仏教の看取り
 
                        作家・脚本家 早 坂(はやさか)  暁(あきら)
作家・脚本家・演出家:昭和四年愛媛県北条市生まれ。昭和三一年日本大学芸術学部演劇科卒。昭和三六年から脚本家として仕事を始め、「七人の刑事」など書く。五○年ドラマ「わが兄はホトトギス」で芸術祭優秀賞を受賞、つづいて「修羅の旅して」などで五四年度芸術選奨文部大臣賞を受賞するなど、受賞多数。人間のいたわりを描き、社会派≠ニ称される。日本放送作家協会理事長を務めた。他の代表作「天下御免」「夢千代日記」「花へんろ」、映画「空海」など。小説執筆にも意欲を示し、著書に「ダウンタウン・ヒーローズ」「山頭火」「華日記」「公園通りの猫」他、また「好色一代男」「夢千代日記・暁のひと」など舞台演出も手がける。
                        ビハーラの会本部
                        世話人代表  田 宮  仁(まさし)
昭和二十二年生まれ。大谷大学大学院をへて、佛教大、大正大講師。現在飯田女子短期大学教授。専門は仏教福祉。
                        き き て  峯 尾 武 男
 
峯尾:  普段は殆ど考えませんが、私たちは必ず死を迎えます。そして、私たちは経験によって、多くの人たちがその生涯を閉じる時、やはり不安や寂しさや苦しみに悶(もだ)えることを知っています。では、生涯を閉じる人、傍らでそれを看護する人の双方にとって、仏教は一体どんな支えになるのでしょうか。今日は作家の早坂暁さん、それにビハーラの会本部世話人代表で飯田女子短期大学教授の田宮仁さんに話し合って頂きます。どうぞよろしくお願いいたします。
 
早坂: 田宮: お願い致します。
 
峯尾:  早坂さんは『夢千代日記』とか『花へんろ』とか、素晴らしいテレビの作品を沢山これまでにお創りになっていらっしゃいますけれども、『空海』という書物もありまして、御大師(おだいし)さんとは小さな頃からお馴染みだったんですか。
 
早坂:  僕は四国の遍路道に生まれ育ったものですから。お遍路さんがもういっぱい歩いている道筋だったものですから、「空海」というよりも、「御大師さん」ですね。小さい時から「御大師さん、御大師さん」と、まるで親戚のおじさんのようにして、日に一遍は必ず聞きましたですね。ただ、「御大師さんが空海である」というふうには繋がらなくて、それは中学生ぐらいからやっと繋がったんです。御大師さんの名前を聞かない日は一度もないという環境だったです。
 
峯尾:  そうですか。それで田宮さん、「ビハーラの会」とご紹介したんですけれども、これをちょっと説明して頂けますか。
 
田宮:  日本でいわゆるガンで亡くなる方が死因のトップになってきて、「ホスピス」とか、「ターミナルケア(終末期医療)」という言葉が、日本でいろいろ使われたり、問題視されるようになりました。その時に、いわゆる「生きている間はお医者さん、亡くなったらお坊さん」ということではなくて、「仏教というのは本来生きている人のために働きをするんだ」というようなことと思い合わせまして、「ホスピス」がキリスト教と深い関係の中で育ってきた言葉ですので、それで、「仏教ホスピス」という言い方もされているんですけれども、何か私は違和感がありましたので、仏教を背景にしたターミナルケア施設の呼称として、「ビハーラ(散策の場、精舎)というのを使いませんか」ということを一九八五年に言い出したわけです。
 
峯尾:  で、実際に今、「ビハーラ病棟」というのも存在するわけですね。
 
田宮:  はい。私の長兄は寺の住職なんですが、次兄が医者をやっておりまして、次兄が経営する新潟県長岡市にあります長岡西病院に、九十二年にビハーラ病棟を二十二床で今開設しております。
 
峯尾:  お考えとしては、そう言ったものを日本中に次第に広めていこうということをお考えになっているんですか。
 
田宮:  「広める、広まらない」は、これは別問題なんですが、我々利用する側と言いますか、お医者さんにしろ、誰もがいつの日か死を迎えるわけですが、「いろんなメニューが多くあっていいではないか」という気がするんです。私の場合だったら、「仏教的な環境の中で最期が迎えられたら」と。だから、「自分が安心して死ねる場所をまず造ろう」という、非常に贅沢なことをしているということです。入れ物を作ってみたけれども、そこの中で働いておられるお医者さんとか、看護婦さんとか、いわゆるメデカル スタッフ(medical staff)の方たちに話の通じる人が欲しくて、それでたまたま看護学科に関わっておるのは、「宗教的なセンスをもった看護婦さんが一人でも生まれてくれたら」という一連の流れの中でやっております。
 
峯尾:  そして、一般の方にお話をなさる時に、実は今日早坂さんとお二人でお話し合いをして頂くに際して、田宮さんは、「早坂さんの書かれたものに大変感銘を受けられた」という話を伺っておりますが。
 
田宮:  早坂先生の『嫁(とつ)ぐ猫』という本との出会いは、誠に偶然と言いますか、私が岡山の市内でお話をさせて頂く機会があって、新潟の長岡で上越新幹線にちょっと時間待ちをしている時に、駅ビルの本屋さんで、ちょうどこれが発行された時に出合ったわけですね。新幹線の中で読んでいく中で、涙、涙でございました。仏教なり、死の話を、私などまだ本当に人間の年輪というか、そういうのを踏まえた形で話が出来ないでいるのに、何と早坂先生のこの本には、仏教のことから、いのちのことから、そこでの愛(いと)しさ、悲しみ、怒り、さまざまなことがほんとに上手く巧みに自然に出ているものですから、早速その日の岡山の話ではこの本をすぐ朗読させて貰った、というようなことがあるんです。会場を心持ち暗くして貰って、読ませて貰ったんです。そうしたら、終わったところで会場が明るくなろうとしたら、会場の方で、「待ってください。お化粧が崩れてしまったから」というぐらいのみなさんの反応でございました。
 
早坂:  丁度、僕は大きな病気を二つして、退院してきて、「ああ、生き返った」と。ほんとは死んでいたみたいな形で退院して来て、それから、「歩きなさい」と言われて、歩き始めたんですね。そうしたら、猫に出合って、猫に惹かれて毎日歩くようになったんです。それでこういう猫の話がどんどんと出来ました。
 
峯尾:  そして、続編がこの本で、田宮さんのおっしゃっていたのは、この中の「アマテラスの最後の旅」というんです。早坂さんは交流のある猫たちに素敵な名前を付けていらっしゃるんですが、アマテラス(猫の名前)というのは、人間の歳にするともう百歳ぐらいになる?
 
早坂:  百歳ぐらいですね。僕らの居るところの猫のご先祖さまですね、辿り着いた、もうそこから沢山猫が出ているわけですから。最初は、「ご先祖さま」と言っていたんですが、まあ、「アマテラス」という名前に定着しました。周りの人たちも「アマテラス」「アマテラス」と言っていました。
 
峯尾:  そのアマテラスがだんだん弱ってきて、その最後の旅をする部分を、私の方からご紹介させて頂きます。
向こうに明治神宮が見えてきた。ああ、あの神宮の森の中で死ぬのか・・・。あそこなら立ち入り禁止地域なので、誰の目にも触れることもない。しかしまだ二百メートルの坂道が続く。のろのろと、アマテラスは、けれども確実に神宮をめざして歩いていくのだ。これだけの余力を残して、最後の旅に出かけたアマテラスに、私は驚嘆している。立ちどまり、うずくまる。そしてまた歩きはじめる。すさじい意思の力が、こちらに伝わってきて、私は泣きそうになっていた。
「人間はみっともなく、おろおろとするばかりなのに、君たちは本当に立派だなあ」
十八年前、癌で死を宣告されたとき、ひとしきり混迷した自分が恥しいというものだ。アマテラスは、とうとう坂を登りきった。あとは広い車道を横切れば、明治神宮の森にたどりつく。しかし、車の通行が激しくて、とても渡れない。そこは信号がなく、歩道橋があるだけだ。とても歩道橋の階段は、アマテラスに登れない。私は彼女を抱きあげようと近づくと、アマテラスはもう車道に足をふみ出していた。自分の力で、真っすぐ車道を横切ろうというのだ。私はあわてて車道に飛び出し、疾走して来る車に向かって手を振った。
「停まってくれ!ストップ!」
ブレーキの音を鋭くたてて、車が次々と停まった。
「さあ、渡れ、渡るんだ、アマテラス」
奇妙な初老の男が両手をあげて車を停め、その前を老衰いちじるしい猫が、ヨロヨロと歩いている。なんともその足どりはもどかしく、三歩よろめいて、しばらく休むというぐあい。非難の警笛が鳴るけれど、何十台の車が止まっているのか、私にふりかえる余裕も、勇気もない。ひたすら非難の警笛が耳に入らないふりをして、アマテラスを励ます。抱きかかえて走ればあっという間に渡り切れるのだが、彼女が命をしぼり切って行う最後の儀式に、手をさしのべることは無礼なような気がした。とうとう、アマテラスは横断しきった。彼女の力は尽き果てようとしているのは、誰の目にも分かる。彼女の目の前にはコンクリートの柵があるだけである。
「さあ、お入り・・・」
アマテラスは体を押しこむようにして、昼なお深い闇をただよわせる明治神宮の森の中に入っていった。
「アマテラス!」
私は彼女の名を呼んだ。もう一度ふりむいてほしかったのだ。しかし、彼女は足をとめただけで、もう、ふりかえる力もないかのように、森の闇に入っていく。
「ここが公園通りの猫たちの死に場所なのか」
私と深く深く交際してきた数十匹の猫たちが、立派に覚悟死をとげた場所である。
「さようなら、アマテラス・・・」
私は思わず合掌して、念仏のようにある言葉をくりかえした。
「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥(くら)し」
アマテラスのように壮麗な覚悟死をとげた弘法大師空海が、死の直前に発した最期の言葉である。人も猫も、生命を持つものに変わりはあるものか。
 
早坂:  全部で百匹位の猫の面倒を見て、まあ楽しい毎日だったんですけども、ほんとに猫の死体は見たことないんです。交通事故では見ますが、それ以外では何処で死んだか分からない。幾らビルの間を捜して見ても、猫の死体はないんですね。床下が無い街ですから、ほんとに分からないんです。初めて、このアマテラスの時に、ちゃんとご挨拶してくれて歩き始めたものですから、僕は付いて行ったんですね。まあ、まさによくも発見したなあと思うんです。かなり遠いです。五百メートル位あるんじゃないですか。明治神宮の森がありまして、そこは誰も入らない暗い所なんですね。そこを墓所に、誰が発見したのかしら、全部あそこに入っているんじゃないかと思うんですね。感心しました。山手線の線路際かなあと、そこらも捜したんですけど、猫の死体は一つもなかったですね。ですから、放浪の俳人山頭火(さんとうか)(種田山頭火:1882ー1940)が書いていますけど、「本当に鳥や獣は行き倒れの死体は、一度も、幾ら歩いても出合ったことがない。自分はあのように死ねたらいいのになあ」と言っていたんです。猫はほんとに自分の死体を見せないです。他の生き物も、交通事故以外は殆ど自分の遺体を見せない。人間だけじゃないでしょうか。自分の遺体を見せて、大騒ぎして死んでいく。動物にはほんとに頭が下がります。
 
峯尾:  今の文章の中でアマテラスが道を渡ろうとする。「抱き抱えて歩道橋を渡って終えば」と思うんですが、早坂さんはそれをしなかったんですね。
 
早坂:  しようと思ったら、もう先に彼女が歩き始めたものですから。車がビュンビュン来る所ですから、もう停めるしかないのです。「停まってくれ!」と、こうやって手を振って停めたんです。変なおじさんが手を出して、後ろの方の車は見えないからブウブウ鳴らしているんです。車の前をヨロヨロの猫が歩くものだから、前の方の車は見て、「ああ、そうか」とは分かってくれたんですが、後は鳴らしに鳴らしているわけですよ。縮み上がりました。兎も角、アマテラスを渡さなければいけないから、僕も一生懸命だったですね。
 
田宮:  今、先生がおっしゃったここがターミナルケアで、私はもっとも大事なところだと思います。ご縁があって医療関係の人にお話をする時には、今の「この道を渡る場面」が一番力が入るところです。と言いますのは、今の医療、特にターミナルケアと言われる世界で、「何をするか」「どうお世話をするか」「どうケアをするか」。それが非常に出てしまうんですね。これはお医者さんにしても、看護婦さんにしても、死に逝く人に対して、「何かをやっぱりしていた方が安心なんだ」と思うんです。そこで、「何をしないで置くか、ということの選択が出来るようになったら、これは凄いお医者さんであり、看護婦さんだ、と思います。でも、何かしている方が安心なんですね。私は、ターミナルケアというのは、残された時間がわずかなわけですね。それは結果論としてみれば、ほんとに決まってしまった時間。そこで、「本人が何をしたいか」。そのことを思った時に、医療者が介入することによって、「その時間を奪ってしまう」ことが起きるわけです。ま しては、ここで「抱きかかえて走ればあっという間に渡り切れるのだが、彼女が命をしぼり切って行う最後の儀式に、手をさしのべることは無礼なような気がした」と。この「抱きかかえて」ということが、現在あまりにも多いわけです。そこで、「命をしぼり切って行う最後の儀式に、手をさしのべることは無礼な」―この「無礼なような気がした」という思いを持てるセンスのある医療者がほんとに欲しいですね。まさに、今お読み頂いた一番最後のところの「人も猫も、いのちを持つものに変わりはあるものか」。まさに、それこそ仏教者が、「一切衆生悉有仏生(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」とか、「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」というようなことを申しますけれども、それを、頭の中で言っているんではなくて、まさに目の前で抱き上げんばかりの思いで、これが書かれているという、この辺はまさに、私が教えて貰った「仏教の心そのままだ」と思いますね。
 
早坂:  アメリカで「猫時計」というのがありまして、猫の時間の時計があるわけですね。それ買ったんです。面白いんですね。「食う」「寝る」「遊ぶ」だけなんです。「Eat」「Sleep」「Play」これだけで、「Work」働くのがないんですね。非常に単純明快な猫の時間。だから、欲も無いし、権力を持ちたいとも思わない。だから、「あんなに自然に死んでいけるのかなあ」と思った。僕も「猫時計で死ななければいかんなあ」と思いましたね。「食う」「寝る」「遊ぶ」と非常に明解。そこには欲が入っていないんです。食欲は入っていますけど。いわゆる、権力欲だとか、お金がもっと欲しいとか、物質欲とか、そういうのが全部除外されていますから、あんなに清々(すがすが)しく死ねるんでしょうか。僕はそんなふうに思いました。
 
田宮:  その辺を、つい私どもは理屈付けて、また説明をしがちになるんですけども、ほんとに「自然」とか、「生き物の原型」と言いますか、そういった「いのちのありよう」みたいなものを、やっぱりこういう文章で示して下さって、そのお方に会えるというのは、今日、ほんとに嬉しいですね。
 
早坂:  僕も最近亡くなる自分の血の繋がった人もいるし、友人もいるし、そういうところへ立ち会うことがあるわけですけど、本当の臨終のところへ立ち合えないんですね。「今、いろいろ救命装置を付けているから外に出てくれ」と。そして、「どうぞ」と言われた時は、もう言葉を残す力もなくなっている。もう遺体に近い形になっている。僕は、「それは凄く無礼な気がする」のですよ。助けるつもりでいろんな救命道具を付けているんでしょうけれども、その人が人生の最期に、家族や友人に、「ほんとに言いたいこと、残していきたかったこと」があるに違いないんです。これはアマテラスがほんとに最後力を振り絞って、渡りきるのと同じように、「とても大事な儀式だ」と思うんです。それを断ち切ってしまって、何も言えないで、何も残せない。財産よりも、何よりもその言葉が一番その人にとっての大事な言葉であるのに、それを「言わせない、聞かせない」という臨終が、あまりにも多すぎるような気持がして、腹が立って仕方がないんですね。こうやって見ると、生まれた時も病院で白い壁のところで、死ぬ時も白い壁に向かって、なんと寂しい最初と終わりなんだろう、と。一番大事な初めは、生まれてきて分からない時だが、死ぬ時は自分の総括ですから、自分の愛した仲間や家族に、どうしても言っておきたい言葉というのは、誰でもあると思うんですね。それを「言わせない」というのはやっぱり「無礼だ」と思いますね。是非その力が残っている時に、家族を入れて欲しい。残る人間にとっては、その人がほんとに簡単な言葉でもいいから、「お前と一緒に生きてきて良かった」とか、「有難う」とか。それが、残された者にとってはその後生きるのに、ほんとに大きな力になる筈です、また、逝く人にとっても、「それが言えた」と言うのは嬉しい!生きている時はちょっと恥ずかしかったり、どうしても言えなかった。でも、死ぬ時の弁は良しで、最期の時はほんと偽りのない心を相手に渡していけるんですから、こんな清々しい旅立ちはないと思うんですよ。それは是非力が残っている間に、僕の言い方だと、「元気に死なして欲しい」です。
 
峯尾:  実際に田宮さんたちがやっていらっしゃるビハーラ病棟というのは、一般のターミナルケアが行われている病院と、さらに違うところがあるんですか。具体的に何が違うんですか。
 
田宮:  「医療法に基づく病院」ということでは同じなんです。そこを逸脱するわけにいきませんので。しかし、まず設備的に病棟の真ん中に仏間がございます。ご縁がありまして、十七世紀のビルマで出来た釈迦菩薩像がご本尊として安置されております。毎朝、或いは、毎夕、ビハーラ僧というチャプレンがおりまして、その人がお経をあげて、或いは、短い法話等もありまして、お香の匂いが漂っております。だから、ある人が、「ビハーラの病棟の院長先生は、このご本尊さまですね」と。それを言葉で説明するのではなくて、そういった「仏間とか、仏さま」という存在が自然にある。みなさんは最初はどうも違和感があったようでございます。違和感ということでは、例えば、若い看護婦さんたちは、「お線香は抹香臭い」というわけです。「じゃ、あなた、抹香の匂いを嗅いだことがありますか?」と訊きますと、本当にいい香りを効いたことがないわけですね。或いは、病院で「仏間とか、仏さま」と言いますと、「霊安室」とすぐ連想される方が多いんです。私は病院ほど「願い」とか、「祈り」というものの交錯している場所が、お寺など比較にならないほど今多いと思うんです。そうした時に、祈りとか願いが出来る場所があると、とても楽なんですね。「楽」という表現が適当かどうか分かりませんが、そこに行って掌を合わす。これはご病人だけではなくて、その家族、場合によってスタッフも掌を合わす。「どうしてもこの患者さんに信頼して貰えない。或いは、コミュニケーションが取れない。どうしたらいいんだろうか?」と悩んでいる。そうした時に、一人夜勤の時に、ちょっと時間が空いた時にお詣りしている。その辺が普通の病院とちょっと違うところじゃないでしょうか。
 
峯尾:  キリスト教系の病院というのは、私どもよく目にし、話も聞きますけれども、霊安室とは別に仏間のある病院というのは、今まで日本で例があるんですか?
 
田宮:  戦前には幾つかあったと聞いております。その意味では、日本がまことに異常な状態と思います。医療と宗教というものは非常に近い。もう一緒に育ってきたようなものですから、歴史的には。例えば、お隣の韓国のソウル大学医学部の付属病院、或いは、台湾大学の付属病院に致しましても立派な仏間があります。仏間だけではなくて、勿論、チャペルもあるんです。医療機関の中に祈りの場がある。これは当然なこととして国立大学にあるわけです。ところが、日本の病院には殆ど無い。私の友人が、「日本の医療者は祈ることを忘れているのか」と。「とても怖い」という言い方をしたことがあります。日本が今異常な状態になっているんじゃないかと思います。
 
早坂:  そうですね。お線香だとか、仏像だとか、そういうものが何か抹香臭い、という。あれは、これから行こうとする浄土の世界ですから。ああいう方がおられて、「お出で」と言ってくれるんだなあ、と思うと、とても安心する。あの仏さまに守られるんだなあ、と。それが仏さんや仏壇があると、「何か抹香臭くて、葬式臭くて」というふうにしてしまった。「ちっとも、あの世は嫌なものではないんですよ」「そんな恐れることはないんですよ」と安心させてあげることが大切ですね。僕がガンで死を宣告された時に、「あの世がどんな所か?」というのが、一番大きなテーマでした。「死んだらどうなる?」というのが一番分からなかったですね。いまだに分からないんですがね。
 
田宮:  先程、読んで頂いたところ以外にも、このご本から、私はいろいろ教えられた点が多いんです。このアマテラスのところでは、「五穀断(ごこくた)ち」の問題が出て来るんです。日本の河野(博臣)先生がフランスの「サイコロジー(psychology)学会」で、この「五穀断ち」の話をガンの末期の人に、「こういうことはどうか?」と言ったら、「大変な脚光を浴びた」ということを教えて頂いたんです。私は何か生きていることも、死ぬことも、何かそこに水が流れるような、何か自然なものとして受け止めていく一つの人間の智慧がここにあるように思うんですが、如何なものでしょうか?
 
早坂:  空海さんは、「五穀断ち」をして、最後に、「水断ち」をして、「予告した三月二十一日に死んだ」という話を聞いた。僕たちはほんとに死ぬことを言われると逃げ回っているのに、空海さんはなんと意志の強い人だろう、と。非常に精密に計ったように、予言した通り、三月二十一日に亡くなっている。度胸があるなあ、と思うばかりです。とても僕はそういう境地になれないんだけども、猫のアマテラスの最期を見ていると、まるで五穀断ちをしていくようにして、最後の水断ちのところまできて、歩いて死んでいくように見えて、「ああ、空海さんと変わらないなあ」と、非常に感嘆したんです。ですから、僕なんかは、「末期ガンです。もう、あんまり命ないですよ」とハッキリ宣告された時に、ほんとに狼狽(うろた)えました。「ああ、こういう時、もうちょっと自分は仏教、宗教のことを勉強しておけば良かった」と。しかし、慌てても間に合いません。死んだら、「あの世というのはあるのか」「あるとすれば、どういう世界なのか」というのを一番知りたかったですね。
 
田宮:  同じようなことを聞かれることが、時にあるんですけども、いま私たちが仏法の話を聞いたり、というようなことは、「何なのか」というと、結局、「その時のため」と言いますか、僕らの親の時代には、「後生の一大事」という言葉がありましたけれども、ところが今の我々世代以下と言いましょうか、「その時になってみないと分からん」という。「その時になってみないと分からない」というんですが、いま勉強なりしているということは、多分、「きっとそうするであろうということをいま習っているんではないか」という気がするんです。ところで、「普段からやっぱり聞いていないとダメだよ」なんていうお坊さんもおられるんですが、逆に、お坊さんはたといその一瞬に出合ったとしても、僧として、「何を安心して貰えるか、ということを、伝えられるかどうか」。それが、「僧の役目だろう」と。僕は、ほんの最期の一瞬のみしか会えないとしても、それが「僧の役割なんだ、という位の気概と覚悟をもって欲しい」と思うんです。どっかに責任転嫁(てんか)をしない、という。
 
早坂:  僕の親父は普通の田舎町の商人として死んでいったわけですけども、「お墓に碑を建ててくれ」と言って、俳句を残していったんですね。「どんな俳句か」というと、あんまり上手な俳句ではないですけど、僕は親父が詠んだ俳句の中で一番いいと思うんですよ。
 
     楽しさよあの世とやらは花野とや
 
と言うんです。「これから行くあの世は楽しいなあ。あの世はなんか花野だそうな。花がいっぱい咲いた野原だ、というふうに聞いた。楽しいなあ。これからそこへ旅立つんだ」というふうに、親父は親父なりのあの世の設定をしたんですね。しかし空海さんが亡くなる時、弟子に、「お言葉を」と言われて言った言葉が、「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥(くら)し」でした。ああ、一番死に接近したところで言ってくれた言葉が「生まれる前も暗くて、死んでからもまた冥い」と、まことに素気ない。「あの世は天国だ」とか、「地獄」とも言わないで、「生まれる前みたいに暗いよ」と、実にそっけないんですね。ああ、そうか、「生まれる前のように冥い」と言うんなら、僕は恐くないと思った。だって、「生まれる前がとても苦しかった」という記憶はないから、「そんなに苦しいところではないなあ」と安心したんです。さらにまた、御大師さんがもう一つ言葉残して、お弟子さんたちが、「師よ、私も一緒に死にます」と、もう死のうとするんですね。「一緒に死んではいけない。自分は旅立つんだ。お前たちはいつでも私に会いたくば、南無大師(なむだいし)遍照金剛(へんじょうこんごう)と唱えなさい。直ぐにお前達のところへ行って、一緒に生きてやる」と言われた。これが最期の言葉です。これも凄いなあと思った。それが、「同行二人になるのかなあ」と思うんです。
僕は、実は「あの世なんか無くて、霊魂も無くて、残った人に残った思い出こそが霊魂だ」と思うんです。だから、「お前と一緒に生きてやるぞ」と言ってくれた人。トコトン念じれば、いつでも御大師さんは顕れてくれるわけなんで、それが霊魂なのかなあ、と。とすれば、僕は、死ぬ時に、臨終の時に、そういう残った人たちの心に、「思い出として残り思い出の中で生きるしかない」と思うんですね。「思い出に残ったのが、つまりあの世なんです。その言葉を残す機会を奪っている今の医療は、本当に無礼だ」と思うんですね。「あの世を残してくれ」「来世を残してやってくれ」と、僕は願いますね。つまり「言った言葉が来世」なんですね。「その人の霊魂」です。思いしか残らないわけです。そう、僕なりに納得しているんです。
 
田宮:  今の「残す」ということでいきますと、やはりこのアマテラスの話の中に、お釈迦様の最後の場面が出て来るんですが、実は、私が大学院の方の授業で、講読の時間に使っておりますのが、中村元(はじめ)先生訳の『ブッダ最後の旅』です。お釈迦様の「最後の数ヶ月」と、「遺体の火葬」と「遺骨の分配と崇拝」という、そこを扱った経典なんです。まさに最後の旅で、さまざまなことが語られ、そこには八十歳の年老いた人間、ブッダというのが、神格化された、持ち上げられたお釈迦様ではなくて、生身(なまみ)の、その辺にいるようなお爺さんのお釈迦様が出て来まして、そして、一代の教えのすべてが凝縮された形で残されている。とっても凄い経典なんですが、その中に、今の「生き死にの問題」、或いは、「ターミナルケア」の今の医療の場が学ばないといけない言葉が山ほども出てきます。これは医療用語での「チーム アプローチ」とか、「ペイン コントロール」とか、そう言ったことに類する内容がほんとに随所に出て参ります。これは恐ろしいことですね。でも、そういう現代の医療の場、或いは、生き様に応用出来ると同時に、例えば、お釈迦様が最後の旅だと覚悟して、次の土地に移られる時に、今までいた町を振り返って、「ヴェーサーリーの地は美しい」「何々の霊場は美しい」とか、「美しい、楽しい」と回顧されて行くんですが、その時に、「象が後ろを振り向くように」というような表現が出てくるんですね。首だけ、ピッと後ろだけじゃなくて、体全体ゆっくり後ろを振り向いて、というような、そういうまさに有名な「革紐(かわひも)の譬え」がありますけれども、そういった身近なお年寄りを感じて、いま経典というのも本当に身近なものに、看取りの問題から、経典をもう一度「読み解く」と言いますか、そういう作業が出来る状態に入ってきたと思います。
 
早坂:  それは嬉しいですね。キリスト教はキリストさんの平素の言葉や行動が非常に平易な形で沢山残って、今もお弟子さんや神父さんが伝えてくれるんですが、どうも仏教の場合は、お釈迦様の肉声だとか、生(なま)の行動だとか、そういうものがちっとも伝わらない。経文みたいなもので、その経文も意味が全く分からない経文で与えられるから、我々は極端に言うと、眠いだけみたいな。何で仏教は、ああいう時に、「お釈迦さんの肉声を伝えてくれないのかなあ。キリストの肉声は沢山伝わっているのに」と、いつも思うんです。いまそういう肉声が残っておられるわけですから、それをもう真ん中において、やって頂きたいなあと思いますね。
 
田宮:  誰か仏教関係の間違った解釈をしない人を一人おいて、ごく一般の方が経典というものに親しむ機会を、いわゆるお坊さんがあげるお経というのではなくて、仏典という形で読む機会が増えると、もっと親しみ易いものになると思うんです。
 
早坂:  だから、「経典」と言わずに、「ブッダの言葉の一、二、三、四」というふうにして頂いて、どんなことをおっしゃっているのかなあというのは、みんな聞きたいですね。凄く聞きたい。「お経」と言われると、もうあんなものを聞いていても、チンプンカンプンだもの。「なんか分からないから有り難い」というけども、やっぱり分からなければ意味がなさないわけです。「音楽として聞け」と言われても、音楽の方がもっといいわけです。凄く意味も知りたいですね。
 
峯尾:  早坂さんは、「お聞きになりたい」とおっしゃいますけど、私どもは誰かが死んで初めてお坊さんに来て貰ってお経をあげて貰う。つまり生きているうちに自分に語りかけられてくるお経を聞いた経験がない。そういう日本人が多いんじゃないかと思うんです。本当に自分はもうすぐ死ぬかも知れない、という時に、お坊さんがやって来て、「お釈迦様はこんなことをおっしゃっているよ」「死ぬということはそんなに怖いことでもないよ」というような話をお坊さんがしてくれたらいいですね。
 
早坂:  元気の間に聞きたいですね。死ぬ間際にそんな有り難いことを聞くんじゃなくて、もっと元気な時に。平素からお寺に出入りし、お坊さんも我々の日常のところに入って貰って、交流がなけりゃいけないと思うんです。お葬式がないとお坊さんと出会いない、というような形に今なっていますね。「あそこを通さないと墓地が確保出来ない」とか、そういう死んでから後のことばっかりになって、生きている間が大事なんですけど。それはいつからそうなったんですかね、仏教というのは。
 
田宮:  今おっしゃったことは、実はずうっと伝統的に亡くなる枕元で、看病しながら法をお話をするという伝統があったんです。ただ、急激に姿を消したのは第二次世界大戦の敗戦後です。
早坂:  戦前はあったんですか?
 
田宮:  はい。私の実家の兄なんかは、今でもたまに「そういう依頼はある」ということを聞いております。いわゆる枕元で、「臨終法話」とか、或いは、浄土宗系が一番盛んだったんですが、「臨終行儀」というような、まさに死ぬというよりも、お浄土に向かっていくお作法ですね。そういうものが現実に行われていたんです。ですから、逆に移民をされた人の中にはまだむしろ残った、と思います。
 
早坂:  そうですね。移民の人たちの中に残っているのかも分かりませんですね。
 
田宮:  そんなことで戦争というものが非常に大きな影を落としていると思います。
 
早坂:  例えば、病人のいるところへ坊さんが行ったら、「あそこは亡くなった」と、みんな思ってしまうあたりがおかしいですよね。亡くなりそう。病気になったから、「励ましに行っているんだ」とか、「心をちゃんと持つように、ということで行っているんだ」と、誰も思わなくて、「ああ、もう死んだんだなあ」とすぐ思ってしまうあたりも、世間もおかしいですね。
 
田宮:  ええ。だから、衣を着て病院へ行くと、「縁起でもない」ということをよく聞きます。私は、そのことを追跡調査したことがあるんです。「あなたはそれを誰から聞きましたか?」とこう訊いて廻って来ましたら、最後は「お坊さんだった」という笑い話があるんですね。だから、二十年近く前になりますが、衣を着て病院とか福祉施設に行く運動を始めたことがあるんです。「法衣を着てベッドサイドに行ったら、他のベッドにおられる方にも聞こえるように大きな声で話をして下さい」と。みんさんは、坊さんが来たけど、「何を喋っているんだろうか?」と関心を持っておられるんですね。そんなことをお願いしたこともあります。ですから、それも新潟県の長岡では、お坊さんが衣を付けて病院に正面玄関から出入りすることが、今、何の違和感もありません。
 
早坂:  それは素晴らしいですね。
 
田宮:  これもどっちかと言うと、お坊さんに失礼ですけど、お坊さん側の動き次第ではないかと思いますね。
 
早坂:  仏教は、「いのちについて一番考えているものだ」と思うので、それが何か死んでから、「いのちが亡くなってからの用事ばっかりに大半を取られる」というのはおかしいですね。いのちについて一番考えてくれているものだ、と思うんですよ。だから、あれだけの経典が残っているわけですから。万巻の経典が残っている。全部言っていることは、死んでからのことを言っているわけじゃないと思うので、生きていることをあれだけ語ってくれているわけだから、是非、生きている間にこそ、仏教は入って来て欲しい、導いて貰いたいなあ、と思いますね。
 
田宮:  先程、申したことと、ちょっと繰り返しになりますけど、「ビハーラ」を言い出したのは、いま先生がおっしゃったように、「死後のことから少しずつ前倒しをしてきなさい」と。それから、承るところでは、お葬式とかお通夜で法話をされないお坊さんが出てきた、と。葬式よりもお通夜。お通夜よりもご遺体がお家へ帰られたところ、或いは、臨終の場面、それからいよいよというような、少しずつお坊さんが関わるものを、「生きている方向に戻してくる」という、そういったあり方を、「日本仏教はどう取り戻すか」と。私は、「葬式仏教」という言い方を全部否定する者ではありません。「葬式仏教があったから日本仏教が伝わった」と思っておりますので、ただ、ちょっと片寄りすぎてしまったので、もうちょっとバランスを取り戻したい、と。
 
早坂:  葬式がなければ困るんですけど、葬式だけでは困るんですよね。「葬式に至る前からちゃんと入って来て貰って、導き手として、死ぬ人も見送る人も安心出来るような導き手になって貰いたいなあ」といつも思いますね。残念ながら、いまそれを仏教はしていないような気がするんですよ。出来るだけそういうもののノウハウや、そういういっぱい詰まったもの、何千年の伝統があるのに出してくれない。悔しいですね。
 
田宮:  そういう意味では、一つのヒントがまたこの本にあるんですよ。アマテラスは最初の巻頭のエッセイですが、一番最後の、「夜((猫の名前))が逝っちゃった」というエッセイがあるんですが、これは、私は、「今の在宅での看取りが、もっともこうあったらなあ」と思うことがあります。
 
峯尾:  夜≠ニいう名の猫が、これは早坂さんのお宅の飼い猫で、その夜≠ェ逝ってしまう。死ぬ時の様子が、
 
早坂:  夜≠ニいうのは、真っ黒いだったものですから。夜、そのものだったものですから、夜≠ニいう名前が付いたんです。これは僕のすぐ近く、家の中で死んでくれたんです。
 
峯尾:  それが家の中をさまざまと動き廻って、
 
早坂:  自分がいつも座っていたところとか。猫というのはほんとの自分の気持ちのいいところとか、一番風通しのいいところを、よく知る天才ですから。僕らが住んで居て分からないんだけど、そこへ行ってみると、「ああ、これは一番風通しのいい所だなあ」と教えてくれるわけなんです。自分がいたところ、全部廻って、確認して、最期に僕の顔を見て、「ニャーン」と言って、それっきりです。ちゃんとご挨拶をして、自分が生きてきた場所を全部匂いを嗅いで、そして、死んで逝ったんですね。ですから、あれは在宅の一番良い死に方をした見本だと思うんです。人間もやっぱり生きてきて、作ってきた家庭、そして、そこの家族、友人、そして、近所の隣りのおばさんの声、子供の笑い声、走る足音、そういうのを聞きながら死ねたら一番幸せだ、と思うんですね。そのまま日常を持って行って貰う。続いている感じで亡くなると一番良い、というのが一番理想ですね。在宅で死ぬというのは、なかなか具体的には難しいですよね。お医者さんが手放してくれないですよね。
 
田宮:  でもここで、私は、先生のここの表現ですね、
 
夜。ここがお前の家だ。ここ全部がお前の家だ。・・・どこで死んでも構わないんだぞ
 
ここを拝見するたびに、特に、いま福祉施設でお過ごしのお年寄りなんかのことを思いますと、これが言える家族がどれだけあるんだろうか、と。今、お年寄りが施設、或いは、入院等されて、帰ってくると子供の勉強部屋になっているとか、そういう時代ですので、ほんとに「すべてがあなたの家です。どこでも」と言えるような、或いは、この夜≠ェ生きた場所への挨拶。これもやはり先程の幼児期的な挨拶をするという意味で、ある意味の自分の中での、次の世界へ誕生していく上での通過儀礼みたいなものとして、私らは一番大事なことなんじゃないか、という気がしますですね。お家だったら、使い慣れたお茶碗なり、或いは、見慣れたアルバムなりがあるわけですけど。
 
早坂:  わが家には、いろんな歴史が全部あるわけですから。そういったところで死ぬのが一番安心だし、子供でも孫でも、「これはお爺ちゃんが作った家だよ」「お婆ちゃんと作った家だよ」ということをちゃんと言わなければいけないんですね。「あの人たちが居て、この家があるんだ」ということを孫たちにも知らせたい。お葬式は一つの区切りではあるけれども。単なる区切りで。生きているように扱えば、その人がまた残った人の心の中に生きているんです。「南無大師遍照金剛と唱えれば直ちにお前のところへ行って一緒に生きてやる」と言ってくれた御大師さんも同じです。一緒に生きて貰える。つまり何も死んでいないんだ。続いているんです。残った人の思いさえあれば・・・。是非、そういう臨終であって欲しい。「死ぬ人の思いを残せるように、残った人に思いを残せるように、言う言葉をちゃんと伝えられるようにして欲しい」と思うんですね。
 
峯尾:  どうも有り難うございました。
 
 
     これは、平成十二年五月十四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。