天地は一心ー生活に活きる宗教ー
 
                              農 業 関 谷(せきや)  喜与嗣(きよし)
大正十年長浜市東上坂(ひがしこうざか)町に生まれ、旧制虎姫中学で奥田幾治郎先生から仏教指導者、中野善英師を紹介され、念仏の道を歩む。青年学校教員養成所(青年師範)卒業、仏教大学を卒業、中学校、養護学校で教え、定年後は農業に従事。
                              ききて 金 光  寿 郎
 
ナレーター: 滋賀県長浜市。琵琶湖の東岸に接し、西南に比叡山、東に伊吹山を望み、市内を走る北国街道に沿って、古い歴史の面影を残す街です。今日は姉川(あねがわ)の古戦場にも近い所で、農業を営んでいる関谷喜与嗣(きよし)さんをお訪ね致します。関谷さんは、十代の後半から、生死を超える道として、仏法を真剣に求め始め、二十数年前からは、一日一万遍、時には九十日、百日と限って、三万遍もの念仏を称えることがあるという、現代の念仏者です。
 

金光:  関谷さんの田圃ですか、これは。
 
関谷:  そうでございます。全部で八反ですけどね。そのうち此処へ六反、こちらに田圃をおいておりましてね。
 
金光:  関谷さんはこの土地で、此処で生まれて育って。
 
関谷:  ここで生まれて育って、いわゆる百姓の家で育ったんです。
 
金光:  それで田圃のお手伝いも当然子供の頃からしていらっしゃったわけですね。
 
関谷:  ええ。そうです。貧しい百姓で、育って、親が一生懸命この田圃を守っていてくれたお陰で、こういう田圃を残して頂いたのは有り難いと思ってね。
金光:  それでも途中、中学校の先生なんかをなさった時は、農繁期だけのお手伝いのようなことですか。
 
関谷:  殆ど家内(妻)が一生懸命やってくれまして・・・。
 
金光:  もう退職されてから、いわば専業農家になられたわけですね。
 
関谷:  ええ。
 
金光:  そうですか。じゃ、子供の頃からの馴染みの所で、今も生活なさっている。まあいわば羨ましい田園生活ということになったわけですね。それじゃ、また、向こうへ行ってお話を聞かせて頂きましょう。
 

 
金光:    真珠の玉
 
     真珠貝は─
     自分の身に喰(く)い込んだ痛い石粒をも
     甘い液を出して、コレを包み化して真珠の玉とする。
     私達にも この「愛の唾液」「血の涙」が欲しい。
     自分を苦しめる不幸や災難も
     私に真珠の宝石を産ましめんがためです。
     身に苦痛を感ずる位でないと 真剣にならぬ。
     真剣にならぬと「智慧も力も」湧かぬ。
     この世は「苦の娑婆」だが
     苦の娑婆がちょうど私達には極楽になっている。
     日々夜々に愛すれば「珠」にならぬものは一つもない。
 
この詩を創られた中野善英(ぜんえい)という方が、関谷さんの仏法のうえでのお師匠さんだというふうに伺ったわけですが。
 
関谷:  左様でございます。
 
金光:  かなり大きくなってお会いになったと思うんですが、関谷さんが仏教に関心をお持ちになったのは、どういうことで、いつ頃からでございましょうか。
 
関谷:  私の父親が、日露戦争で、輜重(しゅちょう)兵卒で、奉天(ほうてん)戦争に参加して、極寒の満州で二冬、それから極暑の満州で二夏過ごしておったんです。昔の輜重兵というのは、馬で殆ど大砲とか、砲弾輸送しておったわけです。それで殆ど馬と一体になって生活せねばいかなかったのです。その暑さ、寒さにも、殆ど戦友は倒れてしまったような厳しさでしたが、私の父親は、先祖伝来、念仏信仰の家に育ったので、それで馬の腹の下で冬を過ごし、夏の暑さは馬の陰で念仏を称えながらやっておった。それで殆どの人が死んだのに、こちらに帰ってきて、「念仏のお陰で生かされた」ということで、仏壇の前に坐って念仏をお称えすると慟哭して、涙を流して、仏さんの前に跪き、また、貧しい百姓をしておりました。田圃にいくとひざまずき合掌礼拝、お念仏を称えながら仕事をしておりました。幼少の時から、こうして生活をさせて頂くのは、仏様のお陰、如来様のお陰、ということで育ちました。それで、私は縁があって虎姫(とらひめ)へ参りました。
金光:  隣の町ですか。虎姫という中学校ですか。
 
関谷:  これは北陸線で、長浜の次が虎姫というところで、ここから八キロ位あるんですが、
 
金光:  そこへ行かれたというのは、それは学校ですか。
 
関谷:  ええ。 昔の中学校ですね。中学校へ行った時に、私の先生の奥田幾治郎(いくじろう)という先生が、「一味(いちみ)」という新聞を下さった。
 
金光:  一つの味(あじ)と書く「一味」ですね。
 
関谷:  「一」と「味(あじ)」と書きます。頂いた「一味(いちみ)」の新聞に、この詩が載っておりました。幼少の時から、念仏信仰、特に、私の家は真宗で、お念仏というのは称えているんですが、中学一年の時でしたが、こういう本当に活きた言葉に感動致しました。そして、特に、人間に愛が必要だということを感じておったんですが、真珠貝でさえ、ほんとに愛の唾液を出して玉を育てていく。私たちもそういう愛の唾液が欲しい、という心に大変打たれて、奥田先生の教えに本当に心からお慕い申して、ご指導頂いたような次第でございます。
 
金光:  此処にあります、
 
     自分を苦しめる不幸や災難も
     私に真珠の宝石を産ましめんがためです
 
というような言葉、これは本当に力強い言葉ですね。
 
関谷:  私は、中学校の時、腸チブスを患って、殆ど病院長も、それから京都大学から長浜の病院長のお師匠さんを呼んでも、とても助からんという状態になっておったんです。その当時は、伝染病の腸チブスというのは、看病しかなかったわけです。両親のほんとに献身的な看護の中に、父と母の大変な愛を感じて、此処の詩にありますように、死ぬか生きるかという状態にありながら、ほんとに親の愛というものが素晴らしく尊い、と。そして、そのことによって、自分は生かされているということを感じた次第でございます。
 
金光:  まさに、「日々夜々に愛すれば、珠にならぬものは一つもない」。そのご両親の愛情をヒシヒシとお感じになったということですね。
 
関谷:  幼少の時から、目に見えぬ仏様、神様のご加護で生かされているということを、身体で両親から教えられ育てられました。これは素直に受け取り、聞き取り、そして自分自身も磨かないけないということを、そして、死ぬはずのものが救われたということが、素晴らしい親の南無阿弥陀仏のお陰だということを、私なりに感じた次第でございます。
金光:  それで、その後、すぐ中野善英(ぜんえい)というお師匠さんのところへお出掛けになったわけですか。
 
関谷:  それが、実は、奥田幾治郎(いくじろう)という先生は、広島文理科大学の一回生で、殆どの方が当時の小学校教員、いわゆる師範学校の先生を志されたんですが、田舎の虎姫(とらひめ)の中学校で、特に、滋賀県のこの湖北地方は、真宗念仏信仰の非常に深いところで、此処に念仏の種を蒔きたいということで、それこそ命を懸けて赴任されたその先生に出会いました。そして、山崎(やまざき)弁栄(べんねい)(1859-1920)という「光明(こうみょう)主義」をとなえていなさる教えに、知恩院山内「信重院」へ冬休みに五日間「お別時会」(学生中心の念仏研修会)に正月連れていって頂きました。そして、そこで、従来の幼少の時から私が教えられて来た親鸞聖人の真のお心に通った道に出合ったのです。素晴らしい現代に生きいく道がはっきりとわかり、そして、その光の中に生かされているという実感がもてる教えに触れた次第であります。中野上人もお亡くなりになるまで、「弁栄上人御著作の礼拝儀」いわゆる所依(しょえ)の教典(よりどころ となるお経本)をおつかいになっていました。弁栄上人御作の礼拝儀はお釈迦さんのお残しあそばされたたくさんなお経を心読統合し、浄土三部経に説かれている精神、無量寿経の心を、阿弥陀仏信仰の中に、如何に現代人に分からせるかということで弁栄上人が深い念仏三昧求道の結晶からまとめ上げられたものでございます。中野上人は、それを現代人にもっと分かり易く説かないといかんということで、ほとんど仏教用語を使わずに、ただ今お読みいただいたような「真珠貝」のような言葉で、現代人にいわゆる仏の慈悲というのを、愛という言葉で、そして、その愛が総てのものの中に満ち満ちている、と。真珠貝の一つの中にも、宇宙の愛が、如来様の愛が満ち満ちているということを、中野先生は説かれている。私は、弁栄上人から直接ご指導をうけられた沢山の、いわばお上人と言われる方の別時念仏というのに参加したんですが、そういう方たちは、弁栄上人はこうおっしゃった、仏教でお釈迦さんが説かれたことを弁栄上人は、こういうふうに説かれたという教えが、大多数重点的で、その中野先生のように、仏教の用語を殆ど使わずに、現代人に分からそうとされておられる。これはきっと自分の生活の中に、その如来様のいのち、大宇宙のいのちを全身で受け止めて、生き抜いておられる方だなあ、と思ったんです。それで、私は比叡山の飯室谷(いむろだに)で、中秋大会というのが毎年ございまして、
 
金光:  「ちゅうしゅう」というのは、秋の中秋ですか。
 
関谷:  秋の名月の時、三日間、それに学校から行って、初めて中野先生という方に出会ったんです。
 
金光:  何年生の時ですか。
 
関谷:  私は中学五年の時に、奥田先生に導かれて光明主義を主唱される弁栄上人の教えにふれたのですが、その後、私は青年師範学校、青年学校教員養成所という学校へ行って、そこから比叡山の飯室谷(いむろだに)で先生に出会った次第でございます。
 
金光:  それで、飯室谷の大会というのは、これはどういう形で行われていたんですか。
 
関谷:  今は不動堂で酒井雄哉(ゆうさい)という阿闍梨(アジャリ)さんがおられて、たくさんの人がお参りになっていますが、昔は山道で、京阪坂本からずうっと山道を歩いて行く。そして、飯室谷というのは、大抵山登りしている人でも、道を迷うくらいの不便なところでしてね。ずうっと先生が、道導(みちしるべ)に自分の短い言葉を紙に書いて道ばたにはっておられたんです。いろんなことを書いておられたんですが、その初めに、
 
     人生はこれからだ
 
と書かれたハリ紙があったのです。私は、それがすぐ兵隊に行かねばならんということがありますから、戦場に。それで何時死んでもいいという自分の信念を頂きたい、と。その念仏の中に。そう思って、そういう道を求めておりました。張り紙が幾つもあったんですが、ひときわ、「命懸けでやってきたか」ということばに心をうたれました。
 
金光:  張り紙があるんですか。
 
関谷:  「命懸けでやって来たか」と。「いい加減な者は此処へ来るな。帰れ帰れ」と。こういうことで、それで、自分は本当に命懸けでやって来たかと、反省しながら、その門をくぐったんです。その時に、私は、お堂から先生が、南無阿弥陀仏を称えて出て来られるのに出会ったんです。それまで聞いておった山崎弁栄(べんねい)という方は、大正九年におなくなりになり、それに出会ったたくさんのお導師の方が、いわゆる仏陀禅那(ぶつだぜんな)弁栄と称せられ、お釈迦様の生まれ変わりだ、と。「日本の光」と言われたほどのお方と多くの人に慕われなさった。この人こそ、そのような人だなあーとおもわれるほど、無心に出て来なさるのが、本当にこの宙に、雲の上を乗っていくような、そういう姿に私は感じたわけです。それでこれはやっぱり命懸けで、道を求めんならん、と。この世界にはいけんなあということを。中野先生の身体を通して感じました。そういう所から出て来た言葉が、私たちのこの胸にひびいてくるのだなあーということを思った次第でございます。
 
金光:  それで、その会は徹夜でお念仏を称えるわけですか。
 
関谷:  ええ。大体、普通、浄土教の教えでは、七日間。阿弥陀経には、「若(にゃく)一日、若二日、もしくは七日」とありますように、七日位本気でせなあかんぞ、と。阿弥陀経には書いてあって、大体、「別時(べつじ)念仏」というのは、特別な時間と場所を選んで、そして、七日間念仏研修をする光明会なんかでは、七日ないし、九日間やっておられたんです。中野善英という方は、貧しい貧しい生活の中から、それこそ底辺を歩かれた方なんです。それで、七日も研修に出て来られん人がいることを、自分自身が分かっておられたから、それで三日間でやってしまう、と。そして、最初の結集(けつじゅう)で命懸けでやって来た者でないと駄目だ。いい加減な者は帰れ、ということですから、ほんとに道を求めて来た者と、三日間でやるのには、「徹宵(てっしょう)念仏」、いわゆる「樹下石上」石の上、樹の下で不臥不眠の徹宵念仏ということをやる。要するに、決死道場と言って、門の前にも、「決死道場」と書いておられたんですね。それでほんとに道を求めている人だけが来ておって、そして、結集の心構えを初日にしっかりやって、二日目は精進日といって、三日目には自分が体得したことを浄書する。その代わり、「それが終わったら、自分の三日間でやり遂げたことを、紙に浄書して、それを比叡山の山の中に、自分の志を、比叡の祖師たち、仏様、天地宇宙に、自分の命懸けでやって、道を求めていったことを残して置け」と。「志を比叡に、いわゆる自分の人生の記念塔を建てて置け」と、こうおっしゃったほど、厳しい教えです。勿論、お堂があるんですけど、畳の上で座布団で坐るとか、夜でも毛布でくるまるということは許されなかったんです。その後、だんだん怠けておりますが。中野先生のそういうひたむきな道を求めるという姿勢、これは、私は大変尊いことだということで、中野先生に心を寄せてご指導を頂いて参りました次第でございます。
 
金光:  最初の出席なさった会は、相当緊迫した結集(けつじゅう)だったと思うんですが、もうこれで懲りたという方もいらっしゃるかと思いますが、関谷さんの場合はどうでした。
 
関谷:  中野善英上人が、比叡の念仏というのは、「独坐独行、不臥不眠」と。「独坐」ということは独りで坐る。独りに成りきる、と。大体、結集というのは、みんなが寄って、わあっとやっておるんですが、そうでなしに、一対一、要は独りでやる、と。それから、「樹下石上」と。それで、中野善英上人自身が宗教大学を出られた大正末期から、独坐独行、独りに成りきるということで、それこそアルプスから方々の山を巡られて、そして、比叡山という伝統的なところに、やはり長い歴史と伝統の中に、磨かれた祖師たちのご苦労の場所である比叡山が、本当に修行するのに相応しいところだ、と。しかも、飯室谷というのは、「不断念仏発祥の地」と言われるお念仏の発祥地だったんですね。それで、そこで此処こそ自分が本当に独坐独行、独りでやるのに相応しい、と。しかも、その近くには慈忍(じにん)和尚(かしょう)という方のお墓があり、千年杉が亭亭(ていてい)と聳えているわけです。そこで中野善英上人自身が、独りでずうっとやってこられたんですね。そして、比叡山の飯室谷で、この私の喜びというか、天地と一心、一体、一生命、という世界になんとか浸したい、ということで、もうごく限られた十数人の覚悟を決めて来ている人を呼ばれたのです。私は、中野善英上人とは、そこで初めての出会い、私としては一生懸命お念仏をしてもう懲りたというようなことは少しも考えませんでした。
 
金光:  中野先生が仏教を現代の人に分かり易く説かれた、その仏教哲学の中野流の表現の一番最初に、
 
     天地は一心、一体、一生命、一活動なり。
     これを神といい、仏といい、道と謂い、教えという。
 
今、ちょっとおっしゃいました言葉がありましたけれども、この「天地は一心、一体、一生命、一活動なり。これを神といい、仏といい、道と謂い、教えをいう」。これはどういうふうに受け取っていらっしゃいますか。
 
関谷:  私は不勉強なりに、阿弥陀仏という、いわゆる念仏信仰。阿弥陀様というのは、無量寿、無量光。限りないいのちと限りない光の、いわば天地の大生命の根源にまします方だということは、当時から大体私なりに受け取っておったわけです。ところが、「無量寿阿弥陀様」「無量光阿弥陀様」という言葉が、浄土伝統の言葉の中に言い伝えられておりますが、そういう内容が、なかなか現代人にはうけとりにくい。無量寿ということが、計り知れないいのちの中に生かされて、そして、計り知れない命の大宇宙の親様だ、と。いわゆる大宇宙根源の生命の、根源の親だということ自体が、余程、念仏しないと分からないわけですね。そういう点で、中野善英上人が、天地ということが、無量寿、無量光の阿弥陀仏のいのちなんだ、と。そして、それが一つとなって、私たちに光を注ぎ、私たちのいのちを保ち、私たちに一心、一体、一生命、一活動せしめていて下さる。生かしていて下さる。この短い言葉の中に、阿弥陀仏信仰の、いわば「本態論」とおっしゃっておられるように、根源がうたわれている。それは、「天地」という。「天地」というのは、空の天で、地は大地なんです。私は、大地にこう跪いて、そして、南無阿弥陀仏と称えておると、そうすると、大地が如来様なんだ、と。そして、遙か空を仰いでお念仏をしておると、その大空が、天が如来様のいのちなんだ、と。しかも、その天と地が、一つになって、如来様のいのちとなって、私の方に降り注いで下さる。私を生かしていて下さる。これは、お念仏しておる、お念仏を徹底してやられた中野善英上人こそ、この天地は一心一体、と。もう一つなんだ、と。如来様のいのちが天地に満ち満ちている。そして、天が如来様、大地が如来様だ、と。母なる大地に、私らは生まれて、足を支えられて、この大地に生かされ、大宇宙のいのちが輝く太陽となり、沈む夕日となり、明けの明星となって、私に覆(おお)いかけていて下さるという。この実感がこの天地に向かって手を合わせなければ分からん世界。そのことを中野善英上人は、短い言葉で詠っておられると思っているわけでございます。
 
金光:  理屈としては、「天地は一心一体」というようなことは、考えることは可能だと思うんですが、実際、それを、我が身で体験するとなると、なかなかそう簡単にいかない。そこのところで、大念仏の工夫、やり方、実施の仕方は、やっぱり独特の工夫があったようですね。これは大念仏のお念仏のやり方というのは、どういう形ですか。
 
関谷:  それは、中野善英上人がずうっと温めて、そして、深め深めて来て、言葉として、文字としては亡くなられるごく二、三ヶ月前に、この「大念仏の創唱」ということで、文字にし、表にされたんです。その冒頭に、お書きになっているのは、
 
     私の四十年の生活は、求道と伝道遍歴の一生であった。
     道を求め求めていくことであった。
     その四十年の求道の結晶が、この大念仏なんだ
 
と。それは、従来の浄土教にしましても、既成の教団で申します念仏ですと、一つの型、形式はととのっていますが、本当に腹の底から、先程申します宇宙のいのちに溶け込んでいくという、この仏教の根本というものから、なかなか触れにくいし、遠ざかっていますようにおもいます。お念仏ということは、結局、南無阿弥陀仏という阿弥陀様の名を呼ぶこと。浄土宗では、声の宗教とさえ言われていますほど、声を出して、お念仏を称える。その声を出してお念仏を称えると申しますが、その声が本当に腹の底から、いわゆる丹田から声が出ていないのです。大宇宙のいのちに帰趣(きしゅ)直結しようとする。そして、大宇宙のいのちを自分の身体に、全身に受け止めようとする念仏が、声の宗教だと言われる限りは、その声をどこから出して、どのようにするか、ということを、中野善英上人は大念仏ということで唱道されました。
 
金光:  ということになると、当然呼吸ということが大事になるわけですね。
 
関谷:  そうですね。『釈尊の呼吸』というご本を、村木弘昌(むらきこうしょう)先生がお書きになっておられますが、お釈迦様は、長い間の苦行の結果、悟りを開かれたのは、人間の呼吸というのが、人間を支えている一番根本だ、と。生きるということは、息をすることだ、と。中野善英上人も、最期の遺著となりました「生の神秘、死の神秘」のところに、
 
     人間が活きるということは「息きる」という、「息する」ことです。
     呼吸をして 活きていることです。
     生きるということは
     呼吸をすることによって、天地から生きる要素をもらって、天地が
     私のために働き、天地の方から、私と一つになって
     私を活かし、働かしていて下さるのです。
 
というように言われました。お念仏も、ただ「南無阿弥陀仏」と称えているんでなしに、呼吸を調えて、そして、先生の説明では、
 
それぞれ人間が持っておる呼吸、脈拍は、それぞれその人によって違うが、それが一つになって、そして、それがお念仏とならなければならない。従来のいわゆる念仏宗といわれる点では、禅宗のいう坐禅、心を落ち着けて、身体を調える。静坐(せいざ)で姿勢を調える、という点の研究が足らない
 
と。特に、中野善英上人は、「研究」「研究」とおっしゃたですね。もっと研究しなければならんということを。そして、現代人はやはり理性を磨く、ということを求めているんですが、宗教的な研究、理性、そういうものが欠けている。欠けているというのは、研究が足らない。それが身体に付いてこないといかんということをおっしゃたわけです。それで、大念仏ということをやれば、従来の浄土宗では、「安心起行(あんじんきぎょう)」と言っていますが、「安心」というのは、心の向け方ということで、「起行」というのは、行ずるということについての、どのように行ずるということは、それぞれ有名な祖師たちは、体験はされたんですが、言葉としてはくわしくのべられていますが、具体的なご指導は少なかったようにおもいます。その点、中野上人は非常に細やかに、また晩年、ご指導になったわけでございます。念仏は、もっと身体の健康、いわば身心が、心と体が健康になるような、現代人が生きていく力となるようなお念仏。大体、仏教では、「慈悲・智慧」と言いますけれども、その慈悲と智慧の他に、弁栄上人は強調されたんですが、「威神力」と。大きな力が、エネルギーが、この宇宙には満ち満ちて、そして、如来様、阿弥陀様となって、私に威神力を降り注いでいて下さる。それが、やはり人間の根本の呼吸というもので、念仏をすれば身体が健康になる。如来様の威神力が身体の健康を保たせて下さる。念仏は心身の健康につながるということに目を付けられて、この大念仏というのをやられたように、私は受け取っている次第でございます。
 
金光:  それでそういう大念仏と、それから、日常生活の中で、関谷さんの場合は、日課で三万遍のお念仏だとか、一万遍の念仏など称えていらっしゃるそうですが、その場合、非常に回数の多いお念仏の場合は、一々、「なむあみだぶつ」とゆっくりはなかなか出来ないんではないかと想像するんですが、どういうふうになさるんですか。
 
関谷:  それは中野善英上人も、大念仏という、いわば自分の殻にはまっているものをぶち破るということで、その大念仏をなさったんです。ところが、京都や大阪に行かれると、「ななな・・なな・・なな・・」と言って、「ななな」の先生と言われるほど、早くやっておられた。結局、スピードのあるお念仏を。これは呼吸法でも、長息、それから短息。いわゆる長息というのは、「ウ─ン」と腹のそこから息をずうっと出す。息を吐き出す。吐き出すということは、二酸化炭素を出すことなんです。二酸化炭素を出すということは、人間の身体に、静脈となって溜まっておるものを、肺から今度は液体が気体になる。これにはもの凄い力が実はいるわけなんですね。そして、吐くということを一生懸命やれば、自然に、宇宙の緑の酸素が入ってきて、血液を活性化するわけなんですね。ところが、いま吐くことが弱いんです。それで、長息というのに力を入れているんですが、その中で、「なむあみだ、なむあみだ」というように、早く二酸化炭素を出すという呼吸法も、「ウン、ウン、ウン」と、三呼一吸ということで、三遍吐いて、一遍吸う。それで、南無阿弥陀仏も、「南無、阿弥、陀仏」と三遍、実は身体の構造からいうと、「南無、阿弥、陀仏」「ウン、ウン、ウン」と息を吐いておることになるわけです、構造から言うと。それで、「南無阿弥陀仏」は、「ウン、ウン、ウン」と息を吐いていることになるわけですね。そのことを、中野善英上人は、お念仏をすれば、身体の健康にもなるんだ、と。人間の一番大事な息を吐き出すことによって、新鮮な活力のあるエネルギーを、酸素を身体に頂いて、血液が浄化することによって、いろんな人間の持っている機能が活性化する。このことを、中野先生は強調された。
 
金光:  ただ、今のように、「南無、阿弥、陀仏」とやっていますと、一万遍というのは、これは大変でございましょう。一万遍の場合は、またやり方、方法が違うんですか。
 
関谷:  私は、こういう浄土宗では、数珠(じゅず)は日課数珠と申しまして、二つの輪が繋(つな)がっている「二連数珠(にれんじゅず)」と申します。この珠が一方は二十と、片方は二十七あるんです。これをこういうふうに持ちまして、「なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ、・・・」と、これを一つずつ上げていくわけです。そうすると、これが一遍いくと、五百四十回です、二十掛ける二十七で。そうすると、これをこう上げまして、これが十あるんです。これで五千四百遍やったことになりますと、これをこっちへこうやります。それで、五千四百が、一、二、三、四・・六ですから、五千四百掛ける六で三万二千四百遍ということになります。これを一通りやりますと、三万何べんとなえたことになります。ところが、法然上人は六万遍もお称えになったということです。法然上人の御画像を見ましても、このようにして、ご念珠(ねんじゅ)をお持ちになっておとなえになっていますご画像がございます。それこそ、なかなか日課(毎日毎日一日もかかさず)六万遍もおとなえすることはむつかしいことです。まして、ご晩年は七万遍もおとなえあそばされたとさえつたえられています。これは大変なことです。私は、そのようなご精進の跡に気付いて、せめて、一万遍はとなえさせていただきたいと念じまして、二十数年前から、日課一万を目標にとなえつづけてまいりました。
金光:  その時は、いまおっしゃっているような形で、「なむあみだぶ、なむあみだぶ」と。
 
関谷:  ええ。「なむあみだぶ、なむあみだぶ」。それからこういうカ ウンター(数取器(かずとりき))で。これをこう一を押すと一出まして、九千九百九十九。それで一万遍となえられます。それで田圃や道を歩いておる時にも、それからバイクやトラクターに乗っておっても、ひもをこう掛けて、「なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ」と、やっておるわけです。
 
金光:  伺っていますと、お念仏も、その時、その日のお仕事の形によって、いろいろ変わるようでございますが、やっぱり田圃で農作業を、これから始まるという時なんかは、特別なお念仏の称え方をなさるわけですか。
 
関谷:  私は先程申しましたように、「大地が母なり」「母なる大地」と。そして、百姓しておりますと、ほんとに大地に、大宇宙の命が満ち満ち、そして、母なる大地、いわば、如来様の命が、大地に満ち満ちている、という実感が持てるわけです。ところが、人間というのは、百姓しておれば百姓に一生懸命になっておって、その母なる大地のお陰で、今、今日、田圃に向かって いる。大地に向かっているということを、忘れがち なんですね。田圃に入ります前は、五体投地をして、「南無阿弥陀仏」とお称えするというように心懸けている次第でございます。
 
(五体投地の場面)
(@こうべ A両ひじ B両ひざ を大地に接し全身をなげだし、お念仏をおとなえする)・・・稲が穂ばら みしかけた田圃に向かい。
 
関谷:  「なあ─むう─あ─み─だ─ぶ─」
     「なあ─むう─あ─み─だ─ぶ─」
     「なあ─むう─あ─み─だ─ぶ─
        五体投地して三回奉唱
(お十念をとなえる。─お念仏を十回となえる。)
 

 
金光:  お念仏というと、私たちは、本願他力ということで、お他力の信心だというふうに伺っておるわけですが、先程からのお話を伺っていますと、なんか非常に、努力、精進というような面が強いようにも思えるんですが、お任せということではないんでしょうか。その辺はどういうふうに味わっていらっしゃいますか。
 
関谷:  中野善英上人は、「知・情・意」。「知的要素」「情的要素」、それから人間が持っている「意志的要素」。これを仏教の「戒定慧(かいじょうえ)」というものと結び付けて、そして、いわゆる「戒定慧」というのが、仏教の基本である、と。その「戒」というのは、知的要素になる。それには努力、精進、研究を知的に磨かねばいけない、と。そして、いわば精進ということが、ただ、言葉ではいっておりますが、もっと訓練、そして、研究しなければいけない。それから、自分が「決心」してお念仏をお称えすると願いをたてた以上は、もっと稽古して、鍛錬しなければいけない、と。そのことに打ちこんで、自分自身を磨くということを強調されたわけですね。従来、他力本願とか言われる面では、阿弥陀様の御本願によって生かされているということに、力点が置かれまして、そして、事実、この浄土教では無量寿、無量光の如来様の命が、光が、私の方に降り注がれているんですが、そのことに頼って、自分自身が如来様の大きな光の中に生かされているのに応(こた)えていく。それに溶け合うていくということになれば、もっともっと如来様の無限の、無量無辺の光に、私が触れるためには、無量無辺の私の中に、如来様から頂いている大きな命を、磨きに磨き、努めに努め、そして、鍛錬をすることによって、如来様の光と溶け合い、そして、如来様の光を自分の命として生かしていく。それが生活の中に生きていく、大きなエネルギーになっていく。それでないと、私は、若者がそんな念仏なんかどうでもいい。してもしないでもいい、と思うようになる。実は、万人がこの生かされている。生きているということを体得して、その命の根源に向かって、跪いていくということが大事だとおもい、こういうように感じておる次第でございます。
 
金光:  そういう形で、精進、工夫なさっていらっしゃると、関谷さんは、お務めの中で、養護学校の生徒さんのお世話もなさったということですが、養護学校の生徒さんの生活ぶりから、やはりそういう如来様のお働きをお感じになるようなことがお有りだったそうですね。
 
関谷:  それは、私が六十歳で、学校を辞める十二年前に、初めて、滋賀県では、近江八幡市に県立養護学校が設立され、そこへ務めさせていただきました。全県下から肢体不自由の子供さんがやって来られた。それまでは、家でお母さんだけのお世話で、もうどこへも行かず、学校での教育を受けずにおった子供が参ったんです。そうすると、お母さんしかなかった子供が、お母さんの元を離れて、全員寄宿舎生活をする。寮母、寮父。寮のお母さん、お父さんしかたよる方はないのですが、見ず知らずの友達とくらし、それから世話して下さる先生にもなかなかなじめない寄宿舎生活となると、夕暮れになりますと、夕日が西に沈むころになると、寄宿舎から外へ出て、子供達が、「お母さん!お母さん!」と、まともに声が出ない子供が、全身の力を振り絞って、お母さんの名を呼ぶんですね。その時に、私は、長い間、お念仏をとなえてきましたが、お念仏は、母なる名を呼ぶこと。お母さんの名を呼んだだけで、子供達は、西の琵琶湖の方に夕日が沈むと、全身の力を振り絞って、お母さんの名を呼んでおった子供がニコニコと笑みをたたえて、食堂へ入って来るんですね。
 
     母のなき配膳なれど手を合わせ
       かたじけなくも箸を取る子ら
 
手が、麻痺してなかなか手が、ここまで合わさらんのですが、別に、「手を合わして、ご飯を頂きましょう」という指導がなされなくとも、「お母さん!お母さん!」と呼ぶことによって、遙か遠くへお帰りになったお母さんの愛が、身体全体に満ち満ちてくる。そして、何とはなしに、自分は生かされておるということが、手を合わすという世界に結び付いて、ほんとに悲しい思いをしておった子供が、生き生きと喜びに満ちて食膳に付く。この世界が、私は、今お念仏の中にも受容され、「お母さん!お母さん!」と、子供が名を呼んでおるのと同じように、私は母なる如来様、阿弥陀様の「南無阿弥陀仏」と名を呼ぶことによって、母なる愛が、お母さんの愛が、私に頂ける、と。この世界を、障害の子供を通して知ったのでございます。
 
金光:  お念仏に心が注がれていると、予期しないところで、ああ、こういう味わいもあるということに気付かれるわけでございますね。
 
関谷:  そういうことですね。お念仏を一生懸命称えさして頂きたい。そして、私自身が、軍隊から帰って、非常に身体が弱かったんですが、毎日八幡の養護学校に行くまでには、中野善英上人が、「三年、三年、また三年、十年続いて坐ったら、冷たい石も温かくなる」とのべられましたが、これは中野善英上人が自分で体験された言葉です。その三年三年と、ちょうど六年行じつづけたのです。また三年ということで、朝起きますと、比叡山の回峰行者までは行きませんが、家から山へ行って、そして、山の上でお念仏を称えて帰って来るのです。そのことによって、私は力を得たんです。それで、養護学校に務めて、身体の不自由な子のお世話までさせて頂けるという喜びと同時に、力を得まして、養護学校の子供に教えられ、お世話させて頂いたような次第でございます。
 
金光:  今、紹介された詩のように、中野善英上人の場合は、思い付かれたことを、みなさんにわかりやすくこまやかにお知らせになっていらっしゃったようですね。
 
関谷:  身体から沸き上がった、ご体験から噴き上がったお言葉で、その噴き上がったことは、一旦、如来様の大きな光が、全身に満ち満ちて、そして、如来様の言葉として、自分でご体験になったことをお書きになっておられますから、実感があるわけでございますね。
 
金光:  これは関谷さんに来ているお葉書ですね。これは手の指が描かれているものですねえ、こちらは柿ですか。
 
関谷:  いや、枇杷ですね。
 
金光:  熟れて落ちる枇杷の色良き 味の良き
 
(人間も熟れて落ちるまでには人から喜ばれ、感謝せられるほどになりたい。それが途中で虫がついたり腐ったりしてなかなか終わりを全うするものはすくない。)
 
ですか。これはカボチャですね。
 
関谷:  これはネギです。
 
金光:  成る程。ネギ坊主のネギ。これはジョッキーですね。必ずこういう形で、文章だけじゃなくて、絵を描きそえていらっしゃる。それから、これはなんですか。
 
関谷:  これは画帳で、先生が行かれたところで、信者さんが、「記念に一つ、先生のお心を描いて頂きたい」とお願いされますと、先生が求めて直観しみつめられたものの中から記念に描かれたものなんですね。
 
金光:  柿ですね。
 
     信仰にも蟲色みがある。
     人間にも蟲色みがある。
     同じ赤くても、蟲色みというのがある。
     たべてみると甘みがない
 
虫に食われているような信仰だと駄目という。
 
関谷:  いろいろあるということですね。
 
金光:  なるほど。本当に熟さないと駄目ですよ、ということなんですね。
 
関谷:  人間完成。私は信仰はやっぱり人間完成。人間形成をめざすことが大切だとおもいます。
 
金光:  こちらも同じものでございますか。
 
関谷:  これは先生が、自分の手をモデルにしながら、ずうっとお描きになっておって、
 
金光:  ほんとだ。手のいろんな形。
 
     一指の動くところ 如来動く
     何に向かって動くか
 
何か禅のお坊さんでも言いそうな言葉ですね。「一指の動くところ、如来動く。何に向かって動くか」。お前は何のために生きているのか、と同じようなことですね。
 
関谷:  常にやっぱりデッサン、いわゆる見つめるという、厳しく見つめる。今、見つめ方が、私たちは足りないわけですが、生きたものの中に、如来様の命があるというのには、やっぱり深く深く見つめないといかんわけですね。見つめたものがこういう姿となって表れてこないことには、生き生きとした信仰にはならないというのが、中野先生の教えかと思いますね。
 
金光:  非常に鋭い視点が、いろんな言葉に出ているようですが、ここにあります、「生きた桝」、一升桝の桝ですね。
 
      生きた桝
 
     一升桝えは 一升しか入らぬ。
     それを人間は 一生の間─
     一升の桝へ 二升入れようとアセッている。
     欲張っても みな こぼれてしまう。
     しかし 真実の信仰になると
     一升桝から 一斗出る。
     「底ナシの桝」である。福桝と云うのでしょう。
     入れたり 量ったりする桝でなくて
     社会のために無限の施しをする
     「生きた桝」になることが宗教です。
 
外から取り入れじゃなくて、中から噴き出る、そういう枡でなければいかんという。それが宗教だ、と。生きた桝というのは、やっぱり如来様のお働きを頂く人ということなんでしょうね。
 
関谷:  私は非常に大事なことは、今、見ておるもの。聞いているもの。それから味わっているもの。肉眼で見ているものだけが本当のものだと思っている。目に見えないところに大きな働きがあるという、心の上でものを見、心の上でものを聴く。これが、今、失われていると思うんですね。それで、今、現代人は、特に、弁栄上人が強調されたんですが、「天性の愛」「理性の愛」「霊性の愛」と。この三つが人間の中には調和されて生きている、と。
 
金光:  もう一度おっしゃって頂きますと、
 
関谷:  「天性の愛」。生まれながら頂いている。これはもう鶏であろうが、ツバメであろうが、或いは植物も、みな天性の愛があるから育っていくわけですね。それから、「理性の愛」。これは人間だけが持っている。ところが、今、現代人は、その理性の愛だけで、もう総てのものが解決すると思っている。中野先生は、この理性の愛にもっと徹底して訴えんと、現代人は理性でものを理解しようとする。それで細やかに、ようこれだけ研究されたなあと思う程に、理性に訴えて目にみえないところに宗教の世界があることをおときになっています。ところが、実は、その「理性の愛」を超えた世界に、「霊性の愛」。宇宙の命の、いわゆる仏様から頂いた愛が、私の中にあって、その天性、理性、霊性が一つになった時に、宗教的な本当の愛が湧くんだ、ということです。
例えば、中野善英上人の「五戒」というのがありますが、従来、仏教の実践行の基本として、「五戒」というのは、「不殺生戒(ふせっしょうかい)」「不偸盗戒(ふちゅうとうかい)」「不邪淫戒(ふじゃいんかい)」「不妄語戒(ふもうごかい)」「不飲酒戒(ふおんじゅかい)」というのがあります。一番冒頭に、「不殺生戒」とございますね。そうすると、「ものの命を殺さない」という程度のものでなしに、普通、いわゆる理性に訴えるから、「ものを大切にする」という程度の、いわば「道徳的生活」。「道徳的生活」というのは、これは理性に訴えて正そうとするものなんです。それで、「宗教生活」というのは、中野先生の「不殺生戒」から言ったら、これを「活かしていく」と。しかも、「活かす」というのは、ものを活かすと同時に、私たちは時間の中に生きている。随分、私たちは、時間を無駄にしているわけですね。その無駄を超えて、普通、無駄にしない。「無駄にしない」というのは、これは道徳的なもので、宗教的なものは、それを時間を護惜(ごせき)する、と。愛し、いとおしみ、そして、それを生かしていく、と。その時間が、実は如来様の命なんだ、と。この世界が、本当に分からんと、仏教の基本の、例えば、殺生というのも、実はたくさんの殺生をしながら生きている。そこで、中野先生は、特に、常懺悔(じょうざんげ)とおっしゃったが、一声、一声のお念仏が、本当に申し訳ない、と。至らぬことだという人間の深い自分を見つめて懺悔する世界がないと、本当の仏教的な生き方ができないということでございます。
 
金光:  五戒の中野流の表現をもう一度ご紹介しますと、一番最初、
 
     不殺生戒は、活かすことである。
     不偸盗戒は、与えることである。
     不邪淫戒は、美化することである。
     不妄語戒は、正すことである。
     不飲酒戒は、醒(さ)めることである。
 
しかも、それぞれ括弧して、注釈が付いて、
 
     不殺生戒の場合は、一切を殺さず、一切を活かさん。
     不偸盗戒の場合は、あやまれるものを奪い、正しいものを与えん。
     不邪淫戒の場合は、醜を滅して美を生まん。
     不妄語戒の場合は、偽りを退けて真実を立てん。
     不飲酒戒の場合は、悪(酒)に酔うことなく、善に醒(さ)めん。
 
と。そういう非常に分かり易い、しかも、端的な言葉でのべられています。
 
関谷:  それはみな素晴らしい言葉ですね。
 
金光:  そういう世界を生きられた中野上人に付かれて、関谷さんは、現在、八十歳を越えていらっしゃるわけですが、ずうっと精進して来られたということでございますね。
 
関谷:  大変申し訳ない。こういう言葉を聞くとですね、至らんことでございますが。
 
金光:  どうも有り難うございました。
 
関谷:  どうも有り難うございました。
 
 
     これは、平成十三年八月二十六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。