鎮守の森はよみがえる
 
                      
            京都大学名誉教授・小幡神社宮司   上 田  正 昭(まさあき)
昭和二十五年京都大学文学部史学科卒業。昭和三十八年京都大学助教授。昭和四十六年教授。日本・東アジアの古代史を専攻。著書に「日本神話」「古代文化の探求」「古代からの視点」「日本の神話を考える」「上田正昭著作集」など。母親が小幡神社との関係があり、望まれて二十歳の時から宮司を勤めてこられた。在職五十五年。
                      き き て    峯 尾  武 男
 
峯尾:  京都府亀岡市曽我部(そがべ)町にある小幡(おばた)神社です。延長(えんちょう)五年(九二七年)の『延喜式(えんぎしき)』に収録されている古い神社で、開化(かいか)天皇他三神を祀っています。社伝によれば、和銅元年七○八年に社殿が建立されたと伝えられています。江戸中期の画家・円山応挙(まるやまおうきょ)(1733-1795)も篤く小幡神社を崇め、応挙の父・藤左衛門は、応挙に命じて絵馬を描かせ、一八○三年に応挙の子が、これに装飾して神社に奉納しました。写実様式による絵馬は珍しく、その特色がよく発揮されています。この小幡神社からほど近いところには、郷(ごう)神社とも称される神明(しんめい)社(しゃ)があり、天照大神(あまてらすおおかみ)と豊受大神(とようけおおかみ)を祀っています。この二つの神社の宮司(ぐうじ)をされているのが、京都大学名誉教授の上田正昭さんです。歌も詠まれている上田さんは、二○○一年の歌会初めの召人(めしゅうど)を務められました。その時の歌が、
 
     山川も草木も人も共生(きょうせい)の
       いのち輝け新しき世に
 
自然と人間との共生を心から讃える歌です。
 

 
峯尾:  上田さん、今日はよろしくお願い致します。
上田:  どうぞよろしくお願い致します。
 
峯尾:  今日、お話を伺うタイトルが、「鎮守(ちんじゅ)の森は よみがえる」ですが、まず「鎮守の森」というのが、どういうものなのか、それからお話して下さいますか。
 
上田:  「鎮守の森」と申しますのは、文字通り、「鎮(しず)め・守る」という字を書きますが、それぞれ土地の守り神なんですね。俗に、「氏神(うじがみ)さん」とか、「産土(うぶすな)さん」とか申しておりますけれども、それぞれの土地の守り神の鎮まっている森が、鎮守の森ということになりますね。
 
峯尾:  こちらの小幡神社と言いますと、鎮守の森というのは、私どものこの後ろの辺り一帯─。
 
上田:  後ろの辺り一帯になりまして、後ろに拝殿がございますが、拝殿の左右から裏の山へかけましての一帯が鎮守の森ということになりますね。
 
峯尾:  森と言いますから、当然のことながら、樹がたくさん生えている。その樹は特に何であっても、その土地その土地の樹が生えているところ、というふうに考えてよろしいですか。
 
上田:  そうですね。大体常緑樹が多いんですけれども、このお社(やしろ)の鎮守の森ですと、松もありますが、檜と杉が非常に多いですね。
 
峯尾:  同じく上田さんが宮司(ぐうじ)をなさっております神明社(しんめいしゃ)の方は竹が生えていましたね。
 
上田:  犬飼(いぬかい)川という川添の社(やしろ)で、竹藪ですからち ょっと鎮守の森とは言いにくいんですね。竹の藪になっている状況ですからね。
 
峯尾:  いずれにしろ、鎮守の森、そして、その神社を中心に氏子(うじこ)たちが生活をしていた。地域の人たちにとって鎮守の森は、暮らしの中でどんな地位を占めてきたものなんでしょうか。
 
上田:  それぞれの土地の守り神ですから、「氏神(うじがみ)」というのは、厳密に言えば、血が繋がっている祖先の神、氏の神ですからね。しかし、今、「氏神さん、氏神さん」と言っていますが、これは産土の神という、その土地の守り神ですから、地縁の神ですね。ですから、その土地の守り神である神様と氏子のみなさんが交じり合う場所が鎮守の森ですね。従って、寄り合いの場所でもあるわけですね。ですから、全国のいろんな社を見ますと、そこで村の掟(おきて)を決める、と。つまり村人が集(つど)い合って、自らその村を治めていく自治の掟を作っている例が非常に多いですね。そして、神の水を一緒に飲むわけですから、「一味同心」とか、「一味神水」と申す言葉は、鎮守の森から生まれてくるんですね。私どもは、「あれは誰それの一味だ」というのは、あんまりいい意味では使わないんですが、本来は鎮守の森で神の水を、一つの水を味わう、と。そこから「一味」という言葉が出ているんですね。その祭りには、芸能を奉納致しますから、芸能の場でもありますし、そして、また相撲をやったりする。ですから、村人の憩いの場にもなっている、ということでしょうね。
 
峯尾:  そうしますと、人が一味になって、人との交わりをもつと同時に、そこは、自然に対して、人間がどんなふうにそれを受け止めているか。恐れていたのか。恵みと考えていたのか。そういう場でもあるということですね。
 
上田:  そうなんですね。これは日本列島は南北に長い列島ですが、火山が多いですからね。昔から地震はたびたびありました。モンスーン地帯ですから、暴風が来ますね。ですから、台風とか、台風に伴う風水害とか、地震とかという、その自然の恐れも勿論あったんですけれども、砂漠に住んでいるみなさんなどと比較すれば、海の幸に大変恵まれ、山の幸に恵まれている豊かな自然の恵みがあったわけですね。鎮守の森を考えます時に大事なのは、「森の中に神が宿るんだ」という、そういう信仰が古くからありまして、万葉集なんかを見ますと、「神社」とか、「社(やしろ)」という漢字を、「社(もり)」という日本語にあてにいるんですね。ですから、天平五年、西暦で申しますと、七三三年の『出雲の国風土記(ふどき)』という貴重な古典がございますけど、そこの秋鹿郡(あいかぐん)の女心高野(めごころたかの)の条(くだり)には、
 
     上頭(かみのほとり)に樹林有り、此則(これすなわ)ち神社なり
 
上の方に森がある、と。これ則ち神社なり、と書いているんです。「森がすなわち神社である」と。ですから、「森の中に神が宿っているんだ」という、「一種の自然を崇めるという信仰」。自然と対決するんじゃなくて、自然と調和するという、そういう信仰が鎮守の森の信仰のベースにあることは間違いない、と思いますね。
 
峯尾:  私どもは、今、「神社」と言いますと、必ず社殿があって、その背景と言いますか、囲むように鎮守の森があると考えるんですが、そうすると、社殿はなくても、それは神は宿っている、と。
 
上田:  今でも、ご本殿のない神社は、日本各地にございますね。例えば、奈良県の櫻井市の有名な大神(おおみわ)神社。これは三輪山(みわやま)が神なり、神体山(しんたいさん)で、今も本殿はありません。こういうお社がむしろ古いですね。本殿が出来るのは、新しいと言っていいと思います。ですから、「聖なる山とか、聖なる樹木とか、聖なる森に神が宿っているんだ」という信仰は、これは縄文時代にまでさかのぼる、と言っていいでしょうね。
 
峯尾:  山に神が宿り、或いは木にも宿り、或いはよく「竈(かまど)の神様」という言い方をしたり、というような信仰は、例えば今の小幡神社の氏子のみなさんの心の中にも、或いは現代の人たちの中にも、まだ何か残っている、と言えるんでしょうか。
 
上田:  私は日本人の心の隅には、そういう考えが遺伝子のように受け継がれてきていると思いますね。ただ残念ながら、昔のみなさんは、「恐れ」と「慎み」を身をもって知っておりましたから、例えば、「鎮守の森の聖なる樹木を切れば祟(たた)りがある」というようなことを真面目に考えていましたね。ところがだんだんそういう「恐れ」と「慎み」を忘れてきている、という状況があるのは大変残念ですね。
 
峯尾:  「鎮守の森をよみがえらそう」というお話を、これからもして頂くんですけれども、そういう意味で、こうやって鎮守の森が残っている。こういう風土を、私たちは持ち続けていかなければいけない、ということなんでしょうね。
 
上田:  二十世紀は、みなさんよくご存じのことですけれども、地球が汚染され、自然が著しく破壊された時代であったわけですね。二十一世紀の一つの大きな課題は、自然と如何に人間が調和して生きていくか、と。そういうことを考えました時に、日本のベースになっている鎮守の森の信仰の中には、自然との共生の信仰があるではないか、と。これを二十一世紀に、もう一度再発見して、鎮守の森の信仰をよみがえらすことが、これは二十一世紀の課題に繋がる、という考えがあるわけですね。
 
峯尾:  では、神道(しんとう)の話、日本人の信仰の話も含めて、もう暫くお話をお聞かせ願いたいんですが、その前に、「鎮守」という言葉で、私たちにとって一番身近なのは、もう年輩の方ならよくご存じの「村祭」という歌がありますので、ちょっとそれを聞いてみたいと思います。
 
     村祭(文部省唱歌)
 
     村の鎮守の神様の
     今日はめでたい御祭日
     どんどん ひゃらら どんひゃらら
     どんどん ひゃらら どんひゃらら
     朝から聞こえる笛太鼓
     年(とし)も豊年満作で
     村は総出の大祭
     どんどん ひゃらら どんひゃらら
     どんどん ひゃらら どんひゃらら
     夜まで賑わう宮の森
 
     治まる御代に神様の
     めぐみ仰ぐや村祭
     どんどん ひゃらら どんひゃらら
     どんどん ひゃらら どんひゃらら
     聞いても心が勇み立つ
 
峯尾:  この歌は、先生もよくお歌いになりましたか。
 
上田:  小学生の頃には、よく歌いましたね。特に、「朝から聞こえる笛太鼓、どんどん ひゃらら どんひゃらら」というのは、私ども小さい頃は、お祭りの時には、朝から太鼓が鳴り、笛が鳴っていましたので、「ああ、今日はお祭りだなあ」という、そういう喜び、勇み、心がウキウキする。ですから、この歌はほんとに懐かしいですね。
 
峯尾:  上田さんは小学校の頃は、どちらにいらっしゃったんですか。
 
上田:  兵庫県の城崎町というところにおりまして、此処ではだんじりが出るんですね。小幡神社はいま子ども御輿(みこし)ですけれども、子どものだんじりもあるわけですね。それに載りまして、太鼓を叩いたり、笛を吹いたりすることになりますから、お祭りが近付いてくると練習をやるわけですね。ほんとにどんどんひゃららですね。
 
峯尾:  そうですね。ごく自然に地域の祭に子どもたちが参加をして、という時代ですのでね。
 
上田:  そうですね。この小幡神社は、秋のお祭りは、「井戸覗き」などと申して、水が綺麗なんですよ。いろんなところからお参りに来られますと、井戸を覗いて、「ああ、綺麗な水ですなあ」という。ということは、逆に言えば、お祭りだからと言って、特に御輿を出すわけじゃないということで、静かな静かなことだったんですね。私が宮司になりまして、これではいかん、というので、戦後、この地域では真っ先に、子ども御輿(みこし)を作ったんです。今では、子ども御輿は、この地域一帯、みな見られますけれども。まあ寄付を募りましてね。太鼓は勿論ありましたんですが、子ども御輿は、戦後真っ先に作って、子どもさんたちに大変喜んで頂いて、今でも賑やかにお祭りには巡行しております。
 
峯尾:  そうですか。もともと神職の家にお生まれになったんですか。
 
上田:  いやいや、そうではございません。私は京都の西陣の織り屋の息子なんですね。此処の上田家というのは、先程ご紹介頂きましたように、『延喜式』に載っている古いお宮なんです。私で、三十三代目になるんです。ところが、先代で、継承者が居なくなったものですから、ちょうど私の母と、こちらの先代と親しかったものですから、中学二年生の時に、こちらを継ぐことになりました。ほんとは外交官になりたかったんですけれども、早く神主の資格を取らなければならない、というので、國學院の方へ行きまして、國學院大學を出て、京都大学に進んだわけです。ですから、宮司になったのは、ちょうど二十歳の時で、昭和二十二年(一九四七年)ですから、五十五年ということになりますね。
 
峯尾:  あ、そうですか。
 
上田:  長い間ご奉仕して参りました。
 
峯尾:  二十歳というと、まだそれで学生さんだったわけですね。
 
上田:  まだ学生ですが、しかし、神主の資格はもう取ったわけですね。それで今でいえば、成人ですが、こちらの三十三代目の神職になったんです。
 
峯尾:  ご専門は東アジアまで含めた歴史学ですが、これは神社の宮司さんをなさることと、必然的に結び付いた選択だったんですか。
 
上田:  それは、私は、外交官になりたいと思っていたんですが、昭和十五年に、早稲田大学の教授であった津田左右吉(さうきち)先生が、出版法違反で起訴されて、津田先生がお書きになられた『古事記及日本書記の研究』などが、四冊発禁になったんですね。発売禁止になると、読みたいと逆に思うんですが、担任の先生が、早稲田のご卒業で、遊びに行ったら、先生の書棚に、発禁の本があるんですよ。「先生、これ貸して下さい」と借りまして、読みましたら、学校で習っている歴史とかなり違うんで、「はあ、学問というのは、こういうものか」というので、外交官になりたい、と思っていたんですが、他方で、歴史というものに関心をもったのは、津田先生の本との出合いですね。ですから、こちらの上田家を継ぐ前から、歴史には関心を抱いていたことは事実ですね。ですけど、おっしゃるように、神職になるという方向が決まりましたから、余計、歴史学を学ぶようになった、ということだと思います。ただ、私は、貪欲ですので、歴史学だけやっているではなくて、民俗学も、国文学も、文化人類学も広くやろうと思って、今日まで欲張ってやってきましたね。
 
峯尾:  今でも大変お忙しくしていらっしゃるようで、実は今日こちらにお邪魔する時に、亀岡の駅からタクシーに乗りましたら、タクシーの運転手さんが、「先生は今日いらっしゃるのかなあ」と言いました。「今日は神社にいらっしゃいますよ」という会話をしていたんですが。この小幡神社での宮司さんとしてのお勤めというんですか、例えば、年間を通して、どんなことがあるんでしょうか。
 
上田:  やっぱり正月は寝正月などいうわけにはいきませんで、大晦日からお正月は、氏子のみなさんが、小さいお宮ですけれども、それでも百戸あまりの氏子のみなさんが、お参りになりますね。ですから、大晦日から正月は篝火を焚いて、お詣りになった方に、お神酒(みき)を頂いて頂く。勿論、総代さんと一緒に出るわけです。「元旦祭」のお供えを六時頃からしますね。そうすると、村人がずうっと挨拶に来られる。先代の頃は、村の有力者だけに答礼に行っていたんですが、私が、昭和二十二年、正式に宮司になりましてからは、村中を廻るわけです。これはなかなかの行でして─若い時は元気ですからね─今年は五十五回目です。ちょうど二日の日は吹雪になりまして─初めてでしたが─ずうっと廻りましたね。なかなかの行ですが、しかし、村のみなさんが、この頃は先生が見えるというので、待って居て下さるものですから、行かんわけにいかんのです。だから、教え子たちが、正月にご挨拶に行きますけども、「一日二日は来たらあかん」ということになります。「お宮詣り」もございますけど、やっぱり「春祭」ですね。「祈年祭(としごいのまつり)」。それから「初午祭(はつうま)」ですね。そして秋の「例大祭(れいたいさい)」ですね。「秋祭」─これは一番、このお宮にとって大事なお祭りです。それから、「御火焚(おひたき)祭」。もう年のお祭りがありますから、時々外国の出張など、国際学会がありますね。例祭だけは、絶対に日は変えられないんですよ。ですから、その時は外国に行っていても、飛んで帰って来ますよ。
 
峯尾:  そうですか。
 
上田:  京都大学におりました時も、例祭だけはする。あのお宮詣りなどは、詣って下さる方と協議しまして、「ちょっと外国へ行っていますから」と言ったら、「それなら帰ってからやって下さい」とか、話し合いして変えられるんですが、例大祭はどうしようもありませんから。いつか国際学会でモスクワへ行っておりまして、にわかに、「日本に帰る」と言ったら、向こうの先生方が、「どうしてか?」という。いろいろ説明するんだけども、理解してもらえないで、往生したことがありました。
 
峯尾:  お話を伺っていると、氏子さんと神社との結び付きというのは、非常に親密なんですね。
 
上田:  お陰様で氏子のみなさんがよくして頂いておりまして、いろいろご相談に見えることもありますし、私は村のみなさんからいろんな話を聞くのが、まあこれ民俗学の聞き取り調査みたいなところもありましてね。ああ、村のみなさんは、政治について、こういう考えをもっておられるのかなあとか、或いは、経済について、こんな考えをもっておられるのかと、いろいろ勉強にもなりまして嫌いではないんですね。ですから、「はあ、そうか」とか、「なるほどなあ」と言うと、「先生は聞き上手やからなあ」とか言って、いろいろな話を楽しそうにして下さるんで有り難いですね。
 
峯尾:  先程ちょっと申し上げましたタクシーの運転手さんも、先生に対する敬愛の情が、ちょっとした言葉の中から伺われて、「ああ、いい雰囲気だなあ」と思ったんですけども。
 
上田:  いえいえ、なんと言いますか、同じ目線で考える、というのが大事ですからね。ですから、割合そんなのが好きなんですね。
 
峯尾:  先程の一年の勤めの中で、「秋祭が非常に大事だ」とおしゃいましたけれども、例えば「春祭」「秋祭」と、私ども簡単に言いますけれども、「春祭」というのは、どういうお祭りなんですか。
 
上田:  春はですね、「祈年祭(きねんさい)」─「祈る・年の祭」と書きますね。「年(とし)」というのは、「五穀(ごこく)」のことなんですね。ですから「村祭」の歌詞の中にも、「年(とし)」という言葉が出てきますね。
 
峯尾:  「年(とし)も豊年満作で」と。
 
上田:  はい。五穀が豊かに、という年(とし)なんですね。それを、「予祝(よしゅく)」─「予め・祝う」という字を書くんですが、予祝のお祭りなんですね。秋の収穫を予め祈ってお祝いする、と。「予祝祭」ですね。ですから、春祭というのは、秋のお祭りを前提にしたお祭りなんです。その秋祭は、「収穫祭」ですから、神の恵みを感謝する。私は、神道(しんとう)のいい点は、先程お話の『延喜式』という、これは五十巻ございますけれども、その中に、当時の祝詞(のりと)が載っているんですね。神様に奏上した言葉です。「なるほどなあ」と思うのは、「こういう物をお供えします。有り難うございます」と、感謝だけなんですよ。
 
峯尾:  ほー。
 
上田:  古い祝詞は感謝だけなんです。だんだん新しい祝詞になると、「こういうものをお供えしますから、こうして下さい、こうして下さい」。つまり願い事が多くなるんですね。それで、「なるほどなあ」と思うのは、古い神社神道の、鎮守の森の信仰に、神に感謝する、と。秋祭のいうのは、感謝の祭ですね。こういうふうに豊かに実りました。有り難うございました、という。それが本来のもの。ですから秋祭は、盛大に土地の者はやりますけど、これは収穫祭ですからね。祈りを言祀(ことほ)きて感謝する、と。これはやっぱり神道の特異な鎮守の森の信仰のベースじゃないでしょうか。
 
峯尾:  私ども、初詣に行って、何を祈るかというと、「ああして下さい。こうして下さい」「こうしてありますように」願い事ばかりしている。
 
上田:  日本の神は、ユダヤ教とかキリスト教とかイスラム教と違って、よく「多神教」という人がおられるんですね。日本の神道は、八百万(やおろず)の神です。これは前に、オランダの大統領のワレサさんと─前の大統領ですが─対談したんですが、あの人は非常に真面目なクリスチャンなんですよ。それで私にいろいろ質問されて、「日本の神は、八百万(やおろず)の神だ」と言うたら、通訳が、「八百万(はっぴゃくまん)」と訳したんですよ。そう言ったら、ワレサさんが、「日本の神は、八百万(はっぴゃくまん)もいるのか」と大笑いになりましたけど。ところが、私は、「多神教」という言い方は正しくなくて、本居宣長(もとおりのりなが)が、『古事記伝』の中に明確に申しておりますけれども、各神社の神様がありますが、
 
     鳥獣木草のたぐい海山など、其余(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれた徳のありて、
     可畏(かしこ)きを迦微(かみ)とは云(いう)なり
 
というふうにいうているんですね。これは極めて的確で、万物に神を認めていこういうんですね。
 
峯尾:  本居宣長ですね。
 
上田:  ええ。『古事記伝』にね。だから、これは、山折(やまおり)哲雄(国際日本文化研究所センター所長)さんが、「万物生命教」という言い方をどこかでしておられたですが、あらゆるものに神を認める。これは、「汎神(はんしん)」と言った方がいいんですね。ですから、自然と共生するというのは、もう日本の神道は、基本の信仰なんです。ところが、宗教学の一般的なのは、「汎神的な考え方、多神的な考えは、信仰のレベルが低いんだ」と。「だんだん発展していって、一神教になるんだ」という。マルクス主義は発展説ですが、宗教学にも発展段階説があって、私は、これは考え直さなければいかん、と。だから、あらゆるものに神を認める。自然との共生・調和を、或いは、順応を基本にする。こういう信仰が、鎮守の森の信仰に似ていて、こういう信仰こそ二十一世紀に寄与する筈だ、という思いがあるんですね。
 
峯尾:  西洋社会でも、アニミズムというのは、かつてあったけれども、
 
上田:  そうそう。
 
峯尾:  キリスト教のもとに、その古いものは捨てられて、一神教になって、進歩した、発展したんだ、という考え方ですね。
 
上田:  そういう考え方ですね。だから、「もう一度日本人自身が再発見する」という。「鎮守の森の信仰の中に、二十一世紀を生きるキーワードがあるんだ、ということを、もう一度考えて下さいよ」ということを訴えているわけですね。
 
峯尾:  そうすると、先程の秋祭に戻りますと、収穫─こんなに無事にたくさん穫れました。有り難うございました、というのも、山の神様であったり、田の神様であったり、感謝の気持を、そう言った神様に捧げている。表現していると考えてよろしいですね。
 
上田:  そうですね。山には山の神がおって─なんか歌の文句みたいになりますけど─海には海の神がいるわけですね。共生の信仰です。これは弱いようですけど、非常に強いと思いますね。
 
峯尾:  さて、神道が、昔から地域の中で、自然の中で暮らしていく人たちの中に、自然に育まれたものだとすれば、日本には、仏教が入ってきましたね。で、仏教と神道とが、今もこうやって、事実、共存はしているんですけれども、歴史的にみて、どんな形で折り合いがついていったんでしょうか。
 
上田:  これは日本の神道の大らかさでしょうね。あらゆるものに神を見え出すわけですね。歴史的には、欽明(きんめい)天皇の時代に、百済(くだら)から仏教が伝来するわけですけれども、伝来した時に、仏のことを、「客(まろうど)神」と書いているんですね。或いは、「他国神」と書いている資料もあります。つまり神の一つが仏である、と。ですから、中央の官僚、或いは、知識人の間では、「神か、仏か」という論争が起こりますけれども、民衆サイドでは、「神も仏も」で、「神か仏か」ではなくて、神も仏も。ですから、奈良時代になりますと、お宮の中に寺が出来る、或いは、寺のなかに、宮が出来る。神宮司と申します。これは外国のみなさんにはちょっと理解出来ないんですが、神の前で、お坊さんがお経を読むんですね。これは、「神前読経」と申しておりますけれども。それから神社にお坊さんがいるんですね。「社僧」というんです。ですから、例えば京都の八坂(やさか)神社、これは祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)というんですね。牛頭天王(ごずてんのう)・素戔鳴尊(スサノヲノミコト)ですが、祀っていて、感神院があり、法観寺(ほうかんじ)というお寺が側にある、と。神仏の習合なんですね。これを明治政府が慶応四年(1867)三月に、神と仏を分けようという「神仏分離令」を出したわけです。そういうこともありまして、無理に神と仏を分けたんですね。水戸学とか平田国学の諸君が立ち上がって、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)というのをやったんです。私はこれは失敗だった、と思っています。ですから、非常に神様も仏さまも平和的に共存してきた、ということでしょうね。
 
峯尾:  そして、神社そのものについて言えば、やはり明治になってから、神社の数を随分減らそうとした動きがあるわけですね。
 
上田:  そうですね。明治三十九年に、時の政府が、神社合併を強行するんですね。当時、約十九万あった神社が、これによって十一万に減るんです。私は、暴挙だと思いますが、状況を見るに見かねて立ち上がったのが、南方熊楠(みなかたくまくす)(生物学者。民俗学者。和歌山県の人。米英に渡航、粘菌を研究。諸外国語・民俗学・考古学に精通::1867-1941)先生なんですね。南方先生は和歌山にお住いですが、大変博学の方で、生物学者、特に粘菌の研究をやっている。それから和歌山をフィールドにして、民俗学ですね、フォークロアもやっておられた。鎮守の森には貴重な動物がおり、植物がありますね。そして、よく知っておられると思いますが、神社は寄り合いの場所だ。自治の場所だ、と。こういうものを破壊してなるものか、というので、これは一部ですけれども、南方先生が、明治四十五年に、「神社合併反対意見」という、もの凄い長い論文を、明治四十五年の、四、五、六月と、雑誌の『日本及日本人』に連載されるんです。これに先生のお考えが見事に出ておりますが、七つ理由を挙げて、自分は反対する、と。全く孤立無援で闘われて、十八日間警察に留置されて、先生のその努力が実って、大正九年(1920)に、「神社合併は無益である」という決議が衆議院でされる、と。それで止むんですね。
 
峯尾:  七つの理由というのは?
 
上田:  その中で、いろいろ挙げておられるんですが、私は、なるほど、と思われるのは、第二の理由に、
 
     合祀(ごうし)は人民の融和を妨げ、自治機関の運用を阻害す
 
と書いておられますね。
 
峯尾:  「合祀」は、合わせて祀る。とにかくドンドン合併してしまう、ということに、
 
上田:  「合祀は、その自治機関の運用を阻害する」と。或いは、七つ挙げておられるんですが、七番目には、
 
     合祀は勝景史跡と古伝を湮滅(いんめつ)す
 
つまり神社合併は勝景─今むしろ景勝と言いますが、反対に使っている─と古い伝承とか、それから古い景観、自然破壊ですね。それを挙げておられるんです。これは、先生が、鎮守の森の歴史と文化を理解しておられるからですね。明治四十二年の九月から立ち上がられるんです。最初は、ジッと見ておられたんですが、あんまり酷いものですから。
 
峯尾:  三十九年に始まったものを暫く様子を見ていて、見るに見かねて。
 
上田:  和歌山などは神社合併を強行したところですね。やっぱり府県によって違いがあるんですね。知事さんの見識もあるでしょうけどね。
 
峯尾:  で、結局、大正になって、神社合併の動きというのは止まった。
 
上田:  止まったんですね。それだけではなくて、戦後の高度経済成長の時代も、鎮守の森の大変な危機に立たされた。開発がもの凄く進んで、こういう村の鎮守の森は辛うじて残ったものが多いですが、都会の場合は、開発のために鎮守の森が買われる。破壊される、という例が多かったですね。
 
峯尾:  それは、例えば、このようなところですと、氏子さんたちがちゃんといらっしゃって、宮司さんとの交流もある。だんだん都会になっていくと、神社があっても、氏子さんがドンドン居なくなってしまったりして、神社そのものの、そこで暮らしていた宮司さんにとっても、生活の問題になってきたりして、いろいろな場合があったでしょうね。
 
上田:  やはりコミニュケーションの場として、鎮守の森が伝統として生きているところは、開発の嵐にも耐えてきた、と思いますね。ところが、氏子さんが減ったり、或いは、鎮守の森に対する信仰が希薄になってまいりますと、神社の森を業者に売ったり、或いは維持出来なくなって、心の筈の鎮守の森を切って、そして材木を業者に売って、そのお金で本殿を建て替えるとかね。今もなお鎮守の森は安泰かというと、必ずしもそうではなくて、最近聞いた例では、廃棄物を鎮守の森へ、或いは残土をもってくる。こういうことをやる業者もいるようですね。それを、「困る」と言って、宮司さんは訴えているようですが、「なかなか容易にならない」と嘆いておられる方がおられる。やっぱり村の中に生きているかどうかということでしょうね。やはり神職自らが、その鎮守の森の歴史を勉強して、その尊さとか、そのもっている意味の重大さを認識しなければ、なかなか鎮守の森を守り生かそうという信念になりませんね。私などは、俗物でしてね、そんなに立派な宮司ではないんですが、自分でこれだけはちょっとましかなあと思っていることがあるんです。それは神官の装束を身に付けますね。そうすると、俗念が消えるんですね。例えば、宮参りなんかございますと、一所懸命にお祈りするわけです。誠心誠意お祈りして、終わったら、また俗念がまたわあっと。なんか瞬間的なんで申し訳ないんですが。例大祭は、衣冠束帯で、普通の場合は、紙布を着てやるんですが、その時は、雑念が消えるというのは、これは訓練かも知れませんけども。その時は一所懸命にお祈りしますね。それは不思議に出来るものですから有り難い、と思っております。
 
峯尾:  そして、宮司さんの衣装を脱がれて、普段の姿になると、また書斎で学問の世界があって─。
 
上田:  ええ。俗物に帰りまして、よくないんですけれども。割合、私はチャンネルの切り替えが上手い方なものですから、神職の時には神主として集中しましてご祈祷する。ですから、お祭りが終わりますと、ちょっと疲れますね。
 
峯尾:  そうですか。
 
上田:  やっぱり一所懸命お祈りするものですからね。しかし、もうすぐ書斎に入ると、研究に、割合切り替えが上手いものですから。道元禅師じゃありませんが、「只今こそ一大事」という、そういう考えでやっておりますのでね。
 
峯尾:  その切り替えをなさりながら、まさに鎮守の森の大切さを訴えるべく、学者として、そして、勿論、神職として、先生がやっていらっしゃることについて、ちょっと場を改めてまたお話を聞かせて下さい。
 

 
峯尾:  小幡神社の境内に接する上田家の二階、此処に上田正昭さんの書斎があります。上田さんは、歴史学の他、国文学、考古学、民俗学などを修め、古代社会を、東アジア史の中で多面的に研究してこられました。「日本神話」「古代文化の探求」「古代からの視点」「古代伝承史の研究」その他多くの著作が、「上田正昭著作集」全八巻にも納められていますが、その著作もこの書斎の中から生まれました。そして、鎮守の森を総合的に研究する「社叢(しゃそう)学会」を今年五月に結成すべく、その中心になって活動していらっしゃいます。
 

 
峯尾:  この「社叢学会」の「社叢」ですけれども、これはどういう意味なんですか。
 
上田:  信仰の森と言う意味ですが、鎮守の森を中心にしているわけですけれども、ちょうど京都精華大学の名誉教授の上田篤先生と、「社叢研究会」というのを三年ほどやりまして、そして本を昨年十月に、『鎮守の森はよみがえる』というのを出したんですが、反響が大きくて、学会を作ろう、ということになりました。発起人の先生方の中には、「鎮守の森学会≠ノしてはどうか」と。「社叢≠ニいうのは、ちょっと意味が分かりにくいじゃないか」というご意見もあったんですが、例えば、「鎮守の森学会」ですと、沖縄の信仰の森の研究は出来ないんですね。沖縄には、「鎮守の森」というのはあまりありません。中国にも、朝鮮半島にも、東南アジアにも聖なる信仰の森があるわけですが、この学会は広く研究をしようということですから、敢えて「鎮守の森を中心とする聖なる信仰の森を社叢と呼ぼう」ということにしたわけですね。
 
峯尾:  そうですか。このご本を拝見すると、研究会のメンバーというのは、かなりいろんな分野の方がいらっしゃるんですね。
 
上田:  ええ。この「社叢学会」も、学才的に総合的にやろうということで、例えば、南方熊楠先生は、歴史、或いは民俗、先生は広くて生物も入れておやりになったんですが、我々の場合は、歴史学だけではなくて、民俗学、文化人類学、建築学、植物学、生物学、考古学、地理学というように、上田篤(あつし)先生は、都市工学ですが、都市の景観を含めて広く研究しよう、ということですから、スタートの段階からいろんな分野の先生方に集まって頂いて、研究会を組織したんです。
 
峯尾:  その本をお出しになったところ、一般からの反響も大きかったんですか。
 
上田:  大きかったですね。私どもは専門家だけの会にしたくはないので、広く関心のある市民の方にもご参加頂く。過去だけではなくて、現在、そして未来に向かって研究しよう、と。ですから、問題点を明確にして提言をしよう、というように考えているわけですね。
 
峯尾:  その提言がどういうものになるかは、五月にスタートして、みなさんでのさまざまな話し合いがあって、
 
上田:  ですから、研究会は勿論やりますし、機関誌も出します。それから見学会ですね。大変鎮守の森を保存のために努力しておられる場所は勿論ですが、危機に陥っている場所の見学などもしようということで、そのためには実態調査を出来るだけ、モデル地区を選んでやろう、と思っています。
 
峯尾:  そして、鎮守の森という日本の国内にだけ通ずる言葉ではなくて、社叢になさったということで、沖縄では既に違う言葉、中国にも、とおっしゃいましたけども、ということは、つまり万物の中に神が宿る、というような、日本に古来からあった考え方というのは、特に上田先生がご専門とされている東アジアの各地に─。
 
上田:  そうなんですね。アジアの宗教は─勿論、イスラムもありますけれども、キリスト教も信者の方も勿論おられるわけですが─アジア、特に東アジアで誕生した宗教は、一神教は一つもないんですね。ですから、仏教にしても、仏教はインドで、それが中国に入って、中国仏教化して、朝鮮へ入り、日本へ伝わったんですが、一神教ではないんですね。例えば、仏教で、「万物悉皆有仏性(ばんぶつしっかいゆうぶっしょう)」と。あらゆる物に仏性が宿っている、と。「仏の悉皆仏性」ということをいうわけですが、それは、「まさに万物に神が宿っている、という考え方と共通している」と思いますね。
 
峯尾:  仏教しかり、その他イスラム教、キリスト教を別にすれば、東アジアの宗教の中に、そういう総てに神が宿る、と。
 
上田:  ですから、宗教学では、「アニミズム」と言いますけれども、そういう精霊の信仰ですね。これは東南アジアなんかも圧倒的に多いわけですね。日本では鎮守の森と言っていますけれども、神の宿る聖なる森が、東南アジアにもたくさんあるわけですね。ですから、その方面の研究者にも、勿論、学会に参加して頂いていまして、出来れば比較研究をしないと、日本の鎮守の森だけを研究していたのでは、やっぱり学問として発展しない、と思うんですね。だから外国の先生方にも呼び掛けて、幸い私は、「アジア史学会」の会長をしておりますので、これには中国の先生も、モンゴルの先生も、韓国、朝鮮民主主義人民共和国の先生も、入会しておられますので、広く呼び掛けて、アジアの宗教家のみなさんに、「もっと自信をもって欲しい」と。二十一世紀にこういう信仰を、私はかなりいけるというように思っておりまして、そして、それが、「自然の風土、環境の保全に寄与するに違いない」という考えなんですね。ですから、学者だけの研究のための研究の学会にはしたくない、と。ですから広く市民のみなさんにご関心のある方にも入って頂きたい、と思っています。
 
峯尾:  先程、話にありましたように、鎮守の森も、日本の歴史の中で、特に時代がドンドン現代に近付いてくるに従って、姿を消さざるを得ない。自然と人間との共生というのが、思うように、というか、だんだん忘れさられていった面がありますから、それはやはり多分東アジアでも、或いはもっといま激しく進んでいる可能性はありますよね。
 
上田:  そうですね。私は、二十一世紀を、決してアジア中心主義ではないんですけれども、「アジアの世紀にしたい」と。「二十世紀は、欧米が世界の政治、経済、文化をリードした欧米中心の世紀だった」と思うんですね。「アジアの輝きが、あまり評価されなかった時代」ではないでしょうか。ですから、欧米が発展することは、勿論人類にとっていいことなんですけれども、アジアの我々は、「もっとアジアの歴史とか、文化とか、伝統に自信をもつべきだ」と思うんですね。そういう願いもありまして、余生をこの学会の発展に尽くしたい、と思っているんです。
 
峯尾:  そして、昨年の歌会初めでの召人としての上田さんの歌、人と自然との共生、人と人の共生というのもいま非常に大事なことだ、と思いますけれども、もう一つ何か忘れていませんか、と。
 
上田:  そういうことなんですね。「他文化共生」とか、「異文化相互理解」とか、これも一種の流行語のように使われていて、それはそれで大事なんですが、「人間だけの共生をいうのは、やっぱり人間のエゴなんで、自然、その自然には動物、植物も含めて生きているんですが、自然と共生する。そして、人間が人間らしく生きる。これが大事である」という持論なんですけどね。そう思っているものですからね。
 
峯尾:  人間にそれが出来るでしょうか。
 
上田:  私は、「鎮守の森の歴史と文化に、それはあるじゃありませんか」と。「これから初めて作るんじゃなくて、我々の祖先が、そういう伝統を築いてきたではありませんか、ということから、スタートしようじゃないか」ということですね。
 
峯尾:  いろいろお話を聞かせて頂きましたけれども、最後に上田さんの今のお気持ち、今の世の思いを表した歌を一首を。
 
上田:  いやいや、なかなかそんなに即座にいい歌は思い付きませんが、
 
     生かされて今日あるいのち生きてあり
       鎮守の森に柏手(かしわで)をうつ
 
即興の歌ですけど。あんまりいい歌ではありませんが。まったく即興のお笑い草で。
 
峯尾:  どうも有り難うございました。
 
上田:  失礼しました。
 
 
     これは、平成十四年二月十日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである