見ますと、幾つか生死観の展開というものがあるように見受けられるように思います。まず、初めのうちは、死というものが自分自身の問題として間近に迫ってくる。その間近に迫って来る情況を、いわば言葉で表現すればどうなるかというところで、先生が思い付かれた言葉が、「生命飢餓(きが)」ということです。
 
金光:  食べ物の飢えじゃなくて、生命の飢餓、
 
脇本:  ええ。命に対して飢餓状態に陥るという。つまり、飢餓状態というのは、人間には誰しも生命への本能的な欲求というものがあるわけです。その生命の欲求というふうなものが遮断されて飢えてしまう。生命が喉が渇くように渇いてしまう。そういう情況の中で、どうこれを乗り越えるかということが問題になられるわけですね。
 
金光:  お腹の方だったら食べればいいんですけれども、生命の場合は満たしようが分かりませんね。
 
脇本:  そうそう。その生命飢餓という中には、割っていけば自分自身の個人的生命が飢餓であるだけではなくて、いろいろの問題が重なって出てきたようです。癌の大変な手術をなさって、一応成功して帰られるわけです。その後、コバルトの照射とか、大変な肉体的な苦痛が予後の先生に絶えず襲いかかってくる。そういう肉体的な苦痛、病苦がある。人によっては、「死ぬのはしょうがないけれど、病苦だけは」というような病の苦しみというのはあるわけです。そういう問題がある。それから、自分が死ぬということは、ただ自分が死ぬだけでは終わらないわけです。先生の立場からすれば、ご家族が、奥様もお子さまもおられる。その当時、ご長男は大学受験の浪人中で、次男の方が中学三年生位で、まだこれからという息子さんたちの将来をどうするかということが非常に心配の種になる。そういう情況の中で、どう生きるかという問題に取り組むことになるわけです。その過程の中で、先生があれを思い、これを思い、宗教学者ですから、さまざまな宗教経典や思想書の中で、生死観が、「生」と「死」がどうとらえられているか。随分読まれるわけですね。客観的に、知識としては豊かにあるわけです。それが自分自身の本当の身についた死の、いわば、覚悟というものになるためにはなかなか手間がかかるということなんでしょうか。
 
金光:  それはそうでしょうね。「浄土がある」と言われても、なかなか納得出来ないか ら。
 
脇本:  先生は、その研究の中で生死観の類型の一つとして挙げていたわけですが、「こういう時に、霊魂が不滅である、来世がある、というふうに信ずることが出来るならば、問題は解決だ。そういうことを信ずることが出来ればどれほど幸せだろうかと思った」と言われるんですね。
 
金光:  ということは、自分は信じられない、ということですか。
 
脇本:  自分は、「霊魂が不滅であるとか、或いは、死んだ後、極楽がある、というふうなことは、科学的な知性人としては、私には信ずることが出来ない」とおっしゃるわけです。先生は若い頃には、キリスト教系の家庭で育てられて、「若い頃は神を信じていた。しかし、ある時から奇蹟を行うような神だとか、或いは、肉体が滅んでも霊魂だけが天国に生き残るんだとか、そういった科学的な世界観に違背(いはい)することは信ずることは出来なくなった」とおっしゃるんです。そう言った意味での科学的な世界観を基本的な世界観としてお持ちになるわけです。ですから、そういう意味では、「霊魂とか、来世を信ずることは出来ない」と。それではどうするか、ということになるわけですね。
 
金光:  「それではどうなるか」というのが、余所から借りて来られないとなると、これは大変なことですね。
 
脇本:  まあいろいろな本を読んだり、考えたりなさっているうちに、思い付かれた一つのことは、「一生懸命で死というものと、何時死が襲ってくるか、という形で、死と取り組んでいるけれども、死そのものはなんらかの実体としてそこにあるわけではない。死というものがそこにあって、それに自分が対面している、というのではなくて、死というものは実体ではなくて、実体として私においてあるものは生だけである」。
 
金光:  その通りですね。
 
脇本:  「生きている。この生きているということだけが、現在、私の実体であって、その生をどう生きるかということが問題だ」と。「死に対してどう対応するかよりも、現在生きているこの生をどう生きるかということが現実の課題である」と。こういった、いわば、死は相手にすべき相手ではなくて、実体ではなくて、むしろ取り組むべき相手は生の方だ、実際に現に生きているこの生を如何に生きるか、ということだ、というふうな生命観に至られたらしいですね。
 
金光:  確か、それと同じ様なことで、例えば、「闇というものがあるんじゃなくて、光がないところが闇である」と。
 
脇本:  そうそう。そうですね。
 
金光:  そういうこともおっしゃる。確かにその通りで、闇というのは、光が射し込んだら無くなる。光がなければ闇もないわけです。見えるのは、確かに死が見えないのと同じで、生だけみれば、というところへまず行かれるわけですね。
 
脇本:  そこへ行かれるわけです。そこで先生が考えられたのは、「与えられた現在を如何によく生きるか」と。「よく生きる」ということを頻りにおっしゃいましたね。ですから、「与えられた生命、この一瞬一瞬、一刻一刻を如何に充実して、よく生きるか」ということをおっしゃられました。その頃から先生の生き方というのが非常に激しいものになって、私どもは大学院の学生とか、或いは、助手とかの立場で、弟子として先生に接していたわけですが、その弟子たちに接する先生の姿勢も、今までのように穏やかな、というよりも、非常に激しいもの、「脇本君、真剣勝負だよ」というふうに。まあ議論をするのも、づばりと切り込んでくるというふうな非常に激しい、
 
金光:  今、映っている写真の真ん中に座っていらっしゃる方が岸本先生ですか。
 
脇本:  そうです。これは昭和三十年頃、先生がお帰りになって間もない頃です。だから左の頬の辺りがちょっと膨れていると思いますが、手術の後がよく見れば。この頃に私どもも執筆者に入れていただいて、岸本・増谷両先生の編著で『人間と宗教』という本を書くことになりまして、その打ち合わせ会の時の写真ですね。
 
金光:  岸本先生のお隣が増谷文雄(ますたにふみお)先生ですね。
 
脇本:  そうです。
 
金光:  お二人の間の後ろにいらっしゃるのが脇本先生ですか。
 
脇本:  そうです。岸本先生と増谷先生は学生時代から非常に仲がよくて、この二人で計画を作られて、後ろにいる私とか柳川君とかが執筆者に加わった。
 
金光:  先生の向かって右側が柳川先生ですか。
 
脇本:  柳川啓一さん。それで『人間と宗教』という本を書きました。その頃の論文の打合会の時に非常に厳しい批判を受けるんです。その代わり我々も岸本先生に対して思うところをズバズバ言わないと、「何だ君は」というので叱られる。ですから、疑問点なんかズバズバと遠慮なくものを言う。すると、先生は喜んで下さる。そういう意味では、研究生活の上でも激しい生き方をなさるようになられます。それが、例えば、東大の教授会とか、或いは、学会というところでも現れてきまして、その当時の東大の教授会の他の先生方が、「円満だった岸本さんも、まるで手負い猪のようにえらい激しくなったね」というふうなことをおっしゃっていた方もあるらしいです。兎に角、ご自身でも、「がむしゃらに生きる」という言い方もなさっています。
 
金光:  がむしゃらに生きていらっしゃると、生命の飢餓状態がなくなった、ということじゃないんですね。
 
脇本:  じゃ、ないでしょうね。ある意味でいうと、がむしゃらに生きることによって、死の問題から逃避している、といった感じにもなりかねない。そういう場合があるかもしれないですが、ところが、岸本先生はがむしゃらに生きる、しかもよく生きるということを、一方では考えられる。それは、一瞬一瞬、一刻一刻を生きるというのは、禅の世界でも、武士道の世界でも言うことですし、先生もそういうものを自分自身身につけられていくわけです。それと同時に他方では、死というものは、要するに、「別れのとき」だと。死というものに対する意味づけですね。死をどういう意味で捉えるか、という死の意味付け。それがやがて岸本先生の心の中に芽生えてくる、ということがあったようですね。ですから、今までは、死というものは実体ではないから相手にしない、というのだったわけですが、そうじゃなくて、死というものを考えてみれば、これは要するに、「別れのとき」だ。我々人間が生きていくということは至るところで別れを経験する。
 
金光:  確かにそうですね。
 
脇本:  朝、家を、「行って来ます」と言って出る時には、家族とそこで別れる。二、三ヶ月位の旅行に出掛けるとすれば、ちゃんと荷物の準備をして、前の晩から用意をする。そういうふうに我々の人生というものは、ある意味では別れの連続だ、と。その別れのたんびに、我々は、その時その時に応じてちゃんと身も心も準備して、そして別れて発って行く。出発して行く。その別れの、いわば最大限のもの、最終的なもの、大規模なもの、それが死に過ぎない。そういう意味では、日常、平生(へいぜい)の別れというものも、ちゃんと準備をする。それと同じように、何時でも最後の別れが出来るという心の準備、身体の準備、仕事の準備をずっとしていけば、それでいいではないか、という。そういう死が別れである、というところに、死の意味付けを見いだされるわけですね。
 
金光:  ただ、旅行なんかですと、大体初めての所にしても、ある予備的なイメージみたいなものを作ることが出来るわけですが、死というのは見えない、分からないわけで、そうすると変な言い方になりますけれども、死の準備というのは、どういうところへ行くか分からないけれども、どこへ行ってもいいような準備を日頃からしておく。そんなことになるんでしょうか。
 
脇本:  そういうことです。行き先が問題ではなくて、別れること自体が問題である。この別れること自体というのは家族と別れる、友だちと別れる、いろんな人と別れる、或いは仕事と別れる、健康と別れるわけだけれども、その別れの準備を十分にして、心置きなく別れていけば、もうそれで良いだろう、と。まあそういうことになるわけですね。その先はどうなる、というようなことをどうしても言わなければいけないんだったら、別れた後はなにか宇宙の大生命とでもいうふうなものの中に溶け込んでいく、というふうな、先を考えるとすればその程度のことしか考えられない、と。
 
金光:  先のことを心配なさらなくていい、と。
 
脇本:  そういうことでございますね。それで、ですから、いつも別れることが出来るという形で準備をする。その準備をするということは、一瞬一瞬も、これが別れかも知れないと思って、自分に与えられた天職としての仕事に、全身全霊を打ち込んで仕事を果たしていく。こういう生き方とその別れということがコンビになって、岸本先生の最終的な生死観というものを形作ったんじゃないかと、私は思います。
 
金光:  そうしますと、一瞬一瞬の当面の仕事に打ち込んでいくということが、また生き甲斐と言いますか、
 
脇本:  そうなんです。
 
金光:  自分の、これをやれば、「ああ、やっている」という、そういう生き甲斐にも繋がるわけですね。
 
脇本:  そうですね。先生は若い頃から、アメリカとの関係は非常に強かったですから、終戦直後はいわゆるGHQ、アメリカの総司令部の宗教政策というふうなものにも相談に関わるとか、それから、国際宗教学会議とか、東西哲学者会議とか、いろんな国際的な会議があります。ユネスコ関係の仕事というのもあります。先生は外国との交流というのに非常に重要な責任を背負っていらっしゃった。それで手術を何回か繰り返しながら、
 
金光:  随分手術をなさっていますね。
 
脇本:  手術は三時間以上の大手術をなさった後、額とか、顎とかいったところにちょっとニキビのようなものが出来たりするんですね。それを取って調べてみると、皮膚癌だそうです。それでそれをえぐりとって、えぐりとった痕は、自分の太股から皮膚を取って、それをペタッと貼り付けて、というふうな手術を繰り返される。二十回近くも手術を繰り返された。
 
金光:  その間にお出掛けになるわけですか。
 
脇本:  ええ。その間に、声がかかれば嫌とは言わない、と言いますか、それが自分の使命だというふうに、使命感があって、それでヨーロッパも、アメリカもずっといろいろ廻って講演をなさいましたね。それから、国内的には、大学の研究室の主任、学部の評議員として、文学部の中では務められると同時に、全学的に東大の図書館長をなさる。私どもは、「先生、病気なのに図書館長という仕事で無理をなさらない方がいいんじゃないですか」ということを申し上げたことがあるんです。しかし、先生は、「いや、それは自分に与えられた使命だ」と受け止められて、それで東大の図書館長をやられた。この図書館長も判子を押していれば済むという、そういう図書館長もあるわけですが、仕事をする以上はちゃんとするというので、外国の図書館なんかもずっと視察して、それで、図書館のあるべき姿をイメージとして描かれた。これまでの日本における大学の図書館というのは、書物をただ溜めて置くだけである。活用する為にはどんどん貸し出しをする。そのためには誰でもすぐ手にとって見ることが出来る開架式にする。その当時の図書館というのは、本は書庫にあって、カードを書いて、書庫から出してきて貰って読む、というふうだったんです。そうじゃなくて、ダアッと開架にして、学生が自由に読めるようにする。
 
金光:  今のいろいろなところの図書館は、大体表に出ていますけれど、その走りですか。
 
脇本:  そういう大学の図書館のあり方というものを理想として描かれて、大学図書館の大改革をする。その為には建築から始める必要があるというので、内部の改装の仕事もなさるわけですね。ですから、岸本先生は本当に無私な方だったというふうに、文学部の教授会の先生方はおっしゃいますが、本当に自分の為ということは全くなくて、与えられた使命としての仕事、どうすればよりよくその仕事が果たせるか、ということだけを一所懸命に考えて仕事をこなしていらっしゃるんですね。その一方で、別れの準備もなさる。ですから、先生は亡くなられた後も、遺言状もちゃんと出来ていたようです。それから、自分の葬儀の仕方も日記のようなものの中にちゃんと書かれていたようです。準備万端、何時死んでもいいという準備を、物心両面においてなさるわけですね。それと同時に他方では、目前の仕事を如何によりよく成就するかということに専念する。そういう生き方を貫いていかれるようになるわけです。
 
金光:  それだけいろんな仕事に集中されたり、そうしている間に月日が経つわけですが、最初の、どうにもしようがない飢餓状態みたいなもの、いつも死のことを考えていたような情況からは、だんだんそれだけ仕事に熱中されると、その辺変わってきますでしょうね。
 
脇本:  そのようでして、癌になって、一番最初の大手術というのは三時間以上かかったということですが、その癌の原発というのは、左のこめかみに生来の大豆大の黒いアザがあって、ここに悪性のメラノーム(黒色腫(こくしょくしゅ))ができた。それがずうっとリンパ腺にきて、卵大に腫れていたわけです。その黒色腫(こくしょくしゅ)をずうっとリンパ腺を追って、左肩から乳の上まで、生きるに必要な最小限のものを残して、リンパ腺も筋肉も取れるものは全部取っちゃうという手術をなさるわけです。それが大成功だったというのです。暫くは、後、コバルトの照射なんか予後の治療はありましたけれども、暫く安定しておりました。四年経ったところで、ポツッといぼのようなものが出来て、それを調べてみたら、やはり癌の細胞があるというので、先程言いました手術を二十回近くというふうに聞いておりますが、太股から自分の皮膚を取っては貼り付けるという移植手術をなさっていた。先生は、「僕の太股はまるで切られの与三郎だよ」というふうにおっしゃっていました。そういう手術を繰り返される間に、癌の傷跡やいぼのことが気になって、それで懐中鏡をいつも懐に持っていらっしゃって、それで写してはどうなったかと、癌のことを気になさっていたわけですね。それがある時、「懐中鏡で癌を見るということを忘れている自分にふと気がついた」とおしゃっるようになるんです。それはそういう癌の手術や皮膚移植などを繰り返しなさってきて、最後の一年位のころのことです。癌というのは、胃癌なんかでもそうですが、まあ五年経って再発しなければ大丈夫と世間ではいう。岸本先生も五年位経ったところで、周りの方も、もうボツボツいいんだ、というふうな雰囲気もあったようです。それが、まあそうもいかなかったらしいんですが、亡くなられる前の一年ちょっと位前の時に、黒色腫の世界的権威といわれるハーバード大学の有名な先生に徹底的に調べて頂いたところ、「岸本さん、あなたは非常に癌の患者としては幸せだった。この癌は治らない。治らないけれども、この癌ではなかなか死なない」。そういうことをおっしゃったらしいです。そういう話もあって、そういうことから安心してだんだん仕事に熱中していく。この過程の中で、ある時、ふと気が付いたら、懐中の鏡を忘れているということに気が付いた、ということです。そのことが文章として書き残されたところがあるので、ちょっとその辺りを、私が用意してきましたので一部分読んでみたいと思います。それは、
 
     癌にかかって以来、私は、いつでも、懐中鏡をポケットに入れていた。
     癌の患部が気になって、一日のうちに、何回か鏡をみずにはいられなかったからである。
     その鏡を使うことを忘れている自分に、気がついたのであった。
     私の癌に対するたたかいはながい。もう九年になる。
 
つまり、一九五四年に癌が始まって、それからもう九年になるという。ですから、これは一九六三年、昭和三十八年の二月二十日の日付で朝日新聞に載った文章なんです。その時に、九年になって、鏡を使うのを忘れていた。そういう癌の問題を忘れるといういわば生死忘却の境地にいらっしゃったわけですね。また、
 
     癌の病状はそのままでありながら、死の恐怖の影が私の心から消えた。
     私はいつの間にか、もう一度、平常心(へいじょうしん)をとりもどしていたのであった。
 
禅の方で「平常心是道」という、仏教読みにすると平常心(びょうじょうしん) ですが、そういうものをいつの間にか取り戻していた。
 
     数日前にも手術をうけた。
     左額にあらわれているメラノームの数粒をとり除くためである。
 
この時も決して癌が完全に消えたわけではなくて、左の額にメラノームがニキビのようなもので出来ている。それを取り除くために、数日前に手術を受けた。
 
     しかし、私の心は、今少しも、癌の恐れにおののいてはいない。
     私はゆたかな気持で、これから命のある限りしなければならない自分の仕事を考えて、
     明るい希望にあふれている
 
つまり、命のある限りしなければならない自分の仕事。それを考えて、明るい希望に溢れている、と。これが昭和三十八年、一九六三年二月二十日に朝日新聞に発表された文章の結びの言葉です。そして、昭和六十三年十一月に、図書館の大改革というのが一応完成するんです。建物内部の改装が終わって、それで開架図書室というものが出来て、自由にどんどん本を読むことが出来るという、そういう形の大改革が終わって、それで図書館の館長として、記念の式典を行うんです。その式典の挨拶を昭和六十三年十一月になさるわけです。今の文章は二月ですから、その十一月に挨拶をなさる。この挨拶が非常に良かったというふうに、みなさんおっしゃっています。こうして図書館長としての責任を果たしたという、その安心感というふうなものが、或いはマイナスに作用したのかも知れないと思いますが、その図書館の開館式が終わった後、間もなく床に就かれて、再び立つことが出来なくなる。そして、明くる年の一九六四年、昭和三十九年一月二十五日にとうとう永眠される。そういうことですね。
 
金光:  私が昭和三十六年に、東京へ転勤した時から亡くなられるまで、いろんなご指導を頂いたんです。最初、お会いした時が昭和三十六年ですから、癌の手術をなさって、随分経っているんですけれども、全く最初知らなかったんですよ。
 
脇本:  そうですか。
 
金光:  非常に明るくて、先程から伺っているような死との苦闘をされた方なんていう面影も何にもない。
 
脇本:  それは苦闘の真っ最中でもそうだったらしいですね。外に対しては激しくなったという印象はありましたけれども、暗くなったという印象はない。もともとユーモアに富まれた先生で、人を笑わせる。「英語の演説をして、外国人を笑わせることが出来るというのは、岸本先生くらいだ」というふうに言われるくらい、日本語でも英語でもユーモラスな話をなさるというところが多かったんですね。ですから、ご家族の方々が後で述懐なさっているところを聞くと、「家の中には闘病生活などという雰囲気は全然なかった。いつ死ぬか分からないというような状況の中で、非常に面白い、ユーモアに満ちたお話をなさった」と。息子さんがおっしゃっていますけれども、「僕は父のユーモラスな話に、笑いながら泣き、泣きながら笑った」と、そういう述懐をなさっています。
 
金光:  お終いの方は、「癌のおかげで」ということをおっしゃったり、
 
脇本:  そうそう。
 
金光:  死が恐ろしい、というよりも、「死が親しい」「親しみ易い」というようなこともおっしゃっていますね。
 
脇本:  そうそう。自分は癌にならなかったら、これだけ深く人生を生きることは出来なかったんじゃないか、ということもお考えになったようです。死というものは恐ろしいものではなくて、むしろ親しみ易い、出逢うことの出来るものである。そう思えるようになったのは癌のお陰である。先生は、時々、「肚が据わる」とか、「生活に筋が一本通る」という表現もなさっていましたが、癌のお陰で自分の人生に一本筋が通った、というふうな感想を持たれたようですね。
 
金光:  そういうところでおっしゃっているのは、死の先の表現、先程もおっしゃいましたけれども、「永遠の休息」と。「宇宙の霊の中に入って、永遠の休息状態に入る、ということだろう」というようなことを漠然と感じていらっしゃった。
 
脇本:  そうらしいですね。岸本先生は癌に罹られるそれ以前から、宗教を客観的に研究なさると同時に、自分自身に親しみ易い宗教思想というのはあったわけです。それは大体からいうと、ユニテリアン系統ですね。ですから、非常に合理主義的な世界観と合致する。そういう意味でのヒューマニズムの宗教というふうなものが、岸本先生には親しみ易い宗教思想だったと思われます。ですから、研究の過程でも、「現在の宗教的な生死観の中には、死後は宇宙の大生命の中にとけこんで一致する、というふうな考え方が、最近の新しい動向として出てきている」ということを、健康なころの論文「生死観四態」でもおっしゃっています。
 
金光:  それを自分も身体で感じられるということでございましょうね。どうも有り難うございました。
 
脇本:  どうも有り難うございました。
 
 
     これは、平成十二年二月六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。