悟りへの道ー夢窓疎石の教えー
 
                          天竜寺管長    平 田  精 耕(せいこう)
                          京都大学名誉教授 上 田  正 昭(まさあき)
                          き き て    峯 尾  武 男
 
峯尾:  京都嵐山にある臨済宗天龍寺派大本山天龍寺。足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐(ごだいご)天皇の冥福を祈り、夢窓疎石(むそうそせき)を開山として創建した寺です。康永(こうえい)四年(一三四五)に落慶大法会(ほうえ)が行われました。夢窓疎石は鎌倉から南北朝の動乱の時代を生きた禅僧です。北条高時(たかとき)、後醍醐天皇、足利尊氏ら、敵対しあういずれの側からも、夢窓疎石は敬愛と帰依を受け、室町時代の禅宗の隆盛を導いたと言われています。一方で優れた政略家であったとも言われる夢窓の実像は、一般にはあまり知られていません。今年、夢窓の六百五十年の遠諱(おんき)を迎えるのを機に、今日は動乱の時代に生きた夢窓の姿とその教えを見て参ります。夢窓國師・夢窓疎石が造ったと言われるお庭を見ながら、今日は二人の方にお話を伺って参ります。天竜寺管長の平田精耕さん、そして、京都大学名誉教授の上田正昭さんです。お二人、どうぞよろしくお願い致します。
まず、お二人にとっての夢窓疎石がどういう人物であるか。それから伺いたいんですが、平田さんは、「夢窓疎石に好感がもてる、お好きだ」とおっしゃっていますよね。
 
平田:  はい。私は開山夢窓國師から数えて第八十四世ということになっているのですが、八十四代も下ってくると随分つまらない禅僧になってくるのですが、私は夢窓国師を禅僧として非常に尊敬申し上げています。いろいろな研究者の方、学者の方が夢窓論を論じておられて、中には、「政略家であった」とか、「健(けん)謀術数(ぼうじゅつすう)を知っていた」とか、というような論文が多々出ておるわけですが、今日、私はそれを反論したい。そういうことを書く人は、そういう気持をもっている人なので、そんなことばかりが気になるのですね。私はやっぱり夢窓国師は一流の宗教家であったと思います。禅僧という面から見ても、或いは、人物から見ても、知識、教養の度合いから言っても、すべてを包み込むようなところがある。やはり、一流の禅僧であったというのが、私の敬愛と尊敬の一つの大きな理由となって今日まできております。
 
峯尾:  上田先生、如何ですか。
 
上田:  夢窓國師についてはいろいろな評価がありますけれども、やはり優れた学僧であったことは間違いないと思いますね。生きておられる時に後醍醐天皇、それから光明(こうみょう)天皇(北朝第二代の天皇)、さらに光厳(こうごん)法皇(北朝第一代の天皇)と、三人の天皇から國師号をいただかれ、また亡くなられてから四人の天皇から國師号を頂いている。これを「七朝國師」と申しますけれども、いかに優れた人物であったかということは、それ一つとっても言えると思います。そして、大事なのは、禅宗は中国から入ってくるわけですけれども、夢窓によって禅宗の日本化というか、日本の禅宗は夢窓疎石によって築かれた、と言っていいのではないかと思います。それから夢窓國師は庭造りの名人でもあって、国の現在の史蹟名勝に指定している庭園の中で、夢窓国師の作は、天龍寺、西芳寺(さいほうじ)は勿論ですけれども、五つございます。仏教だけではなくて、日本の文化の発展を考える上で、夢窓國師の存在は大きいと思っております。
 
峯尾:  今日は、私どもが座っております前のテーブルの上に地図を置いたのですが、この地図は夢窓疎石の足跡が如何に広範囲にわたっているかを示しています。夢窓は、建治元年(一二七五)、伊勢の国の豪族、佐々木朝綱(ともつな)の子として生まれましたが、四歳の時には、一家は既に甲斐(かい)の国へ移っております。この幼年時代、少年時代、一二七五年、まずこのあたりの時代背景ですが、上田さん、どのような時代だったのでしょうか。
 
上田:  夢窓國師がお生まれになったその直前に、文永(ぶんえい)十一年(一二七四)、文永(ぶんえい)の役といって、元(げん)が日本を攻めてきます。勿論、元だけでなくて、朝鮮の高麗との連合軍で、その背後には元がいます。それが終わって、建治(けんじ)元年に生まれられたわけですが、すぐに弘安(こうあん)四年(一二八一)、弘安(こうあん)の役(えき)という二回目の元寇(げんこう)と申しますが、蒙古(もうこ)襲来がありました。ですから、夢窓國師の生まれられた時代は、大変な激動期と言っていいと思います。鎌倉幕府は執権北条時宗(ときむね)(時頼の子:1251-1284)が中心となり、元寇を撃退するのですが、それから後、次第に鎌倉の勢力は衰えていくわけです。そして建武(けんむ)の新政があって、南北朝動乱になりますから、七十七歳の夢窓國師の生涯というのは、決して安らかな平安の時を生きたのではなく、鎌倉から室町という激動の時代を生きられた、と言っていいと思います。
 
峯尾:  その激動の時代に幼少年期を迎えた夢窓ですけれども、平田さん、九歳で既に真言密教に接しているわけですよね。
 
平田:  そうですね。大体、我々は禅の世界を語るときにマニュアルのようなものがあって、禅僧の話をするのに、三期に分けています。一つは出生(しゅっせい)から修行時代まで、二つ目は聖胎長(しょうたいちょう)養(よう)と言って自分の得た悟境をあたためる時代、それから、最後は人のため世のために、俗世に出るという為人度生(いにんどしょう)という三期に分けています。
まず、その最初の時期というのは、平塩山寺という天台宗の大きなお寺が牧の庄にあって、九歳の時、そこで親に連れられて出家します。小僧に入るわけです。ただ、いろんな高僧の伝説などを見ると、小さい時に無常を感じて寺に入ったとか、いろいろ言いますが、実際はそんな小さな子供が無常を感じるということはない。というよりは、我々だって小学校へ入って、中学、高校、大学へ行っていろいろな知識を身につけたいですよね。そのような気持で入っていったのだろうと思います。ことに夢窓という人は、幼少期は大変おとなしい子供で、人と喧嘩したりということは嫌いで、むしろ字を書いたり、お経を覚えたりするほうが好きというような子供だったので、余計に親が九歳で平塩山寺という密教のお寺であり、天台のお寺でもあったとも言われるのですが、そこへ入れて修行させるわけですね。それから奈良の東大寺へ行って、授戒というものを受けて、正式に小僧になるわけです。ところが比叡山から一人の講経僧、今でいう仏教学者でしょうか、講経僧がやって来て、滔々と仏教を論じ、密教の行法(ぎょうほう)を論ずるわけです。ところが、どうしたことか、仏教を滔々と立て板に水で講じていたその仏教学者が、死に際にあたって自失呆然、狼狽(うろた)えてこの世を去っていくわけです。これを見て、十七、八の若き日の青年夢窓は、そういう学問仏教、或いは密教の仏教というものに絶望を感じるのです。
一方、当時は中国宋の国から多くの禅の高僧が、幕府の招聘(しょうへい)によって、或いは、戦乱を嫌って亡命して日本へ入ってきているわけです。これらの人たちが唱える禅というものは、我々の言葉でいえば、「不立文字(ふりゅうもんじ)・教外別伝(きょうげべつでん)」です。文字を立てず、教えのほかに別に伝えるのが禅である、そういう宗風をもっているわけですね。五千四十余巻といわれる一大経典に書かれていることをいくら勉強したって、文字の意味や言葉の意味を知ってみたって、それが仏陀の本当の教えで悟り、生死脱得(しょうじだっとく)の原因にはならない。教外別伝、心で実際にそれを自分が感得しなければならない。こういうことを知るわけですね。その不立文字教外別伝に憧れて、これを最後にと思い、百日の願をかけ、夢窓は密教の行(ぎょう)をするわけです。百日に到る三日前に、夢朦朧(もうろう)で加持祈祷の行(ぎょう)をしていると、一人の僧が出て来ます。そして、ある寺へ案内をする。勿論、これは夢の中の話ですよ。壮麗な寺で、「これは何処ですか」と問うと、「これは疎山(そざん)という寺だ。疎山匡仁(きょうにん)禅師という有名な和尚のいたところだ」という。さらに、もう一つ寺をたずねます。これもまた壮麗な寺で、「これは何と言う寺ですか」と尋ねると、「石頭(せきとう)といい、石頭希遷(せきとうきせん)禅師という人がいたという大変有名な寺だ」という。すると寺から僧が出て来ます。そして案内してきた僧が、「この僧は軸物を貰うためにやって来た」といったので、出て来た僧は夢窓に軸物を渡します。それを開いて見ると、達磨の半身像が出てくる。これでもって疎山と石頭から一字ずつ取って、名を「疎石(そせき)」と変えて禅に転向したというエピソードが伝わっています。
 
峯尾:  それが年齢でいうと?
 
平田:  十九歳です。今、十七、十八歳というと、問題の年齢になっていますがね。当時からやはり十七、八歳というのは動揺と不安の時期であり、それ程喧しくいうことはないのでしょう。我々にもいろいろありましたよね。
それから禅の勉強をするのには禅寺へ行きます。禅寺というのは集団生活をしています。中国から入ってきた禅堂生活には、「礼儀三千、威儀八百」と言われるように、日常生活、歩き方から箸の上げ下ろしまで喧しくいう規則があります。まず、それを学ばねばならないということで、京都の建仁寺(けんにんじ)が古い寺なのでそこへ入って、無隠圓範(むいんえんぱん)という人に随って、一、二年、そういう規則を習います。「清規(しんぎ)」と言います。時に鎌倉に一山一寧(いちざんいちねい)という正式に中国から使者としてやって来た禅僧がいるんです。ところが一時スパイの嫌疑をかけられて、伊豆の修善寺(しゅぜんじ)に暫く幽閉されるという人です。当時の宋朝禅をそのまま日本へ持ってきた人物で、その人の下で、建長寺で四、五年参禅をします。ところが何といっても相手は中国人です。夢窓は日本人で言葉が通じないということもあったのだろうと思います。うまく話が進まない。そこで建長寺を出て、友人を訪ねて奥羽地方へ遍参(へんさん)行脚(あんぎゃ)に出ます。鎌倉から奥州へ行くわけです。松島、現在瑞巌寺(ずいがんじ)という名前になっていますが、松島寺(まつしまでら)、ここに真観(しんかん)上人の門弟という天台止観を講義している立派な仏教学者がいると聞きます。禅といえども天台止観から出ていますから、その講義を聴いて、夢窓は仏教各派のいろいろな教義がはっきりした。
そしてようやく再び鎌倉へ戻って来ます。そしてもう一度、一山一寧について参禅をします。そして、「某甲(それがし)、己事(こじ)未だ明らかならず。請う、師指示(じきし)せよ─まだ自分の心がはっきり分かりません。どうか教えて頂きたい」とこう言うと、「我が宗には言句もなく、一法として人に与うるもなし─いや、お前さんに与える仏法はない」と拒否される。「更に請う、和尚慈悲をもて方便せよ─いや、お願いを致します。もう一度慈悲をもって方便して教えて頂けませんか」と言うと、「方便もなく、慈悲もなし」と。これは素晴らしい言葉です。これでもう答えているのです。はっきりと慈悲で答えているのですが、それが夢窓には分からなかった。拒否されたと思った夢窓は、あきらめて、今度はいわき市の近くの白鳥というところへおそらく行ったと思います。そこで一人坐禅をし、それから、内草(うちくさ)山へ入ってまた一人坐禅をする。この間に、我々は「現境(げんきょう)」というのですが、いろいろな心境が現れてくる。例えば、内草山で夢窓が囲炉裏の前で坐禅をしていたら、囲炉裏の炎がボーッと空中に飛び上がった。それがサーッと光った途端にすべてが分かったような感じがしたというのです。或いは、竹藪に陽(ひかり)があたって風がそよいだ。その瞬間に自分の心の動きが分かったような気がした。これを現境といって、私なんかも実際それを経験しています。坐禅をしていると、地獄のどん底をダーッと落ちていくような錯覚が起こったり、人によっては仏さまが背高ぞろいで、目の前にズラーッと現われたりします。すべてこれは現境です。優れた境地ではあるけれども、魔境であると、禅では言います。自分のことを言って恐縮ですが、愛宕山(あたごやま)の近くに月輪寺(つきのわでら)という寺があり、私もそこで一週間断食して坐禅をしたら、体が全部透き通った。これは悟りだと思って寺へ帰って牧翁老師に言うと、問題にされなかったということがあります。そういうのを現境という。
それから、夢窓は臼庭(うすば)というところへ移ります。その六月、暑い時だったので外へ出ます。もう仏教学の勉強をしても駄目だというので、自分が尊敬する『大慧書(だいえしょ)』『圜悟心要(えんごしんよう)』『林間録(りんかんろく)』という書を読むのみで─これらの書も後には捨ててしまいますが─、あとは坐禅をしていて、そういう現境が出た。疲れたので部屋へ上がって壁にもたれようと思ったら壁がなく、ドサ─ンと後ろへひっくり返った。その瞬間にはっきり分かったと言うのです。その時に「投機(とうき)の偈(げ)」という漢詩を作っています。
 
     投機偈(げ)    投機(とうき)の偈(げ)
 
     多年掘地覓青天    多年、地を掘って青天を覓(もと)む
     添得重重礙膺物    添え得たり重々礙膺(げよう)の物
     一夜暗中飃碌甎    一夜、暗中に碌甎(ろくせん)を飃(あ)げ 
     等闌mモ虚空骨    等(なおざり)に撃砕(ぎゃくさい)す虚空(こくう)の骨
 
「投機(とうき)の偈(げ)」の「投」は投げる、そこへ投ずるということ。「機」というのは心の働きのことです。「偈」(げ)というのは禅で偈頌(げじゅ)と言って、七言の絶句のことです。「天(てん)」と「甎(せん)」というように韻(いん)を合わせているわけです。
多年、地を掘って青天を覓(もと)む長い間大地を掘って青天を求めるように、方向違いのことをしてきた。あれを学びこれを学んで、なんとか生死脱得(しょうじだっとく)の悟りを開こうとしてきた。
添え得たり重々礙膺(げよう)の物─悟りに邪魔になるものばかり積み重なってしまった。
一夜、暗中に碌甎(ろくせん)を飃(あ)げかわらけもみな上に吹き上げてしまった。
等(なおざり)に撃砕(ぎゃくさい)す虚空(こくう)の骨虚空にも骨がある。その骨もぶっつぶしてしまって、まったく無一物の世界に入ってしまった。
こういう偈を作り、急いでまた再び建長寺へ戻って来て、今度は高峰(こうほう)顕日(けんにち)(仏国禅師)という人がいるので、
 
峯尾:  この人は日本の方ですね。
 
平田:  ええ。その人に向かって、ここでは省略しますが、「これこれしかじかのことがあった」と、二、三の問答があって、一応禅の根本経験は体験したという証明をしてもらいます。時に三十一歳。十二年間あっちこっちへ行って修行したわけです。ここ迄が第一期、修行の時期と見ていいと思います。
 
峯尾:  この凡そ十年、或いは、その前後において、禅宗が日本の社会でどのような位置を占めていたのか、どのような状態にあったかということを、上田先生、少し教えて頂けますか。
 
上田:  今も管長老師がおっしゃったように、鎌倉時代には中国から禅の高僧が日本に来ます。そこで鎌倉幕府は禅宗を非常に重視しますが、なお民衆サイドには広がっていない。ですから、夢窓国師によって俗界と言いますか、世俗の中に禅の教えが広がっていくと理解した方が、私はいいと思います。禅宗が発展していたことは間違いないのですが、実際には鎌倉幕府の力が弱まっていき、これでもう禅宗は駄目ではないかという危機感が禅宗僧侶の間に起こってきます。そんな中で夢窓国師が禅の教えをずっと説いていかれるわけです。のちの室町時代、禅宗は黄金時代を迎えるのですが、その黄金時代のもとを築いたのは夢窓國師ですね。
先程話がありましたように、ここにある地図を見ても、足跡が土佐から奥州まで及んでいるわけです。のちに南禅寺の僧侶が、夢窓國師はあれだけあちらこちら行っているので、心身が疲労して悟りなど開けないのではないかという質問をしています。夢窓國師は、大円覚(だいえんがく)、つまり悟り、悟りの境地大円覚こそ我が伽藍なりという答をしておられます。いたるところに道を求めて回國修行されるわけですが、それぞれの場所で悟りの場所が自分の住まいだとおっしゃるわけです。ですから、開山のお寺が、年譜では十三カ寺ですが、十五カ寺は確かに夢窓國師の開山ですね。これだけでも凄い方ですね。行ったところ行ったところにお寺を造るわけだから、これは普通のお坊さんでは出来ませんよ。やはりそれだけの人望があるわけですね。
 
平田:  私は先ほどマニュアルに従ってと言いましたが、三十一歳で一応修行期が済んで、それから今度は聖胎長養という時期に入ります。単なる隠遁(いんとん)ではなく、自分の今までに開いた心を静かにあたためる時期というものを必要とする。三十一歳から五十一歳、「南禅寺へ来い」と言われる迄の二十年間が、聖胎長養の時期になるわけです。世に出ない、これを話すときりがないのですが、三十四歳まで甲府に浄居寺(じょうごじ)という寺を建てて住します。そして、浄居寺が焼けると、今度は龍山(りゅうざん)庵という牧の庄にある寺に住します。
ところが、夢窓が悟りを開いて高峯顕日という人の証明をもって聖胎長養しているということを聞いて、全国から弟子がやって来る。「来るな」と言っても集まって来るんですね。私など不徳なので頼んでも来ない。人が集まるので困ったと思い、今度は甲州を逃げて、岐阜県へ移ります。そして、現在、虚渓山(こけいざん)と言われている、美濃の古渓というところに小さな庵(いおり)を造って住むわけです。ところがまたここへ草鞋を履いて修行僧が、「なんとかひとつ私も弟子にして頂きたい」と言ってやって来ます。
今度は不思議なことに京都へ逃げます。京都の北山にちょっとした庵を結んで、そこでじっと坐禅をした。聖胎長養中に山中から逃げて、京都へ入ったということは、一体どういうことなのか。そういうところから、「時世を見るため京都へ行った」という学者もいるのですが、そんなことばかりに目を向けている学者もちょっとおかしいですね。これは我々宗教家と言いますか、宗教界の方から言うと、聖胎長養をしながら、しかも市中に入り、最後は街中に、つまり俗の世界に入って人を救うということが究極の目的なのですね。山中に隠遁をして、骨と皮とになって、そのまま朽ち果てるというのを、我々は、「小乗(しょうじょう)の羅漢(らかん)」と言います。大乗の仏教というのはそういうものではないのです。世相を厭離し、かつ世相を離れずというところが大乗仏教の精神にはある。臨済は、「途中にあって家舎を離れず途中にあって家を離れていない」、「家舎を離れて途中にあらず家を離れて途中にもいない」と言っていますが、そういう世俗一体のところに住するのが、最後の願いなのです。私は夢窓がそのテストをしたのであろうと思います。それがこの偈(げ)です。
 
      寓居聚落      聚落(じゅらく)に寓居(ぐうきょ)す
 
     寓舎囂塵昼掩関     囂塵(ごうじん)に寓舎(ぐうしゃ)して昼も関(かん)を掩(と)じ
     市中買得沃州山    市中(しちゅう)に買い得たり沃州(ようしゅう)の山
     娘生口裏不含血    娘生口裏(じょうしょうくり)血を含まず
     掛在乾坤宇宙間    掛(か)けて乾坤(けんこん)宇宙の間(かん)に在(あ)り
 
囂塵(ごうじん)に寓舎(ぐうしゃ)して昼も関を掩(と)じ付近にはたくさん家があるけれども、昼間も静かに門を閉ざしている。
市中(しちゅう)に買い得たり沃州(ようしゅう)の山沃州の山というのは中国の有名な山水のあるところです。町中にあって、その沃州(ようしゅう)の山を手に入れる。
娘生口裏(じょうしょうくり)血を含まず娘生というのは母親のことで、娘生口裏とは生まれつきの口ということです。その口に血を含まないということは、何も喋らないということです。
掛けて乾坤宇宙の間にあり喧しいこのぺちゃくちゃ喋る口は宇宙乾坤にしばらく掛けておく。黙って静かに市中の中で、山中にいるのと同じ心境になる。これを、「市中の大隠(たいいん)」という。本当の隠者というものは、死ぬまで骨と皮だけになって山の中にじっとしているものではない。市中にあって、なおかつ、隠者の生活が出来なくてはならない。このような思想の胚胎(はいたい)がここにあるだろうと私は思います。ところがここへまた多くの雲水、修行者が集まって来る。よほど立派な方だったのですね。
 
峯尾:  この時期ですね。北条高時のお母さんが、「鎌倉へ来い」と言ったのは。
 
平田:  ええ、そこで夢窓国師は土佐の吸江庵(きゅうこうあん)まで逃げます。これはおそらく鎌倉の招聘を避けて、あのようなところへ逃げたのだと思います。ところが、きついお達しで、「夢窓を隠す者は厳罰に処する」というお触れが出たので、やむをえず鎌倉へ帰って行くわけです。
 
峯尾:  上田さん、まさに幕府崩壊の寸前というところですね。
 
上田:  高時のお母さんは覚海(かくかい)という方ですが、覚海(かくかい)夫人が、「鎌倉へ来て欲しい。教えを請いたい」というのを避けて土佐へ行かれるわけですが、厳命やむなく鎌倉へ行かれる。こういうのを見ても、夢窓が政権へ自ら近付くのではなく、むしろ、政治家が夢窓の智慧を利用するということではないでしょうか。
 
平田:  倒壊寸前の鎌倉幕府、それに対して、京都から後醍醐天皇が、「南禅寺で住職をして欲しい」言ってきます。南禅寺と言えば、無関普門(むかんふもん)が開山、亀山法王が大壇越です。朝廷が壇越になったという初めてのお寺です。その天皇の招聘を、夢窓は、「まだ聖胎長養中だ」と言って断ります。しかし、後醍醐天皇の「住職と言っても煩雑なことはしてもらわなくてよい。南禅寺に住んで仏法の話を私にして頂ければよい」という勅命があったので、南禅寺に行きます。しかし、一年でまた鎌倉へ帰ってしまいます。というのは、京都の街はすでに天皇を中心に倒幕の運動が起こっており、ごたごたするわけです。その間、夢窓は再び甲州へ入って、甲斐の恵林寺(えりんじ)を開きます。その時に、「山居の十首」という詩を作る。このあたりが聖胎長養と次の為人度生(いにんどしょう)とが交わっている時期のような気がします。
 
     青山幾度変黄山   青山幾度(せいざんいくたび)か黄山(こうざん)に変(へん)ず
     浮世紛紜総不干   浮世(ふせい)の紛紜(ふんぷん)総(そう)に干(あず)からず
     眼裏有塵三界窄   眼裏(がんり)に塵(ちり)有(あ)れば三界(さんがい)窄(すぼ)く
     心頭無事一床寛   心頭無事(しんとうぶじ)なれば一床寛(いっしょうひろ)し
 
歴史の興亡盛衰、すべて俺には関係ない。たとえ天皇が新政をとろうと、鎌倉幕府が滅びようと、俺には一切関係ない。静かにただ山を眺め、楽しんでいれば、僅かな坐るところでも広いという詩なのです。
 
峯尾:  恵林寺に入って、数年で鎌倉幕府が倒れるという、ちょうどそのような時期ですね。
 
上田:  そうです。後醍醐天皇が夢窓に國師号を贈られる。その学識、仏教家としての見識を高く評価してのことだと思います。足利尊氏とも非常に親密で、「仁山」という法号を与え、弟の直義(ただよし)は「古山」という法号を与えている。尊氏も直義も夢窓國師を非常に尊敬しています。私は、尊氏を夢窓がどのように評価していたかという点に関心がある。当時は亀山ですが、今の亀岡の篠村八幡宮(しのむらはちまんぐう)から、いわば寝返って、六波羅探題を攻め、鎌倉幕府を滅ぼすわけでしょう。一種の裏切りを尊氏はする。ところが、夢窓國師が、「尊氏に三徳あり」と言うのです。これは『梅松論(ばいしょうろん)』という本に書いてあります。
その一つは、
 
     咲(えみ)を含めて畏怖(いふ)の色なし
 
戦いに臨んで微笑をたたえて恐れない。つまり勇気ですね。二番目には、
 
     慈悲天性(じひてんせい)にして人を悪(にく)み給う事を知り給わず
 
つまり、自分の敵を憎まない、寛容ですね。人間の度量の広さ。第三には、
 
     御心広大にして物惜(ものおしみ)の気なし
 
つまり、物欲ない、と。普通の尊氏観とは少し違うんですね。逆賊足利尊氏という考えではない。尊氏を非常に評価しています。元弘(げんこう)の変があり、鎌倉幕府が滅び、建武の新政があって、二年後には南北朝という時代を迎えるわけです。その激動の時代のなか、夢窓國師は、「怨敵なし、敵も味方もなく、被害を受けた山野の獣まで鎮魂しなければならない」と尊氏に進言して、当時全国九十九カ国あるのですが、一国ごとにお寺を造らせます。人間だけではなく、その戦乱によって被害を受けた動物をも鎮魂するのです。ここに私は感動します。この寺を安國寺(あんこくじ)と言い、利生塔(りしょうとう)を造ります。これは敵味方を越え、しかも自然を含めた、動物をも含めた、鎮魂の大事業なのです。夢窓国師の進言を受け、尊氏は六十六カ国に安国寺を造ります。これは大事業ですが、尊氏の側から言えば、北朝勢力を拡張するのにはもってこいのチャンスだったんです。ですから、南朝勢力のところには建っていません。安國寺が出来ると、これは部隊駐屯の基地にもなるわけですから、そのような思いが尊氏側にはあったと思います。ですが、夢窓國師を私が偉いと思うのは、山野の獣の命まで視野に入れているという点です。これは凄いなと思います。
 
峯尾:  今、上田さんがおっしゃったように、夢窓国師はそういう思いをもっていた。ただ、時の権力者は上手く自分の勢力拡張に取り込もうとした面も確かにあるわけですね。
 
上田:  そうなんですね。
 
峯尾:  一方では、夢窓がこういった時代、俗に交わるということをどう思っていたかということを表わしているのがこの偈頌(げじゅ)と考えていいでしょう。
 
平田:  ずっと晩年のものでしょう、次のように言っている。
 
      因乱書懐      乱に因(ちな)んで懐(おもい)を書(しょ)す
 
     世途今古幾窮通    世途(せいと)今古(こんこ)、幾(いく)たびか窮通(ぐつう)す
     万否千臧帰一空    万否千臧(まんぴせんぞう)、一空(いっくう)に帰す
     傀儡棚頭論彼我    傀儡棚頭(かいらいほうとう)、彼我(ひが)を論じ
     蝸牛角上闘英雄    蝸牛角上(かぎゅうかくじょう)、英雄(えいゆう)を闘(たたか)わしむ
 
万否千臧(まんぴせんぞう)、一空(いっくう)に帰すいいことも悪いことも本来何もないのではないか。
傀儡棚頭(かいらいほうとう)、彼我(ひが)を論じ傀儡(かいらい)とはあやつり人形、棚頭とはステージのことです。あやつり人形が、あれやこれやと言ってステージの上で論じているようなものだ。
蝸牛角上(かぎゅうかくじょう)、英雄(えいゆう)を闘(たたか)わしむ蝸(かたつむり)が角を突き合わせて、英雄だ、英雄だと言って闘っているようなものだ。誠に詰まらない。いち早く合戦を止めなさい。
こういう直言をしている。第二次大戦中に興禅護国を唱えた我々の先輩の禅僧で、軍人や当時の政治家にこういう直言したものは誰もいなかった。我々の年代はみなそれの犠牲になってしまったところがある。夢窓は尊氏や後醍醐天皇に近付いてはいるが、こういう直言をしているのだから、決しておもねってはいない。
直義が夢窓に政治と仏法の関係を聞いた問答が『夢中問答』の中にあります。夢窓はこう答えています。
 
元弘以来の御罪業と、その中の御善根(ごぜんこん)とを比べれば何(いず)れを多しとせんや。この間も御敵とて滅ぼされたる人幾人ぞ。その跡(後)に残り留りて、ろうろう(浪々)したる妻子眷属(けんぞく)の思ひは何くへか罷るべき。御敵のみあらず、御方(みかた)とて合戦して死したるも皆な御罪(ござい)となるべし
(『夢中問答』)
 
これを「怨親(おんしん)平等」と言って、恨みつらみなしで死んだ人を一緒に集めて慰霊するため、先ほど先生がおっしゃった安國寺利生塔を造れということを、征夷(せいい)大将軍になった足利尊氏に進言する。尊氏にもそのような思いがあったでしょうけども、そのようなことを指示したのは、やはり夢窓國師であっただろうと思いますね。
 
峯尾:  そして、暦応(れきおう)二年(一三三九)に後醍醐天皇が亡くなられて、足利尊氏はその冥福を祈るために、天竜寺を夢窓国師を開山として造らせようということになるわけですね。
上田:  そうです。年号が暦応ですので、最初は天龍寺という寺名ではなく、暦應(りゃくおう)資聖(しせい)禅寺としたのです。延暦寺も桓武天皇の時代の年号ですね。暦應(りゃくおう)資聖(しせい)禅寺を造ろうということになるのですが、比叡山が猛反対したのです。「年号の付いている寺は比叡山だけであり、けしからん」ということですね。そこで名前が「天龍資聖(しせい)禅寺」ということになるのです。これも言い伝えでは、直義が黄金の龍を夢で見たということになっているのですが。ところが、天龍寺を造るということになっても、大変な戦乱の後であり、幕府は財政的に苦しい。そのために、夢窓国師の意見で、「天龍寺船」(一三四二年、中国・元に派遣)と称する船を元に送り、日元貿易が始まります。天龍寺創建のため、公に認められた、今で言う日中貿易です。当時で一艘につき利益の中から五千貫を献上する。今のお金で言うと、五億円位になるのではないでしょうか。二艘ですと、十億円。しかも仮にその船がうまく利益が収められなくても、五千貫は必ず収めるということで始まります。実際には六年かかり、康永(こうえい)四年(一三四五)の八月に天龍寺落慶法要が行われます。深山幽谷にこもって坐禅を組み、悟りをひらくという高僧のイメージとは、この夢窓国師は違いますね。大いなる経営理念というかね。こうして日元貿易が始まって、足利三代将軍義満から実施する日明(にちみん)貿易、後の朱印船貿易へ発展していくわけですから、このようなことは普通のお坊さんではちょっと出来ないのではないでしょうか。凄いなと思いますね。
 
平田:  長い時間がかかりましたね。今おっしゃったように、比叡山から強訴(ごうそ)があったり、一度は嫌気がさして、夢窓国師が住職になることを辞めたりしていますが、実際の天龍寺の始まりは、尊氏が自らの罪業を夢窓に綿々と訴えるわけです。ことに尊氏は後醍醐天皇の心身を苦しめた。その霊を弔うために天龍寺を建てたいということです。
当時、怨霊(おんりょう)思想というものが日本にはあった。学者の中には、「神社や仏閣はみな怨霊鎮めのために造られた」というようなような言い方をする人もいますが、必ずしもそのようなことはないと、私は思うのです。確かに日本人の民間信仰に、恨んで死んだ亡霊が祟るというような祟りの信仰は現在もある。水子供養などは祟りの思想の表われでしょうね。それは俗世の信仰なんですね。ただ、後醍醐天皇が恨んで死んだ。白い着物を着て、京都の空中を飛んで走ったとかいうような、いろんな噂がたった。それを尊氏は極端に怖がったと思うのです。そのため、怨霊鎮め、鎮魂の意味で天龍寺を建てるのです。そのことに対して、夢窓国師は反論したわけです。「私は天龍寺の開山にはならない」と固く辞したというのです。禅僧というのは、一度は辞するというのが一つの作法だと言うのですが、夢窓国師は本心から辞したのだと思います。ただ、俗間の怨霊鎮め、死んだ人の魂鎮めだけに天龍寺船まで出して、大きな伽藍を建てるのは勿体ない。そうではなく、生きている人間の魂を鎮めなければいけないわけです。しかし、人間というのは煩悩の存在で、八万四千の煩悩があるというのです。惜しい、憎い、欲しい、可愛いというような、縮めて言えば、三毒、貧(とん)瞋(じん)痴(ち)という、貪(むさぼ)りの心、怒りの心、物を知らない、ということです。夢窓国師は、「そういう生きている人間の貪りの魂を鎮めるということが、本来の鎮魂であり、そういうことであれば開山になりましょう」というんです。「どのようにして鎮めるのか」。「坐禅をして、心をずーっと根源のところへ摂(おさ)めなさい。そして、貧瞋痴の三毒の心を調えなさい。そういうことが本来の意味の怨霊鎮魂であり、同時に生きておる人間の鎮魂である。そういう寺が禅の寺である」という宣言をするわけです。
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峯尾:  康永四年(一三四五)に落慶大法会が行われて、その六年後、観応二年(一三五一)に夢窓国師は亡くなり、今年が六百五十年の遠諱の年ということですね。
さて、これまで夢窓の姿、その教え、考え方などについて、お話を伺って参りましたが、もう一つ、夢窓国師と言いますと、非常に優れた造園家で、沢山の庭園を造っており、今度はそのお話を伺ってみたいと思います。目の前のこの天龍寺の庭もそうなんですが、平田さん、禅宗にとって庭の意味するところというのは、どういうものなんでしょうか。
 
平田:  禅宗に必ず庭がなくてはいけないということはないのですが、一つの禅の芸術表現として庭があるということです。だから、禅の表現は庭園芸術だけではなく、能もそうであるし、茶道も明らかに禅から出ているわけです。そういう芸能の一つに庭園芸術はあると思います。ことに夢窓國師はそのような山水を愛し、愛でるということが好きだったようですね。
峯尾:  天龍寺以外で夢窓国師が造った庭ですが、まず、岐阜県多治見市の永保寺(えいほじ)。これは比較的若い時に造られたものですね。
 
平田:  虚渓山に入ったのは・・・
 
峯尾:  三十八歳ですね。
 
平田:  まだ若い。聖胎長養の真っ最中ですね。山中にあって池を造り、観音信仰をもっていたのでしょうか、観音閣というようなものを造るわけです。ずいぶん高いところにあるおぜん型の坐禅石もあります。その上で坐禅をしたのでしょう。
 
峯尾:  そして、天龍寺の比較的近くにある西芳寺(さいほうじ)、私どもは、「苔寺(こけでら)」と言っていますが。
 
平田:  夢窓國師は南陽慧忠(なんようえちゅう)(中国・唐の禅僧)という中国の國師に憧れ、彼をモデルにしているようなとこがあります。その南陽慧忠の有名な詩をとって、一つ一つ庭園に名をつけたわけです。「湘(しょう)の南(みんなみ)、潭(たん)の北(きた)」という詩句があって、「湘南亭」「潭北亭」という茶室がある。「中に黄金あって一国に充つ」というので、「黄金池」と言っているわけですね。
 
峯尾:  そして枯山水ですね。
 
平田:  向上関(こうじょうかん)。
 
峯尾:  滝を表している。
平田:  ええ。得ては捨て、悟っては捨て、ますます向上していくという意味で向上関というところがある。もともと西芳寺は浄土宗の寺で、改宗して禅の寺にしたのです。ここは先ほど言った聖胎長養の人だけを入れる場で『西芳遺訓』と称して、厳しい規則を作って、ここへ住んでいる人はその規則に従う、いわば厳しい悟後の修行の道場であったわけです。苔寺を造る時に、このような句を作っています。
 
     仁人自是愛山静   仁人(じんじん)は自(みず)から是(これ)山の静なるを愛す
     智者天然楽水清   智者は天然に水の清きを楽しむ
     莫怪愚惷翫山水   怪(あやし)むこと莫(な)れ愚惷(ぐとう)の山水を翫(もてあそ)ぶを
     只図藉此砺精明   只だ此(こ)れを藉(かり)て精明(せいめい)を砺(と)がんことを図(はか)るのみ
 
「砺(れい)」、これは研ぎ澄ますという意味なんですね。そこから「励精閣(れいせいかく)」というのを造っている。この偈頌がいわんとしていることは、「私が山や川のような山水を愛して庭を造るというようなことを、なぜそんなことをするのだという人がいるかもわからないが、それは言うことなかれ、怪しむことなかれ、そういうものを通して我が心を研ぎ澄ますためなのだ」ということです。怨憎(おんぞう)、愛欲、見たり、聞いたり、欲しがったり、貪ったりという心はどこから出てくるのか、そういう心の根源へと目覚めるためにやっているんだと。それが庭を造るひとつの方針になっているわけです。
 
上田:  心を磨く場として、夢窓国師は庭造りにいそしまれたと思うのですが、私が好きな言葉に、
 
     山水に得失なし
     得失は人の心にあり
       (『夢中問答』)
 
というのがあります。自然そのものの中に人間のありようを見出すということでしょう。人間は常に損得を考えて行動する。自然と人間が一体化する、今の言葉で言えば共生(きょうせい)ですね。ともに生きる。そういう思想が禅宗の庭園にあるのではないかと私は思います。禅宗の庭というのは観賞の庭より、まさに心を磨く庭だと思いますね。枯山水などもそうですし、曹源池(そうげんち)のように見事な池を廻遊する。廻遊式庭園というのですが、このような庭を造られる心ですね。日本の文化というものは、室町時代の庭園に集約されているような気がします。庭園の文化は、勿論、中国、朝鮮の方から入ってきたものですが、最近飛鳥寺の南で飛鳥時代の大きな庭園の遺構が見つかり、もう飛鳥時代には日本独自の庭園の文化になっているんですね。京都には名園が多いですが、大体が室町時代のものです。いわゆる苔寺、すなわち西芳寺にしても、鹿苑寺金閣にしても室町時代でしょう。大徳寺の大仙院の庭もですね。これはまさに日本の文化を集約している。そういう日本の庭園文化の基礎を夢窓国師が作られたと言えると思います。
 
峯尾:  上田さんは庭を造らせた夢窓国師だけでなく、実際の庭師の方たちのこともおっしゃっていますね。
 
上田:  ええ。夢窓国師は勿論設計されたでしょうが、忘れ易いのは、「山水(さんずい)の河原者(かわらもの)」と呼ばれた人びとのことです。彼らは身分も低くて、差別された人びとですが、そういう人たちが庭造りに加わっているんですね。時代は下りますが、銀閣寺のあの名園も、そのオーナーには足利義政がいるのですが、実際には善阿弥(ぜんあみ)という庭師が造るわけです。ですから、夢窓国師の庭の背後に、そういう「山水河原者(さんずいかわらもの)」と呼ばれた人びとが加わっているということも忘れてはならないと思います。
 
峯尾:  さて、いろいろお話をして頂いてまいりましたが、六百五十年の遠諱を迎えるにあたって、夢窓国師を現代人がどう評価するか、或いは、現代の我々がそこから何を学べるかということを最後に一言ずつ伺いたいのですが、上田先生、如何ですか。
 
上田:  高僧なりのあり方についてですね。深山幽谷にこもって悟る、もちろんそれは大事なことですが、その教えを世俗に広める、民衆を救わずして何の宗教だという考えが私にはあります。そういう意味では夢窓国師の行われたことは、今の世にも学ぶべきものが多いと思います。特に、乱世でしょう。乱世の中で、敵味方を乗り越えて、教えののあるべき姿を説かれたというところに魅力を感じますね。
 
峯尾:  平田さんは同じ宗教者として、どうお考えになりますか。
 
平田:  権力者に対しても直言はするし、それから、仏教各宗のことも非常によく勉強しておられる。そして、すべてのものを包み込んで自家薬籠(じかやくろう)中のものにするだけの力をお持ちになっている。まさに一流の人です。最近の宗教学者は、「純粋禅」なんていう言葉を使うが、そんな言葉を誰が作ったのかは知らないが、純粋に拘ったら、そんなものは禅じゃない。やはりいろいろなものを包み込んで、それを自家薬籠中のものにしながら、禅をあたためていくところが本当の一流の禅。人を見たら一喝をはいたり、一棒を叩いたりして、禅ぶるというのは本当ではないんです。この点は頂相(ちんそう)をご覧になっても、夢窓国師は私なんかと違って、痩せ型で、口元を見ても慈悲に満ちた口元をしておられる。あの人こそ純粋な日本人で、純粋に一流人であると私は思う。和歌も巧みでしたしね。だから、「宋直入の禅ではない」とも批判される。非常に日本化した禅というものを広めた方だと思っております。
 
峯尾:  どうも有り難うございました。
 
 
     これは、平成十二年八月二十七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。