故郷(ふるさと)への回帰に思う

 
                         京都大学名誉教授 河 合(かわい)  雅 雄(まさお)
一九二四年兵庫県篠山生まれ。日本モンキーセンター所長などを経て、現在、兵庫県立人と自然の博物館長、丹波の森公苑長。
                         き き て    峯 尾  武 男
 
ナレーター: 兵庫県丹波の篠山市は、サルの研究で知られる河合雅雄さんの故郷(ふるさと)です。河合さんは、四十六年間故郷を離れ、日本モンキーセンターのある愛知県犬山市で過ごしましたが、残された人生を故郷で送るために帰って来ました。篠山城の城跡は、河合さん少年時代のたくさんの思い出のある場所です。
 

 
峯尾:  河合さん、この辺りも遊び場だったんでしょう。
 
河合:  そうなんですね。この上に非常に古いスモモの木がありまして、こんな大きな実がなったんですよ。それは勿論持ち主はあったんだけど、それをこっそり取るのがもの凄い快感でね、ここからソーッと上っていくとかね、悪いことしたもんですよ。
 
峯尾:  四十六年間、犬山にいらっしゃって、その間にも勿論しばしば帰って来てはいるでしょうけど、やはりこの辺りは、昔と比べると随分変わっているでしょうね。
 
河合:  今はこんな綺麗に、いい公園になっているでしょう。それはすっかり変わりましたね。子どもの頃は、この中にもキツネ、タヌキもムササビもいっぱいおったんで、ちょっと信じられないでしょう。
 
峯尾:  犬山に長い間住んでおられた河合さんが、故郷へ戻って来られたのは、何故なんですか。
 
河合:  やっぱり歳いって、それでまた私は故郷がすごく好きですからね、余生は故郷で、と。そしてほんとに自分を育ててくれた土地に少しでも恩返し出来たら─ちょっと烏滸(おこ)がましいんですけど、そういう気持はありますね。
 
峯尾:  「余生は」とおっしゃいましたけれども、一人でのんびり好きなことをするということよりは、いろいろな意味でもまだ活動は続けていらっしゃる。
 
河合:  そうですね。なんといっても、豊かな自然を自分らのほんとの生活の中に取り入れた二十一世紀のほんとに心の豊かな生活を、みんなで共有しようじゃないか。そういうことを仲間とやっているわけです。
 

ナレーター: 篠山市の隣町・柏原(かいばら)町にある「丹波の森公苑(こうえん)」。平成八年に出来たこの公苑の広さは、六十五ヘクタール。河合さんは、この公苑の公苑長をしています。豊かな自然と触れ合いながら、地域や世代を超えて、音楽や演劇、スポーツ、リクリェーションなどが楽しめるいろいろな施設があります。その一つ、絵画アトリエをお借りしました。
 

 
峯尾:  この「丹波の森公苑」を拠点にして、「丹波の森つくり」というスケールの大きいお話があるんだそうですが、それはまた後半でじっくり聞かせて頂くとして、このガラス張りになっている、この私たちのいる部屋は?
 
河合:  これはアトリエなんです。ここは絵を描く人のために、上にもう一つ彫刻の人のためにありまして、特に若い芸術家なんかが制作なさるのに、此処で泊まり込んでいろんな制作して頂くように、という意味で作ってあるわけです。
峯尾:  公苑長さんとしての河合さんは、こちらへは定期的にいらっしゃっているんですか。
 
河合:  ええ。一週間に一遍、此処へ来ています。
 
峯尾:  河合さんが故郷へ戻っていらっしゃって、これからをご自身の「林住(りんじゅう)期>泓ムに住む期間にするんだ」とおっしゃっているんですが、この「林住期」というのは、どういうことなんですか。ちょっと教えて下さい。
 
河合:  これはインドのヒンズー教の教えがあって、人間って一生ありますね。生まれて育って、壮年期、老年期を迎えて、必ず死ぬ。これはもうどうしようもない、すべての人が担う運命。これをどう生きるかというのは、これは昔から凄い課題ですね。それがヒンズーの教えでは、四つに分けるというんですね。一つは「学生(がくしょう)期」。それから二番目が「家住(かじゅう)期」。三番目が、「林住期」。四番目が「遊行(ゆぎょう)期」。この四つに分けて、ヒンズーの教えは考えている。「学生(がくしょう)期」というのは、まさにいろんなことを学んで、そして世の中に出て役に立っていく。それから「家住期」というのは、結婚し、家を持ち、子どもを育て、そこで学んできたことを土台にして社会活動をする。それが済むと、サラリーマン社会では定年ですね。定年後どうするか。これは「林住(りんじゅう)期」という期に入る。これは自分の主だった仕事から離れて、一つの自己完成と言いますか、自己を成熟させていく。つまりいろんな教養を身に付け、自然に親しみ、或いは社会に奉仕し、そうやって自己完成していく。それが「林住期」。それが終わると「遊行(ゆぎょう)期」。これは誰でも行ける道じゃないらしいんですね。聖人になっていく道。それは「林住期」を全うした人が、「遊行期」に入って、「遊行期」を過ぎた人は、聖人か、仏さんになる、と。そういうように分けているわけです。「遊行期」というまではなかなかいかないまでも、確かに「林住期」というのは、非常にいい言い方だと思うんですね。
 
峯尾:  その前の「学生期」でいえば、河合さんの場合には、篠山で過ごされて、京都の大学へ行かれて、新潟の旧制高校にも行っていらっしゃいますが、それからそうすると、「家住期」が四十六年に亘る愛知県犬山市ということになりますね。
 
河合:  そうなんですね。実は、今無くなっているんですが、篠山に、「兵庫農科大学」というのがあったんですよ。県立の農科大学。今は神戸大学農学部になったわけですが、そこの生物学の助手をしていました。サルの研究をしていたわけですが、霊長類というのは、いわゆるサル類と人間と合わせたグループを霊長類と言うわけです。ですから生物学的には、我々はサルの仲間です。高等なサルということになります。霊長類学を戦後始めたのは、実は日本で始まったんです。で、私もその一番最初から研究に参加していましてね。今西(いまにし)錦司(きんじ)(1902〜1992:生態学者。人類学者。日本の霊長類学の創始者。京都帝国大学農学部卒業(1928)。京都大学、岡山大学で教授職、岐阜大学では学長を歴任。日本の登山界、生態学、人類学、霊長類学と多方面で活躍された)先生とか、宮地伝三郎(みやじでんざぶろう)(明治三十四年広島県の生れ。東大動物科卒。理学博士、京大教授。魚、猿、昆虫等の生態学を研究し「有用動物学」「動物の生態」「動物通信簿」など多くの著書がある)先生の私は弟子なんです。そこでサルの研究を始めました。けども、ほんとに新しい学問というのは、なかなか大学で定着するというのは難しいんですよ。いわば入る余地がない。でも、若かったですから、とにかく民間の研究所を作って、霊長類学をやっていこうじゃないか、というので、いろいろ探している時に、愛知県の犬山市─そこに名古屋鉄道があるわけですね。名古屋鉄道がスポンサーになって、財団法人の研究所を作ろうということになったわけです。そのために、私は兵庫農科大学を辞めて─それまではいわば学生期ですけどね─犬山へ赴(おもむ)きまして、モンキーセンターを作る。そういう仕事をやっていったわけです。その時は、勿論私だけの力で出来るんじゃなくって、伊谷(いたに)純一郎という非常に優れた仲間がおりまして、彼と二人で犬山へ赴きました。
 
峯尾:  いらっしゃったのが、昭和三十一年ですね。そしてモンキーセンターを作るといっても、では犬山には既にサルはいたんですか。
 
河合:  木曽川が横に流れていますでしょう。これはライン下りと言って、ちょうど十二キロ位を舟で下りてくる。崖の横をズーッと下りていくんですよね。これが非常にラインの景観に似ているから、「ライン下り」と言っているんですが、崖のところに日本サルの一群が住んでいたんです、かつてはね。それが残念ながら戦争中にいなくなったんです。それを観光地に復元したいというのが、名古屋鉄道の方では一番の希望だったわけですね。私たちは財団法人の研究所を作ってくれ、と。それが合致して、「じゃ、研究所も作りましょう。その代わりサルをもう一遍復元してくれ」ということがあったんです。簡単に言いますけどね。野生のサルをもう一遍復元するというのは、誰もやったことないし。ところがそれまでにも、我々はずーっと調べていましたから、実は日本で野生のサルを捕る人たちがいる、サルを捕るところがあるんです、一つだけ。それは屋久島なんです。屋久島というのは鹿児島県の端っこですが、そこは昔から島の人はこう言っているんですね、「この島は人二万、サル二万、鹿二万、合わせて口六万。これが屋久島の住民だ」と、こう言っているんですよ。そこでは勿論鹿も捕って食べ、いろんなことをする。サルを生け捕りする猟師が屋久島だけいるんですよ。その人たちと私たちはずーっと仲良かったから、そこの人たちに頼んで、サルを捕って貰いました。特別の罠で捕るんですけどね。そしてその屋久島からはるばる犬山へ持ってきて、そこで一つの群を作ったわけです。どうして群が出来ていくのか、という研究には非常に役立ったんですね。見知らぬサルばっかりやってきて、仲良くなって、そこにリーダーの雄サルも出来、順位も出来、社会秩序を持った一つの群が出来る。これは非常にいい研究になりました。今度はそれを山に放すわけです。これは大変な仕事でしてね。誰も、「放したら逃げてしまうんじゃないか」というわけだし、名古屋鉄道の人も、「そんなことして大丈夫か」というわけです。そのためには勿論いくつかの順番がありまして、群を作り、最後に直径四十メートル位の大きな囲いケージを作りまして、そこに一群八十頭飼って、人が全部外から見えるようになっているんですよ。その出たところが非常に急峻な崖なんですね。これはサルが止まり場にちゅうどいい。そういうところを選んで、日本サルの野生の群の研究から、日本サルの群というのは、無茶苦茶あちこちへいくもんではないな、と。自分の必ず行動する範囲─「行動域」と言っていますけど、それをちゃんと作って、そこで自分らの生活を作っていく。じゃ、この山をどう使っていくだろうか、と。これは勿論想像ですよ。サルがその通りいくかは別ですけど、そういうちゃんと理論的な要素を作って、「大丈夫です」と言っていた。実は不安だったですね。それでちょうど三十二年三月十五日に囲いを外しました。飼育のおじいさんが一人いたんです。そのおじいさんが非常に馴れ親しんでいたんです。私たちも割合馴れていたんですね。ところが囲いを取っちゃうと、サルはちょっとビックリして、キョロキョロしていましたよ。そのうちに若者がスーッと動き出した。そうすると、水道の栓捻ったように、みんなが列をなして声も立てず振り向きもせず、スーッと全部山の中に消えちゃったんです。もう飼育のおじいさんはほんとに呆然としていた。あれだけ可愛がってやったのに、向こうへ行っちゃったわけですよ。その時はビックリしました。けどね、ちょうどその日に春雪が降ったんですよ。大抵三月に一回雪が降りますよね。それでサルはいい餌がないし、そこで実は群は分裂するんですよ。リーダーはちゃんと出来ていて、補佐役の年寄りのサルがいた。此奴はよう猫被っていたんです。おとなしくしていたんだけど、実は自分の子分を作った。そして放したでしょう。それで子分たちを連れて別のところへ行っちゃったんですよ。そいつらは大方死にましたけどね。餌がないのでね。そうやって三日目に餌場へ戻ってきました。その時は、もう一遍に野生のサルですよ。凄く人間を警戒しているわけですね。あれだけ餌をやって馴れたのに。そこで土屋さんというおじいさんですけどね、餌持って一人でトボトボ出て来ましたよ。そうするとサルはジッと見ているわけです。土屋さんがしゃがんで、こうやって拝むようにしていました。僕らはずっと後ろで見ていました。そうすると、おじいさんが可愛がっていたサルがチョコチョコと来て、ほんとに目の前で餌を取ったんです、芋を。あの時は土屋さんほんとに涙零しましたよ。それを見ていた我々もほんとに感激しました。そこからサル戻ってきていました。そういうことが非常に上手くいきまして、それでモンキーセンターを作っていくという信頼も、名古屋鉄道の方からも得たし、財団法人の小さな研究所ですけど出来ました。それから大きな動物園を作り、それから十年経って、京都大学の霊長類研究所─今、非常に大きな研究所がありますが─研究所作りをやったんです。研究所が出来て、私はそちらへ移りました。
 
峯尾:  その間に宮崎県の幸島(こうしま)のサルを研究なさったり、それから河合さんご自身は、アフリカへいらっしゃったりして、ゴリラを見たり、ゲラダヒヒを観察したり、まさにサル学と、最初にご紹介したし、河合さんもさっきおしゃいましたけども、霊長類であり、サルが人へ進化する過程を、サルの社会学や文化を研究なさって確立したとすると、河合さんは、「人類学者」というふうに言われることもありますよね。
 
河合:  ええ。霊長類学というのは、学問としては人類学に入っているんです。サルは動物ですけど、霊長類の中に人間も入っているわけですから、霊長類学というのは、人間とは何か、ということを生物学的に研究する。そして人間はどこで生まれて、どうしてサルから進化したのか。そういう人間の存在そのものを、自然科学の手法で調べる、ということですから、これは人類学の中に入っているんです。ですから、私がサルを研究しているということは、広い意味での人間学ですね。
 
峯尾:  家住期のほとんど四十六年間を犬山で過ごされて、さまざまな実績をあげられて、そして故郷に戻られたのは、周りの人にとっては割合突然の話だったようですね。
 
河合:  ええ。
 
峯尾:  急に思い付かれたというか、そういう気になられたんですか。
 
河合:  かなり急になんか思い立ちましたね。当然、犬山にいると、みなさん思い込んでいましたし、私もそう思っていたんですよ。ところが一つは、私は兵庫県生まれですから、兵庫県の仕事が非常に多くなったんですね。県の教育委員を八年やりましたし、それから兵庫県立の人と自然博物館の館長もやり、それから今此処にいる「丹波の森公苑」、これ出来る時から、委員会から作り、それから「丹波の森大学」というんですが、私はその学長ということで、もう十一年になります。そういうことで、とにかく兵庫県の仕事が非常に多くなりました。それが一つの大きな背景なんですけども、やっぱり人間って、一生があって、私もほんとに長生きさせてもらって、後ほんとに死期までどうするか。そういう林住期を自分で持たなければいけない。そうなると、やっぱり生まれ育った故郷が一番いいなあ、と。というのは、私は特に子どもの時から自然が好きですから、故郷の自然にドップリ浸かってきました。自分の基本的なパーソナリティーは、みんな子どもの時出来たんじゃないかと思うんですね。それからもう一つは、ずーっと病弱だったもんですからね、実は五十まで生きれればいいと、ほんとに思っていたんですよ。ところがこれが人生の不思議でしてね、五十位から元気になった、初めて。それまでほんとに熱出したり、そんなことばっかりするんですが、健康というものを貰ったと思います。これも不思議なことなんですね。だから他人から、「健康の秘密は」とよく訊かれるんですね。私は、「神の恩寵(おんちょう)です」と言うんです。ふざけて言っているんでも何でもないですよ。別に特定の神を信じるとか、何でもないんですが、自分の力でない、何か大きなものが生かしてくれているという気はほんとにあるんです。ですからせめて余生を自分を育ててくれた故郷へ帰って、いろんなことに関わっていますから、何かお役に立つことがあれば、そういう気持が急に強くなりました。林住期をほんとに自分自身も自然に親しみ、故郷でゆっくり土に帰ろうということですね。それともう一つは、犬山というところは、私にとっては闘いの場所だったという感じがします。つまり霊長類学を興していくというのは、なかなか大変なことでした。弟子も育て、アフリカに出向いたり。犬山にいるとずーっとその延長なんですよね。みんな研究仲間、弟子たちがみんなおります。で、モンキーセンターもあります。ずーっと延長になりますから、なんか自分の安らいの地が欲しいなあ、という気に急になってきた、というのは、私にとって割合、自然な心の動きだったかなあという、そういう気がしていますね。
 
峯尾:  去年、一本の映画「森の学校」が作られました。これは河合さんが、昭和五十一年でしたか、五十二歳にお書きになった、『少年動物誌』をもとに、自主製作で作られた映画で、この『少年動物誌』は、河合さんご自身が、少年時代にさまざまな動物と接触し、動物と遊んだ、動物を勉強した、それを書かれている、という言い方でよろしゅうございましょうか。
 
河合:  そうなんですね。子どもの時はほんとは自然が好きで、特に動物好きでした。ですから閑さえあれば、こういう里山を歩き回り、それから川で魚取りをし、それから鳥をとって来て飼ったり、そういうことをしていたわけですね。それで小学三年の時、小児結核になりまして、学校半分位しか行っていないんですよ。そういう意味でも閑で退屈なんですよ。だから動物を飼って、動物はほんとの友だちだった、ということがあって、いろんな動物たちとほんとに仲良くしてきましたから、その思い出を書いたものですね。
 
峯尾:  これは一般の映画館でドンドン上映されているというものではなくて、あの映画を見る会が各地で催されて、私も拝見しましたけれども、まさに河合家の男ばかり六人兄弟の三男坊として生まれた雅雄少年、「マト」という、
 
河合:  そうなんです。子どもの時はね、「マト」と呼ばれていたんで す。
 
峯尾:  お兄さんの後を継いで、ガキ大将になって、そして対立するグループが弱いものを虐めているのを見て、喧嘩をしたり、それこそあのお城の石垣を登ったり、動物もたくさん飼われたり、いっぱいそういう話が出てきますね。
 
河合:  ええ。
 

 
ナレーター: 映画「森の学校」は、河合さんの故郷、丹波篠山を舞台に、豊かな自然の中でやんちゃなガキ大将であった雅雄少年と仲間たちの日々を描いています。その一方では、雅雄少年は、身体は弱く、学校も休みがちで、生き物と遊ぶのが何よりの楽しみでした。身近な自然の森を学校に、家庭、学校、地域が一体になって子育てする大切さを、映画は訴えています。
 

 
峯尾:  あの「森の学校」の上映会に行きましたら、子どもを連れたお父さんお母さんとか、それから年輩の男性女性も大勢見に来ていましたけれども、あれが昭和十年位の時代の話ですよね。
 
河合:  そうなんです。
 
峯尾:  「昔の子どもは良かったなあ」という思いと、「あ、昔はこんなふうにして、とにかく遊び回っていたんだ」という思いを持って見ている人と、子どもたちの中には、「昔は大変だったなあ、汚かったなあ」という思いと、いろいろあると思いますが、しかし今は見られない光景ですよね。
 
河合:  そうですね。今はとにかく「学力、学力」と言い過ぎると思います。子どもにとっては、学校は凄く大事ですね。一番大事なのはやっぱり家庭なんですよ。やっぱり家庭がしっかりしている。学校というのは本来学びの場所ですよ。それから地域が育てる。だから家庭と学校と地域、この三つが一体となって、それで子どもだけの世界がある。それが大きな自然の中で、子どもたちが遊び育っていく。これがやっぱり子どもを育てていくための一番大事なことだと思うんですね。だから昔はある意味で、子育ては楽だったと思いますよ。全部揃っていたわけですよ。難しいこと言わなくたって。今はほとんどが崩壊している。というのは、一番大きなことは、「核家族、少子になった」という、家庭が変わってしまった。いけないというのではなくって、新しい家庭が出来たわけです。核家族、少子という、まったく新しい家族像の中で、どう子どもを育てるか。これ非常に難しいことですね。学校は、「学力、学力」と、ちょっと言い過ぎるし、「地域が子どもを育てる」という、そういう温かさが薄れましたね。「子どもだけの世界」がなくなる。で、もう一つは、「自然と遊ばない」。自然は豊かな自然いっぱいあるんですよ。自然と遊ばなくなった。子どもはゲームだとか、或いはテレビだとか、或いは塾だとか、けっこう忙しいんですよね。だけど自然と触れることがなくなっている。これは非常に残念ですね。
 
峯尾:  映画の中で雅雄少年と弟さんが、あれ五位鷺(ごいさぎ)でしたっけ、餌にするためにカエルを捕りに行って、パチンコでカエルをバンバン撃って殺す。カエルが白い腹を見せてこう浮かんでいる、というのにショックを受けるというか、その表情が脳裏に残っているんですが、ああいうことも子どもというのはけっこう残酷なことをして、それでまた育っていくんですね。
 
河合:  そうですね。あのことは、今でもハッキリ覚えています。どの子どももやっぱり残虐な気持というのは持っているんですよ。それを如何にうまく抑えることを自分自身で身に付けるか、というのが大事なわけですね。それがカエルを五位鷺にやるためですけれども、殺すのはやっぱり面白いことがあるわけですよ。ポーンと当たったらピーンと伸びますね。そのうちに死屍累々(ししるいるい)のカエルを見て、ゾーッとするわけですね。つまり自分の残虐な心に気が付く。そうすると、まあ何とも言えぬ虚(むな)しいというか、自分自身の残酷さに目覚めた思いというのは忘れられませんね。それで弟の道男、「ミト」と言っているけど、ミトも同じことをハッと同時に思うわけです。ものも言わない。けど、何かもの凄く大きな後悔。そうすると、後はそういうことをしないんですよ。だから、「そんな残酷なことをしてはいけない」とか、そういうことを言うのも大事ですけども、自分自身が体験する。そういう場が今ちょっと少なくなっているんですね。そこをちゃんと子育てするのは、なかなか辛いとこです。
 
峯尾:  子どもが少なくなってしまったとか、今の教育現状では勉強しかないんだ、というような形で諦めずに、子どもをもう一度自然に触れさせよう。或いは子どものことを社会みんなが考えよう、という試みは、各地であると思うんですが、兵庫県の場合も、小学校五年生を対象に、自然教育をキッチリ、カリキュラムの中に組んでいるんだそうですね。
 
河合:  ええ。兵庫県の小学五年生は、全部で約六万人位おりますけどね。各学校が五泊六日の自然教育をやるんです。何をやるかは、学校が選ぶんです。海へ行ったり、スキーに行ったり、山でキャンプしたり、そういうことで五泊六日。それがもう十三、四年続いているんです。始まった時は、凄い反対が起こったわけですよ。一つは、お母さん方はやっぱり学力が落ちるというのと、もう一つは、本心無茶苦茶心配で寂しいんですよ。子どもが居なくなるというのは。だから一泊二日とか、せいぜい二泊位にして欲しいという要望があったわけですよ。僕は、長いからいいんだ。短ければ意味ないです。今の子育ての一つの問題点だと思うんですが、親子が密着し過ぎているんですよ。特に母子が密着し過ぎている。で、我々の時代、峯尾さんも当然そうだと思うけど、そんなに親子密着していないでしょう。
 
峯尾:  そんな閑は母親には無かったですね。
 
河合:  無いですね。それからけっこうご飯焚くんでも薪で焚く。洗濯だって手で洗うでしょう。夜は繕いをしますから忙しいですよね、お母さんって。僕なんかね、母親から一番よく聞いたのは、「今日は天気がいいから、外で遊んで来い」と。それぐらいですよ。ほんとに全部放り出したんですね。放り出された子ども集団があったわけですね。そういう意味では非常に子どもの世界というのは、ある意味でちゃんとあって健全であった。今は全部お母さんの傘の下。お母さんはもの凄く心配になったり、そういうのを味わう方がいいんですよ。子どもというのはもうすぐにケロッとしてね、楽しいところには楽しいんですから、ということになるでしょう。それは非常に成功しましたね。兵庫県は、自然学校のための施設をいろいろ作っていまして、但馬(たじま)には、「南但馬自然学校」があります。これは冒険も出来る大きな山を持っているんですよ。みんながキャンプする施設もあります。そこで、小学四年生にツクシとか、フナとか、いろいろ絵を描かせているんですよ。鶏とかね。勿論、三本足とか四本足の鶏が出てくるんですよ。ビックリしたのは、「フナの絵を描け」と言ったら、金魚みたいな絵を描けばもう正解なんですよ。正解が六パーセント、
 
峯尾:  六パーセント?
 
河合:  それでフナのイメージも湧かないという子が、おおかた四十パーセントあるんです。それで僕はやっぱり困ったなあと思ったのは、神戸の子もほんとに但馬の田舎の子もあんまり変わらない。田舎の子というのは、ほんとにこういう自然に囲まれているのに、自然と触れていないんですね。もう一つは、これは大人の責任ですね。小ブナがいなくなりましたよ。ちょっとした小川でも、或いは田圃の落ち口でもギョギョッと掬(すく)ったら、網の中にイモリや小ブナやメダカ、勿論、ミズカマキリなど、ガチャガチャと入ったでしょう。今何にもいないんですよ。それは、大人が子どもから自然を取り上げちゃったということはいかんと思うんですね。やっぱり子どもに返してやる。出来るだけ自然に触れる機会を積極的に作る。そういうことが大事だなあと思いますね。例えば、僕は一番よく言っているのは「川遊び」。今ほとんど川で遊ばせないでしょう。プールですね。僕は出来ればあのプールは全部防火用水にして欲しいですね。
 
峯尾:  はあ・・・
 
河合:  子どもはもう川で泳ぐ。川で泳ぐためには、川を綺麗にしなければいけないでしょう。そうすると、みんなが生活排水を流さないとか、農薬を使わないとか、環境がみな綺麗になりますよ。子どもは外へ行くのがいっぱい増えた川になりますから喜々として遊ぶ。だけど、そんな面倒くさいこと言わなくっても、やっぱり大事なことは、さっきカエルの話をしましたけど、「生き物たちがほんとにいのち≠持って生きている」というところがとても大事だ、と思います。私は、「自然に親しめ、親しめ」という一番大きなことは、特に今の子どもたちは、ほとんど「物と対話」しているわけですね。物と遊んでいるでしょう。そんなことばっかりしていると、非常に「心が乾燥」して、「無機的」になって、「相手のことを思いやる」ことなど必要ないし、無くなりますね。ところが自然に出ると、ちょっと向こうの山へ行くと、周りの木も草も鳴いている鳥もみんな「いのち」を持ったものでしょう。「それぞれがいのち≠持って、それぞれの生き方をしている」という、そういう世界なんです。だから、「いのち」のある物と、いろんなさまざまな「いのち」のある物とずーっと対話していく。川の魚捕りをしようというのは、こっちが捕ろうとすると、向こうは逃げようとする。一つの生きた物同士の格闘ですよね。だからそういう「いのち」のある物と対話する。「いのち」のある物と付き合っていく。そういうことが非常に私は大事だなあ、と思うんです。その中で、ほんとに「いのちの尊さ」なんて言わなくても、子どもの心の中にそれは芽生えてくる。やろうと思えば、いくらでも出来る筈です。だからほんとに今学力論争が無茶苦茶盛んだけども、一番大事なのは、「子どもにとって、学校って何だ」と言えば、「将来伸びていくための非常に基礎的な人格を形成するところ だ」というのが、私は一番だと思うんですね。みんな社会生活していくわけでしょう。ところが、非常に社会的に孤立した子どもが多くなりつつある。だから社会性を育てる子をほんとに育てる。それから思いやりのある子どもを育てる。よく「いのちの大切さ」ということを言いますよね。それはいくら説教したってダメですよ。ほんと自然と触れあっていれば、そういうことを感じ、自分で中へ育てていけますね。そういう「機会を与えてやることだ」と思います。だからもう一度僕は、「学校って何なのか」を考え直す時がきているなあという気がしますね。
 
峯尾:  そして、先程ちょっと話が出ました、こちらの「丹波の森公苑」が目指す「丹波の森」という非常にスケールの大きいものをお作りになろうというのも、子どもだけでなく、大人も含めて、もっと自然の中で人間って生きていく、ということなんでしょうね。
 
河合:  ええ。今、「緑が大事だ」とかね、「自然を大事にしよう」とか、「自然と人間の共生」とか、或いは、「里山をもう一回復元」と、ちょっとブームみたいにみなさんがおっしゃっているわけですね。けどね、例えば里山を復元して、「何のために復元するんだ」。それがあんまり明確じゃないですね。それで、「自然との共生」と言ったって、じゃ、どうやればいいのか。そういうことを自分のやっぱり生活の中にキチッと取り入れていく必要があると思いますね。実は此処「丹波の森構想」というのがありまして、これに初めから関わっているんですが、「丹波の森つくり」というのを、みなさんでやろう、という時、初めは、「どこに森作るんだ」と、みんな言いました。つまり代々木の森とか、ああいう森を作るんだ。鎮守の森みたいな、或いは公園を作る。そうじゃなくって、「丹波地区」という表現があります。丹波は大方実は京都府なんですよ。一部だけ兵庫県に入っているんです。篠山が市になりましたから、今でいうと、一市氷上(ひかみ)郡の六町、これが丹波なんですね。これ全体を「丹波の森」と名付けるわけです。というのは、非常に森の多いところで、「森林被覆率」と言いますけど、森の面積というのは、七十五パーセントあるわけですよ。その中に集落があり、町があり、小川が流れ、田圃があり、小っちゃな工場があり、という所、そういうのが点在している。だからちょっと縮めると、ほんとに森の中に、そういうのが点在している。これ全体を森なんだ、と。そういう豊かな森に包まれた中での一つの森林文化というものを育てて、そしてその自然に密着した新しい文明のあり方を考えていこう。そういうことを、「丹波の森構想」と言っているんです。実はこれは非常に独創的でも何でもないんですね。この一番のモデルが、ウイーンの森なんですよ。ウイーンの森というと、みんなが、「森があるんだ」と思っているんですよ。そうじゃなくって、実は丹波全体が八百七十一平方キロなんですよ、全部の広さが。ウイーンの森は、千二百五十平方キロあるんです。これだけの大きな山塊なんですよ。そこにまさに集落があり、教会があり、葡萄畠があり、麦畠があり、その中に林道があって、ウイーンの街の人たちが、そこへ遊びに行く所。それがウイーンの森なんですね。だからそういうウイーンの森を目指そう、ということなんです。もう一つは、ウイーンという都市の人が、ウイーンの森にみんな遊びに行く。日中なんか、ほんとにみなさん歩いているんですよ、森の中を。と、同じように此処に京阪神の大きな─京都は別ですけどね─阪神の大きな都会群がありますから、そこの人たちの緑のオアシスになろう。ウイーンの森のように、ということが一つの狙いなんですね。そういうことをやっていくために、ウイーンの十三区と友好協定を結んでいます。それからほんとに嬉しいことには、フランスにはフォンテーヌブローの森という、非常に大きな森がありますね。此処から友好提携しよう、という申し込みがありまして、そことも友好関係をもっているんです。それで、此処で森林シンポジウムやるんですね。そうすると、ドイツとのフランスの人ばっかり、英語がないシンポジウムなんですね。僕は感激しました。昔は、「丹波の篠山」と言ったら、田舎の代名詞だったわけですね。ほんとに「ど田舎」と言われておったんだけど、ど田舎で、英語抜きの、ドイツ語とフランス語と日本語のシンポジウムがあって、それで、最初は篠山町で開きました。町長さんがシンポじいさんになってね、みなさん発表されるわけですよ。あれはなかなか良かったですよ。一昨年、「丹波の森・国際井戸端会議」というのがあって、ドイツのシュヴァルツヴァルトとか、バーデン・ヴュルテンベルクの森、フォンテーヌブローとか、ウイーンの森の人たちが来まして、これはいわゆる大きなシンポジウムをやるんじゃなくて、此処のみなさんの生活を見てもらったんです。いろんな日本独特の森の使い方があるんんですよ。椎茸を作るとか、それから山南(さんなん)町というのは、檜皮(ひわだ)葺(ぶ)き作り─檜の皮と取って、神社の屋根を作ったりする独特の手法がある。それから此処丹波杜氏(とうじ)なんですよね。杜氏として奈良へ行かれるでしょう。そういう杜氏の人たちとか、酒作りとか、黒豆を作りとか、そういうのをずーっと見て貰って、そこにちっちゃな小っちゃな研究会、村の人と開いていったんです。とっても良かったですよ。「井戸端会議」と称しましてね。まあいわば昔のど田舎ですけど、けっこう文化水準が非常に高いと思いますよ。此処は、「丹波の森公苑」という施設がありまして、公苑長をしているんですけど、そこを、「新しい二十一世紀の自然を基調にした生活をどう作っていくか。みなさん考えていきましょう」と。篠山には、「ささやまの森公園」というのがありまして、これは全部で百三十ヘクタール位の里山を持った里山公園があります。そこの運営委員長やっているんです。「そこでみんな楽しもう」と。つまり私は、「森遊びをしよう」と言っているんです。「森遊びって何だ」ということになりますけどね、例えば、「川遊び」と言ったら説明しなくても分かるでしょう。例えば、隅田川を抜きにして江戸文化を語れないぐらい、川という自然物を舞台にして、いろんな遊びや文化を発達させましたね。同じように森という自然物を舞台にして、新しい遊びの文化を作ろう。これは実はヨーロッパで非常に盛んなんですよ。フォンテーヌブローの森へ行っても、ウイーンの森と言ってもシュヴァルツヴァルトの森へ行っても、ほんとにみなさんほんとに森に楽しんでいます。だからそれを丹波で育てたいと思っているんです。この「丹波の森公苑」というのは、非常に大きな里山を後ろに持っているんですね。それで今、みなさんが、「里山を復元しよう」といろいろ言われますけども、「里山って一体何なのか」。二十世紀前半の里山は、薪を取ったり、山の幸を取ったり、非常に人間の生活を支える大事な山だったわけですね。ところが今、里山は遊んでいるわけですよ。「二十一世紀の里山って何だろうか」と言ったら、私は、「里山は遊びの場にしよう」ということですね。そういう遊びの場のモデルが、この公苑なんです。此処で子どもたちが来たり、いろんな都会の人が来たりして、里山の楽しさを知ること、それをやるのに大事なことは、「森」というと、日本人は森林の固まりとしか、イメージが湧かないでしょう。ところがヨーロッパの人が、「森」と言ったら、そこにいる鹿から、イノシシから、鳥から、蝶々が舞っている。小川が流れている。これが森なんですよ。さまざまな生き物がいる。それをつい忘れますね。此処の森はまさにいろんなものがおるところをみなさんに、「これが森ですよ。森というのはこういう楽しさがありますよ」と。それからこれからまた山菜がいっぱい出てきますね。山菜だって、蕨とかゼンマイだけでなくって、実はさまざまなものがけっこう食べられます。そういう山遊びの楽しさを、此処を舞台にして教えていこう。そういうような大きな山を持った公苑です。
 
峯尾:  河合さんが帰っていらっしゃって、素晴らしい故郷が再び出来上がる、という感じがするんですけども、みんなが自分の愛する故郷を持てるようになったら、これは素晴らしいことですよね。
 
河合:  そうですね。なんかそういうことが出来ればなあと、実は夢見ているんですね。東京の友人が時々、「河合さん、いいなあ、故郷があるから」というんですね。「自分たちはない」という。なんか東京に居たら、そこが故郷と思い難いんでしょうね。そこでずーっと働いていても。やっぱり故郷というのは、土の匂いがする。自然が豊かだ。川が流れ、魚がピチピチしている。昔、「故郷(hるさと)」という歌がありましたね。「兎追いし かの山 小鮒釣りし・・・」あれが日本人の好きな歌の高いところ入っているけど、みなさんやっぱり憧れていると思うんです。二十世紀というのは、一つは都会化の世紀だったと思うんですね。急激に都会化し、都会の文明に憧れていった。一方で非常に長寿という一挙に人生八十年に伸びていった。後の林住期どうするか、という問題をみんなが抱えたんですね。昔だったら、人生五十年の時、林住期というのはほんの短くて要らなかったんですね。今は定年後二十年とかね。僕は、こんなに豊かな自然を持っている日本の田舎。これは、「新しい人生の生きる場」として考え直して欲しいと思うんですね。だから、都会にとって、田舎というのは、都会がいわば学生期、家住期を過ごす時であれば、林住期、遊行期は田舎であり、それが故郷である。だから都会の人にとっては、田舎が故郷であるというふうに、そして林住期を過ごす場所だ、と。そして日本は山がありますから、昔から山というのは、山岳宗教が興ったように、神や仏がいるとこですよね。遊行期と繋がっているところなんですよ。だから、「田舎というものを、みんな一つの、一生の中での林住期を送る故郷だ」というふうに、みなさん考えるようになって頂くと、なかなかいいんじゃないか。そうすると、ある意味で過疎の問題というものも、別の解決の道もあるかなあという気がしますね。
 
峯尾:  この地域は森林に覆われているのが七十五パーセント。この数字だけ見るともの凄く多いような気がしますが、日本全体で見ても、日本というのは、森林、山に恵まれている土地ですよね。
 
河合:  そうです。世界に冠たるものです。先進国では、日本に並ぶ森林国はフィンランドだけですよ。ドイツ人ほど森が好きな民族ないと思いますね。ところが、ドイツは森林の被覆率から言ったら、わずか二十七パーセントですよ。日本は六十八パーセントですよ。大森林国、緑の国ですよ。これをもっとみなさんが、自分らの生活に取り込まない法はないと思いますね、勿体ない。
 
峯尾:  此処はアトリエで、都会からやって来て、絵を描くというだけではなくて、此処ではさまざまな催しもやっていらっしゃるんですよね。
 
河合:  そうですね。大きなホールがありましてね、そこで音楽会をやったり、演劇やったり。小さな劇団が丹波に五つもあるんですよ。それから演劇塾もやっていて、演劇指導をちゃんとやっている。高校生から七十位の人まで一緒に入った演劇塾までやっています。それから丹波民話集を作りまして、四冊出来ました。全部此処の民話をみなさんに集めて貰って、そこからまた劇にして上演する、なんてこともやっていますね。それでいろんな産物、特産物を集めた秋のフィスティバルをやるとかね。此処の利用者は二十三万人位、年間あるんですよ。というのは丹波地区全部で人口十二万人ですから、けっこう阪神間からも来られるんです。それからもう一つ面白いのは、「シューベルティアーデたんば」というのがありましてね。街角コンサートなんです。畑儀文(はたよしみ)さんというテノール歌手がおられて、彼がシューベルトの各曲をおおかた六百あるんですが、全部それを上演して歌ったんですね。そういう壮挙をした人なんです。彼は篠山の出身なんですよ。そういう仲間たちが寄って、街角コンサートというのをやっています。そうすると、けっこうヨーロッパの人たちがやってきましたね。それとシューベルトは結婚していないから子どもないんですけど、おじいさんの系統がずーっと元気で、今、トーマス・シューベルトという人がちゃんとおられるんですよ。シューベルトの血を引いた人が。その人たちも一緒に来ましてね。丹波が大好きで、もう長い時で、三ヶ月位居たかなあ。その街角コンサートというのは、お寺でやったり、田圃の切り株の後でやったり、雑木林でやったり、ほんとに街角で歌ったり、それみなさんボランティアでされてやっている。なかなかいいですね。これで七年目になりますね。なかなか面白い計画でやっています。そういうことをどんどん推進していく拠点が、この「丹波の森公苑」という施設で、全部で従業員が四十何名おりますが。勿論、丹波というのは篠山もそうですからね。篠山は篠山で田園ホールとか、なかなかいい音楽ホールもあります。
 
峯尾:  つまり芸術も文化も人々の暮らしも含めて、全体が緑の中、森の中での人々のさまざまな行動、暮らしなわけですね。
 
河合:  そうなんですね。夢だけは高く持っていこうと。それから、これも私の夢なんですけど、「丹波の森公苑」にずーっと並木道がありますけど、あれは全部エノキなんですよ。エノキというのは役に立たん木ということになっているんですよね。非常に生育力が早くって。エノキが百八十本植えてある。何でエノキを植えたかと言ったら、あれは、オオムラサキという大きな日本の国蝶、それからテングチョウとか、ヒオドシチョウ─昔の緋縅(ひおどし)の鎧(よろい)ですね─ああいう蝶々ですよ。その蝶々たちの幼虫がエノキを食べて育つんですよ。だから百八十本が大きくなれば、こんなエノキの森でしょう。そうすると、いろんな蝶々が飛んでくる。そういう森にしたいと思っているんです。それで此処の下には子どもたちに、クヌギの木を二百五十本植えて貰いました。それはクヌギですから、大きくなると、かぶと虫だとか、かなぶんとか、いっぱい来るでしょう。子どもたちが自分で作った楽しい森作りをしよう。そういういろんなことをやっています。
 
峯尾:  林住期のためにこちらに帰っていらっしゃった河合さんですが、やはりサル学であり、霊長類学であり、人類学であり、そして実は児童文学者という面もお持ちでいらっしゃいますけど、こちらに戻っていらしゃったら、あらゆるものの自然について、「何でも好きになり、名前を覚えれ」と言っていますが、今度は博物学者として、
 
河合:  そうですね。子どもの時からほんとに自然に入り浸っていて、いわば博物学が好きだったわけですね。だから動物も植物もそれこそ空の雲も、石ころも、みんな自分たちが見て、ちょっと奥へ入れば楽しい世界が広がっていきますね。それで博物学の面白さを、みなさんがもうちょっと知って頂くと、ほんとに心豊かになるなあと思いますね。
 
峯尾:  林住期をどうぞ素敵なガキ大将としてお過ごしして頂きたいと思います。有り難うございました。
 
河合:  どうも。
 
 
     これは、平成十五年三月九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである