野の花のようにー生と死を見つめる日々ー
 
                            医 師 徳 永  進
一九四八年鳥取県生まれ。昭和四九年京都大学医学部卒業。京都国立病院、大阪吹田の同和地区診療所医師を経て、鳥取県赤十字病院内科医に。二○○一年十二月鳥取市内にホスピスケアのある十九床の有床診療所「野の花診療所」を開設。一九八二年「死の中の笑み」で第四回講談社ノンフィクション賞を受賞。地域医療への貢献を高く評価されて、一九九二年第一回若月賞を受賞。著書に「臨床に吹く風」「隔離」「医療の現場で考えたこと」「形のない家族」「カルテの向こうに」他。
 
                            ききて 斎 藤 秀 夫
 
ナレーター:  鳥取市は人口十五万。古い城下街のたたずまいが残る緑の豊かな街です。街の中心部住宅街の一角に、去年十二月、ベッド数十九床、小さな診療所が誕生しました。植え込みの色とりどりの花に囲まれたこの診療所、「野の花診療所」と名付けられています。
 

 
斎藤:  失礼します。どうもお邪魔致します。はじめまして。斎藤でございます。
徳永:  徳永です。どうも遠いところを。
 

 
ナレーター:  徳永進さん、五十四歳。徳永さんは、二十四年間勤めた鳥取市内の総合病院を去年退職して、この診療所を開きました。此処で働く医師は徳永さん一人だけです。
 

徳永:  おばあちゃん、ごめんなすって。熱は?
 
付き添え人:  あんた、熱は?
 
徳永:  熱は?
 
付き添え人:  熱はどんなだって・・・今日はいいです、先生。
 
徳永:  水をちょっと、後でね。
 
付き添え人:  すいません、どうも。
 

 
ナレーター:  末期癌の患者を中心に、十九人が入院しています。入院の患者のケアに加え、外来と往診までこなす忙しい毎日です。
徳永さんは、臨床での日々をおよそ三十冊のエッセイに綴ってきました。末期医療の現場で、患者や家族と接しながら、生と死の意味を、望ましい医療のあり方を考え続けてきたのです。その徳永さんが、長年夢見てきたのが街中に小さなホスピスを造ることでした。看護婦は十二人、運営にはボランティアも参加しています。十九ある病室はすべて個室。入院費用は一(ひと)月四万五千円以下に抑えています。ベッド数の少ないこの診療所は、正式なホスピスとしての認可を得られませんでした。経営は決して楽ではありませんが、徳永さんは、患者が家(うち)にいるのと同じように過ごせる自由で開放的な診療所を目差しています。
 
徳永:  ここで雑談したり・・・
 

 
ナレーター:  此処ではお酒も自由です。ちょっとしたバーコーナまでありました。
 

徳永:  「此処に坐ってワインでも呑め」と云ったら、呑んだ人もありました。でもなかなかまだまだ抵抗があるのか、遠慮されるのか、でも自由という。
あれが患者さんや職員の食堂で、これが図書室です。図書室を作りたかったのは、まあ二十四時間の病院の診療所の生活の中では、いろんな人が入っていまして、自分の中でフッと空いた時間を此処で過ごして頂けたらと思ったことです。
 
斎藤:  いいですね。ホッと抜けた時間が此処で過ごせればね。
 
徳永:  ええ。そうなんです。だいたい診療所は、ホッと抜けるのがテーマなんです。
 

 
ナレーター:  徳永さんは一日に何度も病室を回ります。患者の話、表情、何気ない仕草の中に、相手が何を本当に求めているのかを読み取ろうとしているのです。
 

患者: まあ病気に対する姿勢みたいなものがね、ピタッとこう照準が合 わされるんですね、自然に。
 
徳永:  それは死に対してもなんか心が決まってくるということですか?
 
患者: ええ。自然にそういうのが決まってくるんです。と同時にね、必 ず生きていこうという力にも同時になっているんです、そのことが。
 
徳永:  なるほど・・・それじゃ、また。
 

 
ナレーター:  単に病気の治療をするのではなく、患者ひとり一人の人生に寄り添っていきたい、
夢の実現に向けて動き出したばかりです。
 

 
斎藤:  私、さっきから拝見しているんですけども、あっちこっちへと忙しそうですね。医師は一人でいらっしゃいますからね。
 
徳永:  医師一人ですね。一人でできると思ったんですけどね。もう少しはできそうですけど、やっぱり二十四時間縛られるというか、篭のなかに入っているのは初めての経験でね。勤務医の時は自由がありました。「友人に頼むね」と云って、場を離れることができましたけども、今、場が離れられない。
 
斎藤:  始められてもう半年位になるかと思いますけれども、患者さんというか、入っていられる方は、いろんな方がいらっしゃるようですね。
 
徳永:  一応癌を病んでいられる方のための診療所でありたい、と思ったんです。ここは十九床ですけれども、十九人全員をそういう患者さんに入院して頂くことは、なかなか難しゅうございまして、他の病気の慢性疾患の方とか、心を病む方とか、場合には仮病でもいいなんて思っていましてね(笑い)。
 
斎藤:  そうですか。
 
徳永:  仮病は今はいませんけどね(笑い)。
 
斎藤:  それはまたどういう考えですか。
 
徳永:  病気というとなんか一番上に癌があったりして、それが横綱で、大関が脳卒中だったりとか、水虫あたりだと十両とか云って、みんな思うかも知れないけれど、そんなに病気のランクって、こちらが深刻に決め付けるほどのものかなあという。ちょっと皮肉がありまして、仮病というか、ほんとになんかよくハッキリ分からないけど、調子が悪いとか、自分はなんかおかしいと思っているという人があると思うんですね。それは自分にとって大変なことなので、他の人は、「仮病だ」と云っても、その人にとってはある深刻な問題であるということであれば、「仮病も病気、癌も大した病気じゃないですよ」ということもあり得るんじゃないか、と思っているんです。そういう意味で、病気の順列を付けないということができたらいいんだけどなあと思っています。
 
斎藤:  ということは、いろいろな病人というよりも、いろいろな人がいるという。
 
徳永:  あ、大好きなんですよ、そういう考えがね。病気にあんまり重きをおいたり、忌み嫌ったり、ただ軽んじたり、というような対応を人間はずーっとしてきましたけども、あれってよくないと思っているんですよ(笑い)。
 
斎藤:  ホスピスとして認めてもらうことはなかなか制度上も大変らしいんですけども。
 
徳永:  認められなかった。
 
斎藤:  逆に、というか、そのことが当たらないかも知れませんが、何か「パラ・ホスピス」というんですか。
 
徳永:  私がある時、辞書を引いていましたら、「パラ・チャーチ(para-church:準教会。形成途上にある未来の教会)」という言葉があって、みんなが手を合わせて祈るんだけども、教会資格はとっていない。でもそこには人々が集まって来て祈っている。私は、それが本質をそのまま捉えているんじゃないか、と。此処は厚生省から認められなかった。だから、「ホスピス」と言えないけれども、パラ・チャーチのような意味で、「パラ・ホスピス」でいいや、と。資格というか、認知はされないけど、中にあるものは同じ誠意であり、みんなのスピリット(spirit)である、という。昔から、アウトロー(outlaw:社会秩序からのはみ出し者)というか、一歩線から外れるのが好きな方でしたからちょうどいいや、と思って(笑い)。
 
斎藤:  何か日本語にあてると、「パラ(para)」というのは、優勝に対する準優勝の「準」ともいうんですか。
 
徳永:  「準」ですね。その「パラ」の中にこそ大事なものがあるんではないか、と。つまりこれだけホスピス運動が広がっていくと、認可はされているけども、ほんとに一生懸命みんな思っているの?と疑いたくなるようなホスピスもできている。でも、「パラ」は最初から認められていないから(笑い)。
 
斎藤:  制度上の形としては認可されなくとも、中味は違う。
 
徳永:  中味でやるんだ、という。可愛いね、この反骨精神が(笑い)。
 
斎藤:  本筋のちょっと横に、何か本物じゃないけども、実質なものがあるんじゃないかということでは、先生のお考え方の中に、今の医療というものに対する疑問というのがあるんですか。
 
徳永:  私は今の医療には随分救われましたし、今の医療というか、先端医療─画像診断だとか、内視鏡を使ってやる処置だとか、心筋梗塞の時に詰まったところを溶かす。ああいうのは、昔はただ無念の思いだけを感じさせたという経験がありますので、今の医療の片方には尊敬観をもっているんですよ。
 
斎藤:  当然でしょうね(笑い)。
 
徳永:  ですが、ただそっちだけを見ているとか、或いはそれがドンドン進んで遺伝子治療とか、臓器移植という、何か素晴らしい世界だけを見て、みんながそっちに走るとなんか違うんじゃないか、という気が確かにありましてですね。 実際十病気があるとすると―根拠ないんですけど―病院がというか、近代医療がパッパッパッと手をくだして意味を持つのは三くらいですよ。
 
斎藤:  後は?
 
徳永:  後は、日々(にちにち)とか、看護婦さんの優しい語りかけとか、家族がもってきた季節の 花とか、孫とか犬とかね。
 
斎藤:  それは普段家庭で生活していることと同じですね。
 
徳永:  そう。だから、「ホタル狩にみんなで行こう」と行くわけですよ。帰って来る。癌の患者さんも勿論いらっしゃるわけで、ホタルを見て帰ったら、癌が治ったかというと、治りはしません。桜見もありましたし、それから誰かが自分の人生をみんなの前でお話をなさいます。癌は治ったかというと、やっぱり治りはしません。でも病気そのものが治ったかどうか、というのは大事な問題ですけれども、それだけが問題ではないということがありまして、それには何が働いていくか分からないんですね。簡単に云いますと、治すまでは納得出来ない、という精神の人が、「これは治らないのか。じゃ、こいつを自分の一部として抱えていこうか」という。言葉で言えばそれだけのことになるけど、そこに辿り着くには大変なご苦労があるわけですよ。そういうものを入手するのは、近代医療が、「じゃ、この薬を飲んでごらん」と、飲めば自分が受け入れられるか。そんな薬ないんですよ。それにはいろんなことが─人と、思い出と、喋ることと、音楽を聞くこと、悩むこと、という。なんか分からないんですが、いっぱいの事々を通して、時間と、ある境地にフッと達して、みると癌は治っていないんです。でも気持はフッと明るい顔が戻ってきたりする、ということを考えると、医療は癌を小さくするだけが医療であるとは言えない。その人がそのものを、同じものをもっているのに、なんかいい気持になってきた。チャレンジはしたいけれども、経過がもしダメでも許せる。そいつをもっています、というふうになられると素晴らしい。
 
斎藤:  ということは、病院とか診療所とか、そういうところに入ると、優先順位というのがありますね。「何々をしましょう」「検査をしましょう」「治療しましょう」「手術をしましょう」とか云って。先生の場合には、優先順位ということになると、暮らし的なものが優先に入る場合がありますか。
 
徳永:  私は、こんなことを始めてから意外と、「自分の診療所の理念」とか、「私はこういう考えです」というふうに云わないといけないんですけど、今のところまだないんですよ。でも、「診断を間違ってはいけない」という、そのことだけは強くありまして、先ず診断─こんな狭い診療所だけど、CT(コンピューター断層撮影)を多くの先生は、「要らないし、買わなくてもいい」とおしゃったんだけど用意したんです。診断に間違いがあってはならない、という。余程誤診したんでしょうね、痛い経験があってですね(笑い)。
 
斎藤:  正直ですね。
 
徳永:  それをジッと抑えてから、次の話にいかないと。診断を間違っていたら、元も子もないという。何度も痛い目を経験したことも。まず病気の現状把握を間違いなくする。
 
斎藤:  それは当然ですね。
 
徳永:  その次からは急に自由になるんです。「自由だで、また」という感じで。
 
斎藤:  例えば、どういうことですか。
 
徳永:  朝から自由なんです。「夜出ていいか?」って。ホタルを見にみんなで夜行ったんですけど、一般病院ではホタル見に行かせなかった理由は、管理の問題で、夜、患者さんを出すことを禁じていた、と思うんですね。此処は自由ですから、したいことがあれば自由にする。
 
斎藤:  旅行に行きたい場合、それはいいんですか。
 
徳永:  具体的におられますね。私は知らないんですけど、「ディズニーシー」というのがあるらしいですね。
 
斎藤:  あ、海の方の「SEA」ね。
 
徳永:  「シー」というのは、海という意味ですか。
 
斎藤:  「ディズニーシー(Disney SEA)」でしょう。
 
徳永:  私は「ABC」の「C」かと思って(笑い)。そこに、「子ども連れて行きたい」という、若いお母さんがいらっしゃいましてね。「最後の旅行をやっておきたい」とおっしゃって。
 
斎藤:  それはかなり病状が進んでいる?
 
徳永:  病状が進んでおられます。
 
斎藤:  そうですか。
 
徳永:  でも、ほんとに明るいというか、いい表情を保っておられるお母さんと旦那さんなんですけど。で、私は、「病気をもう小さくすることは不可能ですし、今ならチャンスかと思う」と言ったんです。私の問題としては、腫瘍を小さくするということではなしに、その家族が思い切ってディズニーシーへ行って帰って来られたらいい、というね。彼女は、「夫と行ったことはあるけど、子どもと行かずに終わることが残念だ」とおっしゃるんですね。「そのための旅行をしたい」って。その時のテーマは、「旅行を実現させること」という。
 
斎藤:  その方についてはね。
 
徳永:  その方については。実際に行く途中に危機が起こることがあるので、そのことを配慮する。
 
斎藤:  その他には、やはりそういう例はあるんですか? 自分の好きなことだったら、一番基本的な診察の次ぎにくるということでは、酒もありますね。
 
徳永:  お酒もありますね。動物が来るというのは、前の病院では中まで入ってくることはなかったですけども、ニャン子や犬は入ってきますね。ヨーロッパのホスピスでは、キリンが来たり、象が来たりするのを見て、「へえー」と思ったんだけど(笑い)。
 
斎藤:  病院へ、ですか?
 
徳永:  病院へ。
 
斎藤:  連れて来るんですか?
 
徳永:  ええ。そうしたら患者さんが象に向かって、「逢いたかったぞ─」と言ったらしかったですがね(笑い)。それは出来ないけども、自分が飼っていた犬を人にあげて、末期になられて、「あの犬にもう一回逢いたい」という人がいらっしゃって、「逢いに行っていいですか?」というので、家族の車で逢いに行って頂きました。そして、その方は、「もう苦しいから殺せ、殺せ」と。患者さんは意外と、「殺せ」という台詞は、普通の人が想像するよりも、頻発する台詞なんです。「もう帰らせてくれ」「もういい」とか、「早う」とか、「もう死なしてくれ」とか、或いは、「殺せ」と、ハッキリおっしゃったりして。で、そういう言葉を、「本気かどうか」というのは、問題ではあるんですけども、意外と口から出る言葉です。その方も、そういうことをおっしゃっていた方ですけど、犬に逢って帰って来たんですよ。赤い顔をされていまして、ビックリしましてね。夜通しナースコールが鳴ったり、夜起きているような人がグッと熟睡している。効いたのは、鎮静剤や睡眠剤でなくて、犬が効いたんですね。それで訊いたんです。「なんでそんなに犬が効いた?」と。そうしたら、自分を懐かしくて、まとわりついてきて、家に帰るという時に、車が走って行ったら、犬が後ろからバアッと追いかけてきた。ボロボロボロッと鳴いた。で、長く離れていたので、みんなもちょっと草臥れたんですね。医者も、看護婦も、家族も見捨てている、と思ったんです。そういう中で犬に逢いに行かれた。「犬だけは俺を見捨てなかった」って。これは想像なんですよ。「急に自分を支えるものがいた」ということだったと思うんですね。ほんとにやられたんです、そのワンチャンにね。私は、勤務の時に、癌の末期の人に─ちょっと変な医者でしたから、「もし死ぬとしたら、死ぬ前に何をしたいですか?」と、インタビューしたことがあったんです。だいたい薄々気が付いている人に、付き合いのある人に聞きますから、「えっ!」と驚かれるんじゃなしに、「そうですね」と云って、おっしゃったのは、「海が見たいです」「孫と温泉に行きたいです」「田圃の土が踏みたいです」と。それから、これは私の患者ではありませんでしたけど、「馬にもう一回乗りたいです」という人がいらっしゃった。私の患者さんは、「道が歩きたいです」という、六十歳位の女の方だったんです。私はビックリしましてね。死の前に、もっと大きなことをみんなが云うと思ったんですね。凄くたいそうなことを。「道を歩いてみたいです」。それはビックリした台詞でした。「出来ますでしょうか?」とおっしゃったので、「勿論出来ます」と云って、日曜日にお連れした。すると、彼女は、砂丘地に立つ家の前の道を通って、右に曲がって、スーパーに行って、そこで主人の酒の肴のつまみを作ってあげて、そして病院に戻られたんです。私は、「道を歩く」ということが、これだけ大事なことか、と。他の人は、「もう一回立ってみたいです」というのもありました。みんな大きなことはおっしゃらないんです。「ああ」と思いました。私たちの忘れている大事なものがどこにあるのかというと、日常の何でもないと思っているあの一つ一つが、すべてもの凄いことなんだなあ、ということを教えられますね。
 

ナレーター:  徳永さんは、昭和二十三年、四人兄弟の末っ子として、鳥取市の隣町に生まれました。豊かな自然の中で、家族、友だちと過ごした少年時代。徳永さんの中に、故郷を愛する心が育まれていきました。医師を目差したのは、高校二年生の時でした。遙か昔の生命の誕生。そして、生あるものが必ず消えゆくことに強い関心を抱いたのがきっかけでした。
 

 
徳永:  生命の起源ということが不思議でして、まず自分がなんであるかも不思議だったんですよ。電信柱が此処にあるのかという、そんなことさえも不思議で(笑い)、その授業があって聞きに行った時に、大学の偉い先生が、「生命の起源は、みなさん石炭です」と云われて、ガクッときましたね。そんなものじゃない、と思って。でも、なんかずーっと小さいものがあるだろうなあ、と。でもずーっと辿っていくと、「無」というものもあって、「有」というものがあって、「その間際が分からないな」と思ったんですよ。それで、生命の起源は結局分からずじまいに。でも、「有る命は死ぬのだな」というのは、すぐ気が付いたんです。動物たちも昆虫たちも死んでいました。「死ぬ≠チて、悲しいわなあ、淋しいわなあ」というのを思いましてね。だったら、「その横にいる人になれた ら」と、思ったのがその時だったんです。
 
斎藤:  「死の間際に側にいられたら」というのは、具体的に、「居る」だけで良かったんですか?
 
徳永:  その時のイメージは、「横に居て手を握っている」という(笑い)。何にもしていないんですよ。だから、「ご苦労さん」とか、「大丈夫?」。でも何も出来る自分は想像しませんでした。パパパっと器械を取り付けたり、マッサージしている自分は想像せずに、ああ、ただ手を握っている(笑い)。
 
斎藤:  あ、そうですか。大学は京都にいらっしゃったんですね、京都大学に。
 
徳永:  はい。あの頃は大学の授業がない頃でね。授業がストライキでね。それで卒業出来た(笑い)。
 
斎藤:  学園紛争があって。
 
徳永:  そうです。
 
斎藤:  団塊の世代でいらっしゃるんですね。
 
徳永:  まさにそうだと思って。それで、そんなことはどうでもいいみたいなところがあるでしょうけれども、私は、前面ではそういう運動はしていませんけれども、主張には共感するところがあって、いまもって、その感じがありますね。
 
斎藤:  どういうことですか、それは?
 
徳永:  社会的に役割をちゃんと果たさなければならないとか、困っている人に手を差し伸べるべき─べきだ、なんというような考えがまだ名残が残っていましてね。誰が操作しているか分かりませんけども、自分を。一つは、そういう世代に、みんなが主張していたことが残っている、という感じですね。
 
斎藤:  それで大学を出られて、大阪で初めて診療所を任されたんですか?
徳永:  そうです。
 
斎藤:  どういうところだったんですか?
 
徳永:  そこは同和地区の無償の診療所だったんですけれども。二年目だか、三年目ですよ。三年目の医者に何ができるというわけではなかったんでしょうけども、自分としては地域医療に入るのだ、と思ってしまったところがありまして、飛び込みました。でも実際、患者さんは来なかったんですよ(笑い)。私はとても落胆して。いろんな理由があったと思うんですけども、同じ地域に住んでいなかった、ということがあって。私が住まなかった、ということではなくて、配慮されて、住宅が別にあって、それでいいか、と思ったりしたところが過ちの始まりかなあ、と思うんです。亡くなる人もごく僅かで。
 
斎藤:  簡単に云えば、閑だったんですか?
 
徳永:  簡単にいうと、凄い閑。雨の日は婦長さんが、「雨だから来ない」って。そうかも知れない。明くる日は晴れたら、「こんな晴れたら、洗濯して来ない」と。とにかく来なかったんですよ(笑い)。それで鳥取の方に帰りたい、という気持が加速された感じですね。
 
斎藤:  ということは、やはり医師としての初めての第一歩として、「閑だった」ということは、どういうことだったんでしょうね。
 
徳永:  挫折でしょうね。閑なほど苦しいものはない。そのとき思いました(笑い)。
 
斎藤:  そうでしょうね。
 
徳永:  その後、けっこう忙しい時に、フッと甦るのは空白に近い二年間の閑の日々が、あれより増しだよ、この忙しいのわ、という(笑い)。おかしいものですね。何が支えになるか分からない。
 
斎藤:  それは土地の先生でないことも、患者さんの方にある。
 
徳永:  大きかったですね。やっぱりその地に住んでいて、普段から相談にのったり、やれることをやったりというのでないとね。そこは反省して、自分が此処に骨を埋めるという気持はもっていませんでしたから、鳥取の方をその頃から思い出して、向いていたんですね。
 
斎藤:  「故郷への志向」と云いますか、それがその頃芽生えたということなんですね。
 
徳永:  ええ。前から思っていたんですけども、「帰らねばならぬ」と。誰も求めていないんだけど(笑い)。
 

 
ナレーター:  徳永さんが、故郷への思いを強めたもう一つの大きな理由がありました。大学時代に、徳永さんは岡山県にあるハンセン病の療養所「長島愛生園(ながしまあいせいえん)」を訪ねました。そこで故郷から引き離された、鳥取出身の多くの元患者に出会ったのです。昭和の初め、ハンセン病患者を施設に収容し、生涯隔離する政策が始まりました。戦後、特効薬が開発され、病気が治った後も、隔離は続きました。故郷への強い思いを抱きながら、施設で暮らす元患者たち。徳永さんは、その声を聞き、一冊の本に纏めました。
 

徳永:  学生時代に、「長島愛生(あいせい)園」に初めて行くんですけども、行っていろいろビックリすることがあったんです。その中の一つは、鳥取県出身の人たちがいらっしゃった。自分が高校生まで過ごした鳥取では、会うこともなかった人たちが、隔離収容されておられたというのはショックだったんです。私は、学生の時に山陰線の列車のデッキに新聞を敷いて、故郷に帰るのがなんか楽しかったんですね。帰郷して行く。でもフッとその時、私にとっては楽しい帰郷だけども、ある日の夜中に、患者さんたちは列車で愛生園に向かって故郷を追われ収容されている。その図を自分の中で重ねて見た時に、自分にとってだけ、故郷が懐かしい場であればいい、というわけにはいかない。あれだけ好きであろうと思われる故郷を、無理矢理に離せさせられた人がいる、という。そのことを知って大きなショックだったですね。で、医者になって、鳥取に帰ってきました時に、あの故郷の人たちのことを、聞き書きをしておきたいと思いまして、当時の院長先生に、「一ヶ月だけ休みを下さい」と云って、テープレコーダーを持って鳥取出身の人たちを訪ねて聞いたんです。私は聞くだけの意味のあることだ、とその時思いました。だって信じられない。一つの病気であったために、家族から引き離され、故郷から離せさせられる。そして一生帰られなくなる、という。それが理解しにくい出来事で、一人ひとりを訪ね歩いて聞かなければいけないと思いましてやったんです。強烈な言葉は、「徳永さんの鳥取弁、懐かしいからなんでも喋ってくれ。私も鳥取ですけど、場所は云いません。あんまり詳しく喋ると家族のことがばれたらいけんので」。でも、「東部地方です」とか、「西部地方です」とか、「大山の近くです」とか、まあおっしゃりながら、「その鳥取弁が懐か しいから喋ってくれ」とおっしゃるんです。みんな私に聞いたのは、「大山(だいせん)はまだありますか?」って。その質問にビックリしました。一々確認していないけど、あるに決まっているだろうなあと思って。「鳥取砂丘はまだ残っていますか?」って。「天神川(てんじんがわ)は流れているでしょうか?」と云われて、そのことにビックリしましたね。難しいことは誰も聞かない。懐かしい故郷の山・川について聞く。それがジーンとしたことだったんです。
 
斎藤:  故郷(ふるさと)と病んでいる人との関わりというものは、どういうふうにお感じになるんですか。やはり故郷というものがもっている強さみたいなものですか。
 
徳永:  私なんかは甘っちょろくて、「故郷は懐かしいな」「友だちがいたなあ」「風景も懐かしいなあ」ぐらいで、無理矢理離された人にとっては、とてつもない、私なんかの何倍もの強い力で、故郷(ふるさと)というのがかえってくるみたいですね。天気予報を見ていたお爺ちゃんが、よく物忘れするようになって女房に怒られる。天気予報を見ておって、「お、明日は雪だぞ。半纏(はんてん)出せよ」とお母さんに云うと、「お父さん、呆(ぼ)けて。明日(あした)晴れって出ているでしょう」と云われるんです。「それは、お前、見ているのは岡山だから。儂が見ているのは鳥取だぜ」と言っている。冬だから天気は反対なんです。あの話もジーンとくるんです。「歳をとりますと、かえって故郷のことをハッキリ思い出すんですよ」と、みんながおっしゃるのを聞いていて、また私なんかとは故郷への思いの強さなんか比べものにならんのですね。
 

 
ナレーター:  生まれ育った故郷。そこで医療を行うことで、新たな道が開けるのではないか。徳永さんは、昭和五十三年、二十九歳の時、鳥取へ帰りました。市の中心部にある鳥取赤十字病院で、徳永さんは内科医として勤務しました。患者も少なかった大阪の診療所時代と違い、休む間もなく仕事に追われる日々。しかし、故郷(ふるさと)の人々と接することの中には、言いようもない充実感があった、と言います。
 

 
斎藤:  最初は大きな病院に勤務される。そこでお感じになったものは?
 
徳永:  ええ。友だちがいたり、友だちのご両親がいたり、知っている店のおじさん、おばさんが患者さんだったりすると、医療が、教科書から病気が飛び出てきたというんではなくて、知っている面々、顔ぶれの中に、例えば、胃癌という病気が入ったり、子宮癌というのが入ってくるという感じで、それで、あ、学校で習っていた─学校も意外とサボっていてあまり行かなかったんですけど(笑い)─習っていたその病気は、具体的にこの人の中に出てくるか、と思って、そういう納得のし易さがあったんです。ハンセン病の場合もそうだったんですけど。故郷の人が病気を病んで、悲しい思いをしているのを、私は同じ同郷人として、ほっとけない気がするな、という。だって、「故郷の人が悲しんでいるんだぜ」と、自分に言い聞かせるようにして、この病気から自分は無関係とはしまい、と思ったんです。それを、「方法としての故郷」と自分で付けたんです。病気の場合も、「癌の患者さんがおるわなあ」と。「癌の生存率はこれこれ何年だわなあ。何パーセントだわなあ」と言わずに、あのお店のおじさんの中にこの胆嚢癌はあるんか、というと、胆嚢癌はほっとけなくなるんですね。と、いうふうにしよう、と思った。
 
斎藤:  それが、「方法としての故郷(ふるさと)」という。
 
徳永:  いや。私は、「物事を自分のことにするには、どうしたら出来るのだろうか」という気持があったんですよ。抽象的、普遍的問題として論ずるのは、どうも出来なくて、哲学的にいろいろ論議したり、或いは文学をいろいろ読んでいるというよりも、自分がほっとけない感じがする方法にしておいて、初めてそこが自分に身近になる、というか、それでないとなんかこなせなかったんですね。そういうある意味では、要領の狭い考え方をしていたんだ、と思うんです。そのために、「故郷を方法として、自分の問題になるようにしよう」と。「故郷であることはなるべくすべてを自分の問題になるようにしよう」と思ったんでしょうかね。
 

 
ナレーター:  大病院で働き始めた徳永さんは、毎日のように患者の死と接するようになりました。当時、医療現場で大きな問題となっていたのは、「癌を告知するかどうか」ということでした。どちらを選択すれば、患者や家族のためになるのか、徳永さんは悩みました。
 

 
徳永:  私は、癌の患者さんに、「癌と言っちゃいけない」と、先輩から最初教わりました。で、最初の患者さんには、「癌じゃありませんから。癌じゃありませんから」と、そればっかり言っていたら、ある時、その患者さんは私を睨んで、「またいい加減なことを! 私は死にます!」って怒鳴られたんですよ。それで、その頃からだんだん医療の場も変わってきて、癌の患者さんが、「癌と知る時代になった」と言われる頃でした。ある患者さんが、「癌なら癌と言って下さい」と。それは鳥取へ帰った時でした。「お、鳥取も進んでいる」と、コンプレックスの固まりの私も思ったんですね。その方は、「長い間民政委員をやってきましたから、癌なら癌と言って下さい」と言った人で、どういう関係があるかなあ、と思った人なんですが、とうとう癌細胞が出たので申し上げますと、「わあっ」と目の前で泣かれたんです。泣いた理由を、「言われて泣いたんじゃない。自分の母は、弟を生んで産後の肥立ちが悪くて、自分が三歳の時に死んだから、ずーっとその後も、お母さん≠ニいう言葉だけしかなかった。いま先生に癌だ≠ニ言われて、あ、死ぬ≠ニ思ったら、天国にいる母が浮かんできて、泣いた」って言われたんですね。私はなんか言わねばよかったかな、と思っていたんですが、看護婦さんの記録を読みますと、冬の夜、その方の部屋に入ると、
    
夕刻、もう暗くなっていたので、明かりをつけましょうかと尋ねると「いいぇいいです。いずれ電気のない国行くけぇ、いいです」と言う。」
 
と書いてありました。「癌と言え」とおっしゃったのに大変暗いんですよ。言わねば良かった、と思ったりして。私は、「どっちが正しいんだろうかなあ」とその頃思っていました。「どっちかが正しいのか」と思っていたんです。でも、「どっちが正しいということではないのだ」ということを、また臨床にいると教えられました。その人は山陰海岸で民宿をやっているおばさんだったんです。夫婦で、「癌にならんように」と言って、タンポポのお茶を飲んでいた人です。春はワカメ採りに海に行き、秋はタケとりなんか採り行き来しているうちに病気になられて、私の病院に来られた。診ると進行胃癌だったので、手術を勧めると、「大阪の病院に、娘が働いている」と言って、そこで手術を受ける。術後、ロビーでその方が、ご主人に、「いけなんだかぁ」聞くと、ご主人が、「なあ、タンポポのお茶を飲んどったのになぁ」。「ほんとかぁ」と言って、その事実を知られた、というのを後で聞くんですね。すると、そこでは告知とか、宣告とか、そんなのがあったかというと、そうじゃなくて、いけなんだかぁ∞タンポポのお茶飲んでおったのになぁ∞ほんとかぁ≠ニいう。その三つの言葉のやり取りで、大事なものが伝わったということを知った時に、偉そうに、「医者として癌を告知すべきか隠すべきか」という問題ではないんじゃないか、と教えられた。いろんな形がある。いろんなカードがあって、どれでなければならない、ということはない。「一つ正しい答えがある、というわけではない、というのがどうも臨床だなあ」ということを教えられたんです。今思えば、そんなことは当たり前である、と思うんですけども、それまで分からなかったんですよ。先輩は、「隠せ」というから、「隠すのが医者の倫理だ」とずーっと思っておったけども、ある時からは、言うことがこういう時代では当然だ、って。言うとなんかトラブルんですよ。で、一つにしようと思った自分が、臨床で上手くいかなかった。それは別の言葉でいうと、「必ずし もそうとは言えない」という言葉が、いろんな場面でいきていく、というのが、臨床だし、それから死の場面でも、「必ずしもこれでいい」ということは言えないだらけなんですね。だから、「まあ面白い」というと、また語弊がありそうなんですけども。ほんとに、「じゃ、何に」と言われると、温かい心をもって、その場に対応する。私たち、医療者スタッフにしろ、ご家族とかあって、そこで、「どうしましょう、どうしましょう」と言っている限り間違うことはないんです。告げようと、隠そうと。一番大事なものは、「告げるのか、隠すのか」というところが大事じゃなくて、温かい心を持った医療者と家族たちが、本人の周りで、「どうしよう、どうしよう」と、言っていれば、道は出来るんです。その道は、その時々に違うので一つじゃないんです。それだけのことなんですね。いろんなことはそれだけのことなんですよ。だから、その道はどうやって出来るか、というふうにして、みんなが集まって、偉そうぶらずに、なるべく温かい心を持ちながらいろんな場面でやれば、自ずときっと道は出来ていく。道作り、チーム作りなんでしょうね、大事なことは。だのに、気が付くと、「道は最初からコンクリートの高速道路、これっきり」となんか決め付けかかっていた。
 
斎藤:  ですから、その時もそのご夫婦が会話したのは、難しい言葉でなく、暮らしの言葉の中で、見事にしてしまった、ということですね。
 
徳永:  その時に、そうだったのか。それは、「告知」でも、「告げる」でも、「宣告」でも、「伝える」でもなく、「伝わる」ということだったなあ、と思った。「伝える」と「伝わる」は、どう違うか。「伝える」は他動詞だ。「伝わる」は自動詞だ、とその時思いましてね。「ああ、そういう自動詞の世界が、告知という問題の中にもあったんだ」と思った時に、なんか世界がちょっと変わってきましたね。
 
斎藤:  たくさんの死に出逢って、一番感じられたことはなんですか。
 
徳永:  「死って面白いなあ」ということでしょうかね(笑い)。「凄いなあ。人間って凄いなあ」とか。いろいろありますね。自然の摂理に畏敬心をもつということもありますし、人間に敬意をもつ、ということがありますし、人間って立派なんだなあ、というようなことも感じることがありますね。「死って凄く豊かである」ということです。ほんとはいろんなものをもっているんだ、という。
 
斎藤:  豊かですか?
 
徳永:  死が教えてくれるものは豊かであって。死んで逝かれる人の様もさまざまだ、という豊かさもありますが、死というものが、私たちに教えるものは豊かなものがある、と。
 
斎藤:  亡くなる方の表情なんかを見て、高校生の頃は、「手を握って」ということをお考えになったようですけれども、感じることがありますか。
 
徳永:  亡くなる表情はみんないいね。下顎(かがく)呼吸という呼吸があるんですけど、亡くなる時に、呼吸をしながら、みなさんが最後を迎えられるんです。下顎呼吸は、私は好きでして─「好き」という言い方はおかしいんですけども、そういう呼吸しながら、この世を去って逝かれる。どういう筋肉かなあと思うと、日常元気な時は、噛んだり喋ったり、日常に使う筋肉を使って、人はこう終わっていくんですね。死って、そういうものか、と思って、多くの人が別に習っているわけでないのに、その呼吸をされながら、最後の空気を地上にフッと戻して亡くなられる。似ているようなんですね。やっぱりその時の表情というのは─身体は無抵抗でありますけれども、表情としても無抵抗ですね。なんかに大きな声を出すとか、あがらうとか、逆らうとか、というようなことなく、踏まれても蹴られても石を投げられても、「どうぞ」という、その鷹揚な態度が、「わあー、凄いなあ」という。人の態度で凄いなあと思うのは、その時もそうですけれども、私が心理学の本で教えられたのは、「生後、三、四ヶ月、無差別微笑期≠ニいうがある」というものです。その時は、どんな子も生後、三、四ヶ月は、人さらいが来ても、鬼が来ても、盗人が来ても、ただニコニコとしている、って。それが傑作でしてですね。ああ、それは素晴らしい。目の前に大変恐いものたちがいるわけです。でもその生後、三、四ヶ月の子は、無差別に微笑しているわけですね。なんかちょっとボケた子みたいというか、脳天気な子みたい。そういう態度っていうのも憧れでしてですね。そういう態度を取り戻すことが出来たら。私たちの過去に誰もが、生後、三、四ヶ月そうだったわけですね。だんだん大人になっていくうちに、そういう阿呆なことは出来ずに、真剣に社会と向き合っていくわけです。すると、消えている。あの消えた無差別微笑期を戻すことが出来ないんだろうか、なんていうこと─自分がですけどね。患者さんには要求出来ない。その無差別微笑期の表情と、それから亡くなった最後の無抵抗な姿と、なんとも言えぬ、ぼあっとした表情ですね。例えば、終わりだということが分かる時は、大変緊迫しますけれども、そういう時でさえ、「癌がきた」「癌になったんだなぁ」というような捉え方が、我々に出来たらいいなあとかですね。癌が骨に転移しているというと、また悲しいことですけれども、ニコッとして、「痛み止めはあるしなあ。ばれたら頑張ろうか」とかですね。死がたといきた時も、それは患者さんには要求出来ないけど、自分に、ということでいうと、「あ、来たんか、もうちょっと遅れればいいのに」と思いながら、ニコッと出来たらいいなあ、とかですね。よく言われます。「先生って冗談みたいにして、ほんとのことを言うんですね」とか、なんか言われる(笑い)。
 
斎藤:  笑みもそういう意味であれば上手く受け止められるということがあるかも知れませんね。
 
徳永:  そうですね。私は真面目に死ぬことだけを捉えて、苦しい、と思っていて、笑いながら、茶化しながら、でも深刻になりながら、どっちみち向かわざるを得ないことですけど。そうして、死と付き合ったり、捉えている方が―ほんとはあって欲しくないものですけど―厳然たる事実として、目の前にあるものに、より全体を見れるように関わるんじゃないか、と。真面目に、「こんなものはあってはならない」といって、硬くそのことを見ると、「死がもっている意外と豊かなものも見えずにしてしまうかも知れない」ということがありましてね。

 
ナレーター:  人間は死とどう向き合うのか。五年前、徳永さんはネパールへ旅し、そこで暮らす人々の死との関わり方に強い印象を受けました。亡くなった人は、家族の手で川べりの火葬場に運ばれます。遺体が焼けていく様を、家族だけでなく、道行く人までもが、自然に目にする。そこでは、死が人目に触れないところにあるのではなく、日常の中に溶け込んでいたのです。
 

 
徳永:  ネパールで見た死は、死が近付くと、ガンジスの川岸に来て、木材を積んで、そこにお母さんの遺体を置いて、焼いていく、という。それでお母さんがグラッと焼かれて、脳が融けていたりするのを泣きながら見ている。それなんか男性しか参加出来なかったようですけれども。で、最後には、花とお米を添えるんですね。それは日本と似ているなあ、と思ったんです。そういう目の前で、遺体が焼かれていく。ゲートの上で焼かれていくのを見ると、私はなんか清々しい気がしてですね。
 
斎藤:  町中ですか?
 
徳永:  町中からちょっと離れています。
 
斎藤:  でも、それで人が見られる?
 
徳永:  見えています。その下では顔を洗っている人がいらしゃったりするから。生と死は一体の中で、亡くなった大事な母を、泣きながら焼いていって、後、骨を拾ったりして、ゾッと拾って、ドッと流していましたね。ああいうのを見ますと、生きていること、死んでいること、ということは、自分の心の中に入っているようで、やっぱり凄いというか、天晴れだというか、私もそういう実感を、私たち日本人はやっぱり心にした方がいい。あまりにも隠し過ぎて、老いるということも、病んで、死に瀕することも、死体そのものも、骨も、なんか分からないところにあるというのはよくなくて、動物の体の一つ一つが、自分の中にもあるし、そしてそれは火に焼かれて朽ち果てていくことにもなる。そういう意味であるということを─これ事実なもので、その事実から遠ざかることがなんでそうなっているのかが分からないぐらい、忌み嫌い避けるというふうにいうんですけども。そこを避けては一番いけないところで、事実をやっぱり見るというのが凄いと思いまして。インドにしろ、ネパールにしろ、そういう原点はもっているので、あれには負けたぜ、という感じでした。
 

 
斎藤:  ボランティアの方が・・・此処はベッドのままですね。患者さん、寝たままベッドから下りてきて、グルグルグルッと回って、
 
斎藤:  屋上へ来られるという。
徳永:  ええ。夜、月や星が見えるようになっているんです。
 
斎藤:  そういうことになっているんですか。
 

 
ナレーター:  街中に立てられた「野の花診療所」。患者はいつでも見慣れた街 並みや自然の風景を楽しむことができます。
 

 
斎藤:  ほんとに住宅地の中なんですね。
 
徳永:  だから迷惑かけないようにしなければいけなんだけども、なんか気易さがありましてね。暮らしの場にある。
 

 
ナレーター:  集団生活の中でも、一人だけの時間を持ち、ジーッと生と死を見つめることに大きな意味があると、徳永さんは考えています。
 

 
徳永:  瞑想の部屋なんです。
斎藤:  瞑想中の場合はこの札を出すわけですね。
 
徳永:  人が入って来てはいかんのでね。こう坐ったり考えごとをするんですね。
 
斎藤:  小さい椅子がありますね。
 
徳永:  此処へ坐ったり。
 
ナレーター:  週に二回開かれるお茶会。患者と家族。診療所のスタッフやボランティア。そして、亡くなった人の遺族も加わって楽しみます。この日は、参加者それぞれが、七夕についての想い出を話しました。「野の花診療所」のスタートから半年で、二十六人が世を去りました。誰かが亡くなると、その人の想い出をみんなでざっくばらんに語り合います。一人ひとりが、生と死を野の花のように、自然に受け止めます。
 

 
斎藤:  でも、「死というのは面白い」というと怒られるかも知れませんが、でもたくさんの死をご覧になると、ある意味でやはり悲惨であり無惨である、ということもあるでしょうね。
 
徳永:  ええ。みんなが泣くもんね。やっぱりあったものが消えると淋しいですよね。悲しくなるし。今、私が一番大事だと思うのは、個性というか、その人のやり方というのが見事だ、と思っているんです。それを気を付かせたり、鋳型に填る文化が一番貧弱だ、と思うんですよ。だから、胡蝶蘭やカサブランカがいくら美しく立派でも貧弱なんですよ。それよりも野の花は汚そうで、売れないから金にならないけれども、非常にフッと見事な小さく咲くものがあったりすると、個性ですよね。「個性こそが命」の意味でして、私たちが命を与えられたそのことにお返しすることは、「個性的に自分の命を終えて、この世に感謝して去る」ということであって、その時代の鋳型に自分を合わせてこの世を去れ、ということは、サラサラないんですよ。
 
斎藤:  今、死すらも鋳型に填めがちですか?
 
徳永:  だって、亡くなった葬式は大抵葬祭センターがやるから、鋳型ですしね。死以降ほとんど鋳型になりやすいし、死の直前の病気の形も鋳型に近いですし、病気の治療は─此処もマニュアル(manual)というのが要るので、私もある程度鋳型を認める場合があるんですけど、診断が決まり、何々の治療をして、という。この辺は私も少し鋳型派なんです。でも、その辺が済んだ後は、野放しにすべきだと思うんだけど、誰も野放しを望まないし、「野放しでいい」とも言わないから、みんな右往左往するんですよ。そして、死を迎える。誰もが、「死ぬなんて聞いていない」とか言って、勿体ない話ですね。
 
斎藤:  勿体ない?
 
徳永:  折角の死までにあと一年あるかなあという時に、怯えて、「治るところはどっかないか」と言って、一年間を治ることだけに費やして、治らなかったら、「そんなの聞いてなかった」と。それよりも一年間に思い切りのチャンスがあったら、自分の個性を発揮できるチャンスなのに、と思う。
 
斎藤:  その場でこうありたいわけですね。出来るだけ自由というか。
 
徳永:  自由。個性をもって。「なんで自分は生まれてきたの? 何をする気だったの?」って。これを毎日でも問われてもいい問いですよね。でも、みんなこの問いを抑えて、今を生きてしまう。
 
斎藤:  この野の花診療所は、これからどいういうふうに? 今始まったばかりのところで、ちょうど飛行機で言えば、上昇中だと思うんですけども、進路はどういうふうに向かっていくんでしょうか。ご自分でどうお考えになりますか。
 
徳永:  あまり大きなことは言えないんですけれども、日常の生活の中にあるさまざまなことが─例えば、あそこにレストランがありますけども、近所のおばちゃんたちが、一人暮らしの人が弁当を買いに来たりして、井戸端会議のように話して行ったりとか、まあ此処だって、子どもたちがお見舞いに来たって面白い、と思うんですけれども。なんかこの暮らしの場に解放されたところであって、それぞれがもっているいろんな問題を、私一人では無理なので、心理的な療法士がいたり、カウンセラーがいたりして、「それは一体どういうことかいね」という。ひとつひとつを親身に聞きながら、現代がどう病んでいるか、をみんなが感じながら、自分は自分で楽しく生きれる方法を考えていけたら。やっぱり小さな治療の共同体ですね。病とか老いとか、死というものを見据えながら、どういう手助けをお互いに出来ていくのか。その縁によってそれぞれの人生は、それを知らない時より、どれだけいいものをもつか。「豊か」というとちょっと傲慢かも知れないので、よりよくなるか、ということにまあ挑戦してみたいなあ、と。
 
斎藤:  医療といえば、基本は言葉なんでしょうか。器械の前にあるのは?
 
徳永:  言葉は不思議ですね。私は時間があって、ゆっくり喋ろうと決めていますと、決めたことが相手にはばれてしまいまして、相手は、「今日、先生はすぐに逃げないな」というのが分かりますから、もう始まる前からフッと構えているんです。そして語り始める、というのがまずあります。そして話していくうちに、自分は逃げない。聞こうと思っていますと、その人の生まれ育ちとか、その人が思っていることとか、家族のこととか、戦争体験の話とかがビンビンきます。その人にとっての確信のような言葉を話されることがあって、そうだなあ、と聞こえてくると、その人がよく描けてきますので、アッという間に親しみを覚えることがあります。親しみであったり、敬意であったり、おもろい人やなあとか、でたらめな人間や、すごいなこのでたらめは、と言って感動したりとかね。そういうふうに、こちらがそう構えて、向こうが話されていくと、なんかできあがるんですね。それは私の根本にあるのは、「人間って面白い」。さっき「死が面白い」と言いましたけど、一人ひとり、みんな面白いんですよ、どんな人でも。そして、不思議な心が流れるという現象ですけど、それはあり得る。あまり忙しくしているとないんですけども。思いを込めれば、人と人の心は流れていく。そして、死という悲しみというのがありますけれども、それさえも多くの人の努力で、悲しみが無くなるとは言えませんけれども、違った平原に出て、死さえも捉えられる。そうしてこういう時間を与えられたそのことをお互いに感謝出来るということがあると思いますね。そこが好き、と思いますし、そこの方が真実に思える、というようにも思えるし、その方が自分には合っている、と思っている。で、スポーツ選手なんか好きなんですね。バアッといろいろやっていますけども、ダメになっていくでしょう。引退していきますよね。臨床も似ていまして、医者はけっこう長く、厚かましくやりますけど、もうやってやれんようになって下りていく。なんかそういうのが自然な気がするんですね。現場でできる限り、やらない限り自分は発言できない、という。自分の言葉にならないという、そんな感じがします。
 
斎藤:  どこまでも臨床で生き続けるという。
 
徳永:  勿論、此処以外には誰も雇ってくれない(笑い)。
 
 
     これは、平成十四年九月二十二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである