吉野の自然と対話する

 
                              歌 人  (まえ)  登志夫(としお)
                              ききて 峯 尾  武 男
 
峯尾:  奈良県南部に幾重にも山々が連なっている吉野。山紫水明(さんしすいめい)の地である吉野は、古代から聖なる地として崇められてきましたが、古く飛鳥時代から、大和朝廷の離宮があり、奈良時代から山岳信仰修験道の根拠地になりました。そして、役行者(えんのぎょうじゃ)が蔵王権現(ざおうごんげん)を桜の木で彫って本尊としたことから、この地は桜の名所になったと、今に伝えられています。麓から、下(しも)千本、中(なか)千本、上(かみ)千本、奥千本と称せられる数万本の桜が、谷や尾根を真っ白に埋め尽くします。飛鳥の白鳳時代の基を開いた天武天皇は、この吉野に隠棲して、壬申(じんしん)の乱で決起しました。その後、後醍醐天皇の南朝の王朝がこの地に設けられ、政治の中心舞台になったこともありました。そして、吉野は、万葉人などが優れた歌を詠んだ風土としても知られています。奥千本の谷間には、西行(さいぎょう)(平安末、鎌倉初期の歌僧:1118-1190)が三年ほど侘び住まいをした、小さな庵が残されています。西行(さいぎょう)を師と仰いだ松尾芭蕉は、この地を二度にわたって訪れています。この桜の吉野山から、南西部の吉野の山里に、歌人の前登志夫さんが住んでいます。四月半ば、桜の見頃が過ぎようとしている時期にお宅に伺いました。
 

 
峯尾:  今年は全国的に、桜が早かったですね。今この辺り、ほんとに新緑が綺麗で、鳥も随分此処へやってくるんじゃないですか。
 
前:  多いですね。この庭の梅の木は、この間からキツツキが来て、とうとうまた一つ穴開けましたね。
 
峯尾:  あれ、キツツキが穴を開けるということは、そこをねぐらにしようとしてとか、そこで子どもを生む、ということですかね。
前:  どうでしょうかね。虫を捕ったり。
 
峯尾:  やはり吉野の魅力というのは、そういう豊かな自然というのが一つ挙げられるでしょうね。
 
前:  まだ自然が残されているのは有り難いですね。それから歴史というか、それが深いというのか、重層しているといいますかね。特に、歌の言葉の深さ、はるけさというようなものは、これはやっぱり特色といってもいいでしょうね。
 
峯尾:  前さんは、この吉野に惹き付けられて此処へお住いになったのではなくて、こちらのお生まれなんですね。
 
前:  あんまりそういう意識はなく、自分の産土(うぶすな)というのは、外から見るようには、見ることは出来ませんからね。自分と一体化しておりますから。後でいろいろとそれは整理していくとしても、もっと未分化─分けられない─自分の無意識のもの、或いは、自分の生理と結び付いたものであったわけですが、今にしてそれは僕にとって、幸いだったかなあ。恩寵(おんちょう)なんて言ったら、ちょっと大袈裟かも知れませんけど、悪くなかったかなあ、という思いがありますね。なんか吉野がもっている、この混沌としたものとか、魑魅魍魎(ちみもうりょう)がいっぱいいるような、まあ言ってみれば、今でも古い日本の古事記の序文には、生尾人(せいびじん)─尻尾が生えた半人半獣(はんしんはんじゅう)の人が走っているところを描かれているような、そういう風土ですが、言ってみれば、異形(いぎょう)のもの─異なった形の世界というか、まあ単純化して言えば、鬼の世界と言いますかね─鬼と言ったらちょっと恐いかも知れないが、デモーニッシュ(damonisch:鬼神に憑かれたさま)な世界ですね。そういうものがもっている、なんか恐ろしさと同時に、豊かさというか、そういう異界がもっているなんか普通の常識では考えられないエネルギーというようなものも、経験的に分かってくるようになって、だんだん填(はま)ってしまう、という言葉はおかしいかなあ、産土の土地でありながら、今度は自分がそこへやって来る旅人のような気持ですね。そういう気持で棲み始めた、といってもいいかなあと思いますね。
 
峯尾:  この吉野の地で、前さんが特に自然との対話という意味で詠まれた歌を、今日は後ほどいくつかご紹介しますが、その前に多くの先人が吉野で詠んだ作品の中から、今も前さんの心に残っているもの─ごく絞って頂きましたけれども─それを選んで頂きましたので、ご紹介しますので、それについてまたお話をして頂きたいと思います。まず、最初に、天武天皇の、
 
     良き人のよしとよく見てよしと言ひし
       吉野よく見よ良き人よく見
             (天武天皇)
 
前:  やっぱり吉野の代表歌と言ってもいいんじゃないかなあ。初めのうちはちょっと語呂合わせみたいでね。いい気分での宴の歌でありまして、なんとも感じなかったんですけども、しかし、ずーっと歳月を経ているうちに、「記紀歌謡(ききかよう)」以来のずーっと歌の、日本の詩の歴史を見ているうちに、やっぱりこれは凄い歌なんだなあ、ということがなんとなく分かってまいりました。というのは、一種の国見歌で、吉野の土地を誉める歌であるし、同時に、一つの、この「よき、よし、うく、よき、よし」とこう言っているところに何かこう咒歌(じゅか)性という、そういう神々と人間との境から出てくる言葉の質と言ってもいいかなあ。そういうものが感じられましてね。
 
峯尾:  次ぎに額田王(ぬかたのおおきみ)(斉明朝から持統朝にかけての女流歌人)の、
 
    吉野より苔生せる松が枝を折り取りて遣る時に、額田王が奉り入るる歌一首
      み吉野の玉松(たままつ)が枝(え)は美(は)しきかも
        君が御言(みこと)を持ちて通(かよ)はく
            (額田王)
 
前:  これも味わいありますね。このお歌だけが送られてくる。もちろんそれだけでも言霊(ことだま)ですから大変なんですけども、亡き天武帝の皇子の一人である弓削皇子(ゆげのみこ)から、苔をむした吉野の年ふりた松の枝。それとともに歌を送っていただいたというのが、なかなか味わいが深いですね。ですから、松というのは─今や全国的に松枯れしていますけども─やっぱり目出度い樹木とされておりました。近代、明治以後になって、白樺とか、なんかもっとヨーロッパ的なものが恰好いいように思って、松というのはなんか「お松さん」という感じで古くさいように思いますが、やっぱり深い自然の生命を伝えるものでしょう。まさに、「玉松が枝は」玉松の枝というのは、素晴らしいなあ。あなたのお言葉、それをもって私に運んでくれたんですから、というこういう歌ですね。つまりこれはやっぱり自然の言葉が、単なる言葉だけでなしに、言葉が自然の生きているものと一体であるということを、何か物語っているようにも思いますね。
 
峯尾:  そして、万葉から時代が下って、中世、この吉野に三年ほどの侘び住まいした西行の作品から、前さんから選んで頂いたものを、まず私が読まして頂きます。
 
     よしの山やがていでじとおもふ身を
       はなちりなばと人やまつらむ   (西行)
 
前:  今年のように、花が早く咲いてしまって、それで早く散りますと、ほんとになんか落ち着かない春でしたね。本来、日本人は、千数百年に亘って花の散るのを、もう咲く時から、散るのを惜しみましたがね。ちょっとなんとしても早すぎますが。今から八百年前の西行は、大変桜が好きで、桜の花を愛(め)でました。ですから、花が散ってしまったら、円位(えんい)さんは─「円位(えんい)」というのは西行の法名ですけど─また都に戻ってくるだろう、と。その隠遁者の友だちは、私の帰りを待っているだろう、と。ところがこのたびは、吉野を出ないで、暫く吉野に隠棲して、仏道修行をしようと思っているのに、友だちは待っているだろうなあ、と。花が散ったら、円位は帰って来るだろうと、待っているだろうなあ、という歌ですね。
 
峯尾:     とふ人もおもひたえたる山ざとの
           さびしさなくばすみうからまし
 
前:  これもやっぱり山里の草庵の暮らしの歌です。山住みというのは、西行の一番大きな主題でしたが、いろいろ鳥の声が聞こえたり、せせらぎの音がしたり、いろいろでしょうけれども、一番の中心は、寂しさですね。侘びしさといってもいい。そういう寂寥(せきりょう)─「さびしさなくば」─もしも友だちがたくさん来て、賑やかに楽しかったならば、もうそこも厭になってしまったであろう、と。「さびしさなくばすみうからまし」─住むのも厭になったであろう、と。独り寂しく暮らしたんですね。寂しく暮らしたんですけど、人間というものは、そういうもので、やっぱり人懐っこいのですよ、どっかね。ですから、一方では、
 
     淋しさに堪えたる人のまたもあれな
       庵ならべむ冬の山里
 
わたくしと同じように寂しさに耐えている人がいてほしいものだと言っているんですね。草庵の暮らしの「さびしさ」がなければ山住みの隠遁生活もつまらないと言いつつ、やはり淋しいのですね。そういう友だちがいたならば、一緒に庵を並べようじゃないか、と。同じ四季のうちでも一番寂しい冬の山里でと、こういうふうに言っております。それは同時に、
 
     山ふかくさこそ心はかよふとも
       住まであはれは知らむものかは
 
山里の暮らしに、みんなはいろいろに思って下さるだろうけれども、そこに住んでみないと本当の山住みの淋しさは分からないんだ、と。いろいろ理解する、或いは、憧れる。いろいろするけれどもそうなんだ、とまで言っておりますね。これは先程、峯尾さんがおっしゃった五百年後のお弟子ですけれども、この元禄の芭蕉は、私たちから見て三百年前です。私たちの方が実は芭蕉さんとの間はたった三百年です。芭蕉からみたら西行さんは五百年も昔の人です。時間の質が違うとは言え、やっぱりそれは非常に深い問題になるんですが、文学の伝統とか、その歴史が重層しているという吉野などにやって来ると、五百年前とか八百年前がもうすっかり昔だという感じがしないんです。その辺りで、まだ西行さんが、ヒョロヒョロとそこらの岨径(そばみち)を歩いているような感じがするんですね。芭蕉は、これについてたしか、『嵯峨日記』の中で、
 
     「さびしさなくばうからまし」と西上人(さいしょうにん)のよみ侍(はべ)るは、
     さびしさをあるじなるべし。
 
「あるじ」は主人ですね。「さびしさをあるじなるべし」なんていう言い方、つまり、一番のテーマ、主題は寂しさなんだ、と。こう言っておりますね。僕などは、あまり寂しいと呆けてきて一遍にダメだと思います。中世の人って馬鹿に強いですね。それを支えているものは自然もあるでしょうね。自然の豊かさ、そういうこともございますでしょうね。
 

 
峯尾:  この吉野という土地に、前さんの先祖が居を構えたのは、千年以上前のことだと伝えられています。前さんの推定では、山岳信仰の修験者がこの山に棲みついたのが、前家の由来だろうということです。前さんは、学校に通ったり、日本各地を遍歴した数年を除いて、吉野を離れませんでした。家業を継いで、山林の手入れをしたり、吉野の古い村々の民俗・風習や歴史を訪ね歩いたりしました。五十歳から二十年ほど、大阪の大学で、万葉や古典詩歌の講義をもって、週に三日ほど都会暮らしをしていましたが、歌作りや執筆などの仕事の基盤は、この吉野の山中に置いてきました。早くから、「山霊(さんれい)の詩人」とか、「吉野の山人(やまびと)」とか呼ばれてきました。
 

 
峯尾:  前さんは、歌を詠まれるようになる前は、詩人でいらっしゃったんですよね。
 
前:  そうです。
 
峯尾:  詩を創られ始めたのはお幾つ位の時なんですか。
 
前:  十八位でしょうかね。その後ちょっとの間、軍隊に行くんですが、その前に少し万葉集の真似のような歌の形のものを創っていましたが、それは創るというようなものじゃなかったですから、やっぱり詩が中心でしたし、それはずーっと、随分長らく詩人という意識がありましたね。短歌というのは、日本の伝統的な定型の詩だという認識がありました、今も。それは同時代の他の歌人と少し、やや違うものでしょうね。
 
峯尾:  そして、それが本格的に歌を詠むようになったのは、何か特別の、
 
前:  分からないですね。私は、これを異常噴火であると第一歌集の後記に書きました。─異常にバアッと湧いてきた、僕のそんな意識を超えてしまった、方法意識を超えた何かだと。僕の血の中にある古い層─古層(こそう)の中にある何かだということだけは、体感─身体の感じとしてあったんですけれども、きっかけはどうでしょうかね。一方で、当時のヨーロッパの、フランスやドイツの詩人たちのものにかぶれておりましたが、同時に、フォークロア(folklore)の柳田国男(民俗学者:1875-1962)とか折口信夫(しのぶ)(国文学者・民俗学研究家・歌人。歌人名:釈迢空:1887-1953)の世界を学んでおりましたから、そいういうのが、日本の何か古典詩歌に知らず知らずに親しむ契機になっていたり、同郷の先輩に前川佐美雄(さみお)という方が奈良に居られて、そこへ私は詩人としてよく遊びに行って、無頼で、それでも許して頂いて、よく泊めてもらったりしておりましたが、知らず知らずに、何か歌の霊というか、韻律のようなものがこちらへ憑(の)り移ってきて、自分の中で眠っているものが目覚めたんでしょうか。三十少し前ですね。二十八、九ですね。その頃、自然と歌の調べになるんですよね。これは禍々(まがまが)しいと思いつつ、それを書き留めておりましたね。それは、例えば古い日本の形では、万葉の時代から長歌というのがありまして、終わりにそのエッセンスのようなところを繰り返して、反歌と結びますね。そういうふうに現代詩が長歌であれば、そのエッセンスを短歌という形というふうに、自分では納得してみたりしておりました。
 
峯尾:  三十少し前とおっしゃいましたけれど、お仕事としては、そうすると、前家の山林業を継いで山仕事をしていらっしゃったんですか。
 
前:  まだ継いでいませんでしたね。悪い息子でした。何か中途半端で、あちこちを放浪というほどではないですが、いろいろ試みてみたり、何か生き方を探っていたようですね。後になって、まさにそれこそ、浮かれてはまた帰りけり、という感じでして、それがもう少し自覚的に、当時漸く六十年代高度経済成長期に入ろうとして、都市集中化しようとするところで、むしろ時代に逆行する形で、その点は昔も今もどこか頑固で偏屈と言いましょうかね。それで世の中全部がそういう方向にいけば、むしろ私はその逆に行きたくなってしまった。そういう何かがありましたね。
 
峯尾:  さっき「禍々(まがまが)しい」とおっしゃいましたけれども、それはやはりこの吉野の山の空気に触れて育った前さんだからこそ、そういうことになったんでしょうか。
 
前:  そう思いますね。一方では、それにプライドというか、山人(やまびと)としての誇りをもっているんですが、同時に、それは自分ではそんなに肯定出来ないものがありましたね。
 
峯尾:  そして、山人(やまびと)としての誇りとおっしゃいましたけれども、この村でのお付き合いというか、その交わりも当然あるわけですね。
 
前:  私のある時期、すべてが一極集中、或いは都市化していく時代には、むしろ芸術的な、或いは、宗教的な感性をもった人が、田舎へ逆に出て、いろいろ焼き物したりいろいろしますね。そういうのでなしに、私の場合は、もう生まれた産土(うぶすな)ですから、その点はあまり抵抗はなかった。むしろ割りと入り過ぎたかも知れませんね。父が、戦争中、村長みたいなことをやっていたりして、まだ生きていましたし、それがかえって、僕にとって、後で、「あ、しまった」と思うことが非常に多いですね。もう少し距離を置いて、村人と接するべきだったなあ、と思いましたけれども、そこは根がお人好しで嬉しがりですからね、随分。そうですね、十年ばかり、五年位かなあ、昭和でいえば三十年代─一九六○年代のその頃、私にとって、むしろ二十歳時代の時─戦後の十年よりも、それ以後の十年の山籠もりの時期、自分の生き方の形を手探りしている時でしたから、そういう時が、疾風怒濤の暮らしだったかも知れませんね。それでむしろ頭を打ったり、傷付いたりしてね。そして、やっぱり距離が出来、少し距離を保つようになったりして、それはおめでたい、馬鹿だからそうなんですが、ガツンと頭を打ってみたり何かしてみて、気が付くんですが。それで村の中に住みつつ、一人の旅人としてやってきて、そこに住み付く人のような立場を、なるべくそういう生き方をしておりますが、それをまた村の人もなんとなく許してくれている。この点が有り難いですね。これからは分かりませんけどね。これからの若い人になると、「なんだ、彼奴(あいつ)だけ勝手なことをして」なんて言って、叱られるかも知れませんが、もうこの歳になったら許してくれるでしょう。
 
峯尾:  こういう大自然の中の自然の時の流れというのは、なんとなくわさわさしたところからこういうところへ寄せてもらうと、時間の流れがゆったりしているような気がするんですけどもね。
 
前:  感じますか。
 
峯尾:  感じますね、やっぱり。
 
前:  そうですか。みんなそう言うんですよ。
 
峯尾:  なんとなくゆったりしてくるんですが、だんだんいい気持になってきます。此処でこうやって綺麗な景色を見ながらお話をしているだけで。
 
前:  そうですね。その景色と僕の内面、あるいはぼうとした人柄、僕の周辺の話や話題と、それから鳥の声やそういうものが一体になって醸し出すものでしょうかね。そういうものに限って、ある種の郷愁というか、ある種の明るい悲哀感というようなものも流れていますね。
 

 
峯尾:  前さんはまず詩人として出発。詩集には、『宇宙駅』があります。歌集は、『子午線の繭』『霊異記(りょういき)』、迢空(ちょうくう)賞を受賞した『縄文記』、詩歌文学賞を受賞した『樹下(じゅか)集』、茂吉文学賞を受賞した『鳥獣蟲魚』、そして、読売文学賞を受賞した『青童子(せいどうじ)』と、作品集を出す度に、高い評価を受けてきました。一方、『吉野紀行』や『吉野日記』『山河慟哭(どうこく)』『存在の秋』『明るき寂寥(せきりょう)』などのエッセイも書いておられます。前さんを中心とする歌の研究グループ「ヤママユの会」は村塾(むらじゅく)のようなグループで、現在では珍しい研究集団です。会員は三百人です。
 

 
峯尾:  「さびしさなくば住みうからまし」ですけれども、此処へは実際には、大勢の人が訪ねていらっしゃるでしょう。
 
前:  いえ。あまり来ないんですけど、「キツツキの穴見せて下さい」なんて(笑い)、・・・それぞれポロッポロッですね。
 
峯尾:  ポロッポロッですか。
 
前:  纏まっては来ないですね。ポロッポロッですね。
 
峯尾:  いにしえの人たちも何かに惹かれて吉野へやって来るとすると、一般的に自然というものに対してもっている日本人の思いというのが、昔も今も何か共通するもの、同じものがあるでしょうかね。
 
前:  芭蕉の言葉を借りれば、「不易なもの」というか、今ほどドンドン激しく変わる時はないですね。でも一方で、存在についての思い、例えば、いのちのこと、或いは具体的に言えば、愛とか、死とか、そういうことのある根本は変わらないかなあ。そういうものに深く関わっていった時には、やっぱり自然がそれに一番応えてくれるんじゃないか、と思いますね。
 
峯尾:  かつて私たちは、「山には山の神様が居て、木にはやはりその木に宿る神様が居 て」というふうに、そういうふうに考えてきた筈ですよね。
 
前:  峯尾さんもそういう顔をされていますが、一種のアニミズム(animism:自然界のすべてのものに霊魂があると信じて、それを崇拝する考え方)というか、なんかそれは子どもの頃から感じていましたからね。
 
峯尾:  ただ、それは、例えば祖母にそういう話を盛んに聞かされたとか、なんかそういうことありますけれども、
 
前:  やっぱりお爺さんやお婆さんの教育は大事なんだということですね。
 
峯尾:  前さんはなんかそういうことでもって、
 
前:  それだけかも知れないし、それは凄く古い原始人の、それこそ初めに言った生尾人(せいびにん)の感覚であると同時に、今世紀を我々が生きていく上での一番新しい思想、新しい生き方なのかも知れない、というふうに思いますね。簡単に言えば、今まであまり人間が中心で、自然を単なる資源として、操作出来る対象として考え過ぎましたがね。もう少し己を虚しゅうしてね。実際、己を虚しゅうして、パアーになるように思うんですが、そうでなくって、賢(さか)しらな、小さな智慧の小刀を振り回して得意にならずに、もっと深い自分のいのちの深みを、そこの声を大事にしていこうという考え方ですね。そうした意味でも、私は、吉野になるべく拘らないで、私の考えている自然というのは、もっと世界的な、コスモロジー(cosmology:宇宙論)というか、そういう土地、どこどこというようなことに限定されないものが大事だと、自分では思っております。私のことを、他人(ひと)がみる場合は、「あの方は吉野のどこでこう」という、非常にそういう限定を与えますけどね。でもそういってもやっぱりその土地その土地の一つのトポス(topos:場所)というか、それに徹しないことには、世界、宇宙的な広がりというものも生じないのかなあと思いますね。そういう自然を観賞する風流の、単なる雅(みやび)として、こちらからその恵まれた、選ばれた人たちが、いろんなものを見て、するというのは、それもいま花盛りでありますけれども、自分が、風になり、虫になり、或いは、木の枝になり、キツツキになり、そういうところまで、自分をかすかなものにすることによって、自然の英知というものを、大きな力を身に入れるというのも、私などの歌の一つの秘密というと大袈裟ですけど、私などの歌を詠む、歌を創る、その方法論の根底にあるものの一つなんですよ。ですから、例えば、私の歌に、
 
     在るもののなべてはわれとおもふ日や
       泪(なみだ)ぐましも春のやまなみ
 
というような歌があります。分かり易いと思うんですが、すべての見ているもの、今そこで木を打っているのも、或いは鳴いているウグイスも、飛んでくる蜂も、すべて全部お互いにいのちを分け合っている。いまこの時のいのちを分かち合っているものだ、と思うと、随分考え方が変わってきますね。なかなかそこまでいけませんけれども。「それは、君はもう還暦過ぎ、古希を過ぎてちょっと呆けてきたんじゃないか」と言われるかも知れませんけど、これは光栄な呆けでありまして、やくざな小賢(こざか)しさの中で、ハリネズミのようにせこく(・・・)行動するよりも、少し呆けるのが、老いへの珠玉の時間かなあ、と思いますが、それで、ああ、全部いのちを分かち合っているんだ、と思えば、なんかジーンと胸に迫ってきますね。それは、向こうのあれは俺のものだとか、他人の所有だとか、そういう俗な次元のものでないわけですよ。それはみんな死後の世界になったら、みんな一緒ですから、そういうことを歌ってみたり致しましたが、それも若い時、ウンと三十代、三十歳の時は、山に入ろうと思って、その頃は山を見て廻ったり、樵(きこり)の生活を致しましたから、そういう時に、道に迷ったりよくしました。けもの道なんというのを、ちゃんと人が付けた道のように、けものが同じところを歩きますので、それがこういく曲がりしておりまして、
 
     けものみちひそかに折れる山の上に
       そこよりゆけぬ場所を知りたり
 
ここはこちらの賢(さか)しらな人間のもう行けない場所なんだ、と。それは普通に言えば、それはいくらでもブルドーザーは出掛けることは出来ますけれども、そうではなくって、次元が違う。異次元と言いますかね。それは最初に、峯尾さんがおっしゃったような聖なる場所ですね。そこのところをあまりにも、我々はないがしろにし過ぎているのかも知れませんね。そこより行けぬ場所というものをね。成る可くこうした意味で、いろいろ経験してみたり、自分の力の限界なども分かってくるにつれて、謙虚になりますね。例えば、いまこの谷間で、大きな朴(ほお)の木─柿の葉寿司が一般に知られていますね─この辺りは朴の葉っぱで、あれと同じように包むのが、この夏祭りの一番大きな伝統ある料理の一つなんですがね。柏餅は柏の葉っぱで包みますね。あの柏の葉っぱの香りというのもいいですが、朴の葉っぱの香りも優雅で高いですね。その朴の木の下で瞑想している自分をうたったのがあります。
 
     朴の木の芽吹きのしたにかすかなる
       息するわれは春の山びと
 
これなど割合に、爽(さわ)やかな通りのいい歌ではありますけれども、やはり今にして思いますと、朴の木の生命と、その下で疲れたりガッカリしたり、失意や落胆もあったり、いろいろしていますね。そういう孤独な自分が、その下でちょんと座って─よくタバコを吸いましたが─タバコを吸ったりしている。そういう時に、タバコを別にして、「かすかなる息するわれは春の山びと」─やっぱりそこで自分を発見していますね。俺は俺の存在の原点というのは、これなんだなあ、というようなところ。これは三十代でしょうか。四十代になってからだったか、その頃の作だと思いますが。それで、或いは、蚯蚓(みみず)なんていうのをトカゲがこの間から五匹位ね、どうも区別が付かないんですが走っておりましたが蚯蚓なんていうのも鬱陶しいものですけれども、我々の知らないところを、たまに掘りますとずーっと出てきます。あれはやっぱり凄い土を底から復活してくれる、生命を甦らせてくれる。我々にとって欠かせない大事な生き物なんですね。これを私のある詩歌集の、『樹下集』か『鳥獣蟲魚』の一番終わりに入れてあるんですが、
 
     億萬(おくまん)の蚯蚓(みみず)の食(は)める春の野の
       土の静けさを思ひみるかな
 
我々は、そこの地面を無造作に掘り返したり、或いは舗装、コンクリートで蓋をしたりするのが大変な美徳なんですけども、それが文明の証であるんですが、一方で、やっぱり土が死んだ土でなしに、いのちある土というのは、我々が耕作すると共に、蚯蚓に代表されるような、そういうものたちの働きで、土は土であり得ているんですから、本来の土で、そういうものにも心を分かち合おうじゃないか、というような一つのささやかなささやかなマニフェスト(manifiest:宣言)というか、志なんですよ、これもね。そんなのばかりでなしに、もう少し叙情的な、相聞(そうもん)的な、エロスの歌もあります。
 
     さくら咲くゆふべの空のみづいろの
       くらくなるまで人をおもへり
 
というのは、最近の歌集『青童子』にあるんです。
桜の歌は、やっぱり多いですね。よく引用されるものの中にも幾つかありますが、例えば、
 
     春の日の花に遊べば今生(こんじょう)に
       逢ひたる人らみな花浴(あ)ぶる
 
花の歌が多いのは、桜の名所の近くに長く生きてきたせいです。またこの辺りの野山にも桜がありまして、その桜の花びらが、山道を歩いていたり、山でちょっと仕事をしていると、終日(ひもすがら)、残りの花びらがスーッと流れてくる日があるんですよ。これはね、何とも言えない気分です。山中に風の道というのはやっぱりありまして、そんなにズーッと来ないのに、谷風がスーッと押し上げてきて、どこに桜の木があるとも分からないのに、花びらだけが、スーッと白い帯になってね。まあ終日というのは大袈裟ですが、暫くそれは桜の花びらが白くなっているんですけど、また次ぎ気が付いたら、またスーッと流れてくるんですね。こういうのも幸せですね。こういうのを偉そうに言っていましても、もともと自我が他人(ひと)様より強かったり、或いはひねこびてたりしますからね、自分では恥ずかしく反省していますが。『青童子』の終わりの方に、
 
     いつまでも成熟なさぬわが青(あを)を
       しぼりしぼりて春の黒森(くろもり)
 
いくら歳をとっても、成熟したとは思わないんですね。「成熟なさぬわが青をしぼりしぼりて春の黒森」。変な歌といえば変な歌ですが、何か自分の、この青に象徴されるのは、自分の稚気でもありますが、ロマンでも夢でもありましょうしね。そういうものを、成熟というのは、それをこう絞り出し絞り出していって、それを何か絞り出していっているうちに、向こうに春の黒い森がふと出ている。この春の黒森というのは、実在の森であると同時に、ある種の象徴でもありますね。死後の世界かも知れませんね。
 

 
峯尾:  標高五百メートルの前さんの自宅。そこから背後の山を三百メートルほど登った尾根近くに、南側に熊野に続く大峯の奥山を眺めることが出来る一角があります。前さんは、この場所に終(つい)の栖家(すみか)を造ろうと計画しています。その場所に私も連れて行って貰いました。
 

 
峯尾:  こっちも全部槙(まき)ですか。
 
前:  そう。高野槙です。
 
峯尾:  高野槙。しかし、この枝のしなり具合というか、曲がり具合とか、
 
前:  独特ですね。
 
峯尾:  独特ですね。ちょっと日本の森でこういうのは見るとは思いませんでした。
 
前:  そうそう。明恵(みょうえ)上人(鎌倉時代の華厳宗の僧:1173-1232)が描(えが)かれている「樹上坐禅図」に出てくるあの木みたいですね。この上へ坐って坐禅したくなりませんか。夏は涼しいです。
よいしょ。大分険しい、大丈夫ですか。
 
峯尾:  車が上がってこられないところから、此処までけっこうありますね。
 
前:  そうですね・・・この辺り。
 
峯尾:  この辺りですか。
 
前:  ええ。
 
峯尾:  此処でも結構見晴らしがいいんですね。
 
前:  一変しますでしょう。
 
峯尾:  やあ、此処は今は風が心地よいですけども、風の強い時には、木の陰にでも居ないと突き飛ばされてしまうかも知れないし。
 
前:  颱風、それから冬ね、それは厳しいでしょうなあ。
 
峯尾:  ここに暫くいれば、自然の素晴らしさと自然の過酷さを両方味わえる。
 
前:  両方ね。春と修羅(しゅら)ですね。
 
峯尾:  春と修羅ですか。
 
前:  菩薩と鬼かな。自然は両方もっていますからね。
 
峯尾:  此処に終(つい)の栖家(すみか)として、どんな庵を造ろうとなさっているんです か。
 
前:  もうごく出来るだけ簡素な。眠りがそのまま永遠の眠りであって いいような、簡素なものでありたいですね。でも、風が強いから烈風に、颱風の風に飛ばされないようにはしますけれども。出来るだけ自然のたたずまいをあまり壊さない感じでね。
 
峯尾:  そして、それこそ前さんが生まれ育ったあのお家の一角には、もう滅多に下りて行かれない。それ位の覚悟でいらっしゃるんですか。
 
前:  それは大袈裟で、やっぱり初めのうちは毎日下りていくんじゃないでしょうかね。下りていっている間は、まだまだ元気がある証拠で、衰えてきたらそれもうるさくなってしまって、下りて行かないでしょうな。食べ物や洗濯、炊事、それら困りますけどね。連れ合いは、「あそこ、恐いから行くの厭だ」と言いますからね。
 
峯尾:  あ、そうですか。でも、本当に心配になったら、奥様きっと上がってまいりますでしょうね。
 
前:  そうでしょうな。僕は、都会へヒョロヒョロ下りて行き、数日して帰って来たら、連れ合いが居たりして、ビックリするかも知れない(笑い)。
 
峯尾:  成る程ね。しかし、此処からは人家の灯りもちらちら見えそうですね。
 
前:  そうですね。
 
峯尾:  人恋しくなったりしませんかね。
 
前:  それが慰めになるかなあ。全然何も見えないよりも。こちらの西の方は、谷険(さが)しくて西開けたりという感じだけど、そこには人家ありますが、逆に、東、南の方は、山また山の大峯の奥山ですからね。その両方が見えるというのが魅力ですね。軒先からちょっと歩いて行くと見えますから。
 
峯尾:  そして、こちらに住みつかれたらば、もう歌作りに専念なさるんですか。
 
前:  どうでしょうかね。此処へ来ると、歌も要らなくなるかも知れませんな。真夏の、今の春の風もいいですが、真夏の此処へ吹く真夏土用の風は素晴らしいです。ゴーゴーと乾燥したいい風が─松籟(しょうらい)と言いますがね─木々の梢を渡ってくる。そこの風の響きというのは永遠なものを感じますね。
 
峯尾:  歌を超越してしまうという。
 
前:  そうなってはいけないけど、或いは、アルポリスじゃないけれども、ボンボコボンボコ風が吹けば全部それが歌になっていくようにね。鳥が鳴けば歌になっていくようにね。そうなることを願っていますけど。それやってみないと分かりませんね。
 
峯尾:  それは大いに、前さんご自身としてもどんなふうになるか、というのは楽しみでもあるわけでしょう。
 
前:  そうですね。当分此処へ来ると、四方(よも)の空気・・・ぼおっと見ていてね、こちらも獣や鳥になったような気持になって、当分は過ごすでしょうね。
 
 
     これは、平成十四年五月十二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」に放映されたものである。