仏法探求ー玉城康四郎(たまきこうしろう)の世界ー
 
                            東京大学教授 木 村  清 孝(きよたか)
                            観音寺住職  田 原  亮 演(りょうえん)
                            き き て  金 光  寿 郎
 
金光:  今日は、「仏教探求ー玉城康四郎の世界」ということで、昨年 亡くなられました東京大学で仏教学を教えておられました玉城康四郎先生の探求された世界について、ご一緒に考えて参りたいと思います。玉城先生は大正四年、一九一五年のお生まれで、東京大学で仏教学を長い間研究し、講義しておられましたが、一方では学問的な研究と同時に、日常生活の中で厳しい坐禅の修行、禅定の修行を積まれまして、実践と学問的な探求の両方を突き詰めてこられた方でございます。これからお二人の方にお出で頂いておりますので、この玉城康四郎先生の世界をお話頂きたいと思います。お一人は玉城康四郎先生の講座の後を受けていらっしゃいます東京大学教授の木村清孝さんでございます。木村先生は玉城先生の講座の後を受けて、仏教学全般、禅とか、浄土とか、いろんな仏教学の講座を持って教えていらっしゃる方でございます。玉城先生の教えを長く受けてお出でになったので、学問的な面からのお話をお伺い出来るかと思います。もうお一方(ひとかた)は観音寺の住職をなさっております田原亮演さんでございます。田原さんは真言の「求聞持法(ぐもんじほう)」とか、「八千枚の護摩(ごま)の行(ぎょう)」なんか、難行を続けていらっしゃる方でございますけれども、その途中で玉城先生のご著書を通じて、玉城先生と求道の上でのいろんなお話し合いをされて、現在まできている方でございます。どうぞよろしくお願い致します。
 
木村: 田原: よろしくお願い致します。
 
金光:  ということで、お二人に学問的な面からと実践的な面からお伺いするわけですが、木村先生の場合は、玉城先生とはどういう形でお会いになったんでございましょうか。
 
木村:  私は大学へ入りましたのが、昭和三十四年でございます。東京へ出てきたわけでございますが、父が以前から参禅をしておりましたご老師に、安谷白雲(やすたにはくうん)老師(明治一八ー昭和四八)という方がいらっしゃいます。私も大学へ入った後、そのご老師のところへご挨拶に伺ったわけであります。そして、暫くご一緒に私も師に付いて参禅をするというようなことをしておりました。実は、玉城先生は、その頃主に禅の修行を通して仏道を深めるということをしておられまして、丁度、安谷老師に付かれた頃でございました。そんなことで確か昭和三十五年頃だったと思いますが、安谷老師の参禅道場で先生とお会いしたというのが初めてでございます。
 
金光:  じゃ、その時はたまたま同じ所でお坐りになったというようなご関係で、別に教えを請われるとか、そういうことではないわけですね。
 
木村:  私自身、学問的な関わりが最初ではないということでございます。その後、昭和三十八年に東京大学の大学院に入りました。以来、今度は主に学問を通して先生の教えを受けるということになったわけでございます。私はそれまでは本格的に仏教の勉強は何もしておりませんでして、先生の指導を受けて、華厳(けごん)思想というものの勉強から入ったわけでございます。そんなことで、昭和四十六年位まで大学院に在籍しましたけども、その間、玉城先生を指導教官として勉強を続けた、という経緯がございます。先生には学問の上だけでなく、いろいろプライベートな面でも実はお世話になっておりまして、昭和四十六年に私は結婚致しましたが、その時のお仲人を、実は先生にお願いを致しました。
 
金光:  そうですか。
 
木村:  わざわざ郷里の函館までお見え頂いたんですが、その時に記念に頂きました色紙がございます。「白道自然(びゃくどうじねん)」という言葉をその時に頂きました。後ほどお話が出てくるかと思いますが、私自身の一つの生きる上での指針となった言葉でございます。その後(ご)、先生の後任ということで、東京大学にお世話になることになりまして、今日に至っているわけでございます。特にその間では、平成元年でございましたけれども、「ブッダの世界」というタイトルで、先生のお話の相手役をさせて頂いた。同じ「こころの時代」でお付き合いをさせて頂きました。
 
金光:  確か一年間、
 
木村:  はい。一年間でございまして、なかなか私に取りましては大変勉強になったことでございました。
 
金光:  田原さんの方は玉城先生とはどういうご関係、初めはどういうことであったんでございますか。
 
田原:  昭和五十五年五月なんですけど、宮島の弥山(みせん)で一ヶ月ほど断食をしたり、或いは、瞑想とか、回峰(かいほう)、或いは、密教の修法ということを行(ぎょう)ずるために籠(こ)もる予定にしておりました。山に入る二、三日前に本屋へ行きまして、玉城先生のお書きになった、『白象(びゃくぞう)の普賢(ふげん)』という本に接することが出来ました。ペラペラとページを開きますと、何か非常に期待感のようなものがありまして、そのまま山へ持って入りまして、お堂に入る合間、或いは、行(ぎょう)の合間に貪(むさぼ)るように読んだわけなんです。その時、私は自分が求めているものが此処に書かれてあるということで、また、何か懐かしさというようなものを感じました。「是非、行(ぎょう)が終わったら先生にお会いしなければいけない」という思いになりまして、七月に玉城先生のご自宅にお伺い致しました。その時に幾つかの疑問点がありまして、その疑問点を問いただしたわけなんです。宗教的境地の深さから出た慈愛ある言葉と、それから、該博(がいはく)な知識に驚きまして、一気に疑問が解決したんです。その一つに、私は今まで先生にお伺いする前に、真言の行である「求聞持法」というのを二度、それから、「八千枚護摩(ごま)」というのを三度行じていたわけなんですけど、どうしても境地を深める中において、何かどす黒い壁のようなものを感じておりまして、「この壁は一体何だろう」ということで、先生にお伺いしました。そうしますと、先生は、「それは業である」と言われました。その時に、また、教わったのが、これはその後、ずうっと私にも取り組んだ問題なんですけど、「ダンマが顕(あら)わになる」という言葉を、初めてその時にお聞きしました。初めての言葉ですので、全く理解出来なかったんですけど、その時に、先生にお会いしていろいろお話を伺った時に、非常に何か不思議と先生に対して懐かしさを感じました。このことが縁になりまして、年に二、三回必ずお伺いして、いろいろ指導を受けました。それがお亡くなりになるまで、十八年間ちょっと続いたということです。
 
金光:  いま、さらっと「求聞持法」とか、「八千枚護摩の行」とおっしゃいましたけれども、ご存知でない方もお出でかと思いますので、ごく簡単で結構なんですが、「求聞持法」というのはどういう修行なんでございますか。
 
田原:  これは虚空蔵菩薩のご真言をお唱えします。
 
金光:  例えば、どういうふうな、
 
田原:  「ノウボ アキャシャ キャラバヤ オン アリ キャマリ ボリ ソワカ」という非常に長いご真言なんです。これを限られた日数、例えば、五十日間であるとか、百日間であるとか、その間に百万遍お唱えする。勿論、行ですから、それをお唱えするだけではなしに、様々な行法があるわけなんです。それをこなしながらということです。
 
金光:  百万遍ですか。それから、「八千枚護摩」の方はどういう、
 
田原:  「八千枚の護摩」、これは不動明王(ふどうみょうおう)を本尊とした護摩行でして、正行(しょうぎょう)という、一週間の間にこれは食事制限も勿論ありまして、穀物を絶った、いわゆる菜食ですね、野菜だけで一週間行います。この間に不動明王のご真言、「ナウマク サンマンダバザラダン センダ マカロシャダ ソハタヤ ウン タラタ カン マン」という、これを護摩を焚きながら十万遍一週間にお唱えしまして、そのあと、断食を一昼夜します。八千本のことですけど、八千枚と言っています。同じことなんです。その護摩行を炊き続けるという行が八千枚護摩行です。
 
金光:  その行は二回なり、三回なさった後で、その時感じられた疑問を玉城先生にお尋ねする。それからまたそれを続けて、だんだんそれが氷解したというか、納得出来た、ということでございますか。また、後ほどその内容は後ほどお伺いすると致しまして、その玉城先生ご自身の歩みを、木村先生は長くお付き合いなんですが、ちょっとご紹介頂けませんでしょうか。
 
木村:  そうでございますね。先生は浄土真宗の大変熱心なご家庭にお生まれになりました。もともと大変求道(ぐどう)的なお気持ちを強くお持ちだったようでございますけれども、それが本格的に動き出して参りますのは、昭和十一年に東京大学の、私どもの現在の研究室でございますが、その頃には、「印度(インド)哲学梵文(ぼんぶん)学科」と申しました。この学科にお入りになって以後であろうかと思います。この大学学部の学生として、その後さらに大学院に進まれるわけでございますけれども、その間に先生は実はお二人の師に出会っておられます。お一人は禅の方の師でございまして、奥野源太郎(げんたろう)先生と申します。大変裂帛(れっぱく)の気合いをお持ちの先生だったようで、玉城先生はぐんぐんその先生に引き込まれていく。そして、自らの禅定(ぜんじょう)体験を深めるということをなさったようでございます。一方もう一人、在俗の浄土真宗系の、いわゆる妙好人(みょうこうにん)と申しましょうか、そういう方だと申し上げていいかと思いますけれども、足利浄円(あしかがじょうえん)という先生に出会っておられまして、この先生からもいろいろな教えを受けられた。これは大変興味深いことなんでございますけれども、自分が道を求めて、いろんな疑問が出てくる。それをいろいろ整理しておいて、足利先生は京都にお住まいでございましたので、京都まで伺う。「これもお聞きしよう」「あれもお聞きしよう」と、まあ、いろいろ考えて伺うんだけれども、先生に、「お茶をどうぞ」と言われ、二言、三言話をしているうちに、「疑問そのものが全部解けてしまう、無くなってしまった」というふうに先生はおっしゃっておらるんですね。ほんとに足利先生という方は全部人々の迷い、或いは、疑いと言いましょうか、そういう心を吸い取ってしまわれる。大きく溶かし込んでしまわれるようなところがおありだったんだろうなあと、私は想像しております。そういうお二人の先生に出会われまして、その後でございますけれども、多分、これは大学院に進んで直ぐであったかと思いますが、「昭和十六年の二月」と先生はお書きになっていらっしゃいますけれども、ある種の深い宗教体験をなさるわけでございます。ご自分は「爆発」という言葉でこれを表現しておられます。ある映画を観て、その後、大学へ戻られ、図書館で『十地経(じゅうじきょう)』という華厳系の大変大事な大乗の経典でございますが、その「歓喜地(かんぎじ)」という部分を見るともなく、ご覧になっていた時に、この「爆発」、或いは、「大爆発が起こった」とおっしゃいます。初めての大変深い体験だったろうと思うんです。ところが、それが暫く経ちますと、先生ご自身が述懐しておられるわけですけれども、「全く元の木阿弥(もくあみ)に自分が戻ってしまった」ということをおっしゃっておるんですね。そんなことから、更にいわば道を究めていかなければいけない。探求していかなければいけないという、そういうお気持ちを強めていらしたんではないか。そのように思います。それがいわば先生の前半生と言いましょうか、最初の一つの節目になろうかと思うんです。その後、戦争がありまして、先生も応召されて戦地にも伺っておられますが、その時に、先生はいわゆる小さな部隊の責任者になられる。その時にも、「坐禅をなさった。そのうち、部下の人たちもボツボツ坐禅をするようになった」ということも書いておられますね。そんなことがあって、戦後、もう一度大学で勉強しようということで、東京へ出て来られるわけでございます。出て来られまして、間もなく東洋大学の講師として迎えられ、その後、更に東京大学に移られるということであったようです。この大学で教えるようになられてから、先生は特に哲学的な面では「比較哲学」と申しましょうか、大変広い視野で仏教の問題を考えていくということを、この頃から本格的に進めておられるような気がします。しかし、それも単にいわゆる「思索」と申しましょうか、「思弁」と申しますか、そういう形で頭の中で、いわば哲学を考えるという態度ではなくて、常に自分自身の禅定体験を深めながら、この問題をとらえていこうと、こういう形で哲学的な研究をする。だから、いわば主体的な取り組みと申しましょうか、そんな形で比較哲学的な研究を進めていかれたようでございます。こうして東京大学で、私自身が受けました講義の中でも、いつも先生が取り上げられますテキストもさまざまでございまして、狭い意味での専門というのが、あるのか無いのか、分からないような形でいろんなテキストをご一緒に読ませて頂いた。そういう記憶がございます。そういう中で先生が仏道、仏法の探求という上で、一種の決定的な教えに出合われるわけです。
 
金光:  それは何でしょうか。
 
木村:  それが『ウダーナ』と申しますが、原始経典、古い時代の釈尊の教えをそのまま伝えている、と言われております経典文がございます。その一つに『ウダーナ』というのがございます。その『ウダーナ』を読まれている時に、「三つの詩」という、釈尊ご自身が「一つの」と申しますか、玉城先生は「根本的な」と、おとらえになるわけですけれども、「縁起の観察と関わる形で、釈尊ご自身の根本的な宗教体験を語っている」と受け止められたものでございます。
 
金光:  お悟りの時の、俗には、「宵の明星を見て、お悟りになった。その時の心境を述べられた」という詩でございますね。
 
木村:  そうですね。
 
金光:  ちょっとそれをご紹介頂けますでしょうか。
 
木村:  紹介をさせて頂きましょう。
 








 

ウダーナの三つの詩

 夕暮れの詩

  実にダンマ(法)が熱心に禅定に入っている修行者に顕(あら)わになるとき、
  そのとき一切の疑惑は消滅する。
  というのは縁の理法を知っているから

 
 
金光:  これは夕暮れの時に、こういうことをお感じになったということですね。
 
木村:  そうでございますね。ずうっと通して深く禅定を深めていかれているわけですが、
 
金光:  時間が経って、夜中になって、次の「夜中の詩」と。そういうことでございますか。
 
木村:  その時の心境を、これは勿論あとで反省して詠われるわけですが。「夜中の詩」、前半は同じでございます。後半を読みますと、
 





 

 夜中の詩

  ・・・・・。というのは
  もろもろの縁の消滅を知ったのであるから

 
 
そして、明け方になって、最終的に、いわばお悟りが確定したと申しましょうか、これでいいんだ、と。おそらく心境をお述べになっていられるでしょうが、前半はやはり同じでございまして、後半にこのようにございます。
 





 

 明け方の詩

  ・・・・・。あたかも
  太陽が虚空を照らすように、悪魔の軍隊を粉砕して安(やす)らっている。

 
 
こういう詩でございます。先生はこの詩に、いわば「仏教の原点」と申しますか、「それがすべて凝縮している」と、そのように受け止められたわけでございます。この詩の翻訳に関しましては、別な理解の仕方もございますが、先生はこの「ダンマ」というもの、「ダンマと私どもとの根元的な関わり」と申しますか、「それをここで見られた」と申し上げてよろしいのではないかと思います。
 
金光:  晩年はずうっとよく「ダンマ」とか、さっきおっしゃった「ブッダの世界」のお話の時にも、「ダンマ」という言葉をよく使っていらっしゃったようですね。
 
木村:  先生のお使いになる「ダンマ」というのは、「原点がここにある」と、そのように理解させて頂いております。これは東京大学の時代に出合われた教えでございますけども、その後、先生は定年を迎えられて、東北大学に移られます。三年間、東北大学で教鞭を執られたわけでありますけれども、この時にもう一つ、実は先生の宗教世界を、私どもが伺う上で大変大事な教えに出合われております。それが「業異熟(ごういじゅく)」という問題でございまして、
 
金光:  「業」は普通の「業」ですね。「異熟」というのは「異なる」という字に、「熟する」ですか。
 
木村:  「熟する」ですね。「カンマ・ヴィパーカ」という言葉の、これは漢訳語なんでございます。「業がいわば成熟して」と申しましょうか、「私ども自身のあり方、私ども自身の存在をそこに凝縮している」と言いましょうか、そういう意味でございます。これを先生は、「業異熟」というのはどうも馴染まないということで、後に、「業熟体(ごうじゅくたい)」という言葉に替えられるわけでございます。
 
金光:  「業が熟した体」と。「我々は業が熟した体である」と。
 
木村:  「私自身が業が熟した体なんだ」と。「業そのものの体なのだ」と。このような意味でお使いになっておられます。先生はある意味で大変言葉について、鋭い感覚をお持ちでございまして、幾つも新しい言葉を創っておられますが、「業熟体」もその一つでございます。そんな経験を東北大学でなさっていらっしゃるわけでございます。そして、更に東北大学が定年になった後、先生は日本大学に移られますけれども、その日本大学に移られる時に、ブッダの禅定、ブッダはある経典の中で、「三ヶ月に渡って、ずうっと禅定を続けられた」というお話がございますが、そこまでは自分はとても出来ないけれども、ということで先生は三週間に限定される。「三週間」と言っても大変長い期間でございますが、三週間に期間を限られまして、「入出息念定(にっしっそくねんじょう)」と申しますけれども、いわば、「入る息、出る息にすべて心を集中して、いわば、呼吸そのものになりきっていく」と言いましょうか、そういう中で「心を静める」。そういう一つの「禅定のあり方。禅定の行」を指すわけでございますけれども、これを三週間に亘って続けられた、ということでございます。こういう形でどんどん先生の宗教世界が深まっていったと、そのように考えることが出来るのではないかと思います。
 
金光:  田原さんが玉城先生にお会いになったのは、今の三週間の禅定を終えられたその後ということになるわけですね。仙台から東京にお帰りになってのことですね。
 
田原:  そうです。
 
金光:  その時に、さっきちょっとおっしゃった「ダンマが顕わになる」ということはもう最初の時にお使いになったわけですね。その後、お会いになっているうちに、先生のおっしゃっている言葉、いま、「業熟体」「業」というような言葉も先程のお話に出ていたようでございますが、田原さんにとってどういう密教の修行、行の体験をなさりながら玉城先生とのお話し合いの中でだんだんどういうことが分かってきた、見えてきたという、その辺の一、二の例をちょっとご紹介頂けませんでしょうか。
 
田原:  玉城先生に最初にお会いしてから、一年弱経った時に、勿論、毎日密教の修行をし、瞑想もしていたわけなんですけど、ある朝、瞑想に入りました時に、三昧(さんまい)に入りまして、これは今までと違った体験だったわけなんです。三昧に入って、私と、いわゆる法界と申しましょうか、私以外の世界ですね、そこの壁がまったく無くなったような境地に入りまして、「清浄このうえない」というような感じが、その時したわけなんです。そのことがありましたものですから、玉城先生にお会いした時に、その旨をお伝えしまして、「一体、これはどういうことなのか」とお聞きしました。すると、先生は、「ダンマが顕(あらわ)れつつある」ということをおっしゃって下さいました。それでも私は分かりませんでしたから、「そんなものかなあ」というふうな思いしかなかったわけですけれども、まあ、実感として、ダンマというものに、少しなんか手が届いたような感じがしたわけなんです。それはそれだけでして、まったく後は手探りの状態がずうっと続くわけなんです。ただ、先生にお会いした時に、いつも「ダンマが顕わになる」という教えを聞いていたものですから、迷うことがありましても、それを励みにしていました。それとともに、お伺いした時に、先生と何回か、ともに向かい合って、瞑想をしたわけなんです。結局、平成四年にいわゆる違った境地を感じるまでの十一年間というものは、まったく迷い、そして、手探りの状態だったわけなんですが、私自身、先生を信頼し、その先生の教えを信じていましたので、途中諦めることなく進めることが出来たのではないか、と思っております。
 
金光:  八千枚の護摩行もずうっと続けていらっしゃった。
 
田原:  それは勿論続けながらです。
 
金光:  そうやって十一年も続けていらっしゃると、ある時期に、「ああ、これだ」というふうな、玉城先生のおっしゃっている「ダンマが顕わになる」というのは、「これだったか」というようなご体験もお持ちでございましょうか。
 
田原:  平成四年に八度目の「八千枚護摩」を修したんですけど、その時に、初めから、「何かある大きな流れの中に、自分自身が入っている」という今まで感じたことのないものを実感致しました。それから、翌年の平成五年の春先にも、それと同じことを感じました。それからまた一ヶ月位後になりますが、三昧に入っておりまして、そして、時間がきたからそろそろ出定しようと、いわゆる、定から出ようと意識をそこに向けたわけなんです。そして、意識を向けますから、三昧が当然破られるわけなんですが、暫くしましたら、逆に何らかの力によって、また、三昧の中に引き戻された、ということがありました。その二点を先生にお伺いしたことがあるんです。そうしたら、先生が、「何かの流れに入っている」というのは、それは「ダンマの流れに入っているんだ。それは経典にも書いている」と。それから、「何かに引き戻された」というのは、それは「如来に掴まれているんだ」というようなことをおっしゃって下さいました。その時に、「ダンマ」という、「如来」というものを何か少し触れたような感じがしたんですが、私自身はまだ分かっていなかったと思います、その時は。
 
金光:  でも、そういう言葉を聞かれると、玉城先生のおっしゃっているのが、次第次第に田原さんご自身が「納得出来る」というか、「その方向がいいんだなあ」ということをご自分で思われたんでしょうね。
 
田原:  勿論、そうですね。確信のようなものがその時芽生えたと思うんですね。
 
金光:  「ダンマが顕わになる」という言葉ですけど、そういう言葉を先生はよくお使いになるようになって、随分熱心に、道元禅師の『正法眼蔵』を現代語に訳されたり、ご研究になったりしましたですね。
 
木村:  そうですね。先生は道元禅師には随分早くから強く関心を寄せておられまして、かなり若い時代のご研究の中にも、それはございます。晩年は、「道元禅師と格闘する」と申しますか、そういうことを自らに、いわば「課した」と申しましょうか、そういうことがあったと思います。その中でどんどん先生の宗教体験が深まっていったのではないか、というように思います。やっぱり七十歳代の後半辺りからはっきりとそれが感じられるような思いがするわけでございます。その点では、「道元禅師に導かれて」と言いましょうか、更に先生自身の世界が大きく深いものになった、ということが出来るのではないかと思います。
 
金光:  玉城先生は、「自分のご体験をいかに的確に表現するか」ということで、新しい言葉を使っていらっしゃいますが、その後ですか、「熟年(じゅくねん)」という言葉も、その頃でございますか。
 
木村:  先生は、実は十年前でしょうか、その頃からご自宅で、月に一回でございますけれども、「不老会」という、「歳老いない」と言いますか、「不老会」という会をお持ちでございました。瞑想し、その中で先生ご自身の心境をまあホンの十分か、十五分ですが語られる、といったことを仲間と一緒にして来られたわけです。その時にも、私も時々伺わせて頂いたんですが、その一つに、例えば、「熟年」という言葉を使われてお話をなさったことがございます。一般には、「熟年」と言えば、五十代で、勿論、一つは「成熟する」という意味があるでしょうが、もう一つは何か「これで人生終わり」というようなニューアンスも一方にあるわけです。先生は、「歳を取るほど熟していく。人間は熟していくものなのだ」。そういう点では、非常に人間について楽天的と申しましょうか、「歳をとるほどにどんどん余計なものが、いわば無くなっていく。大事なものだけが残っていくんだ。その大事なものが熟していく」という、その意味で熟年と使われるわけですね。だから、八十まで生きられる方は八十がおそらく最高に熟した時となりますし、九十までの方は九十が、いわば最後の成熟、熟れきった時となるんだろうと思います。
 
金光:  その世界は、先程の「不老会」の「不老」にも通ずることなんでしょうね。
 
木村:  そう思いますね。もともと「老いる」というのは、決して否定的な意味だけではない、と思うんですが、いま一般に使われている意味では、「いつまでも老いない。むしろ、若くなっていく」と申しましょうか、「智の輝きが増してくる」。そういう表現してもいいかと思うんです。
 
金光:  玉城先生の独特の言葉では先程の「業熟体」「熟年」、そして、「包徹(ほうてつ)」という、「包み、徹する」というような言葉も晩年には使っていらっしゃったようですね。
 


 

形なきいのちが業熟体を包徹する
 
 
木村:  ええ。多分、おそらくドイツ哲学の用語の一つのご自分なりの理解ということが基底にあるような気が致します。「包み」は「業熟体を包み撤する」。「徹」は「徹底する」という意味で使われるんですね。「包み込む」という意味と、「徹底する」ということなんですね。つまり、「形なきいのち」が、この「業熟体」というのは、「業がまさに熟しきった、この私自身です。それを包み込み、しかも、どこまでも徹底していく。浸透していく」と申しますか、そういう意味合いでこの「包徹」という言葉を使っておられるんですね。
 
金光:  「ダンマ=法」というのを、ここでは「形なきいのち」という言葉に置き替えていらっしゃるわけですね。
 
木村:  そう思います。先程の田原先生のお話に出て参りました「ダンマが顕わになる」という、それがこういう言葉でも表現されているということだと思います。
 
金光:  そういう世界をだんだん深めていらっしゃる、その玉城先生の表現は、仏教だけの枠を超えるような表現もされていらっしゃるようですね。
 
木村:  そうですね。まさにおっしゃる通りでございまして、最晩年のお話やら、或いは、ご著書の中には、ブッダに学びながら、いわば仏教そのものをも突き抜けてしまって、そういう世界を私ども伺うことが出来るのではないかという気が致します。
 
金光:  木村先生にお持ち頂いたんですが、最後のお亡くなりになられる年の年賀状でございますが、
 

















 

賀正

喉の奥から真実が噴(ふ)き出し
脳髄(のうずい)そのものが歓(よろこ)びにふるえる
広大無辺にして、無意識なる
寿(いのち)の躍動

ありとあらゆるものが
裏も表も躍り出て
思い思いの楽器を かき鳴らす
世界の演奏なり 宇宙の円舞なり

偉なる哉 寿(いのち)の主(あるじ)
ただひとりの指揮者
アートマン
  一九九九年元旦

 
もう亡くなられる直前の元旦ですが、「アートマン」という言葉が出ておりますね。
 
木村:  「アートマン」はいわゆるインド思想の根本的な概念の一つでございまして、一般には、「ブラフマン」という概念と対比してよく使われます。「私どもの真実のいのち」と申しましょうか、或いは、「真実の私そのもの」と申しますか、それを「アートマン」というわけでございます。
 
金光:  「ブラフマン」というのはもっと大きな、
 
木村:  ええ。「ブラフマン」は一般的には哲学的な用語としては、「宇宙の原理」とか、「宇宙の真理」というように訳せば、ほぼ当たる言葉だと思います。
 
金光:  その二つの関係はどういうことですか。
 
木村:  これは究極的なインド思想が行き着いた一つの表現でございますが、「梵我一如(ぼんがいちにょ)」ということを申します。「梵」と「我」が一つである、と。
 
金光:  「ブラフマンとアートマン」が「梵我」となっているわけですね。
 
木村:  「梵」の方が「ブラフマン」で、「我」が「アートマン」でございます。
 
金光:  それが一つのものである、と。
 
木村:  「私自身の本質では、宇宙の真理、根元的な宇宙の真理と繋がっている。全くその間に界(さかい)はない。だから、自己に目覚めること、本当の私に目覚めることが、そのまま宇宙の真理に目覚めることである」という考え方をするわけでございますね。
 
金光:  田原さんのご宗旨と言うと、真言宗では、「本不生(ほんぷしょう)」というような言葉で使われるということを聞いておりますが、その「本不生というのがすべての根本」みたいな、それと「ダンマが顕わになる」という、その辺の関係を、田原さんはどういうふうに感じていらっしゃいますでしょうか。
 
田原:  私自身、真言密教を学んでいる者ですから、その中に、「本不生」という言葉が、これは経典の中にも、或いは、弘法大師の著作の中にもいろいろ出て参ります。真言密教の教相事相(きょうそうじそう)の一番中心は、「本不生ではないか」と思っております。本不生を何とか体現したいという思いがありまして、自分自身、それを日常の中に、それを組み込んで、意識して行じていたわけなんです。
 
金光:  「不生」という言葉がある以上は、「掴まえられない」「形のないもの」ということでございましょう。
 
田原:  そうですね。境地ですから、あくまでも。それを「本不生」という字に当てはめているわけです。だから、幾ら字を分別で解釈しても出来ないということで、玉城先生にもそういうことをお伝えしたことがございます。そうして、日々行じていましたら、いろいろ違った境地になることもあるわけですけど、そのことを合わせて玉城先生にお伝えしましたら、「その境地の、そういうのはそれとして、体験は大切であるけど、日常ではそのようなことも忘れ果てて、
 
金光:  忘れてですか。
 
田原:  「忘れてアッケラカンとしていることが大事だ」と。要するに、「境地というものにいつまでもとらわれてはいけない」という意味もあったと思うんですけど、「本不生」のことにも、そのことの指摘を受けたことがありまして、「本不生を忘れて三昧に徹しなさい」ということを言われました。
 
金光:  あれだけ学問的にも実践的にも広く深い世界を探求されている方ですから、お会いになる相手の方によって、いろいろな受け取り方が出来ると思いますが、木村先生にとって、玉城さんから教わったもの、例えば、どういうことがございますか。
 
木村:  そうですね。私自身が学問的な面、専門の「華厳思想の研究」の面など、専門のことは勿論なんでございますけれども、もう少し広いところで申しますと、先生自身がそうであった学問探究のあり方、その基盤をなすものとして、「比較思想的な関心」、或いは、「比較哲学的な関心」というのがあるかと思うんですが、
 
金光:  これは仏教だけの研究ではない、と。もっと広く視野を広げて、ということですね。
 
木村:  「大きな視野のもとで比較をすることによって、或いは、深く問題を対決させることによって、初めて本当の意味、本当の世界が見えてくる」ということだ、と思うんです。そういったものにやはり常に関心を持っていなければいけないんだなあ、ということですね。それと具体的な関わりとしては、単に本を読んで、頭で理解するということではなく、やはり「経験と思索し、それを常に交わらせながら、ものを考える」ということが大事なんだ、と。そういった点が、特に先生から学ばせて貰ったところでございます。その中で、例えば、「学」、或いは、「学問とはそもそも何なのか」。これは仏教で、いわゆる「三学(さんがく)」と申しますけれども、先生の言葉では、「全人格的な」ということになりますね。そういう関わりにおいて学びとっていくというやり方と、それと科学的な、私どもが大学において進めております研究でありますが、そういう「研究の間がどうなっているのか」「どのようにそれを切り結んでいったらいいのか」。その辺に常に一つの根本的な問題と して考えていく、といったような態度も、先生の学問から学ばせて貰ったことでございます。もう一方で、先生のお人柄や生き方から学んだことが沢山ございまして、大きく纏めて申しますと、「仏道というもの、或いは、仏法というものが、徹底して主体化されていかなければいけない」というような問題に集約出来るんではないかと思います。
 
金光:  仏法を対象的なものとして考えるだけではダメだということですね。
 
木村:  はい。勿論、研究は学問的には出来るだけ客観的に勉強していくことは大事なものですけれども、同時に、私自身のものになって、初めて仏道である。仏法である、ということですね。そういう意味で、実は最初にちょっとご紹介させて頂きましたけれども、私が結婚した時に送って頂きました色紙の言葉がございます。「白道自然(びゃくどうじねん)」というものでございます。この「白道」は浄土教の方で、特に使われる「二河白道(にがびゃくどう)」、二つの河と対にして「二河白道」とも申しますけれども、火の河、水の河、中間に細い道が一本ある。それを「白道」と申し上げるわけです。「その白道を真っ直ぐ進む」とことによって、浄土教の方では、「極楽往生、阿弥陀仏の世界に往生が出来る」ということが説かれます。それを、例えば、先程、道元禅師のことを申し上げましたけれども、先生はそもそもの生い立ちから、もう一方では親鸞聖人と大変深い関わりをお持ちでございまして、私は、おそらく最後に、もし命が長く生きられたら親鸞聖人の全体像をもう一度とらえ直したい、という思いがあったのではないかと思うのです。親鸞聖人は、この「白道」のことを「願力の白道」と。「願力」は「阿弥陀如来の本願力」でございます。「白道そのものが、いわば、願力によってなりたっている。その願力に真っ直ぐに乗ることによって、導かれることによって、何の迷い、苦しみもなく、真っ直ぐに極楽世界へ行けるのだ」というようなことなんだろうと思うんです。私が頂いた色紙には「白道」に付けて、「自然(じねん)」という言葉が付いております。この「自然」もやはり浄土教の方では、「自然法爾(じねんほうに)」と申しますが、この親鸞聖人は、「自ずから然(しか)らしむ」というふうに読んでおられますね。私自身はこの「自然」も、阿弥陀如来の力、願力によって、「そのようにあらしめられる。そこに成立してくる、安らぎの世界」と言いますか、それを指すわけでございます。つまり、「白道」という のはここでは、「本当の仏道」というふうに言い換えてもいいと思います。「本当 の仏道が自ずからそのようにして成り立っている」「然らしめられて、如来、或いは、ダンマによって、然らしめられて、成り立っているんだ」ということ。それを、私自身の生き方に引き付けて言えば、「そういう白道を然らしめられつつ歩んでいく」と申しましょうか、そういうことを先生は私にお説き下さったんじゃないか、という気がするわけです。それに従って、生きなければいけない。それしかないんではないかと、そういう思いをだんだん深めつつあるというのが、今の心境でございます。
 
金光:  田原さんは最初からのお坊さんじゃなくて、高知大学の農業工学科をご卒業になって、それから、高野山の専修学院で行(ぎょう)を始められる。最初の方のお話にありましたように、「求聞持法」だとか、「八千枚の護摩の行」の難行と言われているものを、何回も続けていらっしゃる中で、玉城先生とのご関係がだんだん深くなってこられたわけですけれども、行をずうっとなさっていらっしゃった田原さんの玉城先生との交流の中で、行の実践の仕方みたいなものもだんだん変わってきたような点はございますか。
 
田原:  理解の仕方、感じ方とか考え方ですね。やはり三昧というものを、三昧の境地を深めていくという─「三昧」と言っても一定で同じ状態が続くことがありませんので、どんどん境地を深めていくということを教わったと思います。ただ、行をしている時も、ずうっと先生とお付き合いをさせて頂く中において、先生は、「精進しなさい」とか、「励みなさい」というようなことは一度も言われなかったんです。私の行じたことを聞いて下さるということでして、ただ、平成七年に、私自身ずうっと体を痛め付ける、精神を痛め付けることを続けてきたんですが、結局、二十一年目にして、やっとそういう体を痛め付ける行はいいことではない、ということに、やっと二十一年目に気付いたわけなんです。その時に、先生にそのことをお伝えしますと、先生は、「無理な行はしないで、体を大事にして下さい」ということを言って下さいました。それから、その翌年の平成八年に、「本不生」と取り組んでいたんですけど、その「本不生」と取り組んでいる時に、いわゆる歓喜の宗教体験をしました。その後、私自身、今までずうっと求め続けていた「三昧に入ろう」とか、「三昧を深めよう」とか、或いは、「悟りを求めよう」というような心が消えてしまったことに、途中気付きまして、それが半年経っても消えている、ということで、そのことを先生にお伝えしたことがありました。そうしますと、先生は、「求める、そういう心が無くなっているのは、それは如来のひとり働きである」ということを伝えて下さいました。その歓喜の体験でやっと何か「ダンマが顕わになる」ということを、ちょっと掴めたような感じがその時しました。その後、先生自身は七十九歳辺りからどんどん境地を深められておりましたが、平成九年に先生のところへお伺いした時に、「いつ、あなたに伝えようかと思ってた」と。「幾ら大行(たいぎょう)をしても、煩悩はなくならないんだ。行(ぎょう)にとらわれないと同時に、何処までも続けて止むことがないのが如来の働きである。このことが本格的な仏道です」と、ハッキリその時おっしゃいました。
 
金光:  そういうご心境からでしょうか、最晩年にお書きになった先生の短歌を、今日、お持ち頂いておりますので、拝見したいと思うんですが、
 
 
      路(ふ)む足も忘れはてたり八十二年
        なおも果てなき道を進まん
 
 
 
 
これは「なおも進まん」
 
木村:  そうですね。先程、「忘れ果てる」という話が出ましたけれども、全く先程、私がご紹介した言葉で言えば、「白道自然」と申しましょうか、そういうことにも受け止められるかと思います。先生は、本当に一生涯を通して、その道を求めて生きられた、ということだと思うんです。その先生のあり方は、死をも超えるものである。今のお言葉は、おそらく、「生死はまったく問題ではない。真っ直ぐにいったら、ひたすら如来のひとり働きの道を歩むのみである。歩ませて貰うだけなんだ」と。こういうところへ行かれる。そして、その亡くなる時に、「安心だから」という言葉を、実は残されておるんです。その「安心」の意味はそこにあるんではないか、という気が、私はしております。
 
金光:  「死後の修行もしなきゃ」というような言葉さえおっしゃっていたということですから、「歩み続けるということは、如来さまの働きのままだ」と。「どこに居よう」と。そういう世界が仏道を探求された玉城先生の世界だった、ということが言えるのではないかと思います。どうもありがとうございました。
 
 
     これは、平成十二年五月七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。