愚かさの自覚―わたしの聞法―
 
                    元公立学校事務職員主任主査 沢 田  悌 二(ていじ)
昭和二十年陸軍幼年学校で終戦を迎え、昭和二十二年トラピスト修道院、翌年サン・スルピス大神学校に入る。昭和三十二年東京公立学校事務職員となり、剣道、合気道、茶道、禅、一遍・法然・親鸞などを学びつつ、聞法を続ける。
                    き き て         金 光  寿 郎
 
ナレーター:  福島県相馬(そうま)市、大洲海岸、鵜の尾岬(ざき)に立って、南を望むと左手 に太平洋の荒波が打ち寄せ、右手には外海と隔てられて、静かなたたずまいを見せる松川浦が広がっています。釣り客や夏の海水浴客で賑わう風光明媚な県立自然公園です。松川浦には大小さまざまな形の小島や中洲が点在し美しい光景の中で、海苔や貝の養殖が行われています。今日は上野から特急で三時間半、JR相馬駅の南にお住まいの沢田悌二さんをお訪ねします。沢田さんは、昭和三年の生まれ、敗戦後の混乱の中で出遇ったキリスト教を出発点として、長年公立学校の事務職員を務めながら、さまざまな宗教者と出会った縁を大切に生かして、今日まで求道の生活を続けて来られました。沢田さんの聞法の歩みと現在の心境を巡ってお話を伺います。
 

金光:  今日は、沢田さんにこれまで求道(ぐどう)と申しますか、或いは聞法(もんぽう)と申しますか、随分仏法を求めて、或いは宗教の真理を求めて、随分ご苦労があったように伺っておりますので、その辺のことをお伺いしたいと思ってお邪魔しているんですが、私と同じ昭和の最初の頃のお生まれですと、やっぱり戦争という大きな節目を体験なさっていらっしゃるんですが、敗戦の時はどこにいらっしゃったんですか。
 
沢田:  ちょうど八王子の一つ先の西八王子―東京陸軍幼年学校が、前年に疎開という形で多摩御陵に隣接して建てた、そこで終戦を迎えました。
 
金光:  そうしますと、幼年学校ということは、軍人、しかも士官になるエリートの大変難しい学校だと承知していますが、で、戦争に負けるとはあんまり考えていらっしゃらなかったんじゃないでしょうか。敗戦のショックはどういうふうに。
 
沢田:  やはりショックというよりも、負けるというか、世界情勢はその頃生徒監の中に宮様もおられまして、御前会議のご様子のお話を頂いて、天皇陛下のお気持ちとか、かなり切迫した状態で、早く言えば、玉砕というような、そういう方向に向いているという認識はもっていましたね。しかし軍人である以上、これは勝ち負けはもう常のこと、それを一つのステップとして、軍人ですから、国と国民のためになんか役立つ、そういう道を歩まなければいけないという、常日頃そういう一つの―これは軍人の教育の一つでしたね。あの頃陸軍幼年学校などというのは、比較的開かれた教育をしてくれたんじゃないでしょうか。語学もフランス語でしたし、あともう一つ班が分かれて、それはロシア語班でした。英語は全然やりません。だから国際的ないろいろな情報もけっこう入ってはいましたね。
 
金光:  その頃の軍人さんというと、昔でいうと、武士ということですから、やっぱり武士的覚悟と言いますか、そういう訓練も受けて。
 
沢田:  それは真っ先に。やはり『葉隠(はがくれ)』じゃないですけど、「武士道とは死ぬことと見つけたり」と、ここから始まります。それにもう一つ、若いということは、死に対して恐れがない、不思議ですね。退職して二、三年、心筋梗塞の疑いで、確かに死の不安と闘うわけですけど、その時は、空襲に遭って機銃掃射を受けたりした生命の危険よりも、かえって切迫したものがありましたけどね。
 
金光:  戦争中のことですね。
 
沢田:  はい。けれども不安的にはまったくなかった。
 
金光:  それで敗戦になると幼年学校も解散ということでございますが、その後の道を求める方向はどういう方向にいかれたんでございますか。
 
沢田:  また家の親の考えもありましたし、「上の学校へ進みなさい」と。初め私は、高等師範に行こうと思った。親が教育者だったものですから、後を継いでなんて。親は反対するんですね。それで結局は大学を受ける準備をして。準備をして、そこを受けるためには、英語をやり直さなければならない、と。そこで家庭教師をつけてくれました。英語の先生が女の先生で、クリスチャンだったということで、勉強している間にキリスト教に接したということが一つあります。そして終戦の翌年には私の最初の生徒監であった平松信武(のぶたけ)という先生が郡山のほうに会社を興しまして、たまたま私は隣駅の須賀川というところにおりましたから、「そうやっているなら、ちょっと手伝いに来ないか」ということで、教会に途中通うのにもいいし、そこから郡山へ通いつつ、会社のお手伝いをさせて頂いておりまして、英語の先生から聞いていたキリスト教、で通勤途中に立ち寄った教会がカトリックだったわけです。その辺でキリスト教との接点ができてきたわけですね。カトリックはご存じのように、「洗礼を受けさせて下さい」「信者にならして下さい」と言っても、即座には出来ないですね。日本語で『公教要理―カテキズム』というのを、一年間かけて、神父さんからレクチュアを受けまして、最後は試験があるんですが、「お前は全部暗記しているようだからもうそれはいいから」ということで、洗礼を授けて頂いた。で、いろいろ教会の情勢とか、お手伝いなどをさせて頂いて、「お前、神学校に行きなさい」ということを勧められたんですが、なんかトラピスト修道院へ非常に行きたいという気持が強くなって、それでトラピストに行ったわけですね。
 
金光:  あそこは非常に「労働と祈り」と実践する、集中できる場所だと伺っていますが。
 
沢田:  もう普通の修道会では三つの誓願を立てる。その他にあそこでは沈黙の誓願と一生涯そこから出ないという、その二つの誓いが加わって、五つになるわけですね。行っても沈黙ですね。中にポストラント(志願者)として入れて頂いて、真っ先に私は、最後の夜の祈りを終わって行列作ってズーッと行くんですね。何も分からないですから、誰も教えてくれませんから、後にくっついて行ったらトイレに行って、それから寝室に行く。それはもう夜八時頃です。それで翌朝はもう朝二時が普通。何か祝い事のある時は一時に起きて、それから歌隊。私のトラピストは歌隊と言って、神父さんになって、ラテン語でグレゴリオ聖歌を歌う祈祷士と、それから牛、あそこは主に牛を飼っていましたから牧草、畑、そういう労働修士と、二種類ありまして、祈祷士のほうで、朝から一緒に祈祷して、ラテン語で歌う。
 
金光:  歌ですか。
 
沢田:  はい。そういう生活をやって、たまたま十二月に私の祖母が亡くなりまして、「お葬式に帰って来い」という連絡を受けまして、院長さんも、「それは行って来なさい」と。志願者の間はわりと緩やかなんですね。帰って、こんどは神父さんが、「在俗司祭が足らないんだから神学校へ行きなさい」と。今度は九州のほうに飛んで、福岡のサン・スルピス大神学校、そこはラテン語科二年、哲学科二年、神学科四年で、この間にいろいろ資格を取っていくという、八年かかって、一人前の在俗神父になるわけです。で、トラピストでラテン語などを教えて頂いていたので、私はラテン語科は一年で卒業して、そして哲学科に入った。哲学科で哲学の―中世哲学のスコラ哲学(聖トマス・アクィナスによって完成された)が主ですから、その勉強の課程で批判学というのがあるわけです。近代哲学のカント(ドイツの哲学者:1724-1804)であるとか、デカルト(フランスの哲学者:1596-1650)とか、ヘーゲル(ドイツ古典哲学の最大の代表者:1770-1931)とか、それを批判していくわけですけども、原典と言いますか、例えばカントならばカント学派が出している著作―ほんとは読んではいけない禁書になっている。今はそういうことないようですけどね―「どうもちょっと教科書に載っているのと違うんじゃないですか?」ということを質問したら、「じゃ、もっと自由に研究しなさい」ということで、それで哲学科の二年の十一月に中退することになった。ちょっとプロテスタントの教会、その他お手伝いなどがあって、明治大学の法科のほうに行くようになりまして、大学出てから、どこに行くかと、就職の問題になったんですね。その頃はやはり聖書中心の生き方というのを非常に心掛けておりましたので、職業を選ぶ時も、私の道は何を基準にして選択したらいいのか。聖書の中に、キリスト自身、「人の子がきたのも仕えられるためではなく、仕えるためです。だからお前たちも、お前たちから先生と呼ばれている私でさえそうなんだから、お前たちも私のように仕えるものとなれ」ということをマタイ伝とか、ヨハネ伝とかに載っている。その一句によって、「そうだ、私は、一つはやはり軍人であった戦争の責任というのがある。表方になってはいけない。裏方として私は底辺に生きる。しかし宗教の道を尋ねる。その願いは生涯持ち続けたい」と。そんなことで東京都の公立学校事務職員の試験を受けまして、幸い通りまして。
 
金光:  じゃ、その時は司祭の道よりも一般の社会の中へということを選ばれたんだけれども、精神的にはやっぱり聖書の中のイエス様の教えを基準にして生きていこうということですね。
 
沢田:  そうですね。またその段階においても、日本の社会は神社なり仏教なり、そういう多宗教の世界ですから、キリスト教の神父さんたちもそうなんですけども、自分が主張するために他宗を批判し攻撃することがあるんですね。神父さんに、「じゃ、仏教の何をお読みになったんですか?」「どの宗派の勉強をなさったんですか?」と訊けば、それはないわけですよ、ほとんどは。それは果たして学問という立場からは良いのかしらと、そんなこともやっぱり思っていましたね。
 
金光:  そうすると、日本のいろんな教派と言いますか、仏教なり神道(しんとう)なり、そちらのほうにも関心をお持ちになって、そちらのほうもある程度近付いて研究、勉強なさったわけですか。
 
沢田:  そうなんですね。もともと武士道自体が一番密接なのが禅宗ですね。ですから禅の教えというものは既に幼年学校時代から剣との関わりにおいて、接する機会があったわけです。で、就職してからも、縁というものは不思議なもので、次々と出遇うんです。同じ職場の中にカトリックの信者もいれば、また仏教の方もいらっしゃる。私はそういう宗教方面に興味があるというか、そういうほうに研究の主流をもっているんだということを先生たちが分かると、いろいろ情報を提供してくれる。
 
金光:  それはそうでしょうね。
 
沢田:  私もまた耳で聞くだけでなくて、例えば一遍上人のことを話してくれれば、遊行(ゆぎょう)寺(神奈川県藤沢市)まで訪ねて行って、浄土宗のことを聞けば、当時は増上寺(ぞうじょうじ)に行って、ちょうど昭和二十年代後半の大学紛争の最中ですね。そして私はまた学級委員なんかをやっていまして、それで浄土宗の増上寺に行って先生に、「浄土宗の教えについて教えて頂きたいんですが」とお話しましたら、「いや、とても学生運動で、その対処だけでエネルギーがもうないんだ。著書を紹介するから、これを読んで勉強してくれないか」と。『浄土宗読本』とか、それから『法然上人全集』とか、そんな形で他宗教にも先入観を持たずに入っていきましたね。本山を直接に訪ねて行きました。
 
金光:  そういう中でそうしますと、基本としては聖書にある教えがいろいろちゃんと入っていらっしゃると思いますが、そういうものと、それから日本のいろんな宗教と違和感みたいなものをお感じになりましたか。
 
沢田:  それは全然ないですね。というのは私の読み方が足りないのか、聖書の、例えば「愛は寛容にして慈悲あり」とか、それは道元禅師の『正法眼蔵』などでも同じような教えが出ていますね。そういういい面といいますか、私の得手に聞いているというせいか、抵抗なく、いいものはみんなよく読んで自由に入れようじゃないかと。
 
金光:  そういう形で近付かれると、それは共通点はずいぶんありますよね。
 
沢田:  はい。ですから批判のために学ぶんじゃなくて、あくまでも求道(ぐどう)というか、道といううものを明らかにするという立場でもって、お訊ねするものですから―決して敵対意識で訪ねるわけじゃないですね―訊ねれば訊ねるほど、これは自分は勉強することがいっぱいあるなあと。これもやらなければならない、と次々と出てくるわけですね。
 
金光:  それはそうですね。各宗それぞれまた歴史上いろんな偉い人がけっこういらっしゃいますから、そういうものに近付いていくと、それはいろいろいくらでもあるということになりますでしょうね。
 
沢田:  それと頭だけで理解することの危険性、これを非常に感じまして、危機感を覚えるくらいでしたね。それで例えば法然上人法語の「一日在家の者は三万回、僧侶は六万回日課念仏として称えなさい」と、これをやりましたね。電車の中であの計数器を使って、まあ数珠を使うことはちょっとないですが、これをポケットへ入れてカシャカシャと。大人って案外無関心ですね。子どもは耳聡いというか、カチカチのほうを見るわけですよ。
 
金光:  そこまでなさったわけですか。それも三万回と言ったら大変ですね。
 
沢田:  大変です。もう閑なし。務めていますからね。もっとも法然上人さんは、「この 日課念仏というのは、それによって救われるとか、そういう問題でなく、怠惰心を起こさせないためだ」と。私もなるほどなあと。日課としないと怠け心がすぐ出ますから。そんなことで抵抗なく他宗にも学ばして頂きましたね。
 
金光:  そういうふうに日課念仏を実践なさったり、いろんなところを訪ねてお歩きになるというと、学校のお務めのほうはどういう形で処理なさっていたんですか。
 
沢田:  私が、公立学校の事務職員という職を選んだそもそもの理由は、学校の事務というのは、量が決まっているわけですね。ですから自己管理ができるわけです。そうすると勤務時間がこれだけ、仕事はこれだけ、年間の仕事の配分はこれだけと分かりますと、全部その割り振りが出来まして、なるべく自分の研究の時間を生み出すことができるわけです。ですから東京にいるときも、あちこち宗教関係のところを訪ねるのにはキッチリ勤務時間―よっぽどの時でなければ残業はしない―で、五時に終わって、それから二時間位、
 
金光:  そうしますと、その表方でなくて、裏方でいこうというのと同時に、それを仕事の量がわかると自己管理でパッパパッパと整理して、それで残りの時間をそちらのほうに使おうと。
 
沢田:  そうですね。東京十六年間、福島県十五年で三十一年間の間、けっこう仕事の基準になるような考え方、これが溜まって辞めてから県内でも、或いは東京の中央区の三十周年記念の時には、「なんか話してくれ」ということで話したことがあります。
 
金光:  それで仕事の仕方とか、そういうことについて、
 
沢田:  そういうこと。「私の仕事訓十一」なんていうのを持っていってお話したことがあるんですね。で、結局その中にも例えば事務のハンドブック―事務の手引きといっていますが―そういうのを作る時に、みなさんに、「私たちは当時それこそガリ版で、カーボン入れて、そういうまことに今から考えると大変な、何遍も同じことを書く。そういう状況でしたし、年間通してやってみると、型が決まって、数字だけ変えればいいというのもある。非常に多いわけです。定型化する。機械でできるのは機械にする。そんなことで合理化、能率化というのを大いに図る。でこれをみなさんにやって貰うにはみなさん自分が苦労したことを後輩にさせたくないでしょう。これはやっぱりキリスト教でいう、それが愛の精神だと思う。己のごとく隣人だが―この隣人というのは常に自分の脇にいる人だ。だから同じ仲間として、そういう不自由な思い、自分が不自由だった、或いは苦しんだ苦労したということは解決して引き継いでいってやりたい」と。
 
金光:  そうするとそこでも聖書の中の言葉が生きてくるわけですね。
 
沢田:  はい。もう実際資料として纏めている中には聖書の言葉を入れました。
 
金光:  そうですか。
 
沢田:  直接入れたことがある。
 
金光:  聖書をみなさんに教えるというよりも、なんか人生の智慧みたいな感じで入れていかれるということですね。先ほどからのお話を伺っていますと、そうすると、私なんか学校のお務めの方を見ていると―今必ずしもそうでもないかも知れませんが―休みがあるというのはなんか羨ましいなあという気がしないでもないですが。
 
沢田:  これからどうなるか分かりませんけど、夏休みになると、私はそれを利用しまして、最初の時は三十八年の八月に、美術の先生がカトリックの信者だったんです。「今度来ている事務職員はカトリックらしいな」と、匂いで分かるんですね。
 
金光:  そうですか。
 
沢田:  それで奈良に巨智部(こちべ)の庄(しょう)という、百済から来た陶芸の子孫、そこの末裔なんです、その先生は。「奈良に行かないか。俺の故郷に行かないか」と。それで、「じゃ、京都から奈良に行こう」と。訪ねるのにまったく仏教の、仏像というのに素人ですから、これはどういう意味を持って、この衣はどういうものか。それでその仏像彫刻を初めやったんです。これですね。
 
金光:  自分で彫られたわけですね。
 
沢田:  そうです。
 
金光:  ちょっとじゃ拝見しましょう。
沢田:  これをまず彫ってみて、これは東京時代の作品なんですがね。
 
金光:  でもこれまったく初めてでしょう。
 
沢田:  初めてです。
 
金光:  お手本がなんかあるんですか。
沢田:  その時はこんな小さい「仏像の図鑑」なんというのしかその頃は市販されてないんですよね。大きい写真集とか、また写真の専門家が撮るのはアップで美術的に撮りますから、芸術的に。ですから全体像を把握するのは―ましては、後ろは苦労しましたね。資料捜しに図書館へ行ったりして。これは法隆寺のいわゆる夢違(ゆめたがい)観音ですね。それを模(も)して、他にも二、三体彫らして頂いて、そして行ったわけです。それも夏休みのことでしたね。
 
金光:  最初にまず仏像の彫刻をやって、
 
沢田:  そして仏像の勉強をして、それで見に行った。それから四十六年には、良寛さんの―ご存じのように素晴らしい書家でもいらっしゃるから、その碑を訪ねていこうと。
 
金光:  あちこちに碑(いしぶみ)がありますね。
 
沢田:  それで行って、三日間歩いて、それを全部スライドにしたのがこれなんです。
金光:  じゃ、ちょっと、
 
沢田:  それはスライドの解説文ですね。
 
金光:  なるほど。
 
沢田:  解説をテープにして。
 
金光:  ここにスライドが入っているわけですね。ちゃんとナンバーが打ってあるわけですね。じゃ、テープとスライドを映すと、それで良寛さんの銘石碑が分かるように。
 
沢田:  新潟方面の良寛さんの記念の石碑といいますか、記念碑はどこにどういうふうな書が彫られているかと、全部分かりますね。ただ私は、円通寺(岡山県)のほうには行っていません。それで後は四十八年夏休みを利用しまして、平泉の金色堂を訪ねて来てから、たまたま細字を書く職人さんの工房を見学して、そういうことも精神集中にもなるし、どれぐらい小さく書けるかやってみようかなと思ってやったのが、これです。
 
金光:  「摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみったしんぎょう)」ですね。
 
沢田:  それは一番小さく書けたものでしょうね。
 
金光:  「般若心経」全部これに入っているわけですか。
 
沢田:  入っています。二百六十二文字ですか。こういうふうに巻物にして。何本も書きました。ただしこっちのほうはいくらか大きいですね、そっちよりも。
 
金光:  そうですね、少し。
 
沢田:  この箱も作りまして。そうしたらけっこう希望者がありまして、手許に今これ一個しか残っていないんですけど。
 
金光:  じゃ、何本もお書きになった?
 
沢田:  もうこの箱も十も二十も作りましてね。
 
金光:  そうですか。じゃ、コピーじゃなくて、全部自筆で。
 
沢田:  平泉にせっかく行ったんだから、平泉の金色堂を題材にして、「南無阿弥陀仏」で書けないかしらと思って始めたのが、これですね。これは金色堂ですね。屋根の瓦と柱も全部「南無阿弥陀仏」です。
金光:  そうですね。南無阿弥陀仏になっていますね。
沢田:  テーマを金色堂に絞りまして、中のお飾り物、「迦 陵頻伽(かりょうびんが)」。これも全部南無阿弥陀仏、羽のあれも全部、嘴の先まで。そこまで小さく書けるんだなあと。これなんかもやはり金色堂の内陣の下に描かれているクジャクですね。
 
金光:  これも南無阿弥陀仏ですね。
 
沢田:  はい。全部南無阿弥陀仏です。細字で。これも夏休みの作業ですね。たまたまその頃家内の友だちの旦那が芸術をやっていらっしゃって、「刻字をやってみないか」と。
 
金光:  字を刻むわけですね。
 
沢田:  こんな仏像なんかもやっているから、というので教えて貰った。一つの作品はこれですね。「無量寿」という。字は親父の字です。それを凸(とつ)に彫りまして金箔を貼って、それから逆に凹(おう)に彫ったのは此処に、「不生萬調(ふしょうばんちょう)」、
 
金光:  そちらにありますね。「不生にして萬(よろず)調(ととの)う」ということですね。
 
沢田:  盤珪(ばんけい)禅師(臨済宗の僧:1619-1690)さんの、
 
金光:  盤珪さんの言葉で、
 
沢田:  こんな刻字もみんな夏休みの私の仕事ですね。それで五十七年ですから、そろそろ退職も間近というような頃になりましてから、母がまず亡くなったんですね。まだ父は相馬市の教育長で務めていましたから、お寺のほうのお付き合いは、私が代わりにやるようになりましてね。それで聞法がそろそろ始まるわけですね。やっぱり親父譲りなんだなあという気がしましてね。必ず書く。そして初めはガリ版ですね。ですから全部良寛さまの解説文なんかも手書きですね。ワープロが出るようになって、真っ先に買いましたね。
 
金光:  なるほど。それは書くよりも早いですからね。
 
沢田:  そして、ワープロで随分打って記録を残しましたね。そうやることが、私が二回も三回も教えを頂く私なりの方法じゃないかなあと。
 
金光:  耳で聞かれて、テープを起こされて、それをもう一度書く。そして印刷する。
 
沢田:  そうですね。このことを退職なさった校長さんなんかが聞いて、「仏教の『大法輪』誌などを見ると、難波(淳郎)先生の写仏という本が出ている。写仏の会が仙台にはできている。相馬にも作らないか」と。退職された校長さんが仙台まで行って、写仏の実際を聞いて来て、相馬でも作ろうということで、こんなテキストも相談して、私が全部作った。
 
金光:  写仏というのは、要するに仏さんの像を写されるわけですね。
 
沢田:  はい。そうです。初めは難波先生の本が出ていますから、それを基本にして、写仏は大体二時間限度にして、白描(はくびょう)で。墨だけでずーっと描いていくんですね。細い線で。面相筆の一番細長というので。これをやっているうちに、この軸も自分で作ったわけですけどね。軸装の仕方、裏打ちの仕方ということも全部やりました。これは白描で、そのうちもっと進んできて、あそこに掛かっていますが、観音様ですね、色を付けてありますが、彩色する。その後がさらにこういう紺紙金泥(こんしきんでい)の写仏。これは紺紙なんですね、紺の紙にまずテキスト作らなければいけないですね、手本を。この仏様のそれをまず作りまして、で作った上をトレースで取って、トレースをこの上に当てまして、間に白カーボンを入れて、二回目描きます。同じように描く。手本と同じに描かなければ写仏ではない。それを外して、今度、白いチャコペーパーで描いた後を、金の墨を磨りまして書く。そうすると、水分が白いチャコパーパーの上、墨ですから水分が当たると消えていくんです。こういう特に周りのところは完全に消えていると思いますがね。私たちは、一年に一遍は写仏の勉強会の発表会をやるんです。その時もこの写仏のテキストの表書きにしたことをみなさんにお伝えするんです。
 
     写仏
 
     その魅力は完成された作品の観賞もさることながら、
     仏を写しているその時の世界にある。
     そのとき、それは誰にも見せることができない。
     誰にも分かつことはできない。
     誰もうかがうことはできない。
     写仏する人のみが味わうその世界にこそ、写仏の魅力がある。
     ただ写す。
     息をひそめて写す。
     丹念に写す。
 
この「ただ」というところが、非常に教えられたことですね。
 
金光:  そうすると、この出来たものは結果であって、その途中がまた素晴らしいということでございますか。
 
沢田:  写仏はそう思いますね。結果よりも過程であると。
 
金光:  写経なんかも同じような精神なんですね。
 
沢田:  写経もそうですね。でよく難波先生にも言われましたけども、「あなたのは上手かもしれないけども、お手本よりも線がはみ出たり、綺麗に描けたように見えても手本通りでなかったらダメです」と。
 
金光:  そうなんですか。
 
沢田:  自己が出ているから。
 
金光:  なるほど。
 
沢田:  「写経にしろ、写仏にしろ、いわゆる写に徹する≠ニいうことは、お手本とまったく同じに、個性を無くすことだ」と、そういうふうに言われましてね。
 
金光:  「写仏」の「写」というのは、そういう意味なんですね。
 
沢田:  そうなんですね。そんなことで、それは退職後も続きました、写仏は。
 
金光:  そうやってお伺いしていますと、写仏にしても写経にしても、或いは聞かれたご法話を文字に直されるというような形にしても、それを実践なさるところに、意味があるというか、そういう新しい世界に気付かれるという面があるんじゃないかと思いますが、その後聞法を重ねて来られて、新しい気付きと言いますか、いろんな方のお出会の中で、そういうふうにだんだん自覚される面が増えてきていらっしゃるんじゃないかと思いますが、その辺をちょっと聞かせて頂けませんでしょうか。
 
沢田:  そうですね。一番それが難しいと言えば―早く言えば、「自力の世界から他力の世界、しかも自他を超えた世界」。これは私は自然に導かれたなぁ、という気が致します。最初の本格的な歩みというのは、退職して翌年本山に―東本願寺の同朋会館というところで、後期の同朋運動を推進する推進員の教習を受けた。その時三日間にわたって、いろいろ教習を受けたわけです。不思議なことに肝心な教え、聖典に基づいたお話とか、そういうのは残っていないんですよ。残ったのは何かというと、朝の目覚めのラジオ、拡声器を通しての呼び掛けと、それから最初に研修部長さんが、「此処は親鸞聖人さんの心の調べと同じ調べを学ばして頂くところです。今日も一日聖人と歩みを同じにして参りましょう」。これが一番記憶にいまだに残っています。たまたまそうやって専属的に自分のお世話になっているお寺に奉仕させて頂くというふうになったのは、両親の死ですね。だからこの死というのは有り難いことだと思いますね。どれだけ凡夫なものを教え導いてくれるか分からないな、と。尊いものだと、今も頂いておりますけどね。それでやはり最初の頃は本当にたくさんの先生に、それはまた不思議なんですが、推進員というものになって、で推進員同士が各お寺に就くわけです。それだけでは一本のローソク、一本の薪と同じで消える可能性が多分にあるわけですね。その信心の炎がやっぱり二本、三本と集まって消えないようにするために、推進員の連絡協議会というのを、各組―此処では浜道りといいますから浜組―で、仙台教区、全国に三十二ありますがね。全国の推進委員の会もございます。仙台のほうで役員としてお手伝いをさせて頂くようになって、毎年研修会でご講師をお呼びする。一つは二年目位の時でしたか、東京の芝の了善寺(りょうぜんじ)の住職の百々海怜先生がお出でになった。この先生のご法話も「暮らしの中の真宗」というテーマでした。ほんとに実際の生活をする中で、お念仏はどういうふうに生きていくのか、というようなお話でしたけども、そのお話の内容よりも、お話の合間合間に、「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」という小さい念仏が出てくる。だから全体にお念仏が流れていて、その中で法話をなさる。法話が花のようにパッと開くという。これは面白いというか、強烈な印象をもちまして、早速その年の了善寺の報恩講にお詣りさせて頂いた。今度そこで林暁宇(ぎょうう)という先生にもお会いして、でまた次々とご紹介頂いたり、これは自然とそういう繋がりがあるんじゃないでしょうかね。
 
金光:  宗派から宗教をご覧になっている方が今のようなお話を聞かれますと、カトリックの洗礼を受けている人が、法然上人の教えの日課念仏なんかを実践なさってみたり、仏像を写仏なさったり、それで今はまたお念仏のほうの推進委員になっていらっしゃるというのは大分矛盾しているんじゃないかというふうにお感じになる方がいるんじゃなかろうかと思いますが、沢田さんご本人にとっては、その辺はどういうことでございましょうか。
 
金光:  いわゆる言葉尻と言ったら可笑しいですけども、そういう言語の面においては確かに違いますね。けれども、言葉を超えて、「何をこれは教えようとしているのか。その本質は何なのか」ということを尋ねていきますと、深層心理じゃないですけども、一つの海にぶつかるように、私は思えるんですね。
 
金光:  そうしますと、先ほど「自力」「他力」という言葉をお使いになりましたけれども、最初は自分で何かを求めて、いい教えがあったら、それを身に付けよう。或いはそういう境地に辿り着こうとか、いわば自力の努力があるわけでしょうけれども、そういう世界と、それから他力の世界というと、方角が違ってくるわけでございますね。
 
沢田:  そうですね。ひっくり返される。裏返しにされるわけですね。ただ初めは結局自分から聞こう、学ぼうという、そういう能動的な姿勢でしたね。その中で不思議な縁が次々結ばれまして、何が分かったかというと、結局はどんなに偉い方でも、人間の智慧のその範囲のことでしかない。例えば「無限」という言葉を一つとってみましても、言葉としては分かったようなつもりだけども、おそらく分からないと思います。その辺で一つ人間の智慧の限界を見せられたような気がします。これではちょっとどんな偉い先生でも、なるほど、その先生にとってはこれだけのものだ、と。ここが一つの壁なのかなあという気が致しました。そのうちにやはり那須先生から、「親鸞聖人は法然上人さんから頂いたそのまま頂いているんだけども、間違わないように『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』をお書き頂いた。その心はいわゆる能動的な心を、そこではない、と受けてご覧、頂いてご覧、という、そういう心になって、もう一遍この聖典に向かい直ってみてください」。そういうふうな学び方を教えられました。だから「能所(のうしょ)(能動と受動の意)」。だんだん勉強が数十年に及びまして、「能所も超えなければダメだよ」と。能所だって人間の世界、
金光:  そうですね。分かれていますから、
 
沢田:  仏教には「能所不二」の世界というのがある。その不二の世界、言葉を超えた世界。そこはいかないとダメだよ、と。
 
金光:  今おっしゃった那須先生という方は、滋賀県多賀町の遠久寺(えんきゅうじ)(浄土真宗本願寺派)のご住職さん、
 
沢田:  現在、住職なさっている。那須行英(ぎょうえい)先生の一番下の弟さん、
 
金光:  弟さんは信雄(のぶお)さんですね。そうしますと、沢田さんにとっては、御西、御東だとか、それは関係ないわけでございますね。
 
沢田:  そうですね。たまたま私自身がそういうふうに変わったことがあるけど、法然上人さんは選ばれた。親鸞聖人さんは隠されたものを顕されると同時に転じられた。たまたまそういう学びをしている時に、カトリックのほうは、カトリックのほうで、昭和三十七年からでしたかね、第二バチカン公会議がございまして、
 
金光:  諸宗教一致の大転換がありましたですね。
 
沢田:  エキュメニズムという。あれでもって、そちらからも情報が入ってきて、さらに上智大学の神父さんたちが、禅宗の允可(いんか)を受けて、坊さんの資格も取られて、そういうことも、私も聞いてなお実際にまた現在ラテン語でグレゴリオ賛歌を務めを行っている。東久留米市にあるそういう「聖グレゴリオの家」などとも関わりを持ちまして、それでますます言葉なき世界では全部一緒、一つという。言葉で言えないですけどね。
 
金光:  そうしますと、キリスト教を学ばれて来た、その教えも現在のその仏法の教えも根底ではもうまったくあっち、こっちという区別がないようなところで受け取っていらっしゃるわけですね。
 
沢田:  よくお寺のほうでの集まりの時に、みなさんにお話するんですけども、「浄土真宗は―宗派として考えれば、宗派の教えが一番で、他は間違いだ≠ネんていうことを言いがちですけども、じゃ、阿弥陀―無量寿・無碍光如来(むげこうにょらい)≠ニ言ったら、その無量≠ニいう概念の中には、キリスト教信者は入らないんですか? 入らないとすれば無量じゃないでしょう。逆にカトリックのほうでも、神とは何か?永遠・遍在・全知・全能≠ニありますが、永遠・遍在・全知・全能≠ナあるならば、仏教を除きますか? 除外されないでしょう。そういう世界こそがやっぱり本当の宗教の世界ではないですか。そこにいかなければやっぱり戦争とか、そういう争い事はなくならないだろうなあ、と。みなさん、その世界―それはやっぱり他力になっちゃいますね」と。
 
金光:  その世界では、「私」というのはどうなるんですか。「私・自分」というのは。
 
沢田:  ですからお釈迦さまがおっしゃったように、言葉でいうと、それが、「無我」で しょうね。「無我」というのは、お釈迦様は、「我(われ)がないということではない」んですよね。
 
金光:  そうですね。沢田さんが、「私の求道の歩み」の中で書いていらっしゃる、「ワタシ」という詩がありますね。それを拝見致しますと、第一節では、
 
     ワタシ
 
       第一節
     ワタシハ 求道ノ失敗者
     ワタシハ 一生素人
     ワタシハ 三日坊主 一番当テニナラヌモノ
     ワタシハ 「罪悪深重(ざいあくじんじゅう)ノ凡夫 地獄一定(いちじょう)ノモノ」ソレガワカラヌモノ
     ワタシハ 名聞 利養 勝他ノモノ
     ワタシハ 無信 無称ノモノ
     ワタシハ 自力ノモノ
     ワタシハ 思う・・・・スグニ変ワルノニ
     ワタシハ 努力スル・・・ワタシハ 成就シナイノニ
     ワタシハ 年々 バカニナルモノ
     ワタシハ 聞法ナド ドコニモナイ
 
と書いていらっしゃいますけども、そういう「私」というのと、先ほどおっしゃった「永遠無限、空の世界」とはどういうふうな、
 
沢田:  一遍上人さんが、興願僧都へお書きになった手紙に、「お念仏一筋という、そのお念仏の道、どうしたらいいですか」と訊かれて、「捨ててこそ」と。空也上人もそう言っている。「捨ててこそ」。ところが「捨ててこそ」ということも思っていることじゃないか、と。だから「捨ててこそ」に拘ってしまうと、あくまでもそこの凡夫のまま。ところが最後に言ってありますね。「私のいうことも信じられなければ、それも捨てろ」と。しかも亡くなる七日前には、「一切の聖教みな尽きて南無阿弥陀仏一つになり果てぬ」と。実際に燃してしまって。そこの裏返しだと思うんです。だから「捨てる」ということは、南無阿弥陀仏一つになれば、自然に捨てられるわけです。
 
金光:  それで第二節があるんですね。
 
     第二節
 
     コンナワタシ ソレデモ
     ワタシハ 如来様ニ 念ゼラレテ
     ワタシハ 如来様ノモノトナル
     ワタシハ ナニモナイ(清貧)
     ミンナ如来様カラノ アズカリモノ
     ワタシノ スルコトナニモナイ
     ミンナ阿弥陀様 シテクレタ
     ワタシノココロハ 弥陀バカリ
     心モ身体モ 弥陀ノモノ(貞潔)
     ワタシハ タダ親様ダケヲ ミツメテル
     ワタシノ スベテ 親様のオハカライ(絶対の服従)
     今日ハ ドノミチ アナタ マカセ
     ソノミチ ミンナ オジヒノミチ
     ワタシノ 言ウコト ナニモナイ(沈黙)
     ミンナ 阿弥陀様 言ウテクレル
     ワタシノ スミカハ ナムアミダ
     ドコニトビダシテモ 念仏ニ戻サレル(一処定住)
 
これは「一所不住(いっしょぶじゅう)」に通ずるわけですね。そうすると、最初の私は,ほんとに凡夫であるというのと、親様に念ぜられているのと一つなんですね。
 
沢田:  不二の世界、私はそこが不二じゃないかなあと、自他を分けないで。
 
金光:  そうすると、宗派の表現すると、浄土真宗というのと、キリスト教というのは、別々のものではないところに収まっていらっしゃるわけですね。
 
沢田:  私自身はそんなつもりでおりますね。つもりでいるというよりも、そういうふうに思わせられているし、感じさせられておりますね。
 
金光:  でもこれだけ今はお描きになっていらっしゃらないにしても、見事な写仏なんかを、或いは彫刻なんかができるという、「俺にはそういうことができる。私には出来るという」それはないんですか。
 
沢田:  それはこういう求め方の過程の問題ですから、過ぎ去ったことは水の流れのように。早く言えば、いろいろ聞法の仕方、努力的なこともあったとは思うんですけども、私には何も残っていないですね。だから極端に言えば、こういうのは全部いま一遍上人さんではないけども、「全部持っていく」と言えば、「どうぞ」と言いますね。私の兄が去年亡くなって、私もそろそろかなあというふうな死への覚悟というのもあるかも知れません。けども、そういう生死を超えるという、そういう心もこれは如来さんから自ずから賜ってゆく、それ以外は何も自分のものないわけですから、みんな借り物ですから。今生活して、或いは今の過程においてさせられたことですから、というような感じで、今日を迎えていますね。ただやはり兄の看病などをしてみても、癌に罹って、痛みは取ってくれますね、今では。しかし兄の場合は、膵臓癌から肺に転移しまして、痰を取らなければならない。気管に管を入れる。これは酷いですね。まあそれでも目の前でホスピスの実際を見ましたから、人間のありようというものを改めて、兄に教えられた面がありますね。
 
金光:  どうも有り難うございました。
 
沢田:  お世話様でした。有り難うございます。
 
 
     これは、平成十六年五月二十三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである