心優しい文化をめざして
 
                         雑誌『上方芸能』代表 木津川(きづがわ)  計(けい)
昭和十年高知市で生まれる。印刷会社を経営しながら、昭和四十三年『上方芸能』を創刊。年四回発行の季刊誌として、これまで一四三号を発行。これが認められ、菊池寛賞を受賞(平成十年)。立命館大学で芸能文化論を講義。著書に「文化の街へ」「生活文化の視座」「人間と文化」など。
                         き き て      峯 尾  武 男
 
峯尾:  大阪市西区京町堀。街の中のビルの一室。此処は雑誌『上方芸能』の編集部です。現在の編集長は池坊短期大学で古典芸能を教えている森西真弓(まゆみ)さん。編集長の元で働くスタッフは二人。現在、百四十四号の発行を目指して、企画・編集の仕事が進められています。この雑誌『上方芸能』が初めて世に出たのは、昭和四十三年(一九六八年)四月のことでした。それから三十四年、年四回の発行の季刊誌として、上方の芸能のさまざまな成果を賞揚し、その推移を検証し、それぞれの芸能が、活力を保ち続ける上で何が難しいのかを摘出しながら、明日への展望を打ち出す役割を果たしてきました。この雑誌の創刊者で、つい三年前まで編集長を務め、現在は代表として、長期の計画を立てているのが、木津川計さんです。木津川さんが、この雑誌を創刊したのが三十二歳の時です。その時の心境をよく表しているのが、大阪が生んだ詩人・小野十三郎(とおざぶろう)の詩だということです。その詩を紹介します。
 
     「一本のろうそく」
 
     すきま風に
     ろうそくのほのおは
     左右にゆれる
     いまにも吹きっ消えそうだ。
     わたしは両の掌(てのひら)で
     ほのおをかこう。
 
     ほのおは一ゆれして
     またまっすぐに立ち直る。
     闇の中を地ひびきをあげて
     十頭の野牛がかけぬける。
     風ははげしくなる
     灯を消してはならない。
 

 
峯尾:  木津川さん、この詩を初めて目にされたのはいつ頃だったんですか。
 
木津川:  一九六○年代の半ばだったと思いますね。この詩は、多分一九五○年の朝鮮戦争の頃に、小野さんがお書きになったんではないかと思うんですね。一九五二年(昭和二十七年)に、小野さんの詩集が出されまして、その中で収められたのが、この「一本のろうそく」なんです。ちょうど朝鮮戦争で、戦後、日本が資本主義を復活過程にのせていく。景気を拡大していく。社会開発時代に入っていく、経済開発の時代に入っていくわけなんですが、文化が片隅に追いやられるんですね。十頭の野牛というのは、この経済を十頭の野牛になぞらえて、猛烈な勢いで、もう地ひびきをたてて、土煙をあげながら、その風に煽られて、文化に託して一本のろうそくやったと思いますね。こう揺れる。消えそうになる。灯をかこわねばならない。私は、やっぱり詩の影響が大きうございまして、というのも、当時の上方の芸能界というのは、ほんとに難しい状況でして、昭和三十七年(一九六二年)に、先代の片岡仁左衛門(にざえもん)さんが「仁左衛門歌舞伎」というのを始めるんです。その前に、歌舞伎では二代目の實川延若(じつかわえんじゃく)さんが亡くなる。三代目の中村梅玉(ばいぎょく)さんが亡くなる。市川壽海(じゅかい)さんが亡くなる。そして先の中村鴈治郎(がんじろう)さんが映画へいってしまう。どうなるか分からないという。そういう昭和三十二年に、松竹は文楽を手放すわけなんですね。文楽もどうしていっていいか分からない。要するに、高度経済成長期にそののち突っ込んでいった一九六○年代というのは、伝統芸能が大変難しかった時代でして、私は、小野さんの「灯を消してはならない」という、これに応えていかなければならんという思いをもっていたわけですね。一九六八年、三十二歳の時に、歌舞伎、文楽というのは、大変古い伝統の世界で、私も不案内ですし、とてもじゃないんですが。大衆的支持を受けやすい、当時、まだ上方落語は漫才に押されて、大きな勢力にはなっていなかったものですから、落語をともかく盛り上げていくところから始めていこう、って、『上方芸能』という雑誌を創刊したんです。
 
峯尾:  そうすると、当初は落語がメイン?
 
木津川:  そうですね。一九六八年の一月に、「上方芸能を聞く会」という鑑賞会を拵えまして、二回目が一九六八年の四月だったんですが、その四月に「上方芸能を聞く会」の機関誌として創刊したのが、『上方芸能』だったんです。その頃は、えらい人に、「上方落語を聞く会≠ェ、『上方芸能』という雑誌の名前は大きすぎるじゃないか」と言われて、随分辛い目したこともあったんです。しかし、私は内心、上方芸能、落語を主体にしているけれども、この雑誌名に相応しい上方の芸能、全ジャンルを網羅した芸能専門誌に、どんなことがあっても育っていってやるという、私の胸の中では、そういう思いを燃やし続けながらですが、頭を低くしながら、理想は高くやってきたんではないかなあと思うんですが。
 
峯尾:  こういう雑誌を作られるまでの木津川さんの、かなり個人的なお話になりますが、どういう立場でここへ入られたのか、少し遡ってお話聞かせて頂きたいんですが。
 
峯尾:  そうですね。どんな人でも、何か苦労の道程を歩んで来られるわけですから、私だけというわけではないんですけれども、子どもの頃に肋膜になり、弱い身体でしたから、高等学校で結核になり、田舎の国立療養所へ─私が入院した頃は、恥ずかしい話ですが、家族がバラバラに四散していまして─肺外科が始まったばっかりだったんですがそこで肺を切り捨てまして、それで退院して、大阪へやって参ったんです。その頃、家族がまた一つになってはいたんですけれども、生活が苦しくって、親父が始めていた、その当時は、ガリ版印刷と言っていました。謄写印刷ですね。それの筆耕をしながら、家業を助けていたんですが、いつまでもこんなことをやっていて、俺は一体どうなるやろうという、そういう思いで、一年間勉強の期間をもらって大学へ行ったんです。大学へ行くようになっても、尚、家業は手伝っていたんですが、大学の三回生になった時に、私、学生結婚致しまして、七、八ヶ月新婚の暮らしを致しているところへ、「親父が自殺をはかった」というのを聞きまして、ビックリしまして、大学を一年休学して、家業の応援に入りまして、翌年休学して、どうにか一年遅れて大学を卒業したんですが、今度は足を抜けんようになりまして、ズルズルっと家業を手伝っていました。一九六八年の五月に、親父が今度はほんまに自殺してしまいました。ちょうどその一ヶ月前に、雑誌を発行したばっかり、翌月に親父がそういう不幸せな死に方をしたんです。それだけだったらまだいいんですが、大きな負債が残っていまして、その負債を返済せんならん。凡そ十五年間、それからかかったんです。返済せんならんわ、家業の立て直しをはからなければならんわ、出発したばかりの『上方芸能』を、これはどんなことがあっても、継続して発展さしていくという、私自身の不退転の決意でしたから、この三つを同時に進めていかなければならんという、三十代の初めから四十代半ば位までですが、人の三倍働かなければならなかった。一番辛かった時だったなあと思いますですね。
 
峯尾:  その借財を返される。人の三倍働かれる。同時に、雑誌は既に、「お父様が亡くなられる時にはスタートしていた」と、今おっしゃいましたけれども、それがあり、で、ただ、雑誌を作るといっても、当然のことながら、木津川さんご自身がお書きになるものも圧倒的に多いだろうと思いますし、お芝居は多分観なければ書けないでしょうし、落語も聞かなければ書けないでしょうし、そういう時間も働きながら必要だったわけでしょう。
 
木津川:  そうですね。あの頃、私、芝居を観て一番感激した。或いは観賞した頃だったなあと思いますね。日曜日は朝から晩までいろいろ掛け持ちしながら、落語は聞くわ、歌舞伎は観に行くわ、文楽は観に行くわ、というような、そんなことをやったんですが、幸い私は、指導してくれる師匠方、或いは先生方に恵まれたものですから、その手引きで、自分なりに観賞の力は付けていったかなあと思いますね。あんまり恵まれた環境の中で、紙吹雪を浴びながらスイスイ、或いは歓呼の声に迎えられて、というよりも、逆境を跳ね返しながら、戦場になぞらえるならば、報復前進しながら、塹壕から塹壕へという、そういうことの中で人間が強くなっていくんではないかなあと思いますね。ただ、私、今でも一番悲しいのは、人の三倍ですから、負債を返済をしていくために、私は鬼にならなければいけなかったんですね。
 
峯尾:  経営者として。
 
木津川:  そうですね。ですから、当時の従業員の諸君達にも、非常に辛く厳しく当たりましたから、その頃の人がちっとも訪ねて来てくれない。それほど私は鬼だったやろうなあと思いますですね。それが今悲しいですが、私自身は大変心優しい人間やと思っています。ヒューマンなものに、私は肩入れする。そういう人間ですが、火の玉にならなければ、どうにもこうにもならなかったという、そういう時期だっただけに、私の元で頑張ってくれた人たちには、大変辛いことやったやろうなあと思いますね。一方で『上方芸能』を育っていくためには、これはまた集まってきた若いスタッフに希望を与えなければならないわけですから、私はいつも「前を見つめながらの希望について語ろう」と言いながら、そんな両面のことをやってきた三十代から四十代半ばだったと思いますね。
 
峯尾:  雑誌『上方芸能』がスタートしたのが、昭和四十三年の四月。第一号は七ページでしたね。
 
木津川:  そうです。B四版を二つに折ると八ページになりますが、原稿がなくってね。これは落語界の機関誌でしたから配ったんですよ、百五十人位にね。只やったんですが、その頃は。みなさんポケットに入れたり、カバンへ入れたり、手に握ったりしてお帰りになるんですが、落語が終わって、出口で頭を下げていますと、フッと見ると、廊下へほかして行ってお出での人がいて、靴で踏まれているんですね。私、走って行って、それを拾いながら、「ほかさんかていいやないか」と思うんですよ。打ち上げを小さな寿司屋さんで、何人かとやったんですが、私は、一所懸命拵えた、たとえ七ページにせよ、創刊号ですね。我々の苦労のかたまりで、できた喜びで、もう宝物みたいに思うているものが靴で踏まれている。「踏まんかていいやないか」と、そればっかり言いながら、ビールを飲んでいたんです。あんまり言うたんでしょうか、寿司屋の親父さんが、私に言うたんですよ。「あんたなあ、いつまでもぼやいてんと、踏まれんもん拵えんかえ」。ああ、そういえば、踏まれんものを拵えんといかんのや。あれはね、いい励ましになったんですよ。それから私は、よし、ほかされん。踏まれんものをこしらえよう。で、ページ数は三十ページに、五十ページに、百ページに、いま百六十ページぐらいになったんですが、誰もほかす人はいません。お陰で、この『上方芸能』のわら半紙の粗末な一桁代の創刊号から十号までは、古書市へもう出ることはないんですけど、出ましたらね、五千円位一部しますですね。
 
峯尾:  そんな貴重なものに、
 
木津川:  そうですね。
 

 
峯尾:  雑誌『上方芸能』の二十七号から百三十一号までの紙面にずーっと掲げられてきた一つの詩があります。詩人・岡本彌太(やた)の「白牡丹図」です。
 
     白い牡丹の花を捧げるもの
     剱を差して急ぐもの
     日の光青くはてなく
     このみちを
     だれもかへらぬ
 
剱を差して急ぐ。鷹派にはどうしてもなれず、白い牡丹を捧げる鳩派の道を、木津川さんは歩んできました。一方雑誌が扱う『上方芸能』の世界も、目まぐるしく、時代と共に変化してきました。つい最近一月三十一日には、大阪道頓堀の浪速座(なにわざ)が閉館しました。弁天座、旭座、角座、中座とともに、道頓堀の五つの芝居小屋の中で、最後まで名前が残っていた浪速座が閉館したのです。一方、一九八四年(昭和五十九年)に、大阪に国立文楽劇場が出来たことで、上方の古典芸能復活に弾みがついたと、木津川さんは見ています。その国立文楽劇場二階ロビーでお話を続けます。
 

 
峯尾:  去っていくものあり、新しく施設が出来たりするものありの中で、上方芸能の今の姿、現状はどういうふうでしょうか。
 
木津川:  そうですね。此処の文楽で申しますと、よく踏ん張って、健闘していましてね。今年でこの国立文楽劇場が出来て満十八年ですが、それまでは道頓堀の旭座で一年間の観客数は三万五千人から四万人。甲子園でジャイアンツと阪神が一夜対戦する時の観客数、一晩分が一年の観客だったんですね。ところがこれが出来まして、十八年の前の一年間で十二万人、三倍になったんですね。それからいくらか減りまして、減ってはきたんですけども、十万人ですからよく健闘しています。
 
峯尾:  ところで、雑誌『上方芸能』、そのものが三十四年の歴史をもって、木津川さんはまさに上方芸能、いま一口にお話頂きましたけれども、その歴史をずーっと推移を見てこられた。その間にいろんな方と、いろんなお付き合いがあったんでしょうね。
 
木津川:  そうですね。文楽で申しますと、かつては「因(ちなみ)会」と「三和(みつわ) 会」という会社と労働組合派に分かれた困難な時期があったんですが、名人だった藤間(ふじま)勘十郎という方がおられましたが、労働組合派で、組合の機関誌をいっぱい大事に風呂敷へ包んでお家へ持ってまいっていましたね。トラックに乗って夏の炎天下を旅興行した。あの辛さが、今の文楽のこの人たちの根性を育てたんですよ。そして、技芸をもっと高めたんですよ。会社派に負けてたまるか、という。そんな話をじかにしみじみと聞いた時なんかは、やっぱり感銘を受けましたね。私は雑誌を拵えながら、いろんな方のお力添えを得たものですが、あの時、東京の方にも原稿を依頼したものですが、紙芝居の書き手で、戦前評論家として、戦後は『思想の科学』の編集長で、評論活動で、盛んに活躍された方がおられまして、原稿を依頼した時に、「原稿料を払えなくて、まことに恐縮ですが、ご寄稿頂けないでしょうか」。そうしたら、「書かせて頂きます」。嬉しかったですが、なお、書き添えてありまして、「物書きは、一枚いくらで生活しているんです。払わない、払えないはいけません。早く払える雑誌になって下さい」と言ってね、千円同封されたんですよ。もう感動したなあ・・・。三十年前の千円と言ったら、今の一万円ですね。早く払える雑誌と、五百円を払うようになり、そして今も一枚千円ですから、とても払えているとは言えないですが、やっぱりこれを千五百円に二千円にしていかなければならないと思っています。私は、秋田實という方に、若い頃、そしてこの雑誌の創刊に当たっても大変ご指導頂いた方ですが、「漫才育ての親」と言われた秋田先生は、私にいろんなことを教えて下さったんです。「お前、こんなことを知っているか」と、よう訪ねて来はるんですよ。「飯やへ行って、漬け物にたくあんが二切れというのは何でやね」と。突然、「何でや」と言われても、答えようがないですが、「あれ、お前、三切れだったら身切れ、縁起が悪いやないか」。「あ、なるほど」。「一切れだったら、おまえ、人切れやないか」。「あ、なるほど」。「そうやから、どっちでもない、二切れとなったものや」。「あ、なるほどな」。こんなことから、いろんなことを教わったんですが。あの先生のおばあちゃんが、大阪の街に、「石門心学(せきもんしんがく)」と申しまして、江戸時代の町人たちに商道を説いた石田梅岩(いしだばいがん)(江戸時代中期の貞享二(一六八五)年、現在の亀岡市の農家に生まれた。石門心学の祖。八歳で京都の商家に奉公。二三歳で商家黒柳家に奉公。京都の小栗了雲に師事。一七二九年(享保一四)四五歳で京都車屋町御池の自宅に講席を開き、心学道話を公開。神儒仏の三教を平易に説いて、町人農民に大きな思想的影響を与えた。「商人の利は武士の禄と同じである」と説き、商行為の正当性を強調。『都鄙問答』『斉家論』『石田梅岩先生語録』等の著書がある)の教えが、ずーっと町中に活きていたんですね。「子どもの頃なあ、儂なあ、おばあちゃんにこんな話を聞いたんや。大きな嘘は勿論いかんけど、小さな嘘で、人のためになる嘘はついてもかまへん。大阪の人間は昔こんなこと言うていたんやなあ」。「ああ、そうですか」と、耳に留めたままやったんですけども、フッとその話を思い出して、「人のためになる嘘はついてもかまへん」と。「偽」るという字は、「人の為」と書いてありますが、なるほど、と。「嘘」は、「口篇に虚ろ」と、これは虚言ですからダメです。「閻魔さんに舌を抜かれる」と申しましたね、昔。なるほど、人のためになる嘘があるんやなあ。私はその時から、文楽の虚構─フィクションというものは、人のためになる嘘をつかんといかんのやなあ。遡れば、石門哲学の影響下に私も組み込まれていたなあと思います。ずーっと執筆人で、ことにお世話になった方が、人間国宝の桂米朝(かつらべいちょう)師匠ですが、あの方は、今も連載書いて下さっています。ずーっと原稿料を、「要りません。要りません」で、一銭も支払わずに書いて下さっているんです。米朝師匠は、二十歳の年に、八卦見に手相を見てもらったら、「おまはんは、五十五で向こうへ逝く」こう言われたんですね。「自分の一生は、五十五でお終いか」というのを、頭の中に刻み付けたわけですね。四十五が・・・四十八がくる。五十と、こうなっていきますね。その自分の終末を、あの人は数え始められたわけでしてね。四十七、八から、米朝師匠は、ペンの炸裂(さくれつ)が始まるんですよ。書き残しておかなければならない。それは、「五十五で俺は終いやから、五十四までに書き残すべきことをちゃんとやろう」。そこから、「文部大臣選賞」を貰いました『落語と私』という、子ども向けの名解説文が出来る。それどころではなくて、一番あの人のいい仕事は、『上方落語ノート』一集、二集、三集とお 出しになられる。そういうふうにこれまでやってこられたことの結晶になるようなお仕事を五十四中に全部しなければならない。一所懸命お書きになられたものが、今や上方落語は勿論上方芸能界の貴重な財産になりましたですね。あの方は、五十三、五十四がもう近い。周りも心配します。本人も、「もう来年逝きますねん」と言われていますから(笑い)。どうなるやろうかと、ほんまに案じましたら、五十五になられて入院しはったんですよ。あの人、胆石で酷い痛みを時々堪えていた方ですが、それは殊の外激痛で、入院して、手術して取られたんですが、もう親指大のがゴロゴロ出てきてね。私、見舞いに参らせて頂いたんですが、それは心なしか悄然としておられましたね。術後ですから、もうちょっと元気であっていいのに、ひょっとしたら、このまま余病を併発してでも、と思われたんでしょうか。それが五十五歳だったんですが、労りながら、五十五歳、三ヶ月、二ヶ月、一ヶ月で終いに、五十六歳になられてから、もうこれエンドレスになったんですね(笑い)。それからは元気で、今、七十七、喜寿になられましたけれども。一門何十人もいますが、「一番酒飲むのは、米朝師匠と違うか」と言われるぐらいお元気になられたんですよ。私は、米朝師匠とは違いますけども、二十歳の年に、療養所を出て、大阪へやって来た経緯ですが、友だちはいない。学校は大阪を出ていませんから心細い思いです。どうやって生きていったらいいかなあ。右の胸、半分除けていますから。そして人よりも、二年、三年遅れました。自分はこの大都会でちゃんと生き延びていくことが出来るだろうか。しかも、肺外科が始まったばっかりで、手術の後は、五年生きられるか、十年生きられるか。その蓄積のデータが無かったんですね。初期でしたから、肺外科の。ちょうど、冬、大阪駅の地下道を歩いていますと、若い坊さんが、手相を見てお出でで、十人位列んでいる。フッと見たら、えらい早いなあ。サーッと一人、二、三分です。ちょっとポケットを探りを入れたら、見料三十円というのがあったんですよ。それで列んで見てもらおうたら、早いのなんの、二分位でサッと丸書いてね。それを貰いましたら、もう人生曲線が通う最低のところです。二十歳は地を這っています。それで見たら、「失せ物現れず。待ち人来たらず。商運今はなし」。もうどれもこれもあかんのです。ずっと地這うていますが、四十代半ば位からこうあがっていきまして、プツッと六十五で・・・私、終末というふうにうつったんですよ。米朝さんが五十五。私が六十五。その時に、「えー、四十五年も生きられるのか!」という驚きやったんですね。精々、五年か十年か、と思っていましたのにね。四十五年どうやって生きていこうか、という。その思いにとらわれた時に、私の二十代のさすらい精神の─四十五年間も無為に過ごすんじゃなくて、何か生きてきた証をその間に、長丁場でありますから、何か私は生きていきたいという、そういうさすらいの精神の、模索十年が続くんです。
 
峯尾:  それが同じことでも人によって、或いはその時の状況にもよるかも知りませんけども、「よし」というのと、「いや、それしかなかったら、とにかく頑張って、それまでに」というのとやっぱり人によって受け取り方が違うものですよね。木津川さんは、四十五年もある、と。
 
木津川:  そうですね。六十五を通過しまして、六十六になった時に、エンドレス(笑い)、と言ってもね、その年に、大腸癌を患いまして─初期でしたが─やっぱりこういうことの警告でもあったんやなあと思いましたですね。
 
峯尾:  何かやはりこう不思議な力というのが、人間には働きがあるのかも知れないという気が、今のお話を伺ってきて、したんですけども。で、ご専門の芸能ですがね、芸能というのも元々、例えば、神様の前でやっている神楽というような、神と非常に関わりのもったものだという話を聞いたことがあるんですが。
 
木津川:  そうですね。能は、翁(おきな)と千歳(せんざい)と二人の三番叟(さんばそう)(『翁』後半部 分。黒式尉(くろしきじょう)という色の黒い老人の面をつけて、鈴を持ち「鈴の段」を舞う)が出て参りまして、一番位の重いお目出度い時に演ずるものですが、初番目物(能の一番目物のジャンル、神を主人公にする。脇能の事)という枠の中には、神様がシテ(能及び狂言の主役のこと)になる、そういう曲をいくつももっていまして、それは「養老」でありますとか、「老松」でありますとか、結婚式の時に、「高砂や」という、ああいう神様の予祝(よしゅく)ですね、そういう予めの祝福を受けたお陰で、家内は平安、五穀豊穣で幸せに暮らしていけるんやということで、非常に三番叟を翁、そしてそういった初番目物の曲を大事にするんですね。歌舞伎にも、文楽にも、三番叟というのが、「寿式三番叟(ことぶきしきさんばそう)」と申しまして、正月は必ずフォーマルな催しの時には、必ず三番叟を演じるものです。この後ろにありますのが、三番叟ですけれども、文楽の場合は、三番叟が二人でして、鈴を振りながら、種を蒔くんですね。一所懸命種蒔きをするんですが、年のいった三番叟が、しんどおて肩でこう息をつきながらへたり込むと、若い方が、「何をしてんね、もっと頑張らんかえ」と、また元気になっていって面白いふりがある。こういう三番叟というのは、やっぱり祝福芸だったんですね。今日の漫才ですけれども、あの歴史も随分古いものがありましてね、今から八百年前、一二○四年(建仁四年)ですから、鎌倉時代の初期ですよ。宮中へ初めて漫才が入ったというのが、これが芸能史の最初の記録なんです。太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)が、「萬歳(まんざい)とおわします」という目出度い台詞(せりふ)を述べながらというのが、町中、村々へも予祝(よしゅく)の祝福芸を売り歩くわけなんですね。人々がそういう太夫と才蔵が来てくれることによって、「ああ、今年も幸せに暮らせるぞ」と待ちわびたんですね。昭和の初め位まで、そういう風景が村々で見られましたものです。日本の語り芸です。落語ですとか講談は、仏教の影響が大変強うございまして、仏の教えを説くために、説教僧がいろいろ地獄絵図ですとか、極楽絵図を見せて、昔は語りましたでしょう。あの説教僧の語りというものが人々を引き付ける。引き付けるためにはあの絵もそうですけれども、やっぱりパフォーマンスを加える。時には笑わす。時には泣かせる。そういう説教僧の語り、説教芸というものが、落語、そして講談の語り芸に影響を及ぼしたいんだというのが、これは芸能史の中で有力な説として残っているんですね。というふうに、芸能と仏教、或いは神道の関わりを否定することはできない。密接なものがあるんですね。私は、これまでに、謡を三年程稽古したことがあったんですが、初めて発表会の舞台で致します。その前に、稽古をいたさんならん。袴は勿論履いておりません。ズボンにスーツなんですが、能舞台に立ちます時に、私は靴下で出ようと思っておりましたら、師匠の先生が、「白足袋を持って来て下さい。素足もダメです」。このズボンに白足袋ですから、何とも具合が悪いんですが─。その時に、ああ、やっぱり能舞台というものはこういうものだなあという、清々しい、神々しい、身の引き締まる思い、と言うんですか、それを感じたんですね。それは、能楽堂へ行った時に、誰にもやっぱり感じる思いでありまして、正面舞台には、「鏡板(能舞台正面奥にある羽目板、老松の絵が描かれている)」と申しまして、老松が描いてありますですね。何もありません。幕がありません。どこにも小道具もありませんですね。「橋掛かり(鏡の間と舞台を結ぶ渡り廊下。能舞台の一部で、役者の登場・退場のはもちろん、本舞台の一部としても演技が行われる)」というものがありまして、あれは彼岸と此岸、あの世とこの世を繋ぐ連絡通路みたいなものですが、あそこへ参りますと、漫才の小屋とはまるで違う、引き締まる、そういう思いがします。ですから、昔から能を見るとは言わなんだんです。「拝見する」と、こういうふうに申したんですね。やっぱりそういう言い方があるというのは、後ろに神々を、やっぱり創造・想定すれば、引き締まる、神々しい思いを感じたんですね。私は、三十二の時に、この『上方芸能』誌を発行したわけですけれども、上方芸能と言っても広いんですよ。能、狂言、文楽、落語、浪曲、講談、漫才、全部を知っているわけじゃないです。能一つ、狂言一つとっても、奥が広いに関わらず、行って理解しないことには編集・企画出来ない。まあ上方芸能という広大な大海原に、言うて見たら手漕ぎの船一艘で漕ぎ出したようなものだったんですね。今から思えば、無謀も無謀、「もう一遍、お前、あの年に返ってやれ」と言われても、これだけ経験していますから、とてもこんな身の程知らずのことをようやってきたなあという思いがあるんですよ。だけども、この私であるにも関わらず引っ張ってくれ、後押しくれたのは、勿論私が好きだったし、編集という作業に、私は生き甲斐を感じていたということもありますけれども、「見えざる神の手」というじゃないですか、そういうものがあったと思うんです。昔は、「神のご加護を祈る」と言ったでしょう。直接祈ったわけではないんですけれども、そういうものが私の導きの目に見えない糸として、引っ張っていってくれたんやなあ。そうとしか思えないほど、何も知らなところを、私はまあ大過なく参らせて頂いたというのは、そういう大きなものの影響下に、私はあったからやなあと、時に思うことがあるんですよ。
 

 
峯尾:  現れては消え、消えては現れる。芸能の数々、その蓄積を次の世代に伝えたい。木津川さんのこうした思いは、大阪の土地でも理解され始めました。大阪南の千日前にある「ワッハ上方」。大阪府が中心になって、平成八年(一九九六年)十一月に開館しました。上方の芸能のさまざまなジャンルの記録資料が集められ、一般にも公開されています。この「ワッハ上方」の四階に、「上方亭」という、客席四十余りのミニ劇場があります。このミニ劇場をお借りして、木津川さんに引き続きお話を伺って参ります。
 

 
峯尾:  さて、その芸能が、娯楽なのか、それとも私たちの生活に欠かせない生活必需品なのか。長年芸能を研究されておった木津川さんは、どんなふうにお考えですか。
 
木津川:  どっちかと言われるとちょっと困りますですね。芸能というものは、喜びであり、楽しみであり、そして慰めだと思うんですね。劇場へ行った、或いは演芸場へ行って、そしてもう怒りまくって出てくるとか。「しょうもない、時間潰した」と言って、ガッカリして出てくる。そういう場合もないわけではありませんけれども、「ああ、おもろかった」「ああ、楽しかった」「ああ、元気を出して、明日からやっていこう」とか、そういう要素を全部もっていると思いますね。ですから、悲しい時にそんな楽しいものは要らないではないか。或いは嬉しい人がいている時に、悲しますことないではないか、というふうに言われるんですけれども、しかし悲しいものを見て涙しながら、ああ自分は、ああいう境涯になったら、ああいうふうにはなるやろうけれども、そうでなくて良かった。あんなふうにはなりたくない、というような、そういう思いが、その人に安らぎを与える。やっぱり人間にはいつも─演劇もそうですが、芸能というものは必要でしてね。神戸の大震災の時、神戸市は、財政的には大打撃を被ったわけですが、あの時に、劇作家の山崎正和(まさかず)さんが、「だから神戸は文化に力を入れなければならないんだ。演劇を育てなければいけないんだ」と言われたのは、あれはよう言われたと思いますですね。そういう時には、わきへわきへやられるんですけれどもね。そうではないんですね。そういう力をもっていると思いますですよ。
 
峯尾:  確かに世の中から芸能と呼ばれるものが一切姿を消してしまったら、こんな味気ない世の中はダメでしょうね。
 
木津川:  そうでしょうね。私が、『上方芸能』を起こしたというのも、高度経済成長期で、経済にばっかりにウエイトがかかって、文化や芸術・芸能が脇へ追いやられた。そうではないんだ。こういう時にこういうものを守って発展させなければいけないと、私も考えていたものですからね。先程のご意見なんか、「そうやそうや」と思ったりしたことでした。
 
峯尾:  さて、それだけ情熱を傾けてこられた木津川さんご自身が、お好きな芸能、個人的にはどのようなものですか。
 
木津川:  そうですね。私は好きって、ずーっと惹かれて、見続けたり、拍手を送り続けた、というのは、共通していまして、芸能、映画、或いは演劇、文化全般でありますが、それはやっぱりヒューマンな「心の優しさ」そういうものに、私はずーっと惹かれてきたなあと思うんですね。また、それは私だけではなくって、「国民的人気を拍した芸能や文化というものは、全部ヒューマニズムを基調の精神として貫いていたんではないか」と、私はずーっと考えてきたんですよ。例えば、これはマンガといったほうがいいかも分かりませんけれども、日本でアニメの第一号が出来ますのは、一九六三年、手塚治さんの「鉄腕アトム」なんですね。あの「鉄腕アトム」の主題歌を拵えになったのは、谷川俊太郎(しゅんたろう)さんですが、
 
     心やさしい ラララ
     科学の子
     十万馬力だ
     鉄腕アトム
 
とあったでしょう。心優しい少年だったんですよ。頭がいいですから、こんなのを人の力に頼るんではない。自分の頭で見極めて、ああ、これが原因だったのか、と究明しましたら、後は、十万馬力のファッションとアクションで宇宙の彼方にパッと飛び去っていく。しかも、彼のヒューマニズムというのは、地球の困難を救う。或いは人類の危機を救済する。言ったら、ワールド・ワイド・ヒューマニズムだったんですね。そういうものを、手塚さんはずーっと貫かれて、「リボンの騎士」ですとか、或いは、「ジャングル大帝」ですとか、みな虐げられたものに対する優しいヒューマンな思いというものが、日本中の少年少女、大人たち、世界の子どもたち、アメリカでは「アストロボーイ」と言って、鉄腕アトムがまた知れ渡っているんですが、やっぱり根底にあったんですね。或いは、これは純粋たるマンガの領域で、国民的人気を得た戦後のマンガは何やったかというと、長谷川町子の「サザエさん」ですね。これは朝日新聞の朝刊四コママンガ、昭和二十九年から四十二年まで、二十三年間に及んだんですね。あの「サザエさん」を見ていますと、三世代が同居しています。ですけども、深刻な悶着は起こらないんですね。で、何も思想表明していないかというと、そうではなくて、これは鶴見俊輔(しゅんすけ)さんが言われたことですが、「戦後、民主主義をサザエさんがもっとも体現した女性だった」。女上位、しっかりしていますですね。ご亭主の益男さんが嫁さんの尻に敷かれながらでありますけれども、鶴見さんが言われるんですね。『大衆文化論』という書物の中で、「戦争を二度と繰り返してはならない、という思想が、サザエさんにはある」と言うんですね。言ったら、平和主義ですね。しかもサザエさんは、誰が見ているか分からないという心配りを、長谷川町子さんはしてお出ででありまして、一回も殺人のシーンが出てきません。一回も極悪非道の人間が賞賛されるといったようなことはありませんですね。或いはセックスのシーンは一作も、一遍も描かなかった。ということは、やっぱり心配り、気配りをして、老若男女、みなさんに親しまれるというものは、やっぱりそういう気配り・心配りを、優しさと捉えるならば、サザエさんもまたヒューマンの作風のマンガだったがゆえに、国民的人気マンガになったと思うんですね。そうしたら、演芸の領域でやっぱり人気最高峰は何かというと、落語でなくて、漫才なんですね。この漫才を育てた方は、秋田實(あきたみのる)(作家・漫才台本作者。明治三八年(一九○五)、大阪市で生まれた。東大哲学科に在学中、全国協議会レポーターとして活動。東大系同人誌「集団」の同人となったが、満州事変後、庶民的ニヒリズムへ転向、漫才台本作者となって吉本興業 文芸部に入り、庶民的楽天主義を基調とした漫才せりふのパターンを作りあげ、エンタツ・アチャコに代表される黄金時代を築いた。昭和五二年(一九七七)没)。昭和の初めになってから、新興演芸、漫才の旗をずーっと振りかざしながら大きく育てて、国民演芸の手段にもってこられた方です。秋田さんが終生唱え続けた「作笑術」─笑いを作る術ですね。それはなにやったかというと、「家中誰もが安心して笑える笑い」。即ち、私はそれを「笑いの平和主義」といっているんですよ。おじいちゃんも、おばあちゃんも、お父ちゃんも、そして子どもも、おじいちゃんから言ったら孫も、みんな一台のラジオを囲んで、みんなが安心して笑える笑い。それまで秋田さん以前の漫才というのは、「実践漫才」と言われて、「低級で卑猥(ひわい)」と言われたんですよ。そんなものが、ラジオの時代でした。昭和に入って。「もしも天皇陛下の耳に届いてはえらいことになるではないか」と言われた時代だったんですね。低級で卑猥を、質的にコロッと変えなければならん時に、漫才さんの手にあまって。秋田實という方は、東大を中退なさいましたけれども、インテリの最高峰ですね。そして一緒にずーっと最後まで協力した方が、「お父さんはお人好し」の長沖一(ながおきまこと)(明治から昭和にかけて生きた文学者。BKのラジオドラマ「お父さんはお人好し」の放送作家としても活躍し、帝塚山女子短大学長でもあった:1904-1976)さんで、この方は、東大を卒業した方でしたが、「学士様なら嫁にもやろうか」と、そういう時代に民衆娯楽の最底辺へやって来て、笑いの平和主義を打ち立てたがゆえに、国民的首座にまでのしあげていったし、のし上がっていったんだと思うんですね。そのように考えていきますと、国民的人気というものは、「ヒューマンをベースに貫かなければならないんだ」というのが、一層私には分かってくるものでして。だったら、映画の領域で、「国民的人気映画は何やったのか」というと、言うまでもなく、「寅さん」ですよ。「寅さん」の映画には失われた美点が描かれる。かつて、ああ、あんな美しい風景があったなあという懐かしい思いですね。何よりも寅さんの映画に、みなが引き付けられたというのは、マドンナによせる寅さんの純愛の献身の指一本触れない慕情の切なさ、「今度は上手いこといくやろう。そうそう、寅さん、そこ!割り方いいふうにいっているんじゃないか。そうそう、もう一押し」という、一押しがたらんでね。先にマドンナに言われるんですよ。「寅さん、私、もっと早く言わなければいけなかったけど、私には婚約者がいる」。ガクッときた寅がね、おじちゃんの家へ帰って来て、二階へ上がる。下へ下りると、上着を肩に、カバンを持ってね。倍賞千恵子が演ずるさくらが、「兄ちゃん、どこへ行くの」。「うん、 寒くなってきたから、南の国へでも行くかあ」と言ってね。遠ざかって行く後ろ姿で、全四十八作が終わったんですよ。マンネリと言ったら、あれほどマンネリの映画は。見んかて、ストーリーは見る前に分かっていながら、十八億人が見たというのは、やっぱり寅さんの、そしてあそこに出てくるみんなの優しさです。寅さんの映画もやっぱり秋田實の作笑術を踏襲していたと思いますね。家中誰もが安心して笑える笑い。だから、極悪非道の人間は登場しない。悪人は登場しない。殺人のシーンはない。凄惨な場面は、一作もない。そしてセックス場面も描かなかったというのは、やっぱり山田洋次の世界観、人間観の反映だったと思いますけれども、貫いているのはやっぱり優しさですね。多くの人がやっぱり心洗われたわけなんですね。だから、年に二回、みんなが楽しみにしたんですよ。そうしたら、ヒューマニズムばっかりやないか、と。ヒューマニズムだから、全国民的人気になるんですよ。日本の喜劇で、「日本一の劇団は何や」と言ったら、松竹新喜劇ですよ。藤山寛美さんが仕切りまして、日本一の喜劇の劇団に育てあげていった。先行して渋谷天外(てんがい)さんの力も大きかったんですけどもね。あれは、底辺下積みの誠実に生きている人たちへの応援歌やったんですよ。「人情喜劇」とい われまして、笑いあり涙ありでね。劇評家なんかの評判は悪かったんですけれども、しかし多くの人が、「いや、あんたが破れてから舞台去っていく」─芝居はそうなんですよ─「私らがちゃんと分かっているんやさかい、あんた、元気でやっていけよ」という、そういう励ましを与える。また、滅び去っていくものへの共感、哀感ですね。そういう滅びていくもの、誠実に生きているもの。藤山寛美さんの「愚直」という言葉が、私は好きですね。いつも言うておいででした。「愚直」と。言い換えたら、「バカ正直」ですね。「何をしても裏目裏目」「慌てる鰹が針を飲む」という人がおるやないですか。写真を写したら、「何であんた、いつも一番後ろに、顔がいつも半分しか出ていない」という。そんな人がおるでしょう。何かマスクしたら似合う。人生を仮縫いのままに生きていく。或いは、お人のついでに暮らしているというような、そういう人に、温かい眼差しを、松竹新喜劇は注ぎ続けたから、そういう誠実に生きる人たちに愛されて、松竹新喜劇は日本一の喜劇の劇団になったんですね。貫いているものは、みんなヒューマンではなかっただろうか。私、ちょっと計算してみたんですけど─秋田實先生が亡くなって、今年で二十七年です。手塚治さんが亡くなって、今年で十三年です。藤山寛美さんが亡くなって、今年の五月で満十二年、十三回忌が今年なんですね。そして、長谷川町子さんが、没後、今年で十年。渥美清さんが今年の八月で、亡くなって六年です。私は、一九二七年から六年前までの間に、日本の事情が残酷で非情なものになっていったのは事実ですけれども、それは、そういう作品、そういう生み出し手が無くなったから、というふうには思いませんけれどもね。しかし、この一九二七年から六年前までは、私たちはそういう優しいヒューマンな文化や芸能や映画の恩恵を蒙っていたんですよ。子どもは、「文化を食べながら成長する」と申していいです。大人も同様です。そういう優しさのヒューマンな文化を、この一九二七年から六年前までは、次々失うばっかりで、あとを補って生み出してこなかったということが、すべての理由で、いま非情で残酷になったとは申しませんけれども、私は、「人間はみんな心温かいものを求めているんだ」ということに確心をもつんですよ。第二の長谷川町子、手塚治、秋田實、そして渥美清の寅さん、そして藤山寛美の再来、そういうものが早くあって欲しいと思うんですね。
 
峯尾:  さて、木津川さんは、昭和十年の生まれでして、今年で六十六歳におなりになりますね。で、今教えていらっしゃる立命館大学の教授の定年というのはいくつなんですか。
 
木津川:  六十六です。けれども、特別任用教授という制度がありまして、口幅ったいですけど、「お前、残れ」と言われてから、残りまして、これは一年契約で、七十までの制度なんですが、どこまでいけるか分かりませんけれども、もう何年か参らせて頂いたらと思っております。
 
峯尾:  そして、いつか教壇から離れて、もっと自由な時間が出来たらば、なんかやってみたいというのは当然お持ちなんでしょうね。
 
木津川:  そうですね。そう言われると、申し上げんといかんことになったんですが、私はもう若い頃から、長谷川伸(しん)という劇作家がもの凄く好きやったんです。この人は、大正時代から昭和にずーっとかけまして、「やくざ任侠路線」と言いましても、東映の任侠路線とは違いまして、「股旅(またたび)」という言葉を戦前に生み出した、「強気を挫(くじ)き、弱気をたすく」という、心優しい股旅(またたび)を生み出した人なんですね。私は、「沓掛時次郎(くつかけときじろう)」という作品が好きで、私は全部退いたら、スーツなんてよう言いませんが、背広姿の「長谷川伸劇場」という、たった一人の劇場を拵えたいと思っているんですよ。それは、私はこんな演芸は出来ませんので、演壇に立って、長谷川伸の芝居をやるだけのことですけれど、沓掛時次郎というのは、一宿一飯の恩義で、やくざをパッと切ってしまった。そのやくざが、「頼む、儂のいうことを聞いてくれ」。「なんだ。なんでも言ってみな」。「後に残した女房と子どもの面倒を見てくれ」。「ああ、承知した。引き受けた」。縁もゆかりもない親分を切った沓掛時次郎は、この親分の嫁さんと太郎吉という子どもの世話をして歩くんですよ。ところが、嫁さんのおきぬが、お腹が大きくなった。お産の費用が無いから、彼は、やくざの助っ人を、もう二度とやくざなんか嫌だ、というのを、お産の費用を稼ぐために、彼は、そこへ助っ人で行って、一両のお金を稼いでから、「これでおきぬさんのお産の費用ができた」と走って帰って来たら、たった今生まれた子どもと一緒に息を引き取った。後に残った太郎吉の手を曳いて、「ああ、もうやくざは嫌だ。足を洗おう。洗おうて、故郷へ帰って、百姓をしよう」。太郎吉を連れて帰るんです。まあ三人で木賃宿に泊まって、過ごしているうちには、おきぬとっては自分の亭主を切った時次郎です。或いは太郎吉の父親を斬り殺した時次郎ですね。そういう怨みがずーっとあったんですが、だんだん時次郎の献身的に尽くしてくれる心優しさに、おきぬは変わっていくんですよ。変わるどころか、時次郎に思いを寄せていく。そのところを見ている我々には分かるんですよ。時次郎に思いを寄せていくんですから、一言も言わないですね。そのおきぬが死んだ。今は、太郎吉の手を曳いて、故郷への一本道を歩いていく。だけど、太郎吉は三つ四つです。子どもですから、すぐ疲れますので、また腰を下ろして休憩するわけですよ。そうすると、太郎吉が道端の小石を拾うて、積んでいきおるんですよ。一つ二つ三つ、と。そして、和讃と申しますが、御詠歌みたいなものです。「一つ積んでは母のため、二つ積んでは父のため」という節を付けて、その和讃を唱えるんですね。時次郎がビックリしてね、「おめえ、いってえ、誰にそんな歌を教わったんだ」。太郎吉は、「宿屋のおじいちゃんにだよ。こうしてこの歌を歌うと、死んだおっかちゃんが喜ぶんだってさあ。ああ、おいら、おっかちゃんに会いてえ」と言うんですね。時次郎が、「もっともだ。おらも会えてえ。会って、せめて一言、あきぬさんに聞いて貰いたいことがあった。未来永劫、おきぬさんには聞いては貰いねえだなあ」。
 
 
     これは、平成十四年三月十日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである