自己を究める―一休の生涯から―
 
              花園大学名誉教授・(財)禅文化研究所長 西 村  恵 信(えしん)
昭和八年滋賀県生まれ。昭和三一年、花園大学仏教学部卒業後、南禅寺僧堂で参禅修行。昭和四五年、京大大学院文学研究科博士課程修了。平成八年、国際禅学研究所長。平成一三年、花園大学長に就任。去年三月花園大学長の職を退く。著書に「己事究明の思想と方法」「鈴木大拙の原風景」など多数。
              ききて                 峯 尾  武 男
 
ナレーター:  滋賀県東近江市。古くから琵琶湖の東岸を意味する湖東といわれる地域です。此処におよそ三百年前に創建された禅宗の寺院・興福寺(こうふくじ)があります。西村恵信さんは二歳でこの寺に預けられ、住職である養父を師として育ちました。京都の花園大学を卒業後、南禅寺の僧堂で参禅修行し、また若くしてアメリカに留学、社会奉仕が盛んなキリスト教のありように学ぶなど、帰国後も独自の視点で禅学に取り組んできました。西村さんは去年長年務めた大学の職を離れ、五十年ぶりに山門前の畑を耕し、野菜作りに精を出しています。土に触れる生活の中、本来の生きた時間が甦ってきたという西村さん、室町時代の乱世を生きた禅僧一休(一休宗純:1334-1481)の生き方について伺います。
 

 
峯尾:  西村さんは去年の三月に学長を退かれて、
 
西村:  はい。
 
峯尾:  しかし、花園大学は学ばれていた頃からというと、五十年以上、
 
西村:  そうですね。もうこの日を待っていたんですよ。
 
峯尾:  そうですか。そうすると、今は本当にご自分の時間がフルに使える。
 
西村:  そうですね。私は五十年間、此処を少しも動かないで大学へ通いましたからね。そのロスも大きかったけど、何よりも一日も早く帰って、師匠のやっていた通りにお掃除を奇麗にして、お経を読んで、師匠の恩返しをせなならんと思っていましたが、やっと実現しました。
 
峯尾:  もう教授時代、学長時代を思い出されて、冷や汗をかかせられるようなことは?
 

 
  〈境内にある達磨の前で〉
 
西村:  いやいや、もうこれはこの日を待っていたんですから、二歳の時から―あの山の向こうが私の生家です。この山の向こうから二歳の時に連れて来られて、気が付いてみたら、この寺の坊んでしたね。それから一度も住民票を動かしておりません。世界中走り回りましたけども、帰って来るのは此処、
 
峯尾:  達磨さんですよね。
 
西村:  そうです。
 
峯尾:  台石はだいぶ苔むしておりますけれども、こちらはそんなに、
 
西村:  同じ時ですよ。
 
峯尾:  同じ時ですか?
 
西村:  私の友だちで、大阪の石材屋さんが、「中国へ行って買ってきたんだけど、置くところがないから、どうです?」というから、「どうぞ」と言って置いていってもらったんですよ。
 
峯尾:  ちょうどいい場所に鎮座されていますね。
 
西村:  いいですね。この達磨さん、ここにこう鎮座在(ましま)してから、私はほんとにこの寺が禅寺らしくなりましたしね。
 
峯尾:  達磨さんは経典を繙(ひもと)くよりも、こうやってずっと坐っていらっしゃる。
 
西村:  そうですね。達磨さんは、ご存じの禅宗の祖師ですね。インドからやってきて、禅宗を伝えた人ですが、真っ直ぐ人の心を指さして仏にならせる、という、そういうことをやった人ですね。しかし、まあ心といっても、そんなものどこ捜してもありませんわね。結局自己とは何か、ということでしょう。そこでの自己ということもなかなか難しいことですが、達磨さんがインドからやって来ました時に、梁(りょう)の武帝(ぶてい)という人が、「お前さんは誰じゃ」というたんですよ。この人は壁眼(へきがん)の胡僧(こそう)と言って、眼の碧(あお)い胡(えびす)の坊さんですね。「お前は誰だ」と言ったら、達磨さんは、「不識(ふしき)」―知らん。よく表具屋さんへ行くと達磨の絵が描いて、上に「不識」と書いてある。あれは、「あなたは誰ですか?」と訊かれて答えた答えなんです。「知らん」と。そう言われれば、「あなたは誰ですか?」と言われれば、私はすぐね、「私は西村で、日本の臨済宗のお坊さんで、身長は百六十二でとか、何とかかんとかいっぱい言うじゃないですか。それは私じゃないんですよ。全部私を外から見ていろいろ言っている。みんなそうです。「自分とは何か?」というと、すぐ意識で知っていることを構築してイメージを作る。これはまあ意識的自己ですね。ほんとの自己は、自分では説明できない。寝ている時はそうですね、寝ている時はたしかに固まりが寝ているんだけど、知らんでいますね。朝起きると、そこのベッドが凹んでいる。その固まりが自己ですよ。それは意識以前の固まりなんですよ。お母ちゃんから出て、棺桶に入るまでの固まりです。それがほんとの自己で、それについて、「わしは日本人だ」とか、「男子だ」とか、なんだかんだいっても、ぜんぶ説明であって、自己そのものではないでしょう。だから彼は、「不識」と言った。
 
峯尾:  「不識」であるけれども、自己が何であるかを自分で一生懸命追求して求めているんだ、ということでもあるんですか。
 
西村:  そうですね。やっぱり意識がなくなって、固まりだけになるまで坐らないと、それはわかりませんね。意識があって、自己を反省しているうちはいくらでも追求できますけど、そういう追求の仕方は禅宗の仕方とは違いますね。「自己を習うというは、自己を忘るるなり」ですから、道元(鎌倉初期の僧。日本曹洞宗の開祖:1200-1253)の言ったように。忘れるまで習わないといけませんとやっぱり坐禅というのはそこまでやらんといかんらしいですよ。それよりももっと易しくいえば、此処に立つと、達磨が、「お前のことわかっておるか。おれはお前のこと知らんぞ」と。「お前のことなんか知らんぞ」と言っているんですね。「自分もわからんけども、お前のこともわしは知らんで」と言っている。いつもこの前を通ると、私を突っ返してくれる人ですね。何にも教えてくれませんよ。この前を通るとこの達磨さんが、「お前はどうした」というから、「我に返る」、そういうことでしょうな、理屈をいえばね。
 

 
峯尾:  西村さん、今年二月に一休さんをテーマに、この『風狂一休』を書かれましたが、これは前々から一休さんの本を書いてやろうとお考えだったんですか。
 
西村:  いやいや。そんな恐いことを思いもしませんでした。誰でもそうですけど、私の知っている人は、みんな一休を書きましたが、書いた人は一休は難しいということでした。初めて京田辺市の酬恩庵(しゅうおんあん)、一休寺、そこへ自分で行きましてね、これも初めて一休禅師の前に出ていきましてお許しを請うたんですよ。頭が穴だらけの一休さんの、自分の肉髪を植えたというお木像ですね。髪は誰かに抜かれちゃったんですけど、その前に行きまして、線香を供えて礼拝して、「どうですか?」というと、「お前なんかにわかるか」って言われましたよ。いろいろ読みましたけどね。要するに結論的には、一休さんといえば、頓知(とんち)の一休さんでしょう。今は中国の子供でもアニメのお陰で一休さん知らない子いないといいますよ。日本でも一休さんのアニメもありまして、私なんか檀家へ法事に行くと、「それ一休さん来た!」というて、みんな喜んでくれるようになった。一休さまさま、ですよ。でも私は一休さんのいろんなものを読みましても、そんな頓知噺一つもありませんよ。あれは江戸時代の中期頃に、噺というものが文学的に流行ったんですな。その時に「一休噺」とか、「一休諸国物語」とかというものを誰か気の利いた人が書いて、一休和尚を主人公にして創り上げて、それが猛烈に流行ったんですね。そのお陰で一休さんも今あるわけで。
 
峯尾:  そうすると、実際の一休さんはもっと複雑な奥の深い方?
 
西村:  そうですよ。「自分の禅をわかる奴は天下におらん」と言って、死んでいったんですから、もうわかろうとするのが無理。もしわかったという人がおったら、全部ボール、ボール。私はわからないところに魅力を感じたんですね。
 
峯尾:  しかし執筆の途中で心臓を悪くされた?
 
西村:  ちょうど折悪しく、その時に私は狭心症で痛みを感じて、オーストラリアのケルケゴール学会に行くのを二日前にドタキャンして、すぐにステントを入れる手術をしました。もうここのところが九十五パーセント、三、五センチにわたって冠状動脈が塞がっていた。ですからオーストラリアへ行ったら、きっとご遺体で帰っていましたわ。僕もたくさん本をバカみたいに書きましたけどね、これは最後の本になると思った、ほんとに。
 
峯尾:  さてその一休さんですけれども、生まれたのは応永(おうえい)元年(一三九四年)、足利義満が権力を握っていた頃、
 
西村:  乱世ですからね、どう生きるか。いつ死ぬかわからないという必死な気持の中で、人々は生きますからね、逆説的ですけど、精神性も非常に高まるような気がしますね。そういう中に一休さんは生を受けた。人間の生き方を非常に緊張させるいい時代に一休さんは生まれてきたと思うんですね。
 
峯尾:  しかし、時の天皇・後小松(ごこまつ)天皇のご落胤(らくいん)だともいわれていますね。
 
西村:  いろいろ言われたんですよ。後小松天皇は北朝系だと思いますね。その一休さんのお母さんは南朝の人だったらしいですよ。私は歴史のことはあんまりよう知りませんけど。そうすると妬んだ官女たちが、「あの女は天皇を狙っているんだ。いつも懐中に刀を入れていますよ」と言って讒言(ざんげん)したんです。それで内裏(だいり)を追われて街の中へ一休さんを―一休さん当時は千菊丸(せんぎくまる)という幼名で洛西(らくせい)に母子家庭を営んでいたんですね。これを「王孫(おうそん)」というらしいですね。陽当たりのよくないご落胤―「王孫(おうそん)」。やっぱり権力によって生まれてきたことの義憤と、それから母が悲しい思いをしている。悲劇の人であるということがやっぱりあって運命を憎んだでしょう。
 
峯尾:  ずいぶん幼いうちからお母さんと二人だけで暮らしていて、六歳の時お寺へ入った。
 
西村:  あの出家ということも簡単になれませんよ。今は坊さん募集していますけど、当時の出家になるのは大変な儀式と戒律というものがいっぱい必要だったんですね。寺へ入りますと、ほんとの出家で男の集団生活ですからね、これはまた大変なところですよ。お茶汲み坊さん。一休さんのマンガ読んでいますと、袴はいた青い頭の一休さんがずっと掃除しているでしょう。嬉しそうな顔して、幸せな顔していますけど、あれは大変ですよ。男社会ですからね。お母さんと母子家庭をやってきた一休さん―まだ一休じゃありませんよ、あの時は周建(しゅうけん)さん。周建といういい名前を貰いました。それで、それが女っ気のない中へ入った。男色(だんしょく)、可愛がられますわ。五山文学の中には、男色ばっかり詩っている強烈な歌があるんですよ。お化粧までしているんですよ。お酒の席ではダンスはさせないか知らんけど、かなりね。要するに戒律によって、女性を入れたらいかんのです。だから男性の若いお小僧を女性と同様に扱うんですね。一方で権力があって一方でそういう裏がある。その表裏を見てしまったという感じですね。これは一休さんを悩ませたと思います。
 
峯尾:  西村さんご自身の話になりますけれども、西村さんもお小さい頃にこちらへ養子として入られたんですね。
 
西村:  私は政略的なものではございません、まったく運命です。さっきも申しましたように、向こうの山の向こうで―そうですね、今ですと車だと五分ですか―そこで生まれたんです。十人兄弟の一番最後に生まれたそうです。そうですって、ほんとに生まれたんですね。昔は「一子出家すれば九族(ナインゼネレーション)天に生ず」というので、一人ぐらいは坊さんにしてもよかろうと思っておったんでしょうね。それでなかったらもらいにいくわけはない。ただ母親の顔知りませんでね、残念ですね。それから親父が水瓜を背中に負って二回来ましたわ、この寺へ。どうも血を引くというかね、普通のお客さんと違うですな。僕はお客さんが来るとジッとしているんですけど、その人が来ると、あんまり此処にいてはいかんのかなあと思って、「僕、遊びに行って来る!」といってね、席を外した思い出があります。そして裏へ行って全然遊びに行っていなくてね、帰って行くのを見て、裏の柿畑でうわっと泣いたことがあります。連れて帰ってほしかったけどね。そんなこといったら叱られるから。だから、あの父、恋しかったけどね。二回来ましてね、一回僕は無断で人づてに聞いて自分の家へ行ったけどね。一回思い切って、「お父さん」と言おうと思ったけど、言い損なったなあ。「お父さん」という人が一人欲しかった。ついに言えなかった。此処の師匠が、和尚さんですからね。小さい時は「おっちゃん、おっちゃん」と言ってたけどね、「お父ちゃん」と言いたかった、僕も。言えなかった。お母さんが、此処には私を育ててくれて、この間九十九歳で死んだ教育熱心な養母がおりましたが、子どもがありませんでしたね。その養母に私は育ててもらって、そのお陰で今日があるわけですけど、やはり実母は見たことないけど恋しい。一休さんのものを読んでいましたら、やっぱり後小松天皇も愛しい我が子でしょう。そう言われませんわな。時々青年になった―禅僧になった一休を宮内へ呼んで出会っておられますね。
 
峯尾:  そうですか。
 
西村:  天皇の皇位継承問題でも、南朝北朝もめた時に、困っておられた時に一休さんがちゃんと親父に進言してね、それは、「天皇、こうじゃないですか」といったら、「そうか」といって、息子のいうことを聞いて、天皇決めていますよ。
 
峯尾:  そうですか。
 
西村:  死んでいく時もなんか大事にしていた天皇家の墨となんかお習字の本か知りませんけどね、死の床で渡すんですよ。一休さんは要らんものは全然持たなかったけど、これだけはジッと持っていた、というんですから、それもやっぱり肉親の情というものが亡くなるまで、僕は一休さんの心を離れなかったなあと思いますね。
 

ナレーター:  一休が生きた室町時代の中期。禅宗は時の権力者足利氏の篤い庇護をうけました。特に京都五山といわれ、幕府の保護を受けた禅寺は世俗化の度合いを増していきました。そうした禅寺に対し、批判もした若き日の一休は、十七歳の時、謙翁(けんのう)和尚の一門に入ります。幕府の庇護を拒み、達磨を祖とする中国伝来の禅をひたすら究明する林下(りんか)での修行を選んだのです。天皇の死後も華叟(けそう)和尚のもと、一休は清貧の生活の中で修行を積んでいきました。
 

 
西村:  この林下の風といいましてね、非常に清貧に甘んじて、坐禅に勤しむ一派なんですよ。幕府の外護(げご)を得ていませんから、冷や飯に甘んじてね、雨が漏っても屋根替えをしないというような、そういう坐禅三昧のほうが林下。謙翁(けんのう)和尚という人がおる。この謙翁(けんおう)和尚という人は、無因宗因(むいんそういん)禅師に参じて、「よし、お前を許す」と言ってね、卒業証書を渡そうと思ったら、「要りません」と言った。「そんなもの要りません」と言ったんですよ。ここが面白いところですね。「要りません」といった。「そうか。要らんでもろうてくれんのなら、名前だけでも」と、謙譲な、謙譲美徳の男で「謙翁(けんおう)」と名前を付けてもらったという人です。「よく学道は貧なるべし」といわれるように、禅の修行を積む者は、第一条件は貧乏でなければならない、ということがありますね。謙翁(けんのう)和尚という方は、まさに清貧生活に徹しておられたんじゃないかと、私は思いますね。それは一休さんにとって、五山の寺の金の屏風を見るのと違って。そこで一休さんは、わが意を得たのではないかと思います。
 
峯尾:  その清貧の中で五山とは違って、坐禅を一生懸命やった。
 
西村:  そうなんです。謙翁(けんおう)和尚との縁を失って、次ぎに現れた華叟宗曇(けそうそうどん)和尚こそ、まさに一休さんとピッタリするような清貧生活を送っておられたと思いますね。清貧ということは妙ですね。人間は豊かであると、そちらのほうへ関心を奪われますが、貧乏底をついてくると、だんだん関心が、自分はどうして生きるか、というような、自分のことに戻ってくる。私はここで育てて頂いた先々代の和尚ですね、私の師匠は、ほんとにこの土地で名高い清貧の和尚でしたよ。今は私こうして畳敷きですけど、これ私、師匠が亡くなるまで全部ゴザで全部やっておりましたよ。ゴザも普段は裏返しですよ。そしてお客が来る時に、「おい、明日お客が来るんで」とゴザを表に向ける。普通だったら取ったらどうですか、こういうふうに取ったらヘリが見える。障子は、と見ると、これが檀家から貰ったお布施の紙を伸ばして、自分のお尻へ敷いて紙伸ばしているんです。それを今度はご飯で作った糊で繋いで、それを障子の紙として張り替える。五年十年に一遍。もうこの寺中、「金五銭」「御導師十銭」、家の名前も書いてあるんですよ。それを今度障子紙を外す時、竹に巻いてね、これが今度鼻紙ですわ。しかも何遍でも同じ紙で、火であぶって、またかんで、とにかく汚いことはなかったけど。清貧だと思ってやっていたら清貧でありませんよ。それしかない、と。ならい性となっているんですね。外から見ると、「ようまあ」というんで、本人がちょっとでも清貧というのは、こういうものであるとかね、模範を示そう。そんなものは清貧でありませんね。そういうのが肌を通って一休の中に入ったと思うんですよ。
 
峯尾:  西村さんご自身は、そのゴザ、或いは障子紙、そういうものをご覧になっていて、
 
西村:  それしかないと思っていた。私も眼鏡でもテッシュペーパーで拭いても捨てられないのでね、ケースの中へまたテッシュペーパー入れて、五回は拭きますな。もう絶対水でも、テッシュでも、電気でも、絶対贅沢できない。贅沢したのも、ひと頃はね住職を交代した頃はそう思ったけどね、今やっと回帰してきました。戻ったような気がします。申し訳ないけどね、清貧ということは真似はできませんけど、心では申し訳ない、勿体ないと思っておりますよ。
 

 
ナレーター:  華叟和尚のもと、二十七歳で悟りを開いたのちも、一休はひたすらに己事究明(こじきゅうめい)の道を進みます。その一方で一休は権力におもねる僧たちに強く反撥していきます。今、西村さんは、大学や教壇の公務を離れることで、寺の作務(さむ)をして時を過ごすことが多くなりました。そんな日々の中で、西村さんは体制に屈することなく、反骨の生き方を通した一休にあらためて向かい合い、強い共感を持つようになったといいます。西村さん自身も宗教者として、さまざまな矛盾を抱えながら生きざるを得なかったからです。
 

 
西村:  一休さんのそれからの人生というものは、教団というものが持っている一つの矛盾、それと自分との関係の矛盾を巡って死ぬまで続きますね。これは大変な矛盾です。一休さん自身は、大徳寺を大事にしているんですよ。何しろ自分のお師匠さん華叟宗曇和尚、徹翁義亨(てっとうぎこう)、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)(大燈国師)と、また大事な大事な、しかも一休さんはいつも「虚堂(きどう)七世の孫(そん)」と、七代もトレースバックしてね、中国の虚堂智愚(きどうちぐ)(中国宋代の臨済禅の巨匠:1185-1269)禅師、そこから直結して、「おれは七代目だ」といっているということは、禅の法というものは非常に大事にしている。だからそれに連なっている大徳寺は、大事な法の殿堂でありますが、そこを権力的に取り合いっこする連中が気にいらんわけです。そうすると大徳寺に対してどうコミットしていいかわからないので、一休さんは揺れ動いています。大徳寺へ呼ばれると入るし、それですぐ出て行くと、こういうことを繰り返しているでしょう。私は、宗教そのものが矛盾構造だ、と思っているんですよ。宗教は、いろいろ社会的役割がありますけど、一つは社会維持機能というのを果たした。いつも社会を維持していく。維持安寧あらしめていくことの根底をなす。日本の仏教がそうですね。日本の仏教が、奈良仏教は国家仏教ですからね、そういう機能がある。これ体制論理。もう一つの論理は、社会変革機能。これは一向一揆に象徴されるように、社会の矛盾に対して敢然と闘い、筵旗(むしろばた)を立てて先頭を切るのは坊さんですわ。民衆の先頭に立ってですね―そういうふうになった人は反戦運動したりいろいろしたんですね。戦争に協力した人もいれば、反戦の先頭を切った人もいますね―これまったく矛盾していますね。実は私はね、その間に入って、「おれはどっちだ」と、いうことで悩みながらずっときてしまいました。何かにつけて私自身人生が矛盾です。だから私はある時ね、「私の人生は楕円形だ」と言ったんです。まさしく「どっちが大事だ」と言われてね、両方大事なんですよ。それが今やっと同心円(どうしんえん)になったと思っております。
 

 
西村:  司馬遼太郎(しばりょうたろう)さんが国語読本に書かれたという「二十一世紀に生きる君たちへ」(小学校六年生の国語の教科書に書かれた)。私はあれを読みまして非常に感動した。司馬さんは、「これからの時代は人間の思いやり、特に自然や動物、植物に対する思いやり、優しさ、いたわり、そういうものがなくてはこれからの時代は生きられないんですよ」とこう書いてあるんですね。こういうものが大事な時代になってくるに違いない。しかし、人に対して、「思いやる」「いたわる」という、そういう気持は、「本能からは出てきません」という。ここが私はよう利いていると思いますね。本能からは出てこない。本能は―動物的本能というのは、自分を守る、命を守るということで一生懸命でありますからね。例外もありますけど、動物でもね。やっぱり本能的に生きればやっぱり自分が中心ですわな。そういえば、近代以降の人類は非常に本能的でしたね。欲望的でした。司馬さんは、こういう「思いやり」「いたわり」「優しさ」「親切」こういうものは訓練を必要とする。つまり本能の否定ですね。「訓練を必要とする」といわれております。訓練は修行です。私にとっては修行です。修行はどうして必要か。「人を思いやる」という時、自分というものを深く追求し、反省して、自分というものがこの大自然の中の一環をなしている一つの要素であって、自分一人で生きているんじゃない。生かされているんですね。空気を吸っている、たしかに。この空気は宇宙の隅々に届いている、大気圏内に。水呑む。この水も家の水道の水ですけれども、これは鈴鹿の山から流れる。鈴鹿の山の空の雲から、雲は太平洋の水が昇るとか、こういう中で私の中へ入って、私の身体の六十五パーセント、七十パーセント水分ですね。そうすると、私、空気吸っても、野菜食っても―野菜も太陽の光とか雨とか、そういうのが集まって頂くもの。私の取り分何もありませんわね。しかしそれがわかるのは目を瞑(つむ)ってね、目を瞑らなければダメですよ。そして静かに手を組んで足を組んで、自分を最小限小さくすることですね、坐禅です。目を瞑る。目を瞑って深く自己を反省すると、自分というものがとっても小さくなる。本当はなくなるんです。無我までいく。道元は、「仏道を習うというは、自己を習うなり。自己を習うというは、自己を忘るるなり」といっている。こうやっているうちに自分というものの持ち分がなくなりますね。「自己を忘るるというは、万法(まんぼう)に証せらるるなり」―周りのあらゆる存在が証明してくれる、自己を。あぁ、私は空気だったんだなあ、私は水だったんだなあ、私は太陽の光だったんだなあ、と。それがあって私はなりたっていると、こういうことになる。自分というもののこの儚さ。たった百年生きても三万六千五百日という時間的リミット。それから内容はさまざまなものからもらって、組み立てている仮の姿。これは、私は本当に坐禅ということは、そういう意味で非常に大切なことだし、一休さんをみていると、非常にそういうことが、人に対する思いやりありますけど、それは深い坐禅の気持から出ていると思いますよ。一休さんは頼まれて、堺へ葬式に行ったんですよ。そうすると、昔のことだから棺桶が前にあるでしょう。それから火葬の時は松明に火を点けるんです。秉炬(ひんこ)といって松明を持ち上げる。こういうふうに大きく円を描いて一句唱えて引導をわたすでしょう。一休さん髭ぼうぼうでね、ボロ着た一休さん、ずっとやったんですよ。普通は儀礼としては棺桶へ向けてこうやってパッと松明投げる。一休さんはこうやってポッと後ろへ放ったんですよ。そうしたら後ろで礼服着ていた人たちがビックリしたんですわ。何したと思いますか?
 
峯尾:  後ろにいるというのは会葬者たちですよね。死者を弔(とむら)うために来た。お前らは心得違いをしておる、というような意味なんでしょうね。
 
西村:  いやぁ、さすがは峯尾さん。私は、他人事じゃないぞ、という意味だと、そう思った。お前らも焼いてやろうか、という(笑い)。おもろいな。みんな他人事だと思っている。その松明をポッと後ろへ放った。みんなビックリして逃げただろうけどね。自分の死というのは、予測はされる。しかしいつということはわかりませんからね。現実化されないままに終わりますけど確実にくる。いずれにしても坐禅をジッとしていてわかることは、自分の小ささですよ。そこからほんとに感謝が生まれますね。生かされているという感謝が生まれる。それとともに、このほそぼそとした命というものを、みんな同じだと思うと、励まし、慰め、支え合う、という気持が初めて出てくる。それとともに、生かされているということは、草花一本、そこを歩いている犬と同じレベルにおりられる、と思いますね。なんか今の人間は全体的にいって傲慢であると思います。
 

 
ナレーター:  一休が十四年間師事した華叟和尚は、一休を、風が荒れ狂うように、まるで人を寄せ付けない勢いの男―「風狂(ふうきょう)」と呼びました。一休の奇行ぶりはさまざまに伝えられています。骸骨を持って正月元旦の祝いに浮き立つ人々を驚かして廻る一休、また赤く塗った木刀を持ち歩くことで、禅僧の外見に目を奪われる人々に、その中身が偽物だということを皮肉ったりしました。一休はその生涯を通して、天衣無縫の反骨の禅僧として、一処不住(いっしょふじゅう)の生き方を貫いたのです。
 

 
峯尾:  一処不住というんですが、一休はひとところにジッとしておられないで、あちらこちら行かれ、立場上もまた全然違うところへ赴かれるとかという、そういうところも一休さんにはあるんですかね。
 
西村:  坊さんにはすぐに説教したがる坊さんありますよ。坊さんは、「師」と書くでしょう。「師走(しわす)」は師が走る、と。あれは坊さんが走ることですよ、師走というのは。何しに走るのか知らんけど。それから師ということは、昔は坊さんです。まあお医者さんもそうかな。とにかくなんか人の顔を見たら説教したくなる人がいる。これはやっぱり人生の指導者意識ですね。だから、お釈迦さんも師と仰がれる人です。しかし、一休さんは人を集めて講義した記録はありませんな。素晴らしいと思う。たしかに仏教精神を身に付け、坐禅の修行もし、印可状(禅僧が弟子の悟りを証明する証書)も手に―印可状を断るどころか引き破って焼(く)べてしまいましたけどね。でもちゃんと一休の一級品の禅僧となっていきましたけど。人に教えるということは毛頭ない。人に教えようと思うと、信者を必要とします。そのためにジッとしていなければなりませんわ。だからジッとしておると人が集まって来るから一休さんは困るわけです。教えるつもりないですからね。ぜんぜん人に教える気はなかった。印可状も「けっこう」と言って。華叟和尚は印可状を一休に渡そうと思ったけど、「けっこう」と言って受け取ってくれんから、「年取って気が弱くなったらもろうてくれるから、ちょっと暫く預かっておいてや」と言って、別の人に預けたんですよ。そうすると、預かった人は大事にしたんです。ある時一休がそこへ行ったら、「一休さん、これありますよ」と言ったら、「何を言ってん」。破ったんですよ。そして、まただいぶ経ってから、ある別の家へいったら、破った印可状が糊で貼ってあったんです。それで今度は火に入れた。先生になるのは嫌いですわ、あの人は。だから弟子は許さなかった。一人も法嗣(はっす)はありませんよ。縁を切っていますよ、全部。だから一休を継いだ人はおりません。亡くなる時に、「誰ですか?」と訊いたけど、「わしは知らん。あいつに聞け」って。別の和尚にいうたら、その和尚やってきて、「わしは知らん」って。結局誰もいないんです。そういうふうに徹底的に個に徹して生きた本格派の宗教者ですね。そういうところはやっぱり私はほんとに一休大好きなところですね。
 
西村:  八十一歳で天皇の勅命によって、大徳寺の住持(じゅうじ)になる、ということなんですね。
 
峯尾:  そうですね。それが一休さんの別の偉さですね。というのは、寺から飛び出した奴は普通は帰って来ないもんですよ。今でも余計おりますけどね。しかし、これは一休さんが『臨済録』に出てくる、
 
     家舎(かしゃ)を離れて 途中に在(あ)らず
     途中に在って 家舎を離れず
 
というね。あれを地(じ)でいっていますよ。家を出たけども、途(みち)にはおらん。「家舎を離れて途中にあらず」。途中にあって、一処不住の生活しておりながら、しかも家舎を離れず、カタツムリみたいなもんですね。家を連れて歩いているようなものですね。それは私は、偉いな。やっぱり反教団で大徳寺を後にして、若い時に一度出たことがある。如意庵(にょいあん)から出たことがありますがね、決して彼は宗門を捨てた人でないと思う。大徳寺の山門をはじめ、応仁の乱で焼け落ちたあの諸堂をたくさん再建されて、その現場も人に手を引かれて見に行って満足して帰られておりますが。
 
峯尾:  そして一休さんの遷化(せんげ)―亡くなられることを遷化というんだそうですが、八十八歳ですね。
 
西村:  八十八歳、ご長命ですね。私は、禅というものは己事究明。となりますと、人生途上に悟ったりすることではなくて、人生を貫いて、臨命終(りんみょうじゅう)のその最期、そこで結論を出すものと思っています。それで禅僧は遺偈(ゆいげ)―最後の結論―人生の結論を出して、坐禅の姿をして死ぬんです。或いは行脚の姿で立って死ぬ。結論が大事だ、と。末期の一句、これが大事だと言われておる。それで一休さんの遺偈、有名ですよ。自分の手で書いておるんですよ。
 
     須弥南畔(しゅみなんぱん)     (須弥南畔)
     誰か我が禅を会(え)す (誰会我禅)
     虚堂(きどう)来たるも也(ま)た (虚堂来也)
     半銭(はんせん)に値(あた)いせず  (不直半銭)
        東海純一休
 
と書いております。「東海純一休」というのは、「日本の純一休」ということでね、誰に報告しておるんかというと、中国の虚堂和尚に報告しておる。
 
峯尾:  虚堂七世が自分だから、
 
西村:  そう、自分だから。私、日本人って、八十八歳で日本人の僧、純一休はいうておるんですね。これ面白いですね。そして「須弥南畔(しゅみなんぱん)」というのは、須弥山(しゅみせん)という高い山がありまして、インドの世界観によると、地球は平面で、丸いんじゃない。宇宙の真ん中に山があって、須弥山という名前で、ずっと海が取り巻いている。南のほうにあるのが人間社会です。この世界ということですね。この世界中で、「誰か我が禅を会す」―誰がこのわしの禅を理解できるか。誰もわしの禅を理解できない、と言っていますね。だから最初に言ったように、一休さんがどうじゃこうじゃと、私みたいに本を書く奴は、何を書いているかわからない。一休さんに叱られるでしょうね。「虚堂来たるも也た半銭に値いせず」―「虚堂七世の孫」とまで言って、虚堂智愚和尚から七代目の禅僧でありますと、一生書いてきたその人が、末期に及んで、虚堂和尚が来てもおれの前では半銭にも値いしないぞ、と言って、結論的に言って、死んでいったんです。
 
峯尾:  「私の禅は誰にもわからない」と言った一休さんの禅というのは、結局何だったと西村さんはお思いになりますか。
 
西村:  禅というのは、私は人の数だけあると思っています。己事究明―自己の追求ですからね。よく「禅、禅」と言いますけど、禅なんてどっこにもありませんよ。人の数だけ禅があると思う。真面目に自分というものを逃がさないようにして、そしてずっとひたすら自分を大事にして人生を送った人はまあ禅を行(ぎょう)じた人だ、と私は思います。だから一休さんの禅というのは、一休さんだけにとって、承認され得る禅であって、誰もこれを評価することはできないと思います、この一休が示した矛盾は―矛盾構造というか、わからなさというものは、一休が自分に正直に生きたから、自ずと出てきたものであると思います。大体人間は整理をして、やばいことは隠して、世間体(せけんてい)のいいことを表に出す、とこういう癖がある。逆に非常にニヒリスティック(nihilistic:虚無的な)に生きる人もありますね。私は、この一休さんはそういうスネ者ではないと思いますね。正直に出せば両方出るのは当たり前ですよ。「光強ければ影濃し」ですね。影だけが濃いんじゃない。影の濃い人間は何かの光に照らされて濃い。「松影の暗きは月の光かな」というんですから、光と闇はセットになっておりますね。で、ストレートに生き、それを世間体を考えないで、顕(あら)わに出していけば矛盾として現れる他はないと思いますね。私はそういう意味で、一休さんほど正直な人はなかったんじゃないか、と思うんです。それで私自身も、一応深い仏縁を頂いて、兄弟たちはまあ背広を着て一生送ったのに、私はこんな妙な格好して頭を剃ってやってきまして、やっぱりどうでもいいと思っていないんですよ。やっぱり自分なりに禅坊主になった以上は、禅とは何かということをよく知りたい。この頃思いますのに、自己というものは、そういう固定的なものはないんですよ。私はそういう結論に達した。自己とは経験そのものです。経験―出会うことによって、その都度自己は形成されていくんで、積もり積もって今まできました七十三年は、後ろを見れば、他の人にない私だけの道が付いているんです、これは間違いない。ところが、前を見るとまったく無限の可能性に開かれている。何があるかわからないですよ。だからみなさん、峯尾さんも僕も、前がないんですよ、未来は。未来がない。西田幾多郎はうまいことをいいましたよ。「個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである」。試験問題に余計出しましたよ、これ。『禅の研究』の序文にあります。個人があって月を見る。個人があって花を見るのではない。個人があって雨の音を聞くのではないんです。雨の音をいま聞くと、今日の私が雨の音によって形成されるんです。今日はこういう録画して頂いて、そして今日の私は昨日予想していなかった経験をして、今日の私が形成されたんです。また後はわかりませんよ、どうなるか。みなさんも今人生の最先端ですよ。人生の最先端。明日はこれをするといって、手帳に書いているけど、そんなものありませんよ。もう此処を出る時に靴間違えられて、「お前、それおれの靴じゃないか」と。そういうこと予想していますか? だけど、頭カリカリきますよ、その時。そういう自分がもう五分後に形成されますよ。面白いですね。そういうふうにして、一歩一歩形成されていくのが自己だと思うんで、出会って、出会って、出会って自己を形成して、最後に出会うのが死です。だから死というものは、自己の完結です。自己の否定と違うんですよ。自己の完結なんですよ。自己の内容は、外からやってくるもの、これが自己を形成する。一休さんは、自分で青写真を描いて、シナリオを作って人生を生きたわけではないのでしょう。こういう生き方をして、みんなをビックリしてやろうとかね、そうじゃないです。一休さんは、生まれ落ちた不運なご落胤というところから始まって、いろいろ出会い、出会い、出会い、彼の出会いをまともに鏡のように受けて、受けて、修正せずぬそれを受けていった正真正銘の人生の歩みが、正直であっただけに、矛盾であり、わからないけれど、それが一休さんの独特の人生の値打ちというかな、内容であり、以て評価すべきものだ、と思う。近代の私たちは、いかなる意味においても、自分というものは忘れられております。まるでドーナツのように、真ん中穴あけていて、周りばっかり気にする。自分を相対的に判断する。あの人よりもどうや、この人よりもどうや―少しいいと傲慢になって、或いは少し比べてやばいと落ち込むとか、少しも揺るぎなき自分というものを持たないで、いつも他と比較して、自分を位置づけておりますね。こんな非主体的な―私が宇宙全体を、世界全体を、花や月や鳥の声を内容として生きるのが本当の生き方じゃないでしょうか、と言っているこの対他関係とですね、他の人を見て、あれ、おれよりいい服着ているじゃないか、いい靴だとか、いい自動車に乗っておるというようなことで、焦りを感じたりする。そういう対他関係と全然違いますな。やっぱりそういうところは自己に正直に、思う存分生きるが、しかしそれが思いやりもあり、世間の道に外れていない、という。だから、思う存分やっているということが、自由奔放に己を主張するということではなくて、思う存分出会いを受け入れていくというところに、一休さんの無限の内容がある、と思うんですよ。そういう生き方ができたらいいな、と。そういうのをみていると、やっぱり私のことは、わかってくれる人ってあるかなあ、とこう言わせてほしいですな(笑い)。
 
峯尾:  格好いいですね(笑い)。
 
西村:  格好いいですな。
 
峯尾:  ありがとうございまいました。
 
西村:  いやぁ、どうもお耳汚しでございました。ありがとうございました。
 
     これは、平成十八年六月九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである