祈りを描く
 
                        画 家   佐久間(さくま)  顕 一(けんいち)
大正十年京都生まれ。昭和九年京都府立第三中学校入学。同校を経て京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)精密機械科入学。昭和十六年戦時中、飛行機の整備に従事。昭和二十二年画家・安藤義茂に巡り会い師事。昭和四十二年師逝去まで教えを受ける。昭和三十九年海外研修のため二カ年にわたり、中近東、ヨーロッパ、アメリカにて美術研究、絵画制作に励む。昭和四十一年帰国。四十二年大阪と京都で個展。暮れには鉛筆素描は童子の姿となり、毛筆による制作が始まると共に、誰言うことなく合掌童子と呼ばれるようになる。合掌童子誕生。以降、各地で合掌童子展開催し活躍。著書に「合掌童子」「合掌童子の世界」「無心の世界」「合掌童子作品集」など。
                        仏教漫画家  (ひじ)   美 恵(みえ)
本名:臂美恵子。一九五年、広島県生まれ。七九年京都精華大学美術科マンガクラス卒業。七八年、「マンガ・トリ」で第七回日本漫画家協会新人賞受賞。七九年佛教大学佛教学科卒業。現在、社団法人日本漫画家協会参与。著書に「マンガ・トリ」「ブッポウソウ」「野仏さんこんにちは」「ヌード・クロッキー」など。
 
ナレーター:  穏やかな表情で無心に手を合わせる童子(どうじ)たち。画家・佐久間顕一さんは、「合掌童子」と呼ばれる絵を二十年間にわたって描き続けています。これまでに佐久間さんの筆から生み出された童子の数は、六万五千体以上に及びます。その安らかな顔は、見る者の心を和ませ、この絵を愛する人は全国に広がっています。佐久間さんのアトリエは、京都市伏見区日野の小高い丘の上にあります。初夏の香りが漂う六月中旬のある朝、仏教漫画家の臂美恵さんが、佐久間さんのアトリエをお訪ねしてお話を伺いました。臂さんは京都精華大学マンガコースの講師を勤めながら、ほのぼのとした仏教マンガを書き続けています。佐久間顕一さんは、大正十年京都に生まれ、京都高等工芸学校精密機械科を卒業。戦時中は飛行機の整備士として過ごしました。戦後日本のルオーと言われた洋画家の安藤義茂(よししげ)(1888〜1967:愛媛県松山市生まれ。東京美術学校西洋学科入学(現・東京芸術大学)。関西居住の文展系作家と華畝会を組織。水彩をもって油彩画の効果を得ることを目的として、刀画の技法を独自に工夫する。以後、この技法によって盛んに制作を行う。一九六七年七九歳で逝去)さんに師事して絵の道に入り、安藤さんが亡くなる昭和四十三年まで教えを受けました。昭和三十九年から四十一年まで、絵の勉強のためヨーロッパ、アメリカに渡り、帰国後合掌童子が生まれました。以来、合掌童子を描くことが佐久間さんのライフワークになっています。
 

 
臂:  「合掌童子」という言葉を辞書で調べてみたんですが出ていなかったんですけれども、「合掌童子」という言葉も、この絵柄も初めて見ましたし、これは先生の独自な作品なわけなんですか。
 
佐久間:  そうですね。絵もそれからそういう「合掌童子」という名前も、私へのお授かりで、私独特のものですね。
 
臂:  そうですか。なんかこうして拝見しておりますと、幼い男の子のような雰囲気もしますし、そうかと思えば慈悲に溢れる母親のような、そんな性別というんですか、感じるんですけど、その辺はどうなんでしょうか。
 
佐久間:  ええ。生まれたての赤ん坊が、性別がないようにですね、また仏さまに性別がないように、合掌童子も「童子」と言っていますけども、性別はないんです。
 
臂:  これは特別に何かモデルになるものがおありなんですか。
 
佐久間:  いや、モデルというのはないんですよ。ただ私は小さい時から、仏さま好きに育って、そしてたくさんたくさん仏像仏画を眺めてきたもんですから、ごく自然に、仏さまというのは童顔ですからね、自分の心の中にあったんだろうと思うんですが、私は無垢な心を顔に託して、いろいろと試みているうちに自然にこういう顔になったわけですよ。ですから、モデルというのはないんですけれども、モデルということになれば、どなたも純な心を宿しておられる時には、合掌童子に繋がるような表情をしていられると思います。そういう意味で、みなさん、あなたさんも合掌童子のモデルの一人ということができると思うんですけど。
 
臂:  これ、先生は一日に大体どれぐらいお描きになるんですか。
 
佐久間:  多い時は随分描きますね。ほんと朝から夜更けまで、そういう時はほんと百体を越えるぐらい描きますし、少なくとも大体年にまあ五千体ぐらい描くのがやっとこですね。ですから平均すれば一日に十五体描くんですかね。
臂:  そういうふうに描きますと、まるで制作三昧というんですか、三昧の境地ですね。
 
佐久間:  まあ、でもこういう絵ですからね。そんならいうて筆ばっかり握っているわけではないんですね。むしろ疲れているときはあまり良いものはできませんから、休むのも絵を描く中に入るし、何か作業をやっても、それがまた心に一つの新鮮さを与えてくれて、そしてまた描く、と。しかし、とにかく描きたくなったら描くことにしていますから、ですから夕飯後でも筆を執ることもありますし、朝起きてすぐに筆を執ることもありますし、そういうこの自分から自然に出てくるわけですからね、出てくる時にはすぐに筆が持てるようにはしております。
 
臂:  そういう生活というんですか、合掌童子とともに歩まれる生活というのは、大体何年ぐらい前からなさっておられるんですか。
 
佐久間:  そうですね。大体昭和四十二年ぐらいに確か生まれたと思うんですけれども、それからまあ一筋に来ましてね。
 
臂:  じゃ、もう二十年ぐらい?
 
佐久間:  そうですね。初めから現在まで六万五千何体ですが、そんなに続けて描くという、そういう計画であったわけではないんです。ただ私のお師匠さんが、「一万枚は黙って描け」という言葉を残して逝ったもんですから、それが頭にありましてね。それで黙って一万枚は描こうと思って、そしてそれが三千枚ぐらい描いた時に、それらを内輪に見積もって、その三千枚で千と考えて、千一から作品の隅とか、それから印の横とかに小さく番号を振り出しましてね。それがいつしか一万三千枚になっていましてね。一万三千枚になった時に、一体ずつ数えるのが本当ではないか。なるほど、それは一体でも疎(おろそ)かに描かないためにこの番号を振るんですから、それからは今度は画面に五体居れば五つ番号を進めるというふうに、一体ずつ勘定を致しまして、その一万三千枚をまず一万三千体に置き換えましてね―二万体ぐらい描いていると思いましょうけどね―それから現在控えがありまして、今描いたのが六万五千五百七十九体目になるんですね。まだこれ落款(らっかん)入れておりませんけれども、こういうふうに致しまして、一体も疎かにならないように、しかし続けて描くということで番号を入れているんです。
 
臂:  今、先生がおっしゃいました安藤先生との出会いがなければ、この合掌童子は生まれていなかったかも知れないんですね。
 
佐久間:  それはもうそうでしょうね。第一私が絵を描く道へ来ていなかったかも知れませんからね。ですから、安藤先生に巡り会ったことが私の生涯を決定したわけですね。
 
臂:  そうですか。その最初の師匠との出会いから、こういう自分の独特の絵柄を創り出されるには、随分ご苦労がおありだったでしょうね。
 
佐久間:  苦労といえば苦労だったかも知りませんが、特にそういうことよりも、何かこう授けられたという気がしているんですね。安藤先生という方は、とにかく「世界中にお前という人は一人なんだから、お前でなければならないものを描け」とこういわれまして、そんなふうですから、師に巡り合ったのは昭和二十二年ですから、四十年近く経っているわけですけれども、その半分ほどは、結局合掌童子以前でしてね。いろんな絵を試みやってきまして、その挙げ句に、やっとハッとある日こう自分の好きな顔が描けて、それがまあ合掌童子の前身だったわけですね。ですから、その時は観音さんのような形でしたよ。こんなんではなかったんですけどね。だんだんやっているうちに、こういうものになりまして。でも、私はその顔の絵というのは早くから一つ自分の好きな無垢な顔が描きたい、と。
 
臂:  じゃもう子どもの頃からずっとこういうお顔を?
 
佐久間:  そうですね。大袈裟にいえば、子どもの頃憧れの中にも、仏さまの顔絵がございまして。
 
臂:  先生のお父さまはたしか住職さまだとか?
 
佐久間:  いや。父は在家なんですけど、得度(とくど)しましてね、僧籍があることはあるんですね。
 
臂:  じゃ、お小さい頃お父さまとともに仏性といいますか、磨いていらっしゃったわけですね。
 
佐久間:  合掌の生活できたわけですから、合掌ということは私にとってはごく自然な生活だったんですけど。
 
臂:  そうですか。先生は安藤先生にお会いになる前というのは、美術大学かなんか?
 
佐久間:  いやいや。それが私は昔の学校ですから、中学五年から高等学校は専門学校へいくコースだったんですけどね。それで絵は非常に好きでしたから、小学校からもうほんとに絵描きになりたいぐらい思っておりまして、中学校も五年生の二学期までは美術のほうへいくつもりだったんですね。ところがちょうど時局が―ちょうど太平洋戦争の前ですね―昭和十四年ですから次第に軍国主義の気運になってきまして、それで図画の先生が、私の数学の成績なんかを見て、「これはもう貧乏絵描きになることないではないか。理科のほうへいけ、いけ」というので、そうしたところがちょうど自分が受験しようかと思っていたその学校に精密機械科というのができたもんですからね―大体そこは工芸の学校だったんですが、そこにそういう時局の影響でユニークな精密なものを多量に大量に生産しなければいけないという時局の要請で、精密機械科というのができまして、それを受験しましたら受かりまして、そんなふうなもんですから、卒業と同時に、いまの重工業の会社へ行って、すぐにまた軍隊で、軍隊では飛行機の整備をやって、まったく美術のほうと離れてきまして、敗戦ということがなかったら、私はそのまま機械畑にいたかも知れないわけですね。
 
臂:  先生のお生まれと同じ年の方、その前後の方というのは一番戦争の被害が多かったんでしょう?
 
佐久間:  大正九、十、十一年というのは、今度の太平洋戦争で一番戦死戦没が多いんですね。私の中学校の名簿なんかみますと、まともに連絡が取れているのは半分以下です。
 
臂:  そうですか。
 
佐久間:  それから専門学校の友だちでも、飛行機乗りはみな戦死しましたからね。
 
臂:  じゃ、今この合掌童子をお描きになっている中に、そういう先生のお知り合いの方の面影を想い出されたりするんでしょうね。
 
佐久間:  そうですね。少なくともそういう人たちへの供養というか、そんなはっきりといつもいつもそれを自覚してやっているわけではありませんけれども、でも私は喜びにつけ悲しみにつけ、この合掌童子を捧げることにしていますのでね。それこそ亡くなった友だちの霊に向かって筆を執るという、そういう気持はどっか心の隅にありますね。
 
臂:  こういうとても涼(すず)やかなお顔の童子さまというのを描き続けていらっしゃるといっても、そういつもいつも生活が平坦ではなかったんじゃないですか。
 
佐久間:  それはこの合掌童子が生まれるについても、また生まれてからでも、合掌童子が育つについても、やはり人間の苦悩というものがやっぱり大きく働いていると思います。私は合掌童子を描くことだけがほんとに唯一の心の支えだったという、そういう精神的に非常に追い詰められた苦しい時代があったんですが、その時に自分は夜更けまで合掌童子を描きに描いたわけですね。結局そのことによって、知らないうちに合掌童子を練習していたわけですね。そしてその時はまだ三千枚ぐらいまでの状況なんですけどね。
臂:  何か一時期、先生は良寛さまではありませんけれども、何もかも捨てて、ただあるのはほんとに生きていくに最低の糧と、あと合掌童子だけだった、というような時期を何年も過ごされたことがあるそうですね。
 
佐久間:  そうなんですね。合掌童子が生まれた直後ぐらいにですね、私にそういう大変な苦悩の時があって、そしてその挙げ句に、私は一切を捨てて、そしてきざっぽい言い方ですけど、天が与えてくれるものだけで生きていこうと、そういう気持になりましてね。それでそれまで学校で数学を教えて―夜間の学校ですが―昼間絵を描いて、夜は学校で数学を教えて月給をもらっていたこともあったんですけど、そういうことも何もかも止めまして、ちょうど私一人だったものですから、そういうことができたわけですけれども、ちょうど良寛さんがあの乞食生活を始めた歳だったんです、それは。ちょうどもう今から二十年近く前になるんですが、四十六歳の時ですね。良寛は五合庵という庵に定住して―それまでは近在をウロウロしていたんですね。故郷に帰りましても、寺の住職にならないで、そしてやがて山の中腹に五合庵という小さな庵があってそこに定住して、そして今の世間の人が知っているような生活を始めたんですね。私も非常に良寛のような生活に感激しておりましたんで、それでちょうどそういう一つの機会だったわけで、何もかも捨てたわけです。それについてはいろいろと面白い考え方があって、人生を三つにわけて、二十五歳までは世の中から貰う生活。五十歳まではその借金を返す生活。五十歳から後はまったく借金なしの生活と、そういうふうな三段階にわける。これは何かに記されていてそう思っていたんですが、それをちょうど少し早めましてね。しかし、いくつになっても、今になっても世間さまに借金返しをしなければいけない自分なんですけれどもね。しかしそういうことがありまして、その時に私は、唯一自分の支えは合掌童子を描くことですし、しかもまた、何もかも捨ててしまったら、何かしなければいけないという義務一つもないわけですね。ですから、天気が良いと庭へ出て草むしり、家に入って心ゆくまで合掌童子を描くという生活ですね。天気が悪いと近所のお寺へ行きまして、天気悪い時は和尚さんのとこへ人が来ませんから、和尚さんも閑だったものですからズーッと話をしていたわけですが、そのうちにいろんなものを捨てたらいろんなものがきまして、作品が世に出るし、同時にいろいろと世間の塵芥(ちりあくた)も自分に舞い込んでくるというようなわけで、今やどうも良寛さんの生活とはおよそ違ったような生活になったんですけどもね。
 
臂:  先生はその時草むしりなさっていても、心の拠り所がない毎日だったら不安だったでしょうが、先生の場合は合掌童子があると思ったら毎日夢と希望に溢れていらっしゃったんじゃないでしょうか。
 
佐久間:  そうですね。空虚さというか、何していいかわからないという、そういうことはなかったですね。とにかく自分が家へ入っていれば、そこに硯と筆があって、そして絵を描くという、そういう習慣になっていましたから。
 
臂:  その頃というのは、描けるだけでも有り難くて幸せだという感じじゃないでしょうか。
佐久間:  まあそうですね。きっと描かせてもらっていることの有り難さをしみじみ感じないけない、そういうことだったろうと思うんですけど、今になると、どうもちょっと忘れておりますけどね。
 
臂:  そうですか。でもこうやって現在六万五千体以上もお描きになっていますと、この合掌童子に巡り合う方もたくさん増えてこられるわけですね。
佐久間:  そうですね。ほんとに世間へ出ていく数は、それは私の描き出すこの合掌童子の数のほんとに何十分の一か、何百分の一ではありますけど、それでも北は北海道から、南は九州までたくさん合掌童子を愛してくださる方があるんですから、それはせっせとほんとに今は一点でもたくさん、一点でもいい作品を生み残しておきたいという気持ですね。こういう例がありますね、金沢の方ですね、自分で難産の末に子どもが授かったんですね。その子が大変良い子で、それで両親がとても可愛がっていたわけですね。それがその子が四歳の時に、お母さんの目の前で車に轢(ひ)かれて死んでしまったんですね。そんなものですから、両親は茫然としてしまって、それで心の拠り所を失って、そして泣いていたんですね。ところがその時里のお母さんが、これは本願寺のパンフレットに載っていた印刷の小さな合掌童子だったんですが、それを見付けられて、自分の娘のところへ持って行かれたんですね。で、「坊やもこんなふうになったんだ」と言って。そのお母さんから手紙がきてわかったんですけど、「その合掌童子を見た途端に、自分は気が付いた」というんですね。「自分の子どもと思っていたのは、実は仏さまだったんだ」と。「子どもを我が子、我が子≠ニ思っていたけど、仏さまだったんだ」と。「そう思えた」というんですね。それで、「仏さまが自分たちを導くために、こう来ていってくださったんだ」と、そう思えた。そうしたところが心が非常に安らいだんですね。それからでも、勿論余所の子どもが喜々として戯(たわむ)れたりしているのを見たりすると、心が乱れるわけだけれども、でも今度は心の拠り所ができたわけですね。それでも絶えずその母親から手紙が来たり、電話がきたりして、「合掌童子を描いてください」と言ってくるわけです。だから私は何枚も描いてあげて、それからそのうちに、初めの頃は泣いて電話かかってきたこともありますし、縷々と悲しみを訴えた手紙がきたんですが、いつの日にか―私はこんな小さな合掌童子を描いているんですね。この小さい合掌童子をその方が欲しがられるんですね。それでまああげていたところが、わかったことには、自分がそういう不幸な目に遭うと、その不幸な人がまた声をかけてくれる、というんですね。「ああ、あんたのとこもそうだったんですか」と。そういう時に、自分が額を買ってきて、これを入れて、それでその人たちを激励に歩いておられるんですね。ですから、彼女は自分の不幸を契機に、今度は人々を慰めたり激励するという仏さまのお手伝いをし出したわけですね。で、そういうことがずっと続いているうちに次第次第にその方も立ち直ってこられて、今度は有り難いことにまた次のお子さんが生まれたんです。女の子だったんですけどね。そしてその女の子を一生懸命育てられて、そして自分もまたPTAで活躍なんかしておられて、ある時、「正直言って、最近は坊やのことを忘れている時があります」と、こう言われましたけどね。ほんとにそういうふうにして不幸から立ち直ってね。その方は今でも合掌童子を一家をあげて非常に大好きでね、此処へもよく一家でお出でになるんですけどもね。そういうふうなことは他にもいくつかあるんですけどね。そういう時には、この私が描く合掌童子ですけど、何だか仏さまが私に描かせて、そういう方々に渡しておられるような、そういう気がするわけです。いろんな方から、それぞれの心で合掌童子を求めてこられるんです。例えば結婚する娘を嫁がせるお母さんが、「二人の童子が合掌し合いながら、波の上にいる合掌童子を描いてほしい」というんですね。つまり二人で力を合わせ、合掌し合って、そしてこの人生の荒海を乗り切っていってほしい、と。そういう母親の願いですね。そういう気持で私に描いてくれ、といわれましてね。それでそれを描いたこともありますよ。ちょうどこんなふうな図柄だったんですがね。こういうふうな、ちょうど二人が波の上に、花の上に載っかって、合掌し合いながら、荒海をこういく、と。しかしそういう説明的なことは、私はどうでもいいと思っているんですよ。とにかく二人の童子が合掌し合っているというところで、私自身はそういう二人の幸せを願って筆を執るわけです。
 
臂:  なんか描かれた童子がやはり心が何より一番大切だという。ですから、本当の人間が生きていくのに、一番幸せになれるのは、物でも地位でも名誉でもないという、はからいを捨てた、ほんとの素直な純な心をいうんですか、そういう絵柄をみるとそういうことを願わずにいられない、思い出さずにはいられない。ですからこれを持って二人で人生を歩まれるなんていうのは、ほんとにこれからの人生というものは素晴らしいものになるんですよね。
 
佐久間:  そうですね。お仏壇のない若い夫婦のマンション暮らしなんかの時でも、合掌し合っている童子の色紙が、お仏壇代わりでタンスの上にちょっと置いてあったりする。或いは心の失せた時にジッとそれを見ているというような、そういう話もよく聞きます。どっちにしましても、これはそういうのは、合掌童子の働きというのは、ほんとにこれは私の手柄ではなくて、なんか大きなものの働きが、そこに私という人間を使ってこんな絵を描かせているんではないかと思うわけです。
 
臂:  もしかしたらこの合掌童子というのは日本の国内だけでなくって、外国の方が見られても、この心というのは通ずるもの、感じられるんではないかと思うんですけど、そのこともおありですか。
 
佐久間:  三年ほど前にパリで展覧会があった時も、そういう経験がありましたね。ある和尚さんはこういうことをいったんですね。「赤ん坊の泣き声には国籍がない」というんです。「世界共通だ」と。赤ん坊の顔もどうも共通ですね。赤ん坊の笑顔というのは、勿論その世界各地少しずつそれぞれ特色はありますけど、それでも赤ん坊の無心な笑顔というものは、これは共通なところがあると思いますね。そういう意味で、存外外国の人が喜んでくれる。この間二十二年ぶりでインドでお世話になった方に、私はお世話になった時の礼状を今頃になって送ったんです。そうしたら娘さんから手紙がきましてね、私をお世話してくれたお父さんは七年前に亡くなったんですけど、その娘さんがやっぱり芸術のほうをやっていましてね、嬉しいことを言ってくれましてね。私、合掌童子を一緒に入れて送ったんですよ。そうしたら、「so innocent, so beautiful」いうてね、清らかで美しいと言ってくれた。「清らかだ」と言ってくれたことが私は特に嬉しくて、あぁ、インドにもまた合掌童子の友が一人できたなあと思って感謝しているわけですよ。
 
臂:  実は私も、今、仏教のほうの絵を描いているんですけれども、先生に見て頂きたいと思っていくつか持ってきたんですけども。
 
佐久間:  可愛いらしいですね。
 
臂:  佐久間先生が安藤先生という素晴らしい師匠にお会いになったように、私にも佐川美代太郎先生という師匠がおるんです。その師匠がたまたま東洋哲学だとか、仏教だとかというところに造詣が深かったものですから、それでほんとに自然を愛するという気持が深くありましてね、自然の話をする時の目の輝きが素晴らしくて、何度も何度も聞かされているうちに、自然に自分も仏教のマンガを描こうなんというふうになったんです。仏教のマンガを最初の頃は、どうしても客観的に切り紙みたいなものばっかりを描いていましたけど、だんだん自然を見るというのか、はからいの心を捨てるんだというような―私なんかはもう欲の固まりみたいのような人間ですけど―師匠から、「いろんな欲を少しでも抑えて、自然をその分見てごらんなさい。どんなに心が豊かになるかわかりませんよ」ということをなんども聞いていましてね。このままではいけないと、仏の懐の中に入って、如来の懐の中から信仰というのか、そういう溢れたものを描くようにならなきゃダメなんじゃないかと思いまして、今だんだんこういう絵を描くようになっているんですけど。でもなかなか難しいです。なんといっても、線が一番難しいですね。師匠がよく申しますけど、「線は人だ」というんです。
 
佐久間:  そうですね。
 
臂:  やはりなんか自分が深ければ、やっぱり絵は線も深くなるという。
 
佐久間:  そうですね。心の線は心の動きですからね。ですからほんとに良寛なんかの晩年のあの一見するとたどたどしく引かれたあの線がどんなにか清らかで味わい深いかというのを感じますとね、線というのは大切ですね。
 
臂:  先生はこういう画面だけじゃなくって、なんか他にも合掌童子をいろんな方法で作られていると伺ったんですが。
 
佐久間:  合掌童子ばっかりですから、自然に合掌童子でバラエティができてきましてね。ですから土で合掌童子を作ったり、こういう陶器に絵付けをしたりですね、これは香合(こうごう)ですけれども。これは酒田の海岸で拾った流木なんですよ。それで私は流木というのは非常に好きでしてね、流木というのは波に洗われ洗われて、本当に人間でいえば我(が)のなくなった状態でしょう。非常にこれ安らかさがありますね。それでそれを見ていると、ちょっと合掌童子をこうはめ込んでみたい気持になったりするんですよね。
 
臂:  これはとてもよく合いますね、
 
佐久間:  まあどうでしょうかね。私の悪戯ですけどね。それからこんな流木にこう胡粉(ごふん)で先にやりましてね、それから線やら色を付けるんですけどね。
 
臂:  この流木もどこか歩いていて?
佐久間:  酒田の海岸で、
 
臂:  先生は海岸へよく行かれる?
 
佐久間:  毎年、酒田に熱心な合掌童子を愛するグループの方がいらっしゃってくださって、展覧会があるんで、毎年秋に行くんです。行くと海岸で日本の荒海に揉まれた流木を拾ってくるんですよ。いろんなのがあるんですけども、これは扇子。私は消耗品には付けないんですけどね。これお茶の扇子ですから、お茶の扇子は持っているだけでしょう。で、お待合いで眺めることができるし、というので、こんな扇子を描いたり、いろいろやっているんです。
 
臂:  なんか師匠さま譲りの刀画というんですか?
 
佐久間:  そうですね。ちょっとお師匠さんの技法を―お師匠さんは、「君には何もかもさらけ出したんだから、吸い取れ、吸い取れ」いってくれたんです。なかなか偉そうに、お師匠さんの技法を継承するなんていうようなことは、私にはとても言えないと思っているんですけれどもね。せっかくこのお師匠がそうして教えてくださったもんですから合掌童子の絵にそれを導入しまして、私は私なりにやっているわけです。お師匠さんは紙をナイフでこう削りながら描く絵なもんですから「刀画(とうが)」と名付けたんですけど、私はどこまでもそれはテクニックとして頂戴したもんですから、「刀画手(とうがて)」の作品―「手」という字を付けましてね。私のは技法の上ではいくつかいろんなことをやっていますと、例えば金地の上に胡粉(ごふん)をこうおきまして、そして色を付けていったり、そういうのを「金地胡粉手」といったりね、或いは柔らかい間に絵の具を掻き落とすという方法ある。そういうなのを「掻き落とし手」とかね、まあささやかなことですけれども、合掌童子の中で、いろんな技法を工夫してみているわけです。それで刀画手の作品もこれは随分時間がかかるし、なかなか成功しないんですよね。で、折りに触れて何度も何度も手を加えながらやっているわけですけど。
 
臂:  先生は安藤先生がお亡くなりになる時の想い出がいろいろおありだと思うんですが。
 
佐久間:  私のお師匠さんは、最後まで私のために、先生自身の生き様を私にくれていったような気がするんですね。それでこんなことがあるんですよね。私は、軽薄なところがあって、とにかく生死というような、人間の死という問題について論じようとするわけですね。それは決して悪いことではないと思うんですけれど、先生が元気な時でした。ある日「先生、死という問題があるけど、どうですか?」といったらね、先生は返事しないんですよ。そうして黙々と絵を描きおるんですね。私は、ずっと先生の沈黙に押し潰されて、ハッと気が付いたんですね。「お前はそんな生死を論じるような、そんな閑があるのか。それほど真剣なのか。生死を論じるほど勉強しておるのか」と、そう先生がいうような気がしましてね。とにかく先生はその時に、「私は死のことは考えない。勉強のことは考えている」と、こういうふうな言い方でした。それから、私はその時に、自分の浅薄さを非常に恥じたんですよ。ところが先生は、その後に身体を壊しまして―ちょっと軽い脳溢血だったんです。すぐ治ったんですけど、それから間もなくなんですよね。ある日ポツリと、「僕はいつでも死んでもいい覚悟ができた」とこう言ったんですよ。私は、来るものが来たら、今度は全力でそれに向かって、心の上にちゃんと準備をしてしまっているところで坐っているのに、ビックリしたわけですね。そんなことがありましたね。しかしお師匠は実は心の中で、不幸な中で自分の芸術を生み出していたところがあるんですよね。第一私のような鈍根のお弟子に向かっても、ほんとに先生は、「反対の証拠があがるまでは止めちゃいかん」と私に言われるわけです。私が作品を持っていくと、ほんとに半日小言を言われるわけです。それでもう絶望して止めようかと思っても止められないんですね。何故止められないかというと、お師匠さんが、「反対の証拠があったらすぐやめろ」と。「お前さんが、絵が描けないという証拠があったら、それはすぐ止めろ」と。「しかし、できるかできないかはやっていないとわからんだろう。そういう間は続けなければいけない」と。その点でお師匠さんは私のような鈍根に向かっても、「私にできない、私に私らしい絵を描かすことができない」という証拠がない間は、私を見放さなかったんです。これはおそらく他のお師匠さんのところへいっていたら、とっくに破門になっているんじゃないかと思うんですけどね。いつまでたっても自分らしいものができなくて、鈍根をぶら下げていたんですけど、お師匠さんは最後まで私をそういうふうで手放さなかったんですね。それで私もほんとに自分の先生に対しては、仏さまか神さまのように思っていましたから、それでいろいろと注意をされたことは、これはほんとに頭に刻み込んでいます。
 
臂:  時間が経って、今ぐらいになって、「ああ、あの時に師匠が言ったことはこうだったのか」というようなことがあるわけですね。
 
佐久間:  そうなんですよ。今頃になってね、「ああ、あの時はああいうことを言われた、こうなんだな」と。私は忘れもしないことですけど、ほんとに晩年になって、先生はいつでも絵というものについて、前進的な、新しい絵画論を展開していたんです。しかし、自分自身はそういう抽象的なお仕事とか、思い切って羽目を外した絵を描かなかったんですけど、絶えずそういうものに対して理解を示しておったんです。それが一番最期の頃にポツリと、「絵というものはなぁ、和(なご)やかなのが一等いいねぇ」と私に言ったんですね。その時は病床にあったんですね。「絵というものはなぁ、和やかなのが一等いいねぇ」こういってくれた。その言葉を、私はその時正直言ってわからなかったですよ。わからなかったというのは、なんかはぐらかされたような気がしたもんです。いつもならそういうことを言わない。そういうふうな言い方をしなかった先生ですからね。「絵というものはなぁ、和やかなのが一等いいねぇ」とこう言って、それっきりだったんですけど。こんなふうに一筋にこの合掌童子を描いてきましてね、私は、これが芸術かどうか、それはわかりませんよ。それから他人(ひと)にどういうふうに受け止められるか、どういうふうに評価されるか、それはわからないけれども、自分の心に向かって、作品を描いている時に、「ああ、和やかなのが一等いいな」と、自分自身もしみじみそう思うわけですね。お師匠さんが亡くなって、もう随分になりますけれども、そんなふうなことを思うと、やっぱり有り難い気がしますね。
 
臂:  ましてやこういう合掌童子のような、もうほんとに和やかな顔ですね。こういうお顔を作っていらっしゃったら、かえって自分のほうが救われていくという、自分が描いてあげているんじゃなくて、
 
佐久間:  そうですよ。絵というのは本来自分に描くものだと思うです。私の場合なんか特に自分のために描いているわけですね。絵がある人々の心を打って、みなさんが喜んでくださるというわけですから、これはほんとに有り難いことですね。実は恥ずかしい恥ずかしいと思いながら作品を出しているんですよ。いつまでたっても、何枚描いてもなかなか恥ずかしい気がしますね。
 
臂:  そうですか。
 
佐久間:  それで自分というものを振り返りますと、ほんとになお恥ずかしいですから、ただそういう自分を、自分が描き出す絵が多少とも支えてくれる、救うてくれるというところがほんとに有り難いですね。
 
臂:  先生が純なお心で描いていらっしゃるんですよね。それで純なお顔の童子ができるわけなんですけど、例えば技術的にはこういうふうに、ほんとに目を閉じていても描けるぐらいになったとしても、もし万が一俗っぽい毎日の社会生活的なことや何かに頭がいっぱいになったり、気を取られたりして、心が変わってきますと、技術的にはちゃんと描けても、本当の心というんですか、求める方に認めて貰えるような、心を打つ顔じゃなくなるんじゃないかというのか、ですから先生のお心とこの合掌童子というのは、もう紙一重というんですか、そんな感じが私はするんですけど。
 
佐久間:  恐いですね。そんなことをいわれると、ほんとに困るんですけど。これはキッとおっしゃる通りだと思いますよ。ですから、私は自分を振り返りますと、いつもいつも純な心でおれるわけではないわけで、人間というのはそんなんと反対のもんでしょう、大体が。いわんや、私なんか自分を振り返りますと、まったくそれなんですけれども。しかし人間というのは不思議なもので、どんな人の中にでも、その純な心というのは潜(ひそ)んでおるんですね。私なんかは、もうずっと自分がこんにちまで、自分を支えてくれたものを突き詰めて、何だったんだろうと思うと、ほんとに時々に自分の心に宿るそういう純な心が私を救うてくれたと思うんですよね。もしも私が、それこそ行住坐臥(ぎょうじゅうざが)といいますか、明けても暮れても純真な、純な心だったら、それは私はもうこの世に恐いものなしだと思うんですよ。何がこようとそれはいい。しかしそうはいかんですね。絶えず純でない時が多いから、迷ったり苦しんだり、おどおどしたりするわけですけれども。
しかし、あなたの作品を見ていても、非常に純な感じがあるし、きっといい作品が描けていかれると思いますよ。
 
臂:  先ほどからも出ていましたけれども、自分が合掌童子を描いているんじゃないって、合掌童子に導かれて自分が描いている。合掌童子を描くことによって、心までが穏やかになってくるというんですか、そういうようなことというのは?
 
佐久間:  自分の心が非常に荒れていても、筆を持ちますと、筆先からは思い掛けず安らかなものが誕生してくれるんですね。いつでも、筆を持った時、目や口を入れる瞬間は無心なのかも知れませんね。とにかく自分が描き出すそういう顔に、私はいつもハッとするんですよ。あ、安らかないいものができたなあと思ってね。また描くでしょう。何点か描いていると、もう先ほどの荒れた心がだいぶ和らいでいますね。そんなふうな生活を送っているわけですけれどね。作品だけはほんとに溜まっていきます。
 
臂:  私はよく絵を描く時に、お念仏を称えると心が静まる。それから生活の面もなんとも致し方ない煩雑な思いで、どうしていいかわからなくなると、よく観音様だとか、お地蔵さまだとか訪ねて歩くんです。それで心を静めていくんですけれども、まさに先生にとって合掌童子というのは、そういうのと通ずるようなところがありますね。
 
佐久間:  そうでしょうかね。まだまだですけどね。
 
臂:  自分の心を静められて、しかもいいお顔とか、これももうそれこそ死ぬまで行(ぎょう)のようなものでもあって、しかもそれは先生にとっての一種の法悦境というか、
 
佐久間:  まあ、どういうのか生きることそのものになっていますね。だから、結果はよくなっていくのか悪くなっていくのか、そんなこともみなあなた委せですね。よくなるかどうか、そんなことはわからない。そして不思議なことに繰り返す、繰り返せるということは、その都度新鮮だからなんですね。その都度新しい希望とか、新しい工夫とか、新しい感激とか、新しい体験があるから飽きもしないでまた繰り返していけるんじゃないかと思うんですね。しかし結局は、自分がそう思ってできることではありませんから、やっぱりこれは描かされて描いていると言わざるを得ないと思うんですけれどね。お恵み生活は無一物になって始めた生活のままの心、姿勢でこれからもいきたいと思っていますよ。
 
臂:  そうですか。流木なんかにもとてもよく合いますね。やっぱり同じ心だからよく合うと思うんですけれども、
 
佐久間:  その心は顔にも出ますからね。
 
臂:  そうですね。
 
佐久間:  だからほんとに純な気持でいたいですね。
 
臂:  今日は先生にいろいろといいお話を伺いましたんで、もう私もこれから自分がまた描いていくのに、私はまだまだ若いですし、ほんとに俗っぽい人間ですので、なかなかそういかないんですけども。
 
佐久間:  ほんとに若いからこれから随分やっていかれると思いますし、期待していますから。
 
臂:  やっぱり描く時の気持というんですか、描かせて頂けることを喜びながら、ほんとにたまたま念仏の境地というんですか、そういうのを心に描き続けていきたいと思います。
 

 
     私が世に贈り得るものがあるとすれば
     それは、「純なる心」一つである
             佐久間 顕一
 
 
     これは、昭和六十一年六月二十二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである