自立への道 愛されることより愛すること
 
                ノートルダム清心女子大学学長 渡 辺  和 子(かずこ)
昭和二年北海道旭川市生まれ。昭和一一年二月二六日二・二六事件で父、渡辺錠太郎(陸軍大将)が殺害される。昭和二六年聖心女子大学卒。昭和二八年上智大学大学院修了。昭和三一年ノートルダム修道会に入会。昭和三七年ボストン・カレッジ大学大学院で博士号取得、ノートルダム清心大学教授。昭和三八年〜平成二年ノートルダム清心女子大学学長。平成二年ノートルダム清心女子大学名誉学長、学校法人ノートルダム清心学園理事長。平成四年日本カトリック学校連合会理事長。平成一二年死去。著作に「心に愛がなければ」「信じる愛持ってますか」「人をそだてる」「美しい人に」「現代の忘れもの」「愛することは許されること」「愛をこめて生きる」翻訳「教育と正義」、「マザーテレサ・愛と祈りのことば」など。
                き き て          広 瀬  修 子
 
広瀬:  四月は入学の季節です。教育への思いを新たにする時でもあります。人間が生まれ、育ち、自立していこうとする時に、一体一番必要なものは何なのか、周りの人たち、教育に携わる人たちが、一体何をしてあげたらいいのか。今日はそのようなことを考えていきたいと思います。お客様は、岡山のノートルダム清心女子大学学長の渡辺和子さんです。幼稚園から大学まで一貫した女子教育に二十五年間携わってこられました。先生、よろしくお願い致します。
 
渡辺:  どうぞ。
 
広瀬:  幼稚園から大学生までといいますと、ほんとに長い間教えていらっしゃるお立場にあるわけですけれども、教育のお仕事の中で今一番大切だと思っておられることはどんなことでしょうか。
 
渡辺:  人間が、どんな時に、どんなことにあっても、自分で自分の幸せを作っていける強い一人格(いちじんかく)として生きてほしい。そんなふうに思っております。
広瀬:  どんな時にも、「一人格」というのは、「一人の人間として」というのと、また違うわけでしょうか。
 
渡辺:  はい。「人格者」というのとはまた違うんですけれども、人間が生まれた時には人間だと思うんです。ところが、その人間がだんだん人格になっていく。それは自分の頭で考えて、自分の意志で選択して選んで、そしてその自分が選んだことに対しては最後まで責任をとっていく。そういう人を指して、「人格」という名前に値する人間なのではないか、と思っております。
 
広瀬:  自ら判断して、決断して、責任をもって生きる。
 
渡辺:  自分の決断に対して。
 
広瀬:  そういう人間を育てようとしていらっしゃるわけですね。
 
渡辺:  はい。それが結局ある意味で、「自立している人」と申しますか、自分がどんな状況のもとに置かれても、その状況に屈してしまわないで、「自由に生きていける人」と言ってもいいかと思うんです。「自由」というのは、いろいろな解釈ができると思いますが、読んで字の如く、「自らに由(よ)る」と書きますね。ですから、自分の幸せが他人に依るのでもなければ、自分の置かれた状況にすべてが依るのでもない、という人間ですから、ある程度他人とか、自分の置かれた環境とか、条件とか、そういうものによりますけれども、なおかつそれに打ち勝っていく力が人間の中にはあるんだ。人間の尊厳、そういうようなことを幼い時から、子供たち、または学生たちが理解してくれたらと思っております。
 
広瀬:  自分自身を振り返ってみても、ほんとに自立しているかというとまったく自立していない。未だに自立していないというふうによく反省することが多いんですけれども、その自立するというのはやっぱり一生自立した人間になるために努めていかなければならないというふうなものなんでしょうね。
 
渡辺:  はい。私は、人間は死ぬまで成長し続けていくものだ、と思いますし、その人間の成長というものが、身体的なものはあるところで止まったり、退歩してしまいますけれども、より自由になる、より愛が深めていかれる。そういう意味では、自立を死ぬまで続けていきたい。最後は歳をとってしまえば、他人(ひと)様のお世話にならなければいけないかも知れませんけれども、やはり目指す目標というのは、自由になること、そして愛を深めていく、一人格として生きていく、ということではないかと思っております。
 
広瀬:  どうしたら自由な人間になられるのか、自立した人間になられるのか、ということを今日いろいろお話を伺っていきたいと思うんですけれども、先生のところに、例えば初めて学校に入学していらっしゃった方々には、どんなお話をなさって、そういう出発点になさるんでしょうか。
 
渡辺:  大学の一年生というのはまだ高等学校を卒業したばかりでございますから、オリエンテーション(orientation)の時とか、または一年生に講義を致します時に、私が毎年話していることの一つに、「泥かぶら」のお話がございます。
 
広瀬:  泥かぶら?
 
渡辺:  これは真山美保(まやまみほ)さんがお書きになったものでございますけれども、一人の非常に醜(みにく)い女の子がおりまして、その醜さのゆえにみんなから虐められていたわけなんですけれども、その女の子が、三つのことを来る日も来る日も実行して、そして、いつか「仏のように美しい子よ」と言われるまでになった、という話なんです。その三つのことはどういうことだったかと申しますと、
 
     一、いつもにっこり笑うこと。
     一、人の身になって思うこと。
     一、自分の醜さを恥じないこと。
 
多分高校卒までの生活の中で、子供たちがあんまり「笑顔が大事だ」というようなことを習ってきていないんじゃないか。それから自分のことを中心に、自分のためにすることはたくさんしてきますけれども、人のためにとか、他人(ひと)の身になって思う、ということをあまり習ってきていないかも知れない。
 
広瀬:  むしろ逆のことを習わせられたりすることもありますね。競争社会の中で人を押し退けてきた人たちですからね。
 
渡辺:  そうでございますね。人を押し退けて。それから偏差値で自分の価値を付けられたりして、自分のダメさといいますか、自分の惨めさ、醜さ、そういうものに愛想を尽かしているような生活をしてきた人たちが多いかと思うんです。私は常々今の日本の教育で幼稚園、小学校、中学、高校というのは、それぞれ上のどこの学校に、どうしたら入れるだろうかという、進学のために教育がなされているように思いますし、大学は大学で就職をするためにどうしたら免許状が取れるかとか、今の教育で忘れられているのは、「人間になる」ということで、英語で「to be human」と言いますでしょうか、人間になるための教育が、どこでなされているんだろうか。今、そういうことをいつも考えているもんですから、この「泥かぶら」の話を通して、「人間になる」ということは、「笑顔を大切にして生きること」「心にゆとりを持って人の身になって考えられること」「自分にプライドを持って生きること」、そんなことじゃないかと思って、新入生に最初にはよく「泥かぶら」のお話をしております。
 
広瀬:  相手の人がほんとににっこり笑ってくれた時って、ほんとに嬉しい気持が湧き起こってきますけれども、自分自身がほんとににっこり笑っているかどうかということになると、どういう時に、そういうふうにどうすればにっこり笑えるような人間になられるかということですけど、どうなんでしょうか。
 
渡辺:  私も今の学生ぐらいの時に必ずしもいつも笑顔を保って生きようと思っていなかったような気がするんです。ですけれども、長い人生を生きてまいりますと、嫌なこともいっぱいありますし、思うままにならないことがたくさんございますね。その時にそれをしかめっ面をしたり、不機嫌な顔をして、とってもどうにもならないことがあるわけですね。そういう時に、これはラインホールド・ニーバー(Niebuhr, Reinhold:アメリカの神学者、倫理学者:1892-1971)という人の「祈り」なんでございますけれども、
 
     主よ
     変えられないものを受け容れる心の静けさを与え給え
     変えられるものを変える勇気を与え給え
     変えられるものと変えられないものを見分ける英知を与え給え
 
     God
     grant me the serenity to accept the things I cannot change,
     the courage to change the things I can;
     and the wisdom to know the difference.
 
その祈りに出会いまして、その時から、あ、嫌な顔をしても、笑顔をしても、変えられないことは変えられない。そしてむしろ笑顔をすると変わることがあるんですね。
 
広瀬:  笑顔によって。
 
渡辺:  ええ。そんな経験をずっと自分がしたもんですから、一つにはそれを習ったことと、もう一つは、私がとっても生来勝ち気でございまして、小さい時から負けん気が強かったんですね。
 
広瀬:  そんなふうには見えませんね。
 
渡辺:  ほんとにそうだったんですけれども、そんな負けん気を使いようによって、自分の不機嫌さで他人様の生活まで暗くする権利がないんじゃないか、ということに気が付きましてね。だから私はどんなに嫌なことや苦しいがあっても、だからと言って他の人の生活まで暗くする権利を持っていない。そういうところで頑張ってみよう、と思うようになりまして、自分自身ができるだけ笑顔を多くするように努力してきたように思います。
 
広瀬:   非常に他人の身になって思う、というところまで進んでいかれたわけですね。自分自身が他人の権利をそういうふうに違えてはいけないんだ、というところまで思いが至らないと、それはなかなかできませんよね。
 
渡辺:  そうでございますね。今おっしゃるように、他人様が私にご自身の不機嫌さをぶっつけた時に、自分がどんなに嫌だったか。だから、じゃ、私もそういうことをしたら相手の方が嫌な気持をなさるだろうから、という思いやりに繋がってまいりますね。それにこれも私は学長になってしばらく経ってから、ある方から頂戴した詩なんでございますけれども、
 
     もしあなたが、誰かに期待した
     ほほえみが得られなかったら
     不愉快になる代わりに、
     あなたの方からほほえみかけてごらんなさい
     実際、ほほえみを忘れた人ほど
     あなたからそれを
     必要としている人はいないのですから
 
それを頂きました時に、考えてみましたら、あ、そうだ、と思ったんですね。ほんとに人から「ありがとう」と言って貰っていいのに、言って頂けないと腹が立つし、「ごめんなさい」と謝って当然の人が、謝ってくださらないと、今度はこっちが謝ろうかと思ったり致しますね。さっきおっしゃったように、微笑まれると、こちらも微笑みたくなるんですけれども。微笑んで頂けなかった時にこそ、相手の方はもっともっと私よりも悲しんでいる、または苦しんでいる。その私の微笑みを必要としている方なんじゃないかしら、という、そういう思いやりを、その詩を通して教えて頂いて実行するように努めてまいりましたけれど、これも一生の闘いだと思います。
 
広瀬:  もう一つが、「自分の醜さを恥じない」とおっしゃいましたね。
 
渡辺:  はい。これは決して自分が改めなければいけないその醜さを、恥じないという意味ではなくて、私が私でしかない。だから人と比べて劣等感の固まりになって生きてもつまらない、ということでしょうか。
 
広瀬:  私が私でしかない?
 
渡辺:  はい。
 
広瀬:  その自分を責めてはいけない、ということですね。
 
渡辺:  はい。「泥かぶら」が不幸せだったのは、結局「自分が醜いということを、醜いということに非常に拘(こだわ)っていた」と思うんです。そして私も劇を二度ほど見せて頂きましたけれども、村の他の人たちと比べて、自分はどうしてこんなに醜いんだろう。劣等感の固まりになっていたのでなお醜くなっていた、と思うんです。それが旅のお爺さんから、「三つのことを実行してごらん」と言われて、そして自分の醜さに拘らなくなって、私は私でしかない。そして私を私でいいのだ。そう思った時に、その人の、やはり掛け替えのない美しさというものが養われてきたように思うんです。
 
広瀬:  そういうふうに思う方向に勿論いきたいと思っても、なかなか劣等感から抜け出られないということが、私たちの生活の中では多いですね。その辺りを思えば、それが抜けられるのか。思わないように、思わないように、と思うこと、というのがなかなか難しいんですけれども。
 
渡辺:  はい。頭だけではなかなか割り切れないことだと思います。でも私が好きな言葉で、
 
     小さきは小さく咲かん
 
という言葉があるんですけれども、それは「小さいほうがいい」という意味ではなくて、小さな花は小さいなりに精いっぱい咲けば、大きな花が大きいなりに精いっぱい咲くのとまったく同じように尊いんじゃないだろうか。ちょうどタンポポの花はバラの花になれない。けれども、バラの花もタンポポになれない。もし私が、自分はタンポポだとすれば、そのバラの花をいつも羨ましがって生きていても、同じ人生が何十年か経ってまいりますね。それに比べて、自分がタンポポとしてタンポポらしく一生懸命に咲けばいいんじゃないんだろうか。ただそこでとても大事なことは、誰かから「あなたはタンポポでいいんですよ」と。そして、「あなたはとても素晴らしいタンポポの美しさを持っていて、私はあなたをあなたのままで愛します」という、そういう愛と出会うことがとても大事だと思います。
 
広瀬:  自分自身の存在をそのままで受け容れてくれる人に出会う、ということでしょうか。
 
渡辺:  はい。今、非常に条件付きで愛されていることが多いように思うんですね。「こういう点をとってくれば」とか、ひいては、「こういうことができる人なら」とか、つまり何かができるかとか、どのぐらいの能力があるかとか、どういう役に立つかとか、そういう利用価値と申しましょうか、それで愛される時に、存在価値と言ったらいいんでしょうか、あなたがそのままで、何ができなくとも―寝た切り病人でも、重度の心身障害の方でも、「あなたがそこにいらっしゃるそのままの姿で美しいし、尊いんですよ」と言われた時に、初めてその方は自分の価値に目覚めるんじゃないか、と思います。
 
広瀬:  それは勿論親でもいいでしょうし、お友だちでもいいでしょうし、先生でも、誰かそういう人がいてくれるということが大切だ、ということですか。
 
渡辺:  そうでございますね。私、数年前でございますけれども、一人の一年生から手紙を貰いまして、顔を見たこともなかったんですけれども、その人が手紙の冒頭に、「私は先生にお手紙を書く価値もない一人の学生です」と、まずそう言いながら、三枚書いてくれたんですけれども。その手紙の中に、自分を否定する言葉が九つ確か入っていたと思うんですね。自分は魅力がない女性だとか、自分はダメな学生だとか、気が小さいとか―今覚えておりませんけれども―返事を書きまして、しばらくその子を見守っておりましたら、ある時非常に生き生きとしてきたわけです。私は、私の手紙がそうしたのか、と思いましたら、そうでなくて、結局ボーイフレンドがその子にできたわけなんです。そのボーイフレンドが、結局は「君は魅力のある女性だ」ということを示したわけですし、「君はダメな女じゃない。その証拠に、僕が君を愛しているじゃないか」という。私は、そういう経験がその一人の学生を、自分はどうでもいい人間じゃなくて、ほんとにこの世に存在していい人間だ、というふうに思わせたように思います。
 
広瀬:  そういう人に出会えるということも、またその人に何かがなければ出会えないものなんでしょうか。
 
渡辺:  どうでしょうか。確かに手を拱(こまね)いて待っていただけではいけないと思います。それこそ王子様が白い馬に跨ってプロポーズにお出でになるのを待っているうちに何十年か経ってしまいますけれども、さっきおっしゃったように、私はやはり親とか教師、これは無条件の愛を―神さま仏さまほどの完全さでは到底持ち得ませんけれども、やはり子どもを育てていく上で、子どもに存在の価値をしっかり味合わせるためには、どんなあなたでも私は受け容れる、という人であってほしいな、そして私もそういう人でありたいな、と。むしろ誰を大事にするかと言えば、みんなが飛び付いていける、アイドルとか、タレントとか、勉強のよくできる子でなくて、みんなからかえりみられない、そういう人に愛を注げる人に成長していきたい、と思っております。
 
広瀬:  たとい我が子であっても、あるいは自分の生徒であっても、放り出したくなる時ってあるんじゃないかと思うんですけれども、そういう場合にもその子の存在というのをきちんと認めてあげなければならない、ということ。誰にもいつでもできるというわけにはいかないんじゃないか、と思うんですけれども。
 
渡辺:  そうですね。確かにほんとに無条件に相手を受け容れるということは生やさしいことでないと思います。ですけれども、その人をじっと見つめて、あ、この人は幸せになる権利を持っているんだ。そして私が受け容れられると嬉しいように、やっぱりこの人も認められ、誉められ、受け容れるということが大事なんだなあという。そのためにはやはり自分の中に愛を育てていく、ということが、親なり教師に非常に求められていることかも知れないと思います。
 
広瀬:  愛されることによって、人間は愛することもできるようになるんでしょうか。
 
渡辺:  はい。小さな子供たちを見ていてよくわかるんですけれども、愛されて育った子どもたちというのは、やはり愛することができるようでございます。もちろん小さな子の場合でございますと、物を人に分けることができるんですね。それがどれほどたくさんのおもちゃを持っていても、それをちっとも友だちと分けない。ブランコなども独り占めにしてちっとも友だちに渡さない幼稚園の子どもなど、決して貧しいお家から来ていない。その反対に物質的にはそれほど恵まれていなくても、愛されている子どもたちというのは、愛すること、その年齢年齢での愛すること、それから学生たちを見ておりましても、家庭で温かい家庭から来た子どもたちは愛に飢えていない、と言いますか、言葉は悪いんですけれども、自分を安売りしてしまわない。自分というものをほんとに大事にできる。何故大事にできるかと言えば、周りの人から言葉でなくていいんですけれども、「あなたは掛け替えのない大事な人なんですよ」ということを、事ある毎に示されて来ているからじゃないか、と。そういう意味で、愛するために、つまり愛してほしい、愛してほしい、愛して頂戴、愛して頂戴、ということでいっぱいでいる人は、愛するところまでまだいけないように思うんです。それがもう自分がある程度愛された方は、もうこれは自分の自信が十分にあるので、他人様にこう目が向けられるんじゃないか、というふうに思いますけれども。
 
広瀬:  親が子どもを愛するという時にも、それが履き違いられるのかも知れないんですけれども、どうしても子ども自身を甘やかしてしまうといいますか、増長させてしまうというか、気ままにさせてしまうようなところが、ややもするとあるんですけれども、その辺は親はほんとに愛するためには、一体何をしてあげたらいいのか、ということですけれども、如何でしょうか。特に利己的な子どもばかりが育っていってしまって、それを否定していまうと、愛されていないんじゃないかということで、間違った方向へいっていますんじゃないかという恐れから、悪い方向へ逆にもっていってしまうようなことがあるような気がするんですけれども。
 
渡辺:  愛するということは、どういうことか、というところへのご質問かと思うんですけれども。普通週刊誌とか、今、テレビ、ラジオ、いわゆる巷に氾濫しているような愛というのは、どちらかというと、可愛がるとか、または相手の方に熱情的に心をときめかせる儚い愛。そういうものが溢れているかと思いますが、本当の愛というのは、これはエリッヒ・フロム(Erich Fromm:1900-1980:フロイトと同じくユダヤ系のドイツ人心理学者。ハイデルベルグ大学で教鞭を取っていたが、第二次大戦中、ナチスドイツに追われ、アメリカに亡命した人物である。「自由からの逃走」は、ナチズムの大衆心理を分析し社会心理学の古典と云われている) の言葉でございますけれども、
 
     単なる強い感情でなくて、それは一つの決意であり、
     判断であり、約束である
 
というようなことを言っているんです。ですから、親が子どもを愛するという時に、ただいい学校に入れてあげるとか、学用品を十分に揃えたり、美味しいものを食べさせたり、何不自由なく育っている。そういうことでなくて、もっと目に見えないもの。愛というのは、私は目に見えない大切なものだ、と思っておりますが、親が本当に自分の心の中に、自分の子どもに対して、この子どもとの関わりに対する自分の一つの決意であり、掛け替えのない自分の生んだ子ども、その幸せを願う決意であり、判断であり、そのために自分は、「あなたを見捨てない」という一つの約束。これを特に身体障害の子どもを生んだ卒業生などが手紙をくれます時に、いっとき自分がほんとにどうしようかと思ったけれども、その子どもを自分は育てる決意をし、この子どもを、私だから神さまは下さった、という判断に達し、そしてこの子どもに「私はあなたのお母さんとして一生あなたを見捨てないという約束をする」という手紙を書いてくれるような時に、私はなんか愛の真髄というようなものを教えてもらったように思うんです。ですから、愛するということが、いわゆる甘い、儚い、またはいっときの熱情的なものでなくて、愛し続ける、と言いましょうか、私は愛するということは愛し続ける、ということでなければならないんじゃないか、と思います。ですから、たといその人にどんなことが起きたとしても、その人が交通事故でどうなったとしても、またはその人が失敗したとしても、なおかつ愛し続ける約束、決意、判断、その厳しさというものが、愛の本質にあるんじゃないだろうか。それは非常によく現した言葉かと思いますけれども、ちょうどキリスト教が今から四百四十年ぐらい前に、日本にまいりました時に、日本語学校もございませんから、宣教師の方たちがとってもお言葉に苦労なさったと思うんです。今残っておりますその方たちのお使いになった辞書の中に、「神の愛」という言葉が、デウス(Deus)の「GOTAIXET(ご大切)」という言葉で、ローマ字で書かれているんです。「デウス(Deus)」というのはラテン語の神でございますね。多分八百万(やおよろず)の神々と区別をして使ったのかと思いますし、今もカトリックの天主教と申しますのは、「デウス」とよく似た言葉だからだと思いますが、私はこの「ご大切」という言葉を、「愛」に当てたということ。多分仏教で「愛」という言葉は、「欲望」を表していますが、「物事に執着する」というあまりいい響きを持っていなかったようでございます。それもあって宣教師の方が「ご大切」という言葉をお選びになったのかと思いますけれども、今日本の国で、「愛」という言葉の中に、どれだけこの「ご大切」、相手の方をほんとに相手の人なりに大切にする。自分にとって役に立つから大切にする、自分にとって見て心よいから、自分の快楽を満たしてくれるから、大切にする人はたくさんいると思うんですね。だけど、その人の存在そのものを、どんなであろうと大切にする、という。今から何百年か前の、身分にも性別にも学歴にも職業にも関わりなく、あなた方一人一人はほんとにご大切なんですよ、と。だから自分を粗末にしてはいけません。自分をぞんざいに扱わないでね、というメッセージが、今の教育界にもう一度必要なんじゃないか、と思うんです。
 
広瀬:  「デウス(Deus)」の「ご大切」、そういうお話を伺っておりますと、お話は勿論わかる。学生さんもきっと受け止めてくださると思うんですけれども、今まで育ってきた環境なり、現実のこの社会がなかなかそういうものを肯定するようなものばかりでないものがいっぱいあるものですから、やはりみなさん迷われるし、いろいろ混乱したり、なかなかそうはいかないというふううに思われることもあると思うんですけれども、その辺り学生さんとはどんなふうなお話をなさったりするんでしょうか。「先生、そういうわけにもいきません」というようなことはおっしゃいませんか。
 
渡辺:  はい。申しますし、やっぱり自分にとって役に立つ人を大切に致します。私もそうだと思うんです。私も今のようにお話をする時には、わかっているつもりでも、自分の日常生活で「ほんとにそのことを実行しているか?」と問われたらば、恥ずかしい思いをしないといけないと思いますが、一つの方向として、または目指す目標としては、失ってならないことだと思います。学生たちに、今大学で週四時間教えているんですけれども、その中の「人格論」という中で、今のような話を致しますと、学生たちの中には、「綺麗事だ」とか、「理想だけれども、なかなかそうはいかない」とか、「授業を聞いていながら非常に抵抗を感じた」とか、率直に言ってくれる学生たちもおります。でも卒業して何年か経ちまして、中にはそういう人たちから、「講義を聞いていた時には受け容れられなかったし、そんなことと思ったけれども、社会に出て見て、今それがどんなに大事なことかがわかった」とか、「自分が子どもを生んで、そして子どもを育てていて、何が大事か、と言われたら、自分は、それは大事だ、と言えるようになった。つまりご大切≠ニいうことが、どれほど巾を持って大切に思えるかがわかった」。そんなことを言ってくれると嬉しく思います。もう一つは、そういうふうに話をしただけでは受け容れて貰えない学生たちに、やはり今の人たちは特に肌で感じることが大事なんですね。ですから、私も授業で、何百人ととっていてくれる授業ですけれども、必ず出席を名前でとります。少し時間はかかるんですけれども、今学生たちって、案外名前を呼んで貰っていないんじゃないだろうか。自動販売機が林立するような社会の中で、無言でお金を入れて、ボタンを押して、欲しいものを買って帰る。家に帰っても、あまり会話がなく、テレビと生活しているような、またはコンピューターと向かい合っているような、その時にせめて自分の名前を週に一遍でもいいから呼ばれるということは、その学生に自分が一人格である。最初に申し上げたことですけれども、機械でもないし、番号でもないし、一人の掛け替えのない人格だ、ということがわかるんでないか。そして、できるだけ学生たちとすれ違った時に挨拶をしたり、それこそ笑顔を大切にするようにして、自分はただのものじゃない、ということをわかってほしい、と思っております。
 
広瀬:  今の大きなマスプロ教育の中でほとんど大学では、特に名前を呼ばれるとか、先生が名前を覚えてくださるというようなことは、奇跡的なことで滅多にないことのような気がしますけれどもね。
 
渡辺:  そうでございますね。それが少人数教育の良さということかも知れないと思いますし、やはりこれからますますオートメ化していく時代で、私たちがそれこそ、「to be human」といいますか、人間らしい教育、または人間らしくなることを教える教育というのは、冷たい機械的な、金属的(メタリック)なものの中で温もりある、ある意味で繰り返さない教育といいますか、機械は繰り返すことしかしませんけれども、人間というのは一回一回違うと思うんですね。それこそ一期一会(いちごいちえ)という言葉がございますように、この人とこの時限りで会わないかも知れないというような心を込めた出会いと言いますか、そういうものの場が教育に今求められているんじゃないだろうか、と思っております。
 
広瀬:  私なんかほんとに小人数の家族の中で育てられておりますから、自分の子どもに対してもなかなかほんとに名前を呼ぶような気持のありようといいますか、ほんとに真っ正面から向き合える時間というのがなかなかないので、きっと子どもはそういう意味で愛されているという実感も湧かずに育ってしまうような気がして恐ろしいんですけれども、やっぱりそんなちょっとした時間でも、ほんとにその子のほうをちゃんと向いています、ということをやっぱり示してやらないといけないんでしょうね。
 
渡辺:  そうでございますね。この間、高田敏子(たかだとしこ)(昭和期の詩人: 大正三年生まれ。跡見女学校卒業。二三年長田恒雄らのコットン・クラブに入り、「現代詩研究」創刊に参加。三六年から「朝日新聞」月曜版に毎週詩を掲載、「お母さん詩人」として話題になり、翌三七年武内俊子賞受賞。これらの詩は「月曜日の詩集」にまとめられる。四一年主婦のための詩誌「野火」を創刊、主宰する。1914-1989)」さんの詩を読んでおりまして、その中で、
 
     母と子と
     一日じゅう しょっちゅう
     話をしているようでも
     ほんとの話なんて
     あんがい していないものです
     だから 買い物の帰りみち
     ほんの十分間でも
     こうして家のそとにでも
     話をしてみよう
 
     そのために
     やさしい木かげがあるのです
     そのために
     あいたベンチがあるのです
 
という詩を読んだんです。その時に私は子どもを持っておりませんからわかりませんけれども、案外私も学生たちとおしゃべりはする、それから講義はしておりますけれども、本当の話っていうのをしていないかも知れない。つまり今ちょうど広瀬さんがおっしゃったように、そのためにきちっと時間をとってお洗濯の後とか、お買い物の帰りに木陰で空いているベンチに坐って、お話をしなくてもいい、一緒に木を眺めてもいいし、夕方だったらお星様を眺めてもいいし、そんなことなんでしょうか、今おっしゃろうとしたのは。
 
広瀬:  そうですね。そういうふうにしてあげよう、というふううな気持のゆとりがまず多分ないんですね。常に先へ先へ、次ぎに何をしなければという、せかせかした気持をすべてを決めていってしまうようなところがありますね。
 
渡辺:  そうですね。私も人後に落ちず忙しい生活をさせて頂いているんですけれども、自分でも今おっしゃるように、あ、これではいけない、と思う時があるんです。鏡を見て、私はなんとこう目が吊り上がってしまったんだろう、なんて思う時もございましてね。
 
広瀬:  そうですか。お静かに落ち着いた気持で生活をしていらっしゃるような気が致しますけれども。
 
渡辺:  いいえ。とんでもございませんの。それで自分で一つ、とても面白いことを始めましてね。私は修道院に住まわせて頂いているんですけれども、たまたま修道院が大学の建物の四階にございまして、エレベーターで一階から四階に上がったり、四階から一階に下がるわけです。ある時気が付いてみましたら、エレベーターに乗り込みますと、目的の階数のボタンを押して、すぐ次の指で「閉」―閉じるという、ボタンを押しているわけです。エレベーターというのは、故障でもしていない限り必ず待っていればドアが閉まるものでございますね。そして目的の階だけ押せばいいのに、自分がすぐこの閉じるを押している。一体、じゃ、どれだけ待ったら自然に閉まるんだろう、と思いまして、デジタルの秒針の付いているのを持って乗り込んだんです。そう致しましたら、たまたま私どもの使っているエレベーターは四秒かかったんですね。
 
広瀬:  閉じるまでに。
 
渡辺:  はい。というか四秒しかかからなかった、といってもいいかも知れません。その日私は決心を致しまして、これから私は乗って、目的の階数だけ押して待っていよう、と。その待っている四秒というものの間に、自分を立て直そう、と思ったんです。お人によっては、「シスター四秒ぐらい何ですか。どこででも四秒ぐらいすぐ経ってしまうでしょう」とおっっしゃる方がございます。その四秒が大事なんじゃなくて、四秒が待てる私か、四秒すら待てない私か。結局それが仕事をしていて、いらいらする自分か、いらいらを少し待てる自分か。または交通渋滞の中で、いらいらする自分か、それこそさっきのニーバーの言葉ではございませんけれども、どうにも変えられないものを受け容れる心の静けさを持つ自分かに、その四秒が案外勝負なのかも知れない。というような、ほんとにくだらないことかも知れませんけれども、何か工夫をしないと、忙しい方は特に心にゆとりが作れないんじゃないか、と思うんです。反対から言えば、工夫をすれば、どれほど忙しくても、心のゆとりを持てるんじゃないだろうか。そしてそれがある意味で、その自立と言いますか、どんな忙しい状況の中でも笑顔を忘れない。どんな忙しい状況の中でも、相手を思いやる。そしてどんな状況に置かれていても、自分は自分でいいのだ、と。プライドを持って、他人のことをそんなに気にしないで生きていける自分に繋がっていくのかも知れないな、と思う時がございます。
 
広瀬:  それは自由にも繋がり、最初におっしゃった「to be humann」というところに繋がっていくわけなんでしょうか。
 
渡辺:  はい。私は何かそのように思いますけれども。「自由」というのは決して自分のしたいことをしたいようにする。思う通りに勝手気ままにする、というのではなくて、人間というのは、諸条件のもとでしか生きられないと思うんですね。それこそ風邪を引きたくないのに風邪に罹ってしまうとか、または今日は晴れてほしいのに雨が降っているとか、自由にならないことがいっぱいある中で、自由に生きるというのは、その条件のもとで自分のあり方を決めていく自由なんじゃないだろうか。それができる時にどこへ行っても強いんじゃないだろうか。私は、「人間の幸せ」というのは、愛するものをたくさん持っていることだと思います。愛されていることもとても大事だと思うんですけれども、愛されることばっかり待っていると、愛してくれる人が出てこない限り自分は幸せになれないわけですね。ところが愛する術を習っておりますと、それこそ誰もが、先ほど言いました、タレントとか、アイドルとか、または高価な宝石とか、毛皮のコートとか、誰が見ても大切にできる。または誰が見ても価値あるものと見れる、そういうものだけを愛していると、愛しているものの数が限られてしまうように思います。それに対して、一つには当たり前のものも有り難いと思える。つまり当たり前のものもご大切に思える。自分と一緒に住んでいる家族、それは私たちがどれだけほんとに有り難いと思っているんだろうか。失った時に有り難いと思うかも知れません。それから手足、自分の今お話をさせている能力、そういうものも、失った時にきっと有り難いと思うんですね。ただそれをいつも自分が有り難いと、当たり前のものが思うようになったらば、それだけその人は幸せなんじゃないだろうか、と思います。もっと幸せを深めていくためには、今度は有り難くないものまで、つまり自分にとってマイナスの価値しか持たない、苦しみとか、聖書の中には、「汝の敵を愛せよ」という言葉がございますけれども、たぶんその言葉は、キリストは教訓としてよりも、そうしたら幸せになれますよ、という意味で、私はおっしゃったように思うんですね。敵でさえ愛せるとしたら、すべての人を愛せるじゃないか。すべての人が愛せ、そしてすべてのもの、当たり前のものも有り難い。それは「有ることが難しい」と書きますから、ほんとに有り難いわけですよね。それが有り難いと思えるようになったら、やっぱり笑顔も多くなるんじゃないんでしょうか。
 
広瀬:  自分にとってマイナスのものをも愛す、というのはなかなかできないですね。大変なことでしょうね。勿論有り難いことなんですけれども。
 
渡辺:  はい。それはもうほんとに難しいと思います。多分その苦しみの中にいる時には、私は苦しみを愛することはできないように思います。ちょっと矛盾のようでございますけれども、後になって、あ、あの苦しみがあって良かった、有り難かった、という。これは八木重吉(やぎじゅうきち)(明治三一年、町田市生まれ。神奈川師範から東京高師英語科を卒業。内村鑑三の著作に感化されキリスト教徒に。大正一○年、兵庫県の御影師範(神戸大教育学部)の英語教師。千葉県柏東葛飾中学校(東葛飾高校)に転任、病弱ながら詩作、第一詩集「秋の瞳」を刊行。昭和元年、肺結核で入院、昭和二年、二九歳で死去)の詩ですが、
 
     くるしいことに はいりきったら
     くるしさはなく
     ただ 生きるといふことばかりだった
 
というのがあるんです。私自身が自分が病気を致しました時に、そしてほんとに苦しかった時に、その時は有り難いなんて思いませんでした。ですけれども、今になって、どなたかが、「あの時の二年間があって良かったですか?」とお聞きになったら、やはりあって良かった。それで自分が優しくなったように思うんです。ですから、マイナスの価値のものを愛するというのは、決して不幸や災難が起きた時に、すぐそれが有り難いと言える、そんなありがたやさんになることではなくて、やっぱり深い意味が自分に与えられるすべてのことの中にはあるんじゃないだろうか。そのためには、一つには、人間が考えることには限りがあって、私が善いと思っても、私よりもっともっと大きな方がごらんになると、必ずしもそれが善いことではないかも知れない。そこには少し信ずるということが入ってくるかも知れませんけれども、苦しみとか、敵さえも愛することができたら、人間にとっては素晴らしいことだろうと思います。これもさっきと同じことで、一つの自分が歩んでいく自立への道であって、方角であって、今日の自分がそうだ、ということでは決してございませんし、また私たちの教育も、そういう目標がありますよ、ということを、そういう目標があることさえ考えない人に指し示す。そしてそれに対して反抗を感じる人は感じたらいいと思うんです。つまり人間にはやっぱり自由があって、選ぶ自由があって、そういう生き方を自分がするも、しないも、自由であり、そしてたまたま私がそういう方角を選んで、しかも幸せそうな顔をしていれば、ああ、あの人が言っていることを聞いてみようかなあという気になってくれるかも知れない。そこにやはり自分の生き方が問われているんじゃないか、と思います。
 
広瀬:  何かに寄り掛かって生きているということが私たち多いんですけれども、そうしますと、自由というのはやっぱり選択肢の中から自分で選び取って生きていくということが基本に必要なわけなんですね。
 
渡辺:  そしてそれはやはり人格と言いますか、考える力と選ぶ力を持った他の動物が持っていないという尊厳と申しますか、力を持っている人間に与えられた能力ですから、それをフルに使うこと、従って学校で知識を教えるということも、当然その考える材料として大事なことだと思うんですけれども、知識をただ覚えるだけと申しますか、百科事典を開けば出てくる、その知識を与えるだけでは勿体ないことで、その知識を智慧に変えていくと言いますか、自分のものにしていく。そしてさらに価値判断、価値基準、そういうものを教育の中で、反抗しながらでも、私はむしろ手応えがある教育が今大事だと思うんです。子どもの言いなりになってしまう。また反抗期がないような子どもの育て方でなくて、子どもというのはどっかで自分と異質のものとぶつかって、そこで初めて自分の姿を見ると思うんです。ぶっつかるものがないからスーッといってしまって、アイデンティティ(identity:主体性、自己の存在意識)と言いますか、自分自身が違うものと比較対照する機会なく育っていってしまうよりも、どこかで、「いけません」とか、「あなたは考えは違う」とか、そういう分からず屋のような親がいること、私たちの頑固な教師がいること、それが案外子どもに反抗も起こさせるかも知らないけれども、自分と違うものと、自分を比べ合わせて、自分の姿を見る鏡のようなものになるんじゃないだろうか。そういう意味では、そういう存在があまりにも少ないんじゃないか、ということも時たま考えます。ですから知識を智慧に変えていくための価値判断として、子どものしていることを、「それでいいんだ」と言ってくれる人も必要だし、「いや、そうじゃないんだ。こんな考え方もあるけれども、こういう考え方だとこうなる。君の考え方だったらこうなる。どっちか選んでごらん」という。そのもっと選ぶことを子どもに与えてやることが教育の基本でないだろうか、と。
 
広瀬:  日本の教育では特にそういうところが西洋の教育に比べて、選ばせるということは、普段の生活の中でも少ないですね。
 
渡辺:  そうでございますね。私はある時、本を読んでおりましてね、「人間というものは善しか選ばない」と書いてあったんですね。それを読んだ時にとってもビックリしたんですけれども。この世の中に殺人も強盗もいろんなことが行われて、善しか選ばないなんておかしいと思いましたけれども、よく考えて見ると、本当に人というのは、誘拐殺人をするにしても、サラ金で追われて、どうしてもお金が欲しいから、むしろ誘拐をしてでもお金を手に入れることのほうがベターに映るわけですね、よりよい時に。ノーマルな場合だったらしないと思うんですけれども、サラ金に追われてもう二進(にっち)も三進(さっち)もいかない時に、その人がベターなものとして誘拐、または生んではならない子どもを生んでしまった時に、ベターなものとしてロッカーに押し込めてしまう。そのために教育というものは、ベターなものが何か。つまり一時的なベターでなくて、将来的な、展望的な善が選べる教育、または利己的な善でなくて、利他的な、社会的な善が選べる。そういう教育がやはり今おっしゃった選択という時に、自分の刹那的な善でも、非常に利己的な善でなくて、非常に人間的な、そういう善が選べる。それが結局人間の恒久的な幸せにも繋がっていき、自立と言いますか、従って自らに由る「自由」ということとも無関係でないんじゃないだろうかと思っております。
 
広瀬:  先ほどおっしゃったニーバーの言葉ですか、「変えられないものを受け容れる心の静けさ。変えられるものを変えていく勇気。変えられるものと変えられないものとを区別する」。それも勿論人間の英知で、それを身に付けていかなければならない、ということにやはり繋がっていくんでしょうね。
 
渡辺:  そうでございますね。身に付けていくために、祈り求めていくという謙虚な人間の態度と言いますか、勿論自分の努力である程度のことはできますけれども、努力にも限りがございますから、やはり絶えず謙虚にそういうものを祈り求めていきたい、という気持に、いつも学生たちにも身に付けさせてやりたいと思います。
 
広瀬:  祈りの習慣が私なんか特にないわけなんですけれども、そういう人にそういう心の静けさなり、変えていく勇気を育てるためには、何が一番必要なんでしょうね。
 
渡辺:  やはり自分が自分の小ささを思い知らされていくと言いますか、そのためにも人生でいろんな経験をして、そしてまた謙虚に人のいうことにも耳を傾けて、そして自分自身が歩いていく道を定めて、自分しか咲かせることが出来ない花を、他の花を羨んだり、他の花と自分が見比べて、劣等感に陥ったりすることなく、置かれた場で、自分しか咲かせられない花を咲かせていくことがとても大事なんじゃないかと思います。
 
広瀬:  そういう気持でほんとに一日一日を生きていかれて、ほんとに例えば死に臨んだ時にも満足できる人間で勿論ありたいと思いますけれども、なかなか難しい気がしますが。
 
渡辺:  「人生は闘いだ」と養母が言っておりますけれども、私も毎日人生は闘いだと思って、今日の闘いを、そして明日の闘いを、闘う力を祈り求めていきたいと思っております。
 
広瀬:  今日はどうもいいお話を有り難うございました。
 
渡辺:  有り難うございました。
 
     これは、昭和六十三年四月十日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである