わがとこしへの川―魂の歌人・竹山広―
 
                         歌 人 竹 山(たけやま)  広(ひろし)
大正九年、長崎県生まれ。二十五歳で被爆し、その体験を第一歌集「とこしへの川」にまとめる。平成十四年、「竹山広全歌集」で詩歌文学館賞、迢空賞、斎藤茂吉短歌文学賞を受賞。
                         ききて 好 本  恵
 
ナレーター:  長崎県在住の歌人・竹山広さん。原爆の体験を長い歳月をかけて深く掘り下げ、根底から人間と社会を鋭く見据える歌を詠み続けてきました。
 
     くろぐろと水満ち水にうち合へる
       死者満ちてわがとこしへの川
 
この歌は原爆の体験を詠んだ第一歌集『とこしへの川』の一首です。この歌集が出版されたのは、終戦から三十六年を経た昭和五十六年、竹山さんは六十一歳の時です。歌人・竹山広の代表作と知られています。原爆が投下された時、竹山さんは二十五歳、結核で療養中のことでした。
 

 
好本:  原爆落下中心地なんですが、此処、今、奇麗な公園になっていますよね。
竹山:  はい。
 
好本:  こちらにはよくいらっしゃるんですか。
 
竹山:  以前はよく来たんですよ。此処がこんなにこう余所の庭のような感じにならない前ですけれども、自分の庭に入っていくようなごく自然な気持でね、よく来て時間を潰したものですね。此処は原爆公園ですから、いろいろ原爆のことを思うんですけれども、その他にもこうなんか日常的な楽しい工夫なんかもしましたよ。そういうふうにして時間を過ごしましたね。だけど十年ほど前、こんなふうな余所の庭のような奇麗な公園になりましたのでね。
 
好本:  まだなじめないというか。
 
竹山:  そういう感じですね。それ以後はほとんど来ていません。一回か二回か、多分来たと思いますけれども、あまり来る気がしなくなったし、それから歳をとって外に出るのが大儀になったということもあって、あまり来ておりません、この頃は。
 
好本:  このすぐ下に川がありますが、原爆が投下された直後というのは、この辺りはどんな状況だったんですか。
 
竹山:  そうですね。この川はこんなに近くを流れているわけですから一番酷かったですね。私は翌日見たんですよ。今こんなに奇麗に這っていますけれども、普通の川でしたから、石ころなんかゴロゴロして、それからあっちこっちに水の溜まり場がありまして、そこに死体が浮いていたんですね。もう折り重なってほんとに浮いていました。ちょうど私はその時期に、ここからちょうど北東に当たりますかね、浦上第一病院という病院がありまして、そこに入院していたんですよ。それで八月九日はちょうど退院の日になっていたんですね。それで退院の日に朝十時に兄が荷物を運びに来てくれることになっておりまして、それを待っていたんですけれども、兄は約束の時間に来なかった。それで私は偶然その病院に居て助かったわけですけれども、兄がもう時間通りに来ていたとすれば、たぶん時間と距離との関係でちょうどこの辺を通っていたんだろうという気がしますね。そうすると、勿論影も形もないわけですから、私という人間はもう居なかった。兄も居なかった。まあそういう偶然といいますかね、そういうことで生き残って、その翌日兄を捜すためにこの辺をずーっと来たということですね。
 
好本:  その原爆が落ちた瞬間の時は、そうすると入院している病院の中で、どんな状況だったんでしょう。
 
竹山:  そうですね。その時のことはよく覚えているんですけれども、兄が来ないもんだから、部屋の人たちと雑談をしながら待っていたんですね。それで十一時になったかなあと思うころ、高い空で飛行機の音がしたんですよ。聞き慣れているB29の音なんですね。ですけれども、その日は朝から一度空襲警報が出まして、そしてそれが間もなく解除になったもんですから、飛行機の音をあまり気にしないで、話に夢中になっていたんですね。そうしたら突然その音が病院に向かって急降下するような、そういう感じのもう激しい音になったんですね。急にそうなりましたですね。それで、〈あ、この病院が狙われている〉と思ったんですよ。で、咄嗟にベッドの下に頭を突っ込んで構えたわけなんですね。その後、そうですね、時間そんなになかったと思いますけれども、ピカッという光が来まして、ちょうど大量のマグネシウムを一遍に焚くような凄い光ですね。しかも熱いんです。熱かったことを記憶していますね。ちょうど熱い光の中に身体が浮き上がったというような感じなんですよ。それでビックリしまして、生きた心地もない気持でいたんですけれども、その直後に衝撃ですね、爆発波というんですかね、病院がガタッというような、身震いするような衝撃がきたんです、病院にね。〈あ、来た!〉というような感じで、ジッと息を殺してベッドの下にいるわけですよ。そうすると、その爆発波と同時に窓のガラスが全部が割れましたね。そしてガラスの破片が飛んでくる。それと同時に壁の漆喰とか天上の漆喰とかが落ちてくる。部屋中にあるものが散乱するというような感じで、それがグルグル回って、結局下に落ち着くわけですけれども、背中なんかにそれが載ってくるんですね。ドンドン載ってくるんですよ。これは何物かと思いながらジッとして、つくばいながらこう支えているんですね。そんなに重いものじゃなかったと思うんですけれども、その時に一番記憶しているのは息ができなかったことです。ほんとに息ができなかったですね。空気の固まりを喉に差し込まれた、それで喉がつかえている、というような感じでしたね。それで必死に息を吸ったことを覚えているんですよ。
 

     なにものの重みつくばひし背にささへ
       塞がれし息必死に吸ひぬ
 
     血だるまとなりて縋りつく看護婦を
       曳きずり走る暗き廊下を
 
     傷軽きを頼られてこころ慄(ふる)ふのみ
       松山燃ゆ山里燃ゆ浦上天主堂燃ゆ
 

 
竹山:  辺りは暗いんですよ。いろいろ漆喰なんか落ちて埃でたぶんあんなに暗くなったんだと思うんですけれども。それで音が静まるのを待って廊下に逃げ出したんですね。廊下に逃げ出したら、当時看護婦の手助けなんかをしている少女が白衣を真っ赤に血に染めて、ここに縋り付いてきましたね。それを引きずるようにして廊下を走って階下に下りて、下りたところに主治医が立っていました。「逃げろ!」というんですね。私は突然病院の裏の方に畑があって、そこに逃げたんですけれども、白いシャッツ姿ですから、当然上から狙われると思って、また引っ込んだんですね。引っ込んで、今度は一階の廊下の、長い廊下があるんですけれども、それをズーッと真っ直ぐ走って行って、そして病院の敷地外に出ましたね。ホッと、その時しましたけれども。しかしその時、一番ビックリしたのは周りの家がもう一軒残らずペシャンコですよ。よく当たったなあと思いましたね。こんなに命中する爆弾なんて思えもよらなかった。よくみんなよく当たったなあと思いましたね。
 
好本:  「傷軽きを頼られてこころ慄ふのみ松山燃ゆ山里燃ゆ浦上天主堂燃ゆ」という歌がありますが、「こころ慄ふのみ」というのは、どういうお気持だったんでしょうか。
 
竹山:  病院の裏から広い畑になっていたんですよ。そして病院の敷地内ですけれども。広い畑になっていて、そこにみんな出て、そう二十人ぐらいいましたかね、街を初めて見たんです、その時ね。街を見下ろした。そうしたら此処は松山ですね、次は山里ですけれども、全部燃えているんですね。もの凄い火なんですよ。街全体が燃えているという感じでした。浦上天主堂もちょっと遅れて火になりましてね。それを見ている時にもうほんと身体震いましたね。もう世の中、世界が滅びるんじゃないかというような、「人類滅び」なんていうのを子どもの頃から言われておりましたので、なんかそういう感じで見ただけで心が震える。ところがそこに集まった患者さんの中で、私が一番傷が軽かったと思いますね。あっちこっちこう腕とか背中、或いは脇腹なんかに五、六ヶ所ガラスの破片、傷があった位ですね。私が傷が軽いと思っているもんだから、みんながなんか私を頼っているという気がするんですよ。そうすると病院からその下の街のもの凄い様子を見るだけでももう気が震える、心が震える。そんなのになお頼られていると思うと逃げ出したいような感じでしたね。それをまあ「こころ慄(ふる)ふのみ」というような表現をしたわけですけれどもね。
 
好本:   死の前の水わが手より飲みしこと
        飲ましめしことひとつかがやく
 
「ひとつかがやく」というのは、竹山さんにとって、どういう記憶だったんでしょうか。
 
竹山:  これ翌日のことなんですよ。翌日兄を捜し歩いて、やっと兄を捜しあてたんですけれども、その時兄が「水が飲みたい」というんですね。それで近くにあったヤカンを拾って―小さなヤカンでしたけれども―山の中ですから、山を下りてすぐ少し奥の方に入って行くと奇麗な水の出るところがあったんです。これは私は前もって知っておりますから、そこから水を汲んでこようと思ってそこへ行ったんですね。五十メートルぐらい奥ですかね。そうしたらそこは一番もの凄かったですよ。みんなそれ知っているから水を飲みに来るわけですよ。下の街の方で傷付いて、全部上がって来て、そこの水場に来てね、もう飲んで安心して息の絶えた人、あるいはまだ飲みきれずに脇にこういっぱいいる人、もの凄いです、そこはね。それも普通の焦げた死体じゃないんですね。みんな紫色に膨れあがっているんですよ。勿論ほとんど着の身着のままじゃなくて、裸の感じですね。着た物は全部焼けてしまって、それをもう丸出しになってもう大きな―人間なんてあんな大きくなるのかなと思いましたね。そういう人たちが、死んだ人、死なない人がいっぱい居て、水を汲むのに、もうそこまで行けないというような感じだったんですけれども、慎重にそれを踏み分けて行って、私は山から直接落ちる水を汲んだんですよ。やっとヤカンにいっぱい入れまして、そして五十メートルぐらい兄の居る山に上るのには、五十メートルばかり帰って来るんですけれども、山の方に上ろうかなあとしたところがなんか下の方で声がするんですよ。それでそこ石段になっていましてね、下をこう見たところが、そうですね、十二、三歳ぐらいの女の子がうずくまって顔だけ上げて、「水を!」と言うんですよ。それで水をちょうど手に持っていたから、私は階段を下りて行きまして、それでヤカンを差し出したところがヤカンを両手で掴んで、ヤカンの口に口をあてて、二息ぐらい飲みましたかね、随分飲んだと思いますけれども、そしてその後ですね、「おじさん、ありがとう」と言ったですね。この言葉は、私はもういつも思い出すんですけれども、はっきり「おじさん、ありがとう」と言いましたね。それで僕はちょっとこう居ってもしょうがないからと思って、またもう一度水を新しいのを汲みに行ったんですよ。それで汲んで、そうですね、十分ぐらい後でしょうか、帰って来て、どうしているかなあと思って、こう下を見たら石段の上に顔を伏せて亡くなっておりましたね。死んでいました。その時、何とも言えずに暫くそこにしゃがんで涙を流したんですけれども、あれはほんとに可哀想でしたね。そこまで逃げて来て、そして誰にも看取られずに死んで逝ったんですよ。ほんとに可哀想でしたですね。
好本:  これを「ひとつかがやく」というふうにお詠みになったのは、その記憶というのは?
 
竹山:  それが他の人にはほんとに何遍誰から言われても水一つ与えずに逃げるように逃げてきたんですけれども、その女の子にだけは飲ました。まあ気分がゆっくりしていたこともあるんです。水はそばにあったし、幸い水も持っていた。だからお水を飲ましてやった。「ひとつかがやく」というのは、他の人にはやれなかった、やらなかった。そういうことを自分で責める思いがあるもんですから、やったことだけが一つかがやく、というような感じなんですね。
 
好本:  お兄さまを捜して歩かれたということですが、お兄さまはどういう状況にあったんでしょうか。
 
竹山:  兄は、その日十時に来ることになっていて、それ来ないわけですよね。それで翌日昼まで待っていたんです。来るんじゃないかと思ってですね。僕の方のことを心配して来てくれるんじゃないかなあと思って待っていたんですよ。ですけれども、翌日昼までに来ないものですから、逆に僕の方が心配になりました、兄のことがですね。とにかく尋ねて行ってみようと。兄らしいと思われるような死体は全部立ち寄って顔をこう覗くようにして見ました。特に兄はリヤカーで来ることになっていましたので、リヤカーの残骸なんかがあるところはよく丁寧に見ましたね。途中で大学病院の下の方に行った時に、兄がもっと上の方の山の中に怪我をして寝ていると聞いたんですよ。それでそこからはずっと捜すことなしに上っていったんですけれども、そうしたら金比羅山の山の麓の方ですね、雑木林ですけれども、その中に掛け布団を敷いてうつ伏せにこうなっていましたね。それで、私が、「兄さん!」と言ったら、なんか不思議そうな顔をするんですよ。眼がこう塞がって、背中は全部火傷でした。それから顔半分―左だったんですかね、火傷していたんです。なんか話を聞くというと、隣の防空壕堀りを手伝っていて、その時に飛行機が急降下するような音がしたんで、ビックリして傍の防空壕に子供たちを追い入れて、自分も入って、少し入った時に後ろをこう振り向いた。その時にピカッと光がして、それで顔半分火傷ですね。顔半分火傷して、背中は全部火傷ですね。そして山へ逃げ延びて、そこで寝てたわけなんですよ。
 

 
     ふさがりし瞼もろ手におしひらき
       弟われをしげしげと見き
 
     息喘ぐ兄かたはらに暗みゆき
       よるべもあらぬ山のしじまぞ
 
     まぶた閉ざしやりたる兄をかたはらに
       兄が残しし粥をすすりき
 

 
竹山:  兄がですね、それから何日になりますかね、十五日に亡くなったんですから、割合初めのほうは元気だったんですよ。元気でいろいろと、自分が被爆した時の話なんかをして聞かせて、「あ、そうですか」と言って聞いてね。私は一緒に晩になると、その隣に寝て、一緒に話など時にはして寝ていたんです。その時一番記憶にあるのはね、空が美しかったことですよ。夜空がですね。全部木は葉が落ちてしまっていました。あれは爆風で吹き飛ばされたんでしょうかね。それで葉が落ちていて、その葉の落ちた木の間から奇麗な星空が見えたことを、これよく印象に残っていますね。
 
好本:  何にも無いのに空だけは奇麗なんですね。
 
竹山:  そうなんですよ。星が綺麗でしたね。その時のことをよく覚えていますよ。兄はそうね四日目ぐらいからちょっとおかしくなりました。幻聴とか幻覚とかくるようになったんですよ。なんかいろいろおかしいことをいうもんですから、〈あ、これはダメなのかな〉と思いましてね。私はそれまでは飲みたいという水を控えさせていたんです。火傷には水が悪いというようなことを聞いていたもんですから、飲ませるのにも少し飲ませていたんですけれども、もうその時から兄が欲しがるだけ飲ませようと思いましたね。もう泣きながら飲ませたんです。兄はしっかり飲んで、飲みたいだけ飲んで亡くなったわけですけれども。そうですね、他の人に比べると、私が傍にずっと付いていたんで、その点では幸せだったというように思います。飲みたい水も大体飲ませて貰った。他の人は一人で死んでいって、飲みたい水飲まずに死んでいったわけですからね。その点では私は付き添って飲ませてやったから良かったなあと思いますけどね。
 
好本:  お兄さまのことをこのように克明に歌にお詠みになるというのは辛いことではなかったのかと思うんですが。
 
竹山:  そうですね。ほんとに辛いことなんですよ。ですけれども自分一人の胸にしまっておくのはなお辛い、という感じなんですね。兄はこんなにして死んでいったんだということを、誰にも彼にも言いたいというような気持なんですよ。兄は敗戦の日の夜死んだんです。そうですね、変わり果てた無惨な感じで死んでいきましたね。ほんとにこれが原爆で殺されたんですよ。そのことはやっぱり誰かに言っておきたいというような気持でしたですね。
 

 
ナレーター:  竹山広さんは、大正九年平戸に近い長崎県南田平(みなみたびら)村、現在の田平町に生まれました。かつて迫害を受けた隠れ切支丹(きりしたん)たちが明治時代の半ばに移り住んで築いた村です。竹山さんの家も代々続いた隠れ切支丹の家柄でした。村の中心にある瀬戸山天主堂、信者たちの手によって大正七年、竹山さんが生まれる二年前に建てられました。竹山さんは十二歳の時、神父の勧めで長崎市の神学校に入学しました。しかし十六歳の時に神父になる夢を断念、転校した先の中学校で短歌と出会いました。中学を出て就職をしましたが、二十一歳で肺結核を発病、竹山さんが被爆したのはその病気療養中のことでした。その体験を一冊の歌集として纏めるまでには三十六年の歳月がかかりました。
 

 
好本:  竹山さんは戦後故郷に戻られますよね。
 
竹山:  はい。
 
好本:  竹山さんのご苦労というのは一通りではなかったというふうに伺いました。
 
竹山:  そうですね。戦後は郷里に帰るわけですけれども、まだ病気が治っていなくて、二年ぐらいは療養に専念したと思います。その間いろいろ教会には出入りしておりまして、戦後復員してきた若者たちで教会は膨れあがるですね。それで青年会というのができまして、何百人もいる青年会ですよ。その青年会のお世話なんかをするし、それから私は公教神学校でオルガンをやっていたもんですから、いろいろ聖歌なんかも教えるんですよ。そういうふうにして教会と出入りしておりまして、昭和二十三年の秋に結婚したんですけれども、結婚した後からもずっと教会には出入りしておりましたね。それでその頃はまだ両親が生きておりまして、両親に養われるというような感じでいたんです。ですけれども父は脳溢血で入院するというようなことで、これから自分は働かなければいけないんだということで、町の役場にしばらく勤めたんですよ。それで役場に勤めて半年ぐらいか、もう少し勤めたでしょうかね、帰る道に喀血を起こして道に血を吐きながら帰ってきたんですよ。もうこうなったから役場勤めは辞めなければいけないなあと思って、役場を辞めまして、それからしかし生活はどうかしなければいけない。みんな食べていかなければいけない。畑は少しあったんですね。畑は少しあって、それは家内はやったことはないし、私もやったことはないし、近所の人たちに頼んで、みんなが自分の仕事を済んだ後で、私の方の畑をいろいろ加勢してくれて、そういうようにして、貧しいものでしたけれども飢えることはなかったと思いますね。そういう暮らしをしている時に、突然大きな喀血ですよ。やっぱり無理をしているんですね。その前に小喀血というのは何度かしたんですけれども、その時もまあすぐ治るんだというような感じで働くもんだから、それ無理をしまして、もうとにかく大きな喀血をしまして、その時は強制的に入院です。お医者さんが遮二無二に連れて行きましたですね。その時レントゲンを撮るわけですよ。そうするとレントゲンを撮った後、主治医が家内を呼ぶんですね。〈大分酷い〉と言われているだろうなあという気がしまして、自分でもわかっていたんです。こんどたしかに〈重篤だなあ〉ということはわかっていたんですね。で、これは、〈たぶんおれはここに死ににきたんだから死ぬ準備をしなければいけないなあ〉と思いました、その時に。それでいわゆるカトリックの信者が死の前に授かる「終油(しゅうゆ)の秘蹟(ひせき)」という儀式があるんですけれども、それを受けようと思って、神父に頼んで授けてもらったんですよ。生涯の罪の告白をして、身体を浄めてもらって、死につくという儀式ですけれども、その時に私は、意識はまだまだしっかりしていたんですね。しかしもう何ヶ月後―医者は家内には「三ヶ月」と言ったそうですけれども、私ももうそれぐらいかなあというような感じがあって、それで「終油の秘蹟」を授かるというのはもう意識朦朧となって、死がそこへきてからでは遅いんだ、と。もっと気分がこんなにしっかりしている時に、自分の生涯を顧みて、悪かったところはおゆるしを願うということにして初めて意義があるなあと思ったもんですから、まだ意識がしっかりしている段階でそれを受けたわけなんですね。その時に妻と二人の子ども―子ども二人だったんですけれども、二人の子どものために、いろいろ心配なんですよ。自分が死んでからどうなるか、と。その時、そういう気持があったもんですから、神さまに約束したんです。「私は、これから死ぬまで―いつ死ぬかわからない。どういう苦しみがあるかわからない。怖いけれどもどういう苦しみかわからない。ですけれども、これから死ぬまでの苦痛、苦しみというのを一切おささげします。その代わりどうぞ二人の子どもを守ってください」という約束をしたんです。それをしたかったがために、まだ気分のしっかりしている時に、「終油の秘蹟」を受けたんですね。ただそれ人間が死んでどうなるのかまったくわからないわけですよね。死後の世界があるのかどうかもまったくわからない。わからないけれども、それはもう信ずるか信じないか、その二つですね。私はたまたま自分から望んではなかったけれども、子どもの頃から信ずる側のほうにいたわけなんですよ。それで信ずるわけですけれども、その死後の世界に入るためには、何よりもこの地上でしっかりした生活をしなければいけないんだ、ということを教えられましたですね。死後を信ずることによって、大切なのはこの世の生活なんだ、と。この世の生活の続きに死の世界というのが来るんだということを信じて一生懸命生きていかなければいけないんだ、ということをずっと思っていましたですね。ポッと死ねば、そこに死の世界が待っているというんじゃなくて、もうこの世の生の続きに死があるんだ。この世でしっかり生きておれば死のことはもう大丈夫なんだ。死後のことは、というような、それは一つの信仰でしょうね、それは思っていました。
 
好本:  竹山さんは昭和三十九年に、お姉さまとそれからご家族を連れて、長崎市に移られますね。故郷を離れるというのは相当の決断でいらっしゃったんでしょうね。
 
竹山:  はい。それはほんとにそうなんですね。退院と決まった時に、いろいろ考えて、これからの生活をどうしようか、というようなことを本気に考えましたですね。そして今やっているような鶏を二百から三百羽飼って、畑が二反歩かそこらあって、これに頼って生きていくことは当然できない、と。子供たちがこれから成長する。その教育をどうするのか、というようなことも考えましたし、それから体力も勿論ないわけですね。それで私は人並みに勤めに出るというようなこともできない、と。家内も慣れない仕事を今までやってきたけれどももう無理なんだ、というようなことを考えまして、その時に実は退院が決まるちょっと前ですけれども、新聞にこれから都会に出てなんかやろうとする場合は資本のいらない、手元のかからない名刺印刷がいいだろう、という記事が出ていたんですよ。それをまだ入院中でしたけれども、それを読みまして、〈よし、これをやろう〉と。これは一遍もやったことがないんですけれども、これをやろう、と。資本もそんなにないんだから。しかし何かをやらなければいけない。やるとすると、もうこれより他にないな、と思いまして、幸いなことに入院している友だちが印刷の経験があったんですよ。それで活字は無いんですけれども、活字の並べ方を教えてもらったんですよ。版の組み方をこうこうして並べるんだというようなことをね。それでうろ覚えの知識で、〈よし、やる。これでやるんだ〉という気持で一人決めてしまいました。家内もそれに賛成しましたし、結局昭和三十八年の暮れに退院して、翌年の五月に一家あげて出てくるんですね。その時に父親から譲って貰った財産すべて金になるものは全部売ろうと思ったんです。家も畑も山もその他の財産一切金に替えられるものは売ろうと思って売りました。それは勿論資金にするためですけれども、それともう一つは、もう帰るところは絶対にないんだ、と。そういう気持に自分を追い込むために全部売ってしまいましたね。鶏も勿論売りました。鶏が一番高い金になったんですけれどもね。そうして出て来たんですよ。家なんかはほんとにまだ良い家だったんですよ。材木も奇麗でしたしね。ですけれども、結核の私が住んでいたというだけのことで小屋同然の値段に叩かれましたね。それを売った時のことを思うんですけれども、売った家から下りて来る時、ちょうど麦の穂がこう出ているんですね。そこまで来たら杉の木の間から自分が今売った屋根の瓦が輝いて見えたんですよ。それを見た時に涙がいっぱい出てどうにも止まらないんですよ。それで売ってしまったと思ってですね、その麦の穂の横にしゃがみ込んで暫く泣きましたですね。あれはほんとに悲しかったですよ。
 

 
     十字架も聖画もはづしこの家に
       主(あるじ)たりにし一切終る           
 
     病むわれに代わりて妻が守り来し
       この二反歩の畑も売るべし
 
     もの言はず寝ねゐし妻が残しゆく
       畑の馬鈴薯をふいに惜しみつ
 

 
竹山:  寝たような感じで黙っているんですけれども、傍にいた家内が、「ああ、せっかく作った馬鈴薯―もうすぐ収穫できるんですよね―あれ残していくと、惜しいな」とか言って、なんか私もそう思いました。「苦労して作ったのになあ」とか言ってですね。それはほんとに切ない気持でしたですね。何にも言わずにそれだけ言いましたからね。自分がやっと作ってもうやっと採り入れるところまできたのに、それを置いていくわけですからね。
 
好本:  でも長崎市に行って、名刺屋の看板が揚がって、そしてなんとか食べられるように収入がしっかり得られた時の歌なのか、この歌はまたお子さまへの愛情と言いますか、竹山さんがホッとしたお気持なのかなあと思うんですけれども、
 
     けふ得たる銭にてけふを生きしかば
       満ち足りて子の眠りは早し
 
これはホッとしてお詠みになったんですか。
 
竹山:  間口が一間、奥行きが二間半の小さな店を借りまして、そこに「竹山印刷店」という看板を揚げるんですよ。看板は堂々としたやつですけれどもね。それを本人はやったことないんです、一度もですね。結局看板を揚げてから二日ほど閉め切って家内と練習をするんですね。家内はこう列べてある活字を一生懸命拾う。どこに何の活字があるか。大体偏(へん)によってこうずっといくんですけれどもね。旁(つくり)とか偏によって列べてある。ですけれども、それを覚え込むまではやっぱり大変かかるんですよ。私は刷る。家内が拾った活字を組版があって、それにちゃんと並べていってですね、逆に並べるわけですね。それを何遍も何遍も、二日間ほど閉め切って、やり直して、崩しては組み、崩しては組みして練習をしましたね。そして自分の名刺を刷ったんです。自分の名刺が奇麗にできたんで、〈よし〉と思って、それで二日間の間に大抵の名刺は刷れるようになりましたね。格好のつくような感じで名刺が刷れるようになったんです。ですけれども、本当に店の戸を開けてお客さんを待っている時、お客さんが入ってくるのは怖かったですよ。ほんとに入ってこなければいいがなあ―来て貰いたいんだけれども―来なければいいがなあ、と。
 
好本:  ドキドキして、
 
竹山:  ええ。賑やかな通りなんですね。賑やかで頻繁にぞろぞろ人が通るんですね。あのうちの百人に一人入ってくれればいいがなあという気もあるんですけれども、しかし入って来てどんな名刺を頼まれるのか、どんな印刷を頼まれるのかと思うと、何とも恐ろしい。そういう思いで始めてましたね。そういうふうにして始めたんですけれども二年間ぐらいはきつかったですよ、やっぱり。固定のお客さんが付かないわけですね。何とかその日暮らしをするというような感じですね。今読んで頂いた子どもの歌は、やっと一日何とか食べていけるかなあという感じの収入を得て、詠んだ歌なんですけれども、そういう貧乏の中で育つ子どもをほんとに不憫に思いましたね。寝顔を見ていて、しかししっかりやらんといかんというような励みも抱きましたけれどもね。
 
好本:  もう一つの、
 
     言ひし値をびた一文も引かずきと
       あくがれて子の憶ふ日あれよ
 
これはなんか竹山さんの仕事に対する、なんていうか厳しさというか、誇りというか、そういうのが感じられるんですが。
 
竹山:  これは、私はつくづく思うんです。家内から、「あなたは商売に向いていない」と言われるんですよ。ほんとにそう思いましたね。商売気がないし、それからいろいろ愛想をいうのが嫌なんですね。それと最初からいくらか割引をした値段をいうわけですよ。それなのに、「まだまからないんですか」というようなことを言われると、なんかあんまり気持がよくなくて、「ええ、これが精いっぱいのところです」というて、全然まけないんですね。一番嫌だったのは、私がそういった時に、「どこそこの店はいくらでしてくれるのに」というお客さんがいるわけですよ。そうすると、私はちょっとむかっとしたような感じで、「そうしたらいってください」というんですね。それはほんと商売人失格ですね。そういう時にやっぱり上手いってお客さんを掴まなければいけない。それなのに、「余所へ、じゃ安いほうに行ってください。あなた、私に頼むとそれだけ損をするんですよ」と言うんですよ。
 
好本:  それこそびた一文もまけられるような仕事じゃないという。
 
竹山:  そうですね。もともとまけられる、もうここまではまけていい、という値段を最初にいうわけですからね。当然値段を割引しているんですよ。ですからそれ以上まけろと言われるともう嫌だったです。まけたことは一度もないと思いますね。その代わりまけたことはなかったけれども、約束をしますよね。「何日までにしてください」と。これは忙しいんで、「早くしてください」と言われると、その約束した日は必ず守りましたね。忙しいし、仕事は別にまた入って、これやりきれないと思うような時でも、やる思いをして夜中までかかって仕上げましたね。それで私の第一のモットーとして、「お客さんに無駄足を踏ませない」ということだけは絶対やろうと思っていましたね。
 
好本:  印刷屋さんを始めようと思われたのは、ひょっとしていずれは歌集を出したいというお気持ちがおありだったのかなあと思ったんですが。
 
竹山:  それ、まったくありません、歌集を出したいという気持は。結局『とこしへの川』というのは六十一年まで出せなかったんですよね。歌を始めたのは、そうですね二十歳ちょっと前ぐらいですから、四十年ですか、かかっているんですね。それは本当はいろいろ理由はあるんですけれども、その一つは生活が苦しかったことですね。もう生きていくのに一生懸命だったんで、歌のほうに心が向かわなかったということがありますね。これはたしかにそうです。こちらに出て来て印刷の仕事をする時も、それから郷里にいて入院している時も当然ですけれどもね。そういう心の余裕がなかった。それからもう一つは、戦後歌を作ろうと思って、それで家に帰って療養する歌と同時に、原爆の歌を作り始めたんですね。原爆の歌を作らなければならんというような感じで作り始めた。ところがその原爆の歌を作るというと、そのシーンの夢を見るんですね。あるシーンの原爆の歌を作ろうとすると、もうその場面そっくりの夢を見るんですよ。歌を作る前にも原爆の夢は見ていました。その夢はそんなにはっきりしたシーンじゃなくて、どこか見知らぬところに今行っているな、どっか変なところへ来ているなあと思うと、ピカッと閃光が走るんですね。パッと目が覚めて、ああ、ビックリしたなあという感じだったんです。ところが歌を作り出したら、その場面を見るんですよ。歌ったその場面を見るんですね。それでもうそれが二晩三晩と続くと怖くなりましてですね、〈いや、原爆は歌えないな〉と思って。そうしたらもう他の歌もうたう気がしなくなって、もう歌を投げ出した。そういう期間が十年ほどあったんですね。十年間まったく歌から気分が離れてしまっていた。夢を見なくなったというのは、なぜか自分ではわからないですね。なぜそうなのか。しかし、一度死を覚悟した。自分は死ぬんだ、と思って死の準備もした。あるいはその余裕か何か、よくわからないけれども、たぶんそうかも知れないなというふうに思いますね。或いは時間がもう十年経ったからかも知れませんね。
 

 
     暗がりに水求めきて生けるとも
       なき肉魂(にくかい)を踏みておどろく
 
     夜に入りてなほ亡骸を焼くほのほ
       遁れしものを呪ふごとくに
 
     人に語ることならねども混葬(こんそう)
       火中(ほなか)にひらきゆきしてのひら
 

 
好本:  「人に語ることならねども混葬(こんそう)の火中(ほなか)にひらきゆきしてのひら」という歌がありますが、これを拝見すると、状況があまりに読んでいても辛いというか、強烈な印象なんですけど。
 
竹山:  その場面を思い起こしますと、思い起こすだけでも辛いんですけれども、死体を積み重ねて焼いているところにたまたま私が通り掛かったんですよ。その時のことを歌ったんですけれども、何かあまりこういう悲惨なことを歌うべきじゃないのになあという気持がありまして、それでこれはほんとに知ったかぶりして、他人(ひと)に歌として発表することではないんだけれども、自分の胸一つに閉まっておけばいいんだけれどもなあという思いが湧いて、「人に語ることならねども」というふうにしたわけなんですね。ほんとに悲惨ですから、ほんとは自分一人でジッとそれを耐え忍んで、思っておけばいいわけなんですけれども、何かしらやっぱり語りたい。それは他の原爆の方もそうですけれども、何かしら本当にその時行き会った人、行き会った死体、そういうものをそっと拾い上げて、こう差し出すといったような感じで詠んだと思いますね。おそらくそういう歌―全部他の原爆の歌そうですけれどもね、原爆の歌だから後世にこれは伝えなければいけない、とかというようなこともありますよ。こういう悲惨は二度と起こしてはいけない。もうこれはほんとにしっかり後世に伝えなければならない。それは私もちょっと心の中にあるわけです。これはほんとにずっと伝えて、忘れないで気を引き締めていかなければ人類は滅びるぞ、という気持は人一倍あるわけですけれども、短歌でそれを詠おうと思わないんですね。短歌では無理なんだ。もうほんとに無理だと思いますね。短歌でそれを詠うんではない。私が詠う短歌というのはそういうものではない。後世に伝えるとか、悲惨を訴えるとか、いうようなことではなくて、何かが自分のこう胸の底から突き上げてくるような思いですね。さっき言ったかと思いますけれども、何かしらん原爆が胸を塞いでいる。そういう詠わなければもう先にも進めない、という、そういう感じがあって、一人一人思い浮かぶこと、あの時はこうだったなあ、そこへ行ったらこうだったなあ、というような、そういう思いを一人一人それを掬い上げて、みなさまの前にそっと差し出すというふうな気持ですよ。訴えるとかなんかということではないんですね。そうすると、次から次へ湧いてくるもの、死者が湧いてくる。記憶に上ってくる。それをまた一人一人同じように掬い上げて差し出すというような、そういう感じで詠ったと思いますね。
 
好本:  「わがとこしへの川」自分の永遠の川ということですか。
 
竹山:  はい。そうですね。生きている限り自分の血を流れ続ける、自分の前を、あるいは自分の体内を流れ続ける川なんだ、という思いですね。これは実際に川に死んでうつ伏せになって折り重なって、たくさんの人がもう流れを堰き止めるような感じでいた。そういう場面を何回も見ているわけですね。あの川、あの黒々と水が死者を満たしていた。あの川は私が自分が生きている限りもう一生自分から消え去ることはない。自分の中を、あるいは自分の目の前を流れ続ける川なんだ、というような思いですね。それは川といっていますけれども、川に限らず、あの時目に死者のすべてがそうですね。原爆の時に非常に悲惨な死者を見た、川の死者も見たけれども、地上の死者も見た。そういうものを引っくるめた感じで、まあそういうものを全部自分が生きている間消えることはないんだというような思いですね。川と言ったから、「とこしへの川」というように、結んだわけですけれども、思いとしては、死全部を含めたつもりなんですけれどもね。
 

 
     くろぐろと水満ち水にうち合へる
       死者満ちてわがとこしへの川
 
     追い縋りくる死者生者
       この川に残しつづけてながきこの世ぞ
 
     これは、平成十七年六月五日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである