人間のいのち 自然のいのち
 
                      国際基督教大学教授 石 川 光 男(みつお)
一九三三年生まれ。北海道大学大学院理学研究科修了。国際基督教大学理学科教授を経て、現在同大学名誉教授。理学博士。専門は生物物理学。著書に「生命思考」「自然に学ぶ共創思考」「西と東の生命観」など多数。
                      き き て     白 鳥 元 雄
 
白鳥:  「こころの時代」、今日は国際基督教大学で物理学を講じていらっしゃる石川光男さんにスタジオにお出で頂きました。これから「人間のいのち 自然のいのち」というテーマでお話を伺ってまいります。石川さんのご専門は、生物物理学という、今の自然科学の最先端の領域なんです。それと同時に、人間の生命、いのち、それから心の働きという面についても非常に積極的に発言していらっしゃいます。現代科学が明らかにしてきたいのちというものですね、そしてその価値観に基づいた人間の生き方について、石川さんのお考えをこれから伺っていきたいと思うんです。
石川さん、自然科学の進歩、特にこの世紀の後半に至っての進歩というのは目くるめくばかりですね。
 
石川:  そぅですね。特にこの二、三十年というのは生物関係の進歩は非常に早いですね。
 
白鳥:  先生のご専門はそういう生物の生命現象とか、或いは生理現象とか、そういったものを物理学的な方法で、或いは側面から解析しようと、こういうお仕事だろうと思うんですが。
 
石川:  そうですね。
 
白鳥:  それこそ最先端、随分新しいものが見えてきたわけですね。
 
石川:  そうですね。原子、分子とか遺伝子という世界では非常に細かいことがわかってきていますね。
 
白鳥:  ほんとに私どもが全然違う人文系のほうからみていましても、いろんな情報が伝わってきていますからね。DNAなんていうのはいつの間にか私どもにも常識みたいな感じがする。
 
石川:  最近小学生でも言いますから。
 
白鳥:  そういった分野をずっと先生が究められてきてですね、もう私どもからいうと、そういった方向の中に、人間或いは生物全体のいのちというものが全部わかってくるんじゃないか、とふうに思うんですが、如何なものですか。
 
石川:  私はそういう細かい部分から全体をみるという近代科学の方法論ではたしかに急速な進歩があるんですけれども、全体像を掴むという点になりますと、近代科学の方法論にはさまざまな限界があるのではないか、という懸念を持っております。例えば、植物が、「ある地域の季候風土に合った植物は、どんな植物が育つか?」という問いに対しては、どんなに遺伝子を研究してみてもわからないですね。それから別な例を言いますと、健康の問題でいえば、どんなに身体の構造や機能を調べてみても、心と体の関係はそれから見えてきませんね。そうすると、やはり一つの限界を持っているなというのが、私が何十年かこういう世界に生きてきて感じた一つの問題点なんですね。
 
白鳥:  そうですね。確かに科学、特に自然科学の場合の認識の方法で言いますと、できるだけ問題を細かく細かく細分していく。その中で見えるものは何か。しかもそれをコントロールしながら見きわめていくという方法が、私どもは科学的だと思ってきたし、それから私ども人文系とか社会科学系の勉強をしていましても、出来るだけそういう自然科学の方法に近づけようとしてきたわけですね。
 
石川:  そうですね。 学問はみんな自然科学の方法の真似をして、そこにいくのが良いことなんだ。それが科学的なんだ、と思い込んでいますね。
 
白鳥:  それについて先生はどういうお考えを?
 
石川:  私はそれは一つの方法論に過ぎないという見方をしているんですね。それがすべての方法論ではない、という見方をとっております。
 
白鳥:  そうですか。考えてみれば、私どもこの二十世紀に生まれて育ってきた人間は、そういう形で人間のものの解り方、そのものはそういうものなんだ、というふうに教わってきましたし、それはかなり真理として考えてきたんですかね。
 
石川:  ところが科学でよく一般には、「絶対的真理」というふうにこう思われているふしが強いですね。ところが私の目から見ると、どうもそうではなくて、科学が見付けているものというのは、さまざまな限界を背負っている、と思うんです。例えば、私は実験が専門ですけど、実験をやって見えてくるものというのは、人間の側が見ようと思うしか見えてこないんですね。例えば、心と体の関係を考える時に、「心が体にどう影響するか」という問いを立てないと、そういう実験は組み立てられませんから見えてこないわけです、心と体の関係は。つまり普通は物と物との関係しか見ていませんから、常に「物と物との関係を見よう」という問いを立てるわけですね。そうすると、心と体の関係は見えてきません。つまり実験は見ようと思うものしか見えない、という結果になります。もう一つの問題は、今度は理論はどうか、というと、理論というのは必ずモデルと言いましてね、自然界の似顔絵のようなものを作るわけです。そのモデルに基づいて理論を立てますから、どんな科学の論理でも、自然そのものの論理ではないわけです。そこに一つの限界がある、ということは科学者ならわかっているんですけれども、一般の方はわりとそういう認識がない方が多いと思いますね。
 
白鳥:  そうですね。自然科学の方法、今、先生は、「似顔絵」という面白い例を引かれたんですが、なんかそういった形で見出せるものというのが、客観的であり、実証的であり、非常に中立的であると、
 
石川:  というふうに、今までは言われてきました。
 
白鳥:  だから真理性を待つんだ、と。
 
石川:  はい。
 
白鳥:  自然科学者の先生から、そういう基本的なところから疑問を提示されると思わなかったんですがね。
 
石川:  そういう立場に立っている人というのはわりと少ないと思いますけれどもね、私はそういう立場に立って物事を見ているわけです。
 
白鳥:  そうですか。
 
石川:  はい。
 
白鳥:  つまりそういう「科学的」と言われる認識方法ですね、これもそんなに中立的なものではない、ということなんですね。
 
石川:  私は、「科学の認識方法にも癖がある」というふうに思っているわけです。
 
白鳥:  これはどこから起こるんでございましょう。
石川:  これは、おそらく近代西洋文明の体質ではないかな、というふうに私は見ているんですね。ちょっとそのことを図で説明させて見て頂きたいと思いますが、お願い出来ますでしょうか。近代科学というのは、先ほど物を細かく分けると言われましたね。
 
白鳥:  はい。
 
石川:  分けるということはこの図で言えば、いろいろな部分に○が別れていますね。そうすると、例えば医学で言えば、心臓の研究をする人は心臓を一生懸命見るというふうな見方をしますね。こういうふうに分けて考えるというのが、近代科学の方法論ですけれども、西洋文明そのものが、どうもこういうものの考え方に慣れているのではないかな、と私はみているわけですね。例えば、わりと私たちは慣れていますけど、例えばブルーの○が人間とします。グリーンの○を自然界としますと、人間と自然界は一応別ではないかという認識が多いですね。人間と自然をこうわけて考える。人間と自然を分けて考えるという立場に立たないと、人間が自然を客観的に調べるという方法論は実は厳密には成り立たないわけですね。
 
白鳥:  そういうことですね。
 
石川:  ですから自然科学も実はこう分けて考える。分けて考えることを、私は、「閉鎖系モデル」。このモデル、つまりこう分けて考える似顔絵に従って、科学は研究をしてきた。その背景には西洋文明がそういうようなものの見方に慣れているという、そういう特徴があるらしいというふうに、私は見ているわけですね。
 
白鳥:  なるほど。自然科学とか学問とかいう前に、物の見方という、そういう大きなバックグランドがある。
 
石川:  はい。というふうに私は考えております。
 
白鳥:  こういうものをもたらしているものというのはあるんですね。そういう基本的な文化の形とか、
 
石川:  文化そのものがこういうような特徴を持っている、というふうに私はみているわけですね。今までの文化は、或いは文明は、というべきでしょうか。
 
白鳥:  なるほど。
 
石川:  例えば、こういうような図で考えますと、例えば科学技術というのも、こういう物の見方によって大きな影響を受けている、と私は思うんですね。例えば、私たちが慣れている科学技術、例えば、農薬とか抗生物質という、そういう一つの科学技術は、人間にとって邪魔なものは殺そう、という発想に立っていますね。
 
白鳥:  つまり切れているから。
 
石川:  ええ。切れているから人間にとって、人間は自然界の外側にいますから、人間にとって都合の悪い自然界の生物―微生物や害虫は殺してしまえ、という発想になりますね。そういう技術のことを、私は、「力づくの技術」と呼んでいるんです。「力づくで自然を支配してしまおう」という発想ですね。そういう発想はどこから出てくるかというと、人間と自然を奇麗に分けて考えることに慣れているから、そういう論理、或いはそういう技術開発が肯定されるわけですね。文化の背景に全部こういう物の見方があるということを知ると、いろいろなものの謎が解けてくるように、私には思われるわけです。
 
白鳥:  なるほどね。これが一つの癖とするならば、違う見方というのは当然あるわけなんですね。
 
石川:  はい。あります。もう少し今のモデルで現代文明の問題点を少し指摘されて頂くと有り難いんですが、こういうモデルでものを見ていくことによって、近代文明というのはいろいろな特徴が出てくるんですね。例えば、先ほど申し上げましたように、人間と自然を分けて考えますね。そうすると、どういうことが起きるかというと、人間は人間の都合でものを考えることが可能になるし、できるわけですね。私たちが慣れている考え方というのは、よく言われますけど、「人類の福祉と文化の向上に寄与する」という考え方ですね。「人類の福祉、文化の向上」これをよく考えますと、「人類」はまさに人類のためですね。「文化の向上」と言っても、これは紛れもなく人間のためなんですね。そうすると、「人類の福祉、文化の向上」に私たちが一生懸命努力をしているというのは、もう少し突っ込んでいきますと、人間の都合だけを考えて文明を創ってきた、ということになりますね。その背景には、人間と自然を奇麗に分けることができるから、そういう論理が成り立つというふうに、私は見てくるわけですね。そうすると、そこでどうも今までの西洋文明というのは、こういうようなものの見方に慣れているために、気が付かないうちに私たちはそういうような一つの文化の癖、特徴をいつの間にか常識に持ってしまった、というふうにみているわけですね。
 
白鳥:  人類至上主義?
 
石川:  私はそれを、「人類中心主義」とか、「人間中心主義」と呼んでいるわけですね。そのことをもうちょっと別な言葉でいうと、私は一つの近代文明の特徴を、「個別価値優先思考」という言葉を使っているんですけどね。自然界の中では、人類というのは生物の一種ですから、一つの個別的な存在価値しか持っていないわけですね。個別的な存在価値を最優先させようという発想、一つの個別価値優先主義の見本のようなものですね。それから今度は、近代社会では、「自由を大切にしましょう」とか、或いは、「物質的豊かさを追求しましょう」というような考え方があって、物質的な豊かさも自由も一つの個別価値ですね。そういう個別価値をそれぞれ独立に追求しようという発想、きわめてこの「閉鎖系モデル」の発想に近いわけですね。そういうのを引っくるめて、私は、「個別価値優先思考が近代文明の特徴ではないか」というふうに呼んでいるわけですね。
 
白鳥:  なるほどね。しかも日本は、そういった西欧的な価値を明治以来追っかけまして、それを「近代化」と考えてきましたね。
 
石川:  そうですね。日本人は残念ながら、西洋文明が持っている、いわゆる私が申し上げました「癖」というものを見抜く余裕は持たなかったように思うんですね。
 
白鳥:  余裕がなかったかも知れませんね。
 
石川:  余裕がなかったと思うんです。明治時代は余裕がなかったんでしょうけれども、残念ながら今でもまだそれをみる余裕がないのではないかな、というのが、私の懸念なんですね。どうしても二十一世紀の文明を考える時には、そこをよくみておかないと、方向性が見えてこないのではないか、というふうに、私は今思っているわけです。
 
白鳥:  なるほど。そして先生が、この「閉鎖性モデル」に対するに、このアンチテーゼ(antithese:弁証法で、一つの命題に対立する命題、反定立)として出されるものは、何なんですか。
 
石川:  閉鎖系に対して、これの図を見て頂きたいんですけれども、「開放系モデル」という別な自然の似顔絵ですね。これは近代科学の中で、ここ二、三十年の間に少しずつ進歩している考え方ですけれども、先ほどの○が三つ今度重なっておりますね。重なっているということは、いくつかのシステムの間に相互作用があって、全部が繋がり合った状態のまま自然界を見よう、という立場に立ちますから、基本的なモデル、つまり似顔絵が違うわけですね。これは科学の中に最近少しずつ出てきたモデルなんです。ただこれは大変方法論として難しいですね。
 
 
白鳥:  そうですね。わかろうとするための認識の方法論としては。
 
石川:  認識の方法論としては、自然界にこのほうが近いんですけど、実際にこれで実験をやったり、論理を立てようとすると大変難しいですね。
 
白鳥:  複雑な多面方程式になっちゃうんですね。
 
石川:  そうなんですね。ですからもっと簡単な方法論として、「閉鎖系モデル」が出発点だったというのが多分経緯だった筈なんですけども、いつの間にか「閉鎖系モデル」で分析的に物事を見ていくことが科学なんだ、というすり替わりが起きてしまったように見えるんですね。
 
白鳥:  なるほどね。
 
石川:  それでもう少し申し上げますと、「開放系モデル」の一つの特徴は、このさまざまなシステムの間で、物質とかエネルギーとか情報の出入りがあるということと、そういう出入りがあるために、全体のシステムが固定した構造を持たないで絶えず変化しつつある、と。変化しつつある状態そのものを見ていくのがこの「開放系モデル」の見方なんですね。これが大変大切な点だろうと思います。それが一つと、もう一つは、こういう開放系で自然界を見ていきますと、こういう開放系というのは、自然界が自分自身で秩序を創り出すことができるという側面が見えてきます。これがいま私が大変注目している部分なんですね。そのことを、私はいま新しい文明の方向というものを、どういうふうに考えたらいいか、という点において、「開放系モデル」を頭に置きながら、「いのちを生かす」という新しい方向性を提言しているわけです。この場合、「いのち」というのは、普通の方は生物だと思いになりますけど、私がいう「いのち」というのは、生物のことではなくて、自然界が持っている「秩序を創り出す働きそのものをいのち」というふうに呼んでいるわけです。ちょっと解りづらいので説明致しますと、例えば人間が生きていられるということは、自然界とまず繋がっていないと原理的に不可能です。例えば呼吸を止めたら死にますね。水と食物で物質の出入りをしなければやはり生きていけませんね。自然界と繋がっていることが、人間が生きていることの鍵なんですね。つまり人間・自然が開放系でなければダメなんだ、ということなんです。開放系であるから、逆に言えば開放系で自然界と繋がって変化し続けていること自体がいのち、つまり生きていることの本質である、という見方になりますね。これは何にも人間の固体ばかりではなくて、細胞も同じなんですね。新陳代謝をしなければ細胞は生きていけませんね。細胞自身も小さな開放系なわけです。人間というのは、開放系の集合体みたいなもので、そして生態系もまた固体と固体、いろんな動植物が繋がり合っていますから、開放系の集合体である、ということになります。それから私がいう「いのち」というのは、生物ではないという別な例はですね、私は、「地球という自然もいのちだ」と見ているんですね。普通はそれは言わないんですね。これは何故かというと、地球自身がザッと四十五、六億年前後という長い年月をかけて、自分自身で秩序を創り出してきましたね。これは人間が作ったのではないわけですね。ですから自然界が自分でこの地球という素晴らしい自然と生態系を創りあげたという以外に説明のしようがないわけです。ということになりますと、やはり自然界、つまり地球―自然が自分で秩序を創り出したわけですから、私の定義に従うと、「地球はいのちを持っている」ということになるわけです。
 
白鳥:  開放されたシステムで秩序を創り出そうとしている姿そのものがいのち、
 
石川:  「秩序を創り出す働き」そのものを、私は、「いのち」と勝手に名を付けたわけですね。
 
白鳥:  今までのいのちの概念よりはずっと広がる、
 
石川:  広がるわけです。無生物までも含むわけですけれども、「石ころそのものがいのち」という言い方ではないんですね。「無生物でも全体と繋がって秩序を創り出す働きを持った時に、その働きそのものがいのちなんだ」という私なりの定義があるわけです。
 
白鳥:  なるほどね。
 
石川:  何故こんなことを考えたか、と言いますと、こういうことを考えていきますと、私たちが二十一世紀に向かって、「どういうふうに生きていったらいいか」「どういう文明を創ったらいいか」という方向性の手掛かりが見えてくるというのが、私が気が付いた大切なポイントということになるわけです。
白鳥:  これは、人間というものを、今、モデルにしてお話を頂いたんですけれども、これは先ほどの「開放系モデル」と準(なぞら)えて語ることができるわけですか。
 
石川:  先ほど、ここで考えられて「開放系モデル」というのは、この三つの○は、とにかく科学の分野では全部物質しか考えていないんですね。つまり物の世界の繋がりしか考えていないわけですね。ところがこれを人間に当て嵌める場合は、このモデルは科学の世界ではある程度知られているんですけれども、私はこれをかなり拡張解釈をしているわけですね。それで、私独自の生命観というのは、これを土台にして出来てきているわけです。それを説明させて頂けるとすれば、こんな図になると思います。これを私は、「人間の開放系モデル」と名前を付けたんですけれどもね。先ほどの三つの○の中に、「体」と「心」と「環境」という三つの要素を入れまして、この三つの要素の間でさまざまな「物質」「エネルギー」「情報」の出入りがあって、変化しているシステム全体が、それが人間のいのちなんだ、という考え方に立つわけです。ですから決して体の中にいのちがあるとう発想にはならないわけです。体だけがいのちだ、という発想にもならないわけです。
 
白鳥:  なるほど。「心・体・環境」、これはこうやってお話を伺っていますと、先ほどそういった物の認識、学問の認識の背後にも、「文化の癖みたいなものがある」とおっしゃっていましたけれども、その癖という面でいうならば、私ども、日本とか或いはお隣の朝鮮半島のみなさんとか、或いは中国とか、さらに広げて言えば、インドとか、ああいうところの中で育まれた考え方、私どもで言えば、八百万の神さまみたいなすべてのものが関わりながら、その中に神聖を求めるみたいな、ああいった考え方とかなり似たところもあるかなと、そういう一つの癖。
 
石川:  これはあります。実は私の見方に立ちますと、どうも西洋文明というのは、先ほどの「閉鎖系モデル」的な発想に立つ癖が強くて、東洋文明というのは、このパターンの「開放系モデル」に近いものの見方をしている、というのが文化の背景にあるように私は思うんですね。
 
白鳥:  そうですね。わりに似たような感じかなあ、と思ったんですが。
 
石川:  ですからこれを見ても、東洋人はあんまり違和感を持たないわけです。というのは、おそらく私たちがそれになんとなく慣れているわけですね。
 
白鳥:  そうですね。逆に先ほどの閉鎖的のモデルでは確然と別れてしまっているというのは、なんかちょっとほんとかなあという感じがありますからね。
 
石川:  そうですね。ところが私たちが科学の研究をする時には、あのモデルを土台にしないとできないんですね。実験もできないし、理論も立てられないし、これでいきなりやろうというのは、とても難しくて手に負えない、というところがあります。ですから、このモデルは決して科学の研究をするためのモデルというよりも、私たちの生き方とか、文明の方向性を考える手掛かりとしてのモデルなんです。それが大事なポイントなんですね。私はこのモデルを使いまして、これからの文明の方向性を、「いのちを生かす」という、そういう価値を基準にして考えていくほうがいいんではないか、ということを提言しているわけです。「いのちを生かす」、つまり自然界をいろんな形で秩序を創り出す働きを持っていますね。その働きをできるだけ生かすような技術を開発するとか、それを生かすような生き方をするとか、それを生かすような文明を創る。それを纏めて私は、「いのちを生かす」というふうに呼んでいるわけです。
 
白鳥:  なるほどね。そういった「いのちを生かす実践例」みたいなものは、今までも東洋文化の中にはあったわけですか。
 
石川:  東洋文化の中にはかなりありますね。東洋文化自身が、このモデルにかなり近いんですね。特に体と心の繋がりというのを重視するというのは、これは東アジアの文明の特徴ですから、例えば仏教をみても、中国医学をみても、基本的にはこれに近い見方をしていますね。例えば、仏教というのは、自然界と人間と仏さまの世界は、奇麗に別れていませんね。連続的に繋がっていますよ。ああいうのをみても、開放系に近い自然観だというのがわかりますしね。それから中国医学なんかをみても、中国医学というのは、体の働きを土台にして見ているんですね。体と心と体がいろんな部分の繋がりがどうなっているかということで、「陰陽のバランス」という言い方をしますね。固定した構造でみていないんです。働きでみているんですね。「働きでみる」という考え方は、この「開放系モデル」の発想法と非常によく似ているわけです。と言いますのは、開放系というのは、先ほど申し上げましたけれども、絶えず変化しているシステムですね。絶えず変化しているシステムというのは、結晶構造のような固定した構造というのはないわけですね。そこに働き、機能はあります。機能はあるけど、固定した構造はそもそも開放系にはないわけです。
 
白鳥:  そうですね。いろんなファクターが常に作用しあっているんですからね。
 
石川:  そうですね。変化し続けているシステムですね。そういう立場に立って、「自然界とは変化し続けているシステムだ」という立場に立って見ないと、開放系で自然界を研究するというのは無理なんですね。ところが、閉鎖系でみると、閉じたシステムの中にわりと安定した動きの少ない構造ってあり得るんですね。
 
白鳥:  むしろそういう方向へ方向へ、いろんなものを切り捨ててきましたからね。
 
石川:  なるべくそういう安定した、ジッとして動かない構造を先に見付けて、例えば遺伝子はどういう構造をしているとか、分子分子がどう繋がっているとか、ジッとして動かない構造をなるべく見付けておいて、それからそれを土台にして全体を説明しよう、というのが今までの分析的な科学の方法論ですね。この開放系はそれとは違うわけです。
 
白鳥:  働きから見る、
 
石川:  働きから見る。働きから見るという立場から言いますと、例えば仏教の「諸行無(しょぎょうむ)常(じょう)」というのは、まさにそうですね。「諸行」というのは、要するに現象界に現れたことですね。「無常」というのは、常に変化している、ということですね。つまり「諸行無常」というのは、自然現象、心の働きを含めて、いろんな現象を変化している状態として捉えようという見方ですね。「諸行無常」は、まさに働き・機能として、心と自然界と全体を見ようとしていますから、これは「開放系モデル」の発想法に非常に近いということになるわけですね。
 
白鳥:  わずか四つの文字で本質性みたいなものを言い当てているわけですね。
 
石川:  まあ自然界の一つの姿、捉え方がこうなっているわけですね。ですからこれは大変面白いのは、東の文化と西の文化というのは、「良いとか悪い」ではなくて、「体質、つまり癖が違うんだ」ということをしっかり見ておくことが大事だろうと思うんですね。ところが残念ながら、先ほど申し上げたような科学があんまり進歩し過ぎたために、今までの科学の物の見方や結論が正しくて、そうでないものは非科学的で間違っているんだ、というような、そういうこう認識が非常に多かったですね。
 
白鳥:  そうですね。どうしても科学的なものを優先させる、という。
 
石川:  「科学的というものが何か」ということがはっきり見極められないままに、なにかそういうふうな思い込みをしてきたのではないか、という懸念が、今の私の頭の中にあるわけですね。その良い例が、今までの発達してきた西洋的な医学のお医者さんは、東洋医学と言いますか、中国医学みたいなものを否定なさいましたよね。経絡(けいらく)とかツボとか気とかあんなものはないんだ、というふうに頭から否定してかかりましたね。そういう物の見方自体に、実は科学の持っている体質が現れているのではないか。土台が違うということを考えないと、簡単にこちらのモデルから、他のモデルを「良い悪い」という批判はおそらくできないだろう、というのが私の見方なんですね。
 
白鳥:  こういったお話が、他ならぬ、特に自然科学の最先端の部分をやっていらっしゃった石川さんから出るというのが、何とも面白いというのか、すごくショックが大きいんですがね。
 
石川:  はっきりいって、私も科学者の端くれですから、科学者の中でこういうことをいうのは大変なことなんですね。
 
白鳥:  そういった発想になさる先生の原体験というかな、少年時代、青年時代になんか背景があるんですか。
 
石川:  それはあるんですね。私は、三つの要素があると思います。一つは、青少年時代に体が非常に弱かったんですね。何とかして健康になりたいということで、健康に対する関心が非常に強かった。これが第一点ですね。そのために例えば、ヨガのようなものに関心を持ちました。ヨガというのは、心と体の繋がりを非常に重視した一つの使い方ですから、現代科学の方法論と違うんですね。
 
白鳥:  違うんですね。今までこそちょっとブームですけども、先生の少年時代といえば昭和二十年代でしょう。
 
石川:  私の青少年時代というのは、そういうことが世の中にあまり定着していないですね。それが一つあって、大学でいわば物理を専攻しますと、まずそこで合わないんですね、物の見方が。
 
白鳥:  自ら志しても(笑い)
 
石川:  全然私の頭の中で一致してこないわけですね。それから大学の一年生の時に縁があってキリスト教の世界に入ったわけです。これがまた違うんですね。つまり私が青少年時代に関わり合った健康問題と科学と、それからキリスト教という宗教の世界とが、それぞれに関心はあったんですけど、頭の中でまったく繋がらない。バラバラなんですね。何か違和感がある。どうもよくわからない。それぞれ大学の先生や牧師さんに聞いてみても、その答えは出てこない。つまり私にとっての禅の公案みたいなものがありましてね。学生時代からざっと四十年ぐらいですね、それを考え続けてきたという背景が一つあるわけです。
 
白鳥:  その間には、なんとなく身にそぐわないというこの違和感ですね。これを解消されるためになんか努力なさったんですか。
 
石川:  いろんなことをやりましたが、一つは、私は武道に関心が出たんですね。と言いますのは、大学時代に弓道部に入りましてね。洋弓ではなくて、日本の弓ですね。少し弓をやって、それで一つ知ったことがあるんですよ。それは弓道というのは、スポーツではない、というのを知ったんですね。あれは「禅だ」ということでしたですね。弓武道をやっていた時、「立禅」という言葉を初めて覚えましてね。そういう弓道をやりながら、さまざまな新しい体験をしたわけですが、スポーツですと、的に当たる確立が高ければ上手いという評価がつくわけですね。ところが弓道の世界ではそれ以上のものを実は要求されるんですね。当たる当たらないはむしろ捨てることを要求されるわけですね。当たらなくても上手い人は上手いという評価は、これはスポーツではわからないわけです。そういう世界の中で、西洋とは違う文化の背景みたいなものに触れていって、その中で武道に対する関心がかなり強くなりましてね。四十代以降さらに合気道やりましたり、それから少しですけれども、柳生新蔭流の刀法も習ったことがあるんですけどね。そんな中で、私は勝ち負けのスポーツはそもそも小さい時から体質に合わないんですね。勝った負けたが嫌いなんですよ。それで武道の世界には勝った負けたでない武道があるんだ、ということを覚えたのは、かなり私にとっては重要な意味を持っていましたね。ですから武道を覚えても勝ち負けでないでは世界ばかりをねらったのか。それと何故柳生新蔭流が面白いかというと、あれは勝ち負けを超えた、いわゆる活人剣―殺人剣に対しまして―活人剣といって、人を活かす剣だという、ああいう発想は、ちょっと西洋の発想にはないんですね。そんなようなことを覚えていったことが一つ背景にあるわけです。それからもう一つは、中村天風(なかむらてんぷう)(1876-1968)先生という、お亡くなりになった方ですがね。東大の医学部を出られてから、ご自分が重病の結核に罹って余命幾ばくもないという中で外国旅行に出て、帰りに思わぬきっかけにインドに入って、ヨガの修行をしたという方ですね。この方が生きていらっしゃる間に、私が三、四年を学ばせて頂いたことがあるんですがね。この方に会って、心と体の使い方の実際的な面を漸く少し覚えたというのがまた別なきっかけになっていますね。そんないろいろな背景があるわけですが、一方では近代科学の粋みたいな分野にいながら、もう一方では、全然別の世界を一生懸命何かを探ってきた、という経緯があるわけです。そんなことが背景にあるわけですね。
 
白鳥:  模索の四十数年という感じですね。
 
石川:  そうですね。
 
白鳥:  さっき公案とおっしゃいましたね。
 
石川:  普通はこういうことを大学生時代に考えても、まあ三十代の後半になって忘れるんですよね。
 
白鳥:  まあそうですね。大体それを放棄して、学問的な興味の中に集中する。
 
石川:  そうですね。そのほうが上手くいくんです。それをもし一生懸命やってこういう問題を考えていなければ、私ももう少しまともな物理学者になったと思うんですけど(笑い)、実はこういうことを考えているためにあんまり物理のほうに身が入らないという側面があるのは事実です。
白鳥:  そんなことないですよ(笑い)。
 
石川:  ほんとなんですけど(笑い)。
 
白鳥:  逆に、例えば先生の場合に生物物理、まさに生きるということを学問的な世界の中で見極めようとなさったんでしょう。それでなおかつ冒頭におっしゃったんだけれども、それの一種の限界性みたいなものを、それ今伺いますと、かなり学問の世界にお入りになった時からなんかざわざわとした、これじゃ違うかも知れないという。
 
石川:  私は最初から物理そのものに対するこの違和感があったのは事実なんですね。ですから物理に百パーセント打ち込めないという学者としては悪い体質を持っているわけです(笑い)。
 
白鳥:  いやいや、しかしそれが先ほどのお話のように、もしかすると学問の基本発想みたいなものを変えていく一つの契機になるかも知れませんし、それ以上に人の生き方と言いますかね。
 
石川:  はい。物理をやりながら、その中から生き方を探ろうというのは、ちょっと普通の理学系の先生にはないですね。
 
白鳥:  それを具体的な問題として、我々がこれから生き方の問題として考える時に、どうしたらいいか。これがどういうふうに?
 
石川:  私は基本的に今まで言われていた一つの生き方の方向性で、例えば米ソの対立の時代は、「平和共存」という言葉がよく使われましたね。とにかく人間が戦争をしないでなんとかやっていければ平和共存なんだ。「共存」というキーワードがありましたね。ところが最近になって、今度それが「共生(きょうせい)」に変わりましたね。今度は人間だけが仲良くしていてもダメなんだ、と。今度は人間と他の動植物の生物も仲良く生きましょうというのが、どうも私の見聞きする「共生」の意味らしいんですね。どうもちょっと気になっておりますのは、「共存」というのも、とにかく「人間と人間が生きて存在しよう」という発想なんです。「共生」というのは、それの枠を広げて、「人間と他の生物が仲良く存在していきましょう」、つまり存在に焦点が当たっている。死なないで存在すること。私はどうもこれからの生き方とか、文明を考える時には、これでは足らないのではないか、と考え始めたんですね。それでごく最近ですけど、新しい言葉を発明しまして、「共創(きょうそう)」という―これは競い合うことではないですね。スポーツの競争ではなくて、共に創造する「共創」。おそらくこれから二十一世紀にかけての新しいものの見方、生き方の方向性は、「共生」よりも「共創」ではないか。ともに新しい秩序を創り出す。そういう発想のほうがうまくいくんではないか、というふうに、私は今思っているわけです。ちょっと解りづらいと思いますので、一つ例をあげますと、例えば共に新しいものを創るという時に、例えば「水を綺麗にする」といいますね。すると、普通の上水道ではなんか人工的にいろんなものを使って、マンガンが入っていればどういう薬品を入れればマンガンを取り除けるかという発想で、はっきりとこれは力づくでやるわけですね。力づくで奇麗にしようとするわけですね。それが普通の浄水場の技術です。ところが、天然の川も湖が奇麗になっているのは、力づくではやっていないんですね。そこに棲んでいる微生物が自然にうまく水を奇麗にしてくれている。つまり共創の世界、どもに秩序を創り出す時に微生物が一役も二役もかっているわけですね。そこが解りますと、何故人間だけが力づくで水を綺麗にしなければいけないのか、という疑問が出てまいりますね。実際に今はごくわずかですけど、微生物を使って水を綺麗にするという技術が開発されておりまして、それで浄水場を作っているところもあるんです。このほうがコストがかからない。それなのに何故そういう技術が開発されなかったか。力づくに慣れていたからですね。微生物と一緒になって秩序を創り出そうという発想を持っていなかったから、微生物で水を綺麗にするという技術がこんなに科学が進歩してもあまり発達しなかった。つまり技術にも、ものの見方や価値観が影響しているわけです。
 
白鳥:  そうですね。
 
石川:  ですから、そういうことがわかりますと、技術開発をするためにも、文明の方向性を考える時にも、「共生」よりも「共創」。自然界と人間がいろんなシステムが一緒になって、自然界が持っている本来の力を活用して、秩序を創り出すというのが、おそらく新しい文明の創り方の鍵になるのではないかなあというのが、私の基本的な考え方なんです。それをさらに私は今三つのキーワードで、もう少し具体的に捉えているわけです。第一は、私は「対極価値のバランス」と呼んでいるんですけどね。要するに反対の価値ですね。例えば私たちは近代社会の中で、物質的な豊かさを追求するという価値を持っていましたね。これを一心不乱に追い続けてきたわけです。私はこういう文明の創り方を、「一方向性思考」と呼んでいるんですね。とにかく「豊かなことは良いことだ」という個別価値。その個別価値へ向かって一心不乱に、猪のように物質的に豊かになることを求めて科学者も技術者も一心不乱にそこへ向かう。猪突猛進なんですね。ところが今申し上げましたような、こう「開放系モデル」で自然界を見ますと、それはおかしいということに気が付くわけです。どういうことか、と言いますと、例えば自然界の中にある大変多くの種類の生物が、それこそ共生しておりますね。その生物がお互いに助け合って秩序を創っているわけです。どうしてうまく助け合って秩序を創れるか、と言いますと、どこかでお互いに我慢をしているからなんですね。これは面白いですけれどもね。植物というのは、「生理的最適」というのと、「生態的最適」というのは違うんですよ。例えば植物を一種類だけ独立にして、いろんな環境の中で育てていくと、どういう環境の中でこの植物がうまく育つかということがわかりますね。これを「生理的最適」というんです。植物が生きれる環境というのは、ある巾がありまして、その巾の中で、例えばある真ん中辺のところが一番生理的最適な条件だとすると、単一な植物で育てますと、生理的最適なところで一番うまく育つんです。ところが自然界の中で、いろんな植物が一緒に育つ時に、Aという植物だけに百パーセント都合のいい環境というのはあり得ないわけですね。
 
白鳥:  そうでしょうね。
 
石川:  あり得ないわけです。
 
白鳥:  他の邪魔物がある。
 
石川:  それこそ仲良く生きる、と。そうしますと、本当はここが生理的最適なんだけれども、みんなで仲良くいく時には、生きていける巾がありまして、例えば右の巾のところで実は生態系の中では一番うまく繁殖しているというような状況が起きるんです。実際に生態系の中で見ますと、生理的最適環境の中ではうまく繁殖していなくて、ある巾の裾のほうで、少し我慢をしながら、ある環境で都合のいい生態的最適のところで植物が生きているというのが実は現実なんですね。そういうことがわかりますと、どうして人間だけが百パーセント人間に都合のいい文化を創ろうとするのか、ということは大変疑問になりますね。
 
白鳥:  そうですね。「人類中心主義」というやつですね。
 
石川:  何故人間だけが我慢をしないで、素晴らしい環境だけを追い続けなければならないのか、という自身に対する疑問が出てきます。
 
白鳥:  権利があるかどうかという。
 
石川:  実はないんですね。ですから、物質的豊かを追求することは、それは大切ですね、人類にとって。でもそれだけが唯一の絶対的価値ではなくて、我慢の価値、貧しさの価値、そういう価値も視野の中に入れないと、文明の方向性も誤るだろうし、個人の生き方としても方向性を誤るのではないかということが、実はこの対極価値のバランスということから出てくるんですね。生態的最適の中で生きる。これが生物としての人間の宿命だろうと私は今思っているわけです。
 
白鳥:  なるほどね。
 
石川:  それから二番目が、「双方向性」―二つの方向ですね。「双方向性のバランス」というキーワードを私は使っています。
 
白鳥:  今まで一方的だったものを、双方向で、
 
石川:  双方向で考えなければいけない。その双方向ということをちょっと説明させて頂く時に、ちょっとこの「人間の開放系モデル」、これが非常に基本的なモデルなんですが、もう少し心を体と環境というものを、もう少し細かくわけたモデルで考えたほうが双方向性が分かり易いと思うんです。もうちょっと細かいモデルを私が考えているんですね。これが私の考えでいる「人間の開放系モデル」の全体像とでも言いましょうか。この○の中が、人間の働きですね。それでこの上のほうが物の世界、下のほうが心の世界というふうに見てください。そうすると、人間の体の働きを二つにわけますと、一つにここに「植物身」と書いてありますが、簡単にいうと、生物としての人間がとにかく生きていける働きのことを「植物身」と呼んでいます。例えば、寝ていても生きておりますね。寝ていても生きている状態というのは、先ほど申し上げたように、必ず呼吸その他で自然界と繋がっていないといけません。ですから、「植物身」、つまり生物として、とにかく生きていける最低限の状態を守ってくれている環境は自然界。ここの繋がりがうまくいかないと人間は生きれない。今度は目が覚めて社会活動をする時になりますと、今度はそればかりではなくて、社会活動をする働き。それを「動物身」という名前を付けますね。そうすると、それに対する環境が人間社会ということになります。その時に、「双方向性」と言いますのは 人間が、例えば社会で生きる時には、自分のために何かをするという価値観と、社会のために何かをするという価値観のバランスがうまくとれないといけない。こちらの自然界で言えば、水や食物を摂るという作業と、出すという作業のバランスがうまくとられないといけないですね。どんなに栄養のあるものでも、一生懸命食べる一方ではこれはうまくいかない。必ず摂り入れのバランス。それをこの矢印が双方向性で示しているわけです。そうすると、ここの上で言えば、例えば人間が生きている時には、必ず自分のためと全体のため、社会のための双方向性の価値観のバランスがなければ、生き物としての生き方、開放系の秩序形成機能としては不自然である、ということになりますね。今度は心の働きにいきますと、自分で認識できる心の働きを「意識」、認識できない心の働きを「無意識」ということに致しますと、意識の環境がおそらく文化だろうと思うんですね。私たちの心は、文化の中でさまざまな常識を巻き込んでいる。実は先ほどの科学のモデルもこの辺に関係があるわけですね。西洋には西洋の文化の対する体質―癖がある。その中で科学を行っていけば、いつの間にかその癖が、この意識の世界の中で、「閉鎖系モデル」でものを考えるのは当たり前で、それが「科学なんだ」という思い込みでやっていく。そういう環境があるわけですね。最後に「無意識」という世界がありまして、これは自分では認識できませんが、例えば自律神経の働きとか、或いは免疫の働きとか、ホルモンの働きとか、こういったようなものが、全部植物身の働きをコントロールしているのが「無意識」という心の働きなんですね。もう一つここに「超自然界」と書いてありますが、これは通常私は外では言わないんですけども、この番組は宗教系ですから敢えて申し上げると、おそらく「無意識」の外側に、神さまとか、仏さまとか、或いは先祖の霊とか、或いは最近はやりの気功の気の世界ですね。これを纏めて私は、「見えない世界」と呼んでおりますけど、どうもこの見えない世界というのは無意識と非常に密接な関係にある。つまり「無意識」に一番近い環境は「超自然界」―見えない世界ではないかな、と思っているわけです。そうしますと、双方向性というのはこういう四つの環境を視野の中に入れて、この四つの中で、自分がどういうふうに周りのために役立つか、という発想になるわけです。閉鎖系だと、全部自分のために何かをしよう、としますね。開放系だと自分が周りのためにどう役立とうか、という発想になります。これは私は、「空間的な役割認識」と呼んでいるんですね。もう一つ、全体が時間の流れの中で動きますから、今度は双方向性は時間に対する双方向性がありまして、過去の文化をどう受け継いで、自分がそれをどうよりよいものに創り変えて、創造して、で次の世代に残すか。過去と未来に対する役割意識。これを私は、「時間的な役割認識」というふうに呼んでいるわけですね。これが双方向性という考え方で、その基本にはこのモデルがあるわけです。
 
白鳥:  最初にあげられたのが、「対極価値のバランス」、そして今のお話が、「双方向性」と、
 
石川:  ということになりますね。それで三番目のキーワードは、私は、「循環」という言葉で捉えているんですね。これは「循環」というのは、全体にこれが動いていますから―モデルは止まっていますからうまくいきませんけれども―「循環」というのは、簡単に言いますと、例えば今までの文明、経済システムというのは、完全に一方通行ですね。どういうことかといいますと、会社は生活に便利な物を作って売りますね。生活者はそれを使いますね。使った後は捨てますね。捨てた後どうするか考えていないんですね。捨てた後は市役所が始末するぐらいにしか考えていない。市役所が始末して、ダンプカーで持っていきましても、結局焼くか埋めるか。焼いてもガスがでますね。その先は市役所の手に届かない。埋めてもそこから先はどうしようもない。つまり全部最後の後始末は自然界に押し付けているわけです。つまり循環になっていないんですね。で、私たちが自然界から学ばなかった一番いい例が、私たちの文明の有り様、自分自身の生き方というのが、循環システムの原理に則っていないということです。実は環境問題の大きな問題は二つありましてね。一つは、人間中心でものを考えるという価値観。もう一つは、自然界から循環というこの秩序の創り方を学ばなかった、という失敗。この二つが現代の環境問題をはじめとするさまざまな現代文明の中に大きな影を落としているというふうに、私は見ているわけです。ですから「循環」というキーワードを使って新しい文明の創り方、或いは生き方というものを考えていかなければならないというのが、これが三つ目のキーワードになるわけです。
 
白鳥:  たしかに開放系―開かれた系のシステムとしてすべてを見ていこうとすると、今おっしゃったこの三つですね―「対極価値のバランス」とか、或いは「双方向性」とか、最後に触れられた「循環」の問題ですね。これがみんな非常に微妙なバランスの上に成り立つ一つの条件になっているということなんですよね。
 
石川:  そうなんですね。これ三つ、ほんとは全部切り離すわけにもいかないんですけど、敢えて分けてそういうキーワードで、今、私はこれからの新しい文明の双方向性として、この三つをうまく噛み合わせて「共創」ですね―新しい秩序を創り出すという、そういう考え方を、私は今、「基礎価値」と呼んでいるんですね。基礎的な価値、つまり人類が生きていくためには、生物としての人間は、いのちを生かすというこの基礎価値を無視すると、もう何事も成り立たないわけですね。決して最高ではないかも知れないけど、これを無視してはもう何事も成り立たないという意味では、いのちを生かすという発想法、この価値が基礎価値、これを土台にいろんな価値を載せていくという発想法が必要だろうと。これが私の「共創」という新しい言葉使いの具体的な中味になってくるわけです。
 
白鳥:  今までに現在の人間の作り出してきた技術を中心にして、科学技術の限界性というものを指摘される方は随分いらっしゃったんですが、その科学技術のもとになっている自然科学というか、今の「科学的」と言われる認識の方法論そのものに、これほどラジカルな、根底的な質問投げ出されたのは、先生に初めてお話を伺ったわけなんですが、やはりそういったところからやっぱり問い直すべき時がきているんですね。
 
石川:  そう思いますね。今までの文化の体質―癖というのをしっかりみておいて、その欠点をどうやって補うか、ということを考える。これが一番大事な問題点だろうというふうに、私はみているわけですね。
 
白鳥:  「癖」というお言葉を使いましたが、それは逆に言えば、そういった一種の限界性みたいなものをみんなが認識して、だから西洋文明はダメなんだ、という拒否ではなくて、
 
石川:  拒否ではない。「共創」ですから。西洋文明の良いものも採る。東洋の文明のいいものも採る。しかしお互いに「お前が悪いぞ」という批判をやってみても何にもならない。しかし、一方で「東洋文明をすごい」というふうに威張ってみるのも、これもよくないと思いますね。
 
白鳥:  そうですね。
 
石川:  「共創」なんですよ。共に新しい文明を創る。これが基本的な発想法ですから。
 
白鳥:  たしかにそういった新しい発想、そしてまたそういったお互いにゆるしあうというのかな、お互いのやっぱり限界性みたいなのは認めあいながら進んでいく。そういうゆとりみたいなものが欲しいですね。
 
石川:  そう思いますね。
 
白鳥:  どうも今日はありがとうございました。
 
石川:  ありがとうございました。
 
     これは、平成五年一月十日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである