死に向きあうとき
 
                          冠婚葬祭会社役員 青 木  新 門(しんもん)
                          ききて      山 根  基 世
                                  (アナウンサー)
 
ナレーター: 今回は富山県富山市を訪ね、青木新門さんにお話を伺いました。青木さんは詩や小説の創作活動ののち、昭和四十八年、市内の冠婚葬祭会社に職を得ました。葬儀会社は通夜から、告別式の準備に至るまで、さまざまな段階で遺族と死者との別れを支えます。仕事の中で、青木さんが担当したのは、遺体を棺(ひつぎ)に納める納棺(のうかん)です。役員として、後進の指導にあたるようになってからも、その強烈な体験が、青木さんの頭から離れることはありませんでした。死に向き合ってきた思いは、七年前に、『納棺夫日記』として、出版されています。納棺は死者を棺に納めるだけにとどまりません。硬直した遺体を棺に納めるため、全身をを揉みほぐします。遺体を拭き清め、死に化粧も施します。死に装束への着せ替えです。納棺はかつて近親者が行いましたが、高度成長期から業者への委託が広がりました。遺体の着せ替えも、参列者の目に触れないように布団の中で円滑に行います。富山では、業者を仲立ちに死者との大切な別れが続けられていますが、都会では、納棺に遺族が立ち会わない例も多いと言います。葬儀業者の方が、遺族より密接に死者と向き合うことが増えているのです。
この日、青木さんの案内で、市内に残る村の火葬場の跡を訪ねました。富山では昭和四十年代に、市の火葬場が出来るまでは、山から薪を集め、村人の手で死者を葬っていました。人々の生活やものの考え方の変化に伴い、納棺も火葬場も、日々の暮らしの中から遠ざかっていきました。
 

山根:  あら、厳重に鍵が掛かっている。
あら、煉瓦が案外新しいですね。
 
青木:  そうですね。ですから、戦後ですよね。昭和二十年代に造ったもんだと思います。十何年ほど使って、公域斎場が出来たから止めた。戦前というのは、殆どこういうものを造らないで裸だったと思うんですよ。ここへ入れますでしょう、中へ。その周りに薪を積み込む。まあ言ってみれば、焼き物を焼く、皿を焼く時、よく薪を積んでやるじゃないですか。あんな感じですよ。そして、ところがやっぱり途中でまた継ぎ足したりする。竹の棒なんかで突っついて。お腹の方が残るんですよね。焼けにくいと言うか。
 
山根:  ああ、そうなんですか。
 
青木:  こう突っついたりして、
 
山根:  でも、こうしてこのまま綺麗に残っているというのも、
 
青木:  少ないんですよ。此処なんかは珍しい。よく残っていると思います。
 

 
山根:  学生時代、東京に出ていらっしゃったわけですよね。
 
青木:  学生時代は東京です。
 
山根:  ちょうど六十年安保の、
 
青木:  そうなんですよ。もう殆ど授業がないという感じで。いつの間にか渦の中に巻き込まれて。金魚の糞みたいに。国会議事堂の前をズーと歩いて。ちょうどそういう時期でした。
 
山根:  私も、『納棺夫日記』を大変感銘深く読ませて頂きました。
 
青木:  ありがとうございます。
 
山根:  納棺夫という仕事に就かれるようになった経緯というのは、どういうことからですか。
 
青木:  そうですね。やっぱり挫折感で。まあたまたまお袋が富山市の方で、飲み屋みたいな、めしやみたいなことをやっていまして、そこへお袋が病気になりまして、帰って来まして、手伝っていたんですよ。お袋が治ったから、まあ帰ればまだ大学を続けたかも知れないんですけれども、あの時分は、なんとなく安保の挫折感とか、いろいろありまして、そのまま中退して、お袋の店を手伝っていました。それから今度はお袋と経営方針について喧嘩になりまして、自分で店をやりました。その頃から、今度、詩を書くようになったんです。そうしたら、詩人の仲間とか、絵描きとか、いろんな文学をやっているとか、そういう連中と付き合うようになりました。「ほら、作家になろう」という感じで、まだ若いからやって、そちらに夢中になっているうちに、店が倒産致しました。そうして、倒産した最悪の時に、ちょうど女房が子どもを生みまして、そうしたら、ドライミルクも買え ない状態になるわけですよ。これはいかんということで、ある日、女房と茶碗が飛ぶ、テーブルがひっくりかえるような喧嘩をしました。女房が投げつけました新聞が、僕の顔に当たりましたのです。それがポロッと下に落ちた時に、何故か知らんけど、求人欄が目に入りまして、その求人欄でアルバイトのつもりで行ったのが、葬儀社だったわけです。「新生活互助会社員募集」と書いているから、最初は何の会社か分からずに行ったんです。それが葬儀社だった。それで葬儀の方に私が入っていくような状態になるわけです。
 
山根:  その葬儀社にアルバイトなさった時は、最初から納棺という仕事をなさったわけですか。
 
青木:  いえ、全然違うんですよ。そんなことまさかするとは思っていなかったんです。もうまったく素人でしょう。作家になろうと思っているんですから。素人で入って、葬儀の現場へ連れて行かれて、
 
山根:  仕事内容は最初はなんだったんですか。どういうことをしたんですか。
 
青木:  結局、葬儀をやっていますから、葬儀の現場へ助手みたいに連れて行かれた。まだ出来立ての会社で、五、六人だったんですよ。だから、みんな行かなければならないわけです。で、行きますでしょう。最初は祭壇を飾ったり、お棺を届けて、納棺をするのを見ていたわけですよ。そして、そのうちに私が葬儀専門になっていくわけですね。
 
山根:  成る程。
 
青木:  当時は、此処なんか座棺(ざかん)です。「座棺」というのは座って、足を縄で縛って、そして、お棺に入れるという。今は寝てですけど。それをお棺に入れるという作業は、当時は全国的にも、北陸でも百パーセント、親族の方がしていた。従兄弟とか、おじさんとか、そういう人を、長老の方が名指しして、「お前と、お前えとがやれ」とかと言われてやる。それも本当はやりたくないんだけど、「やれ」と言われて仕方なしにやる。なんか割烹着か、エプロン着て、荒縄で腰を縛って、襷(たすき)まで荒縄でしてする。それで始まるのと思ったら、お酒ばっかり飲んだりして、大分酔っぱらった頃、「じゃ、やるか」という感じでやるということです。素人がいやいや酒飲んでやるという状態ですから、まあ、見ていても、非常に醜い。人間死にましたら、皮袋へ水を入れたようなものですから、寝かしたり、立てたりしますと、耳とか、鼻とか、口とか、いろんなところから血の混じった醜い状態になるんですよ。それを素人が酒を飲んで、わあわあと村中が見ているようなところでやるわけですね。それを見ていまして、なんと酷いことをするだろうなあと、私は見ていて思いましたね。そして、あるところへ行きましたら、とっても見ておれないような状態にやられるものだから、僕が口出したんです。「そういうふうになさるより、こういうふうになさったらいいんじゃないですか」と言った。口出したら、やっていた酔っぱらいが、「お前、そんなよく知っているんだったら手伝え」と言われて、手伝わされたんです。手伝わされて、ちょっと手伝っているうちに、それを見ていた親族の家で、また不幸があって、その家(うち)なんかは、「あの葬儀屋の、あの男に来て貰えばいい」ということになって、それでだんだん入っていくんですよ。
 
山根:  ただ、最初に口を出したということは、やっぱり見ていられないみたいなお気持ちがあったわけですか。
 
青木:  そうそう、最初は。だって、亡くなったお婆ちゃんを全裸にしたまま、「この後、どうすればいいんじゃ」と言った調子でやっているわけですよ、村の人がね。そうでない家もあったけど、何しろもう醜い状態でやっておられるから。そして、しましたら大変喜ばれたりして、だんだんそういうことを繰り返しているうちに、五人か、六人だった会社が、三十人程になりまして、葬式もしょっちゅう入ってくるようになりました。そうしたら、今度は新しく入ってきた社員がお葬式の受付にいくでしょう。そして、「祭壇はどうしますか」「こうしますか」と聞いたりしてする。寝棺のところへ行きますと、「納棺はうちに上手な人がいますが、如何ですか」と、こう要らぬことまでいうようになったわけですよ。そうしたら、どうなっていったかというと、だんだん一日に三軒も四軒もしなくちゃならなくなっていくわけですね。ということは、どういうことかと言いますと、他の仕事が全然出来なくなっていくんですよ。三軒やる時は、一軒目は朝十時からやらせて貰って、次は一時から、次は四時からとかという、間が要るでしょう。やっている時間と、そこからまた次へ行く時間と。そういうことで、三軒もあると、殆ど一日そればっかりという感じで、他の仕事を全然しないで、納棺のための社員みたいになっていくわけですね。実はそういう職業というのは世の中になかったわけですよ。
 
山根:  「納棺夫」という、
 
青木:  はい。何故かと言ったら、僕が本を出しました時に、朝日新聞の人が、私の書評を書くために、「青木さん、書評を書くんだけど、納棺夫という言葉が、辞書を繰ってもないけど、あなたはどうして付けられたんですか」と言われたんですよ。本を出していて、自分が題を付けた。それさえ調べもしないで書いている。作家でもなんでもないわけですが、そう言われてビックリしたんですね。そして、私も慌てて辞書を繰ったり、いろいろ調べたけれどもないわけです。それは何故かと言ったら、そういう職業というのは過去になかったわけですね。だから、無いんです。「看護婦」とか、「水夫」とか、それは辞書にも出ています。「水夫」とか、「看護婦」は、考えて見れば、職業ですね。「納棺夫」というのはないんです。無いということは、親族の人、身内の人が全部やっておられたということです。言葉がないんですから。だから、無いのに、どうして付けたかなあと、自分でも考えたんです。そうしたら、ある出来事が、私の頭に残ったんですね。ある時、四軒目の、四軒目というのは夕方五時頃にさせて貰う。
 
山根:  一日のうちの四軒目の、
 
青木:  四軒目の家に行くのが前から順番に遅れまして、五時と約束していたのが、八時頃になったんですよ。そうしたら、その村へ行ったら、玄関に村中の人が居て、「何やっていたんだ。バカ野郎」と叱られたんです。家に入る時、今度は親族の人に叱られ、一番奥へ行ったら、今度はお寺さんに叱られる。そんなに叱るのなら、自分たちでやればいいのにと、腹の中で思ったんですけど。その玄関から上がる時に、奧の方で、「あ、来た、来た。納棺夫が来た」と言ったんですよ。その家の人が、「納棺夫が来た」と。それで、「わあ、とうとう納棺夫になったんだ」と。「アルバイトが納棺夫になっちゃった」と。その時、思ったことが残っていたんですね。
 
山根:  例えば、具体的にいうと、納棺夫というのはどういう仕事なんですか。
 
青木:  結局、私がこういう世界に入った時は、自宅死亡というのは五、六十パーセントありました。今は八割、九割が殆ど病院なり、施設でのお亡くなりになる。しかし、当時は五、六十パーセントが自宅死亡で、しかも、病院に入っておられてでも、亡くなる時は、ここら辺の村なんかは、「自宅で死にたい」ということで、わざわざ連れて帰って、そして、まあ最後はお医者さんが往診したりして、亡くなるというのが、圧倒的に多かったんです。ということは、どういうことかと言いますと、長く自分の家で寝て、患っておりまして、いまみたいに看護婦が来て、そういう方をいつも綺麗に拭いているという状態ではなかったんです。「湯灌」というのは、それこそ古い昔からあるんですが、「逆さ湯」と言いまして、お湯に水を足すのではなく、逆に、水にお湯を足す。
 
山根:  水にお湯を足す。
 
青木:  要するに、日本の国は死というものを、非常に古事記や日本書紀くらいの時代から、忌み嫌うという形をとっています。全部、「生と死は逆さ」ということで、「逆さ屏風」とか、「逆さ湯」とか、香典帳なんかでも溜まらないように逆さにしてきるとか、仏衣を着せるのでも左前に着せる。全部逆さまという風習できているわけです。これは日本の風習ですよ。そういう死に対するものの考え方、生と死というのは逆さまだという捉え方です。仏教が入ってからちょっと変わったんですけど。そういう捉え方をしていましたので、そういう「逆さ湯」というお湯を使って、体を全部拭いて、綺麗にして、そして、新しい仏衣、経帷子(きょうかたびら)を着せる。例えば、宗派によって、「南無阿弥陀仏」とか、「南妙法連華経」とか、いろいろ書いたものを着せるんです。そうでない家でも白い衣を着せるという形をとったのです。
 
山根:  でも、死体というのは硬くなっているんでしょう。
 
青木:  ええ。「硬くなっている」と言っても、ちょうど硬直する時間というのがあるんですよ。これは「何とか酸」と言って、忘れましたけどね。節ぶしに死ぬと酸が溜まって、それがまた拡散していくわけです。だから、一番硬直する時期というのにぶち当たりますと、こういうところが曲がらないですよ。そうすると、袖なんか着せられない。だけど、こうやって親指を曲げたりすると軟らかくなっていくんですよ。
 
山根:  ああ、そうなんですか。
 
青木:  それで面白い話があるんですよ。あるところへ行きましたら、私がこんなに硬直して困ったなあと思ってやっていました。ある宗派の周りの人が一生懸命、みんなで声を合わせてお経をあげられるわけですね。そうしたら、私が一生懸命やって、そして、全部終わって、お棺のところへ、みなさんが覗き込んで、「あれ、見なはれ、あんた。われわれお経をあげたから、あんなに軟らかくなって」という。いや、こっちが努力したから軟らかくなった(笑い)。そんなことがありましたね。
 
山根:  何体も、何体も、どれ位体験されたんですか。
 
青木:  そうですね。僕は二千体位になりますかね。だけど、それは最初の五年位で、その後五年位はやったり、やらなかったりです。ちょっと管理職になっていくわけですね。でも、最初の五年間位は、殆ど私一人で、誰もやる者が居なかった。どうしようもなくなって、ある時助手を連れて歩くようになるんですね。そして、助手がなれてきた頃に、「君、やってみるか」と言ったら、その奇特な青年が、「やります」と言って、二回位やりましたら、次の週に、お母さんとお父さんが辞表を持って来て、「そんなことをさせるために、うちの子を入れたんじゃない」と連れて帰った。今はそうじゃないですけど、当時はもうそういうことに携わるということ事態が非常に嫌われた。僕が現場から離れた頃、今度は管理職になるわけです。管理職になりましたら、とんでもないのばっかり、僕が行くようになったんですよ。というのは、若い人たちはとんでもないのは、嫌がるじゃないですか。
 
山根:  「とんでもない」というのは、
 
青木:  「とんでもない」というのは、例えば、警察から電話が掛かって、「お棺を持って来てくれ」というのは、大体、電車に轢かれたとか、飛び込んだりすると、線路の枕木の間や石の間に、脳からバラバラになって、落ちているのを拾って歩かなければならない。そういうのとか、例えば、松林でとか、海だったら水死体とか、いろいろなのがあるんですよね。そういうのばっかり行くようになるんですね。あるところへ行きましたら、老人が夏三ヶ月位、誰も死んだことに気付かなかったんですよ。そこの家は老人ひとり暮らしの一軒家なんですよ。そこへ行きましたら、兎に角、窓から覗いたら、何か白いものがいっぱいいるんですよ。何かと思ったら、家中ウジ。しかも、真ん中に布団があるんですよ。それでお棺を布団の横のところまで持って行くのに、ウジを箒で掃いて、布団を剥いでビックリした。肋骨の間にウジが蠢(うごめ)いているの、全部ね。そんなになっていても、結局、「自殺か他殺か判らないから、検死しなければいけない」ということで、お巡りさんと一緒にお棺の中に布団を持ちあげて、バッと流し込むようにして、流し込んだ。そういう酷い現場というのも相当行きました、後半ね。
 
山根:  そうですか。
 
青木:  そういうのをやり始めて、自分でも、何故こんなになったのかと思うような感じで、やり始めた瞬間、分家の叔父が飛んで来ましたね。叔父が、「今日は親族を代表して来たんだ」と言って来ました。僕はアルバイトのつもりで入ったし、そういうことをやっているのを、誰にも言わないでやっていたんです。親戚にも、誰にもね。こういう会社に務めたことさえ誰にも言わずにやっていたわけです。それがどうして、どっかで、親族の誰かが葬式に行って見ていたのか。飛んで来まして、「お前、何をやっているんだ」と。「兎に角、そういう仕事を止めろ。親族の恥だ」というようなことを言いましたね。「親族の恥だ」と言った時には、カッときましてね。叔父が言うたびに腹が立ちましてね。何か言えば腹が立って、それこそこっちが真剣に生きているのに、何を言われなければならないのだ、と、向きになりましてね。そして、「親族の恥だ」と言われた時に、それこそ金属バットで殴ってやろうかなあと思ったんです。それくらい思いましたよ。しかし、最後は喧嘩別れして、「顔も見たくない」と言って別れた。叔父はちょっと離れて住んでいましたから、どうでもいいやと思ったんです。しかし、僕が悲しかったのは友人たちです。商売していた時に、多くの絵描きとか、詩人とか、もう多くの人たちと出会っているわけです。二百五十枚位、年賀状がきていた。納棺夫になった途端に五枚位しかこない。
 
山根:  ほんとにそんなに変わるものなんですか。
 
青木:  それは倒産したことも原因があるんです。倒産というのは、倒産したとなると、パッと蜘蛛の子を散らすように友人たち逃げるんですよ。別に金を借りにいくわけじゃないんだけどね。そのうえ、風の噂に聞けば、「彼奴(あいつ)、死体を拭いて歩くらしい」ということになりますと、やっぱり向こうも別に悪気じゃないんだろうけど、気を使ってだろうけど、接触がなくなっていく。私自身が叔父に、「親族の恥だ」と言われてからというのは、自分がやっている納棺ということが、なんか社会中から白い目で見られているような、そんな感覚になりましたね。要するに、疎外感ですね。村八分でした。そんな感じになりました、当時はですよ。
 
山根:  それだけ自分を卑下して、みんなから白い目で見られているという意識があった時に、「じゃ、この仕事を最後にさようなら」というふうに思わなかったんですか。
 
青木:  そうですね。僕はショックだったのは、ある日、女房が若かったですから、女房の夜蒲団の近くに行った時、女房がガッと泣き出しました。何故かと言ったら、女房も親戚がなんかから聞いたんです。女房に内緒でやっていたんですから。そうしたら、女房が、「そういう仕事をしているのか」というから、「している」と言った。「今日もやってきたか」と。「今日も二軒やってきた」。「死体を毎日拭いている。そういうのを子どもが小学校に入るまでに止めてくれんか」というわけですね。それもそうだなあと思ったんです。僕はその時に。友だちもいないし、誰とも会話出来ない。女房にまで言われ、叔父にその相当前に言われ、やっぱりこんなことをやっていたらダメだなあと思った。しかも、自分が悶々として、卑下しながら生きているのはダメだなと思ったんですよ。だから、それで辞表を書きまして、辞めようと辞表を持って、会社へいくわけです。ところが最初面接した今、会長ですが創業者が、僕のことを非常に大事にしてくれて、なんとなく相性が合って、なんか顔を見たら出せないもので、何日か持っていたんですね。そのうちに今日こそ出そうと思った時に、一つの事件があったんですよ。
 
山根:  それは?
 
青木:  それは、実は東京から帰って来て、お袋の店を手伝っている時に出合った、まあ恋人ですね。出そうと思った日、「今日は此処だ」と地図を渡されるわけです。その地図を持って行ったら、ハッと思ったのは恋人の家だったんですよ。ドキッとして、僕はその家の前を行ったり来たりして、帰ろうかと思ったんですね。帰ろうかと思ったけれど、僕、一人しかやっていないでしょう、会社で。会社というよりも、その時分は富山県で僕ひとりですよ。会社がちゃんと事前に、「行きます」と、段取りしたのに、入らないわけにもいかんですよ。彼女のことは、「横浜へ嫁いでいた」と聞いていたんで、まだ来ていないかも知れないと思って、入って行ったんです。入って行きましたら居なかった。ホッとしてね。湯灌、納棺をしていたら、
 
山根:  亡くなられたのは、
 
青木:  彼女のお父さん。その彼女を夜送って行った時なんか、「一度、父に会ってくれ」なんて言っていたんですよ。そこの家へ納棺にいかなければならない羽目になるわけですね。それでまあ居ないだろう、と入って行ったら、案の定居なかった。それでお父さんの身体をアルコールで拭いて、綺麗にしてね。だけど、僕はご遺体に向かった瞬間別にそのお父さんでなくてでもですよご遺体に向かった瞬間、大分慣れてきていたんですけれど、物凄く汗が出るんですね。何故か緊張があって。死体に向かった瞬間に汗が出るんです。汗が出て、袖で拭こうとした時に、横にいつの間にか座っていたのか、私のちょっと後ろの横に座っていた人が、汗を拭いてくれるんですよ。アッとみたら、その恋人だったんですよ。ビックリしましてね、それでも黙ってやっていたんですよ。そうしたら、彼女は時たま泣きながら、お父さんの額を拭いたり、私のタオルで私の汗を拭いたりしてくれる。その目がとっても綺麗でね。その時に、何か彼女の目が、私のやっていることも含めて、丸ごとなんか認めて貰ったような、軽蔑とか、憐れみとか、そういうものの一切ない、そんな目のように見えたんですね。その彼女の目がね。
 
山根:  昔の恋人が側で座っているのに気付いた時、どんな気持でしたか。
 
青木:  いや、本当になんというか、言葉にはちょっと表せないようなドキッとしましたですよ。そして、夢中になって、僕はお父さんをやっていた。彼女の方を成る可く見ないようにしてね。でも、彼女はときどき僕の方を見たりして、顔の汗を拭いてくれました。その目がとっても綺麗でした。彼女に弟が居たんですが、その弟が、僕の帰り際に丁寧に、「有り難うございました」と言っている、その後ろに突っ立ったままの彼女の目が忘れられないぐらい綺麗な目でした。それで私は、それから暫く経って、何を思ったか、医療機器店へ行きまして、それまで汚い服着て、納棺をいやいややっていたんですよ。本当はやりたくないんだけど、卑下しながら。しかし、その事件がありましてから、何を思ったか、衣料店に行って、お医者さんが外科の手術をする時、着られるような白衣一式全部買いました。マスクから、被るものから、薄いゴム手袋まで買いました。あまり使わなかったけど。ついでに往診用のカバンまで買いまして、そこへ詰めて、そして、納棺に行く時、いつも持って行った。そして、控え室を使わして頂いて着替える。言葉使いも、礼儀礼節も大事だ、と。服装も大事だ、という形で、納棺に真剣にキチッとやるようになったんです。この事件があってからですよ。何故か。
 
山根:  それは何故ですか。
 
青木:  結局、「認められた」ということでしょうか。要するに、軽蔑とか、憐れみではなくて、何か彼女の目に、丸ごと認められた。要するに、「有り難う」みたいな感じの、そんなものを感じたんだ、と思うんです。ちょっと僕の言葉でなんか言ったんじゃないんですよ。一言も言っていないんです。初めから終わりまで。入って行ってから、終わって出て来るまで。最後に弟が挨拶しているところでも、後ろに突っ立ったまま、私の目を見ていた。その目がとっても綺麗な感じの目でした。そういうことで、僕はそこから真剣にやるようになりました。それで、面白もので、同じ人間の行為というのは、同じ行為をやっていましても、いやいやとか、目をそむけてやるのと、真剣にやるのとでは、社会の評価というものは物凄く違うということを現場で教わりましたね。あるところへ行きまして、八十位のお婆ちゃんをお棺に入れて、そして、洗面所で手を洗って戻ってきましたら、すぐお茶を出して下さるんです。それでお茶を頂いていたら、向こうから、生きた、生きたというのは、可笑しいけれど、九十位のお婆ちゃんが、私の側へ、畳みを這って来られて、「先生さま」と言われた。白い服を着ていたので、「先生さま」と言ったんだと思うけれど、「先生さま、私、死んだら、あんた来てもらえんかね」と、こう予約まで頂けるわけですよ。その頃ですよ、白い服を着てキチッとやるようになってから、会社へ主婦の方がしょっちゅう来られるようになりましたね。「家に今日か、明日か、という人を抱えてね、病院にいるんだけど、あの白い服を着て来た人に来てもらうのは、どうしたらいいのか」と言う、そんな方がしょっちゅう来る。富山市なんか大して大きくないから、こう口伝てに伝わるんですよ。というのは、当時、まだ百パーセント、富山県内は親族の方がやっておられ る時代ですから、白い服を着て、きちんとやるという形に対して、こう伝わっていくんです。それで、もう予約まで入ってくるようになるわけですよ。
 
山根:  待って下さいね。そうすると、その日、辞表を出そうと思って、恋人の家にたまたまいらっしゃったわけですね。
 
青木:  はい。
 
山根:  その辞表をどうしました。
 
青木:  破ったですよ。人間てどんな形であれ、何かに丸ごと認められると生きていけるんですよ。丸ごと。丸ごとでないとダメ。一部じゃダメ。
 
山根:  いいとこだけ好き、
 
青木:  いいところだけ好きよじゃダメ。結局、悪いも良いもない、丸ごと。納棺をやっていようがなにしようが関係がない、丸ごとというやつ。これだったと思うんですね。
 
山根:  少なくとも、その時から納棺夫であるということを卑下する気持はなくなっていった。
 
青木:  そうそう。卑下する気持はなくなっていきますね。しかし、まだそれでも少しは残っていたと思います。ただ、精々その時の段階では、続けられるみたいな位のレベルでした。その後、今度、暫く経ちまして、また、私は辞めようと思うわけですよ。やっぱり辞めようと思って、また辞表を書くんです。そして、その辞表を持って会社へ行った日、また事件が起きたんですよ。
 
山根:  よく事件が起きますね。(笑い)
 
青木:  事件が起きた。(笑い)
 
山根:  今度はどういう事件ですか。
 
青木:  それはさっき言っていました、「顔も見たくない。親族の恥だ」と言った叔父が、「ガンで入院した。だから、あなたは少年時代お世話になったんだから、見舞いに行かれたらどうですか」と、親戚が言ってきたんですよ。「絶対絶交だ」といっていたのに、そう言ってきたんです。その電話を聞いた瞬間、ざまあ見ろと思って行かなかったんです。暫く経ったら、お袋から電話がありまして、「今日、見舞いに行ったら、おじさん、今日か、明日かという意識不明の危篤だ」という。それを聞いた瞬間に、意識不明なら行こうかなあと思いました。意識不明なら説教されることもないだろう。そう思って行ったんですよ。そうしたら、叔父は個室におられまして、こうやって手を上げるんですよ。叔母が一緒に行った。手を握って、叔父のベッドの横へ座って、叔父の顔を見て、ビックリしました。叔父の顔が、僕に説教したり、元気にやっていた時の顔と全然違うんですよ。とっても 優しい、柔和な、綺麗な顔をしているんですよ。そして、目の縁からポロポロ、ポロポロと涙流れているんですよ。口元がなんか動いているんです。そして、叔母に、「これ叔母さん、何言っているのかね」と言ったら、叔母が、「ありがとうと言っているんじゃないかね」と言ったんです。その時に、僕に、「ありがとう」と聞こえたんですよ。そうしたら、ばあっと、私は、涙が出てきて、「叔父さん、ごめんなさい」という気持になった。「僕が悪かった」みたいな気持になって、ばあっと泣いた。涙が止まらないんですよ。手を握りながらね。そして、駐車場へ泣きながら帰った。次の朝早く、叔母から「叔父が死んだ」と電話がありました。葬式の時にも、焼香涙ですよ。「叔父さん、申しわけない」という気持でね。それからというもの、僕は納棺に行きましても、死者のお顔ばっかり見るようになった。そして、多くの死者たちを見ているうちに、死者のお顔って、なんて清らかで、安らかで、柔和なお顔をしているんだろうと思うようになったんです。
 
山根:  そんなに安らかな表情で亡くなっていくものですか。
 
青木:  殆どですよ。物理的な交通事故とか、或いは、物凄く痩せ過ぎるとか、目が窪むとか、いろいろありますが、それは物理的な問題ですね。そうでなくて、普通に亡くなられた方の顔というのは、全部清らかで、安らかな顔に思えるようになったんです。
 
山根:  へえー。
 
青木:  思えるようになったら、どうなるかと言いますと、死者と非常に親近感が生まれてくるわけです。普通、病院なんか、お見舞いに言ったりすると、みなさんでもあると思うんです。見舞いに行ったら、「あいつ、仏様みたいな顔した。もう長いことないぜ」と言って帰って来る人がいる。見舞いに行ってね。僕は現場で、個人病院なんか行きますと、まだ看護婦さんが何もしていない時があるんです。大きな総合病院でない場合は。そのままご自宅へ運ぶ、というようなことがあるんです。そういう人の顔を見ていますと、殆ど半眼なんです。半眼というのは、目がパッチリもしていないし、閉じてもないという状態です。半眼で、非常に柔和な顔です。優しい顔というのは、大乗仏教の仏像と同じ顔なんですよ。僕に言わせたら。生きた人の方がよほど恐ろしい目をしていると思うようになりましたね。
 
山根:  亡くなった方は清らかな顔をしている。
 
青木:  そう。固唾をのんで、怒りとか、哀しみとか、そんなものごちゃ混ぜで死んだ人というのは案外醜いですよ。それより死者の方が清らかで、安らかなお顔をしていらっしゃるなあ、と思うようになった。その頃からですよ。死者に対する近親感を覚えるようになって、死に対する恐れとか、さっきのコンプレックスもなんにもなくなっちゃった。自分の仕事に対して、卑下することもなくなった。そして、むしろ、死者に対して、非常に親近感を覚える。そして、やりますと、どうなるかと言ったら、世間から見ていると、「家のお爺ちゃんにとっても優しくして頂いた」とか、「とっても優しくお婆ちゃんにして頂いた」と言われるようになっていったんですよ、その頃から。それはどういうことかと言ったら、死者と目線が一緒になって、親近感を覚えるくらいですから、何も意識しなくても、なんか優しくやっているみたいに、向こうから見えるんです。人間って、いやいややっ ている時というのは、ちょっと離れるんですよ。例えば、病院の霊安室へ行って、霊安室でお棺にいれたんですよ、その家の場合は。看護婦さんが一人居た。看護婦さんが横に来て、「いやあ、あなた、そういう仕事をして厭じゃない」と言うんですよ。「厭じゃないって、あなただって、さっき亡くなられた後、すぐ身体綺麗に拭いたりなさったじゃないの」と言ったら、その看護婦さんは、「私が拭いていた時は、まだ温かかった」と。その温かい時でも、亡くなっていらしゃるわけですね。僕がやった時はもう冷たくなっていた。
 
山根:  ああ、温かいと、冷たい。この境目に死があると。
 
青木:  そうおっしゃるんですよ、看護婦さんが、亡くなってしまったから、そういうことをやったのに、それも死体だし、僕がやったのも死体です。その看護婦さんの言い方が面白く、可笑しいなあと思いましたね。
 
山根:  ということは、逆にいうと、青木さん自身の中で、生と死の境目が溶けていくというか、繋がってしまったということですか。
 
青木:  要するに、僕は、一枚の葉っぱが、表が生で、裏が死だとみれば、生と死というのは一枚ものだ、と思うんです。それは現代のDNAを解読してでも、精子と卵子が一つになって固体の細胞分裂、第一回の細胞分裂の中に、既にDNAの中に、死がインプットされていると。要するに、細胞が何回で分裂すれば終わり、ということを、既にインプットされているんだ、ということが、現在分かって来ています。生と死というのはもともと一つものなんだ、というふうな捉え方まで、現場にいながら思うようになっていったんですよ、私が。
 
山根:  仏教書を読んでそこに辿り着いたんじゃなくて。
 
青木:  ないんです。結局、後から仏教書を読んだら、同じことを書いてあったから、僕は感動したんですよ。
 
 
ナレーター: 納棺の仕事をするようになってから、接した死の他に、青木さんには忘れられない死があります。それはかつての満州での体験でした。青木さんが家族とともに、満州に渡ったのは四歳の時のことです。
 

 
山根:  青木さんご自身は、その死の現場という意味では本当に幼い時から体験なさっていたわけですね。
 
青木:  そうです。僕が満州で終戦を迎えたのは八歳です。その時に、父はシベリヤ戦線に行ったきりで、母と、現地で生まれた弟が二歳で、妹が四歳でした。そして、逃げ惑っていたんです。やがて日本人同士が合流して、収容所へ入れられました。引き揚げて帰って来る時までそこにいたんです。現地で生まれた弟はすぐ栄養失調で死にました。母は発疹チブスかなんかで隔離されていた。私と妹だけでいたんです。目が覚めたら妹が死んでおりましてね。満州の冬というのは零下三十度位もなるんですよ。カチカチに凍って。穴も掘れない。だから、大人の方が焼いている焼き場みたいにしているところへ、妹を背中に担いで捨ててきた記憶があるんですよ。しかし、その妹のことが何となく気になりまして、次の朝、焼き場にまた見にいったんです。妹は冷凍人間みたいになってカチカチに凍って、ちょっと手をあげて、凍っておりました。そこがどんな地形していたんか、どんな場所だったのか覚えていないけど、妹の顔だけ、いまだにちゃんと覚えていますね。なんか笑っているような感じの顔だったんです。
 
山根:  八歳の体験。妹さんの遺体をそこまで、
 
青木:  要するに、大人の方々が日頃亡くなった方を焼いていたところへ持って行って、ポンと置いて来たわけですよね。
 
山根:  八歳の少年が、
 
青木:  そうそう。背中に担いでね。富山のNHKのギャラリーで、ジョー・オダネルという方がアメリカの海兵隊の写真家ですけどあの方が写真展をやられた。その時に、あれはお父さん、お母さんが被爆で亡くなって、八歳か、九歳の少年が、弟の死体を背中に担いでいる写真を見た時に、僕は涙が出て、涙が出て、ワンワン泣きながら見ていた。ちょうど、ご本人がお見えになっていまして、通訳を通じて、「何泣いているんだ」と尋ねられた。「いや、この写真は、僕が経験した写真と一緒なんだ」と言ったんです。そうし たら、向こうも、僕を抱きついてくれましてね。しかし、やはりそういう体験というのが、やはり私の人生に、そのせいで納棺夫になったのではないけど、そういう体験がやっぱり根っ子にあったんじゃないかなあ、と思うんですね。僕はそういう意味で、死の現場に出逢うということが、そして、その事実をしっかり見るということが、非常に大事だと思うようになったんです。今日の社会現象が、私は非常にその点が欠けていると思うんです。生にすべての価値観をおいて、死から目を背けて、そして、総てのシステムが出来ている。ですから、脳死提供でも、臓器の移植を受ける方は非常にクローズアップされますけど、提供される方は、全然どこに消えたか分からなくなるぐらいになる、というふうな形で行われている。病院なんかでも、正面玄関から出るというのは善であり、霊安室へ行くのは悪である、と。看護婦さんでも、若い看護婦さんはお爺ちゃんが元気だった時は、その病室へよく行くけど、本当に亡くなろうとした瞬間の時には、その病室に行かなくなるそうですね。それは何故かというと、そういう価値観で生きている。そういう価値観で生きているというのは、非常に危険だと思うんですよ。何故かと言ったら、大人たちが死を一番隠蔽してきた。その隠蔽してきたつけが今頃出て来ているような気がするんです。三年前の神戸の淳ちゃん殺しのA少年の文芸春秋の供述調書なんかを読みますと、「何故君は人を殺そうなんかと思ったんですか」という調査官の質問に対して、A少年は答えていますね。「僕は家族のことなんかなんとも思っていなかったけど、お婆ちゃんだけは大事な人だった。そのお婆ちゃんが小学校の時、死んじゃった。僕はお婆ちゃんを奪っていった死というものが、何かと思うようになったんだ。死とは何か、ということが、どうしても知りたくなって、最初はカエルやナメクジを殺していた。そのうちに猫を殺していた。猫を殺しても、人の死とは何か分からないので、やはり人間を殺してみないと分からないと思うようになった」というのが、供述調書にあるわけですよ。それが事実ならね、大人たちが死というものを隠蔽して普通、少年たちというのは、一番最初に知る死というのは、曾爺ちゃんか、爺ちゃんか、婆ちゃんなんですよ、現代は。昔は戦争とか、そんなのがあって、別に爺ちゃんでなくて、他の人の死でもすぐ見れました。しかし、東京なんかへ行くと、今、臨終や、納棺も何もない。少年が学校から、或いは、塾から帰って来たら、お婆ちゃんの死なんかでももう祭壇の上にあがっているというような状態です。病院からでもお棺に入ってしまっているという状態です。僕は淳ちゃん殺しの少年というのは、するお婆ちゃんの臨終の場に出ていないと思うんですよ。ところがそれと逆に、九州のあるお寺に行きましたら、その檀家総代の方のお孫さんたちから、十七人全部集めて、自分の死の現場を見せた。見せて亡くなった人が居るんですよ。その方のお孫さんが書いた十四歳、やはり十四歳ですよ。その少年の作文は、「僕はお爺ちゃんからいろんなことを教えて貰った。しかし、一番大切なことを教えてもらったのは、亡くなる二日前でした。今までテレビとか、雑誌で人が死ぬのを見ていて、悲しんでいるのを見て、なんでそんなに悲しいのだろうと思っていた。しかし、実際、自分のお爺ちゃんが死ぬところに、側に居て、僕は悲しくて、涙が出てしかたありませんでした。そして、それはお爺ちゃんが、僕に本当の人の生命の尊さを教えて下さったんだと思います」という文章があるんですよ。その文章の中に、もっと言うと、「僕は最後にどうしても忘れられないことがあります。それはお爺ちゃんの顔です。お爺ちゃんの遺体の笑顔です。お爺ちゃんがいつまでも笑いながら、僕を見守って下さることを約束しておられるような笑顔でした」いう文章があるんです。僕は大事にしているんです。というのは、何を言いたいかと言いますと、その淳ちゃん殺しのA少年や、豊川の少年や、ああいう連中が人を殺してみたかったという人たちは、人の死を見たことはないんですね。でも、この少年は、お爺ちゃんの死を見ているわけです。「人が死ぬのをテレビや雑誌で見ていても、何とも思わなかったけど、いざ自分のお爺ちゃん」、これが大事なところなんです。仏教では、「愛別離苦」と言うんですね。別れる。ところが、今日の世のお母さんたちに、僕は言いたいのは、少年たちに、悲しみや、別れの悲しみでも、失恋でも、挫折でもいいですよ。悲しみや苦しみを与えまい、与えまいとして、いるのが、親の役目ぐらいに思っている。だけど、悲しみの現場に立たない限り、少年の健全な感性というものは育たないと思います。私は、自分の人生の挫折の繰り返しです。武田鉄矢の「送る言葉」の「人は悲しみが多いほど、人は優しくなれるのだ」というのはよく分かるんですよ。そうでしょう。
山根:  いま、死の現場を見ない今の風潮というのを、何とか変えていきたいという思いがおありなんですか。
 
青木:  そうですね。僕は、納棺をやっていらっしゃる全国の方々にも伝えたいし、うちの会社は、いつも言っているんですけど、先逝く人が、「ありがとう」と。僕の叔父が、「ありがとう」と言った。そうしたら、僕が、「叔父さん、申し訳ない。叔父さん、ありがとうございました」という気持になった。先逝く人が、「ありがとう」。残る人もそれを受けて、「ありがとう」という形。この場がないとダメ。マザー・テレサの、カルカッタの「死を待つ家」では、洗面器持って、孫さんみたいな少女が左右に揺らしている。「あれ、何やっているの」と言ったら、「ガンジスの水の音を死んで逝く爺ちゃんに聞かせている」と。水の音をね。そんなことは、今の病院でさせませんよね。そういう場が非常に僕は大事だと思うんです。ですから、納棺している時に、お孫さんなんかに、時々、「あなた、来なくても、来なくても。あなたは塾へ行っていなさい」というふうな感じですよ。今の東京なんかでも、どこでも。そうじゃなくて、亡くなったお爺ちゃんが死ぬ寸前まで一番可愛がっていたのはそのお孫さんです。お孫さんにとっても、お父さんは働きに行っているし、お母さんも働きに行っているし、いつも学校から帰って来たら、いつも居たのは死んだお婆ちゃんです。さっきの淳ちゃん殺しの神戸のA少年のように、「僕が一番好きだったのは、お婆ちゃんだったんだ。お婆ちゃんが小学校の頃、死んでしまったんだ。それから、死とは何か、と思うようになったんだ」と、彼が言っているのと一緒です。そのお孫さんが、納棺なり臨終の時に立ち会うという形の場を作るべきだと思うんです。それがまあ生命のリレーみたいなものです。リレーのバトンタッチのゾーンというのがあるでしょう。あそこがもっとも大事なのに、あそこを全部なくしてしまったような現代の葬儀風景であるし、死の現場の風景であると思うんですね。殆ど最後の、そういう場面というのはないんです。葬式の前に行ったら、そんなものは祭壇の上にあがっていて、何にも見えなくなっている。そういうものは意味がない。ですから、納棺なんかやっている全国の人に言いたいのは、そういう亡くなった人の、愛する人が全部居るところでやってほしい。僕がやっている時にこんなことがあったですよ。やっていましたら、大人の人って、案外、固唾をのんで深刻な顔をして見ているんですよ。親族の方はなんか緊張している。ちょっと振り向いたら、柱の角に立ったお孫さんみたいなちっちゃい子が、小学校の下級生みたいな女の子が、ポロッと涙を出していた。あの涙ですよ、大事なのは。そういう悲しみとか、苦しみとか、そういうものをやはり体験しないと、健全な感性というのは生まれないのじゃないかなあ、と思います。理屈じゃ生まれない。そんなふうに私は思うようになったんです。ですから、そういう意味でも、現場というのは大事だ、と。だって、考えてみて下さい。生きるとか、死ぬというのは、実存の世界なんで、対象化すべき問題じゃないんです。実存の世界というのは現場そのものでしょう。それをやはり他人事のように思うのは。仏教で、「生老病死」という。「生」だけしがみついて、「老」は国に任せて、「病」は医療機関に任せて、「死」は葬儀屋に任せて、「あなた自身は何しているの」と思う。一つだけの生、生まれてから死ぬまでの生だけに価値を置くとどうなるか、と言ったら、この生を支えるのは経済ですよ。経済というのは簡単に言えば、金ですよね。金とセックスになるわけです。まあそういうことで、鈴木大拙先生は、「拝金主義と享楽主義を是とする社会 には宗教は育たない」とおっしゃっていますね。僕はよく分かります。みんな一遍現場に立ち返るべきだと思うんです。現場へ。そう思いますね。
 
山根:  いいお話を聞かせて頂きました。有り難うございました。
 
 
     これは、平成十二年十月二十二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。