路傍の草として生きるー木月道人(もくげつどうじん)の足跡ー
 
                        同志社大学名誉教授 竹 中  正 夫
京大経済学部在学中に学徒出陣。多くの同窓生を亡くし、同志社大神学部に進んだ。米エール大大学院修了。明治以降の日本のプロテスタントと社会のかかわりや、アジアのキリスト教美術の研究で業績を残した。「和服のキリスト者−木月道人遊行記」「美と真実−近代日本の美術とキリスト教」など著書多数。
                        き き て     白 鳥  元 雄
 
ナレーター:雪を頂く飯豊連峰を東に見晴るかす新潟県新発田(しばた)市。今日は 城跡のお堀に近い新発田教会をお訪ねします。この教会で大正六年から昭和十年まで牧師を務めた方に、難波(なんば)宣太郎(せんたろう)(1865-1945)という方がいます。難波宣太郎は、和漢の教養に優れ、自ら詩を詠み、水墨画を嗜む、和服を着た牧師でした。日本人としての豊かな感性の中に、キリストの福音(ふくいん)を受け止め、それを人々に伝えようと努めました。その生き方に惹かれて足跡を訪ね歩き、伝記を書かれた同志社大学名誉教授竹中正夫さんにご同道頂いて、ゆかりの地でお話を伺うことに致しました。
 

 
白鳥:  この新発田という街は新潟の中でもかなり勢いのある街だったですから、キリスト教の布教というのも随分早くから始まったんですか。
 
竹中:  同志社の創立者新島襄(にいじまじょう)(教育者。渡米してアーモスト大学卒。明治五年より岩倉全権大使に随行してヨーロッパを視察。八年京都に同志社を創設。キリスト教主義の教育を創始:1843-1890)が愛弟子の一人の原忠美(ただよし)という人を、明治二十一年(一八八一年)頃から送っていますね。
 
白鳥:  そうすると、今日話題の難波宣太郎さんという、牧師さんが此処に訪れたのは何代目位なんですか。
 
竹中:  五代目位じゃないでしょうかな。長く居た人もいるし、途切れたり。なかなか伝道の困難な所だったでしょうからね。しかし、まあ数えると五代目位になります。彼が来たのは大正六年(一九一七年)頃ですよ。
白鳥:  そして、此処に教会を建て、暫く経ってこの幼稚園も。
 
竹中:  幼稚園は、娘さんが二人いまして、その方々が保母さんの資格を取って、幼稚園を確か昭和八年に始められたんです。
 
白鳥:  この幼稚園ももう七十年近く経っている。
 
竹中:  そうなんです。ずっと続けられているというところが、意味があると、私は思いますよ。
 
白鳥:  この教会堂はかなり新しい感じですね。
 
竹中:  そうですね。今から十三年位前に出来たんじゃないですか。
 
白鳥:  あそこに、表示の石があります。「一九八九年」と書いてありますね。綺麗な教会堂ですね。清楚な感じですね。
 
竹中:  とにかくこの敷地は、難波宣太郎、木月(もくげつ)さんとも言うんですが、ゆかりの地ですね。
 
白鳥:  彼が、この地を教会堂の地として、
 
竹中:  移って、まだ一握りの小さなキリスト者の集団でしたけども、街のど真ん中の凄い一等地ですよ。もう中心の中心に、こうして教会を建て、幼稚園を造ったということは、その苦心もさることながら、気持が非常に前途を向かっていたと思います。
 
白鳥:  そうですね。じゃ、向こうでお話を伺いましょうか。
 

 
白鳥:  竹中さんが、難波宣太郎という牧師さんを、ずっと足跡を丹念に歩かれ、資料を集めていらっしゃるでしょう。それは何故なんですか。
 
竹中:  かれこれもう十年位、難波宣太郎の勉強をして、それを本に出したりしたわけですが、私はキリスト教というのは、西洋を廻って、日本に来たわけでしょう。たまたまこれは西洋を廻ったわけですが、元々はパレスチナの、広い意味のアジアの一角から出たんですが、西洋を廻って、そして日本に来た。それだけに西洋の文化に、かなりドップリ浸かった宗教なんです。そして、そういう雰囲気と、また考え方というようなものが、キリスト教の中にはかなり強くあるわけですね。しかし、私はこれからのキリスト教を考えますと、日本の土俵の中で、また日本人の心をもって聖書を理解して、そして、日本人の心を通して、聖書のメッセージを、教えを表現する。日本の文化を通して、キリスト教を見直し、また表現することが非常に大事だなあと、私は思っているんです。そういう中に、難波宣太郎という人は、そういう関心をもって、また自然に彼は日本の文化を通して、聖書の教えを表したんじゃないかなあ、と。そこで関心をもって勉強するようになったわけですよ。
                             
白鳥:  この難波宣太郎という方は、「木月道人」というペンネームを使っていますね。
 
竹中:  そうですね。ある人は、「木(もく)」というと、「木(き)」でしょう。「月」というと、「お月さま」ですから、風流ないい名前だなあとこう言うんですよ。しかし、よく調べて見ますと、必ずしもそういう優雅な点だけではないんですね。この地に来て、なかなか伝道が進まなかった。そういう中に、彼はこんな歌を詠っているんですよ。それは、伝道がなかなか進まなかったことをかこっている歌なんですよ。読んでみましょうか。
 
     誰か枯華(こか)に対し独り破顔(はがん)せんや
       霊山(れいざん)の大衆 石心(せきしん)頑(かたくな)なり
 
「枯華」というのは、枯れた華ですよね。だから、枯華を見て、誰が微笑んで笑うだろうか、と。誰もそんなに笑わないよ、と。自分自身が枯華、枯れた華。枯れた華を見て、誰が喜んで笑うだろうか、と。つまり、そういう私はもう古びた華なんだ、と。「霊山の大衆」─霊山というのは、この越後の山々を、綺麗な雪を頂いた山々を霊山と言った。その山々に囲まれた越後の人たちは、石の心である。冷たい石の心で、頑なである、と。
 
      王の装(よそおい)も花の装の貴きに及ばず
        斯の道何(いずれ)の時か世間に通ぜん
 
如何なる装いをもった優れた人たちでも、かの道端の名もない花に及ばない。これは聖書の中に、その歌があるんですね。
 
     栄華を極めたソロモンでさえも、この花の装いの一つに及ばない
 
という、それを引用しているんですね。
「斯の道何の時か世間に通ぜん」─いつこの教えが、この世間の中に通じていくだろうか、と。こういう思いをもって、それで彼は、木曜日と月曜日に路傍に立って伝道するようになったんです。辻説法ですよね。
 
白鳥:  木曜日と月曜日。それで木月さん。
 
竹中:  「木月」のはじまりは、そこからきているんです。
 
白鳥:  しかも、「道人」─道の人。
 
竹中:  そうそう、道の人という。そういう表現を彼は自分自身に名付けたわけです。「木月道人」と。木曜日と月曜日に路傍に立って、彼はキリスト教の教えを伝えたわけですよ、この街で。
 
白鳥:  木曜日と月曜日に、道に立ってキリストを語る人、これが木月道人。
 
竹中:  そういうことでございます。
 
白鳥:  しかし、いいペンネームになっていますね。
 
竹中:  そうですね。そういう形で、また慕われたわけですね、人々から。
 
白鳥:  今、漢詩を引用されましたけども、彼の詠む詩というのは、漢詩なんですか。
 
竹中:  和歌も作っています、中には。しかし、まあ八割は漢詩ですね。それだけ漢籍に、そして、漢詩の韻を踏んだりすることが、非常に長(た)けていたというか、習練をつんでいた人ですね。
 
白鳥:  そして、その当時の写真を見ますと、彼は、キリスト教の教えを説教する時に、和服着ていますね。
 
竹中:  殆ど和服ですね。まあ洋服の写真もちっとは残っていますけれども、例外的なものですね。大体は和服をずうっと着て、下駄を履いて、足で歩いて伝道した人です。だから、私は、木月道人の伝記を書いて、タイトルに、「和服のキリスト者」と付けたわけです。
 
白鳥:  成る程ね。その辺が、先生がやっぱりキリスト教という、西欧的なものを日本化した伝道者として、彼を取り上げた。
 
竹中:  いま私はアジアのキリスト者たちと親しく交わっていますけれども、アジアにおいても、そういう生き方をみんなで大事にし、育てていき、また深めていこうという運動が出てきています。
 
白鳥:  彼は先程の先生のお話ですと、そういうペンネームをもって、絵を描き、詩を書き、書を書く。
 
竹中:  そういう詩と絵と書ですね。
 
白鳥:  その作品がこれなんですか。
 
竹中:  そうなんです。今日は特別に、木月さんと親しく一緒に働いた、Aさんという方がいらっしゃるんですが、そのご家族からお許しを頂いて、木月さんの画集を借りてまいりました。その中に、こんな作品もあるんですよ。お二人はほんとに二人三脚のように助け合ったわけですね。だから、こういうたくさんの絵をAさんに贈ったわけです。ここに、
 
     易曰二人同心  易に曰く、二人心を同じくすれば
     其利断金    其の利は金を断つ
     同心之言    同心の言は
     其臭如     其臭の如し
 
「易に曰く」と。中国の古典の易ですね。二人がほんとに心を一つにすると、このランの花は鋭くなって、金まで切ってしまう、と。
 
白鳥:  「利」というのは、研ぎ澄まされた。
 
竹中:  研ぎ澄まされた。鋭い刃(葉)になる。そして、「同心の言」─心の通った友人たちの間の言葉は、「其臭いの如し」─ランの臭いのように馥郁(ふくいく)と香っている、と。こういうわけですね。
 
白鳥:  このランの葉の筆墨の勢いは凄いですね。
 
竹中:  水墨画では、最初に描くのを学ぶのはランなんですね。「ランに始まってランに終わる」と言っていいです、水墨画は。その中で一番大事なのは、この葉に五つの勢いがある。これはほんとにそういう点でランの研ぎ澄まされた勢いを描いていると思います。
 
白鳥:  「易に曰く」なんて、スッとさりげなく、
 
竹中:  そうですね。
 
白鳥:  中国古典を引用するあたりは、心憎いですね。
 
竹中:  彼は小学校しか出ていないんですね。しかし、それだけの教養を、勿論、それは十分な習練をして学んだでしょうが、身に付けていたんですね。
 
白鳥:  今日は一つこの画帳をもとに、彼の人柄を語って頂きたいと思うんですが、その前に難波宣太郎という方の経歴と言いますか、生まれが?
 
竹中:  生い立ちからいうと、三重県の亀山という城下町です。そこで生まれまして。
 
白鳥:  何年ですか。
 
竹中:  確か慶応元年(一八六五年)です。
 
白鳥:  明治維新の直前、
 
竹中:  ちょっと前ですね。そこで小学校を出て、それから小学校の先生になるんですよ。だから、ほんとにそういう勉強の素養のあった人材だったと思いますね。
 
白鳥:  学歴としては、小学校しか出ていない。
 
竹中:  そして、後は自分で漢籍を学んだり、或いは日本の古典を勉強したりしたわけですね。明治の初めの人たちの素養と言いますか、そういうものにはかなりの厚みがあったんだなあと思いますね。
 
白鳥:  そうですね。いわゆる『四書五経(ししょごきょう)』ということを。
 
竹中:  そうそう。そういうものがしっかり入っていますね。
 
白鳥:  しかも諳(そら)んじているような感じですね。
 
竹中:  そうです。それからたまたまですけども、自分の友人が東京から帰って来て、「こういう本がある」と示したのが、聖書だったんです。それで彼は貪(むさぼ)るように読んで、そして辻密太郎(みつたろう)という人が、津という町にいまして、
 
白鳥:  三重県の津ですね。
 
竹中:  ええ。そこに歩いて教えを受けるんですね。
 
白鳥:  歩いてね。
 
竹中:  そして、そこで洗礼を受けるんですよ。それが二十四歳の時かな。そういうところが、友人を通しての聖書の出逢い。それをまた彼が実直に受けるんですね。
 
白鳥:  この素直さは何なんでしょうね。
 
竹中:  何でしょうね。やっぱり一つそこには貴い、普通の言葉でいうと、彼には、「真理に対する反響板」みたいなものが、僕は備わっていたんじゃないかなあ、と。
 
白鳥:  「真理に対する反響板」、エコーが掛かるんですね。
 
竹中:  そうそう。それに彼は純真に応え、またそれを生涯大事にして貫いた。こういうようなところを、私は難波宣太郎の生涯から思いますね。
 
白鳥:  で、辻さんというこの宣教師から洗礼を受けて、そして、大学になる前の同志社の神学校へ行くわけですね。
 
竹中:  そうですね。辻密太郎という人も大変面白い、個性のある人で、その人の影響で、「自分も同志社で学んだ。伝道者になりたいならば、同志社に行け」と言われて、同志社に学ぶようになるわけです。その頃の同志社といえば、新島襄創立者は、明治二十三年(一八九○年)に亡くなります。だから、彼はそのちょっと後に行くんですね。しかし、新島襄先生の遺風と言いますか、校風というものは十分まだ残っていまして、慕われていました。その新島先生が言われたことの中に、「自由教育」「自治教会」「両者併行」「国家万歳」という、そういうモットーがあるんです。つまり自由教育なんですね。自由教育というのは、勝手に何をしてもいい、と言うんじゃなくて、それぞれの人の個性を尊重して、そして、それぞれの人の成長をはかる。そういう意味の自由教育。自治教会というのは、それぞれの教会が自主独立を保っていく。こういう二つを、新島襄という人は生涯の目標の柱にしたんですね。それは難波宣太郎という人の中に背骨のように貫かれていますね。
 
白鳥:  なるほど。
 
竹中:  そして、伝道の生涯に入るわけです。
 
白鳥:  最初が丹後の奥の方でしたか。
 
竹中:  奥の方です。綾部に、ある殿様、士族の娘さんである「とき」という人─押尾ときという人です。その人と結婚するんですね。彼の友人の推薦で、ときさんと結婚して、そして、二人で手を携えて丹後の伝道に行くわけです。このときさんという人はまた芯のある優しさの中にも凛々(りり)しいところのある女性でしたね。小さいところの教会の伝道というのは非常に難しい。雨の多い、湿気の多いところですが、しかし、その中に、やっぱり彼の周りにいろいろ絵を描いたり、詩を創ったりする仲間が出てきましてね。地方の有力者も入りました。郡長さんも入ってきて、「天狗会」という、みんな鼻天(はなてん)なんですよ。自分のやっていることを、我こそわ、と威張っている。互いにけなしあって、そして、仲間作りができて、そして、その人たちがまた聖書を勉強するようになって、キリスト教に入るというようなこともございました。私は、文化というものは深く土壌に、掘りものだと思いますね、カルチャー(culture)と言いますね。それはカルティべート(cultivate)。だから、地を掘っていくことによって、文化というものは豊かになると思います。だから、難波宣太郎というのは、日本の文化を掘っていって、そして、キリスト教の花をそこに、或いは木を植えていって花を咲かす、と。そういうふうに思います。
 
白鳥:  カルティべート、そうですか。彼は丹後の教会で十年を越えて、
 
竹中:  十一年位いましたかな。
 
白鳥:  それから後、北海道へ。
 
竹中:  北海道も初めは函館。で、着いて、間もなく大火、火災にあうんですよ。で、そして、また教会堂を焼いて失うわけです。そして、それを建て直す。
 
白鳥:  再建する。
 
竹中:  再建する。これは大変なことでした。しかし、それも非常にいい仕事をして教会堂をいち早く再建して、それから岩見沢(いわみざわ)というところに招かれていくんですね。いずれも雪深いですね、相当離れた場所で、困難な状況で伝道するんですね。
 
白鳥:  そして、大正六年、彼が五十を越えた頃に、
 
竹中:  五十二歳位ですね。
 
白鳥:  新潟というか、新発田に、
 
竹中:  一九一七年、この新発田の地に来るんですね。六月に来てすぐに、もう一ヶ月経つか経たない時に、自分の娘を亡くすんですよ。
 
白鳥:  あ、此処で。
 
竹中:  ええ。来る時から、大分病気でしてね。その病身の娘を励ましながらね、乗り換えながら、やって来るわけです。そして、一ヶ月経つか経たないかのうちに、娘が亡くなるんです。その涙の中に、彼は祈る。また伝道を進めるんですね。だから、伝道というのは、彼にとっては、娘の一つの弔い合戦みたいなものだったんですね。そして、絵を描いて、悲しみを、ある点では紛らわし、また詩を創っては想いを発散されて、そして、そういうものをみんなに、ある点では評価されて、買ってもらって、そして、教会堂を造っていったわけですよ。
 
白鳥:  経済的な意味でも、この教会堂を建てるための、やっぱり基礎資金になっていた。
 
竹中:  幼稚園の、これはずっと後ですけれども、屋根が雪で、その頃は大雪降ると屋根が潰れますね。他でそういうことがあったというので、そういう修理のためにやっぱり彼の書画が役に立っていますね。
 
白鳥:  まあ見せて頂きましょう。
 
竹中:  これは、新潟の新発田の地方には、いろいろ豊かな自然に恵まれています。そういうところに、彼は釣りをしたり、或いは山野を歩いたり、楽しむわけですよ。そういうところの絵の一つがここにございます。ちょっと見て下さいますか。おそらく新発田の近くの川だと思いますが、
 
     世事誰言    世事(せじ)誰か言ふ
     一切空     一切空なりと
     観来柳緑    観じ来る柳は緑
     又花紅     又花は紅
     清風明月終   清風明月終(つい)に
     無尽      尽くるなし
     流水青山古今同 流水青山今古同じ
 
という。流れる水も、青い山も、昔ながらにちっとも変わっていない。柳は緑、花は紅、と。非常に長閑(のどか)な思いで、大らかにですね。彼はここに釣りをしている人を描いていますけど、自分自身でしょうな。そういう新潟の麗らかな自然の中で、彼は楽しんでいたんですね。「世事」というのは、世のことですね。「一切」というのはすべてですね。「空なり」というんです。「空」というのは、ある点では無にも通じますが、すべてが虚しい、と。これは仏教の思想の中にはあるんですね。しかし、彼はキリスト教の牧師ですから、キリスト教にも、そういう考え方があるわけです。
 
白鳥:  そうなんですか。
 
竹中:  『旧約聖書』に、「伝道の書」というのがあるんですよ。それを見ますと、「伝道者が曰く」とこういうところがありまして、
 
     空の空、空の空一切の空なり
 
という言葉がございます。私は、それは木月さんは、『旧約聖書』の「伝道の書」から、「すべてのものは空である」ということを書いて詠っていると思います。
 
白鳥:  東洋の思想、或いはインドの思想の中に流れていた空の感覚と、キリスト教のいう空の概念と、なんか繋げて考えようとする努力ですね。
 
竹中:  やっぱり「柳は緑、花は紅」という表現を見ても、これも禅の表現ですし、「十牛図(じゅうぎゅうず)」の中にも、そういう表現がございます。木月さんはそういうことをよく知っていたと思いますね。そういうものが自然な形で、自分の宗教であるキリスト教の経典の中にも、「空の空なり」と。すべてのものは空である、ということ。自然の形で表現しているところが、私は面白い表現だと思っています。
 
白鳥:  そうですね。
 
竹中:  私は、東洋の水墨画の伝統というのは─これは水墨画ですけども─絵というものはイメージですね、詩はメッセージですね。ですから、メッセージとイメージは、水墨では一つなんですよ。だから、絵が一つ独立しているんじゃなくて、或いは書なら書で、詩なら詩が独立しているんじゃなくて、絵を描いて、詩を詠む。詩を書いて絵をやる。だから、そういう点では、イメージとメッセージが一つなんですよ。それだから、「花を描く時には、花の匂いを描きなさい」「鳥を描く時は、鳥の歌を描きなさい」「滝を描く時は、滝の音を描きなさい」と言いますね。水墨画ではこう言うわけですよ。その歌というのが詩になっているわけですよ。だから、そういう点では面白いと言いますね。メッセージとイメージが一つになって相こだましていると、そう思いますね。
 
白鳥:  これは牡丹の花。
 
竹中:  そうなんですよ。
 
     春色九分過   春色九分過ぐ
     一枝遅者何   一枝遅きは何ぞや
     世間称富貴   世間富貴を称ふ
     花咲曰呵々   花咲いて曰く呵々(かか)
「春色」と言いますね、春の色。春色九分過ぎた、と。つまりやっぱり雪国ですからね。春待ち遠しいわけですよ。だから、梅、桃、桜、みんな済んだ、と。しかし、「一枝」─一つの枝が、「遅きは何ぞや」─遅いのはなんであるか、と。「世間富貴を称ふ」─富めるものだとか、貴いものだとか、というものを称えている、と。「花は咲いて曰く、呵々」という、アッハッハというんですね。まあ一つの遅咲きの花に籠もるところのゆかしさと言いますか、愛らしさ、と言いますか、貴さを詠っているわけですよ。
 
白鳥:  成る程。
 
竹中:  我々は、なんか「走り」と言いまして、早く出てきたものや、或いは、一番先に着いたものを非常に珍重するんですよ。それはある点では当然でしょうけれども。しかし、木月さんの心からすれば、遅く咲いたものにも、同じような神様の恵みがあるんじゃないだろうか、という気持が入っていると、私は思います。だから、遅咲きの牡丹に、神の視点からすれば、或いは、もう少し人間を超えた視点からすると、同じゆかしい、美しさが宿っているんだ、と。それはまた花だけではないんでしょうね。
 
白鳥:  そうなんでしょうね。
 
竹中:  焦ってはいけない、と。
 
白鳥:  自分に言い聞かせていたのかも知れませんね。
 
竹中:  聖書の中に、「マタイによる福音書」というのがございますけど、その中に、「葡萄園(ぶどうぞの)の喩え」というのがあるんですよ。これは、「マタイによる福音書」の二十章というところにあるんです。ある労働者は九時にやって来た。もう一人の労働者はお昼にやって来た。ある人は夕方四時頃やって来た、と。しかし、終わりになりますと、葡萄園の主人は、みんなに同じように賃金を払った。そうすると、当然早くから来た者は、文句をいうわけですよ。「何で早くから働いているのに同じにするんだ」と。そうすると、葡萄園の主人は、「この最後の者に同じように与えるのが私の心である」と、こういうわけですね。だから、遅咲きのものにも、同じような恵みが宿っているんだ、ということを、木月さんは、その葡萄園の喩えを、今度は牡丹の遅咲きの花によせていると、私は思います。
 
白鳥:  すべて漢詩の中には、福音の言葉が含まれている。
 
竹中:  そういう通じるものが、背景にあると思いますね。
 
白鳥:  そうですか。
 
竹中:  最後が非常に面白いですね。花が笑う。花に言葉を与えているんですね。アッハッハと笑っているんですね。何を言うか、俺たちが、こういうね。
 
白鳥:  「呵々大笑(かかたいしょう)」の「呵々」ですね。
 
竹中:  面白いですね。ユーモアがあります。此処には絵をもってきませんでしたけれど、彼はよく竹を描いているんですね。晩年にこんなことがありました。彼の甥がですね、先程、丹後の網野の方で、仲間に出会った一人の人なんですけども、その人が後に仏教の坊さんになります。そして、「おじさん、おじさん」と言って、彼のところを繁く訪ねて来るんですね。もうその時は、彼は晩年でした。「なんか一つ、おじさん、絵を描いてくれ」と言ったら、「お前、何を描いて欲しいか」と、こういうんですね。そこに、『菜根譚(さいこんたん)』(儒教の思想を本系とし、老荘・禅学の説を交えた処世哲学書。明末の儒者洪応明著)という中国の古典がございます。その一節に竹についての歌があるんですよ。それを読んでみますと、
 
     風疎竹(そちく)に来たる
     風過ぎて竹(たけ) 声を留(とど)めず
 
彼は竹を描きまして、「風過ぎて竹声を留めず」と、そこに書いたわけです。彼はそういう竹に通う風というものを非常に大事にし、また愛好していたんではないですかね。
 
白鳥:  しかし、聖書の生まれた風土の中では、竹というのはあまりないんじゃないですか。
 
竹中:  そうですね。厳密にいうと、そんなんです。しかし、竹というのは、日本では、一つの精神性を表す。勿論、いろいろな柄杓(ひしゃく)とか、花入れとか、建物とか、壁なんかに、或いは、塀なんかによく使われていますね。そういう用具としての竹と、もう一つは、精神性を表す竹と、いろいろあると思います。仏教のお寺に行きますと、竹垣があり、そして、竹の庭があるわけですね。
 
白鳥:  そうですね。竹ー竹林というのは用意されていますね。
 
竹中:  そして、よく描かれておりますものは竹林ですね。「竹林」に「清風」ー清い風が来るとかね。「竹」と「風」というものは、非常に一対をなした。だから、木月さんが詠まれて、
 
     風過ぎて竹 声を留めず
 
という、これは、『菜根譚』からきているんです。その表現というものは、木月さんの心を打った。そのことを、私はキリスト教から考えますと、風というのは、これは一つの精霊という、霊の働きですね。風というものは、精霊の働きである、と。そういう考え方が聖書の中にございます。具体的に申しますと、「ヨハネによる福音書」の三章の初めに、夜ひそかにニコデモという人─この人は上院議員のような、かなり歳取った経験のある、当時の指導者─ひそかにイエスのところに来るわけです。そして、「なんとか神の国に入りたい。神の国に入るのにはどうしたらいいか」と。イエスは曰く、「人新たに生まれずんば神の国に入る能わず」とこういうわけですね。ニコデモは、「自分はもう歳を取っているので、何で私が母の胎に入って新たに生まれることが出来ますか」と、そういうふうにいうわけですね。そうすると、イエスは、「誰でも霊と水によって新たに生まれることが出来る」ということをいうわけです。謎のような問答なんですね。そうすると、ニコデモはそれがよく分からないんですね。そうすると、イエスは、例えて、「あなたたちは風を見ているだろう。風が吹いて、そして風は去っていく。しかし、それを見ていない。霊のこともそういうかくの如し」といっているわけですね。風というものが、そこでは精霊の働きというふうに解釈されているんです。「竹の林は清風を招く」という、そういう言葉もあります。「竹林清風を招く」というように、表現されていますが、木月さんはクリスト者として、竹の林に通う風を非常に大事にした、と私は思っています。
そこでちょっと思い出しますのは、鎌倉にある由緒ある千三百年からのお寺ですけれども、報国(ほうこく)寺というお寺がありまして、これは別の呼び名では、「竹寺」とか、「竹の庭の寺」とか言われて、お庭に凄くたくさんいろんな種類の竹がある有名なお寺です。つい一ヶ月ばかり前に、そこの住職の菅原義久住職に招かれまして伺いました。先代の菅原義道住職の描かれた竹の素晴らしい絵があるんですよ。その横にこういう書がありました。
 
     高節虚心(こうせつきょしん)
 
高くて節操を保っている。高くスッとして節を持っている。「虚心」と書いてあるんですね。それに私は非常に感銘しましてね。つまり、「竹幹虚心(ちっかんきょしん)」という言葉もあるんです。竹の幹をポッと切りますと、そこには空洞なんですね。それは虚心だ、と。何もいろいろな、「儂が、儂が」というような欲望のあるそういう世界ではなく、空洞なんです。無の世界です。
 
白鳥:  心を空(むな)しゅうするという。
 
竹中:  私はそこで、キリスト者として、イエスを考える場合に、イエスはどういう人であったか、と。そうすると、キリストは、神と同じに立っていたけれども、おのれを虚しくして、人間の姿をとって、僕(しもべ)の形をとって、十字架の死に到るまで、従順であった、という。これは、「フィリピ人への手紙」にあるんです。この僕の形をとって、おのれを虚しくして、十字架に到るまで従うという。これは、竹の幹の中の空洞さというものが、我々に、心を虚しくしてキリストに従う、ということを現しているんじゃないかなあと、私は思っています。
 
白鳥:  成る程。日本でこそ、ほんとに竹というものが、私たちの身の周りにあるし、それを例える時に、非常にいい植物なんですね。
 
竹中:  そうですね。今、アジアのキリスト者の中にも、聖書を読んで、そういうキリスト論と言いますか、キリストは高いところに居て、崇(あが)められている王なるキリスト、というんじゃなくて、そういう高いところにいって、神と等しくあったんだけれども、僕(しもべ)になって、もっとも人間の低きについて、十字架に到るまで、我々を引き付けておられる。我々のために死んでおられる、と。「キリストは心を虚しくして、僕になって、我々のところに人間となられた」ということを強調している考え方があります。それに通ずると、私は思っています。
 
白鳥:  難波宣太郎は、それを竹の絵に、そして、先程の言葉で表された、と。
 
竹中:  まあ竹が出ましたから、ちょっと梅の話もしてみたいと思いますが。「松竹梅」と言いますね。梅についてのちょっと長い掛け軸がありますので、ご覧頂きたいと思います。そこに書かれている歌があります。
 
     清風千古傑   清香千古(せんこ)に傑(すぐ)れ
     豊艶百花王   豊艶(ほうえん)百花に王たり
     二者同時到   二者同時に到って
     春風満草堂   春風草堂に満つ
 
「清香千古に傑れる」と。清い香りはずっと長い長い間、千年保っている、と。「豊艶百花に王たり」─その艶と言い、豊かさと言い、もうすべての花に、王のように 尊ばれている、と。「二者同時に到って」─この「二者」というのは、梅と、そして下の方に牡丹が描いています。「二者同時に到って」─同時に咲いて、「春風草堂に満つ」と。これは北陸らしい、と僕は思うんですよ。やっぱり花が同時に咲く。梅と牡丹は同時に咲いて、草葺きの我が宿を臭わしている。満ち満ちている、と。こういうところが面白いと言いますか、優雅な木月さんの水墨の掛け軸です。
木月さんの心情としては、こういう梅も、或いは牡丹も非常に素晴らしい。しかし、私は名もない野の花である。野の草である、と。そういうことを言っていますよ。ですから、彼はそういう牡丹などを愛しているけれども、同時に自分は、そんな華やかな花ではなくて、名もない野の草で、それが自分なりの花を咲かせるんだ、と。芭蕉で言えば、「山路来てなにやらゆかしすみれ草」という、そういう世界を彼は理想としたんですね。
 
白鳥:  成る程ね。そういえば、彼の描いたものの中に、割りに生活的な素材というのがあるじゃないですか、大根とかなんか。
 
竹中:  それはまた面白いし、現在的な意味をもっていると思うんですよ。都会の我々は、肉食生活と言いますか、そういうものにドップリ浸かっている中に、大根と言いますか、そういうものを、彼は大事にしていた、と思いますね。ここにございます。
     吾根人若咬   吾根(わがこん)人若し咬めば
     百事便成    百事便ち成る
     梁肉敗心腸   梁肉(りょうにく)心腸(しんちょう)を敗(そこな)ひ
     田園生潔士   田園潔士(けっし)を生む
 
だから、私の根を食べればすべてのことはなりますよ、と。「梁肉心腸を敗ひ、田園潔士を生む」─つまりそういう素朴な農村から、清らかな人は生まれてくる、と。こういう感じですよ。今日的な意味も、私は非常にある、素朴な作品なんだと思います。
 
白鳥:  一種のベジタリアン(vegetarian:菜食主義)。
 
竹中:  根のある野菜に、非常にアクセントがあるわけですね。私は、今の時代に、非常に便利さとか、効用というか、能率ですね、そういうものが非常に尊ばれている時代で、そういうところに、人はあっちにいったり、こっちにいったりするわけですね。根を持たなくなっている。根が浅いんですね。
 
白鳥:  根無し草。
 
竹中:  根無し草に成りつつある。そういう中に、彼は一所懸命大根を描いて、「田園潔士を生む」と言って、そして、贅沢な肉を食べていると、人の心、或いは人の腸が破れていく。損なわれていく、と言ったわけですね。
 
白鳥:  もう一つ、彼は、先生のお書きになった伝記を読んでいて、思うんですけれども、あの時代の人にしては珍しくほんとに家庭を、妻と子を凄く大事にしていたなあと思いますね。
 
竹中:  そうですね。よく彼を知っている人が、「木月さんも偉いけれども、やっぱり木月さんと共に歩んで、支持していた奥さんが偉い」と。「或いは、木月さんのお母さんがよく出来た人だ」と。そういうことを言っている人もあります。私は、その家庭が素朴な中にもゆかしさがあった。特に、ときさんというご婦人は、忍耐強く、しかし、非常に豊かに、貧しさの中にも夫を思い、子どもたちを育てていった人だ、と思いますね。晩年にある親しい人が、「あなたはたくさんいろいろな歌を創るけれども、奥さんに対する感謝の歌はどっかないのか」とこう言ったんですね。そうしたら、彼はそれに応えて、奥さんについて詠った歌があります。その一つを読んでみましょう。
     天(あま)が下をたとひくまなくさがすとも
       よりよきつまはあらじとぞおもふ
 
という最大の賛辞を奥さんに捧げています。
 
白鳥:  ちょっと漢詩も書いていますね。
 
竹中:  漢詩でね。確かあれは金婚式だなあ。五十周年の、
 
白鳥:   婚を成して茲に五十歳
      苦楽甘酸にも 嘗てたがはず
      卿若し存せずば 吾もまたなからん
      余生なほ願ふ 相離るることなかれ
 
竹中:  そうですね。最後のところは、切々なる願望ですよね。終わりは、死ぬ時は一つ、私より先に死んでくれるな、と。相はなれるることなかれ、と。そういう歌を五十周年の金婚式に歌える人は幸せですね。
 
白鳥:  そうですね。もしあなたが居なかったらば、私は無いだろう、と。ここまできちんと言葉にして、奥様に捧げるこの優しさというのは、この当時としては非常に珍しいですね。
 
竹中:  それから、ゆかしいご家庭の雰囲気を現すものとして、こういう絵もあるんです。これも非常に珍しくて、木月さんの自分の姿がちょっと出ているんですよ。
 
白鳥:  薄く描いてありますね。
 
竹中:  こちらに帯を締めている和服の女性が、お嬢さんなんですね。それはおそらくせつさんというお嬢さんで、一番末の娘であったと思います。
 
     桜か あらず
     これからひらく
     百合の花
 
と書いてあるんですね。つまり、桜というのは、勿論美しい桜を我々は楽しみにして待つわけですけれども、早く散っちゃうわけですね。後は葉がパッと咲いてきますから、「姥(うば)桜」なんという言葉があって、女性に対しては、桜というのはあまりよくない。そうじゃないよ、これから開く百合の花。こういう中に、ほんとに娘を愛しんでいる。そういう思いがほほえましくも出ていますね。
 
白鳥:  こういう変体仮名なんかも、サラサラと書いていますね。「桜か あらず これからひらく 百合の花」。
難波宣太郎は、昭和十年(一九三五年)に、この新発田の教会を去って行きますですね。
 
竹中:  そうですね。足掛け十九年。その思い出を残して去るわけですが、せっかく名古屋まで着きましたら、火事があるんですよ。昭和十年九月十三日だったかな。火事になるんですね。彼はまた夜行で帰ってくるんです。みなさん方にお見舞いをして、また夜行で帰るんです。それから京都の南に隠退します。
 
     わが庵は京都の南新田(しんでん)の
       でんでんむしと人はいうなり
 
こう詠っているんですね。「新田(しんでん)」というのは、「新田(にった)」と書くんですよ。それを「しんでん」と読んでですね、京都の南の、今で言えば、田辺のちょっと北ですが、そこに庵を結ぶんですね。
 
白鳥:  これも東洋的な隠退ですね。
 
竹中:  そして、隠退すると、同時に遊行(ゆぎょう)するわけですね。つまり、インド的な人生の区切りからいうと、書生があり、そして、家で主人になり、それから隠退して、そして遊行(ゆぎょう)するという。遊行というのは、あちらこちらに、山野を巡り歩き、或いは友人を訪ねて、旅をしながら、風物を愛(め)で、そして、人々に奉仕する、という。勿論、遊行の生活します、奥さんと一緒に。
 
白鳥:  そうなんですか。
 
竹中:  暫くそういう時を過ごしまして、昔の旧友に招かれるままに、そして、筆のおもむくままに、絵を描き、人々に書を贈り、ある時は山陰の竹野というところの近くの蓮華寺に招かれて、真言宗のお寺ですけれども。
白鳥:  仏教のお寺?
 
竹中:  仏教のお寺へ招かれて、一ヶ月半位、奥さんと二人で泊まって、蓮華寺の本堂の襖絵を描いています。蓮華寺には、そこには木月夫婦(めおと)塚という、ご夫妻を記念した塚を建っているのも、私は非常に面白いことだと思っています。
 
白鳥:  もうそんなに宗教の宗派なんかも超えた形の一種の交流、文化的な交流というんですかね。
 
竹中:  そうですね。そして、昭和十五年(一九四○年)、脳出血によって半身不随になるわけです。そして、約五年間、彼は病床で過ごすわけです。今日の言葉で言えば、「リハビリ」と言いますね。自分の家に綱を張って、そして、竹の柱を置いて、それで掴まりながら歩く練習をする。そして、それでも筆をとっては一所懸命描いていますね。もう進んでいく直線的な線は描けないんですね。だから、点で、点描法というような、点で描くようなことをして、また味わいのある歌や絵を残していますね。
 
白鳥:  そうですか。最後までそういう意味ではメッセージを送り続けた。
 
竹中:  そして、人間は晩年になると、自分の故郷のことを思いますね。或いは自分が育った学校のことを思います。友だちのことを思いますね。だから、一つとしては、あれは昭和十九年、亡くなる一年前ですけれども、戦争の厳しい時ですよ。彼は、自分の育った母校の同志社大学の神学部に宛てて、八十歳の彼が、母校に残した歌と絵がございます。そういうふうにして、終わりまで母校愛をもっていたということもゆかしいことだと思います。
 
白鳥:  そうですね。先生が最初におっしゃったんですけども、つまり外来の、特にヨーロッパを経由してきた思想、あの頃は一種の文明開花の一つの証としてのキリスト教、そういったむしろ外来性を大事にするような文化風土があったんでしょうけども、それをあくまでも日本化しよう、或いは日本人として受け止めようという、この迫力と言いますかね。
 
竹中:  それをごく自然に。だから、良寛や西行や芭蕉が野山を散策し遊行し、そして、貧しい人を助け、また歌を創り、そういう気持が難波宣太郎の中に終わりまであったんですね。だから、遊行をしていったわけですね。これがキリスト者としての「遊行の牧師」と言ってもいいでしょうね。そういう点が面白いことだと思っております。
 
白鳥:  そうですね。
 
竹中:  晩年、そういう遊行も出来なくなって、彼は病床の中に五年間、ある点では呻吟(しんぎん)しますね。そういう中にも歌を詠っているんですね。そして、すべてのものは取られても、どうぞ私からこの山野を描くところの権利は奪わないで下さい、という歌も病床で詠っています。そして、昭和二十年(一九四五年)五月六日に召されて逝きます。その時に、彼が辞世の句を詠んでいるんです。こういう句です。
 
     花にくれて家路にむかう心地かな
 
遊行の旅を終わりて、花は十分に見せて頂いた。私は天国にこれから旅しますよ、という。まあ非常にゆかしい。こういう心境で人生を終われる人というのは、幸せというか、羨ましいような感じも致しますね。
 
     花にくれて家路にむかう心地かな
 
白鳥:  どうも有り難うございました。
 
竹中:  失礼しました。
 







 

平生かくの如きは富か貧か
貧もまた憂へず春は自ら春なり
春夏秋冬 花また雪
随時、随所、天を楽しむの民
     難波宣太郎
     (木月道人)
 
 
 
     これは、平成十四年四月二十八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである