共感共苦 住職を生きる
 
                         神宮寺住職  高 橋  卓 志(たくし)
一九四八年長野県生まれ。一九七○年龍谷大学文学部東洋史科卒。西宮市海清寺専門道場での修行を経て、一九七五年神宮寺副住職。現在神宮寺住職。長野県ボランティア活動振興センター運営委員長。長野県ボランティア協議会運営委員。著書に「チェルノブイリの子供たち」「死にぎわのわがまま」他
                         き き て   小 室(こむろ)  等(ひとし)
昭和十八年東京生まれ。多摩川美術大学卒。「六文銭」などのグループを経て、ソロ歌手に。作曲家としても「出発の歌」「木枯し紋二郎」のテーマ曲など作品多数。ラジオのFM東京「小室等の音楽夜話」は十年に及ぶ長寿番組。著書に「出会いは旅のなかで」「さてコーヒーの話だが・・」など。
 
ナレーター:  長野県松本市、郊外の住宅街。車を運転するのが高橋卓志さん。松本の神宮寺(じんぐうじ)住職です。
 

 
高橋:  おはようございます。極楽からのお迎えです。どうぞ、行きましょう。
 

ナレーター:  この日、高橋さんは、地域のお年寄りたちの家を、一軒一軒迎えに回っていました。たくさんのお年寄りを乗せた車が向かったのは、高橋さんのお寺です。神宮寺では、毎月一回、ミニ・ディー・サービス「ごくらく倶楽部」を開いています。檀家であるなしに関わらず、多い時は百人近くのお年寄りが集まります。到着すると、まず看護士の資格を持つ副住職が血圧を計り、健康チェック。
 
高橋:  今朝食べた物覚えている?
 
参加者: 覚えている・・・
 
高橋:  食べたか、食べなかったか、覚えていない?
 

 
ナレーター:  住職の楽しいお話に、美味しい食事。午後は歌や手品のお楽しみ会と、内容満載の楽しい一日。参加は無料です。寺の「宗派は?」と尋ねられれば、「みなの宗、臨機応変派」と高橋さんは答えます。かつては福祉や文化の拠点としてさまざまな役割を担っていた寺。そうした開かれた寺を目指して活動しています。
 

 
小室:  時雨(しぐれ)が、ちょっと雨模様で・・蝉も鳴いていますね。蝉時雨と時雨とで、しかしなんか長閑で、僕はこの本堂の縁で、何度も昼寝をさして頂いたことがあって、気持いいところなんですが、高橋ご住職と今日はお話をさせて頂きますが、よろしくお願い致します。
 
高橋:  どうもよろしくお願いします。
 
小室:  長いお付き合いをさして頂いておりますけれども、ほんとにここを知っている人にとっては、みんながこのお寺を頼りにしたりして、開放されているんですけれども、ちょっと他のお寺とは違いますよね。いわゆる僕らが一般的に知っているお寺とは。どういうふうに、どうしよう、と思われたんですか。
 
高橋:  このお寺というのは、このお寺の持っている地域特性みたいなものを考えていた時に、いろんなことが此処でできるかも知れない。誰でも参加できるものが、そこでできたとすれば、お寺の内容というものがよく分かってくれるだろうし、そうなってきた時に、けっこうみんな興味を持つだろう、と思ったんですね。で、少しずつ、そういう開き方を始めたわけです。かつてはお寺の和尚さんというのは、単に宗教的な祭司を司るだけではなくて、有能な、例えば土木工学の技術者であったり、設計士であったり、それから図書館の館長であったり、学校の先生をやっていたり―今でいえばね。地域のコミュニティをちゃんと束ねられる能力を持つコーディネーターである。つまりそういう住職という役割が、現代で分業化されてしまった職業のいくつかを一緒にやっていたというか、そういう中で地域の人たちとそれぞれの場面での付き合いをしながら信頼を得ていた、というのが、おそらくかつての江戸時代―中期ぐらいまでかな―お寺の和尚さんの存在ではなかったか、と思うんですね。
 
小室:  それでたまに僕なんかにいうのは、「私の『住職』は、住まう住職じゃない」みたいなことを言って。
 
高橋:  十種類の「十職(じゅうしょく)」で。「十の職」と書いて「十職」なんですね。だから「住まう」ということよりも、もうなんか僕の場合は「住職」というよりも、「飛び職」と言われるぐらいで、飛んで歩いている。
 
小室:  今、「町おこし」とかいろんなことを全国的に考えて、いろんなことをやろうとしていて、だけどほんとにいま言った地域の身の丈に合って、何か事が起きているか、というと、どうもそうではないですよね。
 
高橋:  そうですね。やっぱり寺のサイズというのは多分そうだと思うんですよ。全国に今約七万数千軒のお寺がある。公民館を考えてみると、公民館の数というのは今二万軒弱ぐらいですね。だからその四倍近くのお寺が全国に点在しているわけですよね。それは地域によってはグッと狭い地域にいくつもお寺が、密度が高いところがあるけれど、でも大体それがサイズなんですよ。だから例えばこの地域でいえば、小学校区に一つとかね、それがつまりコミュニティの中でいろんな動きをしていくのに一番いいサイズだ、と僕は思っているんですね。
 
小室:  その七万軒のお寺ですか、それが今高橋さんがおっしゃっているような機能を、
 
高橋:  そこのところが問題で、機能を持つなら日本は変わりますね、多分ね、すごく変わるんじゃないかと思うね。但し一番重要なことは、そういう方向にお坊さんたちの意識が向くかどうか、ということであって、やり方というのはどんなふうにもなると思うんです。
 
 
ナレーター:  高橋卓志さんは、一九四八年、神宮寺住職の一人息子として生まれました。千年近く続く歴史ある寺。父は禅宗の高名な僧侶でした。もの心ついた頃から、父と子というよりも師匠と弟子という関係だった、と言います。
 

 
高橋:  僕は小学校、中学校の頃から父親に対してずっと敬語を使っていましたから。
 
小室:  小さい時から?
高橋:  そうです。僕の友だちが寺に、家へ遊びに来るわけですね。そうすると、私と父親との話を聞いていて、その子が、「お前、ほんとの親父か?」と言うんで、「何で?」と訊いたら、「家でああいう言葉、使ったことない」というんですね、友だちが親に対して。「父ちゃん」とか、「親父」とか、言っているでしょう。
 
小室:  そうですよ。「そういうふうに言いたかったなあ」という思いはなかった?
 
高橋:  そういうのは全然なくって、最初からそうだ、と思っていた。
 
小室:  変ですよ、それは!
 
高橋:  変ですよ。もともと変な世界だった(笑い)。完全に師匠がいて、弟子がいるという。弟子が私で師匠が父親。そういう関係で、やっぱり後を継ぐということが完全に宿命としてあったわけですよ。
 
小室:  それはもう子どもの頃にもう既に師弟と。例えば、小学生とか、そういうような時にもそういう希望は持っていたんですか。
 
高橋:  ええ。持っていました。それで何しろ小学校で言われていたことは、「寺の息子というのは、葬式ばっかりやっていて、そして人が死んだら儲かるね」という。そういうことを平気で言われるわけですよ。それでそれを継いでいかなければいけないということというのはほんとに嫌だったですね。それをやっていかなけらばいけないこと自体がもの凄く嫌でね。それで学校の先生―とってもいい先生が多かったんですけども、やっぱり自分が選択するというか、「これから生きていきたい職業として、どういうものがあるか」というところを、よく卒業文集みたいなのに書くでしょう。ああいった時に、後から私が夢を書いて、例えば「外交官になりたい」とか、「新聞記者になりたい」とかと書くと、「でも、お前とこは、お前一人っきりだしな」というようなことをよく言われましたね。だからその頃から人の悲しみとか、人の苦しみを自分の生活の糧にするという、自分の飯の種にするという、そういうことがやっぱり潜在的に頭の中に植え付けられていて、「嫌だな」と思った。
 
小室:  最初に嫌だと?
 
高橋:  もうとっても嫌だったですよ。
 
小室:  そういう高橋さんは、小学校、中学校、高校と、どう過ごしていったんですか。
 
高橋:  普通に過ごしましたけれど、中学校から高校に入る時に、やっぱり夢があって、もう完全に寺から脱出するために、しっかり勉強してやろう、と思ったわけですね。
 
小室:  勉強すれば寺から出られると思ったの(笑い)。凄い勉強のモチベーション(motivation:動機づけ)があるね。
 
高橋:  ほんとそうなの。それが高校時代にかなり勉強の面でも挫折しましたですね。ほとんどやらなくなっちゃって。それで大学へ入ったんですけども、その大学もちょうど七十年の学園紛争時代で、ロックアウト状態だったんですね。
 
小室:  団塊の世代、
 
高橋:  そうですね。団塊の世代の、私、ど真ん中ですから。まあデモにも行ったり、封鎖された学校の中にも入ったりしたんですが、一方昔からずっとスキーをやっていて、そのスキーが当時けっこう流行っていたんですよね。
 
小室:  流行っていましたね。
 
高橋:  その中で競技スキーという滑降競技とか回転競技とか、そういう競技の世界に入っていって、けっこういい成績を取っていたんですよ。「あ、これはひょっとしたらこれで食えるかも知れないな」と思っていたんですが(笑い)、結局のところ、スキーをやるためにお金がかかるんですね。バイトやるんだけれど、バイトでは追い付いていけないんです。どうしても大会に必要な専門のスキーが必要だったんですね。「これ買えないよな。どうしようかなあ」と思っていて、最後に思い付いた方法が、母親に、「俺、寺、後継ぐから金頂戴」という(笑い)。
 
小室:  無心したのね。
 
高橋:  そうそう。
 
小室:  そうしたらどうしました、お母さんは?
 
高橋:  「はいよ」と言ってくれた(笑い)。
 
小室:  お母さんに出して貰って、
 
高橋:  そうです。その頃はおそらく「楽しいことが何だろう」ということばっかり追っかけていた、と思いますよ。
 
小室:  仏の道は何だろう、じゃなくて。
 
高橋:  じゃなくて。つまりもう寺の住職として寺に入ることを決めていたでしょう、その時は。入るまでは最大限楽しいことをやっちゃおう、という、そんな感じだったです。
 
小室:  健康診断を受ける前の日に、めいっぱい酒を飲んじゃうというような(笑い)。
 
高橋:  そうそう。そうなんです。そんな感じでいたんですよ。それでそれが逃げられないという状況ができるわけですよ。ある日、修行道場に行かねばならない、ということになるわけですね。その修行道場に入ること自体が、一つの―こういうことを言ったら変だけど―刑期を刑務所の塀の中で過ごすのと同じような感覚だったんです。まあ一年、或いは三年行ってくれゃいいや、というような感じで入ったんですよ。
 
小室:  しょうがないなぁ、
 
高橋:  しょうがない。ほんとに願心も発心も何もない、という状態で。
 

ナレーター:  二年の修行を終え、副住職として寺に戻ってきた高橋さん。しかし、寺の仕事は苦痛の毎日でした。そんな高橋さんに転機が訪れます。一九七八年、二十代最後に訪れた南太平洋の島、ビアク島でのことでした。西ニューギニアのビアク島は太平洋戦争の激戦地でした。高橋さんは戦没者の遺族と共にこの島の慰霊の旅に赴きます。
 

 
高橋:  ビアク島というのは約一万四千人ほどの守備兵がそこに常駐しておりまして、そこで激烈な戦闘が行われるわけですよ。当時もう昭和十九年の後半から二十年の前半にかけてだと思いますが、当時物量的にも全く優劣がついていましたものですから相手にならないわけですね。そのビアク島というのは珊瑚礁の島なんで、洞窟がたくさんあるんですね。大きな洞窟があるんですよ。ほんとに東京ドームが入るくらいの洞窟があって、そこに千人近い日本兵が隠れて、夜な夜なゲリラ戦、それもしかも日本刀を振りかざして突撃を繰り返すわけですね。ビアク島への慰霊行というのがありまして、「西部ニューギニア周辺の慰霊行があるので付いて来い」と言われて、
 
小室:  誰に言われたんですか?
 
高橋:  それが私ども妙心寺派という宗派のトップの山田無文(やまだむもん)老師さまなんですよ。私がとても尊敬する老師だったんですが、その老師さまの一言で、英語が若干喋れるから、「秘書役で付いて来い」と言われて、それで行ったんですね。一九四八年生まれですから、戦後の生まれでしょう。戦後の名残(なごり)は知っているけど、戦争自体はまったく知らなかったですね。一番最初にビアク島に着いて、長い旅をするんですよ。ジャカルタから十時間もかけて、飛行機に乗っていくわけですね。同じ国なのに。ここへ泊まり、あそこへ泊まりして、とうとう着いた。着いたらすぐに連れて行かれた場所が、そこがモクメルという洞窟だったんですよ。モクメルの洞窟はもの凄く大きな洞窟で、坂道を洞窟の中に下りていくわけですね。下りて行って、そこまで僕自身、何で此処へ来たのかな、と思ったわけ。ちょうど足首辺りまで泥水が溜まっていたんですよ。嫌だなあと思いながら。そうしたら現地のガイドが「高橋さん、その泥水を掬(すく)ってご覧なさい」と言われたんで、掬ってみたら、なんと全部お骨なんですよ。
 
小室:  泥水の下に、瓦礫というかなんか、いわば砂利みたいな、
 
高橋:  はい。その泥水の下が、中がお骨だったんですよ。全部人間の骨なんですよ。これ何だろう、と思ったんです。
 
小室:  つまり高橋さんは骨の上にいるということ?
 
高橋:  そうそう。私らは戦後生まれの高度経済成長時期に青春時代を送って、その時点でもまだ青春の一番最後の頃だったですね。戦争の悲惨さとか、現実というものについては、正直言ってまったく考えたことがなかった。「戦争があって、日本がこれだけ繁栄したんだ」ということをよくいわれるんだけど、「そんなこと関係ないよね」と思っていた。ところがその高度経済成長の中にある私自身が―三十三年前ですね、当時―三十三年前に戦争で、この場で命を落としていった人たちのお骨の上に立っている。「これは一体なんだ」といって、そこでもうほんとに大きなショックを受けたですね。立ち直れるかどうか分からないようなショックを受けたんですよ。そこで一緒について行かれた、おそらくこのビアク島で亡くなったというふうに思われている遺族の方々とか遺児の方々がやはりヒョッとしたら、そのお骨の中に自分の父親がいるかも知れない、と思うわけじゃないですか。そして号泣するんですよね。それを私は耳で聞きながら、自分自身が「今まで何をやってきたんだろう」という、そういう凄い慚愧の念に入っていったですね。その印象はもの凄く強烈でしたね。その一つ一つのお骨というもの―私たちはそこに千人の方々が、敢えて米軍によって洞窟に押し込められて、そしてガソリンを満載したドラム缶をゴロンゴロン流し込まれて、機銃掃射を受けて、そしてそこに火炎放射器で火が放たれて、一気にその千人が亡くなった、ということを、後で知ったんです。
 
小室:  撃ち殺され、焼き殺された。
 
高橋:  そうです。また後年―二十年ほど経って、私は行ったんですけどね。まだお骨が累累と洞窟の入り口のところに重なっているんですよ。それは火から逃げようとして行った人たちがみんなそこで撃ち殺されて、そのまんまになっているという状態が―ほんとに数年前ですよ、これ。そういう状態なんですね。それを見た時に、「いや、こういう世界は一体なんだろう」と思って。それと同時に、私自身が今まで生きてきたその生き方をそこにオーバーラップした時に、「いったい何だったんだろう」と。
 
小室:  そこで、勿論、高橋さんのショックをリアルに今共感するようなことはできませんけれども、それでも相当ショックだったろうとは思います。ショックさは分かるんですけど、けど何でであったんでしょう?
 
高橋:  二つほどあるんですよ。一つは遺族とか、遺児の号泣ですよ。崩れ折れるようにその泥水の中に膝をついて、そしてもう大声をあげて泣く遺族がいて、その声を聞くことが、僕自身としてははじめてのすごい体験でした。親と子の関係とか、夫婦の関係とか、そこら辺のところで、戦争という国家体制の中で離ればなれにされて、しかも死を受けなければ―強制的な死に至らなければならなかったという、そういう現状ですね。それを遺族や遺児はイメージの中では捉えていたけれど、でも現実にその場に行って、そのお骨を見た時に、自分の父親とそのお骨がオーバーラップするわけですよ。そういったところの現実が、まず僕自身の中にズシンときたのが一つですね。もう一つは、周りを歩いて見ると―僕はヘッドランプを点けて、ほんとにこれから先へ行ったら危ないと言われるとこの奥に入って行ったんです。その奥に何があったか、と言ったら、勿論靴とか鉄兜とか飯盒とかいろんなものが落ちているわけですけど、その中に白と黒の碁石があるんですよ、碁石が落ちているんですよ。「碁石が此処にあるということはどういうことか」と言ったら、普通の生活を此処でもしていたんだ、ということです―隠れながらね。おそらく凄まじい状態だと思いますよ。弾を受けて呻いている重病者はいる、それからトイレもないわけだから。しかも食料もないわけだから、もの凄い状態で、生の極限のようなところで生活している、という。そうすると同時に、碁を打っている。これ日常だって、しかも迫り来る死を感じながら碁を打つ。そういう気持というのは、どういうものなんだろう、というふうに思ったですね。確実に自分は死ぬということは、周りの状況を見れば明らかですから。
 
小室:  でも高橋さんとしては、寺の息子として生まれて、普通の人たちよりはずっと生き死にということを、いわば身近にして育ってきて、しかも副住職ということの中では、お葬式も含めて、人の死ということに対面してきた筈ですよね。
 
高橋:  それがそういうふうにみなさん思われているんですけど、ほんというと、死というもののプロセスに関わることはほとんどないんですよ、お寺って。死後には関わるけれど、死に至るプロセスに関わるという、そういうシステムの中にお寺はないんですよ、現在の日本の寺は。だから、如何にその死の前の苦しみとか、痛みとか、それから死んだ後、どういうふうになるだろうか、と。これ「予期悲嘆」と言っているんですけど、それ予測する悲嘆ですね。そういったものがわぁっと出てくる時期に、寺が関わるということはほとんどない。「亡くなりました」と言われて、連絡がきて、何も物をいわない、但しその人は、半日前とか三時間前には、痛み苦しみの最大の場面を迎えていて、周りの人たちは、この人が死んだらどうなるだろうという、そういう苦しみとか悲しみの場面にいた方ですよね。それが一つ心停止し、呼吸停止し、それで死亡診断を受けて、何も言わない、しかも綺麗に死に化粧された状態で横たわっているところで、枕経(まくらぎょう)というのをあげるわけですよ。そこから死との、死者との関わりが始まり、そしてセレモニーをして、そしてお布施を頂くという、そういうシステムになっている。
 
小室:  高橋さんの場合は、ビアク島で思わぬところからその死に至る前後のことを凝縮して、わぁっと突き付けられた、ということですか。
 
高橋:  そうです。結局千体の遺骨がある。だけど千体の遺骨を総まとめにして、「戦没者」という。だけど、一つ一つの遺骨には、一つひとつの人間の身体があって、それで一つのストーリーがあるんですよ。それで一つひとつの家族がある、その家族の関わりがあるんですよ。で、人間関係がいっぱい広がっているんですよ。だからその一つの命が我々の知らないとこでではあるけれど、もう自分は死を迎えるなあ、ということを予測し、しかも強制的な死、不条理な死ですよ。それを迎えるな、ということがわかっていながらにして、家族に対して「助けてくれ」とも言えないし、それから「苦しい」ということも言えないし、それでそういうふうになってしまった国家体制を、させてしまった国家体制を怨むこともできずに、そして軍の中で決められた規律の中で、「死ぬ時は、こういうふうにして死んでいくんだ」という、そういうような死に方まで教えられて、そこで死んでいかなければいけない。その辛さって、もう並大抵じゃない、と僕は思いますよ。
 
小室:  その時、既に僧侶であった高橋さんが、それを突き付けられた時に、僧侶としてそれを避けていくわけにはいけないという、きっと出来事だったんでしょうね。
 
高橋:  そうです。じゃ、どうしたらいいか、ということを考えたんですよ。ほんとに短い時間で、どうしたらいいか、ということを考えていって、そうしたら山田無文老師が、「お経を読め」と言われて、読み始めたのが「般若心経(はんにゃしんぎょう)」というお経ですね。この「般若心経」の最初の「摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはやみったしんぎょう)」というのが出ないんですよ、出てこない。
 
小室:  どういうこと?
 
高橋:  その家族の号泣を後ろで聞いて、それで私の役割―今やらないけない仕事はお経を読むことだ、って、自分に言い聞かせているんだけど、涙が流れちゃって、嗚咽(おえつ)になって、お経が出てこない。それで叱られましてね。それで現実に戻って、それでなんとか持ち堪えてお経を読み始めたんですけど、やっぱり一番辛い、今までで一番辛いお経だった、という感じがしますね。
 
小室:  それでもなんとか唱えたんですか。
 
高橋:  ええ。最後までなんとか途切れ途切れながらに唱え終えて、そのお経がそれまでそういうつもりで読んでいたのでなくて、朝、「朝課」と言って、朝のお経で、どうしても読まねばならない義務としてあったという、そういうことだったんですよ。だからそれを敢えて解説し、檀家さんたちに伝えていくというやり方が、最大限の「般若心経」に対する一つの捉え方だったですね。ところがそうじゃなくって、もう「般若心経」自体が、此処にいる千人の戦争で亡くなって、遺骨がそのままになっている方々に、自分の「般若心経」を心の底から、「大変でしたね!」という思いで、「今、遺骨収集に来ましたよ!」という、そういった思いを伝えていく、というものとして、その時は自分がやらなければいけない仕事として捉えられた―短い時間ですけど、それは捉えられたと思う。
 
小室:  きっと僧侶の役割の大きな一つには、現世―こちらの世界とあちら側との往復というかな、往き来みたいなことを司るというか、そういう役割がもしあるとするならば、そこでの洞窟の中でのご遺族ご遺児の人たちと、そしてそこに亡くなった人たちは、多分こっちと向こうの往復というものを宙ぶらりんにされたまま、ズーッとあって、それで高橋さんが行った時に、その宙ぶらりんに、こっちにも留まりきっていないし、向こうにも往ききっていないという状況を、きっと高橋さんに突き付けたのかなあ?
 
高橋:  そうかも知れない、多分それは。その場に眠るたくさんの死者によって、「お前の生き方はそれでいいのか」ということを問われたような気がしますね。そういうことって、実をいうと、あっちこっちの場面で今まであった筈なんですよ。例えば小さくとも人に亡くなられたところの場面でもあったと思うんだけど、結局それに気が付くセンサーがなかったんですね。
 

 
ナレーター:  不条理の死に直面する人間の苦しみを、はじめて実感した高橋さん。そうした苦しみを共にすることこそ、僧侶としての仕事ではないか、と感じるようになりました。以来、高橋さんは、アジア各地を訪れ、不条理の死を迎えた命への巡礼を続けています。そして不条理をもたらした人間の現実を見つめ、命を繋いでいくために、何ができるのか、考え続けてきました。八月五日、神宮寺では毎年「原爆忌」が行われます。父の代に檀家の願いに応えて始めた行事を、高橋さんは大事に育ててきました。
 
被爆者だけではなく、戦争で無念の死を遂げたすべての人々への祈りを捧げるこの日。今年はモンゴルから七人の僧侶が加わり、高橋さんと共に声明(しょうみょう)を唱えました。神宮寺の「原爆忌」は今年四十九回目を迎えました。高橋さんは、この日訪れる多くの人たちと、無念の死を迎えた人々への思いを共にしたいと願ってきました。寺の本堂に据えられた原爆の図。丸木位里(まるきいり)、俊(とし)夫妻が共同で描いた十五枚の連作の一つです。丸木夫妻は原爆投下の三日後から広島に入りました。その時、目の当たりにした悲惨な光景を、ライフワークとして描き続けたのです。高橋さんは、七年前からこの絵を一作ずつ借り受け、「原爆忌」に合わせて神宮寺に展示してきました。一九八八年、丸木夫妻は、高橋さん自らが企画した「原爆の図」の展覧会のために松本を訪れました。この時二人は神宮寺で五十日間過ごします。以来、世の不条理を描き続けた丸木夫妻と高橋さんの交流は、二人が亡くなるまで続きました。丸木夫妻を師と仰ぐ高橋さん。今二人から託された言葉や思いを伝えていくことが、自分の使命だと考えています。
 
 
高橋:  僕はご夫妻との長いお付き合いをさせて頂いたんだけれど、その時に先生方がおっしゃる言葉一つ一つが、やっぱりご自身が描かれる画業に一つ一つ反映されているというのがわかってきたんですね。例えば、「ピカは人が落とさにゃ、落ちてこん」という位里先生の一言が、「原爆というのは人が落とさなければ落ちないんだ。人が落とさなければ良かったんだ」という、そういう一言とか、もう一つは、俊先生に言わせると、「もう言いたいことが山のようにある。それを言わないと賛成したことになってしまう」とおっしゃるんですね。「だから言わなければいけない」というふうにおっしゃる。それは私たちのいのちがひょっとしたら不条理の中に押し込められてしまう。その押し込められ方というのは、自分自身が望むのではなくて、社会とか、体制の中で、そういう方向にいってしまう場合もあるので、そういった時のために、キチッというべきことは言わなければいけない。で、そのためには、画家としてどういう仕事をしたらいいか、というところから原爆の図が完成したんだと思うし、それを描き終えるエネルギーをそこから持たれたんだ、と僕は思いますね。
 
小室:  それは実際に広島を体験しての画業ですよね。
 
高橋:  そうですよ。実は先ほどお話したビアク島に私を連れて行ってくださった山田無文という妙心寺の老師が、「戦時中、兵隊さんに対して国のために立派に死んで来い」という、そういうお説教をしているわけですよ。それに対するほんとに懺悔の気持が強くって、南太平洋の慰霊行を始められているんですね。で、もう七十過ぎのご高齢だったから、あの暑いところに二週間も三週間も行くわけですから、それは大変だと思いますよ。環境の悪いところで行かれるわけですから。「もうそんなことは問題ではない。自分自身の贖罪(しょくざい)のために行くんだ」ということをはっきりおっしゃっていましたよ。
 
小室:  そうですか。
 
高橋:  ええ。位里先生も俊先生も一つには、「消極的な戦争反対ということはしてきたけれど、積極的に当時反戦画を描いたり、画家として、したのではない」とよくおっっしゃいますね。そういう気持が絵に表されたり、慰霊行に出て来たり、ということだと思うんですけどね。そういうことって、ハッキリおっしゃられることは、とても僕は大変なことだと思う。
 
小室:  それは「原爆忌」をやってきている、ということは、そういう思いで、
 
高橋:  勿論そうです。もう一つ大きな点がありまして、それは、「記憶が薄れていく」ということです。だから、「それをなんとか引き戻したい、伝承したい」という。それは何十万人もの、或いはアジアで言えば、「太平洋戦争で約二千万人が亡くなっている」と言われていますから、その人たちのその命をやっぱりその時点時点で思い返していかないと、また同じことを繰り返してしまうのではないだろうか。「命の伝承」というふうにイベント名を付けているんですけれども、伝承することが今大切だろう、と思う。
 
 
ナレーター:  技術や医療が高度に進んだ現代でも、いまだ人々の命は不条理に押し込められているのではないか。高橋さんは今、日本やアジアの末期医療、ターミナルケアの現場に入り、死に瀕する人々、困難の中で闘う魂を支えたい、と考えています。
 

 
高橋:  九七年から始めたタイのHIVエイズの感染者や患者さんへの支援とか、そういったものを、今地域、この私の住んでいるこの小規模な地域を飛び越えて、国際的な「NGO(nongovernmental organization:非政府間組織)」というんですけど、その活動をずっとやってきたんですよね。タイのエイズホスピスと言われているエイズの末期の患者さんたちを収容しているお寺があるんですけど、そこでは毎日少ない時で三人、多い時では九人という方が亡くなっていくんですね。目の前で命がどんどん亡くなっていくんですよ。そういう現実って、今、例えば世界の国々の戦場以外では見られないとこですよ。だけど、私がその中に入っていった時に、凄く驚きを持って見たのは、人間の命の最後という、もう一番最後の最後というのは、こういう形で死んでいくんだ、ということが、現実に目の前で見えてくる。だから、そういう命の有り様、その前段階ですね、特にエイズの患者さんたちというのは、意識がしっかりしている方が多くて、自分の肉体がどんどん一つずつ何か失っていく、という喪失感覚が強いですよね。喪失感覚が強い中で、最後に「あ、死ぬんだ」ということを感じた時に、「自分自身が今まで生きてきたということは、一体どういうことなのか」ということとか、「死にたくない」とか、「こういう人に何かを伝えたい」ということを思うんだけど、それが叶わないわけですよ。で、最後亡くなっていく。そういったところにタイのお坊さんたちが「寄り添う」という活動を始めたんですね。それが僕はもの凄く興味を持って感じられたわけですよ。
 
小室:  つまり宗教者としてですか?
 
高橋:  そうです。迫り来る死というものがあるわけですね。それが分かっているという、ほんとにその中で、「何という人生を過ごしてしまったのか」という。「こういう人生を過ごすこと自体が自分の本意ではなかった」とか、或いは「死を迎えるにあたって、もう一度やり直したい」という、そういう思いを持つ人が非常に多いですね。そういったものが実をいうと、蛸壺の中で銃をかまえて、前から戦車が来る時に、必死になって撃つんだけれども、その時に撃ちながら、「何で俺は此処で、何で俺は死ななければいけないんだ」とかと、「この人生なんだったか」と思うこと自体、そういう強制的な死の中で、つまり不条理の死を受けなければいけないという時の思いというものは、例えば現代社会の病院のベッドの上で、その思いが遂げられないことと、まったく同じじゃないですか。だから、そういう時のことを、僕はベッドサイドで、今の世の中であるとするならば、そこら辺の和解ができたり、緩和ができたりする可能性がある、と思うんですよ。そういったところに関わっていくことが、僕は、「臨床仏教であり、臨床哲学である」と思うんですけどね。
 
小室:  痛みとか悲しみに無縁な人がいるとは思えないんですけれども、それを強く感じる人と、弱く感じる人の違いはあっても、やっぱり痛みを強く感じる、悲しみに対面している人たち、特に命ということを前に、その時に、高橋さんがやろうとしていることで、「共苦」―共に同じ苦しみ、
 
高橋:  共にする苦しみ。「共感、共苦」、或いは「同悲、同苦」―同じ悲しみ、同じ苦しみというところが、多分そこがポイントじゃないか、と思うんですね。やぱり日常で生きていく過程の中で、「生老病死(しょうろうびょうし)」という中に、それぞれがやっぱり苦しみを抱えているんですね。「四つの苦しみ」―「生苦・老苦・病苦・死苦」という、そういう苦しみの中で、そこから何とか逃れたいと思っている人が大半なんですよ。で、私たちが関わるとするならば、その人の苦しみをやはり自分自身の苦しみとして感じられるかどうか、ということが一つの勝負になると、僕は思っているんですよ。
 
小室:  そこにどう立つのかというのは?
 
高橋:  それはとっても難しいことなんですよ。それはやっぱり人間関係が上手くできていないと、まずできない。それとその人の歴史が自分でわかっているかどうか、ということですね、こっち側に。だからそれが分かっていないで、突然病院に行って、ベッドサイドでお説教を始めたって、何の意味もないですよ。そういうことからした時に、やっぱりターミナル・ケアの中における対人関係の作り方というのは、とっても難しい問題だと僕は思うし、それはターミナルな状態にある他人ではなくて、自分の家族に対しても、そういうことができない人が山のようにいるわけですよ。その中で、やはり先ほど申し上げたように、「この人生失敗だったな」と思って死んでいく人が凄く多いんですよね。だから、「一体自分は何をやってきたのか」という時に、「あ、こういうこともやったよね」というところが一つ見つかれば、すごく自信になるし、そういうことも見つけてあげることとか、もしも、例えば和解できない苦しみがあるとするならば、それは和解するための思いを共有する、とか、そういうことができないといかんな、というふうに思っているんですよ。大きなことを言っていますけど。でも一つ一つのケースについて、その時その時にどのように対処するか、ということを、自分自身の今まで持っている持ち玉ですね、それを得るために、今までいろんなところで、さまざまな方向に目を向け、手を向け、足を向けやってきた、というのが現実ですね。
 

ナレーター:  ターミナル・ケアの現場での役割を模索する中、高橋さん自身の父が、二年間の闘病ののち、癌で亡くなります。死の間際の苦しみの中で、厳しかった父がはじめて見せた人間らしい姿。高橋さんがはじめて経験した最も身近な家族の死でした。
 

 
小室:  お父さんは、最期の時というのは、今までのお父さんと、どうでした?
 
高橋:  それはまったく変わっちゃっていてね。変わっちゃって、というか、子どものようになっちゃったんですよ。ちょうど脊髄に麻酔薬を入れたんですね。もう身体の痛みが、前立腺癌から骨転移をしていて、体中に痛みがきてしまったので、もう最期おそらく十日間ぐらい、というような予測の中で、その痛みをまず取ろうという小さな手術を自分の病室でやったんですね。その時、父親を僕は抱きかかえるような状態になって、ベッドに座った父親を、僕が向かい側で身体を抱きかかえるようにして、その背中に麻酔薬を入れるという。そういう時に、今までほんとに謹厳で威厳を持っていて、子どもを子どもとも思わないで、弟子と思っていた師匠が、僕の胸にこう額を付けて、そして呻いているんですよ、「痛い」と言って。それは今まで颯爽(さっそう)と衣の裾をひるがえしていろんな場に立っていた、出ていた父親とはまったく違ったですね、その時はね。その父親の「痛い」という声を聞いた時、ほんとに悲しみが吹き抜けていったですね、僕の心の中にね。これが人生のプロセスなんだ、と思ったですよ。
 
小室:  自分の息子に抱かれる時がくるなどとも思っていなかったでしょうに、抱かれて「痛い」と洩らした時に、それが「父と子」になったんですか。
 
高橋:  そうだと思います。多分「父と子だ」と思います、その時は。それも たっぷりの父と子だと思いますね。だから僕は今まで経験したことのない父親でしたから、多分そうだと思います。
 
小室:  つまり、もしかして、お父さまの勇音(ゆうおん)先生と高橋さんとの間に触れないで棚上げしておいたまま、そっと棚の奥のほうにしまっておいた、
 
高橋:  そういうふうになりたかったんじゃないか、と思うんですね、最期ね。ほんとに最期の最期というのは、毎日毎日ベッドサイドで笑いの連続だったんですよ。
 
小室:  そうですか。
 
高橋:  サービスするんですよ、洒落(しゃれ)を言って。はじめて灌腸(かんちょう)しなければいけなくなって、おしめを付けなくちゃいけなくなった時に、とても僕は、あの父親が「おしめなんぞ」と、拒否すると思ったんですよ。そうしたら看護婦さんにニコニコ笑いながら、「看護婦さん、すまんねぇ! 管長が灌腸してもらうって申し訳ないね」と言って、そこで汚い話ですけど、ウンチが出るわけでしょう。それを僕と看護婦さんと拭いていると、看護婦さんに言って、「すまんねぇ! 汚いので申し訳ないねぇ! これがほんとの糞坊主というんだよねぇ」というんですね(笑い)。それもニコニコ笑いながら、しかし横向きになって、ベッドに寝て、掌を―掌に力がなかったからぶるぶる震いながら合掌している。その印象は凄く強い。ぶるぶる震いながら掌を合わせていて、それで口では「いやぁ〜、すまんねぇ! それほんと糞坊主と言うんだよ」と言っているんですね。なんか凄いプライドが感じられたしね、その時は。だけども、そういうものを通り越して、自分自身がほんとに子どもになっちゃった、という感覚があったんじゃないか、という気が致します。
 
小室:  でも、それはちょっと俯瞰(ふかん)してみると、勇音先生は最期まで高橋さんに教えていったんですね。
 
高橋:  そう思います。それが、「俺の最期を見ておけよ」という、そういう感覚ですよ。「死というものはこういうものだぞ」という。「俺の最期を見ておけ。お前、ほんとに人間の最期をキッチリと付き合って見たことがないだろう」という、そういうところでの最期だと思いますね。
 
小室:  高橋さん自身にとっては、死ということ―二十代の頃に、或いはビアク島に行った時の二十九歳の時の対面した死、いろんな死と関わりあったり、いろんな死と出逢って、いま高橋さんがいるんだけど、ご自身はだいたい死を恐いと思ったことないんですか。
 
高橋:  ありますよ。一つは、人称で、「三人称、二人称、一人称」となってきているんですよ、徐々に。だから、ビアク島なんかの場合は第三者的に見ていますね。「いやぁ、凄まじいね」というような、あれだけショックを受けたにも関わらずですよ、やっぱり「死というのは凄まじいねぇ」という思いがするんですが、それは明らかに「三人称」ですね。第三者として見ている。それから、例えば父親の死を目にした時というのは、これは一対一で「二人称」という感じですね。「君・僕」という感じだから。今度いよいよもうすぐ六十ですから、ここでどうみたって、この僕の健康状態からすると、これから二十年は無理だなと思うわけですよ。そうなってきた時、一日一日がやっぱり死に向かっていくために生きているんだ、というようなことが感じられ始めた時というのは、「一人称の死」というところにいくと思うんですよ。その一人称の死というのが、果たして具体的にどういうものであるのか、ということについて、実をいうと恐ろしいというよりは、一つの探る楽しみというか―まだ切迫していないから、そういうこと言えるのかも知れないけれど。
 
小室:  僕の高橋さんとのお付き合いの中で感じることなんですけれども、ちょっと前までは命ということでいうと、生の側にいて死を見るという、そういう位置関係のほうが大きかったような気がするんだけど、最近の高橋さんは死そのものの側になんかいるような感じがするわ。
 
高橋:  そうなんですよ。この頃お付き合いしている方の中に新井満(あらいまん)さんという方がいてね。新井満さんは最近短い英語の詩なんだけど、『千の風になって』という詩を日本語に訳されていて、人間死んだらどうなるか、ということが書かれているんですけど、その詩というのは、
 
     私のお墓の前で泣かないでください
     わたしはここにはいません
     死んでなんかいません
     千の風 千の風になって
     この大きな空を吹き渡っています
 
ということが冒頭にあるんですよ。つまりこれはどういうことかというと、死者が書いた詩なんですよ。死者が生きている人間に対して書いた詩だ、という。こういう特異性があるわけですね。そういうことって、今私たちが、この神宮寺に来る人たちというのは、やはり死というものを究極の苦しみとか、悲しみとかとして、そしてその周りにさまざまなもっともっと大きな苦しみ悲しみを持って見えるわけなんだけど、その人たちが、「あ、この人の死というものはこういうものだったんだ」ということを納得できるような、納得して貰えるような、そういったことをやはり提示しなければいかんのじゃないか、と思うんですよ。それは生者の側にいたら、なかなかできないですよ。だから自分自身が、死ね、というわけじゃないんだけど、死者の側に立つということも、とっても大事なことだ、というふうに思っていまして、
 
小室:  人の痛みと悲しみに―喜びには別に付き合って貰えなくたって、みんなバァッと行けるわけですけれども―痛みと悲しみに寄り添い合う、支え合うというようなことというのが、やっぱり寺はもっと意識的、自覚的でないといけないと、そうなんでしょうね。
 
高橋:  そう思います。今のお話からすると、例えば「この世」と「あの世」とよく言うじゃないですか。私、ついこの間、シンポジウムでご一緒した大阪で在宅ホスピスをやっていらっしゃる先生が、死を迎える患者さんに元気付ける時があるんです。「あ、大したことはないで!」って。「この世≠ニあの世≠フ違いは、こ≠ニあ≠フ違いだけだ!」って(笑い)。そう言うんだって。そうすると患者さんも元気になる、というんですよ。それでたしかにそうだ、ということと、それからもう一つ、この世とあの世を繋いでいくうえで―あの世があるかどうか分からないんですけど、「もうそのうちに体験できるから良いよね」といいながら、その繋いでいくうえで大事なものというのは、やっぱり我々がする役割があるだろうということ。
 
小室:  寺には駆け込み寺とか、逃げ込み寺とかっていうような側面があって、それは重要なことですけれども、やっぱり痛みを持っている、悲しみを持っている人が世間の中で、その悲しみ痛みに、なかなか世間そのものは冷たくて寄り添ってくれない時に、逃げ込めるところですからね、ほんとに。でも神宮寺はそういう意味で、或いは高橋さんという存在は、
 
高橋:  地域の人々が此処を信頼し、そして生老病死における苦しみの拠り所として、解決する場所として、こういう場所があり、そういうコーディネートができる人間がいるということが、地域にとってとても大きなことであるし、その中で高齢者に対して、或いは障害者に対して、どういうふうなガードができるか、アドバイスができるか、ということで、とっても大事じゃないかと思うし、それこそ「お寺が開かれて」っていうふうに、今、小室さんはおっしゃたけど、「お寺というのは本来開かれているものである」という認識が、僕はありますから、敢えて開く必要もない。ただ閉じてはいけない、というふうに思うし、その中でいろんな社会の問題点を、自分自身がアンテナを高く掲げて探っていきながら、やっていかなければいけないと思っているから、こういう形になっているんですよ。
 
小室:  今後もあまり疲れないように。
 
高橋:  かなり疲れています(笑い)。
 
小室:  ありがとうございました。
 
     これは、平成十七年九月二十五日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである