死を想い生を想う
 
                            写真家 作家 藤 原  新 也(しんや)
                            き き て  迫 田  朋 子
                                   (NHK解説委員)
 
ナレーター: 藤原新也さんが房総(ぼうそう)半島に住むようになって十五年。海岸に陸地が見える海の風景が故郷北九州門司(もじ)港に似ています。
 

 
藤原:  海と山と街とみんな凪いでるね。
 
迫田:  そういえば嵐の時なんか、凄いでしょうね。
 
藤原:  ここまで波飛沫(しぶき)がかかってきます。引き潮の波というのは凄く波の音が静かで、満ち潮の波の音というのは結構騒がしいというかな。
迫田:  そうですか。
 
藤原:  だから、引き潮の波を聞いているとだんだん眠くなる。
 
迫田:  気持も海にこう吸い込まれていく感じですね。
 
藤原:  よく「引き潮の時に人が死ぬ」というじゃない。「満ち潮の時に生まれる」というでしょう。
 
迫田:  ええ。
 
藤原:  すうっと引かれる感じがありますね。
 

 
ナレーター: 藤原さんが三十年に亘って、世界各地を旅した軌跡を写真や文章で表現してきました。中でもアジア各地を放浪して、人間の生と死を焼き付けた作品が、当時繁栄のただ中にあった日本人に強い衝撃を与えました。『メメント・モリ(Mémento-Mori)』、ラテン語で、「死を想え」という意味のタイトルが付けられたこの本は、一九八三年に出版され、ベストセラーとなりました。そこには日本では目にすることのない、ありのままの死の姿が写し撮られています。
 

 
迫田:  やっぱりこの『メメント・モリ』「死を想え」、これは二十年近く前に出た時、私が若い時、凄く強い印象を受けて、「死を想う」などということは、その時殆どないわけです。それで、「想えなさい」というふうにこう主張されているというか、若い人に凄く強い印象を受けたなあと思うんですね。
 
藤原:  この『メメント・モリ』というのは、「死を想え」という、
迫田:  藤原さんご自身もやはりこれを書かれてから、またいろんな形の死を体験されて、随分違うものなんですか。
 
藤原:  この『メメント・モリ』というのは、僕の旅の中でいろんな死を、生命(いのち)もそうなんですが、生命(いのち)とか死とか、そういう体験したものを凝縮したものなんです。必ずしもこれは死のシーンだけでなくて、凄く生命豊かなものも写真の中にあるんです。ただ、実際に僕が、日常の生活の中で、自分の身近なものとして死を経験するということは、旅が終わってからなんです。それは母親の死であったり、父親の死であった。だから、僕とは関係ない他者の死をずうっと眺めてきたというところがまずあって、それから日本へ帰って来て、自分の日常の中で死を体験する。だから、この『メメント・モリ』と、それ以降というのは、そういう意味ではちょっと死の体験の仕方が変わってくる。
 
迫田:  実際、お母様の死というのを体験された時は、それこそインドでかなり強烈な他者の死を体験されたことが何か影響するものですか。
 
藤原:  そうですね。僕はインドで、ガンジスの火葬のシーンを随分見たんだけども、一番ショックだったのは、死体を焼く職人がいるでしょう。代々世襲制で、ずうっと死体を焼く職人を嗣ぐわけです。例えば、一日に三体焼くとして、一ヶ月にまあ百体位、一年に千体位焼くんですよ。仮に十年、そういう仕事をしているというのは、一万体位も屍を焼いてきている人なんですね。職人として淡々として死体を焼いているわけですね。例えば、風が横から吹いた時に、炎が横に逃げるから、風上にサリー(インドの女性の民族衣装で、身に巻きつけるようにして着る薄い外衣)を翳(かざ)して置く。
 
迫田:  サリーを、
 
藤原:  それで風が来ないようにしたりする。焼けにくい部分というのは、例えば、頭とか、そういうところは途中で大きな棍棒で叩き割るわけですよ。そうすると、脳味噌がパッと飛び散って、沸騰しているから、それに火がついて、花火みたいにパッと散ったりする。膀胱に溜まっている水が沸騰して、火の中からシューッと小便が出たりする。そういう火と水の凄い修羅場みたいなものを見てきた。
 
迫田:  日常の風景の中で見られた。藤原さんもそこでずうっと見て来られた。
 
藤原:  死体を焼く職人というのはそういうことを淡々とやっている。特に、頭を叩き割るシーンを見て、なんか物を打ち割って、なるべく早くうまく焼くという。それだけのために淡々と仕事をしているという。そこが凄く最初は違和感を覚えたんです。だんだん最後に人間が焼け残って、灰になって、彼らは最後に箒でパッと掃くわけですね。それで川にパーンと灰を捨てる。川面に来ると灰が流れていく。そういう光景をずうっと見続けて来て、逆に凄くわだかまっているものが消えていった。今、人が死ねば、箒で一掃きで、最後はおれも箒で掃かれるのかという感じで、逆に未練が無くなった。死んだらあの世に逝くとか、まだ輪廻の世界に望みを託している場合じゃない。死んでしまえば箒で一掃きだという。
 
迫田:  最後は箒で、
 
藤原:  箒で一掃きする。だから、人間というのはその程度のものなんだ、みんなね。
 

 
ナレーター: 藤原さんの人生の旅は、北九州の門司港で始まりました。昭和十九年、旅館を営む両親のもとに生まれました。一歳の時に敗戦。物心がついた頃の旅館は、港に着いた引揚船やアジアとの交易船からの泊まり客で賑わっていました。十六歳の時、父の破産で旅館は廃業。上京して数々の職業を転々としながら、二十二歳で東京芸術大学油絵科に入学。在籍中の一九六九年、藤原さんは放浪の旅に出ます。兄から借りた一台のカメラを手にヨーロッパ大陸を横断。イスタンブールを経由して、インドへと旅したのです。藤原さんがそこで出会ったのは、死に逝く人間の現実を目(ま)のあたりにする世界でした。
 

 
藤原:  僕の『インド放浪』の中に、死んであの世というのではなくて、その流れた灰が、どっかに流れていって、どっかの栄養分になって、それがなんか花を咲かせるとか、そういうことも書いているんです。非常に物理的世界に帰っちゃう。そういうすっきりした感じがした。それから最後は箒というのが頭に残っちゃうね。
 
迫田:  実際にご自分のお母様となると、それなりに身内だし、その想い方も、「箒で一掃き」というふうに割り切って想えていられるものなんですか。
 
藤原:  僕は、「危篤だ」ということを聞いた時にはグッとくるものがあった。実際に目の前にベッドに伏せているお袋を見た時には、意外と気持が凄く静まっていった。それはインドで屍(しかばね)を目の前にしたり、瀕死の人間を目の前にしていた状況と割と似ていた。だから、非常にクールにお袋が見えたということがありますね。
 
迫田:  だけど、なにかそれは他者とは違うものがあるわけですよね、きっと。
 
藤原:  当然そこには感情というものはあるわけですが、なんかそこで感情を出すというのがかえって負担を与えるのではないかという気がした。
 
迫田:  それはお母様に、ですか。
 
藤原:  例えば、瀕死の人を目の前にして、涙を流すとか、「頑張って生き返りなさい」みたいな言葉をかけるのは、その時の状況からやっぱりこれは死ぬなあという感じがした。いろんな管が入っているでしょう。どんどん点滴するわけですよ。点滴するんだけども、尿毒症を起こしているから尿が出ない。そうすると、どんどん水が入っていくんだけども、出るところがないから、身体が膨らんでいって苦しむわけですよ。これは素人考えでも非常に不合理なことをやっていると思ったんです。「そうは思いませんか」というふうに主治医に言ったら、暫く黙っていて、「うん、そうですね」と言った。それは大体、夜中の一時頃だったのかなあ。それでずうっと朝方までベッドの周辺にいたら、朝方四時頃、その主治医が突然入って来た。それで顔を赤らめていた、鬼みたいに。ドヤドヤと入って来て、パッと開けて、そのチューブをパァッと抜いて、そのまま出て行った。その主治医も前からずうっと悩んでいたと思うんですね。最終的に無言のまま入って来て、パァッと抜いて出て行った。
 
迫田:  藤原さんに何も言わずに。
 
藤原:  何も言わないで。そこで僕らが彼を訴えた場合に、へたをすると、彼は殺人罪に問われてしまう可能性もある。そういう非常に変な状況がありました。だけど、僕はその時、彼が凄く悩んでくれたということで凄く感謝した。それで管を抜いた後、五分か十分もすると、顔の苦悩が、歪んでいる顔が凄く安らいできた。それで、「ああ、これでずうっと波が引くように死んで逝くんだなあ」と思ったから、ここで、「頑張れ」と言ったら、かえって負担になっちゃう。だから、如何にこの世に対して心残りを無くして逝かせるか、ということ。それは何も大袈裟なことじゃなくて、彼女の意識朦朧としている時に、いろんな兄弟や親戚とが入ってくるでしょう。その時に、殆ど言葉を発せられないくらい意識が朦朧としているに関わらず、椅子のことを気にしたんですね。
 
迫田:  椅子?
 
藤原:  「みんなの椅子が揃っているか」とか、うわごとみたいにしてね。
 
迫田:  入って来た時に、椅子を勧めるという感じですか。
 
藤原:  「みんなの椅子があるか」みたいなことをゴソゴソ言っている。そういう細々したことを瀕死の状態にありながら気にしている。その椅子の話を聞いた時に、「あ、人間というのは生死の境にあっても、なんか自分の心残りになっているそういう小さなことが気になっている。いろんなことを考えているんだなあ」と思った。あまり大袈裟なことを言うんじゃなくて、おそらくこのあたりが心残りがあるんじゃないかという、小さいことを話して、それを一つ一つ解決していく方がいいんじゃないか、と思ったんです。
 
迫田:  例えば、どんなことですか。
 
藤原:  いま自分が死んだらまず親父が残される。心残りが当然あるわけです。まあ親父は東京に連れて行って。親父の好物はキュウリと素麺なのね。
 
迫田:  キュウリと素麺、
 
藤原:  それで、「毎日キュウリ食べさせるし、夏になったら素麺食べさせるから」と言って話をしたりとか。野良猫がお袋の家によく来て、飯をあげていた。飯を上げる人が居なくなるから、「隣の奥さんに野良猫の飯をやるのを頼むから」と話したり、それから、炊事場の水道の蛇口がちょっと水漏れしていた。そういうところを気にしていた。「水道のパッキングを換えて水漏れを直して置くから」とか、冷蔵庫にメバルが二匹入っていたんですよ。僕は門司港の生まれで新鮮な魚を買ってきて食べさせるということをずうっとやっていたから、「メバルが古くならないうちに煮付けで食べるから」とか、そういう日常の細々したことを耳元で、小さな声で、メバルの話とか、キュウリの話などした。(笑い)
 
迫田:  伝わっているみたいでした。
 
藤原:  母は言葉は発せないし、身体も動かないんだけども、僕は聞いているなあと凄く感じた。もう凄く耳を澄ませて、ずうっと聞いているなあという感じが凄くしたんです。
 
迫田:  目が動いたり、口が動いたりということはないわけですか。
 
藤原:  時々瞼がピクピクしたりするけどね。それで一つ一つそういう言葉で自分の思いを伝えていった。向こうは心なしか、なんか穏やかになる。その都度その都度、顔色が穏やかになっていくような感じがした。それで最後に、「後はいろんなことは全部任せて成仏しなさい」とまで言ったんです。そうすると、「成仏しなさい」と言った時に、ちょっと見ていたら、彼女はなんか水を欲しがっているなあというふうに、サインを送っていたような感じがしたんです。
 
迫田:  どこか動いて?
 
藤原:  「水をくれ」みたいな感じを受けた。それで脱脂綿に水を含ませて、箸でもって、少し半開きにしている口にすっと流し込んだんです。そうしたら、口を閉じた、パッとその一瞬。
 
迫田:  それまで全然動かなかったのに、
 
藤原:  動かない。その時、飲み干すみたいに、グッと入った口をグッと閉じて、その瞬間心電図が真っ直ぐになっちゃった、すうっと。それまでいびつな形していたのに。心電図は音がするでしょう。それが水含ませて、口つぐんだ瞬間、ピーッと真っ直ぐになっちゃった。その時、ちょっとビックリした。ただ、もう死んでもいいなと思った時に、スーッと生命力が無くなって、死んで逝く。やっぱりどっかで持ちこたえていたものを、自分が諦めるとか、逆にこれでも成仏したいという意志がパッとおきた時に、それが境目で、人間は死の壁を超えていくような気がするね。そこになんらかの形で意志が介在しているような気がするわけです。おそらくあらゆる人が死に直面した時に、自分はどっかで選び取る瞬間というのがあると思うんです。お袋がこう口を閉じて、心電図が真っ直ぐになった時のことを見て、僕がインドで見たことを思い出したんです。ある坊さんが、もう六十ぐらいの坊さんかなあ、諸国行脚して、最終的に自分が死にたいと思った場所に、バラナシというところにやって来て、もうかなり身体も冒されていたらしいんですが、ガンジス辺(べ)りに仰向けでずうっと寝ていた。「この人は諸国行脚して死にに来た人なんだ」ということを周りの人は言っているわけです。「死にに来た」ということは、どういうことか分からなくて、その人の前に時々行ったりして、何日か見ていた。そうすると、たまたま僕が何日目かに側にいた時に、急に身体をグッとエビぞりし始めた。この人なんかやっているなあと思って見ていたら、急に喉笛をあげて、ギュッと呼吸を激しくし始めて、それでこういうふうな印を結んだ。これは男女合体の意味なんです。ということは、陰と陽が合体して無に帰するという。そういう意味があるんです。両手でこう印を結んで、そのままグッと力を入れて、そのまま死んじゃった。その一瞬を、僕は写真を撮ったんです。
 
迫田:  写真を見ました。やっぱりどきもぎされました。
 
藤原:  僕はインドへ行って、あまり簡単に馴染まないんですよ、その風土に。例えば、インドに行って、彼らは何千年もガンジスで沐浴をやってきているわけですよ。日本人がパッと行って、「おれもやってみよう」と言って、裸になって自分も沐浴する。これはちょっと違うんじゃないかという感じがする。彼らは彼らの伝統生活によっている。それを見るのはいいけども、簡単になんかやってしまう、というのは、ちょっと違うんじゃないかと思う。たまたまガンジスに飛び込んだことがあった。それは赤ちゃんが流れていたんですよ。これは溺れているんだと思って、上着を脱いで、パッと飛び込んで、持ったら死体だったんです。その時、始めてガンジスに入った、沐浴じゃなくて。ただガンジスに入ったことは確かで、結果的に沐浴しているわけですね。だから、そういう旅の中で、いろんなアクシデントがありながら、結果的に何かをしてしまっているということで、徐々に徐々にその世界に入っていく。南インドにいる時に、中年のお坊さんが道端に転がっていて、それで身体がポッと膨れていて、口に蠅が集(たか)っていて、よく見たら息している。「どうしたんだ」と言ったら、栄養失調で倒れた、と。それで、じゃ、ミルクでも飲ましたらいいんじゃないかというふうに単純に考えて、ミルクを買って来て、口から流し込んだら、急に咳き込んで、凄く苦しみ始めた。そこで一時間位で息が絶えたことがあったんです。それでさっきの赤子の話じゃないけども、なんかやってしまったわけだよ。別にインドに交わろうとか、そういう気持は無かったんだけど、たまたまそういう自分の気持ちで表して、それで結果的にミルクで人を殺してしまったみたいになったわけでしょう。その時には呆然としました。
 
迫田:  それはショックですよね。間接的に分かるんじゃなくて、目の前で、それが起こってしまう。
 
藤原:  だから、その時は、俺は、「世界とか、人間というのは何も知らないんだなあ」と思ったんですね。その後、ずうっと自分の中で引きずって、尾を引いている。
 
迫田:  今はそれは何かの形で解決がついている?
 
藤原:  それは解決はつかないでしょう。それはどっかに残っているものがあると思う。
 

 
ナレーター: 母親の死後、藤原さんは一人になった父親と東京で暮らし始めました。藤原さんの育った旅館、「藤乃屋」は明治生まれの父・新太郎さんが一攫千金の夢を見て、大正時代、朝鮮半島から満州に渡り、宝石販売で儲けた金で手にしたものでした。門司港が引揚者でごった返した戦後が終わり、昭和三十三年、関門トンネルが通ると、区画整理のために、旅館は壊されました。人の流れが変わった門司港で、新たに買った旅館は倒産。一家は故郷を離れました。別府で客引きの仕事を始めた父は、七十歳を過ぎていました。楽天家で、人から信頼される人柄だった父・新太郎さんは、その後別府で一、二を争う客引きとなり、八十代半ばでホテルの支配人にもスカウトされました。九十九歳で亡くなるまで、過去のことはあまり話さない。今を生きる人でした。
 
別府駅に着くと「鉄輪(かんなわ)」行きというバスに乗った。私はそれをてつわと読んだ。これがかんなわ、ちゅうんよ、と母は言った。
バスから見下ろす町並み。歩いている人々。どこかの外国よりずっと遠いところにある、すぐに馴染むことの出来ない場所のように思えた。
バスはぐんぐん山の方に登っていった。
終点の鉄輪に着くと、そこには七十歳の父が停留所のベンチに座って待っていた。
「どうしてわかったん」と母が嬉しそうにいう。
「もう来るころじゃろうと思うてな」と父は何食わぬ顔で答える。
不思議な光景だった。月明かりに照らされて、町のいたるところから、もくもくと青白い湯煙が上がっていた。
「地獄みたいやね」と私は言う。「ここじゃ、地獄めぐりも出来るけぇの」と父は言った。「鉄輪っちゃ、地獄ちゅう意味なんかね」と私は訊ねる。「温泉は地獄じゃのうて・・・」と父は言う。「そう、天国みたいに、ええところなんよ」と母は言葉を添えた。
しばらくの沈黙があって、それから私たちはまた歩き始めた。
 

 
藤原:  親父は東京から房総のこちらに連れて来た時、こちらで亡くなったんですよ。毎年五月になると、黒鯛が釣れ始めるんです。それを釣って、刺身にして食べさせるという行事を毎年やっていた。五月になると連れて来て、それで釣った魚を刺身で食わせる。九十過ぎていても、舌だけは肥えていて、買ってきた魚は残しちゃうね。釣ってきたものはちゃんと食べる。それで風邪を拗(こじ)らせてそのまま寝込んじゃって、衰弱して逝ったんです。前に、お袋のケースがあったから、病院には連れて行かない。畳の上で死なしてあげようということで、僕の家の方でずうっと看病した。
 
迫田:  やっぱり耳元で話しかけられたり、お母さんと同じようにされた。
 
藤原:  お袋の場合は割と早く逝ったものだから楽だったんですよ。だけど、親父の場合は伏せったまま結構長引いた。それで、兄姉で交代で世話したんです。一ヶ月、二ヶ月、伏せった人間の面倒をみるというのは相当に大変なんですよ。一番大変なのはおしっこの処理ですね。特に膀胱が小さくなっているから、割と頻繁におしっこする。その都度夜中に起きて、溲瓶(しびん)をあてておしっこさせないといけない。それで結構疲れ果てる。溲瓶をあてると、「おしっこ」と言って、溲瓶をあてて、こちらが、「OK」と言う。「OK」と言ったら、親父は、「こっちは発射」と言う。「発射」と言って出すわけですね。
 
迫田:  お父さんが、
 
藤原:  一種の照れもあるんだろうと思うんですね。そして終わったら、親父は、「ストップ」と言うんですよ。「ストップ」と言うんだけど、まだ出ているんだけどね。(笑い)それでそういうことを毎回繰り返していて、だんだん夜中も昼もなくなってきて、みんな疲れ果ててきた。僕はその時に、これは自動的に尿を取る方法がないかなあと考えて、ふと考えついたのが、お袋が点滴したチューブがあるでしょう。あのチューブで尿を自動的に取ればいいんじゃないかと思ったんです。それで変な話なんだけど、コンドームの先を切って、チューブに付けて、それを装着して、そのチューブを溲瓶に流し込むという。
 
迫田:  いわば、管を付けたということですね。
 
藤原:  その方法だといけるんじゃないかと思って、それでコンドームを買って来て、チューブ付けてやったら、全然サイズが合わなかったんですよ。あれは老人だし、萎(すぼ)んだままだ。それで東京でいろんな薬局とかを走りまくって、いろんな指サックを十五、六買って来て、一々試してみたら、一つ合うのがあった。それで先にチューブをつけて溲瓶の中に流し込むわけです。「おしっこしていヽよ」と言ったら、したのね。その時、すうっと出ていった。それで溲瓶の中に溜まっていった。「これはやった!」と思ってね。これで、みんな、苦労は解放されるなあと思った。
 
迫田:  夜中にも起こされずに。
 
藤原:  案の定その晩は一回も起こされなかった。ただ、翌朝起きて溲瓶を見ると、全然溜まっていないわけです。
 
迫田:  ああ、そうですか。
 
藤原:  おかしいなあ、と思って、前の日には全部捨ててあったから。「おしっこ出ないの」といったら、また、し始めたわけです。出るわけです。溜まっていた。それで出るな、と思ってほったらかしていたら、またしていない。溜まっていない。そういうことを繰り返すうちに、ふと、これはちょっとまずいことをやったんじゃないかなあと思い始めた。ということは、彼は口もだんだんきけなくなってきているし、身体も自分で動かせなくなっている。要するに、自分でなんかやることを、能動的に出来ることがなくなって、最後に出来ることはおしっこだけなんです。それで、そのおしっこの面倒みてやったり、出したりと、そういうことでなんかコミュニケーションをしていたんじゃないか、と思ったんですね。
 
迫田:  それで関わっているというか、
 
藤原:  なんかしてあげている、して貰っている、ということの中で、下半身で会話していたんじゃないか、と思ったんです。それでフッとそう思って、サックを外して、また前のようにした。十分も経たないうちに、もうおしっこ出始めたね。それで、「OK」「発射」とまたやり始めた。結局、そこでやっぱり親父と俺達は会話していたんだなあということを思い始めた。だから、それにまあ気付いたから良かったですね。疑問のままずーっと逡巡していたら、結局、そのことが分からないで終わっていたような気がした。死はひどく孤独だから、孤独というのをそこで救っていたわけですよ。僕は全部が全部、いいことばっかりでなかった。親父がたまに寝返りをうちたいので、夜中に、「ちょっと起こして」という時に、怒ったこともあった。こっちもカッときて、「もう寝返りなんか今しなくていいが」と言って、こっちも感情的になって怒ったこともあった。死んでしまった後から考えると、「ああ、しまった」と思ったね。明治の男というのは、意外と苦痛の表現というものはしないですね。「起こして」という時には相当苦痛だったと思うんですね。それを想像しないで、感情にまかせて、「夜中に寝なさい」というような話で怒ったりした。そういう総ていい話ばっかりじゃなくて、こちらも随分まずいこともしたなあということもあった。ただ、まあおしっこの件だけは帳尻合わせたかなあと思った。
 
迫田:  やっぱり最後は、「成仏しなさい」とおっしゃったんですか。
 
藤原:  親父には、「成仏しなさい」と言いたくなかったんですよ。
 
迫田:  どうしてですか。
 
藤原:  なんか男と男の関係というのがあるじゃない。それで、特に親父は明治の生まれで、凄く楽天家だし、病気で死んだわけじゃない。まあ老衰なんですね。親父は波瀾万丈の人生を送ってきて、最後はこれで死んだら幸福だと思ったわけです。畳の上で、おしっこの面倒をみられて。
 
迫田:  息子が側に居て、
 
藤原:  側に居てね。だから、この親父が死ぬ時に、「チーズ」と言って笑わせようと思ったんです。
 
迫田:  チーズ(笑い)
 
藤原:  笑顔で死んで欲しいという。「それでは笑って」と。そろそろ死ぬなと思ったか ら、「父ちゃん!」と言って、「あ、笑って!チーズ!」と言った。そうしたら、目を閉じているんだけども、こう開いて、「笑って!」と言って、カメラを持って、「撮るから、笑って!」と、
 
迫田:  カメラを持っていらっしゃった。
藤原:  「笑って」と。ぼっと笑いを浮かべて、一生懸命。それで目を瞑って、それで死んだ。
 
迫田:  それが最後ですか。「笑って!」と言って、笑って。
 
藤原:  笑って死んだ。それでまあ死ぬ人間に向かって、「笑って」というのはあまりやったことは、他人はないと思うんだけどね。親父は笑って死にました。死んで貰いたいという、まあやるべきことは総てやったね。
 
迫田:  それで写真も、
 
藤原:  写真も。だから、最初に目を瞑っていた時に撮って、「笑って」と言った時に、目を開けて、死んでからという笑顔というのは変なんだよね。
 
迫田:  そうですね。
 
藤原:  気味悪いんだけれども。やっぱり親父はエンターティナー(entertainer)というかなあ、昔から旅館を経営していて、客の前でいろんな新内(しんない)とか歌ったりしていた。そういう意味じゃ、酒が呑めないから芸で、いろいろ人をもてなしたりしていた人ですから。こちらが要求して、「笑って」と言ったら笑っちゃう。笑い飛ばすところもあったし、何でも。これ目を瞑っているでしょう。「笑って!」と言ったら、何か言っているなあと思って、目を開け始めた。ちょっとこっちを見て、ああ、自分の言っていることが理解出来て、それで笑って。
 
迫田:  ほんとに口を開けて笑っていらっしゃる。これも笑っている顔、
 
藤原:  これは笑って、瞑って、最後はだんだん息が絶えて逝ったんです。
 
迫田:  これは亡くなられる寸前ですか。
 
藤原:  それから二十分位してから、だんだん意識が無くなってきた。
 
迫田:  これはほんとに笑っていらしゃる。
藤原:  笑う時、口開けて、「ハッハッハッ」と言うんですよ。そのつもりで口 を開けているのね。
 
迫田:  「ハッ」という音が聞こえるような口ですね。
 
迫田:  表情があるというか、豊かというか、なんか息づかいというか、温かさみたいなものを感じられますね。
 
藤原:  いや、「温かさ」というよりも、笑うというのはもの凄い豊かな生命を発散する条件じゃないですか。だけども、死につつあるという、その両方があるわけ。不思議な顔だよね。生と死の両方が、そこに鬩(せめ)ぎあっているわけだから、死にながら笑う。だから、なんか不思議な顔だなあと思ったわけです、その時に。
 
迫田:  いまご覧になると、どんなふうに。
 
藤原:  まあよく笑ってくれたなあという感じですね。
 
迫田:  いろんなお書きになったものを拝見しても、お父様のことを凄く尊敬されていらっしゃるというか、大切に思っていらっしゃる。
 
藤原:  僕は末っ子だったからね。割と親父に可愛がられたんですよ。だから、むしろ上の方に厳しかった。昔の親父というのはあんまり言葉はない。日常的な会話はしないんですよ。よく「背中を見て育つ」というけど、僕もそういう感じでした。会話だって、此処にいるなあという存在感というか、そういうのが凄くあった。僕はそういうことでいいんだと思うんです。
迫田:  最後の瞬間、でもそういう意味じゃ藤原さんの声が伝わって、関係がちゃんと保たれたということですよね。
 
藤原:  東京へ連れて来て、僕のマンションにいたり、姉のところにいたりしていた。僕のマンションに来た時に、マンションの通路を散歩するわけです。運動をね。行ったり来たり、行ったり来たり。それでたまたま、エレベーターで上がって帰って来た時に、シャッシャッシャッという足音が聞こえてくる。今、散歩しているなあと思って、エレベーター上がった時に隠れていたんです。それで向こうから来る時、パッと目の前に出るわけです。そうすると、一瞬驚いて、向きあって、俺というのが分かった時の顔が、本当に神さまみたいにホワッと笑顔を浮かべたわけです。その時の笑顔というのはもの凄く強烈に覚えているんです。あんな笑顔は滅多に見たことがない。息子だと気付いた時の笑顔。その笑顔が今まで残っていて、死ぬ時もその笑顔を欲しいなあと思ったかも知れませんね。
 
迫田:  そうですね。
 
藤原:  例えば、親父が伏せる前に、食事をするでしょう。その時、食事をした後、必ず「松島・・・エンヤトット、エンヤトット」の大漁節を歌い始めるわけです。食事を終わって、キュウリ食べた後に、「松島・・」と歌い始める。大きな声で。毎回だとうるさいのね。こっちも耳障りになってきて、「松島」と言ったら、「ああ、もう分かった」というわけです。だけど、彼はなんで松島ばっかり歌っているのかなあとある時思ったわけです。それで、「父ちゃん、いつも松島ばっかり歌うんだけど、何で」と言ったら、「母ちゃんと旅行したんや」と言った。新婚旅行なんです。それでお袋が死んで五年位して、松島の歌が出てきた。頻繁に出始めた。それで、昔は、「新婚旅行」とは言わなかった。「結婚した時に旅行したんだ。それで二ヶ月もいたんだ」と。
 
迫田:  あの仙台の松島ですよね。
 
藤原:  「雪が降って、雪の松島は凄く綺麗だった」というわけです。それで、「ああ、そうか」。結局、最後はお袋とのことをずうっと思っていたんだなあ、と。淋しいとか、全然そういう素振り見せなかったんです。それでいつも「松島・・松島・・」と歌い始める。新婚旅行で松島へ行って、長逗留して島めぐりしたとか、そういうことが最後残って、蜜月が自分の中に残っていて、それをこう歌い始める。歌う時の調子が凄く気持が入っているわけです。それで、「ああ、そうか」と思って、それ以降、松島を歌い始めたら、歌うように歌わせておく。それで松島を歌った後に、時々、山階節(さんかいぶし)というのを歌うんです。山階というのはどういう意味か知らないんだけども、
 
     船を引き上げ
     船頭衆は帰る
     後に残るは櫓と櫂
     波の音 浜の松風
 
この歌を大漁節の後に歌うんです。総てその浜辺に大漁の、いろんな人生があって、それで船頭衆が船を浜に上げて、それでみんな帰ってしまって、後に波の音と、松風が吹いているという。それが凄くそれを歌った時に情景が浮かんでくる。誰もいない浜辺の松風が吹いている情景。これは親父が歌うと凄くいい歌に聞こえる。いろんな人生を経てきて、最後に空っぽの松風がフッと吹いているみたいな。もう九十過ぎると、浜辺に松風が吹いているという、そういう心境なんだろうなあと思う。その二つの歌というのは凄く未だに聞こえてくるんですね。俺も最後にああいう歌を歌って死ねるかなあと思って(笑い)。
 
 
     これは、平成十三年一月七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。