平安な日々の訪れを
 
                       タケワキスタジオ社長 竹 脇(たけわき)  義 果(よしみ)
                       ききて(アナウンサー) 道 傳  愛 子
 
ナレーター: 東京六本木で、貸しギャラリ ーを経営する竹脇義果さん。 展覧会が終わった後のスペー スに、祖父の代から孫まで五 世代、百年以上に亘る家族の 作品を飾ります。新年を家族 と共に迎えようという思いか らでした。今、竹脇さんは、 家族の作品を見ることが出来ません。四十歳半ばで視力を失い、左目に微かな光 を感じる感覚しか残されていないからです。竹脇さんの脳裏に描かれるのは、か つての絵の記憶と、毎日の仕事を通して身体で掴んだこの空間のイメージです。 この日、家族の作品展の真ん中に掛けられたのが、父・竹脇昌作(しょうさく)さんの版画でし た。父・昌作さんは、ニュース映画のナレーションやラジオのパーソナリティと して、戦後一世を風靡した名アナウンサーでした。その独特の語り口は、「竹脇節」 と呼ばれていました。
 
     (竹脇昌作さんのニュース映画の場面から)
会期を一ヶ月も残しながら、国会は、四月十日から自 然休会とあって、早くも参議院社会労働委員会では、 自民党が裁定賃金法案の質疑を打ちきりを行って一揉 め・・・
 

ナレーター: 昌作さんは、その人気からマダム キラーとも呼ばれ、何本もの ニュース映画やラジオの生放送を手掛けていました。しかし、 このニュースを最後に、竹脇節はマスコミの世界から消えてい くことになりました。過密なスケジュールのなか、緊張を強(し)い られる仕事を続けていた昌作さんは鬱(うつ)病となり、半年の闘病の のち、四十九歳で自ら命を絶ったのです。残されたのは、六人 の子どもたち。長男の義果さんは、当時大学生でした。翌年、 すぐ下の弟・真理(まこと)さんが脳腫瘍で亡くなるなど、家族の身の上には、その後も困 難が続きました。このギャラリーに、兄弟たちが集まり、父・昌作さんを偲ぶ会 が初めて開かれたのは、一昨年のことでした。突然の死から、四十二年の歳月が 経っていました。
 

 
道傳:  どうでしょう。お父さまの昌作さんは、四十年あまり前に亡く なられたわけですけれども、お元気の頃は、こうして作品が賑 やかに掛かっているように、大変賑やかな家族でいらっしゃっ たでしょうか。
 
竹脇:  そうですね。子どもは六人でしたから、総勢八人。もうそれは それは賑やかな家(うち)でしたね。
 
道傳:  一世を風靡した名アナウンサーでいらっしゃいましたから、そういった華やかさ、 賑やかさというのもございましたでしょうかしら。
 
竹脇:  そうですね。父が、世の中に知られるようになったのは、四十代過ぎてからです からね。ですから、亡くなる少し前ぐらい、ラジオでパーソナリティをやったあ たりからですね。
 
道傳:  ちょうど私たちの後ろに、お父さまの昌作さんの作品があるわ けですけれども。
 
竹脇:  あれは、父が版画が好きで、祖父が使っていた彫刻刀、けっこ う当時としては高級なものがあって、それを小学校の時に借り たことがありましたね。学校の機関誌の表紙を作るために彫っ たものなんです。何枚かあったんですけどね。家に原画として あるのは、この作品だけだったものでね。たった一枚ですね。
 
道傳:  当時、お父さまは自ら命を絶たれるという、自殺自死という形で亡くなられたわ けですけれども、お父さまの「昌作さまを偲ぶ会」というのが開かれるまでに、 その四十年という歳月を待たなければならなかったわけですよね。
 
竹脇:  そうですね。亡くなって間もなくは、そういう記念会をやるという気持には、家 族の者は誰もならなかった、と思うんですよ。家はキリスト教なものですから、 法事というようなものが無いんで、それをいいことに、月日が経って、「いやぁ、 一回も記念会、そう言えばやっていないなあ」と思ったら、もう四十年経ってい たんですね。私がこのギャラリーをオープンさせたものですから、その企画の一 つとして、最初に思い付いたのが、そういう父のニュース映画 を─今、もう映画館へ行ってもないんですけども─動く映像の 展覧会というか、彼の声ですね─あの独特のナレーションが、 まだ耳に残っている方がたくさんいらっしゃるもので、けっこ う面白い会になるかなあと思って。四十数年経って、初めてそ ういう「父を記念する会」を開催したのは、家族にとっても、親類 や知人たちもとても喜んでくれましたね。まあ気持の整理とい うか、よく言われるんですけれども、そういった気持が家族の 中には、そういうふうに思ったんじゃないかなあと思いますね。 ここ数年、日本の自死、自殺の数が三万人を越えたということ がニュースになるような時代で、自死というものが社会問題に なる、それから残された家族の心模様に至るまで社会問題にな るような時代ですので、みなさんもその辺のところというのは、 世間が理解するようになってきたんですけども、当事者として はほんとに重いものでしたよ。
 
道傳:  残されたご家族というのは、どういう気持の中にいらっしゃったでしょう。
 
竹脇:  まあ複雑な気持になりますよ、突然ですから。まあ見捨てられたというか、そう いう感じもありますし、屈辱感もあるし、非常に孤独な感じもある。一人ひとり が、兄弟周辺はみんなそういう気持になりますね。
 
道傳:  屈辱感というのはどういう意味での屈辱感なんでしょう。
 
竹脇:  何でそんなふうにして自分で死ぬんだ、という。立派な死に方とかなんかってあ りませんけどもね。自ら命を絶つことに対する一般的な思い、というか、その人 の気持を察することが出来なければ、そういう思いというのは、当然子どもには 襲ってきますね。
 
ナレーター:  父の死の翌年、十八歳で亡くなった弟・真理(まこと)さ んは、一冊の日記を残しています。そこに記(しる)さ れた病に苦しむ父に対する義果さんの態度への 疑問。それは歳月を超えた問い掛けとして、今、 竹脇さんに響いてきます。
 

竹脇:  あの頃は、ほんとに何で我が家に次から次へと、こう試練が襲ってくるのかな、 というふうに思いましたね。
 
道傳:  その時の真理さんの日記が私たちの手元にもありますけれども、真理さんご自身 の闘病のご様子ですとか、或いはお父さまが病に苦しまれている様子などについ て細かく書いてあるんですけども、竹脇さん─お兄さまについて、けっこう厳し い眼差しで見ていらっしゃるんですね。
 
竹脇:  ええ。
 
道傳:  ちょっとご紹介させて頂きますけども、その当時のご家庭の様子ですね、
 
我家に於ける艱難のことだ。もう幾日にもなるのにお やじが少しもよくならない。今、彼には何が必要であ るのか? 彼はなぜなおらないのか。兄貴に聞く。今日 はおやじをずい分責めていたようだ。俺にはそのよう にしか感じられなかった。同じことばをいうのにも響 きがある。微妙な差で、励ましにもなり、逆効果にも なる。あんな頑固なおやじ、わがままなおやじ、自分 かってなわからずやのおやじに、いくらおだやかなこ とをいったってわかるかといいたいところか。結局は自分さといいたい ところか。いやそれよりも前に「おれはおやじのためを思ってやってる んだ」というかもしれない。たぶんこれが当っているだろう、もし兄貴 のことばで彼が本当によくなる確信があったら続けてくれたまえ。「おや じは、自分の病を自分でますます悪くしているだけじゃねえか」と君は よくいうね。兄貴は、重い重い、つらいつらい病によく耐えしのんで、 くることができた。兄貴はこれを何のおかげと、何の力と考えますか。 兄貴はクリスチャンだから、それにふさわしい答えを期待します。「何、 いうか。俺が自分でつちかった力ではないか」とはいわないでしょうね。 そのつちかった力は神様から来たのですから、そして父や母や姉や仁美(じんみ) や恵美(えみ)の小さな祈りを通して与えられた力なのですから。
(『勇ましく高尚な生涯』より)
 
竹脇:  この本(『勇ましく高尚な生涯』)が彼が死んで、翌年で出たんですけれども。何 度か読んだ筈なのに、その当時、今聞くほどの印象はなかったんですよ。あんま りいいことは書いていないな、というのは覚えてはいたんですけれども。去年こ の本がまた復刊されて、今度は私はテープで聞いたんですけれども。いやぁ、驚 きましたね。
 
道傳:  どういうふうに驚かれましたか。
 
竹脇:  いやぁ、十六歳、十七歳の弟が、私のことをこんなところまで見抜いていたのか な、というのがね。ここに書いてあることはもうほんと私が自己中心というんで すかね、自分のことしか考えていない。だから父の病気にしても、その病気の者 の立場に思いがまったく立っていなかった。だからここに書いてあることは、今 はワン・フレーズ、ワン・フレーズが、「あ、その通りだな」という。「その通り だった」という。その通りのいうのは、「自己中心の人間だった」ということです よね。「父がほんとによくなることを願っていた」というよりも、「あなたが悪い んじゃないか」というようなね。ただ、最近気が付いたんですけども、「自己中心」 という、「自己中心との闘い」というのかなあ。「自己中心」というのは、「自分 が自己中心だ」ということを全然分からないんですよ。気が付かないで五十年位 ─そうですね、五十歳越えてからですかね、自分が、「これはおかしいぞ」という ことに気が付き始めたのはね。自己中心というほど、始末の悪いものはないです よ。

 
ナレーター:  父が元気だった頃の竹脇家の兄弟。亡くなった 真理さんと義果さん、そして三男の無我(むが)さんは、 特に仲がよい三人でした。父の死後、同じアナ ウンサーとしてラジオ局に就職した義果さん。 しかし、眼の病気が悪化して、二十九歳でその仕事を断念せざるを得ませんでし た。弟の無我さんは、父の友人の紹介で映画の世界に入っていました。ラジオ局 を辞めた竹脇さんは、無我さんのマネジャー、そしてプロジューサーとして隆盛(りゅうせい) を迎えようとするテレビドラマの世界に乗り出していきます。
 

 
道傳:  弟さんの竹脇無我さんを、「俳優に」というのは、それはどう いう思いからのことだったんですか。
 
竹脇:  それは、映画会社に所属していましたからね。私がちょうど会 社を辞める頃に、だんだんと彼も出演回数が多くなってきまし て、まあそれこそもう一度─父の世界は放送の世界ですですけ ど─映画の世界も大きくいえばエンターテインメントと言いま すか、その世界でもう一回何とかならないかな、というふうに 思いましたね。
 
道傳:  「何とかならないかな」とおっしゃるのはどういう?
 
竹脇:  「売れる」ということですよね。
 
道傳:  そういう時って、どういうふうに売り込むんですか。どういうふうにおっしゃる んですか。
 
竹脇:  「私はこういう者のマネジャーです。あの番組に出させて頂けないでしょうか」 ということですよ。もうそういう以外に言いようがないんですよね。
 
道傳:  写真とか経歴とかを持って、
 
竹脇:  勿論、そういうのを持ってね。それを渡すまでが大変ですよ。玄関で、受付で帰 されてしまうから。だからそういう方とお会いすることができるようになるまで が、ほんとに小さなきっかけを掴んで、その担当の方に会うチャンスを掴むわけ ですよ。まあどのセールスと言いますか、営業マンも、それはタレントであれ、 車であれ、何でも同じだ、と思いますけどね。
 
道傳:  その頃の断られても、断られても、という時でも、そんなに、「ああ、止めて終い たい」という、「辛いなあ」というのではなかったんでしょうか。
 
竹脇:  けっこうそれが好きなんですよ(笑い)。
 
道傳:  え!
 
竹脇:  変なですけども。いつの日か向こうから電話なりでオーダーが来る日を夢見て。 勿論、自分の持っている製品─私の場合には、「タレント」「人間」でした。「俳 優」でしたけども。その製品が良くなきゃ相手は買ってくれませんからね。その 努力と、全員がどのレベルだったら自信をもってセールスできるか、ということ で、そのことに一所懸命なる。というのは、夢見るのが好きなのか? だから弟だ ったけども、兄弟の関係というのは、凄く薄かったような気がしますね。タレン トと、俗にいうマネージャみたいな形で。自分では非常にクールな間柄で仕事を 進めてきた、と思います。
 
道傳:  まったく竹脇無我さんがその頃のドラマに出ていらっしゃたのはよく印象にあり ます。ホームドラマなんか随分盛んになりましたからね。その 陰には竹脇さんご自身が、そういうご苦労があったなんて知ら ずに見ておりましたけれども。
 
竹脇:  当時は、スターはセーリングをする。海に出て行くというね。 石原裕次郎さん、加山雄三さん、中村金之助さんとか。歌手の 方でも三橋美智也さんもみんな大きなヨットを持って。ちょう ど世代的に、私も弟も石原裕次郎さんはほんとに憧れのスーパ ースターでしたから、石原兄弟がセーリングをなさっている、 ということに憧れをもってね。僕らもセーリングが好きでした から、借金してほんとに石原さんと同じ大きさのヨットを作っ ちゃいましたよ。
 
道傳:  どの位の借金でしたか?(笑い)
 
竹脇:  あれは、当時のお金で二千万円弱ですがね。もう家一軒ですよ。 今、思えば恐ろしいもの。でもすぐ回収しました。
 
道傳:  あ、そうですか。
 
竹脇:  ええ。
 
道傳:  その頃のことを、今思い返されると、ご自分にとってどういう時代でしたでしょ うか。単にこうキラキラ輝いていた時代として思い出されますか。
 
竹脇:  いや、違いますね。一見そんなふうに思いますけれども。何ともちぐはぐなね。 アンバランスでしたね、いろんなものが。
 
道傳:  竹脇さんご自身、その頃三十代でいらっしゃいましたね。
 
竹脇:  はい。
 
道傳:  若くて成功を収めて、その頃、それは相当に気持のいいことで したでしょうか。
 
竹脇:  そうですね。自分はその時若いと思っていませんけれどもね。 今、思うと、ほんとに三十少し過ぎですから、それで、「ああいうことを、あんな 態度で」と思うとちょっと恥ずかしいですよ。だから、今思い出すと、ちょっと ちぐはぐな感じがするのかも知れない。数千万人が弟の出るテレビドラマを見る。 そう思うと、「茶の間で見て下さっている方のお陰で」というのがあるんですよ。 そうすると、どうしても現場できついことを、「こうあるべきだ」ということを、 私なりの思いで言う。それは脚本から何からバンバン言いました。言わないこと はなかったぐらいに。それは酷いものでしたよ。でもそれが当たると、また、「み ろ。僕の言った通りやったから」─そうじゃないんですけどね─「僕が言ったこ とで当たったじゃないか」。またそうなっていくでしょう。それがエスカレートし ていく。だから十パーセント以下にはならない、という。
 
道傳:  視聴率が?
 
竹脇:  ええ。全作品が十パーセント以下、ということはないんですよ。私が彼と仕事を していた時は一本たりとも、そういうのはなかった。だからそれが自信に繋がっ て、自信過剰というのもあったかも知れないですね。最後の方はもうテレビ局か ら、「頼む。作って納めて下さい」というような。それがまたヒットするでしょう。 だから、「私の思いは正しいんだ」と、どうしても思ってしまいますよね。「自分 は良かれ」と思ってやっていたんですよ。私の思いで、弟を、「こういうスター、 こういうスター」に。結婚すれば、「こういう家に、こういう家庭であるべきだ」 とか、「こういうタレントでいてほしい」という。もう一方的に私の思いでね。タ レントが、「こうしたい。ああしたい」と思っていることなんかは、多分無視し ていたんじゃないかな、と思いますね。
 
道傳:  仕事が乗っている時というのは、どうしてもそうなりがち、というのもあります よね。
 
竹脇:  そうですね。そんなところに実は大きな落とし穴がある。弟と、どうも仕事のこ とでなんとなく─相手にも家庭、連れ合いがいますから。そうした兄弟って、だ けではない─そんなようなこともあったりして彼との仕事は辞めたんです。
 

ナレーター:  一九七七年、竹脇さんは思い切った借金をして、六本木にコマ ーシャルようの貸しスタジオを建てました。失明の不安がある が故の決断でした。弟・無我さんとの仕事を諦めた義果さんは、 芸能界でのキャリアを捨て、新たな道を模索したのです。深夜 に及ぶ芸能界での仕事の無理が祟(たた)ったのか、僅かな視力が残っ ていた竹脇さんの左目の状態は、徐々に悪化していました。毎 朝の掃除は、置いてある物の位置を確認するための日課です。 手探りで始めたスタジオ経営は、景気が上向いたこともあって、次第に軌道に乗 りました。二十四時間営業でも、お客が途切れないほどでした。左目の手術を繰 り返していた竹脇さんが、最後の手術を受けることになったのは、そんな忙しさ の最中、四十二歳の時でした。
 

 
道傳:  いつかは失明してしまうかも知れないな、ということを抱えていらっしゃったら、 ちょっと毎日恐いような思いもなさったでしょう?
 
竹脇:  そうですね。朝、起きると、今でもそうですけれども、見えるというか、光りの 加減が、「あ、今日はちょっとなんか光りが違うな」とか、もう光一輪の中にある ようなですけど、「霧がなんか今日は薄いな」とか、「やけに今日は濃くて、もう ほとんど見えない」という。「明るいか、暗いぐらいだ」という、ごく一部のとこ ろしか、私の場合には光りを感じないんですけども。それでも、「今日の見え方 は」というふうに、苛(さいな)まれるんですよ、今でもね。「どうせ見えないんだから」 というふうに、なかなかこの僅かな残されたこの光りの部分もほんとに大きな頼 りになっているんですよ。だから、「光りが見えるか、見えないか」というのは、 人間にとって、これほど大きなことか、というのは。何かが見えて、判別できる とか、そういう問題じゃないんですよ。「光りがあるかどうか」というのが。明る い日差し─光りが、自分の目で感じられるというのは、幸せだな、と思いますね。 時々、霧が少し晴れるとまでいかないんですけど、薄くなる日があるんですよ。 そういう日はなんかうきうきしますね。
 
道傳:  今でも、
 
竹脇:  ええ。また翌日元に戻ってしまえば、「そうか」と。そうかと 思うと、もっと見えなくなることもありますから。これは人に 言っても仕方ないんで、自分だけでね。なんとなく元気が無く なったりしちゃうんですよね。「目の光り」だけでなく、「心の 光り」を失うと、やはり絶望に繋がってしまうから。だから、 「目の光りを失うと同時に、心の光りも失っちゃう」というの が怖いですね。これが絶望に繋がる。だから、心の光りと目の光りとは、ちょっ と別なんですよね。でもそこに至るまでにはやはり時間がかかりますね。
 
道傳:  これで最後の目の手術になるという時の、その時の気持というのは、どんな気持 だったんでしょう?
 
竹脇:  そう、あの時、悪い状態ではあったんですけども、まあ四十越えて、手術もまま ならないほど、緑内障が進んで、眼圧が高くて、手術がなかなか出来なかった。 で、あれどのくらいだったかなあ、一ヶ月位手術が出来ない状態が続くんですよ。 それは非常に良くない状況の筈なのに、そんな中で、ある日、これは不思議なこ となんですけども、何とも言えない落ち着いた平安な気持になったんですよ。だ から、「心がこんなに落ち着く平安な気持になる、ということが人間ってあるん だ」というのを、その時初めて体験したんです。身体が、心が、頭が。「ああ、人 間てこんなに平安な思いでいられるんだな」という。何故そうなったか、となか なかわからないんですけどもね。年齢的なものもあったかも知れないけれども。 信頼できるあの先生にお任せしていれば大丈夫だ、というね。委ねる、といいま すかね。会社もあの時はスタジオを始めて五年位経って、ちょうどあるボーダー ・ラインを越えたところに差し掛かっていましたのでね。会社のスタッフたちへ の信頼というのもあった、と思います。だから、いろんな意味で、「人を信頼して 委ねることが出来ると、こんなにも気持というのはゆったりするんだな」という のが、そこで体験出来ましたね。「自分が、自分が」と思っているうちは、やっぱ り心配なんですよ。「自分が」と言ったら、相手のことはそれほど信頼していない ことですからね。その時はやはりいろいろなストレスを人は感じるんじゃないで すかね。だから信頼して、「お任せする。委ねる」というのは、凄くゆったりする んですよ。心が平安になる。
 
道傳:  「完全に視力を失ってしまうかも知れない」という時に、逆に「気持が平安にな る」というのは、ほんとに不思議な体験ですね。
 
竹脇:  そう。あれは、自分の体験の中では特別なものでしたね。あの「心のあり方」と いうのを思い出すと、今でも安心しますね。「人間って、どんなところでも、心に 平安が訪れることがあるんだ」という。

 
ナレーター:  手術を受けても、視力は回復しませんでした。竹脇さんんは、 退院後、点字図書館の朗読テープを、何時間も聞くようになり ました。ドストエフスキーやトーマスマンなど、世界の文学を テープで読破し、やがて聖書の朗読テープを聞くようになって いました。結婚を機に夫婦で洗礼を受けていましたが、芸能界 での仕事が忙しくなるにつれ、教会への足は遠のいたままになっていました。二 十年ぶりに再び教会に足を運んだのは、竹脇さん、五十歳の時でした。そこで出 遇ったのが、新約聖書・ヨハネによる福音書の言葉でした。
 
あなたがたが私を選んだのではない
私があなたがたを選んだ
(ヨハネ十五章十六節)
 
この言葉との出会いは、その後の竹脇さんの生き方を大きく変えていくことにな りました。
 

道傳:  そうやって、その気持がご自身の信仰を、或いは教会というと ころへ向いた、というのは、どうしてなんでしょう。
 
竹脇:  どうしてなんですかね。それも大きなきっかけはないんですよ。 たまたま葉山の先に住んでいましたから、鎌倉に買い物に行っ て街にでる。その道のところに、鎌倉駅のところに教会があっ た。名前も知らない教会でした。「ああ、此処に教会がある。「此 処、駅から近いし、そろそろ教会に行かなきゃね」みたいな話ですよね。酷いも のですよ、それは。で、ある日、ある週、けっこう何十年も行っていないと、そ の週を迎える時って、「明日教会へ行くぞ」って、何週も思うわけですよ。確かに その週が来て、そこへ出掛けて行く、というのは、ほんとに「自分の思い」のよ うな、自分ではするんですけどもね。実は、今にして思えば、なるほど、「神さま の導き」というのは、いろんな形があるんだなあ。計り知れないものがね。私は、 「キリストを信ずる」ってね。「よく信仰に至るまでが、自分中心でいってしまう」 という、こんな怖いことはない。
 
道傳:  「信仰に至るまで、自分中心でいってしまう」というのは、どういう意味でおっ しゃっているでしょう。
 
竹脇:  「神さまの憐れみ恵みによって、我々は神さまを信ずる」ことが出来ている。だ から「教会にいく」というのも、「私が教会にいく」という。「私の足で、私が思 ったから、教会に行くんだ」というふうに思っていた。そうじゃないんですよ、 「神さまの招き」です。「神さまが招いてくれたからだ」と思い始めたのは、つい 最近のことですよ。情けないことにね。いつも家内と話すんですけど、「本来この 手のことに気が付くのは、大体十代半ばで、この手のことに、人間というのは気 が付くもんだよ」と。ところが私の場合には、その頃どんな思いで、そうしてい たのかね。人生楽しくて、しょうがなかったのかも知らないね。だからそういう 本質的なところに、気が付かないで、大人になってしまった。だから家内が熱出 して寝ていて、何だか分からないんだけどイライラする、というか、調子が悪い んですよ。寝ているということは、頭が痛いし、どっか痛かったり、具合が悪い わけですから。本来であれば、労(いたわ)るというのは当然のことなんです。「疲れたん だから、たまには休むのもいいんだ」というような意味を込めてね。ところが、 「何だかお茶飲みたいな」と。「自分で入れなきゃ」とかね。「お腹が空いたなあ。 どうしたらいいかな。ご飯どうなの」みたいな、少しイライラしてくるわけです よ。病気の人より自分のことを。自分にとって都合が悪いから、相手の病気が。 そのことにふと気が付いたあたりから、「自己中心」という言葉自体も、自分の中 にテーマとして出てきて、それからはいろんなものがね。「ああ、なるほど。こち らが中心で、こちらの都合のいいように考える」ということを。
 
道傳:  聖書の中のどんな箇所が一番心に響きますか。
 
竹脇:  さっきも言った、「ヨハネの福音書」の中にも、「ヨハネの手紙」の中にもあるん ですけどね。「ヨハネの福音書」では、
 
あなたがたが私を選んだのではない
私があなたがたを選んだのだ
 
という。神さまサイドの、「私たちの罪のために、神さまはイエスキリストを贖(あがな) いの供え物として、この地上に使わした」という。まずそれが先で、それは「私 たちへの神さまの愛の何ものでもない」「自分の思い通りで人間って生きていけな い」ということに。「こちらからじゃなくて、あちらからだ」という。そのことに 気が付いてからです、そういうのは。それは凄く重要なことなんでね。大きなあ ることを感じたり、理解したりする中で、そのことは、私にとっては一番大きな ことだったように思いますね。
 

 
ナレーター:  去年三月、竹脇さんは、二十年暮らした横須賀の家を手放しま した。海へのこだわりから建てた相模湾を望む家でした。しか し長く自分を支えてくれた妻の三香(みか)さんは、老後に備え、生活 が便利な街に戻ることを望んでいました。竹脇さんはスタジオ を改造して、六本木で暮らすことを決断したのです。引っ越し て以来、夫婦の日課となった散歩。幼い頃思い出の場所をしば しば二人で訪れます。
 

   (散歩の場面から)
 
竹脇:  未だに小学校の六年生の頃の連中としょっちゅ う会う。明治神宮から神宮外苑というのは、僕 はほんと遊びのエリアだったですね。そこを飛 び回って、東郷神社とかね。ここは細い道も大 体どこがどこって分かりますから。上様(かみさん)が神宮 前小学校でしょう。だから神宮前小学校、此処 から行くと神宮前小学校も左へ曲がって行くと 小学校ね。どっちへ行こうか? 左に行った方 がいいね。

 

ナレーター:  竹脇さんは、もう一つ新たな世界を体験することになりました。 視力を失って以来、諦めていたヨットに再び乗るようになった のです。ブラインドセーリング。視覚障害者がボランティアの 人と共にヨットを楽しむスポーツとの出遇いでした。
 

 
竹脇:  最初、ヨットにブラインドセーリングを始める時に、最初に乗 った時には、若い時のあの感じが掴めないんで、もう倒れそう になるぐらい疲れたんですよ。もう止めよう、と。やっぱり目 が見えないと、ヨットというのは無理だ、と。楽しむことが出 来ない。というのは、見えていた時の感じを求めてしまうんで すね。だから見えないなりの感じでいけばいいのに、そのギャ ップに驚いちゃって、それがストレスになった、最初の何回か は。周りの勧めで何とか行っているうちに、ある日、船底を流 れる水の流れ、というものを感じたんですよ。上のファクターじゃなくて、水面 下。で、その舵や傾く加減とか、波にあたる感じ、波を切る音とか。だから、音、 それから水面下を流れる水の流れを感じた。身体で傾きとかね。そうすると、い い走り方をしている時は、何よりもいい感じで身体に伝わってくる。その瞬間を 味わったんですよ、「あ、これは目が見えなくとも楽しめるんだ」と。その時、思 った。それからまた「来週も乗りたいな」というふうに思って始めちゃったんで すね。あの時、数回で、それが掴めなければ止めていたかも知れない。
 
道傳:  「見える」ということは、いわゆる「目で見える、見る」ということではないん だ、ということが分かりますね。ヨットのお話を伺って。
 
竹脇:  私は視覚障害者の仲間入りというか、視覚障害者の友人すら居なかったんですよ、 周りにね。ブラインドセーリングを始めて、初めて盲人の方と接することになっ た。それから「自分が盲人である、ということを意識した」というのか、「意識し た」と言ってはおかしいんですけど、杖を突くことすら、杖を持ってもいなかっ たんですよ。いつも家内が一緒でね。いろんなパーティも足繁く出ましたけども、 至って普通のような感じで、「いつも上様(かみさん)が一緒だな」と思っていたらしいんです ね、周りは。だからあのブラインドセーリングで、新聞やテレビに出た時は、「あ れ、ほんとにお前なんだな。目が見えなかったのか?」という。不思議がられる ぐらい。「いや、実は」というね。僕の兄弟でもこんなに見えないというのは知ら なかったかも知れない。
 
道傳:  こうやってお話をしていても、ほんとは見えていらっしゃるんじゃないかなあと 思う瞬間があるほど、自然な所作でいらっしゃる時がおありですよね。
竹脇:  そうですか。よく言うんですけども、「プロのブラインドとア マチュアのブラインドがいる」と。「僕はアマチュアだ」とね。 初めて生まれながらにして、盲人の方とセーリングで、ニュー ジーランドのセーリング・スクールに行った時に、ほんとに驚 いたことがあった。こんな細い六十センチ位の長い桟橋を船か ら下りて渡っていかなければければならない。「いやぁ、これ は困ったことになった」と思った。その彼が、「僕に掴まって 下さい」と言うんですよ。彼は、杖で端をコンコンと探りながらドンドン歩いて 行く。彼はまったく光りも見えない人ですからね。「彼はプロで、僕はアマチュア だ」。それで、白杖を突くトレーニングを受けることになったんですよ。ブライン ドセーリングをやるんだったら、自分でどっかへ行けたりしなければならないし、 杖も使えないブラインドじゃ、しゅがないな、と思ったから。今は相当上手にな りましたよ(笑い)。
 
道傳:  プロでいらっしゃいますか。
 
竹脇:  プロとは言わないけどね。
 
道傳:  亡くなられたお父さま・昌作さんの年齢をどんどん越して、新しい年代に入って いかれるわけですけれども、ご自分の年代を経て、変わったなあというふうに思 われることがお有りですか?
 
竹脇:  「自己中心的人間の私というのは、どう考えても変わっていない」というふうに しか今は思えない。いっときそれに気が付いて、聖書を読んだり、神さまの話が 書いてある本をたくさん読んだりして、「自分が変わったかな、変わったんじゃな いかな」と思ったことはありましたね。でも今は、そういうことに気が付いた。 「気が付くところまではいったんですけど、どうしても変われない」。だから「向 きは変わった」と思うんですよ。こう(左)か、こう(右)かね。今までの自分 の環境とか、持てるものを全部持ちながら、自分を越えていこう、という。いい 方向へ、ということはちょっと出来ないですよね。今、気持としては凄く安定し ている、というか、平安な気持でいられますね。
 
 
     これは、平成十五年二月二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである