自分をみがく
 
                             元一燈園同人 石 川   洋(よう)
昭和五年栃木県に生まれ、十七歳で西田天香に師事。アジアの難民救済と在韓被爆者、日本人妻の支援等に長年奔走した。今年三月、韓国政府から国民褒賞を授与された。
                             き き て  峯 尾  武 男
 
峯尾:  私達は日頃ふと、「自分とは何なんだろう」と自問することがあります。さらに、その自分を、鍛える、磨く、となると、大方の人が途方に暮れてしまうのではないでしょうか。今日は、その自分について、元一燈園同人(もといっとうえんどうにん)の石川洋さんにお話を伺います。どうぞ宜しくお願い致します。
 
石川:  どうぞ宜しくお願い致します。
 
峯尾:  一燈園で、石川さんが学ばれたこと、体得されたことをいろいろ伺う前に、まず、一燈園の創設者である西田天香(てんこう)(明治五年ー昭和四十三年:一燈園運動の創始者。経済と宗教の合一をめざした)さんについて、少しお話をして頂きたいんですが。
 
石川:  天香さんは明治五年二月十日の生まれでございます。誰でもその人を語る時には、生い立ちと、そして、生まれた場所と言いますか、この近代化の台頭の時代に生まれたということと、それから近江商人の子なんです。ですから、商売人の子として、そして、明治の近代化の台頭に生まれたということが、天香さんを語る一番大事な要素ではないか、と思います。日本は国際的にも、そして、日本そのものも、自由と解放と、そして、経済成長と、さまざまな、国も強くしなければなりませんし、希望と大きな期待をもって、みんながそれぞれに伸びていくわけであります。天香さんも北海道の新天地と言いますか、日本の国力を大きくし、そして、経済を発展させるためには、北海道の開拓というのは随分大きな意味をもっていたんですね。それで近江農村を造ろうということで、天香さんは二十歳(はたち)の時ですが、時の大(おお)越(ごし)という知事に推薦されまして、百戸の小作人を連れて、今で言いますと、岩(いわ)見沢(みざわ)市のちょっと南下したところ、栗沢町(くりさわちょう)というところですが、そこで新しい農村を造るんです。もう九十パーセント成功するんですが、天香さんが一番苦しまれたのは、人と人とが存在する限り、生存競争というものはなくならない。新天地を求めて、自由で、解放され、そして、人間の理想の生活をしよう、と思っていたけども、人間の争いというものは絶えることがない。どうしたら争わずに生きられるのか、ということで、裸で郷里長浜に帰って、赤ちゃんの泣き声を聞いて、お母さんと赤ちゃんの間には争いがないということをお悟りになって一燈園生活を始めなさった。ですから、天香さんという方は、いわゆる宗教家ではない、と言うんですね。どうしたら争わずに食べられるのか、と。それは、本当は宗教の基本かも知れないですね。そういう近江商人の出ということもあって、「経済と宗教というものの合一」と言いますか、そんなことを苦悩し、模索し、そして、証をなさっていた天香さんの一生じゃないか、と思うんです。けれども、日本はそれからドンドンと軍国主義に傾いていったわけですね。でも、天香さんは亡くなるまで、毎朝拝んでいたお位牌があるんです。それは世界戦争終結のお位牌なんですよ。それをいつも天香さんは礼堂に置いて、世界戦争終結というものをお祈りなさっていたんですね。それが天香さんのお姿ではないかと思います。
 
峯尾:  今、私は、「元一燈園同人」と石川さんをご紹介したんですが、西田天香さんの一燈園に五十年いらっしゃって、そこを去られたのはどういうわけですか。
 
石川:  私がお世話になって五十年、一燈園の方を去らせて頂いたのは三年前なんです。
 
峯尾:  そうなんですか。
 
石川:  はい。動機というものは、後から「あれが動機だったのか」ということが多いんでございましょうけれども、私の心の動きは大きく言って、二つあると思うんです。私は天香さんに五十年お仕え致しまして、二十年間はご生前の天香さん、後の三十年が、天香さんが亡くなられてから後の、一燈園のみなさんとのいろんなお仕事でございました。ちょうど三年前が天香さんがお亡くなりになられて、仏事で言いますと、三十回忌になります。その仏事を終わりまして、一つのけじめを付けさせて頂こうと思いました。大きく言えば、一つは落第生でございます。ですから、女房とも話しているんですけども、落第生らしく、まず、生きよう、ということで、生涯一年生ということを忘れてはならない。そう言いながら、「二年生になりたい」と。時には五年生くらいになりとうございます。今は一年生であることの勉強だ、と思ってやっております。もう一つは裸になりたかった、と申し上げたらいいと思っております。一燈園で一番大事なことは、「道端」と言いまして、裸で、路頭で、生かされる経験をするということが、基本になるわけですね。今の私にそんな大それたことは言えませんけれども、それでもご生前から、私はちょうど最後の弟子になりまして、若うございましたので、随分ご心配をおかけした、と思うんですが、「いつでも裸になりなさいよ」ということを教えて頂いてきておりました。「私の死んだ後は裸で一燈園をする使命をもつように」というお言葉を頂いておりましたものですから、ちょうどいい時期で、裸にならして頂こうなあと思って、今日に至っているんでございます。私は、沖縄がほとんど第二の故郷のようにして行っているのですが。
 
峯尾:  沖縄?
 
石川:  はい。沖縄に行っておるんです。最初に沖縄にバケツ一つを持って入ったのが、二十五年前なんですよ。いろいろと沖縄に問題が山積(さんせき)しております。その時に、天香さんが、「おまえ、このままで帰れるのか」というようなお声を聞いたんですね。天香さんが亡くなった後、自分の新しい一つの出発、と言いますか、自分を見つめ、自分の願い、或いは、天香さんの願いを聞かして頂く大事な道場と思って、一燈園の修行であります一軒一軒をお訪ねをして、お便所のお掃除をする。このことを二十五年続けてきておりました。そういう意味で、沖縄は中学生からお爺ちゃん、お婆ちゃんまで、たくさん知り合いがおります。ちょうど十年位経った頃でしょうか、私自身も疲れておりましたし、友だちからも、「お前、十年も沖縄に行って、なんか変わったことがあるのか。沖縄はなんか変わったような出来事があったのか」ということを言われまして、結果なんか何にも生まれておりませんし、まあ、自分自身、言葉としても、修行ですから、お訪ねをしていくことはそれぞれに感動もありますし、自分の勉強であるけれども、果たしてこんなことを続けていていいのかなあという、一瞬、そんな思いが致しました。天香さんに、もうお亡くなりになっていらっしゃいましたけれども、「こんなことを続けていてもいいんでしょうか」とお尋ねをしたんですね。天香さんが、私に声なき声と言いましょうか、内なる声でおっしゃって下さった言葉は、「お前は自分のために汗を流しているのか。捧げるために汗を流しているのか」そうおっしゃったんですね。「私は捧げるためになどという大それたことは言えませんけれども、少なくとも自分のために汗を流しておりません」。「ああ、それでいいよ」とおっしゃったんですね。「結果というものは、神さまや仏さまが決めるものであって、あんたが決めるものではない。あんたは黙って、その一行を続けたらいい」とおっしゃいました。その言葉になんかストンとした、と言いますか、それからの自分の人生と言ったらいいんでしょうか。ひたすらに歩ませて頂くということの大切さ、結果は自分が作ることではない、ということが、それから自分の一つのなんか根っ子の部分になっているような気がするんです。私は自分の育った家がキリスト教でございまして、青年時代までは、キリスト教の家庭で育てられ、そして、また私も出来れば牧師になりたいなあ、という願いをもっておったんです。ですから、教会とはそれほどの関係はございませんけれども、自分の心の中には、やはりキリストの言葉、教え、魂というものが、私なりに大きな影響を頂いておると思います。その時にフッと、ペテロのような生き方よりも、生涯道端で道を歩まれたパウロ(街角で福音を説く。教会の指導者ペテロと対照的)のような生き方をすることが、自分にとっては大切なのではないかなあ、と思って、人生の最後を、そんな生き方をもう一度やり直してみたい、という思いであって、去った、というわけではないので、自分としては、より天香さんの道に近づきつつある、という思いであります。
 
峯尾:  その西田天香さんの一燈園の門を石川少年が叩いたのが、十七歳ですか。
 
石川:  そうです。昭和二十二年なんです。
 
峯尾:  多感な少年時代で、やはり思い悩むことがあって、天香さんのところへ行かれたんですか。
 
石川:  はい。私が育ちました時代は、戦争中でありまして、勿論、少年ですから、戦争経験というものは、戦場で味わうものではありませんでしたけれども、やっぱり多感な少年として、もう身体いっぱいに戦争というものを、私は感じてきたと思います。父はクリスチャンでした。私は五歳で父と別れますけれど、父が遺してくれた言葉は、「人を殺してはならない」というヨハネの言葉なんです。「どんなことがあっても、人を殺してはならない」。その言葉が、私に与えられた遺言なんです。だから、戦争によって人を殺し合うことは、戦争としては当然のことであるけれども、私はやっぱり戦争でも人を殺すのは間違いじゃないか。そうしたら、戦争というのは一体何なのか。戦争の実体というものは何なのか。今の方には分からないだろうけれども、大きな歴史の歯車、その歴史の歯車が大きな輪になって、私たちの前に覆い被さってくるわけですよ。その歴史を止めることは出来ないのか。この戦争の歴史は一体誰が止めるのか。歴史の正体とは何か。そんなことで苦しみ抜いたんです。その中で、一番私は辛かったのは、私は栃木県の宇都宮で育ったのです。宇都宮の大空襲があって、疎開先の下宿の子どもを連れて、逃げていくわけです。朝になって道端でヒソヒソ話をする農家の人たちの声が耳に入るわけですね。何を話しているんだろうと思ったら、「怖いですよね、宇都宮の小学校の校庭で、焼かれた死体を何人かの若い男の人が、死体を足で蹴りながら、金歯を取っている」と言うんです。そういう話を聞いたんですね。私は実際見たわけではありませんから、分かりませんけども、その時に、私は戦争が終わっても、終わらない何かがあるんじゃないか。戦争の正体ということよりも、人間の正体なんじゃないか。戦争が終わっても、終わらない人間の業(ごう)というものがある。だから、戦争の正体、正体と思ってきたけど、戦争を起こす人間の中に一つの正体がある。それが一番大きな苦しみでした。終戦になって、「真実はこうだ」という報道もございました。これは、GHQのさしがねで作った番組ですが、そういう番組を聞きながら、むしろ、虚しい、というのか、私の知りたいのは、人間と戦争の問題であって、一握りの人たちのことではない。だから、戦争が済んでからの方が、私は悲しかった。それで実は牧師になりたくて、京都の大学に受験に来て、たまたま私の母が、昔、一燈園で修行したことがございますので、西田天香さんをお訪ねして、お目にかかったんですね。天香さんは黙って聴いて下さいました。それは誠実に静かに、吸い取り紙のように聴いて下さった。それは十七歳の青年の未成熟な、純粋と言えば純粋だけども、未成熟な言葉を、一人前の人間の言葉として扱って下さったんですね。私はもうそれだけで、この人に付いて行こう、と思ったですよ。誠実に聴いて下さる、ということが、どれだけ大きな力か。そして、「あなたの考えていることは大事なことだよ」とおっしゃいました。そして、「人間はなあ、立派な人にならなくてもいい。偉い人にならなくてもいい。人間は人のお役に立つ人になることである」と教えて下さいました。私は十七歳という、まだ何にも世の中のことは分かりませんし、自分の将来も分かりませんけれども、少なくとも偉くなろうとか、立派になりたい、という気持は、その時に全部捨てられた、と思っていますね。これはやはりそれだけの人物に会うと、内の中から何か光ってくるものが出てくるんでしょうかね。それが天香さんとのお出会いでした。自分の問題が解決したわけではないんです。でも、二、三年経って、ハッと気付いたら、戦争の原因は、私だった、と分かりましたですよ。
 
峯尾:  戦争の原因は私?
 
石川:  人を殺さずにおれない、人と争わずにおれない、私自身の問題だった。平和を提唱するのは、私が変わること。平和は永遠の問題だけれども、私という人間の生き方からすれば、平和は足元の問題であった。それから五十年、天香さんにお導きを頂いて、今日まできたわけでございます。
 
峯尾:  十七歳の石川少年が、お会いになった天香さんは、七十代の後半でいらっしゃった。それまでに天香さんのお弟子さん、影響を受けた人が、さまざまな分野で、大勢いらっしゃる中で、石川さんは最後のお弟子さんだったとおっしゃっていますが、勿論、山科の一燈園の中だけでなく、ご一緒にあちこちで行動され、活動されたんですね。そこで実際に生前の天香さんと、ご一緒したのは二十年ですか。
 
石川:  二十年間です。
 
峯尾:  その後は、その天香さんと心の中で問い掛け、お応えになりながら、過ごしていらっしゃって、そこで体得されたものは、それは一口には言えないかも知れませんけれど、どんなものだったでしょうか。
 
石川:  体得というと、非常に言葉が重うございますけれども、私が今、天香さんから教えて頂いたことを、自分の問題点として、これを生き抜いていきたいということが三点ございます。それは天香さんの一番大事な実践思想に、
 
     「無所有」ということ
     「懺悔」ということ
     「奉仕」ということ
 
これが天香さんの基本だ、と思っております。天香さんは明治の初めから生きてきた人で、私は、終戦後から、間もなく二十一世紀に生きようとしているわけで、多少歴史の意味が変わってきていると思うので、現実というふうに受け止めて下さったらいいと思います。今の現実の中で、私は、「無所有」という言葉は、ただ、物を持たないという、清貧という単純な意味じゃないと思っています。それは自分の物だと思わないこと。所有物ということじゃなしに、天香さんは、「物は預かりものだ」とおっしゃった。「自分の子どもも自分の所有じゃないよ。預かりものだよ。だから、子どもも拝んで育てなさい」とおっしゃった。
 
峯尾:  「拝んで育てなさい」ですか。
 
石川:  はい。それから一燈園内に学校がございますが、天香さんはいつでも「学校さん、学校さん」と言って、子どもに「さん」付けをなさいました。奥さんにでも「さん」付けをなさいました。子どもにも「さん」付けをなさいました。私の物ではない。預かり物。
もう一つは、「懺悔(さんげ)」という、これは自分の至らなさの告白であります。歴史の片隅にしわ寄せになっている問題がたくさんあるんですね。その歴史の片隅にしわ寄せになっている弱い人たちの問題は、いつでも取り残されている。時代の問題は、いつでもその片隅にある人たちに残されている。それはその人たちの問題ではなくて、その歴史、その時代の問題である、と思います。だから、その問題と関わり、そこから明日の時代を見ないと、明日は見えないのではないか。だから、私は、いつでもこの片隅にいる人たち、そういう問題を自分の問題として、共に生きていくことが、時代の懺悔ではないかなあと思っています。それから、もう一つ、「奉仕」ということは、自己中心ではない生き方をすることですね。「愛」とか「慈悲」という言葉がございますが、私も生前のマザー・テレサに、スラムとか難民の仕事で、何遍かお会いし、裸足(はだし)のマザー・テレサを知っていますが、いつもマザー・テレサを見て凄いなあと思うことは、カルカッタに来て、このミッションスクールの院長先生にならないで、スラムに入っていった。どちらかと言ったら、背が低くて、ちょっと猫背で、私は、「愛のお婆ちゃん」と言っていますけれども。今の時代は、総て政治が解決する。政治優先の時代だ、と。本当はそうじゃない。一人一人の生き方、一人一人の、人間としてどう生きていくか。他の人とどう生きていくか。愛と慈悲というものが、私は大事なことではないか。それが奉仕というふうに受け止めさせて頂いています。
 
峯尾:  韓国政府から、「大韓民国国民褒賞」を受けられましたが、これはどういうこと で、
 
石川:  これは私もまったく思いもよらないことで、国民褒賞というのは、日本人としては最初に授与されたものなんだそうでございまして、その重さを感じているわけであります。個人的にいうと、私のしたことじゃございませんし、みなさんのお力でございます。もう一つは歴史的にいうと、加害者である私たちが頂くものではないような気がするんです。私がさせて頂いたことは、広島、長崎で被爆して、韓国に帰られた方、実数が分からない、と言いますけれども、治療もございませんし、それに対する対応もございませんし、非常に苦しんでいらっしゃったわけですね。中には、自殺をしたいけれども、韓国は儒教の国ですから、「親父がもう九十歳以上生きていて、元気でいるので、父親の生きている間は死ねない」と言って、泣いていらっしゃった方もございました。穴蔵のようなところに住んでいらっしゃった方もあります。そういう方のために、日本に来て、広島の病院で治療して頂くためのご協力と、それから僅かではありますが、生活の支援ということ。それから韓国の中でご苦労していらっしゃいます日本人妻の問題とか、サハリンに取り残された韓国の歳を取った一世の方々、非常に貧しい生活が現実にございますので、当然日本人としてご協力しなければいけない。まあ言うならば、しなければならないことをさせて頂いていただけで、そういう意味では不十分なんですよ。ですから、頂けるべきものではないと思っております。まあその中で、私は大きなお出会いを頂いたのは、日本人妻のお世話をして下さっている金龍成(きんりゅうせい)という先生、向こうで言うと、キム・ユンスンという方なんですが、この方のお父さんは、独立運動の時に活動なさった方で、その結果、日本の官憲に捕まって、最終的には、「獄中で殴り殺された」と言っていらっしゃいます。先生は、その時に、まだ少年なんですよ。そこから人のお世話になったり、いろいろしながら、現在では、韓国で、福祉関係では権威者でございます。その方が戦後、北朝鮮の方にいらっしゃいまして、孤児院をしていらっしゃったんですね。駅から電話がかかって、「あんたのところの少年院に、カマスが届いたから取りにきなさい」と。その荷物を取りに行って見ると、カマスの口が開いていて、中を見ると、「年の頃、四、五歳ではないか」とおっしゃっていらっしゃいますが、「頭の毛が黒い日本の少年であった」と言います。もう凍傷で、半ば死にかけている。それを連れて帰って、一週間ほど必死に看病するんですが、結局は生命を落としてしまいます。金先生はクリスチャンでございますから、自分がずうっとクリスチャンとして苦しんできたことは、隣人(となりびと)を愛するというのはし易いことであるけれど も、お父さんは日本人の官憲に殺されたのですから、「汝の敵を愛せよ」ということが、どうしても出来なかった。金先生は殆どものを喋らない方なんですが、「その時から、私はものが言えなくなった」とおっしゃっています。神さまに対しても。ところが、その少年が看病の甲斐もなく、亡くなるんですが、初めて、神さまが、私に「汝の敵を愛せよ」という、恵みを与えて下さった、と涙をこぼして、私のこれからの使命は、韓国の大地で苦しんでいらっしゃる日本の人のためにお尽くしをすることが、キリストの教えに従うことであると、目を覚まされたわけですね。それが日本のナザレ園のお婆ちゃんたちの面倒をみて頂くようになった方で、この方から私は国と国を越えるもの、歴史の溝を越えるものは、私は、「愛」しかないんだなあ、ということを教えられました。私が頂いた賞というよりも、それを通して、金先生、韓国の人の優しさをご紹介する機会であったら有り難いと思います。
 
峯尾:  そうですか。「無所有」「懺悔」「奉仕」。勿論、それをもとに石川さんのさまざまなご活動があることと思うんですが、一年生になられて、今、また、さまざまなご活動をしていらっしゃいますね。例えば、「勉強会」とおっしゃっていますけれども、随分お忙しいようですね。
 
石川:  私は、旗を振って、「みなさん、来なさい」と言ったことはないんです。いろんな人との縁が一つの絆になっている。私は、縁というものは絆にならないといけない、と思うんです。「不思議なお出会いでしたね。みなさんのお陰ですよ」と言って、お釈迦さんは、それを、
     一燈は連燈と、連燈は万燈となる
 
とおっしゃっているんです。一つの縁が連なり、そして、万燈の縁をつくっていく。だから、私は旗を振っているわけではないけれども、全国で、今、二十五カ所くらい勉強会があるんですよ。毎月ではございませんけれども。それで何をしているか、と言ったら、その月に歩いてきたことをお話しながら、「共に学ぶ」と言って、そんなことでお話させて頂いているんです。「石川洋を学ぶ会」とか、いろいろあるんです。「あんた、そんなことを言ったら、私が選挙に出るみたいじゃないの」と、冗談言いながら、みなさんとご一緒に歩ませて頂いています。共に歩む。私は、「ウイズアップ」と言ったことが大事だと思うんですよ。共に成長していく。親子もウイズアップ。完全な親もないし、完全な子供もないんだから、子供を育てながら、子供から教えられる。子供は親に学んで、親を尊敬して、共に学び、成長していく、ウイズアップ。そのような勉強会のつもりでいます。私は人生は大きく分けると、三つの坂があると思うんです。
 
     上り坂
     下り坂
     まさかの坂
 
「上り坂」と「下り坂」と「まさかの坂」というのを、みんなどっか歩いていますよ。「上り坂」と「下り坂」と「まさかの坂」。「上り坂」というのは、調子がいいように見えるけれども、特に傾斜の方々には、上り坂には下り坂の要素がある。必ずある。だから、上り坂の時には、二つ一緒。一つはみなさんのお陰だという感謝と、もう一つは上りっぱなしはないんだから、上り坂はまた下ってまた上って、坂また坂という、人生の平常心というものを、そこで学ばないといけない。それには感謝が必要だ。下り坂の時には、失敗で終わらないこと。失敗で終わるから失敗なので、私は、失敗というのは、成功のためのダイナミックな通過地点だ、と思っています。だから、下り坂で、自分をダメにしたり、自分を終わりにしないこと。そういう時にこそ本当の勉強が出来る。だから、下り坂は大事なんだよ、と。失敗が教えてくれる。新しい道を失敗が教えてくれる。まさかの坂は、自分が安全な運転をしていても、後ろから追突される。それで一生涯起きられない人もございます。さまざまにこのまさかの坂はある。これは本当に辛いんですね。私はその時には、「生まれ変わることだ」と言っています。そのために人を怨んではならない。あの人に会ったばっかりに、とか、必ず理由を正当化してしまうんですね。理由を正当化してしまったら、人間は本気になれないんです。だから、どんなところからでも、生まれ変わるんだ、という、再出発をさせて頂くことが大事じゃないかなあと思って、そんなことをみなさんに申し上げているんです。
 
峯尾:  共に学ぶということで、そういう話を聞いて、勇気づけられる人も多いでしょうね。
 
石川:  私が、一番心を配っているのは、不登校の子とか、それから少年院とか、この時代の狭間に生きている子供たちですね。
 
峯尾:  少年院にもよくいらっしゃるんですか。
 
石川:  行くんですよ。少年院だけは、一生涯歩きたい、と。少年たちは長くてまあ一年半位入っているのです。私は少年の方に、「お説教に来たんでもなければ、君たち、立ち直って欲しいなんて、そんなこと思って来ているんじゃない。おじさんはね、みなさんにお詫びに来た。社会の一人の親として、みなさんにお詫びに来た。私は、今日こうして、生かして頂いているのは、母が私を信じてくれた。だから、母を裏切っちゃいけない、と思って来た。ひよっとして、君たちは、信じてくる母がなかったんじゃないか。だから、今日はお詫びに来たんだよ」。みんな身を乗り出して、一生懸命聴いて、涙ボロボロこぼす子もおるんですね。この前も、佐世保の少年院から束のような感想文が送られてきたんですよ。そして、「妙なおじさんが来て、ごめんなさい≠ニお詫びをなさった。何の話だろうなあと思っていたら、初めて聞いた言葉。私は、ごめんなさい≠ニいうことを、親にも言われないし、誰にも言わない。私はその言葉を聞いて、少年院を出たら、彼奴(あいつ)は許せん、と思っている友だちも、嫌な親だなあと思っている親にも、初めてごめんなさい≠ニ言えるような気になった」と言いました。
 
峯尾:  少年の方から親に向かって、
 
石川:  「私は、その時、過去は消しゴムで消すことは出来ない」。入れ墨の子もおりますからね。「これは消すことは出来ない。けれども、人間は生まれ変わることは出来る。その入れ墨を財産にすること。それしか人生はないんじゃないか。だから、生まれ変わります。やり直します。もうあの野郎とは思いません。おじさんがごめんなさい≠ニ言ったように、私もごめんなさい≠ニ言って、母に手紙を書きます」という、感想文があるんですよ。泣けましたですよ。子どもの方がよっぽど純粋なんじゃないかなあと思っています。少年院だけは時間を見て、いろんな少年院がありますけども、お訪ねしようと思っております。 
 
峯尾:  勿論、心を開いてくれるまでに、時間がかかる少年が当然いることでしょうが。そして、先程韓国の話がありました。それからマザー・テレサにお会いになったのも、勿論、インドにいらっしゃったんですね。カンボジアへもよくいらっしゃる。今年もまたいらっしゃる。カンボジアではどんな活動をしていらっしゃるんですか。
 
石川:  カンボジアは一九八○年ですから、難民が出た時からのご縁なんですね。カンボジアの国内で学校建設とか、それから一番水が大事です。貯水池の問題とか、そんな問題を中心にして、させて頂いているんです。ちょうど韓国から国民褒賞を頂いたその後で、カンボジアの政府から、「国家建設功労第一等勲章」というのかなあ、なんか大きな賞なんだそうで、困っているんですけどね。
 
峯尾:  それを石川さんに差し上げましょうと、もうそれの受賞もなさったんですか。
 
石川:  ご通知はきまして、十一月に行く時に、正式な授与をしたい、と。もう一つは、カンボジア王室よりサハーメトライという称号を頂くのだそうで、これはそういうことを通して、私はカンボジアの理解の一助になればいいなあと思っています。
 
峯尾:  次に、石川さんの「自戒」自らを戒める。これを知る人も多いのですが、そのお話を伺いたいんですが。
 
石川:  この「自戒」を、私はみなさんに広めよう、と思ったわけではないんです。自分の戒めの言葉ですからね。十年位前に、ある小さなグループの忘年会の時に、コピーして、誰かに渡したんですよ。それだけのことなのに、全国にコピー、コピー、今でもコピー、コピーで出回っていくんですね。だから、これは私の言葉で創ったんだけども、皆さんも同じ心なんだなあという思いで、いま改めてみなさんと一緒に勉強したいなあという、自戒になっているんです。「戒める」という言葉は、背景が一つございまして、それは仏教の「戒律」という言葉。両方とも車の両輪のようなことで、「戒律」の「戒」は申し上げるまでもなく、自分への厳しさです。江戸時代の俳諧に、
 
     うたた寝も 叱る人なき 寒さかな
 
というのがあります。もう師匠がなくなってから実感しますよ。自分で自分を叱る言葉をもっていますか、ということが、戒めだ、と思うんですね。「律」というのは、これは分かり易くいうと、一般的規則ということです。世の中には規則というものがあります。だから、独りよがりをしてはいけないということでありまして、とても大事な言葉だと思うんです。台風が吹いているのに、うちのビルだけ吹くな、というわけにいかないので、みんなと同じルールの中で、どう生きるかということが大事なことなんです。私はある時、信号機の前で動けなくなったことがあるんです。それは赤信号で止まったんですけども、「赤信号というのは何だろうかなあ」と思って、ジッと見ていたら、なんか涙がボロボロこぼれたんですね。それは自分が動きたいと思ったら、赤信号だけども、あれは車が通る青信号だ、と。車から見れば、人が歩く時には、人の歩く青信号で、そのためには車は通らない。だから、本当はみんな青信号なんだ、と。みんなが通る青信号。それが私は「律」ということではないか。だから、分かり易く言えば、「戒」は自分磨き、「律」お役立てという、そんなふうに受け止めさせて頂いております。
 
峯尾:  では、その五つの自戒について教えて頂けますか。
 
 
石川: 








 

    自 戒

 辛いことが多いのは、感謝を知らないからだ。
 苦しいことが多いのは、自分に甘えがあるからだ。
 悲しいことが多いのは、自分のことしか分からないからだ。
 心配することが多いのは、今を懸命に生きていないからだ。
 行き詰まりが多いのは、自分が裸になれないからだ。


 
 
峯尾:  では、一つ一つもう少しお話頂きましょうか。
まず、「辛いことが多いのは、感謝を知らないからだ」
 
石川:  私が一燈園に入らせて頂いてから、最初の頃でございますけれども、滋賀県の米原(まいばら)というところで、戦争中、増産のために始めた干拓(かんたく)と言いますか、そこへお手伝いに行きなさい、ということで、田をおこすことから、田植えまで、托鉢と言っていますが、お手伝いに行きました。私も、戦争中の子ですから、勤労動員で農家に行ったことがあるんですが、長いこと農家でお仕事したことございません。ですから、田おこしから、田植えの間、干拓地のものですから、まだ土がなれてございませんで、腰くらいまでドブンと浸かってしまうところがあるんですね。ですから、地元の人はバカ貝と言いますが、大きな貝で足をザクッと切ったり、?(ひょう)疽(そ)になったり、いろいろしたんです。まあ傷だらけになって、たくさんのマメ(肉刺)を作って帰って来たんです。私の一燈園に入る直接のご縁を下さったのは、末広木魚さんですが、この人は長谷川伸(作家)さんのお友だちで、都新聞の記者をしていらっしゃった方です。なかなかな粋人で、苦労人で、ちょっと怖い人で、いつも避けておったんですが、ご挨拶に行かなければいけないものですから、干拓から帰って、マメだらけで、「大変だった」ということを一気に喋ったんですね。そうしたら、ジッと見ていて、「そら、大変だなあ。手を見せてご覧」。マメだらけの手を見せたんですよ。そうしたら、木魚さんが、「そのマメ食えんなあ」とおっしゃいました。当たり前です。そうして、ご一緒に昼ご飯をご馳走になって、ポツンとおっしゃったことは、「お前なあ、大事なことだからなあ、あるけじめだから言っておこう」とおっしゃった。「そのマメ食えんなあ、と言ったけども、あんたが苦労して帰ったのは分かる。慣れない仕事で、?(ひょう)疽(そ)したり、マメを作ったりして、ボロボロになってきた苦労も分かるけども、お前、それしか言えんのか。それしか分からないか」。私は分からないですよ、それしか。そうしたら、「そうじゃないだろう。初めてお百姓さんの真似事をして、お米を作るということが、どんな大変な苦労なのか。初めてお百姓のご苦労が分かりました。一粒の米にも感謝をしなければいけないんですね。何故そう言えないんだ。それが分からなかったら、修行でも何でもない」と言われたんです。「辛いことが多いのは、感謝を知らないからだ」。その背景にはそんなことがあるんです。
 
峯尾:  「苦しいことが多いのは自分に甘えがあるからだ」
 
石川:  これは私の母のことを申し上げて申しわけないんですけども、一燈園に入って数年経って、その頃はガリガリに痩せておりまして、集団の中でも一番か二番くらいに痩せていたんではないでしょうか。そうして、物を食べると戻してしまう。流動物まで戻すようになりました。先輩がご心配して下さって、「一遍、国に帰って来なさい」ということで、お許しを頂いて、母のところへ帰ったんです。まあ、病院に入らないで、母のところでだんだんと癒させて頂いて、よくなってきたんです。まあ、病気ではなくて、何か無理があったんだろうと思うんですがね。ちょうど、天香さんが宇都宮の講演にきなさって、夕方お見舞いに寄って下さいました。私の寝ているところにお坐りになって、「洋さんの容態はどうですか」と母親に聞いて下さったんです。私は、さぞ、母が慰めの言葉を吐いてくれると思ったんですね。期待をもちました。ところが母が言った言葉は、「はい。私の息子は神経衰弱です」と言いました。自分の師匠の前で、神経衰弱呼ばわりされることほど屈辱なことはないですよ。それでも師匠の前ですから、口応え出来ませんので、まあ、ぼろ切れを貰って縫った雑巾が百枚位溜まっていたもので、それを見て頂いた。「早くよくなって帰って来なさい」と言って、天香さんは帰られました。天香さんが帰られてから、「何故私を神経衰弱だと言ったのですか」「何故神経衰弱に見えたのですか」「何故衰弱だと、お母さんは言わなければならなかったんですか」。言葉は違うけれども、同じようなことを繰り返し訊ねました。母は何も答えませんでした。重苦しい、そして、夕暮れのドップリと日の暮れた小さな部屋になりました。私が同じようなことを繰り返すものですから、母親がついに口を開いて言いました。「私はあなたを生んで、あなたを育てた。あなたの身体を育てることは出来たけれども、あなたの心まで育てることは出来なかった。その身体も心も障害もお任せをしている方に、私の息子は疲れて帰って来た、と言えますか。あなたは神経衰弱です」。なんと冷たく、なんと大きな愛なんだろうか。まあ、蒲団を頭から被って、男泣きに泣いたんです。そして、涙が涸れた時に、私の生涯の言葉、「人生逃げ場なし」という言葉を、その時に気付かせて貰いました。どこをほっつき歩いても、甘えがある間は、何にも見えはしない。何の解決も出来ない。それが、「苦しいことが多いのは、自分に甘えがあるからだ」という母との間の、母から教えられた経験であります。 
 
峯尾:  「悲しいことが多いのは自分のことしか分からないからだ」
 
石川:  これは私が心の母と仰いでいる方に、両手のない、尼さんでございました大石順(じゅん)教(きょう)尼(に)という方がいらっしゃいました。よくご存じの方でありますけども、晩年のお出会いでありますが、本当に子どものように可愛がって頂きました。この先生も私にとっては生涯忘れることの出来ない方です。本当に一つの言葉で、人生を生まれ変わらせて下さるような方でした。戸倉悦子さんという娘さんが、今はもう結婚して、子どもさんもあり、活動さっている、大阪府下の方です。先生と講演の旅で、生駒の温泉に入るんですね。先生の身体を流して、先生はお風呂に入って、ご自分は自分の足をのばして、身体を洗って、この片方の足が小児麻痺で短いんです。で、先生に、「先生、どうして私の片足短いのでしょうね」と言いましたら、先生が、「ああ、そんなことあらへんで」こうおっしゃった。「そんなことあらへんて、先生、この短いばっかりに、結婚も出来ない。就職も出来ない。独りぼっちで、今まできたんですよ」。「そんなことあらへんで」。「先生、現実に短いじゃないですか」。その時、先生は、「戸倉、バカなことを言うんじゃないよ。お前なあ、片方が短いんじゃない。片方が長すぎるんだ」とおっしゃった。それで、長い長い間悲しんできた自分の人生の歪みが、一遍に消え去った。先生にお湯をザブッとかけて、さめざめと泣いて笑った、と言います。先生が、「人間の苦しみの多くは、人との比較にある。悲しいと自分のことしか分からない。短いんじゃない、片方が長い、と思ったらいい。それも面白いじゃないか」とおっしゃったですね。ですから、生涯ありのままに、先生は楽しんでおられた方だと思っています。
峯尾:  「心配することが多いのは今を懸命に生きていないからだ」。
 
石川:  「心配」ということと、「心配り」ということとは、ちょっと違うと思うんです。私たちは心痛みをします。でも、天香さんは、「心配りは大事だけれども、心痛みをするな。私が死んでからな、いろんな問題が起きる。けども、心を痛めてはいけない」とおっしゃいました。天香さんが、「心配りは大事。だから、心配をして、心を失ったり、心を痛めてはならない。みんなのために心を配りなさい」とおっしゃって下さった。その天香さんが、よく、「何をしているのか」ということをお尋ねになったことがあります。安田青風先生という歌人がおりました。その方にも、「あなたは今、何をしているんですか」と。「歌を創っている」と言おうと思ったけども、言えない。歌だけじゃないから、と思って。「今という時間は永遠の時間だ」とおっしゃった。私はこの天香さんの言葉を、「心配することが多いのは、今を懸命に生きていないからだ」。大事なことは、人生いつでも今からだ、と思ったらいい。今からだ、と思ったら、いつでも最初です。そして、再出発に遅い早いはない。でも、人間は過去を曳きずり、明日を心配し、今という時間をヘドロの溜まった、濁った水にしているんじゃないですか。今を懸命に生きれば、過去はお陰に変わり、明日は明るい信じられる明日が生まれてくるんじゃないでしょうか。
峯尾:  そして、五番目、「行き詰まりが多いのは、自分が裸になれないからだ」。
 
石川:  私が一燈園に入った最初の研修でございました。山科の町、昔は人家が少なくて、農家ばかりでございました。田圃か畑に入って、お手伝いをさせて頂こうと思って、大分歩いてから、畑の中で草取りをしているお婆ちゃんに、ちょうど雨の後でございましたけども、「お婆ちゃん、草取りの 手伝いさせて下さい」と言いましたら、「ああ、構わないけどな」とおっしゃって、「あんた、学生さんかい」とこう言ったですよ。「いや、私はおばあちゃん、学生じゃないけど、学校を辞めて、一燈園で修行させて貰っているんですよ」。「あんた、畑に入って手伝いたいなら、その靴脱ぎなさい」とおっしゃったんですね。旧約聖書の言葉に、「沓を脱ぎなさい。ここは神の聖地なればなり」と、キリストがおっしゃっています。裸になることです。私はそれを今はこう解釈しております。「裸になればすべては聖地なり」「靴を脱げばすべては聖地なり」。ですから、行き詰まるとは、自分の行き詰まりであって、いき悩むというのは、自分の発想の行き詰まりではないか、と。行き詰まったら、いつでも裸になりなさい。それが天香さんが教えて下さった路頭の道だと思います。
 
峯尾:  自らを戒めるこの五つの自戒は、「私はダメになる自分のために、五つの戒めをもっている」というふうにお書きになっていますね。「ダメになる自分」と言いますが、
 
石川:  はい。人間は生きとし生けるもの、人間と他の生き物との違いは、人間以外の生き物というのは、「自然律」で生きていると思うんです。本能のままに、許されて生きている。でも、人間は本能のままでは生きられない。自覚をしていかなければいけない。「自覚律」というものを持たないといけないと思うんですね。ですから、猛獣と言われるライオンでも、一日食べる摂取量を取ってしまったら、もう前にヤギがいようが、ウサギが跳ぼうが、悠然として寝そべっている。必要以上のものは取らない。鰐のような大きな裂けた口をしているどう猛な生き物が、一週間食べないそうですね。中で消化しなければならない。それぞれに自然の掟があります。人間はお腹がいっぱいでも美味しいお饅頭があったら、手が出て、必要以上のものを摂取してお腹をこわしている。それが環境破壊だろうと思うんですね。ですから、人間は有り難うということと、勿体ないということと、そして、自分だけで生きているんじゃない。すべての人とどう生きるかという、自覚する、コントロールする生き方が大事なんです。それが出来ないと、人間はダメになってしまうと思うんです。ですから、自分に対する厳しさ、不平や不満や自己中心が、自分をダメにする。そのために自分を戒めるということが、私は人間として、もっとも必要なことじゃないかと思っております。
 
峯尾:  でも、私どもでも、自分を磨こうと、或いは、磨けば自分を変えることが出来るんでしょうか。
 
石川:  「私ども」という言葉は大変恐縮ですが、私もその中の一人でございますけれども。今年はオリンピックの年でございますが、障害者のパラリンピックというのがございますが、車椅子の方で、水泳の選手がおるんですよ。車椅子で、短距離とか走るんじゃなくて、車椅子のお世話になっていて、水泳の選手、金メダルを取った成田真由美さんという子がおるんです。この子が短距離の選手だったんですが、何かの病気で足が動かなくなって、車椅子にお世話になるようになった。そういう障害者の施設の友だちの学校に、お世話になるようになったんです。ですから、走れた自分が走れなくなった。自分の明日が真っ暗でしょう。そうしたら、友だちが、「真由美さん、プールに入ってみない」とおっしゃったそうですよ。「どうやって入るの。車椅子で入れないじゃない」。「当たり前でしょう。車椅子で入る人はないでしょう。車椅子から下りるんだよ」。「だって、車椅子から下りたって入れない」。「車椅子から落ちたらいいよ」と言ったそうですよ。「車椅子から落ちたら浮いた」と言うんです。この足は動かないけど、手を使ったんでしょうね。手で動いた。そして、プールから出るんですね。そして、また、車椅子のお世話にならなければならないけども、その時に、水の中で浮いた記憶がありますから、感動がありますから、「手を使おうと思ったら、自分を助けようとして下さっている多くの仲間の温かい手が見えてきた」と言うんですね。障害者が決してダメな人間ではないですよ。人間というものはいろんな条件の中で生きているけれど、自分を磨いていけば、それぞれの頂いている縁の中で、人間は光を放つんじゃないでしょうか。人間は懸命なる自己と、そして、どうにもならない愚かな自己をもっておるけれど、もう一つ大事なことは、
 
     磨いていけば、真実の自分に出合う
 
車椅子の真由美さんが、そんなことを教えて下さっているんじゃないかな、と思って、人間としての光を放つ時は、自分を磨く時だ、と思っています。
 
峯尾:  さて、石川洋さんは昭和五年のお生まれで、七十歳にもうなられましたね。
 
石川:  そうなんです。
 
峯尾:  その七十歳になられて、まだ、これから先程からのお話があったように、新しい生き方でいきたい。「七十歳成長訓」というのを、お終いにご紹介して頂きたいんですが。
 
石川:  はい。何故、「七十歳の成長訓」か。七十歳に拘(こだわ)らんでもいいじゃないか、ということになるんですが、何故七十歳かは、私が七十だからです。亡くなった京大の総長をなさった平澤興(こう)(明治三十三年ー平成元年:神経解剖学者。元京大学長)先生が─立派なお念仏の先生が─あの先生が亡くなってから、お出しになった語録があるんです。その中で、「人間によってちょっと違うけども、七十歳から、或いは、七十二歳、七十五歳、それから後の十年間。だから、八十、八十二、八十五。その十年間というのが、著しく成長する」と先生はこう言うんですよ。脳外科の先生ですから、いい加減な言葉ではないと思っています。私は、平澤先生を尊敬しておりますから。私はやっと成長期に入ったなあ、と思っているんですよ、今。本当に嬉しくてたまらないんですね。それを私の自覚にしようと思って、「七十歳成長訓」という、五つの楽しい言葉を使いました。一つは、
 
     何もないから夢がある。
 
人間は死ぬまで夢を忘れてはならない。成功というのは、縦並びだ、と思うんです。人間は横に迷うんですね。一つの夢をもったら、総ては計画が出来ますから、夢がなければ人間は目的を達成出来ないですね。二つ目は、
 
     一人だから万人を友とす
 
お出会いする人は万人ではないけども、万人といつでも一緒。万人の縁とともにある。万人に応える自分でありたいと、いま思っているんですよ。三つ目は、
 
     若い人を先生にする
 
私よりも先に行く後輩を育てたい。若い人に夢を託せしか。先生にしようと思っています。それから四番目は、
 
     言ったことは成しとげる
 
これが出来ないと呆(ぼ)けます。大袈裟な言葉じゃなくて、成し遂げるということは、私は諦(あきら)めないことと、休まないことだ、と思っております。止めるから失敗です。だから、成し遂げるという姿勢さえもっておれば、実に、明日に対する期待感が満ちてくるんじゃないでしょうか。最後は、
 
     元気配達人になる
 
元気配達人になればと。女房の顔を見ていると、結構歳を取っているんですけども、それでもやっぱり私は自分の小さな言葉で、
 
     出会いとは、新しい自分を発見する感動である
 
出合うことによって、新しい自分を見付けさせて頂く。だから、元気をもって人にお出会いすれば、人から元気の気を頂き、その気で、また、お応えすれば、周囲が元気になる。死ぬまで一番お役になることは元気配達人。私は父を亡くして、母の苦労で育ったんですが、母に、「何かお手伝いすることがありませんか」と、中学二年生の頃、言ったことがあるんですよ。その時、「子どもは元気でニコニコしていることだよ。それが子どもの仕事だろう」と言ったことを、私は生涯の戒めにしています。人には元気であること。笑顔であること。それが七十歳の成長訓です。
 
峯尾:  有り難うございました。
 
石川:  有り難うございました。
 
 
     これは、平成十二年十月一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。