ある ある ある
 
                        中村久子二女 中 村  富 子
久子の二女・富子でございます。みなさんにこんなたくさんお集まり頂いて、みなさまの心の中に何か一言残ると嬉しいな、と思って、お話させて頂きます。私の母は、数えの四つで両手両足を失いました。その母が、私によく申しましたのは、「母さんは、手があって足があってどれほど便利なものか知らずに過ごした」と言いました。数えの四つで、手足の二つとも無くした。だから手があってどれほど大切なものか、足があってどれほど重宝なものかということをまったく知りません。それだから母さんは、「あらゆる努力が出来た」と言いました。「もしもこれで母さんは、手足の有り難さを知っていたら、とてもこんな努力は出来なかっただろう。知らないだけにその努力が出来た。有り難いことです」と言いました。私はその時、「そんなものかな」と思いました。そうしましたら、四国の今治に原田末一先生という方がお出でです。この方は戦争に行かれて、両眼を無くされました。でも凄く素晴らしい方で、字がお上手で、目が見えなくなってから、方々の展覧会で、最優秀賞をお取りになったりして、愛媛県の名誉市民でもいらっしゃいます。母よりか一年後に亡くなられました。その先生のところへ行きました時に、母が、「私は手の有り難さを知らなかって幸せだった」と申しました。その時に先生は、「中村さん、そうじゃない、違うよ」って、「あって有り難さが分かるよ」とおっしゃったんですね。「無くしてみて、どうして?」って、私、先生にお訊きしましたら、「富子さんな、目が見えないということは、生まれた時から目も見えない人は、色も分からない。形も分からない。どれほど大きい物か小さい物か分からない」。私たちが目を瞑って、「あ、これが盲(めしい)の方が」と思うのとまったく違う。私たちは目を瞑っても明かりは見えますよ。明るいと思います。「明るいも暗いも分からないんだよ。色がまったく分からないんだよ。だけどな、儂はな、途中めくらになった。戦争に行って目を失った。そのために、先生、今バラが咲いていますよ。ピンク色ですよ。黄色ですよ。白です。桜が綺麗ですよと言われても、それがパッと目の前に映る。それは儂が見えていた時を知っているから。アリがこんなに小さくて、象がこんなに大きくて触れない。ライオンがこんなに向かって来る時の怖さ。それも知っている。そういうものを知っていて目が見えなくなったのは、とっても嬉しいことだよ。有り難いことだ」とおっしゃった。母は有り難さを知らずに過ごしたから、いろいろなことが出来た。努力が出来た。また原田先生は途中で見えなくなったお陰で、「儂は何でも分かる。普通の目の見えない人よりか、どれだけ幸せになるか分からない」とおっしゃいました。私はその人の心の持ち方で、その喜びというものが感じられました。言われてみたら、そうですよね。生まれた時から目の見えない方は、真っ暗な世界しかご存じない。テレビを見ていました時に、子供さんの生まれる前に、「非常にこの子は障害がある。生まれても何か脳障害か何か障害があって、この世に生まれてくるんだから」、先生は、「おろしなさい」とおっしゃった。しかし、そのお母さまは、「絶対に賜った命です。なんとしてでも、どんな子でもいい。生みたい」とおっしゃった。でもどんなふうになって、その子が出てくるか分かりません。耳は聞こえないか、目が見えないか、脳障害があるか、手足が全然動かないか。でもそのお母さんは、その子をお生みになった。ところが目がまったく見えなかった。脳障害は無かったんです。それだけが唯一の幸せでした。その子が幼稚園に入られ、ある日、幼稚園から帰って来た時に、お母さんに訊かれたんです。「お母さん、目が見えないって、どんなこと?」。お母さんは絶句なさったそうです。どう説明したらいいのか。何故そんなことを言うのかと思ったら、一緒に幼稚園の子と遊びますね。そうしたら目が見えないだけに、いろんなことがスローなんです。右に行かなければならない時に、左に行ったり、持って来なくていい物を持って行ったり、そういうことで、時によったら負けることもあるんですよね、いろんな。だから「あんたは目が見えないから、ダメなのよ」と言われたんですね、友だちに。それまで目の見えないということがどんなことかまったくそのお嬢さんは知らなかった。お母さんはなんと説明していいか分からなかった。私たちだって、もしも幼い子に、「おばちゃん、目が見えないって、どんなこと?」と訊かれたら、どういう説明が出来ますか? それを訊かれたお母さまは、「本当に生んで良かったのかしら。この子のために」思われたそうです。それからその子が大きくなって、目の見えないこともだんだん分かってきた。時には凄く癇癪(かんしゃく)を起こされるんです。そしてお母さんにかぶりつく。みんなが、「あんたみたいな子、生まれなかった方がよかったのかも知れない」なんて、大人はそういうことを言います、時に。それである時、「お母さん、何故、私を生んだの。私を何故殺さなかったの」と、お母さんに食ってかかったそうです。その時に、お母さんは気性の激しい人だった。だから、「あんた、そんなに死にたいの!」と言って、その子の首をグッと絞めたんですね。「じゃ、あなたの言うように、お母さんが殺してあげる!」って。その子は藻掻(もが)いてもがいて、表へ飛んで出て、「私のお母さんが私を殺す!」と言って怒鳴ったんですね。お巡りさんも来て。まあそれがその子は今高校生です。喧嘩をしながらもいらっしゃるんですね。私たちは心ない言葉をついかけます。昭和三十七年に、母が、「御恩」と題して放送しましたその後で、母のところへ、お手紙が来ました。私はその手紙を母から渡された時に、なんという人なんだろうと思いました。それは「あんたを育ててくれたご両親は大変だったけど、あなたは生まれた時に死んでしまえばよかったんです。それがみんな一番幸せになる道です。あなたが生きることはない。その時に死ねばよかったんです」というお手紙です。「親のことを思われましたか。あなたは生まれた時にこの世に生を受けるべきじゃなかった」。そのお手紙二通です。私は、悔しいというより、怒りが本当にカッと出ましたね。母に向かって、「あなたが死んでしまった方が親孝行です。あなたは死ぬべきだ」。一生懸命四十年生きてきた母です。誰よりも悲しかったのは母だろう、と。そして母を育ててくれた両親だ、と思います。人はいろいろなことで、なんでもないことをフッと口にします。それが相手にどれほど傷を与えるか、そんなことをお考えにならぬ、いい加減なことを。私はそのお手紙を母から見せられた時、それは非常に教養豊かな方でした。偉い方なんですよ。偉いというのは、人間性がないんだなあと、私は思いました。母が四歳で両手両足を失い、また痛いと言って泣き叫びました。父親は優しい人でした。オロオロしながら、その母の痛みを少しでも回復するようにと思って、その時入ってきた新興宗教に入信しました。その宗教では、「あなたが前世にかくかくの罪を犯された。だからいま可愛いこの子にその報いがくるんだから、あなたは一生懸命神に懺悔(ざんげ)しなさい、おはこびをしなさい」そうおっしゃったんですね。小さい畳屋です。父親は、「儂の為に一生、この娘が、久子がこんな思いをするのなら、どんな償でも私はしよう」と言って、一生懸命懺悔をし、おはこびをしました。仕事が出来ません。食べることに事欠きます。残ったのは大きな借金ばかりです。そして、母が七つの時に、父親はアッという間にこの世を去りました。母は死ぬまで、「私が父を死なせたもの。私さえこの病に罹らなければ、父はこんなに早く若い命を散らすことはなかった。それは私のせいです。私さえこの病に罹らなければ」と申しました。周囲も、私も、「寿命だからしようがない。そんなこと、お母さんのせいでもない。久子のせいでもない」とみなさんがおっしゃっても、母は「いいえ、私のせいです」。その思いを背負(しょ)ってあの世へ旅立ちました。その母が私たちに残してくれた、教えでくれたこと、それは、「本当の宗教とは何か。本当の神や仏さまは何か」ということです。本当の宗教ということは、私たち人間として生きていくうえに一番大切なものを教えて下さるのが本当の宗教です。「神や仏というものは、決して、病気を治して下さいお金持ちにして下さい。幸せにしてくださいと言って祈るものではありません。神や仏はいつも私の側に、富子の側にずーっと立って居て見ていて下さる。それだけで十分なんです」と申しました。私は、若い頃は、納得できませんでした。本当に神や仏と言われる方がこの世におわすのならば、何故両手両足のない母にあれほど酷いことを次から次ぎへとお命じになる。本当に神や仏の奇跡を信じたい。慈悲を信じたい。それを願う私は愚かなんでしょうか。そう思いました。そして母に言いました。「お母さんを救ってくれないような神や仏は要らない。そんなものは信じない」と言いました。「あなたは若いから分かりません。ただ黙って側に立って見て居て下さる。それだけで十分なんですよ」そう言いました。分かりません。「そのうちに歳とともに分かるようになりますよ」と笑ってくれました。それが歳とともに、神・仏は私の側にいつも見守っていて下さる。それが薄々ながら分かってまいりました。そして、母は、だからこそ絶対にいろいろな業(ごう)というものを信じない人でした。「この世には業などというものはない。私たちの祖先が犯した罪を、その業がいまここへ帰ってきて私に関わる。そんなことはあり得ない」と断言しました。それはあの身体で生きてきた七十年間生き抜いた母の思いなんですね。私は、それは誰よりも一番分かるし、母の言うことは真っ当だと思います。業というものは、この世に自分が生を受けた時、この身と一緒に出てくるものです。自分の業は自分で果たさなければダメなんです。他人(ひと)様に代わって貰うわけにいかない。業をどれほど恨んだって、祈ったって、それはダメです。「じゃ、お母さんはどんな? 業なんて?」「母さんのところへいろいろなことがきます。それを真っ正面から向かって取り組んで、自分の業を一つひとつ自分で果たしていきます。それが人間に、業に対する思いです」そう言いました。ですから、私は、母は凄いと思いました。ある時、母に訊きました。「でも、母さん、もしも母さんが背負っていた業が、この世に果たされなくて残った時は、誰がその業を背負うの?」と訊きました。その時に母が笑って、「あなたや美智子に残った業を背負って下さいとは申しません。母さんがこの世を終わる時、自分に残された業を全部この身に背負って、あの世へ行きます。そしてあの世へ行って、その果たせなかった業を一つひとつきちんきちんと果たしていきますよ。心配しなくてもいいですよ」そう言って笑ってくれました。その笑い顔が忘れられません。だから母は、何事があっても人のせいにしない人でした。辛い悲しいことがあっても、悔しいことがあっても、人のせいにしない人でした。それは私に日々教えてくれました。「人のせいにしてはいけません。何かあっても、それは自分の責任で果たしなさい」。私は幼稚園時代から、自分の責任ということをうるさく言われました。「何かあっても、他人様が悪いのでもない。それはあなたの責任ですよ」と言われた。学校時代、大変やんちゃな悪い子でした。叔母たちが、私を預かって学校へ出してくれていました。母が興行に出てから、旅で。そうすると、預かった方は、「少しでも成績があがればいい、いい子でいて欲しい」と願いますね。それを全部打ち破るようなことをしました。その時に母が帰って来た。「富子はまったく困ります。あんな子と遊んでおったんではますます悪くなる」。女学校の時も言われました。「あんな子と連わせておいたら停学処分になる。下手すると退学処分になるかも知らない。あんな不良少女と一緒に遊ばせてはいかん」と、母に言いました。その時に、母が叔母に言ってくれました。「そう。向こうの親様にしてみたら、うちの富子と遊ぶから、どんなに悪い子になるだろうとご心配でしょう。富子があなた方のおっしゃるように、あの人と遊んで悪くなるのなら、それは富子の責任です。相手が悪いのではありません。不良になろうと、悪いことをしようと、それは富子の責任です。だからどなたと遊んでも絶対に富子の友だちの云々は言って頂きたくない」。ピシッと言ってくれました。嬉しかったですね。私のところにはいろいろな友だちが来ました。勉強の出来る人、出来ない人、貧乏な人、本当にみんなが、母がいると喜んで来るんですね。「おばさん、おばさん」と言って。それほど母はみんなに慕われておりました。真っ当なんです。だから、友だちが母が亡くなった時、私に言いました。「あなたが死ねばいい」。「何故?」と訊いたら、「あなたが生きていたって、何の役にも立たない。おばさんが生きてくれていたら、相談にでも何でも相談にのってくれる。おばさんは心強い人だ。私たちの見方だ」と。「お前は何にもしてくれない。お前は死ねばよかった。お前生きていない方がよかった」なんて言われたんですね。大概私もむくれましたけどね。その通りなんです。私は今いいお友だちに恵まれています。それは母が殆ど作ってくれた友だちです。母は子どもの時に、学校へも行きたい。本も読みたい。でも学校では今と違って、そんな両手両足のない子は預かってくれません。その時に父が亡くなって、母親は二年間糸曳きにまいりました、信州へ。女のその頃の仕事です。でも糸曳きに行くについては、母を置いて行かなければならない。連れていくわけにはいきません。その時に家におったんですね。今のように施設があるわけじゃなしに。親類縁者そっぽ向いて、誰も預かってくれません。お金の掛かる子、汚い子、泣き叫ぶ子、何一ついいことありません。その時に母方の祖母が、母を、「私が久子を預かる」とおっしゃった。その祖母がいたお陰で、母は人間的に素晴らしく成長が出来たと思います。その祖母という人は、丸野というお医者さんの一人娘に生まれました。徳川時代からのお医者です。そして九つの時に養子を迎え、一緒に寺小屋へ通われました。そして十六で結婚をし、母の母親と弟と妹、三人の子をもうけられました。そして明治ご維新でひっくり返ってしまいました。その時に養子さんが、「是非今の漢方だけではダメなので、是非西洋医学を学ばして欲しい」と言って、養子さんの要望を入れて、名古屋、神戸、そちらへ修行に出しました。外科をやりたいということで、一角の外科医になってお戻りになりました。ところが戻って来られたら、丸野の家が貧乏になっていました。両親と子ども三人抱えて、夫の仕送り。有るものも無くなります。そうしたらば、養子さんは、「こんな筈ではなかったのに」と言って、家に一歩も上がらずに、家をお出になりました。富山の方の枡でお金を量るというようなお金持ちの家に養子に入ってしまった。普通ならば、その養子さんを刺し殺してしまいたい、愚痴をグッと言いたい。それなのに、おばあさまは一言の愚痴も申されず、両親と三人の子どもを見事育てあげられた女丈夫です。そのおばあさんが、「久子は私が預かろう」。長男は学校の先生となり、地方へ行っておりました。丸野の家で母は育ちました。そのおばあさまは教養豊かでございます。そして母のために『古事記』とか、いろいろ昔の古文書を教えて下さったり、一年間で百人一首も暗記出来るようになりました。そして立ち居振る舞い、そういうものは、その祖母の姿を見ながら、母は育ちました。知らないうちにそういうことを覚えるんですね。私たちが子どもの時にお辞儀をします。その時に、「富子、ダメですよ。そのお辞儀では」と言われます。こう首を曲げちゃうんですね。「首を曲げるようなお辞儀をしてはいけません。真っ直ぐにこう立ちなさい」。そういうのはその祖母の家で習ったんですね。そして祖母の他人様との対話を聞いていて、こういう時にはこういう言葉をかけるもの。こういう時はお返事するもの。うるさかったです。そういうのは全部祖母に習ったんです。その祖母の一番の素晴らしさは母のためにお友だちを作って下さったんですね。自分のお友だちの家に行かれて、「家の久子は両手両足が無くて、学校へも行けません。ですからお宅のお孫さんを家へ遊びに来させて下さい」。近所を歩かれて、「家の久子は行きたくともいけないんです。だからみなさん、学校の帰りに家に寄って一緒に久子と勉強をして下さい。遊んでやって下さい」と言って、頼んで歩かれた。そんなことを今の親がしてくれますか。そのような無様な心も少しは前よりよくなったと思うんですけども、今でもそんな子どものために一軒一軒頭を下げて頼んでくれる親がおりますか。そのために母の元には子どもさんが遊びに来て下さった。親が、「あんな貧乏な汚い家に行くことない。そんな手足のないような子のところへ遊びに行くことはない」と言って、怒られる親があったでしょう。それなのに、子どもは正直です。遊びに来て下さった。そしてみんなと一緒にいろいろなことをして、「久さん、今日はこういうふうに習ってきたんだ」と言って、話を教えて下さる。母はずば抜けて良かったのが国語です。それは祖母の薫陶(くんとう)を得まして、みんなが読めない字、分からない字を、「久さん、これを何と読むの」「これはなんと訳せばいいの」と聞かれると、母は得々として教えてあげたんですね。「久さんは凄いね」と言って誉めてくれる。それは母はとっても嬉しかったそうです。そして、その友だちと一緒に遊んで、母は最後まで仲のいいお友だちが高山で五人いらっしゃいました。高山随一の料亭のお嬢さんとか、学校の先生だとかいろいろ方、本当に貧乏で貧乏で、下の下の生活の人もおりました。でも、その人たちはずーっと来て下さる。そして、母と私が一緒に高山へ法事とか何かで帰ります。その時にそのお友だちが来て下さる。そして、母と一緒に楽しそうにしてお話をしていらっしゃる。羨ましかったです。そして、私は母に言いました。「母さん、母さんのお友だち、凄いね。みんな仲がいいね。富子もあんな友だちが欲しい」と言いました。その時に母が、「富子ね、来て頂くだけではダメです。あなたの出来ることを一生懸命してあげなさい。追っかけてはいけません」そう言ってくれました。そのお陰で私は、友だちというものの有り難さ、尊さを知りました。そして、母はまた私や私の友だちにも言いました。「あなた達は学校へ行きます。小学校、女学校、その上と、その学校へ行くとね、勉強するだけではありませんよ。学校へ行って、あなた達に一番大切なのはあなたにとっていいお友だちを捜すことです」そう言いました。お友だちを見付ける場所です。そう言ってくれました。「たとえそれが普通一般のとこから、不良少女、不良少年、泥棒したとかなんとかいろいろな悪いことをした人でも、あなたと向き合った時に、あなたの心に何か閃くものをくれたら、その人はあなたにとって最高の友だちです。だからいろいろなことをして、これが悪い。あれが悪いとお友だちのせいにしてはいけません」そう言ってくれました。だからいろいろな友だちが来てくれました。私は、今でもいろいろなお友だちがあって、いろいろな時にいろいろなことを助けてくれます。それこそ不思議なんですね。やくざの親分になった人もいます。二千人位子分のいる人もいます。一昨年亡くなりましたけど、極東組という関東では随一の親分です。その人も私の友だちです。いろいろな点で私を助けてくれました。そしてまた国会議員に出て今もやっていらっしゃる方もあります。ピンからキリまで。でも仲良くやっていけるのも母のお陰だと思っています。母は本当の友達の有り方、そういうことを教えてくれたんですね。ですから私は母に感謝しております。母は七つから祖母の元に育てられました。そして、二年経って母親が帰ってきました。その時に、母親は再婚しました。そこの家へ連れて行かれました。今までは祖母がいて一生懸命ご飯を食べさせてくれました。いろいろなことを教えて下さった。大事に大事に精神的に育てられました。ところが今度連れて行かれた家では要らない子です。金のかかる子です。厄介な子です。だから粗末にされます。そして母親も周囲の者に遠慮して、今までのようにご飯を食べさすということもなかなか出来ない。それで朝ご飯食べたり、昼なんか食べる時には、お膳は箱膳を積んで、その上にお皿を置いて、おむすびを握り、小さくおかずをちぎって切ったのを並べて、「これで食べなさい」。そして母はご飯時になると、そこへ行ってご飯を食べました。手が無しです。箸が持てません。ですから口で食べたんです。口をもっていってパクパクと。その時にそこのお家のお子さまや若い衆たちが、「なんだ! 久子のご飯の食べ方、犬や猫みたい!」そうおっしゃったんですね。そんなことは畜生の食べ方だ。頭にカチンときたんです。そうならば私もお箸を持ってお茶碗でご飯を食べる。そう思い付いて、一生懸命練習しました。そしてこちら(右)の手に包帯を巻いて─いま包帯ですがその時分ひもだったと思うんです─そこへ箸を差して、ここ(左)にお茶碗を載せてご飯を食べる練習をしました。一生懸命練習して、それが食べられるようになりました。その時に、母親はその姿を見て、この子は言い付ければ何でも出来る子なんだ。言い付けてこの子が普通の人と同じように生活の出来るようにしてやるのが、親の愛ではなかろうか。そう思われたんですね。その翌日から母親は、母に向かって、手の無い子に向かってですよ、「あれもせ、これもせ、掃除もせ、お裁縫もしろ」、どんどんと用事を言い付けたんですね。そうすると、母は、「針はどこにどう持てばいいんですか?」「糸はどう通せばいいんですか?」ということを訊きます。そうすると、母親は、「そんなことは自分で考えておやりなさい」。いくら考えてやっても出来ない。出来ませんでした。「それはあなたの努力が足りないから一生懸命なさい。心を込めて努力しなければ、出来るまでやりなさい」と言われたんですね。母は泣いたと思うんですね。血の涙を流すように辛かったと思いますよ。でも、それが出来るようになりました。全部母は自分でやりました。ところが、愚かなんです、私は。私は生まれてこのかた、母は全部やっている姿しか知りません。努力をしている姿を存じません。ですから、誰でも出来ると思っていたんです、私自身。手が無くなれば母みたいに口で何でも出来る。そう思い込んでいました。それが当たり前と思っておりました。当たり前の恐さです。字を書かせても私より字が上手。お裁縫させても私よりも上手(うま)い。それは当たり前と思っていたんですね。私は下手だから、不器用だから、なんぼしても出来ない。自分で勝手な理屈を付けておりました。そして母は、「これだけお母さんは苦労したんだから、あなたも努力しなさい」ということを一切口にしない人です。愚かです。何にも、私はそれを察することが出来なかった。他人(ひと)様は訊きます。「お母さんはこういう時に、どうなさいました?」と言って。「さあ」と。「あなた見ていたんじゃないの?」「さあ、さあ。知りません」。それ以外に言いようが無かった。そして母は一生懸命全部自分で致しました。でも母にとっては母親は恐い人でした。二十歳になった時に、亡くなった父の親友の方が来られ、「久子、お前一人で食べることは出来ないだろう。みんな親は先に死ぬ。兄弟も全部離れてしまう。その時、お前はどうやって自活していくんだ」と言った。そのために、「お前は見世物興行の中に入れ」とおっしゃったんですね。ところが、見世物の人が買いに来ます。その時に父親は母を抱いて負ぶって逃げて歩きました。どんなことがあっても久子を見世物だけには渡さない。でもいろいろ考えてみたら、やはり「その世界にしか自分の生きていく道はない」。そう思い定めた時に、母は自分で見世物興行に身を委(ゆだ)ねました。そしてその中でいろいろな苦労をしました。母は、見世物興行の中に入った時に、「あ、これでおっかないお母さんと離れられる。ある意味でホッとした」と、私に漏らしました。本音だろうと思います。大事にして貰いました、見世物の中で。だけど見世物興行はご承知のように男の社会です。本当に厳しい社会です。若い衆も置かなければならない。土地土地の方とのやり合いもある。だんだん母の心が荒(すさ)んでいきました。その時に、座古(ざこ)先生にお会い出来ました。座古先生は、その時、五十いくつ、三十有余年寝た切りの姿でいらっしゃった。指が三本しか動かない。でもその方は半生を見た時、私よりも厳しい半生を送った方なのに、その方がなんと優しい顔をしておられる。それが母の不思議でした。神戸へ会いに参りました。ところが写真で見たよりももっと素晴らしいお顔でした。その座古先生はクリスチャンでいらっしゃった。その先生が母に教えて下さいました。「親の御恩と愛」でした。「私がこうやって三十有余年このお姿で生きているのは、生かされているのは、親あればこそ、親が私に命を下さった」。親の御恩は、その時に初めて母は、母親の御恩。父親よりも母の御恩を身に沁みたんですね。両手両足のない子を育てることさえも辛いのに、いっそのこと─さっきの話じゃないけれど、首を絞めて─この子と一緒に自殺した方がどれほど親は楽か知れない。それだって、いろいろなことを言いながら、母は私にいろいろなことを覚えさせてくれました。そして育ててくれた。なんと勿体ないことか。初めて母の恩、親の御恩。自分を心配して早く亡くなった父の恩。そういうことを思った時に、もう涙が流れてしかたがなかった。母はそれから変わりました。親の御恩の有り難さ。私は、それも全然返そうとも思いません。その時、ヘレン・ケラー女史に出会いさせて頂いて、ケラー女史から、「あなたは素晴らしい人」と言われた時に、母は、「私はケラー女史より幸せに結婚もしました。子どもも生みました。いろいろな世の中のことを体験してきました。ケラー女史に体験できなかったことをいっぱいさせて頂いて、零(こぼ)した涙は多かったけれど、それは人間として生きる道に自分を大きくしていった。有り難いことです」と言いました。そしてまた『歎異抄(たんにしょう)』に出遇い、親鸞さまはこんなにと悩んでお出でられる。私と同じように悩んでおいでられる。勿体ないけれど、『歎異抄』を拝した時に母は、『歎異抄』の中の親鸞さまは自分と一体になってしまった。親鸞聖人即私、私即親鸞聖人と重なりました。ですから、母はその後、「あなたの宗教は?」と問われると、「私は親鸞さま御一人(ごいちにん)です」と申し上げる人でした。それがいろいろな面で誤解もされました。「思い上がりも甚だしい」。そんなのまで言われました。でも母にとっては親鸞さまは一番大切な人であり、この世の中で一番大切な書物は『歎異抄』でございました。ですから、私はこの前、お出での金光先生とお話の中にちょっと出ましたけれど、『歎異抄』はその人、その人の読み物です。「誰がこうだからこう思いなさい。こうだからこうだ」ということはありません。その人一人ひとりがその『歎異抄』を読み取って下さればいいんですね。私は私なりの『歎異抄』。母は母なりの『歎異抄』。あなたはあなたの『歎異抄』をしっかりと読み通すことが一番大事だと思います。『歎異抄』は何度も何度も原文でお読みになると、心の中に沁み通ります。私は若い頃は、「親鸞何者ぞ」「『歎異抄』何者ぞ」というような本当に畏(おそ)れ多いような思いをもっていました。でも母に教えられた通り、自分の一番悲しい時、辛い時に、『歎異抄』を開きました。それまで、「開くことまかりならん」と止められました。そして友だちが亡くなって、本当にどうしようもない時、『歎異抄』を開きました。その時に、母と同じように涙が流れて仕方がありませんでした。その時初めて母の言葉が分かりました。私一人の『歎異抄』、母の『歎異抄』、そういうことを思いました。別に、「どこそこに、何箇条に何がこうあるからこうだ」というようなことではないです。私は自分でどうにもこうにもしようのない時は、仏壇の前に『歎異抄』を開いて、そして開いた時に、その一節を読めばそれで心が和みます。そんな読み方をしております。母はないことに悲しみを覚えたこともありました。何もないんです。手も足もない。お金もない。何もない。それが大きく変わったのは『歎異抄』に出遇ってからなんですね。そして母は、「ある、ある、ある」という世界に変わりました。手が此処までないのではない。これから上あるではないか。足も膝から下ないのではない。膝から上あるではないか。目が見えないのではない。心の目が開いて自分の心の奥が見える。耳が聞こえないのではない。風のそよぐ音、私は心に何かを頂くことが出来る。お金もこれだけしかないのではない。これだけあるではないか。このお金をどんなに使おう。戦争中はお米が配給でした。親子三人で一日一合ずつしかない。その時にお客さまが見えるんです。じゃ、この一合の米をどうしよう。これだけしかない、と言った時に、母は、「大根を切りなさい、野菜を切りなさい」。そして、お粥をいっぱい作り、雑炊を作り、十人近くの人は温かいお粥を食べることが出来ました。「ある」喜びを知りなさい。「無い」と言って泣くよりも、「ある」ことを思いなさい。どれほど心が豊かになるか分からない。だから母はお金がなくても、物がなくても、全然苦にならない人でした。そんな母を見ていて、私は、「いいな。母のようになれるといいな」そんなことを思いました。母はとても興行の世界が嫌でした。男社会ですし、いろいろなことがありますし、辛いこといっぱいありました。その時にこの中から逃げ出したいと思ったんですね。何とか神さま仏さま助けて下さい。私はこの世界から出して下さい。でも『歎異抄』に遇(あ)いて、その後、心が明るくなる。ある時、「そうだ。私はこの興行の世界あればこそ生きて来らた。育てられた。この世界がなければ私は生きてくることが出来なかった。この世界あればこそ私はこうやって皆様ともお目にかかれる。一番有り難い興行の世界が生活の場になりました。神さまや仏さまが久子、お前出ておいで≠ニ、お声のかかるまで、私はこの中でしっかり生きていこう。そう思い定めたら、本当に気が楽になった」そうなんですね。「坩堝(るつぼ)が坩堝でなくなりました。この社会があればこそ、私は生きて来られた。有り難かった」。母は、そして自分の手足のない身体に感謝することが出来るようになりました。手足がなければこそいろいろな偉い先生方の教えを受けることが出来ました。曽我量深(そがりょうじん)先生に、暁烏(あけがらす)敏先生に、金子大栄先生に、足利(あしかが)淨(じょう)圓(えん)先生、みなさまが母にいろいろなことを教えて下さった。「仮に、これが普通の身体であったら、とてもその方たちからもお声もかからない。お教えも受けられない。そうすると、私は、今のようにしてくれた手足のないこの身体が私にとっては最高の贈り物だった」そう言いました。
母は、自分の命の終わるまでに、三つのことをきちんとしたかった。それは一番最初には、「御恩」というお話を放送した時に、皆様からお金を頂きました。素晴らしいお母さまです。浄財が寄せられました。これを何に使おうかな、と思いました時に、「そうだ、我が母、皆様のお心の中にある母を観音様にしたい。お祀りしたい」。そして観音様を建てようと思いました。そして昭和四十年に建てることが出来ました。ある方はこうおっしゃったんです。「中村は不遜だ」。何故というと、「自分の親を観音様になぞらえて、それを像に建てて、みんなに詣らせるとは何事だ」とおっしゃった方があるんです。母は、「違う」と言ったんです。母は、「皆様の心の中にある母親、子どもの持つ母親、それを一つの観音様に顕わして、その観音様にお詣りして頂きたい。自分の母に詣ってくれというのではありません」。それぞれの方の親なんですね。それであそこ(国分寺)に建てました。その次ぎは、母に一番最初に御恩を教えて下さった、親の愛を、いのちの尊さを教えて下さった座古先生の法会(ほうえ)をしたい。終戦の時に亡くなられておりました。そして二十三回忌を、昭和四十二年にそれを済ませることが出来ました。一年間はもの凄く飛んで歩いて、私は心配になって、「母さん、止めなさい」と言ったんです。「私が座古先生の消息がわかれば、座古先生のためにお経を上げますから。お祀りしますから」と言った。母は一言で、「あなたは致しません」と言われました。だから、「それもそうだなあ」と思ったんですね。そして、それを昭和四十二年に済ませました。午前中は神戸女学園の有賀院長さまの教会でミサを、午後は山田無文(むもん)老師さまが導師になって、祥福(しょうふく)寺でお経をあげました。母はホッとしました。そして昭和四十三年に、半年後にこの世を去りました。最後の願いは、母は、「解剖にして欲しい。私は何もお役に立っていない。この身体に七十年生きてこられたのは、どれほどの身体の中にある分からない。解剖をして少しでも医学のお役に立てて欲しい」。それは母の三十年来の夢でした。それをやって欲しい。私は躊躇(ちゅうちょ)を感じました。親の生きている間に解剖のことを相談なんて出来ますか。でも、二、三日経つうちに、母が訊きました。「先生、何とおっしゃった?」。「うん、今日は学会」「今日はなんとか」と誤魔化したんですね。母がとっても淋しいような顔をしたんです。「富子、母さんは今度は死にますよ」。「ああ、そうだ。私は残された親孝行は母を解剖することをちゃんとしてあげることしかないんだ」と思いました。母の三つ目の願いを、最後の願いです。そして木下博士にお電話して、いろいろ骨をおって頂きました。岐阜医大の尾島教授の執刀で解剖をすることに決まりました。そして遺体は亡くなったら、母の主治医をして下さった加藤先生が、「自分の車で医大まで運びます」とおっしゃって下さった。それを母に申しました。「母さん、決まりました」。「そう」。「先生は尾島教授で、加藤先生は母さんを車で医大まで送って下さいます」そう言いました。「みなさんにご迷惑掛けてね」と言いました。ホッとし、ニッコリ笑いました。その時に、「富子に一番悲しい思いをさせました。辛いことを頼みました」と言って母は涙をしました。なんとも言いようがない。そして尾島教授の名前を母に申しました時、「そう、お目にかからないでね、尾島教授に宜しく、宜しく申し上げて下さい」そう言って、三月十九日に亡くなりました。そして遺体を岐阜まで送って連れて戻りました。私は、解剖というものは開きながら調べていくと思いました。そうしたら、全部置いておくんですね。脳は脳で置き、内臓は内臓で置き、だから二十キロ目方が減りました。家へ連れて来て、普通の重さだと思って、母の布団、ベッドに寝かせようと思って、手を差し入れてグッと持ち上げたら、あまりの軽さにビックリしました。ああ、これが解剖か。その時思いました。伺いましたら、「血も出ます。二十キロ以上体重は減ります」とおっしゃった。だから、今でも全部あるんですね。だから、「いろいろな病気がありました。よくこのお身体で七十二年、見事です」とおっしゃって下さった。肺が片一方全然働いていない。肝硬変で肝臓もやられています。眼も手術しています。耳も手術しています。切っていないのは背中だけです。この身体でよう七十二年生きてこられました。お見事です」。私は、尾島教授のその言葉が、最高に母への餞(はなむけ)の言葉だと思っております。母のいうように、人間病気では絶対死にません。その人の寿命の終わる時に、その人はこの世から去るのですね。だから長い人生の方がある。お腹の中で亡くなる方もある。人それぞれの生命(いのち)なのですね。母の言うように、私は生命を大切にして頂きたい。与えられた生命(いのち)です。自分で絶ってはいけないんですね。母は自殺をなさった方の記事を読むと涙をこぼします。仏壇の前へいって手を合わせます。私は母の為にも自殺はしない。生命(いのち)を大切にしていきたい。それを思います。そして私に与えてくれた言葉は、「富子、自分を大事にしなさい。この世の中で自分が自分を捨てたら誰が拾うんですか。自分はどうなりますか。この世で一番愛(いと)おしいものは自分です。愛するのも自分です。自分自身を愛し、愛(いと)おしんで下さい。自分を愛せない、愛おしめない人に、なんで他人を愛することが出来ますか。他人の生命(いのち)を大切にすることが出来ますか。自分を大事にして下さいね」と言いました。それと同時に、母は、「母さんの一番の悲しいことは手がないです。だから合掌が出来ません」。母はこれまでしか無い手をこう合わせて拝んでいました。此処に数珠を掛けて。そして、「富子は手があるんです。だからこの手の平に母さんの心、あなたの心を合わせて、しっかり合掌して欲しい。生命(いのち)も頂いているもの、生きとし生けるものの中で合掌の姿の出来るのは人間のみです」と母は言いました。それと、「気高い姿の出来るのは人間だけなんです。その美しい気高い姿が出来るあなたがいい加減な合掌をしてはいけません。合掌は決して仏教だけのものではありません。あらゆる宗教で一緒のものなんです。クリスチャンの人も手を合わせます。マホメットの人も手を合わせます。無神論者の人も何かあるとパッと手を合わせます。決して仏教だけの儀礼であるなどと思わず、合掌の出来ますことに喜びを感じて欲しい。富子、あなたは母さんの分まで合掌して欲しい」。そう願いましたのに、その合掌が思うようにしてあげられなかった。母が亡くなった時、私は初めて仏壇の前で自分の手を見、あれほど願った母のために、私は心を込めて、「今日から合掌しよう」と思いました。そして、「母さんごめんね」。今、この私の合掌の姿を見て、母さん、有り難い。富子、よくやってくれたね。それでいいのよ≠ニ言ってくれるような思いがしてなりません。ただ合掌してみると、フッと見ると、母がいるような気がするんですね。私はみなさんもどうぞ母の思いと同じように、合掌というものは宗教的な儀礼ではない、ということに心を込めて合掌して欲しい、と思います。私は、母が言って残してくれた、「自分を大切にしなさい。生命(いのち)を大切に、合掌としなさい。いつも自分といのちと向き合って生きて欲しい。いろいろな苦しいことも悲しいこともあります。それでも、人のせいにしないこと」その言葉をしみじみと私は思います。両手両足のない母がどんな思いで、こんな愚かな子を育ててくれたんだろう、と思います。親の恩も何にも思わずに、最高の親不幸です。母が、一言でも、「母さんはこれをする時に、こんなに苦労したんだ。何年もかかったのよ」と言えば、私は、ある程度母の思いも分かったかも知れません。それと同時に、うるさいな、と思ったかも知れません。そんなことと言わんでも分かっている。誰でも出来る、と思っていた自分の愚かさ。「この世の中で当たり前ということは決してないんですよ、富子。絶対に当たり前のことはない。みんなそれぞれの理由があるんだ。有り難いと思いなさい」というのに、なかなかそう思えないんですね。だから、私は母の思いが年々歳々自分に深く残ってくるような気がしてなりません。
私は、この間、朝日新聞を見ておりましたら、この記事がありました。この記事を是非一緒に聞いて終わらせて頂きたいと思います。小学校五年の男の子です。この方、おばあちゃんも母さんもいない。学校で、「詩を書いて下さい」と言われて書かれた詩が、「ぼくには愛がある」。これは後から書いたんですね。その前の時に先生は、「あ、この子には何かいいものがある筈だ」と言って、教えられた。最初の詩はこういう詩だったんです。
 
みんなにあって
ぼくにはない
みんなにあるおかあさん
ぼくにはないおかあさん
みんなにあってぼくにはない
みんなにあるおばあちゃん
ぼくにはないおばあちゃん
 
そこまで書いて出したんです。この先生は素晴らしいと思うんですね。この子にも何か、もっとある筈だ。何かある筈だ。その子を呼んで、「お前、ない、ないじゃない。みんなにあって僕はない。だけど、みんなになくて自分にあるものがあるだろう。よく考えてもう一度考えて考えて書いて持って来い」と言った時に、持っていったのがこの詩なんです。
 
ぼくには愛がある
みんなにあって
ぼくにはない
みんなにあるお母さん
ぼくにはないお母さん
みんなにあって
ぼくにはない
みんなにあるおばあちゃん
ぼくにはないおばあちゃん
だけどぼくには愛がある
みんなに負けない愛がある
 
それを読んだ時、涙がポロポロこぼれました。素晴らしいです。小学校五年の男の子。みんなには負けない愛がある。そんな子に育てていったら、と私は願っております。纏まりなくお話をしてしまいました。有り難うございました。
 
 
     これは、平成十四年十一月二十四日に、京都市の光華女子学園で
     講演されたものである