生きる力を育てる
 
                 京都医療少年院精神科医 岡 田  尊 司(たかし)
一九六○年香川県生まれ。精神科医、医学博士。東京大学哲学科中退、京都大学医学部卒業。同大学院高次脳科学講座精神生物学教室、脳病態生理学講座精神医学教室にて研究に従事。現在、京都医療少年院勤務。著書に「パーソナリティ障害」「脳内汚染」「人格障害の時代」ほか。また小笠原慧のペンネームで小説を執筆。第二十回横溝正史賞を受賞した「DZ」のほか、「手のひらの蝶」「サバイバー・ミッション」などの作品がある。
                 き き て       峯 尾  武 男
 
峯尾:  近年、凶悪な少年犯罪のニュースをよく目にします。犠牲者がいたいけな子供、これだけでも心が痛いのに、加害者がまだあまり歳をとっていない、という言い方はおかしいですが、少年である。社会には大きな驚異になっています。しかし、これは特殊なケースなんでしょうか。それとも今の子供たちの心に何か異常が起きているんでしょうか。今日の「こころの時代」は、京都医療少年院の精神科医として、罪を犯した少年たちに向かい合っている岡田尊司さんにお話をお聞きします。岡田さんは、長年、少年たちの異常な行動の根底にある問題に迫り、害(そこ)なわれた彼らの心の回復と立ち直りに力を尽くしてこられました。現場にいる一臨床医としての岡田さんのお話です。どうぞよろしくお願い致します。
 
岡田:  よろしくお願いします。
 
峯尾:  岡田さんは、著作もたくさんおありですが、専門の立場から書かれているものとして『人格障害の時代』とか、『悲しみの子供たち』とか、それから『脳内汚染』といったものがありますが、その著作の中でおっしゃっているんだと思いますが、こういう言葉がありますよね。「勇気を奮い起こして声をあげなければならない。それが人間として一臨床医としての責務ではないか」。この責務と感じられていることについて、ちょっと補足説明をして頂けますか。
 
岡田:  そうですね。非行少年にしろ、もっと重大な罪を犯したようなケースにしろ、或いは犯罪とはまったく違うごく普通の家庭にいらっしゃる子供たちのさまざまな問題ですね、例えば引き籠もっておられるとか、学校へ行けなくなっているとか、さまざまな問題がありますけども、そういう子供さんの問題に共通することは、子供というのは、「自分の言葉をなかなか持たない」ということなんですね。自分の抱えている問題を、自分の言葉にすることができない。それがゆえに、さらにその問題が深刻化したり、出口が見出せない、というところがあるわけです。また大人の側からみると、一体何が起こっているのかわからない。そういう意味でも、少しでも子供たちの言葉にならない内面を、それを言葉にして伝える作業をすることが、今、行き詰まっている問題を、少しでもいい方向に変えていく上で非常に大事だ、と思うんですね。それともう一つですね、声をあげなければならない、代弁しなければいけないと思うのは、やはり子供たちの問題は、たしかにその子供もなにか足りない部分もあった、弱い部分もあったんですけど、しかしその子供の問題というのは、周りのいろんな問題がそこに押し寄せてきて、そして押し潰(つぶ)された結果である、ということが非常に多いんですね。周りの環境の問題を反映しているということが。そういう意味で、ただ「子供が悪い」ではすまされない部分があるので、そういう意味でも、「子供の声にならない声を伝えていく」ということが問題の一番行き詰まっている部分を変えていく手掛かりになる、と私は思っています。
 
峯尾:  岡田さんは、一九六○年生まれで、東京大学哲学科を中退して、京都大学医学部で高次脳科学・脳病態生理学を専攻され、研究されて、今の京都医療少年院での仕事を始められて十四年ぐらいになられるんですよね。
 
岡田:  そうです。
 
峯尾:  なぜ哲学から医学へ方向を転換されたんですか。
 
岡田:  若気の至りで哲学をやろうなどという大それたことを考えたんですけど、やはりまだ人生を―哲学というのは、ある意味で人生のエッセンスと言いますか、極致を、一つの境地を語るということだと思うんですけども、まあそういうことをするにはまだまだ青過ぎるといいますか、もっともっと実際に生きて、現場の中でいろんな体験をして、その中で体験を積んで、それからそういうことを考えても遅くはないんじゃないか、という。象牙の塔にこもるんじゃなくて、まず汗水流して、外に出て、本なんか捨てていろいろ揉まれてみよう、ということで哲学を止めまして、医学の道を志したわけです。
 
峯尾:  そうすると、医療少年院で働くようになられたのも、その思いを実現するためのまず第一歩ということなんですか。
 
岡田:  私が思うにはですね、人生の転機というのは、自分の中からやってくるというんじゃなくて、けっこう外からちょうどそういうサイン―きっかけがくることがあると思うんですね。ちょうど自分の中にそういう準備段階―気持がある程度そういうのを受け入れる気持になっていると思うんですけど―ちょうどそういう時に外から何かきっかけがやってくることが多いと思うんですね。私の場合もあまたま一緒に研究をしていた方から、「こういう仕事があるんだけど、やってみないか」という話があって、私の中で何かピリッとくるものがありまして、で、関わるようになったんです。といっても最初の頃は、私もそれほど自分が考えている問題と深く結びつくとは、最初は思っていなかったんですけど、例えば哲学にしろ、人間を知るということですけど、それを遡(さかのぼ)っていくと、人間はどんなふうに育っていくか。どんなふうに人格が形作られていくか、という、その原点というのはやはり子供時代にあるんですね。そういうとこで意外な結び付きをだんだんみせてくるんですけど、自分の中で、それがまさかだんだん符合してくるとは思わないことが、だんだん纏まってくるということですね。それが人生の不思議だと思いますね。私は幸いにして、親の愛情をたっぷり注いでもらったから、貧しい中で親も苦労して育ててくれましたけど、でも曲がりなりにも一社会人として一応大きくなられた。だけど、もしかしたらあの時にもう少し不幸なことになっていたら、ここにいる子供のようになっていたかもわからないな、ということは非常に多いですね。
 
峯尾:  その医療少年院ですけれど、これはどういう施設なんですか。
 
岡田:  医療少年院というのは、勿論非行とか法を犯すというような、そういう非行とか犯罪を犯した者を矯正する、更正のための施設であると同時に、心身にかなり重大な障害を抱えている子を対象としているわけです。つまり犯罪とか非行という面と、疾患の治療、その両方の要素をもった。ですから、少年院と総合病院を兼ね備えたような施設です。
 
峯尾:  そうすると医療少年院には、教官という方たちがいらっしゃって、それから岡田さんのように専門分野の医師の方がいらっしゃる、そういうところだというふうに考えていいんですか。
 
岡田:  教育をする部門と医療的ケアをする部門が別々にあるというんじゃなくて、それが絡まり合いながら子供たちに関わっていく、ということですね。
 
峯尾:  そこで暮らすことが決まった少年たちは、決して「よし、ここで自分はやり直して、また社会へ戻っていって生きていくんだぞ」と、そんな覚悟を持ってくる少年ばかりじゃないでしょう。
 
岡田:  そうですね。中には鑑別所へ行って、少年院へ行くということでスイッチが切り替わって、危機感を持っている子もいますけど、むしろ多くはただ絶望感にとらわれて、投げやりになったり、どうでもなれ、というふうに思っていたり、非常に反抗的な気持を持っている場合もあります。
 
峯尾:  それが少年院、或いは医療少年院の中での暮らしで次第に立ち直って生きるように岡田さんたちや教官のみなさんが支えていく。
 
岡田:  そういうことですね。そういう子供たちというのは、ある意味で自分の未来を失っている状態―自分自身も見失っているわけです。未来というものがなくなっているんですね。だから未来を取り戻していく。そのためには、過去と向き合い、自分とも向き合い、自分のしてきたこととも向き合わないといけない。そういう作業をしていくわけです。
 
峯尾:  非行少年―昔は不良少年という言い方がありましたけれども、そういうところで立ち直りを果たしていかなければならない子供たちというのは、時代によって変わっていっているんですか。
 
岡田:  まあ従来型の非行少年というのはほんとにぐれてですね、バイクに乗ったり、お騒がせなことをやって目立つことで憂(う)さを晴らすというような、そういうのが大体相場だったんですけども、十年ぐらい前からだんだんと孤独を好むような、みんなといるよりも独りでいるほうが楽でいいという、そういうタイプの子がだんだん多くなってきて、そういう子供たちを集団回避型ということで、「回避型」と呼んでいるんですけど、そういう子供たちというのは、大体アニメとかゲームとか、そういうのが好きで、そういうので独りで遊んでいるというのが、遊びの基本的なスタイルになっているんですね。もう一方の集団で群れて遊ぶタイプというのは、バイクを乗り回したりするのが好きなんで、「バイク派」とか名付けていますけど、そういう子供たちとまったく文化が違うといいますかね。むしろバイク派の子供たちが、それはいってみれば、ある意味で若者らしい若者かも知れないんですね。ところが、現代青年の平均が、そのバイク派よりも、そういうアニメ派とかゲーム派的な回避的な若者になってきているんだと思いますね。
 
峯尾:  少年が初めて医療少年院へやってきた時に、最初にお会いになるのも岡田さんのお仕事の一つですね。
 
岡田:  そうです。新入時の診察というのがありまして、来た初日にまず診察を行います。
 
峯尾:  最近の少年たちというのは、初めてお会いになった時にどんな印象を持たれるんですか。
 
岡田:  まあ従来型の非行少年というのは、やはり非行少年の姿・形で、ふて腐れた顔をして、という感じなんですけれども、大きな事件とか突発的な事件なんかのケースほど、非常に事件の大きさから想像できないような非常に弱々しい、繊細な、色は真っ白で、こうやせ形で、目を合わすこともできないというような、男の子なんだけど女の子か、と思うような、そういう線の細い子が非常に多いですね。
 
峯尾:  外へ出て暴れ回るなどというのは考えられない?
 
岡田:  考えられないですね。例えば警官から拳銃を盗もうとしたり、或いは火を付けたり、或いは凶器で人を殺(あや)めようとしたりというような、その事件の内容からすると、どんな凄い子がくるんだろう、と思っていたら、ほんとに拍子抜けするような、押したら倒れるような、そういうふうな子が多い。だから非常に意外な感にとらわれますね。
 
峯尾:  そういう少年が、その行為にまで及ぶというのは、やはり自分が今ここに生きていて、こういう形で自分が存在するんだよ、ということを認めろ、というような気持があるんですかね。
 
岡田:  そうですね。姿・形はそんなふうに弱々しいけど、その子が描いている自分の理想像というのは、やはりスーパーマンのように、すべてを支配し、動かすことのできる、そういう万能感をもった存在なんですね。その現実と理想のギャップが悲劇を生み出すことにもなるんですけど。
 
峯尾:  それは、少年自身に現実と自分が抱いている理想との違いというものが、自分自身にはよくわかっていない、ということになるんですか。
 
岡田:  そうです。よくわかっていないんですね。だから、そこで混乱が起きているわけですね。
 
峯尾:  集団の中に出て行くのが嫌だ。自分独りでいるほうがずっと落ち着くというか、気が楽だ、という少年が何故非行へ繋がっていくんでしょうか。
 
岡田:  そういう子供さんというのは、社会的な体験がもの凄く不足しているんですね。そういうスキルというものが身に着いていない。で、そのためにこもってしまっているわけですけど、もの凄く敏感な部分をもっていたりする場合もありますし、いろんな状況があるんですけども、それを跳ね返すだけの生きるための力が身に着いていないんですね。特に社会的な力ですね。しかし、そういう子供もやはり自分の力を認めてほしい、自分を認めてほしい、という気持はもっているわけです。そういう子も大切に育てられ、親の期待をずっと掛けられて大きくなってきているわけですね。だから、志としては、自分の理想としては、素晴らしい自分―みんなに認めてもらえる自分をやっぱり描いているわけです。そういう自分の理想像というものを持っているわけですね。ところが現実には、外に対して何も出来ない。外へ行くことすらできない自分というのがいるわけです。そのギャップがどんどん広がってくるわけです。そのギャップを、例えばゲームをして思い通りに敵を倒して、そういうふうな代償行為で満足を得る、ということもあるでしょうし、或いは身近なお母さんとかの方を思い通りに動かして、自分の欲求を充たさせることで、それで気持を紛(まぎ)らわせることもあるわけだけど、それだけでは紛らせきれないような状況がだんだん出てくるわけですね。そうなってきた時に、家庭内暴力という形で家族に憂(う)さを晴らすということでギリギリ保っている場合もあるんだけど、それでも保ちきれなくなると、今度外に向かって行動を起こす、ということも起きてくる、ということですね。
 
峯尾:  それは実際に人を殺(あや)めたり、傷付けたり、というところにまでいってしまう。
 
岡田:  いく場合もありますね。或いは社会になんか迷惑をかけて、例えば火を付けるとか、そういうことで衝撃を与える、混乱させる。そういうことで自分の力を示そうとする場合もあります。力というよりも、怒りだといったほうがいいですね。自分の傷付いた、結局自分を受け容れてくれない社会に対する怒りなんです。その怒りをそういう反社会的な行動をすることで示そうとする。そういうケースがだんだん多くなっていますね。
 
峯尾:  そんな非行に少年が走ってしまう一番大きな原因は何だと、岡田さんはお考えになりますか。
 
岡田:  最大の要因は、親子関係にある、と思いますね。聖書にカインとアベルの話が出てきますけれども、やはり親から認めて貰えないカインが、親に可愛がられているアベルを殺してしまって、カインは家出をして、エデンの東に移った―家出をしたというか追い出されたんですかね―そういう話が出てきますけど、やはり大昔から非行というのはずっとあるわけですね、今に始まったことではなくて。その根底にあるのは、やはり親に愛されたいけど、その親に愛して貰えない。親に認めて貰えたいけど、認めて貰えない、というその気持ちですね。その怒りがいろんな形で現れてくるわけですけど、その一つが非行という形で現れてくるということですね。
 
峯尾:  親が自分の存在を認めてくれないという。最近は親の虐待というのもよく聞きますよね。
 
岡田:  そうですね。ですから一番極端な場合には、認めてくれるどころか虐げられてしまうという。親にとって不都合な部分とか、或いは親の気紛れによって、攻撃の対象になってしまうという。そういうのが今一番不幸なケースで、今でも多いですけど。そういう場合には、非常に深刻な問題を抱えやすいですね。私が印象に残っているケースでいいますと、その子は放火をして入ってきた子なんですけど、この子が放火という大それたことをしたのかなというような子でした。その子の場合は、何度もお母さんが、結婚と離婚を繰り返されていて、その子がちょっと義理のお父さんになついたなと思うと、また別れてしまってというような、非常に不安定な環境の中で育っていた子なんです。その二番目の義理のお父さんがもの凄く乱暴な方で、殴られるようなことはしょっちゅうだったわけですけど、ある時ナイフを突き付けられて、些細なことで怒り出して、太股を刺される、ということをされた。ところが、彼がそういうことを語るようになって、その状況を思い出しながら語ってくれた時に、彼にとって一番ショックだったことは、そのナイフを突き付けられたのも恐かったけども、ナイフを突き付けられた時に、お母さんが助けてくれなかった。それが一番ショックであった、ということを語っていましたね。そんなふうに、護(まも)られていない、そういう状況の中で、小学校二、三年の子供にとって、その親というのは絶対の存在ですよね。絶対の存在が自分に危害を加える、或いは危害を加えようとした時に、護(まも)ってくれない。それがどれほど寄る辺なく傷付けられることか。しかも、彼自身はそのことに対して、自分が悪かった、というふうに最初は思っていたわけです。自分が悪い子だから、そういうことをされるんだ、というふうに思うわけですね。だから、相手が悪いと思うことで自分を守ることもできないわけです。だから何重にも痛め付けられている。そういうふうな怒りがだんだん積もってきた時に、彼はいろんな人に対して暴力的な行動をしたり、或いはそういう放火事件というものを起こすようになっているんですね。それでも、なおかつ痛々しいのは―そういう酷い親ですよね、はっきりいってね―一回も、面会も手紙もお母さんからもありませんでした。だけど、その母親のことを決して怨んでいないんですね。むしろやっぱり心のどこかでは求めているんですね。ただそういう小さい子供にとって、親というのはそこまで求めるものなんですね。ただ最近は、実際に暴力を奮うとか、或いは世話をしない、というような、そういう形の虐待でなくて、もっと普通の家庭でも別の形の虐待が起こり易いんですね。それを私は、「善意の虐待」と呼んでいるんです。親が良かれと思って、一生懸命その子のために、いろんなことをやらせたり、いろいろ指導する。それがちょっと度が過ぎてしますと、結局その子にとっては、自分が望んでもいないことを無理矢理強制されるという、そういう「させられ体験」になってしまうんですね。それは結局、強制収容所で無理矢理働かせられたのと同じような結果を生む場合もあるんですね。或いは本来は自分で模索しながら自分捜しをしていかなければいけないのに、親が全部決めてしまうことによって、自分捜しをするそのチャンスを奪ってしまうことになるわけですね。そういうとこで、子供が後から自分のチャンスを奪われたということに対して、怒りを親に対して持つようになる、ということがありますよね。
 
峯尾:  それは良い学校へ行くために、「しっかり塾へ通って勉強しなさい」であったり、お稽古事でいろんな、「これも習わせてあげるわよ。これもしっかりやりなさい」というような形でのプレッシャーになっている。
 
岡田:  そうですね。それが一番多いパターンですね。それが小さい子供の頃は親の言いなりになっているんだけど、ある時に何か壁にぶつかった時に、親の言う通りやってきて、結局何にもうまくいかないじゃないか。俺の人生を返してくれ、というふうになるわけですね。
 
峯尾:  それは、例えば受験なんかでも、母親だけじゃない父親もそうですが、子供が失敗した時に、「やっぱりお前はダメなんだな」みたいなふうに受け取られるような態度をとったりすると、
 
岡田:  ますます酷いことになるんですよね。実際それは酷いことだ、と思うんですよ。親が望んでやらして、失敗したら、「お前の頑張りが足りない」と言われたら、子供はほんとに立つ瀬がないですよね。本来は子供が望んで、親はむしろ「そんなのはさせてあげられない」とか、渋々それを応援してあげるぐらいの感じでいけたらほんとは一番いいんだ、と思うんですけど。
 
峯尾:  まさに善意の愛情が深くて、結果的に子供を傷付けてしまう。
 
岡田:  そうですね。そういうケースの場合は、例えば子供のほうは非行に走ってボロボロになってですね、例えば薬物に溺れていたりしているのに、そういう子供さんに熱心に参考書を差し入れたり、問題集を差し入れたり、大学の案内を持ってきたりして、親のほうがまだ切り替われない。子供の現状を見ても、まだ親は昔の夢を見続けている、ということも起こるんですね。
 
峯尾:  医療少年院にやってきた少年ですが、その生活をいうのは、どんなふううにして始まっていくんですか。
 
岡田:  最初は考査期間と言って、まず単独室という―独りの部屋で生活して、少し慣れてもらって、それから集団処遇に移っていくわけです。基本になるのは、朝起きて、眠る、というその生活のリズムですね。それからいろんな規則がありますので、その規則をちゃんと頭に入れて頂く、ということですね。そういうふうな、先ずは規律とか枠組みの部分をしっかりと身に着けてもらう。トイレに行くのも許可をもらわないと行けませんしね。それから勿論巷(ちまた)であれば溢れているような―テレビを自由に見ることもできませんし、それから勿論ゲームなんかできませんし、そういう意味で、情報という面でも非常に乏しいですし、例えばおやつなんかも、普段は食べることもできません。特別な日だけ貰えるわけですね。だから、そういう物質的にも、情報という点でも非常に乏しい環境ですね。しかし、それが逆に子供たちの生きる力を甦(よみがえ)らせる凄く大きな原動力になっている、と思うんですね。だから有難味とか、そういうものをあんまり持たずに、当たり前になっていたそういう豊かさ、それに対するスイッチがそこでリセットされると思いますね。おやつ一つでも、こんなに美味しくて、こんなに有り難いものなんだなあ、ということが感ずるようになるし、それがやがては周囲に対する感謝の気持ちにも通ずるし、自分はどれほど甘えていたか、ということをわからせることにも繋がるわけですね。その時そんなに一々説教をするわけじゃないけど、それは身体で感じることなわけですね。それから同時にあまり情報というか、いろんなものがいっぱいないということは、自分を振り返るために非常に大事だ、と思うんですね。結構今の世の中というのは、退屈しないようにいろんな刺激がいっぱい用意されていますよね。だからそもそも退屈することになれていないわけです。だけどそういう自分を紛らわせるものがない環境でいると、時間がすごく長いわけです。子供たちは九時に寝て七時に起きるわけですけど、その九時間の睡眠、夜というのはもの凄く長い時間ですよね。そういう時間にしても、普段の時間にしても、やはり外の刺激の溢れた環境よりは、すごくゆっくりと時間が過ぎていくわけですね。そういう中で自分自身に向かい合う、という、そういう部分が本来は人間にはちゃんとあるんだと思います。ちゃんとあるんだけど、あまりにも情報過多で、刺激が多すぎて、そっちに目を奪われて、自分を振り返るという力が衰えてしまっているんだと思いますね。そういうものはほどよく堰き止めてやることによって、自然に自分を見詰め直すようになるんだ、と思いますね。そのうえで、次の段階としては、徐々に心の問題にいくわけですけど、その場合にポイントとなるのは、その子の思いを受け止める部分と、必要なことをちゃんと厳しく叱ってやる部分、その両方のバランスが非常に重要になるんですね。その規律の中で生活していても、その段階ではその子にとっては、規律というのは所詮外側の枠組しかありませんので、その子自身が主体的に自分で自分を律しているわけじゃなくて、そういう規則があるから仕方なく合わせてやっているわけですね。それをその子の中にちゃんと取り込んで、自分自身でちゃんと生活できるようにするためには、それを自分からそうすることが大事なんだ、そうすることが必要なんだ、ということを、そういう自覚を持つようになることが大事なわけですね。それが必要なんですね。そのためにはある変化を起こさないといけないわけです。外から強いられている枠じゃなくて、自分が自分を強くするために取り組んでいくんだ、という。そこで一つのコペルニクス的な展開が必要なんですね。コペルニクス的展開をどうやって起こすか。その変化をどうして起こすか、という場合の二つの要素が、受け止めることと、叱る―叱るというのは怒るという意味じゃなくて、現実を突き付けるということですね。難しい言葉でいえば、「直面化」と言えると思うですけど、問題点を突き付けることですね。その両方の作業を実際の生活をしながら、いろんな問題が出てきますので、実際そういう集団での生活をしていますと、その問題点を拾い上げながら、本人の思いを受け止めつつ、同時にその子の弱い部分を突き付けていく、ということですね。
 
峯尾:  「受け止める」というのは、まさに居場所がどこにもなかった子供とか、自分の思いが誰にも理解されなかった、という子供の思いを、望みを、少なくとも聞いて受け止めて。
 
岡田:  そうです。先ずはその生活場面から入っていくんですね。その生活場面の思いを聞いていきつつ、そうするとだんだん繋がりがでてきますよね。徐々に信頼関係が芽生えてくるわけです。そうした中で、さらに過去を振り返るという作業に入っていくわけです。そして今までその子が受けてきた傷の部分とか、そういうものを徐々に語り始めるわけですね。だから生活の面から始まって、だんだん過去を振り返る作業に移っていくわけです。
 
峯尾:  自分がどんな扱いをしてきたか。その時自分が何を考えたか、などということは、その少年はそれまで人に話したりすることはないことが多いんでしょうね。
 
岡田:  そうですね。最初あまり言葉にならないケースも多いですよね。非常に断片的な事実とか、そういう気持しか語れない。それはやっぱりおっしゃるように、語ってきていないわけです。或いは聞いてもらえていないわけです、自分の今までの思いをですね。だから最初はなかなか繋がらないわけです。或いは最近の子供で多いのは、過去のことをあんまり覚えていない、ということが多いですね。思い出があまりない、という。小学校の頃、中学校の頃、何か楽しかったこととか、語らそうとしても、最初はなかなか出てこない。嫌なこと、楽しいこと、どっちもあんまり覚えていない、という。すごく曖昧な、ぼんやりしているんですね。そこにはいろんな意味があると思うんですけども、その子の人生を、その子が自分の手足、自分の意思で歩んできていないという部分もある、と思うんですよ。だからこそ回復過程に必要なのは、少しずつ語らせることによって、その子がどういう人生を歩んできたのかを、自分の中で、自分の人生の物語を取り戻していくことなんですね。そこで再構築していくことなんです。
 
峯尾:  語ったこともない、或いは自分にとってはそれを意識したくないみたいなことが、
 
岡田:  それもありますね。特に重い傷を抱えている子供のなんかの場合はそうですね。ただそういう子の場合も、少しずつ語り始めると、だんだん言葉になるようになるんですね。重い傷を抱えている子の場合は、特徴は同じことを語り続けるんですね。自分の受けた心の傷と結び付く、そういう事実を、そういうある状況とか思いを、際限なく、いつまでこれを語り続けるのかな、という思うぐらい語り続けるという、そういう時期がずっと続きます。映画に「禁じられた遊び」という映画がありますね。あの中で、疎開中に両親を亡くした少女、その子を引き取った農家の息子が、一緒に遊びながら十字架を集め立てっこするんですね。そういう遊びを繰り返すシーンが出てきますけど、あれも際限なく十字架を立て続けるわけですね。教会の十字架まで盗んできて、それをお墓を造ろうとするわけですけど、あれがやはり疎開中に亡くした両親、その両親に対して、その両親の死を悲しむことさえできなかったポーレットという女の子が、自分の悲しみをなんかの形で表現しようとする。そういう追悼の儀式だと思いますけど、あれと同じようにやはり深い傷を抱えている子の場合も、同じようなこだわり、同じような情景を繰り返し表現するんですね。それはもうほんとに出口がないように一見思えるんです。際限なくそれが続くからね。しかしそれが受け止め続けていると、少しずつ変化していくんです。その表現なんかも、最初は少しずつなんですけど、ある時期にもの凄くいっぱい表現するようになるんですね。それがたくさん表現する時期をずっと過ぎていって、そういう中で少しずつ変わってくるんですね。その時期を過ぎると、自分の受けた傷というものを、ある程度客観的に見れるようにだんだんなってくるんですね。その傷を与えた存在―多くは親ですけどね―その親に対する思いも、ある程度客観的に見られるようになる。さらには親自身が抱えていた不幸、その部分まで見られるようになるんですね。そこまで見られるようになって、初めてそれを受け容れるようになるわけですね。
 
峯尾:  そういう少年、或いは少女と向き合いたということは、やはり岡田さんにとっては非常に大切なことなんですかね。
 
岡田:  そうですね。それは掛け替えのない貴重な体験をしている、と思いますね。それだけ重いものがある、と思うんです。やはりその子だけの問題じゃなくて、やはり被害者がいるケースもありますのでね。その被害者のことを考えると、その子が自分のしたことに向き合えるようになるかどうかということは、そういうふうにその子を育て直すことができるかどうかというのは、やはり非常に大きな責務でもあるわけですよ。ですから、すべてのケースが上手くいくわけではありませんけども、そういうふうな方向に一歩でもその子の気持が進歩して、そういう自分のした悪いことも、きちっと受け止めることができるように進んでくる、そういう手応えを感じた時は非常に大きな喜びを感じますね。
 
峯尾:  自分自身と向き合えるかどうかというのが、一つの大きなポイントで、さらに自分がある程度わかってきたらば、自分が今まで人に与えたこと、人に及ぼしたことが何だったのか。そこまで進んでいけば、立ち直りの道をどんどん進んでいる、ということになるんですか。
 
岡田:  そうですね。自分の罪を受け容れるというのは、一度にはできないですね。まず自分が自分自身の悲しみ、傷付いた部分を、まずそれを悲しむことができる、傷付きを語ることができる、まずそれが必要なんですね。そうやって自分自身の悲しみを認め、そして受け止めてもらい、まずそれを悲しむ作業をし遂げることによって、逆に人に与えた人の悲しみ苦しみ、そっちにも目が及ぶようになるんですね。ただいきなりそちらの後のほうを求めても、その子はただ自分が責められている、というふうに思うだけで進めなくなるわけです。だから前半の作業ですね、そこが非常に重要ですね。その子自身の悲しみ、痛みをまず受け止める、ということですね。そうすると、自然に自分が周りに与えた痛みにも、思いが至るようになっていく、ということですね。
 
峯尾:  子供がそうやって変わり立ち直っていけば、その子供を取り巻いていた親もなんらかも形で影響を受けるかも知れませんね。
 
岡田:  そうですね。立ち直りが上手くいくかどうかというのは、その成否の半分ぐらいを握っているのは、実は親がどれだけ変われるかなんですね。いくら本人も努力し、我々も努力しても、親がどうしても本人を受け容れられない、或いは親のほうが変わらないという場合には、なかなか手間取ることが多いんですね。しかし親のほうが少しでもいい方向に、本人を受け容れる方向に変わっていくと、どんどん良い循環ができてきて、結局悪いことというのは、最終的な結果ですのでね。結局自分を認め、悪いことをしたということは、結局自分が親に認めて貰えない、親から愛情を貰えない。それを悪いことでもいいからして、自分が自分の存在を親に認めさせよう、ということですので、ただその結果の部分だけいくらなんとかしようとしてもダメなわけですね。一番根本原因のところがちゃんと繋がり直せば、今の悪いことをしてしまった、そういう自分だけども、だけど親はわかろうとしてくれた、という。その部分が本人の中にキッチリ伝わってくると、自然に悪い行動というのはなくなっていくわけですね。そこが大人の犯罪と子供の犯罪の違うとこですね。
 
峯尾:  子供が変わると親も変わり、親が変わったらそれが上手く子供にも効くんですね。
 
岡田:  そういうことです。
 
峯尾:  心って不思議ですね。
 
岡田:  そうですね。やっぱり響き合うものなんでしょうね。そして繋がりというのが大事なんでしょうね。繋がりが途切れることによって、いろんな悪いことが起こり出す。逆に、だけど繋がりを回復すると、バランスがだんだん取れていく、ということですね。
 
峯尾:  少年の心について、岡田さんご自身のさまざまな体験も含めてお話して頂きましたけれども、京都医療少年院、十四年ですよね。今、岡田さんが感じていらっしゃること、考えていらっしゃることをお話頂きたいんですが。
 
岡田:  まず子供たちから教えられた一番大きなことは、子供には大きな可塑性(かそせい)がある―変わる力がある、ということですね。だから、それ故に環境に恵まれないと無惨に壊されてしまったり、思いも掛けないような方向にいってしまうこともあるわけですけど、逆にそういう子でさえも、ちゃんと手当をしていくと、繋がり直す作業をしていくと、だんだん本来の姿を取り戻して、さらにはそういう躓(つまず)きを一つ乗り越えることによって、もっと強い人間にさえなることができるということですね。そういう大きな力を秘めているということを教えられましたね。
 
峯尾:  実際に心に悩みを持って苦しんでいる少年たちに、岡田さんが贈る言葉はなんでしょうか。
 
岡田:  一つは、突っ張らなくてもいいんだよ。素直になっても、決してそれは恐くないんだよ、ということですね。自分自身になることが、ある意味で非常に恐いんですね。だから鎧(よろい)を被って強がっているわけですね。だけど、弱いところを見せるということが、決して恐いことではない。弱いところを見せて、本音で繋がる。そのほうがずっと楽なんですね。だから、強がらなくってもいい、という。それをお伝えしたいですね。
 
峯尾:  そうですか。それで、「自分なんかダメだ」と思っている少年が、実際岡田さんや教官の方たち、或いは仲間も一緒に、そうすると立派に立ち直れるという話を、今随分伺いましたから、決して諦めるべきではないですね。
 
岡田:  結局すべてのケースが勿論上手くいくわけじゃないんだけど、ある意味ね、周りが、或いは本人が諦めた時が、回復過程が途切れてしまう時なんですね。一人でもその子のことを信じて、立ち直りを支え続けていると、年月はかかるかもわからないけど、やはり変わってくる、ということがすごく多いんですね。やっぱりその子のことを信じてあげる。とことん付き合っていくということですね。それは非常に難しいことなんですけども、それが結局人間が人間を支えていく、ということだと思いますね。やっぱり本当の真心というのは通じるものなんですね。うわべではそんなの鬱陶(うっとう)しがったり、俺のことなんかかまうなみたいに、ポーズでは拒否したりするんだけど、本当は嬉しいんですね。自分のことを待っていてくれる、自分のことを思ってくれる、それは必ず伝わるんですね。だから、たとい拒否されても、繋がり続けようとする気持が大事だ、と思いますね。
 
峯尾:  そういう意味では、岡田さんはいろいろの例を踏まえながら、人間を信頼していらっしゃる。
 
岡田:  そうですね。信じたいですね。それが一つのロマンといってもいいかもわかりませんけど。
 
峯尾:  さまざまな少年を見つめてこられて、支えてこられて、岡田さんが一番感じられるのはどういうことでしょう。
 
岡田:  一つは、子供というのは大人以上に環境にすごく大きく左右される、ということですね。だから、それだけにきちっと見守って支えていく、ということがとっても大事だということですね。だから、子供の問題をただ子供のせいにして、それを罰するということではやはり片付かない、と思います。もう一つは、子供というのは、ほんとに親を求めているんだな、ということですね。親との関係を乗り越えて、親を卒業してはじめて子供が本当の意味で大人になっていけるんだな、と思いますね。その親を卒業していけるためにも、親ときちっと繋がりをもって、親に受け止められる、ということがとっても必要なんだと思います。
 
峯尾:  条件さえ調えば、子供は基本的にはやはり逞しい存在だ、と考えていいんでしょうかね。
 
岡田:  そうですね。やはりもともと生きていく力を持っていますよ。なんといってもその若さという、大きな、我々にはないエネルギーを持っていますので、ほんとに我々の年代だったら耐えられないような過酷な状況も、子供は乗り越えていくんですね。だからそこは凄いと思います。だからそういう意味でも、大きく変われるんだ、ということですね。そこを信じて見守っていく。そして、その子が犯してしまった間違いを、きちっと受け止めることができて、それを償って前へ進んでいけるようにしていく、ということですね。それは本当の意味で、ヒューマニズムといいますか、人間を信ずるということ、そのものだと思いますね。彼らが実際そういう困難を乗り越えていく姿が、やはり我々に勇気を与えてくれるというか、まだまだ人間も捨てたものじゃない、と。過ちを犯すのは人間だけど、しかしそれを乗り越えることもできる。敗者復活することもできるんだ、という。それが我々大人にむしろ力を与えてくれている、と思いますね。
 
峯尾:  「未来を失ってしまった子供」とおっしゃいましたけども、子供は未来を取り戻す力は十分に備えているんだ、と。
 
岡田:  そうですね。
 
峯尾:  ありがとうございました。
 
岡田:  どうもありがとうございました。
 
     これは、平成十八年四月九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである