仏教の根本にあるもの
 
                           大谷大学学長 小 川  一 乗(いちじょう)
昭和十一年、北海道に生まれた。大谷大学大学院の博士課程終了後、長く教授をつとめ、四月学長に就任した。主著に『大乗仏教の根本思想』がある。
                           き き て  金 光  寿 郎
 
金光:  今日は京都の大谷大学の学長室に小川一乗先生をお訪ねしております。「仏教の根本にあるもの」というテーマでいろいろお話をお伺い致したいと思いますが、現代人になかなか分かり難いところもある大きな問題でございますので、小川先生の妹さんの章子(あやこ)さんが昭和六十三年に、満四十七歳で癌のために亡くなられた、癌になって亡くなられる前の心境の記録を発表されたものがございますので、そこにある詩などを参考にしながら、仏教の根本にある問題をお話して頂きたいと思います。どうぞ宜しくお願い致します。
小川:  よろしくお願い致します。
 
金光:  妹さんは確か発病と言いますか、告知を受けられて四年位でお亡くなりになっていらっしゃると思いますが、
 
小川:  確かそうです。
 
金光:  その最初の頃の詩だと思うんですけれども、「癌」という題で、
 
        「癌」
 
     癌といわれて
     死を連想しない人がいるだろうか
     医学の進歩した現在
     死と直面できる病いに
     なかなか出合うことができない
     いつ死んでも不思議でない
     私がすっかり忘れて
     うぬぼれていたら
     ありがたいことに
     癌という身をもって
     うぬぼれを砕いてくれた
     どうしようもない私をおもって・・・
         (鈴木章子)
 
こういう詩なんですが、多分、この内容から想像しますと、告知を受けられて、そこで今までの生活を改めて振り返られた。その時期のものではないかと思うんですが、最初に妹さんが癌になったということはこちらの京都の方でお聞きになったんですか。
 
小川:  いいえ。田舎の方で、妹から電話がありまして、「私、癌なのよ」という電話を受けまして、大変驚きました。まあ、寺にいるものですから、妹も寺で育って、寺に嫁いでいるものですから、その時、確かはっきり記憶はしてはいませんけれども、「人間はいつ命を終わるか分からない。癌も一つのご縁であって、死の縁は無量なんだよ。だから、特別なことではないんだ。だから、あんまり癌だ、ということは他人(ひと)に言わないで、静かに引き受けていきなさい」というようなことを言うた覚えがあるんです。
 
金光:  「おお、可哀想に」ということじゃなかったんですね。
 
小川:  そうですね。あんまり「可哀想」という意識はなかったです。
 
金光:  やっぱり、「癌」というと、じゃ、「死」という、そういう問題が、妹さんには当然頭におありだったでしょう。
 
小川:  そうですね。「治るかも知れない」と、勿論、人間ですから期待は持つでしょうけれども、まあ大体、当時は、「癌」と聞けば治らない病気だ、と思います。ですから、今、お読み頂いた「癌」という詩の中で、「いつ死んでも不思議でない」ということ、そのことを私たちは忘れて生きていますから。
 
金光:  仏教については日頃関心をもって読んでいても、なかなか我が身のこととしては受け取り難いところがあるわけですが、「お寺にお生まれになって、お寺に縁付かれて」ということは、ずうっと仏法を聞いていらっしゃるわけでしょうけれども、自分が、「もうこれで死ぬかも知れない」と思うと、また、そこから新しく「仏法の味わい直し」みたいなものが当然始まるわけでございましょうね。
 
小川:  当然そうだと思いますね。ですから、癌を、そういう「自分のいのちへの見直しとする尊いご縁としていくか」、最近よく言われるように、「癌と闘う」と言って、「最後まで闘って生きようとするか」、それはその人それぞれだ、と思います。
 
金光:  ここにはやっぱり「ありがたいことに」という言葉が出ていますね。
 
小川:  そうですね。ですから、ここには、「癌と闘う」という気持よりも、「癌になったお陰で今まで見えなかったものが見えてきた」という、「感謝」というか、癌に対して、敵対するんじゃなしに、
 
金光:  「一緒に」という感じがありますね。
 
小川:  そうそう。そういうニューアンスがここにありますね。
 
金光:  ただ、「仏教」と言いますと、俗には、そういうふうになるには、「因縁」というか、「縁があるからそうなるんだ」という受け取り方がありますね。その場合に、「先祖に何かあったから」とか、一般にはそういう形で受け取ったり、或いは、「自分が昔何か良くないことをしたから、こうなったんではないか」と、その程度の原因と結果を考える方が割に多いんではないか、という気がするんですが、本来の仏法の場合は、どういうことなんでございますか。
 
小川:  そういう考え方は全く間違った考え方で、お釈迦様・釈尊が、「縁起」とか、「因縁」といったのは、そういうような意味ではございません。釈尊の一番の弟子でありました舎利弗(しゃりほつ)という方がおられるんですけれど、「智慧第一」と言われまして、お釈迦様のお弟子さんのナンバーワンですね。この舎利弗が釈尊の弟子になったきっかけというものが、仏典の中に記録されております。有名な「法身偈(ほっしんげ)」という偈文でございまして、その偈文にこのように言われております。
 
     諸々(もろもろ)の存在は
     因縁から生じる。
     如来は
     それらの因縁を
     説きたもうた。また
     それらの止滅(しめつ)をも説かれた。
     大沙門(だいしゃもん)はこのように
     説くおかたである。
        (「法身偈(ほっしんげ)」より
 
こういうような偈文ですけれども、少し分かり易く説明致しますと、「私たちは数限りないほどのいろんなご縁が、実は、私となって只今のこの瞬間がある」と。それは決して、「過去の何かが原因となって、結果としての私がここにあるんだ、という意味ではない」のであって、「現在のこの瞬間を見つめていったら、人間の智慧では計り知れないほどの無量無数と言っていいほどの条件が、今の私というものを形成しているのだ」と。ですから、「その条件が変われば、どんどん人間は変化していきますし、その条件にというご縁が加われば、死の縁無量で、命を終えていかなければならない」ということなんですね。そういう意味がこの偈の意味だと思います。もう少し譬えで分かり易くいうと、例えば、みなさん方はどうでしょうか。「親から子が生まれる」とか、「農夫が畑を耕す」とか、普通常識では、そうお考えですね。
 
金光:  そうですね。「親がいて、子供が生まれる」と、
 
小川:  「これは変だ」と思いませんか。
 
金光:  いや、「親がいなけりゃ子供が生まれないじゃないか」と普通考えるんではないかと思いますが。
 
小川:  じゃ、「子供の生まれる前に親がいる」んでしょうか。
 
金光:  ああ、成る程。「子供が生まれたから親になる」。ああ、成る程。
 
小川:  同じように、農夫はどうでしょうか。「農夫がいて畑を耕す」。
 
金光:  じゃ、「畑を耕さない農夫もいる」ということになりますね。
 
小川:  「いる」ということになります。ところが、釈尊はそういうのは「農夫」と言わない。「畑を耕すという行いの中で、初めて農夫という結果が得られる」。
 
金光:  ああ、まず、そういう「事実がさき」にあって、その関係を「子」と言い、「親」と言う。
 
小川:  そうそう。だから、仏教では、「親から子が生まれるんなら、逆に子供から親が生まれる」ということも成り立つわけです。
 
金光:  その「縁」というのは、そういうことをいうんですか。
 
小川:  そういうことなんです。「関係性の中において、只今のこの私が、私たらしめられている。人間として生まれ、命を終えていく」という因縁の中で、「癌も一つの因縁」となる。
 
金光:  そうすると、「親がなんとかしたから、この子がこうなった」というのは、全然見当違いなんですね。
 
小川:  それは仏教の教えを、「全く誤解した迷信だ」と言っていいと思いますね。
 
金光:  そうしますと、先ず、「行いが先にある」。
 
小川:  そうです。
 
金光:  「子供が生まれた」から「親となる」。「耕した」から「農夫となる」と。だから、「人間がどうなるのか」というのは、「何をするかによって、どうなるか」という、そういうことになるわけですね。
 
小川:  そうですね。例えば、誰かが罪を犯した時に、「罪に苦悩した人にとって罪」という意味をもつのであって、「苦悩していない人にとっては、罪とならない」という仏教の考え方ですね。ところが法律の場合は、例えば、人を殺して、苦悩しても、しなくても、それ相応の刑法がありますね。
 
金光:  それは当然そうですね。
 
小川:  それは一つの社会の約束事として当然ですけれども、仏教の場合は、「苦悩した人間に対して、その苦悩の救済というのがある」のであって、「苦悩していない人を、仏教は救うわけにいきません」ので。
 
金光:  そうしますと、非常に、「現実の行い」というのを、まずご覧になるということになると、「生まれが、どうだから」というようなことは、お釈迦様の目には、「生まれは問題ではない」ということになるわけですね。
 
小川:  それが、どうしても、私たちは、「過去の事柄が原因となって、現在がある」というか、科学的な発想をしますけれども、釈尊はそうじゃなしに、「今ある身を見つめることによって、自分の過去を見ていく」という、逆なんですね。私が申しましたように、「何故、そういうことを釈尊は言われたのか」と言いますと、今から釈尊がおられた二千五百年程前のインドにおいては、もう既にご承知のような「業報(ごうほう)による輪廻転生(りんねてんしょう)」、
 
金光:  「業(ごう)」というのは「行(おこな)い」という、本来はそうなんですね。
 
小川:  「行い」です。「過去世に行った行いの報いを受けてこの世に生まれる」「この世でどういう行いをしたかによって、それに見合った未来の世界が待っている」という、そういうのが、「業報による輪廻転生」という一つの宗教倫理なんです。そのことによって、「人に善い行いを行わしめ、悪いことをさせない」という一つの宗教倫理の役割を果たしたわけです。しかし、それが束縛となって、今度は、「生まれながらに、生き物を差別する」という。「過去に悪いことをしたから、苦しい身分に生まれるんだ」といったように、「生まれによる差別」ということが、その当時の常識となっていた社会状況の中で、釈尊という人は、多分、直感的に、「いのちあるものは平等でなければならない」「いのちは平等である」という、一つの彼の直感だと思います。これが彼の宗教的天才の一面だ、と思います。そういうことをキチッと明確に、私たちにお教え下さるために、「私たち、生きとし生けるものは数限りないほどの因縁によって、只今の生を受けている」と。そういった場合には、「過去世の何かがあって、現在じゃなし」に、「現在の生きている、という身の事実の上に、無数のご縁と喜んで頂いていく」という、そういういのちの世界をお説きになられた。
 
金光:  これは「人間だけじゃない」わけですね。
 
小川:  インドの場合は「全部です。人間だけが生きているわけじゃありません」から。「すべて生きとし生けるものは、たまたまの因縁の組み合わせによって、人間ともなり、ゴキブリともなる」と。そういう意味では、「いのちはみんな平等なんだ」というのが仏教の基本にあります。そのことを端的に、初期の経典の中でも、古い部分に含まれる、と言われている『スッパニパータ』の中に、釈尊は、次のように説いておられます。
 
     生まれによってバラモンなのではない。
     生まれによって非バラモンなのではない。
     業(行為)によってバラモンなのである。
     業によって非バラモンなのである。
     業によって農夫なのである。
     業によって職人なのである。
     業によって商人なのである。
     ・・・・・
     賢者たちはこのようにこの業を知る。
     (彼らは)縁起を見る者であり、
     業とその果報とを熟知している。
        (『スッパニパータ』六五○ー六五三より)
 
これは大変有名な偈文でございまして、これは簡単に説明致しますと、「生まれによって、高貴な人に生まれた。
 
金光:  「バラモン」というのは、一番高貴な人ですね。
 
小川:  身分の高い人です。だから、「過去世にそれなりの善いことをしたから、高貴な、身分の高いバラモンに生まれた」。それから、「過去世において、それ程善いことをしなかったので、バラモンとして生まれなかった」と、「そういうのではないんだ」と。
 
金光:  「ではない」と否定されているわけですね。
 
小川:  「否定」です。ですから、完全に、「生まれによる差別を、基本からキチッと否定しているのが仏教だ」と、こう言っていいと思います。それでは、釈尊にとって、「業とは何か」と言えば、「何を行うか。行為によって、その業の果報を得るのである」。例えば、先程申しましたように、「畑を耕すという行為によって、農夫という果報を得るのである」ということですね。そういう「いのちのあり方に目覚めた人を縁起を見る者である」というわけですね。「縁起ということにおいて、業と果報の関係が明らかになる」と。ですから、私はいつも申し上げているのは、「仏教はからを考えるのではなしに、という身の事実のうえに立って、自分の因を自覚的に捉えていく」というのが、仏教の基本です。くどいようですけれども、「過去に何か悪い因があって、今不幸である」「過去に何か善い因があって、今、幸福である」というのではなしに、「今、幸福だ」「今、不幸だ」という実感の中に、「自覚的に自分の来し方を振り返る」というのが「縁起ということだろう」と。これが「仏教の基本だ」と思いますね。
 
金光:  そうしますと、「業」というのは離れたことではなくて、「今、何をするか」。そういうことなんですね。
 
小川:  そうそう。
 
金光:  それじゃ、「人間がその行いによって、自分がどういうふうになるか」というのをそこで、「行為によって、自分で決めていくことが出来る」。そういう意味では、非常に、「束縛が解かれた世界」を説いていらっしゃるわけですね。
 
小川:  そうですね。例えば、「自分が何をするか」という、「自分で決断した」と、人は言うけれども、さあ、ほんとに自分で決断したんでしょうか。「周りのいろんな条件がそういう決断をさせたのであって、自分がしたわけじゃない」ですね。そのところを、「人間は自我が強い」ですから、善いことをした時は、「私がした」と言いますね。
 
金光:  そうですね。
 
小川:  「悪いことが起これば、社会が悪い」と、責任転嫁しますね。しかし、「善いことも、悪いことも」考えてみれば、「周りのいろんな因縁の中でそれを行っている」ということなんで、そこのところを、お釈迦様は、「無量無数といっていいほどの因縁が」、もう少し理屈っぽくいうと、「条件が」この私を形成しているということをお説きになられたんだけれども、それを聞いた大乗仏教の菩薩たちは、その「因縁を如来」と言い換えて、「無量無数の如来様が、仏たちがこの私たちをお作り下さっておる」と。そういうふうに、深いところで、その釈尊の教えを了解していったということがあるわけですね。
 
金光:  ただ、今の言葉尻を承りますと、「いろんな条件が私をこうさせた」と言います と、「バスをハイジャックするのも、そういう条件がさせた」。それはそうでしょうけれども、「自分の責任というのは、そこには見られないんじゃないか」と思うんですが。その辺はどうなるでしょうか。
 
小川:  それはああいう事件を客観的に対象化して考えると、そういうことになりますけれども、私から言わせると、このお釈迦様の教えを、「あの少年が、親から、或いは、教育の場でもいいし、先輩でもいいし、何らかのご縁の中で、このお釈迦様の教えを、もし聞いておられたら絶対ああいう行為はしなかっただろう」と、私は思います。
 
金光:  そうしますと、仮に、自分では全くそういうことを予想もされなかった章子(あやこ)さんが、お医者さんに行ってみたら、「癌」ということになっている体を教えられたわけですね。これも勿論、「縁によってそうなった」ということなんでしょうけれども、そこでもう一つ、「何で私が」とか、やっぱりいろんなことをお考えになると思うんですが、これは、随分、後の詩のようですけれども、「安心」という詩がありますね。「あんじん」と読むのかも知れませんが、
 
     「安心」
 
     私は癌患者
     今
     如来さまからいただいた役を
     果たしている
     これで
     いつ私の幕切れがくるのかは
     如来さまが知っている
     役柄を知って演じていても
     この安心
        (鈴木章子)
 
ということなんですね。先程のバスのハイジャックの話を伺いながら、「仏さまの、仏教の話を聞いていたら、そういうことはしないだろう」とおっしゃいましたが、やっぱり、「私の役柄は、如来さまがご存じの役柄で、如来さまとの繋がり」がここにある詩のように、「あれば、勿論、ああいう行為は出来ない、ということになるだろう」と思うんですが、しかしここへ行くまではなかなか大変でございましょうね。
 
小川:  今、私が、「仏さまの教えを聞いておったならば、あの少年はああいう行為はしなかっただろう」ということを申しましたけれども、「必ず、しない」とは言い切れません。これはやっぱり「ご縁のまま」ですから、こんなことを言っている私が、「明日何をするか分からない」。そういうのが人間ですからね。しかし、それもすべて、「ご縁のまま」という広い世界に目を開いていった時に、「ご縁」というと、ちょっとなんとなく、それよりも「如来の働きの中に身を置いているのだ」という言い方、「ご縁の中に身を置いている」のと同じことなんですけれども、それを、「如来さまの働きの中に身を置いている」と言い切っていける世界ですね。そこに妹の詩の、「本当の人間の安心」「安らかさ」と申しましょうか。そういうことを見いだした詩じゃないでしょうか。
 
金光:  そう思いますね。「如来さまのお仕事を自分がしている」という場合には、「自分」という、「私が」という意識はあまり強くない世界になっているわけでしょうか。
 
小川:  そうだと思いますね。よくお念仏の教えを頂いた方々の有名な言葉に、「如来様から頂いたいのち」という言い方がありますね。それと同じようなことです。私の関係するところのお婆さんが、これは相当ご年輩の方なんですが、若い時にお子さんを亡くした。その時に大変貧しい、忙しい時代に、「子供一人が亡くなったから」と言って、「泣いておれない」と言って、「泣くまい、泣くまい」と、「涙を流すまい」といくら我慢しようと思っても、両目から涙が流れ出てくる。「止めよう止めよう」と思っても涙が溢れ出てくる。そして、「人が生まれて死ぬ、ということは一体どういうことなんだろうか」と。「その問題がハッキリしないと、仕事をする、働く元気が湧いてこない」と。そう言って、仏さまの教えをひたすら聞いたご年輩の方がおられました。その息子さんが私に言いましたのは、「母の流した涙は、母が流したんじゃないんですね。母の涙であれば、止めようと思ったら止められる。いくら止めよう、と思っても出てくるということは、母の涙は如来様の涙だったんですね。そのことがやっとこの歳になって頂けました」というような話がございました。そんなことでご説明すれば少しお分かり頂けるんじゃないでしょうか。ですから、この妹の詩の中で、「如来さまから頂いた役」ということを言い換えれば、「如来さまから頂いたいのち」であり、「母の流した涙は、如来さまの涙であった」と言い切っていける世界ですね。そうすると、そこは、「私という思いすらも頂きもの」だった。
 
金光:  ええ。そうですね。
 
小川:  人間は、「私」という思い抜きにしては生きていけませんけれども、「私という思いすらも、頂いたものだったんだなあ」というところに、目を開かせて貰うと、何か広い世界に出ていくんじゃないでしょうか。
 
金光:  日頃忙しい生活を送っていると、なかなかそういうところに目が行き届かないのではないか、と思いますが、妹さんの詩に「目」という詩がありまして、これを拝見しますと、
 
     「目」
 
     内に目をむければむけるほど
     外の世界が広がってくる
     不思議な目
        (鈴木章子)
 
「内に目をむければむけるほど、外の世界が広がってくる」論理的に言うと、おかしな筈ですよね。でも、「内に目をむければむけるほど、外の世界が広がってくる不思議な目」。これは人間の目じゃない。
 
小川:  私たちは、目というのは外でしょう。「外に向かっている目」というのは、「見える範囲しか見えません」ね。その目を、一旦、「内に向けたら見えないものも見えてくる」「日頃気付かなかった事柄も、そういうことが見えてくる」一つのきっかけが、やはりお釈迦様・釈尊の教えの基本にあって、それが、「生きとし生けるもののいのちは、すべて平等でなければならない」という目を、釈尊がもったのは、外を見たからじゃないんです。「自分のいのちを見つめたからこそ、そういう世界が広がってくる」んじゃないでしょうか。
 
金光:  これは現代の「科学的思考、考え方」と言いますか、「科学的なものを判断する基準」というのは、「自分が確かめられること、実証出来ることなら間違いないだろう」と。「それ以外はよう分からん」と。一種の「不可知論」みたいなことになるのかも知れませんが、しかし、仏教の仏さまの世界というのは、普通の人間の目で、或いは、普通の意識で掴まえようと思っても、なかなか掴まえられない。けれども、ここにあるように、「自分の内に目を向けて、よくよく見ていると、何となくだんだん分かってくる」という、そういう世界なんでしょうか。
 
小川:  それも一面にあるし、もう一つは、「外に向かって、全部見れるんだ」と。今の人間は傲慢に思っていますから、そう思っている間はウンと見たらいいんです。その内に見えないことが分かってきますから。だから、徹底して、「全部自分は把握しているんだ」と思い込んで、それは完全な錯覚ですけれどね。それは一回自分が錯覚であることに目覚めないと、内に目は向かえません。だから、私は、そういう人には、徹底的に、「もし科学的にすべてが解明されるんなら、してご覧なさい」と。そこで、「これはダメだ。限界があるなあ」と気が付いたら、ちょっと立ち止まって、「内側を見て下さい」と。そうすると、「今まで見えなかった広い世界が見えて来ますよ」と。大体、そのように申しているんです。
 
金光:  しかし、外の世界を見るにしても、例えば、ノーベル賞を貰うような、優れた能力を持っている人は、それぞれの方面で新しいものをご覧になるでしょうけれども、我々凡人にはなかなか見えない。或いは、宗教的な面でも、御祖師様方みたいに天才的な人は見えるだろうけれども、「自分には見えないんではないか」と。何となく漠然と、「自分には見えない、出来ないんじゃないかなあ」という感じを忙しい生活をしていると、どことなく、そういうことを思っている。そういうひぐらしがあるんじゃないかと思いますが、そんなことはないですか。
 
小川:  僕は逆に、例えば、科学者でノーベル賞を貰うような、ある意味で優れた知性を持っている人は、「如何に科学には限界があり、どんなに不十分なものか、ということを熟知している」と思います。私たちは知らないからこそ、それが百パーセントだ、と。そう錯覚している面があるんじゃないでしょうか。
 
金光:  しかし、その辺の外を見る目がいくら掴まえられても、宇宙は広いし、その小さな世界でも無限の小ささまでありますし、それで満足することは出来ないと思いますが、お釈迦様の縁起の世界、縁の世界、それによって自分の中を通して、それに気付くことが出来ると、そこはやっぱりなんか掴まえられる世界があるんですか。
 
小川:  「掴まえられる」と言うと、ちょっと誤解が生ずるから「無い」といった方がいい、と思います。科学的なものは、仏教から言うと、それは智慧じゃなしに、知識ですね。いくら知識が増大して、増えても、人間は智慧を持たなければいけない。「智慧とは何か」と言ったら、知識とは全然別なことなのであって、そういう意味で、そういうものがある、と言ってもいいかも知れません。それはほんとは簡単なことなんです。「この私は生きているのではなかった。生かされていたんだなあ」という。科学の力で追求しようとしている、あらゆるすべてのものが、「今、私を生かさせてくれているんだなあ」という。そういう世界に目を開かせて貰うと、「人間の方からすべてのものを得ようとする、知識を得ようとするのではなしに、知識で得られないほどの多くのものが、今、私となっているんだ」という、逆の世界が開けてくるんじゃないでしょうか。
 
金光:  成る程。先程は、「不思議な目」ということをおっしゃいましたけれども、「不思議な目」によって、「新しい見方」が出来た詩ではないか、と思うんですが、「変換」という詩も遺していらっしゃいますね。
 
     「変換」
 
     死にむかって
     進んでいるのではない
     今をもらって生きているのだ
     今ゼロであって当然の私が
     今生きている
     ひき算から足し算の変換
     誰が教えてくれたのでしょう
     新しい生命
     嬉しくて踊っています
     いのち日々あらたなり
     うーんわかります
        (鈴木章子)
 
小川:  僕もこの詩は好きなんです。妹にはいろんな詩があります。『癌告知のあとで』という冊子の中で、あまり気にいらん詩もあるんですけれど、これは気に入っている一つなんです。これは仏教の根本をキチッと押さえた詩であるから、私は使わさせて貰っているんです。妹は仏教をそんなに勉強したとは思いませんが、見事にこの中には、仏教の根本的なもの、今日のテーマそのものが根底にあります。まず、説明させて貰いますと、「死に向かって進んでいるのではない」。これで大 体、私たちの常識は、一つ拳骨をガツン!と。
 
金光:  誰だって死なない人はいないから、「死に向かって進んでいる」と思いますね。
 
小川:  思いますよ。
 
金光:  そうでないんですか。
 
小川:  それは、「何故か」というと、私たちは、今、どうでしょうか。平均寿命八十ですか。
 
金光:  そうですね。八十前後ですね。
 
小川:  そうすると、大体、心の中では、「八十まで生きなければ損だ」という思いがあるでしょう。そうすると、人生どうですか。六十になったら、あと二十年。七十歳になったら、あと十年。七十九歳になったらもう一年しかない。そういうのを、妹はこれを「引き算の人生」と。八十からどんどん引いていくわけですね。そういう人生を歩んでいると、私どもは思っているんですけれども、それは基本的に違うんです。次の「今をもらって生きている」これが仏教ですね。「今、今、一瞬のご縁を頂いて、一瞬一瞬のいのちを今頂いておる」と。これが「足し算」ですね。「一瞬一瞬頂いている」んですから、「足し算の人生」ですね。
 
金光:  次々次々幾らでも足していけるわけですね。
 
小川:  僕はよく言うんですよ。これを引用して、「引き算の人生は地獄行きの人生だ」 「足し算の人生は極楽行きだよ」と、冗談で言うんです。しかも、この考え方を基本で押さえているのが、次ぎの「今ゼロであって、当然の私」これが大事ですね。
 
金光:  これは、しかし、「ゼロ」とは思いませんし、しかもそれが、「ゼロであって当然」とは思えないですね。ちゃんとこういうふうになっているわけですから。
 
小川:  僕は、ここが妹が凄いなあと思うところで、これは、「どうして凄いか」と言いますと、先程來、「無量無数と言っていい程の因縁が、私となって下さっている。その因縁を一つ一つ取り去っていったら、私という何かが残るのか」と。仏教では、「何も残らない」と。「何かが残る」というのであれば、これは仏教ではなくなります。
 
金光:  「無我」とか。
 
小川:  「私無し」。「私を形成している無量無数と言っていい程の因縁を、全部取り払った状態をゼロ」と。それを漢字で、「空(そら)」という字を書いて、「空(くう)」と表現しますね。そういう「空(くう)である」「ゼロである」のに、「無量無数の因縁が、今、私をここにこうして吐く息、吸う息あらしめている」。
 
金光:  そうすると、「当然の私が今生きている」という。その通りだけれども、感じとしては「今、生かされているんだ」という。
 
小川:  そうです。だから、「今を貰って生きている」。
 
金光:  成る程。「貰っている」わけですね。
 
小川:  だから、「ゼロということはここにいる私がどっかへ消えちゃう」という、そんな話じゃなくて、「無いのに今こうしている」。ですから、その後の「いま生きている」という。この「今生きている」という短い言葉の中に、妹の喜びが弾けそうに出ているでしょう。それが、「嬉しくて踊っています」という。「新しい生命」というのは、「一瞬一瞬新しい生命」ですね。私たちは、「何か明日も、明後日もあると思って生きています」けれども、「今」しかありません。「今の一瞬一瞬の新しいいのち、嬉しくて踊っています」。これが、「今、生きている」という短い言葉の中味ですね。そういうことで、「変換」という詩は、「仏教の根本から湧き出ている詩だ」と言っていいだろうと思いますね。
 
金光:  だから、その後の、「いのち日々あらたなり」という、昔からある言葉ですね。
 
小川:  そうです。「日々是好日(ひびこれこうじつ)」と言いますからね。
 
金光:  それを思い出されて、「ウンよく分かっている。私は分かります」と。
 
小川:  そうです。だから、これは普通、「日々あたらなり」という、「日々是好日」という言葉の意味を、もう少し深く押さえていますね。
 
金光:  その前の、「ひき算から足し算の変換、誰が教えてくれたのでしょう」これは別 に、小川一乗さんが教えてあげたわけでもないわけですね。
 
小川:  それはやっぱり「如来の働きだ」と、私は思いますね。それで妹のことが全国に出ていますので、一言、兄としてちょっと辛辣かも知りませんけれども、付け加えておきたいのは、『癌告知のあとで』を読まれた方が、「先生の妹さんは特別な人だ。私たちはなかなかああいうふうにはなれません」ということをよく言うんです。しかし、私から見ると、逆に、「あの妹がこんな詩を・・・分からんもんだなあ」と。「非常に個性の強くて、世界が自分中心に回っていないと満足しない」。それは、「お寺の坊守だ。園長だ」と言って、人々をリードしていかないと、納得できない、満足出来ないような妹だったんです。しかし、癌になって、「自分がいなければ幼稚園はやっていけないだろう。自分がいなければお寺は困るだろう」という思いが打ち砕かれたんですね。そういうことが出来なくなった。その時に、妹の偉いのは、「ああ、そうか。坊守だ、園長だ、と、自分の力でやってきた。私がいなければ、人々は困るだろう」と思って生きていたけれども、「自分は全部や らさせて貰っていたんだ」と。「いろんなご縁の中でたまたま坊守の役をさせて頂き、園長の役をさせて頂いただけのことだったんだなあ」と。多分、そういうことに「気が付いた」というか、「目覚めた」というんでしょうか。そういうことが あるんじゃないかなあと、私は思います。ですから、「妹さんのようになれません」という他の人に対して、「あんな妹が、よくなあ・・・」と、大体逆に、こういうふうに言うのが、私の口癖なんです。
 
金光:  でも、今のおっしゃった、「いろんなご縁で、私はそういう仕事をさせて貰って頂いたんだ」と気付かれた世界というのは、これは広いですね。
 
小川:  やっぱり、坊守として寺に、また、寺に生まれた、という、本人が気付かないところで、「ご縁が成熟していった」というんですか、「実を結んでいったんだろう」と思います。
 
金光:  終末期の医療をなさっている先生方のお話を伺いますと、いろんな患者さんがいらっしゃるわけですけれども、やっぱりエリートコースを歩んできた会社の部長さんなんかで、若手のバリバリのやり手の人なんかは、思いをほんとに残して、「まだ、あれやりたい。まだ、あれが出来ない。これが出来ない」と言いながら、亡くなられる方もおありだというふうに伺います。そういう意味では、「自分がいなきゃ」と思っていらっしゃった、その仕事が「出来なくなった」ところで、「仏教の本来の見方で、見ることが出来るようになった」。その表現が今までの詩という形になっている。でも、なんか肩の力が抜けているような印象を受けますね。
 
小川:  かえって、どうでしょうか。「私が、私が」と言って、「我を張って生きてきた人間だからこそ、逆に打ち破られて」という面もあるんじゃないでしょうか。あんまり円満に生きてきた人は、なかなかそういうご縁が結べないかも知れませんね。
 
金光:  じゃ、もう一度読まして頂きます。
 
     「変換」
 
     死にむかって
     進んでいるのではない
     今をもらって生きているのだ
     今ゼロであって当然の私が
     今生きている
     ひき算から足し算の変換
     誰が教えてくれたのでしょう
     新しい生命
     嬉しくて踊っています
     いのち日々あらたなり
     うーんわかります
          (鈴木章子)
 
「今を生きていく」。ご本人はそういう「今を生きる」姿勢で、どこまででも生きていかれればいいんでしょうけれども、やっぱり現実には、お亡くなりになるわけですね。それでやっぱり亡くなられると、「どこへ行ったんだろう」という。今度は、「次の世はどうだろうか」と。やっぱり人間として、「死んだら、どっかで誰か待ってくれるんではないだろうか」みたいな自然な感情としてあると思うんですが、その辺の、「この世・現在」と、それから、「過去世」だとか、「未来」だとか、その辺との関係は、どういうふうに考えたら宜しいでしょうか。
 
小川:  その辺は、釈尊の仏教では極めて明確なんです。その前に一言申しておきたいことは、「人は必ず死にます。死ということがあるから、世界のいろんな宗教がある」のであって、「何のためにあるか」というと、「安心して死を引き受けていける」と言うか、「安らかに死を迎えていける人生でありたい」というのが基本にあるわけです。「死ということがなければ、宗教は必要がない」わけです。ところが、現在どうでしょうか。日本における批判がましいことを言うては失礼ですけども、死をタブーにして、死のことは口にしない。それは単に、「死は縁起が悪いから」ということで、口にしないだけじゃなしに、「死んでからのことは分からない」。いわゆる科学的な実証主義ですね。それは誰も死んだことを実証出来ませんから。そういう「死んでみないと分からない」という話で、「死のことには触れない」というのが、趨勢ではないかと思います。しかし、「生きている人間が一番恐れているのはやっぱり死」じゃないでしょうか。その「死の問題を誤魔化している」と、言葉が悪いけれども。現代の仏教は、そういう面があるんじゃないか、と思います。しかし、釈尊は死ということは、明確にお説きになっておられます。「どういうことか」というと、ご存じの仏教の旗印に「三法印(さんぼういん)」と申しまして、三つの旗印があります。「諸行は無常である」「諸法は無我である」「涅槃は寂静(じゃくじょう)である」と。そうすると、「涅槃(ねはん)」というのは、「この世のいのちがすべて終わった世界」ですね。それは「寂静である」と。「静けさである」というのが基本にあるわけです。そうすると、「何故そういうことが言えるのか」ということが、次の大事な問題なんです。何故、釈尊は、「涅槃寂静ということを言われたか」と言うと、その当時のインドの社会では、最初に申しました「業報による輪廻転生」で、「いのちは生まれ変わり、死に変わり」をして、霊魂のようなものでしょうか、そういうものが、「永遠に続いて、人間は生まれ変わり、死に変わりするんだ」ということが説かれていた時代の中で、釈尊は、「違うんだ」と。「この私はこの一瞬の私しか存在しない」「昨日の私は居ません。明日の私もまだ居ません」。「まだ居ないだけじゃなしに、居るか居ないかも分かりません。この一瞬の只今のいのちは数限りないほどの因縁によって形成されている」。だから、「いのちを終える」ということは、「それらの因縁がすべて消滅して、綺麗に清らかになった世界である」と。それが「涅槃寂静」という言葉で表現されているわけです。そういう涅槃のあり方を、この世でキチッと頂いて、安心して、人生を生ききっていける。そういうことでなければ、「人間としては完成した人間とは言えない」と。
 
金光:  「この世」なんですね。
 
小川:  勿論、「この世で、明らかになる」こと。
 
金光:  「死んだらそうなれるんじゃないか」というのとはまた違うんですね。
 
小川:  違います。それがちょっと難しい表現で言えば、仏教の基本的な教えである「生(しょう)死即涅槃(じそくねはん)」というのがございます。これを少し分析的に言いますと、先の妹の詩にありました「ゼロであって当然の私」というのが、「涅槃の世界」ですね。それが、「いろんな因縁によって、ここにこうして私という存在として、生死を頂いている」。だから、「生死」と「本来ゼロである私」とは、「一緒の世界」である。「二重重ね」とでも言いましょうか。そういう「只今を生きている」んですね。そういうのが「生死即涅槃」ということです。これを見事に易しい言葉で表現して下さっている方に、妙好人のおひとりに浅原才市(あさはらさいち)という方がおられます。お念仏を喜ばれた方を妙好人とこう言うんですけれども、私はこれをいつも使わさせて頂いております。その方のお言葉があります。
 
     才市や何処(どこ)におる
     浄土貰うて娑婆(しゃば)におる
     これがよろこび
     なむあみだぶつ
        (浅原才市)
 
これが「生死即涅槃」を分かり易く言って下さっていますね。「浄土はもう涅槃の世界」です。「ちゃんと涅槃という確かな世界を頂きながら、今、娑婆の縁によって、ここにこうしていのちを頂いております。それが嬉しい。それが喜び、なむあみだぶつ」とこういうね。「生死即涅槃」というと、ちょっと難しく聞こえますけども、こういうふうに言って頂くと分かり易く頂けるんじゃないかなあ、と思いますね。
 
金光:  その辺のところを、「浄土」という言葉を使ってはいないわけですけれども、お釈迦様の場合は、そういう「涅槃の世界」。これは、要するに、「輪廻しなくてすむ世界」ということでございましょう。
 
小川:  お釈迦様が、「輪廻転生」ということが定着して、常識となっている社会の中で、「そういうことはあり得ないんだ」ということをお説きになったのが、「涅槃寂静」です。ところが、この「涅槃寂静」という言葉を、また我々は誤解するんです。「死んだら終わりか」という。
 
金光:  静かになってものも言わぬ。「成仏する」という変な言葉になっちゃって、
 
小川:  その基本が「誤りだ」ということは、「今ある」と思っているからです。「今ゼロ」なんでしょう。それが、「たまたまの因縁によって、只今という私があり得ている」わけでしょう。「死んでからなくなる」んじゃないんです。いま既に、この「私は」と言えるようなものは、何にもないのに、「無量無数と言っていいほどの因縁が、私を形成している」だけなんですね。
 
金光:  そうは言われても、やっぱり、「私はここにちゃんと」という感じを受けますけれども、
 
小川:  ここでも、「私のもの」といえる、何かありますか。「みんな頂きもの」です。
 
金光:  それは頂きものです。
 
小川:  その時に、私たちはやっぱり「自我の世界」にいますから、「私が、私が」と言って生きていますので、「この体は私のものだ。この智慧は、知識は私のものだ」。そう思って生きていますけれども、「みんな貰い物だったなあ」ということに、「目覚めた時に、そういう世界が開けてくると、ゼロ発見が出来る」んですよ。
 
金光:  でも、そうしますと、「今のゼロ発見が出来たのが、本当の智慧だ」ということで、そうじゃなくて、「こうちゃんと体があるよ」と言っているのは「智慧がない」ということになるわけですね。
 
小川:  そうですよ。ハッキリそれは知識だけですね。
 
金光:  それは言葉として、釈尊は遺していらっしゃるんですか。
 
小川:  はい。これは同じように、当時のインドの「業報輪廻転生」という、いのちのあり方に対して、根本から、「それは人間がいのちの真実を知らない無知から、無知によって作り上げられている幻想の世界なんだ」ということを、ハッキリお釈迦様は言っております。
 
金光:  そうすると、死ということを、本来の仏教の場合は、「死んだらどこへ行くか」みたいなことは、「考える必要がない次元で生きていらっしゃる」ということですか。
 
小川:  そうですね。
 
金光:  やっぱり、「ゼロの延長」ということになるわけですか。
 
小川:  そうなんです。「延長」と言ってもいいけれども、もっと言えば、「元へ戻るだけ」です。こんな人間としての、「これだけの生涯を頂いた。良かったなあ」と元へ戻ればいいのであってね。
 
金光:  それは釈尊の場合も、非常に分かり易い言葉で、当時の人を相手になさっているから、そういう言葉でおっしゃっているんですけれども、それは日本まで伝わってきている仏教の御祖師さん方も、そういう表現をちゃんとなさっていらっしゃるわけですか。「死んだら極楽浄土へ行くんだよ」みたいな、例えば、親鸞聖人なんかは、そういうことはどういうふうにおっしゃっているんですか。
 
小川:  親鸞聖人の場合は、哲学者ではありません。宗教家ですから、確かにいのちを終えれば、「なんか楽しい、いい理想の世界に行きたい」という願いをもって死ぬ、いのちを終えていく人がいっぱいいますね。そういう人たちを、親鸞聖人は無視しなかったんですね。ところが、「阿弥陀如来の浄土」というのは、今言った「涅槃寂静」なんです。ちょっと難しい言葉を使いますけども、親鸞聖人は「必至滅度(ひっしめつど)」必ず滅度に到る。これは、「必ず完全な涅槃にいく」という意味ですね。しかし、人々はやはり「いいところへ行きたい」という、未来に幻想社会を創りあげる。それを親鸞聖人は「方便化土(ほうべんけど)」と。「仮りそめな手段としての世界なんだ」という形で表現されております。どうしても、私たちは、「将来、いのちを終えれば、なんか麗しい、美しい世界が待っている」と思っていのちを終えますけれども、しかし厳しく言えば、それは、「私たちの思い」であって、基本的には、「涅槃は静けさなんだ」と。「死に何の意味を持たしてはいけない」。私たちは輪廻転生じゃありませんけども、死というものに、何らかの意味を持たせないと納得出来ない。生きている自我ですね。ですから、「死とは生まれ変わりの出発点である」とか、「誰かの役にたつ死でありたい」とか、脳死による臓器提供がありますね。「どうせ死ぬんなら、人にお役に立ちたい」と。そう言ったように、「自分の死というものに意味付けをして、やっと安心して、死んだらどっかいいところへ行ける」と、そういう「意味付けを行う」ことによって、「死を安心して迎えていく」というか、「納得していく」というのが、殆どの人じゃないでしょうか。ですから、そういう自我の働きの中ではやむをえません。しかし、「自我を超えた仏教の世界ではそうじゃないんだよ」と。「死は静かな元の大きないのちの世界に帰らせて貰う」。それが本当の親鸞聖人のお言葉で言えば、「真実の浄土」「真実の報土(ほうど)」なんだよ、と。それが基本だと思います。例えば、科学の世界は、「人間の苦悩とか、苦痛とか、そういうものを全部切り取る手術をして、切り取ることによって、人間は楽になる」。仏教は違います。「苦悩を引き受けることによって、超えていける。苦悩もいのちの一つである。だから、苦しみや苦痛を切り捨てたり、そこから逃げるのではなしに、それを引き受けた時にこそ、本当に超えて生きるいのちの真実があるんだ」というのが、仏教の基本ですから。
 
金光:  確かに、章子さんも「癌だ」というのを逃げないで、受け止められましたですね。そこから、「新しい頂かれる世界が見えてきた」というようなことか、と思うんですが。
 
小川:  ほんとにそうですね。癌という告知を受けて、いのちを終えていく人が、いろんないのちの終わり方があるけれども、折角のいのちを終えていくんだから、もう少し「良かったなあ」「有り難う」と言った妹の方が、どれだけ安らかに死を迎えることが出来たでしょうか。ちょっとしたことで、勝ったり、負けたりする世界はあるけれども、人間のいのちは最終的には、「我がはからい、何の役にも立たなかったなあ」ということを頂いた時に、その中で、「精一杯やっていく」と。
 
金光:  そこにはお釈迦様・釈尊の説かれた縁によって成り立っている自分というのも、「ゼロである」とか、「空である」という言葉で言われたその辺のところが、我が身に頂けると、今、おっしゃったような世界が、「そうかなあ」「成る程」「有り難うございました」ということで、「納得出来る」ということでございましょうか。
 
小川:  そうして、一つだけ付け加えたいのは、今、いろんな宗教がありますね。そして、「どれが迷信で、どれが本物か、偽物か」と言って盛んによく私も聞かれるんです。「本物の宗教と偽物の宗教の見分け方を教えて下さい」とか、そういうふうに言うてくるんですけれども、信者がいる限り、その人にとっては全部真実ですね。そうすると、「偽物は何か。本物は何か」と、ほんとは「その区別がない」んです。ただ、私がいつも言っていることは、区別があるとすれば、その教えに出合ったことによって、「生きていることがドンドン嬉しく楽しくなっていく」。これが「本物」である。その教えに出合って、「次第に暗くなっていく。騙されたとか金を取られたとか、ドンドン人生が暗くなっていく」ような宗教は、それは「偽物」であると、そういうふうに言うていいんじゃないか、ということを申しているんです。今日はたまたま章子の詩を出して頂きましたけれども、章子はだんだん明るくなったでしょう。そこに、「癌というご縁を通して、自分のいのちの真実 に出合った」。そこに本物の宗教を見ますね。
 
金光:  じゃ、今日のお話を伺いながら、やっぱり自分の体を通して、そういう仏教の、非常に大事な教えをもう一度味わってみたいと思います。どうも有り難うございました。
 
小川:  大変勝手なことを申し上げまして。
 
 
     これは、平成十二年六月十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。