悩みを超える智慧
 
                      「仏教談話会」主宰 野 田  風 雪(ふうせつ)
一九二一年(大正十年)愛知県に生まれる。真宗専門学校(同朋大学の前身)卒。一九六六年(昭和四一年)から仏教談話会を主宰し、毎月、各所で小さく集まって語り合っている。著書に「眼をたまわりて」「私を生きる」「悩みを超える智慧」など。
                       き き て      金 光  寿 郎
 
ナレーター:  愛知県安城市(あんじょうし)の農村地帯にある浄土真宗本竜寺(ほんりゅうじ)。地域の心の道場を目指すこのお寺には、さまざまなグループの集(つど)いがありますが、毎月十日の夜には若い母親を中心にした集会が開かれます。
講師を勤めるのは「仏教談話会」を主宰する野田風雪さん。野田さんは各地の集まりで講演を続けながら、悩み事の相談にも応じてきました。
 

 
野田:  これはお寺に来ましたらね、岡崎の小学校四年生の長島君という子の詩が書いてありましたね。
 
     おじさんがごみを車の中に入れていた
     おじさんの顔を見たら
     くさいような顔なんかしてなかった
     なれているのかなあ
     あんなにくさいものを車に入れているんなら
     給料はたくさんくれるかなあ
     だってほとんどの人なんか
     あんなことできないもんな
 

 
ナレーター:  悩みを解決する糸口を求める人々と、その集いの場。お互いの問題点を話し合うことで、野田風雪さんを中心とした人の輪が、各地に広がっていきます。
 

 
野田:  その一番大切な事柄はこのことでないかなと思うのよ。だからこの間、先月その青年からね、「先生、空気のご恩ってどうやってお返ししたらいいですか?」と言われた時にね、みなさんだったらどう答えますか?
 

 
金光:  今日は、ただいまの会で講師をなさっていらっしゃいました仏教談話会の主宰をされています野田風雪さんにおいで頂きました。「悩みを超える智慧」というテーマで、いろいろお話を伺いたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
 
野田:  ありがとうございます。
 
金光:  「仏教談話会」という会を主宰なさっていらっしゃるそうですが、いつ頃から、どういう形で活躍なさっていらっしゃるんでしょうか。
 
野田:  そうですね。昭和四十三年の秋頃だったと思いますけれども、仏教というのは、お互いに自分を語り合うということがないと仏教にならないだろう。そんな生意気なことを考えましてね、そして初め二、三人の人たちと語り合ったのが始まりでございます。
 
金光:  その頃のお仕事は、お寺を持っていらっしゃるわけでないわけですね。
 
野田:  初めはお寺におりましたけれど、生意気な考え方で寺を出まして、それから少年院の教官になりました。それからずっと昭和五十五年まで続きましたけど、昭和四十三年頃から、今申し上げましたような形で、日曜日の身体の空いている時間を、みなさんと一緒に語りあったのが始まりでございます。
 
金光:  現在は随分あちこちで会をお持ちのようでございますね。
 
野田:  そぅですね。数えますと毎月決まって集会を開いておりますのが全部で十六、七ございます。
 
金光:  ほぉー。じゃ、集まる方も、先ほどは主婦の方々でしたが、いろんな方がお集まりになるわけですね。
 
野田:  そうですね。場所によって違いますけどもね、二十代の青年から七十、八十のおじいちゃん、おばあちゃんまで、いろいろな会です。
 
金光:  お寺ばっかりじゃないわけですね。
 
野田:  ええ。お寺ばっかりでなくて、喫茶店だとか、或いはコミュニティセンターだとか、或いは会社の会議室だとか、それから個人のお家ですとかね、そういうところがわりあいに多ございます。
 
金光:  そうしますと、随分いろんな年齢の、いろんな階層の、いろんな悩みを相談として持ち掛けられるわけでしょうが、それに対するお答えの姿勢といいますか、どういうお立場でお答えになっていらっしゃるわけでしょうか。
 
野田:  そうですね。私は資格も何も持っていませんし、また教える立場とかね、或いは教育者の立場でというような、そんな立場でもございませんしね。ただ一人の人間としてお互いに同じ位置に坐っているという、そういう立場で一緒に悩んでいけばいいんじゃないかなあ、とそんな気持でございますね。
 
金光:  じゃ、そういうお気持ちで、それぞれの会に出席されて、出た問題に新しく直面して、そこでその時に「こうやったらいいんじゃないか」というようなことを話し合われるということですね。
 
野田:  「そうしたらいいんじゃないか」ということよりも、その時の、悩みを持っていらっしゃる、或いは悩みを持った時の「あなたはどうだったんでしょうかね?」ということを、いつでもお返しするわけですよ。だから、一緒に「困ったなあ、困りましたね」ということでね、一緒に困っていくだけなんです。それしか、私は申し上げられることがないと思っているんです。
 
金光:  それじゃ先日講師をなさった会の質問などを見て頂きながら、その後またお話を伺いたいと思います。
 
野田:  どうぞよろしく。
 
 
金光:  ここに集まっていらっしゃる方は、何年ぐらいのお付き合いの方でしょうか。
 
野田:  長くて三、四年でしょうね。それから短くて一年ちょっとでしょうか。
 
 
参加者A:  一年前から病気になりまして、それでそれはもうほんとに思ってもみなかったことなんです。ヘルニアといいまして、すごい痛みだったんですね。もうほんとにどうしようかしらと思うぐらいの痛みがありまして、そんな時などはほんとにウロウロしてしまいまして、みなさんが「あそこが良いです、ここが良いです」というと、ほんとに十何カ所ぐらいきっと行ったと思いますけどね、病院やら、
 

 
参加者B:  今度の直接のきっかけは、その車のボディに当たって完全に軟骨がなくなっちゃって、神経がむき出しになるといいますかね、首の骨のね。だから腕が痺れるといいますか、それでほっとくと完全に足腰がダメになるということで、まだ姉はね四十二、三なんですけれども、それですぐ手術だということで病院で手術しましたの。で、私もまあ仕事をしておるもんで、そうしょっちゅう看病にもいけないんだけれども、たった一日だけ看病に行ってまいったんですけど、今まで全然やったことのない、ほんとに生まれて始めて下(しも)の世話まで看病させてもらって、私としては四捨五入すると四十に近いんだけど、今までそんなこととてもじゃないけど、気持が悪いというか、そんなふうでようやらなかったんですけど、でもなんというんですか、素直な気持ちでその看病ができたんですよね。まる一日やったんですけれども。これが自分のそれこそ親が寝た切りになったらやれるかしらと思うんですけど、でもほんとにいい経験させてもらったと思って、
 

 
参加者C:  やっぱり病気になりますと、本人もやっぱり苦しいわけですね。それでとてもいいおばあちゃんだったんですけど、自己中心的といいますかね、我が儘といいますかね、いろんなことがでてまいりましてね、それで病気だからしかたがないと、私はある点では思うんですけどもね、それがほんとに恥ずかしいことなんですけれども、すごく腹が立っちゃうわけですね。もの凄く腹が立って、それでまた一方で腹を立てている自分にまた腹を立てているんです。そんなことを繰り返して毎日毎日暮らしておりますとね、すごく苦しくなっちゃうんですね。なんかほんとに半分ノイローゼになったみたいになってしまって、
 

 
参加者D:  いつも学校でいろんなことがあったことを話してくれるんですよね。で、先日も「僕、今日、本が借りたかったんだけど、借りてこれなかった」というんですよね。それで「どうして?」といったら、「僕が最初にほしいから本棚から持ってきたんだけれども、隣の子が横取りしていっちゃった」というんです。「僕、せっかく読みたかったんだけど、借りれなかった」といったんですよね。「とも君が先に借りてきたんだからね、取り返したらよかったのに」と私がいったんですよね。そうしたら「お母さん、そんなことをいったら僕がしかられちゃうんだよ」というんですね。それで「お母さん、僕の身にもなってよ」って、子どもにいわれたんですよね。その時にほんとにビックリしましてね。ビックリしたというより、ドキッとしたんですね。
 
 
野田:  これは私流であり、そして私ども流であるかもしれませんけれどもね、いつでも「傍観者は罪がない」と思っているわけですよ。私は何にもしなかった。加害者でないと思っている。ところが最近は、「傍観者もまた加害者である」、そういう言い方に変わりましたね。それはなんだって、私ね、いま深い考え方がほんとに出てきたなと思うんですよ。
 

 
参加者E:   私は跡取り娘なんですけど、で、家で大事なこととか、大きな決め事がある時は、大体男がまるで違うもんですから―性格が、それでいろいろ悩むことが多かったんですけど、大体一番の原因はきっと私が格好良く見せるふうにもっていく状態が多かったと思うんです。それでここでお話を聞いている時に、一番今でも自分で思っていることは、自分の居場所は自分が作るんであって、それで自分もそれによって作られていく、ということを教えて頂いたんですね。で、そのことによって、一度親と大きく私がぶつかった時があったんですけど、私が、「跡取りでなかったら良かった」といった時に、父はいったんですよね、「僕も跡を取らせな良かった」と。「可哀想だった」といってくれたんですね。それを聞いてから、ああやっぱり自分が一番原因を作っていたんじゃないかなあと思いましてね。自分もそれからは無理はよそうと思いまして、そのほうがやっぱり家の中が丸くいくような気がしますね。
 

 
参加者F:  大学に入りまして何から何まで自分でやらなきゃいけなくなるんですよね。下宿していまして、朝起きてご飯は勿論できていませんので、ご飯を作って食べる。で大学で勉強して、僕は陸上をやっているんですけど、帰りが遅くなって、八時、九時になりまして、銭湯は九時までですので、慌てて駆け込んでという状態で、帰ってももう店はどこもやってませんので、自分でお米をといで、あり合わせのものでご飯を食べるというような毎日でした。その時にはじめて親から手紙がきたんですね。「元気か、頑張っているか」というのを書いてありまして、ただそれだけだったんですけど、その時に初めて親の手紙で涙がでまして、帰るたびに―半年に一回とか、一年一回ぐらいしか家に帰ってこれないんですけれど、僕は身体がどんどん大きくなるのに、親は背中が小さくなりまして、脛(すね)なんか細くなりまして、で申し訳ないなあと思うんです。で、それでも茨木に帰ればお金は使いますし、ご飯を食べなければ生きていけませんし、「お金をたくさん使う」と親から文句をいわれるんですけれど、それでも申し訳ないとしかいいないんです。

 
参加者G:  なんといったらいいのかしら、お花を上げなくっても仏さんは怒られないけど、お花を上げるとほんとに気持がいいんですね。そういうことが先生のいろいろお話をお聞きした過程でよく、自分の気持が落ち着くなあという、そういうふうにちょっと心理がきているんですけど。
 

 
金光:  お話を伺っていますと、ご家族の病気のお話とか、子どもさんに教えられたお話だとか、或いは大学生の方が初めて下宿した時にこういう心境になったとか、かなり仏法を聞いていらっしゃるお立場でのご発言が多かったようなんですが、必ずしもこういう方ばかりではなくて、いろんな会で相談を受けられる方の中には、ほんとに悩みそのものをぶっつける方もおありでございましょうし、それこそさまざまだろうと思うんですが、全般的に悩み事の相談で多いのは、どういう種類のものでございますか。家庭内もものがやっぱり多いですか?
野田:  そうですね。家庭内のものが多うございますし、それから子どもの問題がありますね。そういうことが非常に具体的なものですから。ただ具体的なことをね、「どうしたらいいでしょうか?」という、直接答えを求められるという、そういうことが非常に多ございますね。
 
金光:  例えばご夫婦の間でございますと、例えばどういう形で出てまいりますか。
 
野田:  例えば、最近ありましたんですけどね、「こんな主人だと思わなかった」という(笑い)。自分の見損ないだとか、自分の計算間違いということが全然わかっていらっしゃらないということがあって、それが悩みになる。それが苦しみになって、そして居ても立ってもいられなくなってしまうという、そういう方がいらっしゃいましたけど。それからもう一人ね、これは子どものことですけれども、「家の子は内向性で困った」とおっしゃる。「どうして内向性でいけないの?」と訊くと、なんか学校全体の、或いは社会全体のものの考え方が外向的でなければいけないみたいな、そういう理解の仕方をしていらっしゃる人がわりあいにいらっしゃるんですね。ですからそこのところでも、「決して性格に良い、悪いはないんだよ」ということを申し上げて、考え方を変えるように、見方を変えるように、変えてもらうように申し上げたことがございますけどね。
 
金光:  例えば、「こんな主人ではなかった」と思う奥さまの立場からすると、「主人が私に合うように、どうやったら変えられるか?」という質問になるわけですね。
 
野田:  そうなんでしょうね。
 
金光:  そういう時は、どうお答えになるんですか。
 
野田:  そうですね。私はむしろ逆にね、「やっぱりご主人だって、あなたのことを、こんな人だと思わなかった、と思っているんじゃないの。そういう逆な見方をしてご覧になったらどうですか」ということを申し上げたことがあるんですよ。比較的若いお嫁さんでございましたけれどね。
 
金光:  子どもさんが内向的だから困るというのは、「子どもさんを如何に外向的に変えるか、その方法はございませんでしょうか?」というご質問になるわけですね。
 
野田:  そういうことですね。どうしたらみんなについていけるような、みんなと同じような子になるだろうか、という、そういう考え方ですね。
 
金光:  子どもさんが変わらないと、このままでは不幸になるというか、不幸せになるだろうと思っていらっしゃるわけですね。
 
野田:  そうですね。
 
金光:  それに対しては、「変えてしまう」ということは、これは大変なことでございますね。
 
野田:  変えられませんので。だから「内向性なら内向性でも、とってもいいところがあるんだよ、ということに気がついてください」と。それで私はそのお母さんに、「お宅のお子さんは、僕は何も知らないけど、作文上手でしょう?」と、ちょっとだけ訊いてみたんです。そうしたら、「どうしておわかりですか?」とおっしゃるから、「だいたいそんな感じですよ」といったらね、そうしたら、「そうなんです」とおっしゃった。「内向性の人は、やっぱり内向性でなければできないこともあるし、それからみんな光っているのよ。外向性の子は外向性の子で、内向性は内向性の子どもで、みんなそれぞれにいいところいっぱい持っていらっしゃるんだ。そのいいところを見付けて、それをウンと周りで応援してあげたら、どうなんでしょうね」といって申し上げたことがあるんです。そのことに気付いてくださいましてね。
金光:  野田さんが「仏教談話会」を主宰されるようになって、「今週の言葉」ですか、毎週日曜日に、言葉をお考えになったものをまとめて、毎年一冊本が出ているようでございますが、その言葉を拝見しますと、今の言葉に、お話に関連しての言葉ですが、
 
     悩みは若い人のも 老いた人のも
     仕事や性別など形は違っても
     本質は同じものだ
 
と。その後に、「自分が見えないということにおいて」という言葉があるんですが。「自分が見えない」ということは、先ほどの、ご主人について要求、或いは子どもさんについての要求も、やっぱりそこに自分というものが出てくるわけでございましょう。
 
野田:  出てきますね。そして、その自分がしっかり見えていない時に出てくる悩みですね。ですから、みんな「どうしてこの子はこうなんだろう?」「家の主人はどうしてこうなんだろう?」って、みんなそうなんですね。ですから、「私は良いのに」という、そういうところにちゃんと立っていらっしゃる。私は、そうでなくて、やっぱり自分が見えてきたら、自分というものは、何をやっているのか、何を思っているのか。自分の心の中が見えたら、みんなもっと人生観が変わるんじゃないかなあ、と思うんです。ですから、いつの頃だったでしょうかね、言葉の中に、
 
     自分の見る位置を変えることができたら
     もっと人生は明るくなる
 
と申し上げたことがあるんです。だからいつでも自分がちっとも動かないで、ものを見ているわけです。そうでなくて、物事というのは、みなご承知のように、立体的なもの、球的なものでしょうからね。ですから、どっちからも見なければならない。そうしたら自分の見る位置をちょっと変えられたら、「あ、こんなところに、こんなに美しい色があったのか」とかね、「こんな美しい姿があったのか」って、そういうことが発見できたら、もっと人生というのは大きく変わるんじゃないかなあ、そんなふうに思っているんですよ。
 
金光:  そうしますと、悩みがあるということは、自分のことに気が付かないで、相手のことだとか、外回りばっかり見ていると、その悩みというのは、これはなかなか解決しにくい、ということでございましょうか。
 
野田:  そうですね。人のせいばっかりにする今の時代ですね。ですから、他人(ひと)のせいにばっかりにしていたんでは、問題の解決は一切ないんじゃないでしょうか。ですから、自分のことがまずわかることでなければならんだろう。ただしかし、自分がわかるために、自己反省だけでは限界があるんですよね。そういう意味で、私どもが―人間が宗教を持っているという意味合いが、そこにあるんじゃないでしょうか。
 
金光:  「よくわかっているけれども止められない」とか、昔「わかっているけど止められない」なんていう歌がありましたけれども、やっぱり止められない自分というのがあるわけですね。
 
野田:  そうですね。
 
金光:  それはまたどうすれば、ということになるんですが、どういうふうに?
 
野田:  止められない自分が、また見えていかなければいけないんですね。わかっているんだけど、僕は止められないなぁ、という。その自分が見えていかなければいかんですね。自分が直すんでなくてね。
 
金光:  ただ「自分は止められないんだなあ。ダメだなあ。やっぱり自分はダメだ、ダメだ」というと、だんだん落ち込んでいくんではないか、というふうに思えるんじゃないか、と思いますが。
 
野田:  そこに「教え」というものが、大きな働きをするんじゃないでしょうか。ですから、例えば教えの中に、
 
     (ごう)の垢(あか)というものは、法水で流さなければならない
 
とかね、或いは、
 
     仏さまの智慧に立たない限り
 
という言葉がございますね。それが確かさだろうと思うんですね。ですから、自分で自分を見たのでは、これは限界がございますから、厳然としていつでも変わらない眼で自分が見られるということ。そういう見られた自分というものが明確にならないといけないんじゃないでしょうかね。
 
金光:  それはたくさんの先人達が、それぞれの体験を、それぞれの言葉で残して下さっているわけですけれども、やっぱりそういうお話を聞いているうちに自然に自分に対する眼もよく開いて見えるようになる、ということでございましょうか。
 
野田:  僕は、即効的でないかもしれませんけど、教えを聞いていくと、そうすると、そこに一つの人格が形成されていくんだろう、と。形成された人格が問題に対応するんだろう、というふうに思っているんですけどね。
 
金光:  その辺のところは、非常に体験しないとわかりにくいところがあると思うんですが、よく仏教のお話の中では、とにかくあるがままに、今そこに置かれている現実を、ありのままに見て、ありのままに受け取る、ということが非常に大事だ、というようなことを聞くわけですけれども、ダメに違いないと自分で思い込んでしまうのは、必ずしもありのままに受け取っている、ということではないわけですね。
 
野田:  なせ、ダメなのか。「私はなぜ」ということが問われていかなければならない。その問うていく場所が教えだろうと思うんですよね。だからいつでも、「あの人がこうだ」とか、「この人はこうだ」とか、「ああいう状況だったからダメだ」とかね、そういうことでなくて、「私はなぜ」というところに、自分の問題として、自分に返ってこなければいけないんじゃないでしょうか。
 
金光:  先ほどのご質問で、例えば姑さんが病気になられて、いわば自己中心的になっておられると、「病気だから仕方がないと、頭ではわかるんだけれども、腹がたってくる」ということをおっしゃっていましたね。
 
野田:  そうですね。
 
金光:  そういう場合は、それからどういうことになるんでございましょうか。気が付いていくと。
 
野田:  そうですね。お姑さんが病気でどうしても我が儘になっている。それを怒っているんじゃ、やっぱり自分も一緒になって不幸になっていくわけですね。ですから、「ああ、私はこんなところでも、直(じき)に腹を立てるなあ」という、そういう自分が見えたらね―これは『大無量寿経(上巻)』に、
 
     若在三途(にゃくざいさんず) 勤苦之処(ごんくししょ) 見此光明(けんしこうみょう) 皆得休息(かいとくくそく) 無復苦悩(むがくのう)
 
とあるお言葉ですけれども、「見えたら休むんです」。「腹立ちなら腹立ち、或いは面白くない気持なら面白くない気持が、ちょっと休息する」と書いてあるんですね。面白い言葉ですね。
 
金光:  怒りが、腹立ちが、お休みするわけですね。
 
野田:  ええ。お休みするんです。ですから、やっぱり繰り返して、教えに戻っていく。そうすると休息し続けるんじゃないでしょうか。
もう一つの親鸞さんの言葉には、「軽微(きょうみ)」という―苦しみ恨みが軽く小さくなるというお言葉が、『現世利益和讃(げんせりやくわさん)』の第三首にありますが、「転じて軽微になるんだ」と書いてありますね。面白いですね。「悩みの種はなくなるんじゃないだ。それが小さくなるよ」ということなんですよね。「悩みの種が見えると、そうすると自分の中にそれが見えていくと小さくなる」と。「小さくなる」ということは、悩みの働きをしなくなる、ということですね。
 
金光:  例えば、迷いが見えたら、迷いが小さくなって、その力がなくなる、ということは書いていらっしゃいますが、そういうことになるわけですか。そうしますと、「仏の智慧」という言葉が出てきますと、「どこかに智慧というものがあって、それを取ってきて、こちらへ入れると、そこに智慧が働く」というようなこととはちょっと違って、「気が付くことがそのまま智慧だ」と、そういうことになるわけですか。
 
野田:  そうなんです。だから結局は言葉を使いますと、「気付き続けていく」という。だから、「どんなことからでも気付き続けていく」という、そういう姿勢というんでしょうか、それが仏法というものだろう、というふうに思うんですね。
 
金光:  そうしますと、例えば自分に腹が立っているなあ、と。しかし、腹を立てちゃいけないと思って、自分で腹を立てないようにしよう、しようと思うのとは、またちょっと違いますね。
 
野田:  それは腹を立てないようにしよう、という努力ですね。人間の努力というのは限界がございますのでね。ですから、多くの先輩の先生方は、「みな腹を立てないように努力をすることでなくて、直(じき)に腹を立てる自分というものを見つめていくのだ、見せてもらっていくのだ」というふうに教えてくださいますね。
 
金光:  じゃ、腹を立てている自分が、「あっ、今、腹を立てているな」と、それがわかってくると、「あっ、また腹を立てているな」と思うと、お休みになる。
 
野田:  そう、お休みです。
 
金光:  そうしますと、私なんかもちょいちょい腹が立つんですけれども、腹が立つと、すべてを腹が立った立場で見ますから、そのこと以外見えなくなりますね。
 
野田:  見えなくなりますね。
 
金光:  それがちょっと違う次元の眼が開けるということになる?
 
野田:  だから迷いから離れていくんですよね。苦しんだり悩んだりしている時には、その迷っている自分が、苦しんでいる自分というのが見えないでしょうね、おそらく。だから、「相手が悪いんだ」「あの人がいるから」「この人がこういうことを言うたから」とか、そういうことだけに終始してとらわれていく。そうでなくて、やっぱりそういうところにちょっと一歩、教えのほうへ近付いていくと、教えが「そうでないよ、お前の怒っている姿、一遍見てごらん」といわれる。そうすると、何を怒っているのかね、何が面白くないのかね、その自分というものが問題になるわけです。
 
金光:  そうしますと、変な表現になるかも知れませんが、私が腹を立てているという。その私が、「また腹を立てている」というふうに気が付くに連れて、だんだんその私が小さくなるといいますか、気が付くたびに、その「私が、私が」という、そっちの働きが小さくなって、なんか別の自分が現れてくる、といいますか、そんな感じになるわけでしょうか。
 
野田:  あんまり相手のせいでなくなってくるわけですね。自分のせいになるんですね。だからいつか、どこのお寺だったか、掲示板がございまして、
 
     苦しむのはお前の勝手だ
 
という言葉が書いてあったんです。凄い言葉を聞いたことがございます。初めわからなかったんですけど、だんだん大変な言葉だということがしっかりわかりましたね。
 
金光:  しかし、この言葉を下手に、「苦しんでいるのはあなたの勝手だ」といったら、これはえらいことになりますけれども(笑い)これは自分自身に対する言葉ということですね。
 
野田:  そうなんですね。自分に対する言葉でございますので、他人(ひと)にいう言葉ではないですね。
 
金光:  仏教の場合は、例えば「業(ごう)」なら「業」というような言葉も、他人に対していうと酷く違う意味になってくることがありますけれども。
 
野田:  今までは、そういう使い分けが出来ていない人が非常に多くございますね。それは、仏教―宗教というのは、すべて他人(ひと)のことでなくて、私自身のことに置き換えていく。私自身のこととして頂いていく、そういう世界ですからね。だから業というのも、私の責任感の深い受け取り方、そういうことでしょうね。
 
金光:  例えば、腹を立てまいとする。そういうことにしましても、自分で腹を立てまいと思っているうちは、かえってまた腹が立つ、ということが止まないのに、気が付いてみると自然に止む、という。その辺には非常に人間の複雑な、矛盾したような働きがあると思うんですが。
 
野田:  これは石川県のおばあさんですけどね、
 
     腹を立てることによって、私が見せてもらえる
 
とおっしゃいました。そうすると、私を見せてもらえる、ということは、相手が腹を立てさせてくれたから、そういう受け取り方に転換していくんですよね。
 
金光:  そういう受け取り方の違いというのは、いろんな場合に出てくると思うんですが、例えば病気になった場合に、ご本人も病気になろうと思ってなったわけじゃないですし、なんで自分はこんな病気になったのか、と。そういう立場で悩まれたり、苦しまれたりする方が多いと思うんですけれど、病気なら病気の受け取り方でも、野田さんのご存じの方で、こういうふうに転換した受け取り方があるんだ、という例がございましたら、ちょっとご紹介頂けませんでしょうか。
 
野田:  そうですね。おっしゃられて、すぐ思い浮かべられるのは―今もいらっしゃる方ですけれども、もう七、八年も寝た切りでいらっしゃるおばあちゃんがいらっしゃる。そのおばあちゃんが、「いつでも私は病気を修業させてもらっているのよ」とこうおっしゃる。そうすると、おばあちゃん自身もちっとも苦しくないし、寝た切りであってもね。家中がみんな、そのことによって救われていきますね。ですから、そこの奥さんが、いつかも、「私はほんとにおばあちゃんのお陰で幸せでございます」とおっしゃった。私は、素晴らしい世界だなあ、と思いますよ。決して苦しくないんじゃないと思います。
 
金光:  それはそうですね。
 
野田:  八年も寝たっきりですと、どっか腹が立つこともあるし、面白くないこともあると思いますよ。だけど、それをみんな修業に置き換えられる。自分で「修業」という言葉をおっしゃることによって、みんな解消されていくわけですね。そういう方がいらっしゃる。
それからこれは現在六十ぐらいの奥さんですけども、若い時にカリエスの十五年間の病気をされた。だけども、今はほんとにお幸せな家庭生活を頂いていらっしゃる。
 
金光:  治っていらっしゃるわけですか?
 
野田:  治っていらっしゃる。その奥さんが、「先生、私はあの娘の時代の十五年間のカリエスのお陰で、こんなに幸せにして頂きました。だからあの十五年間のカリエスは、私にとって仏さまです」といって手を合わせて、十五年間の過去の病気を拝んでいらっしゃる人なんですよね。そういう世界に、人間というのは誰でもなれるんだろう、と思う。ちょっとだけ自分の位置を変えることができたら、という、そういうことがございますね。
 
金光:  その寝た切りの方ですと、やはり自分が自由に歩きたいとか、当然健康になりたいということは、お感じになっていらっしゃるわけでしょうけれども。
 
野田:  そうですね。
 
金光:  しかしそのおばあちゃんが病気によって修業する、ということに立場が変わってきますと、身体は動けないけれども、気持の上では非常に自由になっていらっしゃるわけですね。
 
野田:  非常に楽ですね。そういうのを融通無碍(ゆうずうむげ)というんでしょうね。とってもおばあちゃん自身が明るいですから、近所隣のおばあちゃんたちがみんな集まって、枕元で世間話をして、お茶を飲んで楽しんでいらっしゃるという、お話を聞いたことがございますけどね。
 
金光:  やっぱりそこへくると、いろんな形でみなさん気楽に楽しく話ができるということですね。
 
野田:  幸せというものの一番原点は、「自分がわかっていくことだ」ということですね。一番大切なことだと思いますね。
 
金光:  その自由ということで考えてみますと、私たちは、一方では生まれようと思って生まれたわけではないですし、そのおばあちゃんにしても、病気になろうと思ってなったわけではないですし、人間は、ある意味では非常に不自由な一面がありますね。
 
野田:  選択できませんね。
 
金光:  これは選べない、と。それと同時に、そういう状況になった時に、だんだん暗くなる方向へいく方と、それはそれでまたその世界の中で明るい方向へいらっしゃる方もあるわけですね。その辺の選択のできないところと、選択のできるところ、そこのところが一つの受け取り方のポイントになるんじゃないか、と思いますが。
 
野田:  ですから宗教というものは、人間のこれから先何が起こるか、どんな災難が待っているのか、どんな病気が待っているのかは、宗教では予防できないんだ、という。そうすると、宗教ってどんな働きをするのかといいますと、起きた問題に対してどう受け取るか、その智慧だろうと思うんですよ。
 
金光:  それを正しく受け取ることによって、また新しい明るい世界が開けてくる、と。
 
野田:  ええ。それがみんな「自分のせい」という。他人(ひと)のせいや、病気のせいや、或いは災難のせいでなくて、私がその災難に出遭ったのです。最近一ついい例がございましてね、これも奥さんですけれども、自動車の接触事故を起こしまして、そして賠償問題で大変難しい問題がたくさん出てきまして、ずいぶん悩まれたんです。それで自分一人ではとても解決できないからというんで、警察に入ってもらって、弁護士さんにきてもらって、いろいろ解決の方向を探りました。だけども、最後に解決できたのは、「私の人生の中で、こういう事故を私が起こさなければならなかったのは、これは私のせいなんです」って、パッと自分に還れましたらね。そうしたら、急に、「先生、その時はほんとに楽になりました」といってくださいました。
 
金光:  なかなかそうは受け取れませんね。相手が悪い、というか。
 
野田:  相手が悪い、と思いがちですが。ちょっとした人身事故にもなったものですからね。で免停でしょう。だから大変悩まれたんです。「私の人生の中で、私が遭わなければならなかった問題だったんです」、そういうふうに受け取れましたね。そうしたら、見事に気が軽くなって、明るくなって、もう平気で、その問題の処理を一生懸命できるようになった、と。
 
金光:  悩みが全部なくなるんではなくて、
 
野田:  なくなるんじゃないんです。
 
金光:  受け取り方が違ってくると軽くなる。
 
野田:  さっき申し上げたような、軽くて小さくなる。そういうことが融通無碍ということなんでしょうね。
 
金光:  それに気付く、これは自分で気付こうと思っても、そうはならないのが、ある時そうだと気付く。
 
野田:  やっぱり平生からね。その人は平生から少しづつ聞いてくださっていた人なもんですから、「あぁ、このことだったのか」って、そこで気が付いていくんですね。
 
金光:  そうしますと、例えば幸せか、不幸せかの境目はその辺にありまして、この言葉集の中で、
 
     「しあわせとは無いものを求めることではない」と、
     「与えられたものを喜ぶ」という、
     そのものを受け取る一つの態度のことである。
 
それと共通した言葉で、
 
     「安らぎとは全ての苦しみがなくなることではない」と
     「その苦悩の質を向上させることによって、
     苦悩せぬ心の姿勢のことである」。
 
といわれていますね。
 
野田:  そうですね。
 
金光:  無くなってしまうんじゃなくて、あってもそれの受け取り方、迎え方が違ってくる、という。
 
野田:  よく「苦悩を取り除く」という言葉が、経典の中にございますけれども、あの「取り除く」というのは、「対象を取り除くのではなくて、私の心の中の問題を取り除く」ということですね。「受け取り方を変える」ということなんでしょうね。
 
金光:  それが例えば、ここにあります言葉に、
 
     心は条件によって動くが
     どう動くかはその人の本心によるものである
 
野田:  そうなんです。
 
金光:  我々の心っていうのは、たしかに何か新しいことが起きると、もう気が付いたら動いていますね。やっぱり病気になってなんかいわれると、腹が立つというのは、腹が立つというのが先に動いている。ただし、その後で、じゃ、そのまま腹を立てたままでいくかどうか、その腹を立てた自分に気が付くと、また違った行動がとれる。
 
野田:  そうですね。
 
金光:  それが、本心によって動く、ということですね。
 
野田:  やっぱりそれは日頃聞いていないと、そういうものにならない。つまり教えを聞いて、私の人格形成がそういうことにできている、という。そういう下準備ができていないと、なかなかそれは難しいことだろうと思いますけれども。だけどそんなに難しいものではないだろう、と。
 
金光:  野田さんは少年院にもいらっしゃったそうですが、今までは家庭の問題が出たわけですけれども、少年院なんかに入ってきている若い人たちでも、そういう自分というものについての見方が広くなると言いますか、やっぱりそういう方もおいでになるわけでございましょうね。
 
野田:  そうですよ。ほとんどの少年たちも、その少年の親たちも、「みんな友だちが悪かった」というんです。「あの子さえいなければ」ということをいうわけです。だけどそうでなくて、「君自身が問題だったから、そういう友だちと会ったんじゃないの」って、向きを変えますと、「あ、そうかも知れんな」ということに気が付くわけです。そこから問題の解決が生まれてきますね。
 
金光:  まず「自分自身はどうだったのか」ということを考えてもらう、ということがスタートですか。
 
野田:  そうなんです。ですから、自分の問題をどう気付かせるかが、少年院における教育のポイントでないかな、と。私ね、そんなことを思いながら勤務をさせて頂いてきましたね。
 
金光:  でも少年院に入ってくるような方は、自分自身が必ずしもいいことをしたとは思わないにしても、自分としてはこれ以外のことはできなかった、といいますか、自分としてはこうだといいますかね、自分が悪いということは認めたくないのが多いんじゃないでしょうか。
 
野田:  「自分が悪い」といっているんです。
 
金光:  おっしゃる?
 
野田:  「自分が悪い」と言っているんです。言っているけれども、それは周りの人がみんなして、「お前が悪い、お前が悪い」といわれるから、「なるほど、おれは悪いんだな」と思っただけで、心からそう思っているんじゃないんですよね。それを心から「本当にそうだったなあ」といって、気付かせ、自分で気付いていく方法、これが教育ということでないかなあと思うんですよね。
 
金光:  こう向かい合っていて、「君は悪かったろう。わかるだろう」ということではなかなか気が付いて貰えない。
 
野田:  そうなんです。ですから、私は少年院にいる時に、人間という者はどういうものなのか。それから人間というものは、ほんとはどうしたらいいのか、ということを、少年たちから教えてもらったことたくさんございます。その中で、先生と生徒というのは、同じ方向に向くことなんだ、という。向かい合ってることではないんだ。対向して、対面するんじゃないんだ、という。同じ方向を向くんだということは、ちょうど横に並ぶことでないのかな。私は、「横の関係」ということを申し上げたことがあるんですけどね。人間同士というのは、みな横の関係なんですよ。だから非行少年と雖も同じ人間だし、私も教官と言ったって同じ人間だし、というね、人間同士の立場で、同じ方向、つまり人間が歩いていく方向を、二人が同じ方向を見たらなんか生まれてこないでしょうかね。
 
金光:  やっぱり机を挟んで、向かい合って、「君、反省したまえ」ではなくて、相手の気持がわかってきて、「この先生は自分のことがわかってくれたなあ」ということになってくると、その辺から変わってくるということになるということでしょうか。
 
野田:  だから同じ方向を見ていると、怒れないですよ。君も間違ったかも知れないけど、僕の人生だっていくらでも間違っているのよ、という。そういう間違っているもの同士が、ということが、それが横に並ぶということでないでしょうかね。
 
金光:  それでそういう姿勢でやっていらっしゃると、入ってきた少年たちがやっぱり自分自身に気が付いて、それまでと違った方向に歩み始めるという方はいらっしゃるわけでございますね。
 
野田:  おりますね。ですから、自分のことにほんとに「自分が悪かったんだなあ」「僕はとんでもないことをしていたんだなあ」と、夢が覚めたみたいに、そういう子たちがたくさんおりましたね。私の記憶の特に鮮明なのは、少年院から元の中学校に通学させた、在学中の子がいたんです。この子は大変学校中でも大変な子でしてね、問題が多すぎたものですから。だけども、二ヶ月ぐらい少年院で、自分の問題を掘り下げてもらって、それから今度少年院から―家からほんとは通うのが一番いいんでしょうけれど、少年院から一遍通学させてみようという、そうしたことがあるんですよ。そうしたらその子が少年院から通学しましたら、朝一人で出て行って、自分一人で電車に乗って、そして元の中学校へ通うわけですが、そうしたら、昔の番長が帰って来た、というんで、昔の連中が取り巻いてきたんだけど、むしろ逆に先生よりも適切なことをみんなにお説教するわけですよ。「お前たち、そんなことをやっていたら、先ダメだよ、おれを見てみろ」という。自分が一番いい例ですからね。だからそういうことで、みんなを普通の子にさせたみたいですよ。「じゃ、おれたちも止めなければいけないな」ということで、止めた子が随分ありました。だけども二、三人どうしてもダメなのがいて、少年院から通っているその子にタバコを買わせるというようなことがございました。「買って来い」といって、しょうがないから、言うことを聞いて買っていましたら、そうしたら二本だけくれたんです。だけど、これ貰ったら大変なことになる、と思ったけど、一応貰わなければその場がおさまらないから貰って少年院に帰って来ました。そうしたら、すぐ担任の先生に、「実はこうこうこういうことで、今日こういうことがあって、僕はタバコをとうとう貰ってしまいました。先生、ごめんなさい」と言って、素直にポッと出した。そうしたら担任の先生が―女の先生でしたけど、何にも言わずにその子の頭を抱えてね、ポロポロポロポロ涙を流しましてね、「ありがとうね」って、こういうてくれた。そうしたら、「先生、悪かった」と言ってね、ほんとにしみじみと二人で抱き合ってね、暫く泣いていましたけど。少年にとってこれが大変な開眼になったんですね。開眼的な感動というんでしょうか、感動的な開眼というんでしょうかね。そういうことがあって、その子は今、風の便りに聞きますと、お母さんとほんとに仲良く一生懸命働いてやっているそうですけどね。ひとたび自分に気付くと、どんな人でもみんな素晴らしく、人間らしくなるんですね。
 
金光:  それじゃ今日のテーマの「悩みを超える智慧」というのは、どっか別なところに智慧があるんではなくて、そういう自分自身に気付く。自分がどういうものか、というのを探る。そこに智慧があるわけですね。
 
野田:  一番大事なことは、私は「自分を問い続けていく」ということだろうと思うんですよ。そうなってしまうんでなくて、教えによって、自分を問い続けていく、そのことが問題の解決じゃないんでしょうか。
 
金光:  どっかある場所があるんではなくて、
 
野田:  歩き続けるというね、
 
金光:  ここまで来たからもういいんだ、ということではないわけですね。
 
野田:  ええ。死ぬまで私を問い続け、そして私を聞き続けていく。そういうことが宗教的な姿勢というんじゃないんでしょうかね。
 
金光:  それはまたこういうことでもあるでしょうね。自分が歩いて、自分がどうこうするということではあるのですけれども、その自分というのをよくよく考えてみると、いろんな形で、いろんな人に支えられ、いろんなものに助けられ、そうやって生かされている自分、生かされている自分だからこれでいい、ということはなくて、常により良い生かされ方を続けていくという、そういうことでしょうね。
 
野田:  そうですね。受け取り方が、全部美しくなるんですよね。心が開かれるというんでしょうか。心が開かれるその扉は、結局は自分が問われるという、そこではじめて扉が開くんでしょうね。
 
金光:  そういう心が開かれてくると、先生のお言葉に、
 
     木や石や空や
     そういうものに気が付くようになる
 
というお言葉がありますね。
 
野田:  ええ。ですから先ほど、画面の中の最初にもございましたように、「空気のご恩はどう返せますか?」と私に聞いた青年がいましたが、私ね、空気に気が付いたということは、すべてのご恩に気が付いた、ということだろうと思うんですよね。そういうことが嬉しかったですね。だから人間というのは、当たり前のことに気が付いていくという心でしょうか。そういうことが自分を幸せにしていくんじゃないでしょうか。
 
金光:  例えば、今のお話を日常の中に持ってきますと、毎朝鏡を見ます。鏡を見ると向こうに映っている自分がある。普通そこまでですけれども、その鏡に映っている自分がまた自分を見るという。もう一つ奥にある自分に気が付くと違ってくる、ということでございましょうね。
 
野田:  鏡の中の自分に見られているという自分に気付くとね。
 
金光:  そうしますと、何度も繰り返すようですけれども、「苦しみ悩みを超える智慧」というのは、余所にあるんではなくて、そういう自分を含めての全体を見る目で見続ける、という、そういうところに智慧の働きがある、と。
 
野田:  おっしゃる通りですね。
 
金光:  そのためには、やはり先人達の残されたいろんな見る法、見る見方、そういうものをいつも聞き続ける。そういうことでございましょうか。
 
野田:  ええ。だから聞き続けないと、人間は人間になり損なっていくんではないでしょうか。
 
金光:  そうすることによって、本当の人間らしい生き方ができる、と。
 
野田:  宗教的な人間というのは、人間らしい人間のことなんじゃないだろうか。
 
金光:  とりわけ別な人間になるんではなくて、本当に人間らしい人間になる。
 
野田:  私はそういうふうに了解させて頂いております。
 
金光:  それに気付かせてもらうことが智慧の働きである、と。
 
野田:  そうなんです。
 
金光:  今日はいいお話をありがとうございました。
 
野田:  ありがとうございました。
 
     これは、昭和六十一年三月二十三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである