老いを生きる知恵
 
                         僧侶 内 山  興 正(こうしょう)
明治四五年東京に生まれる。昭和十年早稲田大学文学部西洋哲学科卒業、一二年まで同大学院に在学。昭和一三年宮崎カトリック神学校の教師となる。昭和一六年澤木興道老師について出家得度。戦時中昭和一九年から島根県に疎開。昭和二四年安泰寺に入る。(托鉢と坐禅の生活)昭和三七年『折り紙』の本出版。(長年の托鉢に一応終止符)昭和四○年澤木興道老師入寂。以後、安泰寺堂頭、鋭意、後進の育成と坐禅の普及に専念する。昭和五○年引退。大垣市に隠居。昭和五二年宇治市能化院に転居。昭和五三年京都市宗仙寺で正法眼蔵味読会を開講。(〜昭和六三年)平成一○年宇治市能化院にて示寂。著書に「観音経を味わう」「生命の働き」「進みと安らい」「正法眼蔵―現成公案意解」「折り紙」「自己」など多数。
                         孤雲庵主 木 寺  正 徹
大正十二年長崎県に生まれる。生命保険会社に勤め、昭和五十八年上野支社長を最後に定年退職し、内山興正老師に師事して、坐禅修行の生活に入る。
 
木寺:     老後
     人の海を泳ぎわたってきた
     あなたは こんど
     自己のいのちの深海に
     じっくり沈潜してみませんか
     いまの自己の存在価値を
     いまの自己のなかに
     見出しつつ生きること
     そこには限りない
     いのちの豊かさが
     開かれてゆくことでしょう
 
ただいまの詩は、内山興正老師のお作りになった詩でございます。内山老師を簡単にご紹介申し上げますと、老師は明治四十五年東京にお生まれでございます。現在七十四歳でいらっしゃいますが、旧制中学の三、四年頃、人生について悩みを持ち始められ、悩み多き人生を持って、せっかく人間として生まれたのだから、人間としての真実に生きたいという願いを強くお持ちになりました。その念願が大学進学に当たっては哲学を選ばせ、西洋哲学を専攻なさいまして、さらに大学院に二年間、この間キリスト教も深く勉強されました。そして仏教も勉強なさったわけですが、結局のところ道元禅師の「仏道とは自己を習うなり」という、この道元の仏法こそが真実の自己を真っ直ぐ追求する道だと確信されるようになりまして、ちょうど大東亜戦争勃発の昭和十六年の十二月八日、澤木興道(さわきこうどう)老師について出家をなさいまして、もう爾来一筋に坐禅修行だけで今日に至られた老師でございます。お坊さんの修行は何もしないで、ただただ坐禅修行一筋に生きられて、そして澤木老師がお亡くなりになったあと、十年間後輩の育成にお努めになって、そして現在は宇治市にお住いで、京都の宗仙寺(そうせんじ)で『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』を毎月一回講義してお出ででございます。私は老師を師と仰ぎまして師事してまる四年、坐禅修行の生活に入らせて頂いておる者でございます。木寺と申しますが、これから今日は老師にスタジオにお出で頂いておりますので「老いを生きる知恵」ということについて、老師のお話をまずお伺いしたいと思います。それでは老師一つよろしく。
 
内山:  今はね、高齢化社会で、それで私たち自身も高齢化人間になっているわけですが、この人間年取っていくと、呆けるということがあるのが、ちょっとこれが問題なんですね。それで、今、政治でもマスコミでも、呆け老人対策というのがよく言われていますが、年取っていく当の老人として、自分はいつ呆けるんだろうと、ただ手をこまねいて待っているというんじゃ能がなさすぎると思う。それで何とか呆けないで年取る工夫はないものかと、私は考えるわけですね。こんなことをいうことからして、呆けた証拠だと言われると、これは一言もないんですが、あるいは若気の至りで、こういうことをいうのかも知らないけれど、とにかく人間年取ってからですね、病気でもして、それを機会に頭も呆けたというんなら、これはしょうがないけれど、身体は丈夫だのに頭だけ呆けたというのは、これはちょっと生き方、生きる姿勢の工夫することによって避けられるんじゃなかろうか、とこう思うんですね。それで大体年取ってですね、若い時みたいに働けなくなるのはこれはしょうがない。これは年寄りとしてのマイナス面でしょうが、しかし今の時代、年寄りの労働力を必要とする時代じゃないんですから、だからその点はあまり気にしなくてもいいんだと思う。それに対して、何といったって、これ年寄りがこの長い年月生きてきたというのは、何といっても一つのキャリアですから、このキャリアに自信を持ってですね、人生わずか五十年という時代よりは、七十年、八十年、あるいは九十年と長い間生きているんですからね、これに十分自信を持って、これをただ呆けさせちゃもったいない。いよいよこのキャリアを土台にして、いよいよ冴えて生きるという生き方もあっていいんじゃないか。それのほうが人間本来の姿じゃなかろうか、というのが今日私が提案したいところですね。そしてそれについての私の考えをちょっと申し上げてみたいと思うんですが、大体人間いくつから年寄りと決まっているものじゃない。五十、六十ですっかり老け込んでいる人もいるんだし、八十、九十で現役の人もいられるんだし、いくつからって決まっていない。これは各々個人差の問題ですね。しかし、大体普通に勤めの方が定年退職をするという時に、これは一つのその人の人生の区切りじゃないですか。この区切りにあって、今後自分はどういうふうに年取っていくか。これ一つ方針をハッキリ立ててかかる必要があるんだと思う。例えば、水の中でも泳ぐつもりで飛び込めばこそ泳げますよ。だけど落っこったりね、それから人から突き落とされたりしたんじゃ、これはとても泳げない。それと同じように、これから年取っていくということも、どういう年の取り方をするか。ここのところをハッキリ頭を切り替えて年取っていく必要があると思う。それを今の日本の人たちは、大体今、私は思うんだけど、戦後本当に戦争へ行って帰ってきて一生懸命働いた人たちばっかりがいま年取っていく時代でしょう。だから働くことが忘れられないんだな。どこまでも働くということに生き甲斐を感じ、それから働くことだけを価値としているわけですね。しかしそれで年取るんでも、どこまでも若い者に負けずに働くぞという、こういうつもりできているわけだけれど、それで最後までいければ勿論結構ですよ。しかしながら大概の場合はそれからなお先がある。そして気持としては、どこまでも若い者に負けずに働くというつもりでいても、いつしか若い者に乗り越えられ、そして追い越されていくわけですね。そうすると、そこで挫折感、敗北感を感ずるじゃないですか。この挫折感、敗北感がどうも呆けに繋がるようなんだなあ。それでその辺ね、例えば女の人でも一家を思う存分切り盛りしてきているしっかりした女の人が、しかしいつの間にか年取って、息子の嫁さんが女盛りになってきた。それでもってそういう女盛りの嫁さんにその座を取って代わられると急に呆けちゃうということがあると思う。今の政治家の場合でも同じだけど、結局そういうことで呆けるということがあるんじゃなかろうかと思うんですね。その点ね、私は思うんだけど、今の南方仏教の人たちの年の取り方は見事であり、それで学ぶべきだと思う。南方仏教の人たちは、子どもの頃はお寺に入って、それで修行したり勉強したりする。それから大人になると家へ帰って働く。それから年取るとまた家を捨てて森林の中へ入ったり、あるいは遊行(ゆぎょう)に出たりするというんですね。こういう自分の一生を見事切り替えて生きていくという生き方ね、これは学ぶべきじゃないかと思うんです。それは南方仏教の、今のような生き方ね、今の日本人がそのまま真似することはできないですよ。何といったって日本のほうが南の国より寒いですからね、森の中へ行ったり遊行に出たりしたら凍え死んじゃうということもあるわけで、結局南方仏教の人の年の取り方の大切なとこね、これはどこかというと、結局は、「社会に働く生き方から実存的に自己を完結する」―社会に働いて生きる生き方から実存的に自己完結する生き方への切り替えですね。その辺を学ばなくちゃいけないんだと思う。ただ働くだけを価値とするというんじゃなくて、今度は年取ったらば、どうせ自己完結しなきゃならない。死ぬということはどんなにたくさんお金を持っていようと、そのお金が何にも役に立たないことだし、どんなにたくさんの交際をしていた人でも実際に誰も助けちゃくれないんで、死ぬ時はまったく自分一人で死んでいかなくちゃならない。この「自己ぎりの自己」として死んでいくんで、この「自己ぎりの自己」として、自己完結しなくちゃならない。その修行期間として老年時代を当てているんだと思う。その辺の老年時代の過ごし方、南方仏教の人は見事だと思う。これ大自然的なライフサイクルというか、自然周期に合わせた生き方だと思うんですね。私たちもそれを一つ心掛けていきたいと思うんだけど、まあ木寺さんなんかは長年お勤めされてきて、大きな保険会社の支社長でありながら、今後重役の道も会社で作ってくれたというのに、それを断ってね、「これから定年退職後は坐禅修行したい」と言って、私のとこへ来られたわけだけど、これは私が思っていたそういう人生の周期に合わせた切り替えを見事にやられた実物見本だと思って、私は、そういうところに木寺さんが思い至られた気持と坐禅修行に入った体験といいますかね、それと体験を終えた今の心境、そういったものを一つ話して頂いたらと思うんですが。
 
木寺:  まず、今おっしゃいました六十歳の選択として老師について坐禅修行生活をするんだということを決めたわけですけれども、これはやっぱり老師の本に随分長いこと親しまして頂いたということもあるわけですけれど、やっぱり人生の部分部分ということではなくて、一生の姿に立って今を見直すと申しますか、これはやっぱり非常に大事だなあということを思いまして、やっぱり六十歳といえば人生の大きな節でもありますし、それからまた六十歳とは言い、まだ百まで生きれば四十年は生きられるわけだし、九十まで生きれば三十年あるわけですから。
 
内山:  百十の時代になってきますから、そうするとあと五十年、
 
木寺:  そうしてみますと、ただ何となくの流れに委せてはいけないと思いましたし、それでいろいろ私自身振り返って見て、やっぱり私が手探りで探し求めた道が、実は坐禅修行生活であるということがやっとわかったんですね。それが根本動機だと思います。今そういう気持になるまでの経過をちょっと振り返ってみますと、まず若い頃陸軍中野学校に行ったという縁が一つあると思います。これはご承知の通り小野田さんで急に有名になりましたけれども、秘密戦の士を養成学校ですから。
 
内山:  今ね、木寺さんは柔和な顔になっちゃったけど、初めて来られた時ね、中野学校出身だと言われてね、〈あ、なるほど、中野学校の顔だ〉と思ったもの。眼光がやっぱり鋭かったね。
 
木寺:  やはり秘密戦士ですから華々しい戦死じゃなくて、野垂れ死にもあるんですね。むしろ野垂れ死にが多いだろうし、また戦功を立てても、秘密戦なればやはり二階級昇進だとか、金鵄勲章(きんしくんしょう)というわけにはいかないわけです。それからまた組織で、大部隊で一丸となって戦うというんでなくて、常に一人での戦いである、と。だから一人で黙って戦い、黙って死ぬという。よく老師のおっしゃる自分自身の中に存在価値をちゃんと持っていなければ任務が果たせないといいますか、少なくとも人生という地盤から見ての歩みはできないわけですから、そういうことが非常に強く私の心に刻まれたと思うんですね。ですから中野学校というのはわずかな期間しかないんですが、やはり戦後も久しいこと私の中に生き続けたということがございますですね。そういう意味で、私は振り返って見て思うんですが、私一遍やると決めたことはなんとかかんとかずぼらなりにも最後には貫くというところも、もしあるとすればやっぱり中野学校の生活も預かって力になっているんじゃないかなあということを思うんですね。しかしこれも今になってよく振り返ってみて気が付いたことなんですが、ただ単に中野学校というだけでなく、私のごく身近な上官でしたけれども、そういう任務をただ仕事として片付けるというだけじゃなくて、軍人として片付けるという前に、やはり人生という地盤で深く受け止めて、そしてわれわれ後輩ともに生きる心を耕し深めていた先輩との出会いということ、これが非常に大きかったんだなあと、これは最近になって気が付いたことですけどね。これが一点ございます。それから次には仕事で、私は第一生命で、早生まれだった者ですから四十年、軍役中も含めれば勤めたわけですけども、その第一生命の創立者が矢野恒太(やのつねた)翁と申しまして、当時は株式会社だけだったんですけれども、その生命保険事業というものを金儲けの対象として営むということに非常に疑問を感じられまして、これを施し合い助け合いの組織にすべきだというふうにお考えになりまして、これを医者という職業まで投げ打って研究されて、そして日本ではじめて相互組織による生命保険を導入せられたという、これにかけられた情熱、また誓願と申しますか、これはやっぱり損得に生きる人間でできることじゃありませんね。私は矢野恒太翁の生き方というものを今でも非常に尊敬しているんです。
 
内山:  明治時代なんですね。
 
木寺:  明治三十五年です、創立されたのは。
 
内山:  そうですか。
 
木寺:  それこそ十年以上の歳月をかけて取り組んで創立なさったんですね。私はその精神に、人生観に非常に感銘をして、その方にお会いできただけでも、私は第一生命に勤めさせて頂いて有り難かった、と今も思っております。ですからそれが大きな縁だったと思いますですね。なおこれは念のためですが、今は例外を除いては全部相互会社になって、株式会社はありませんけどね、これは一律にそうなっておるわけです。しかしその端緒を開かれたことは確かですね、我が国で初めて。その会社で長年勤めて四十代で管理職になって、それから十年経って、支店で第一線で軍の部隊長と申しますか、支社長をしておったわけですけども、その当時、私は、経営の心と経営の実務に分けて講義しておったものを、これをまあ本に纏めてくれ、というような話が出まして、とにかく本にするということになったんですね。そういうことで『経営の心』という本を書いたわけですけれども。これがまたいざ書き始めてみると、実際に取り組んでいる仕事の本ですし、いい加減なことは書けませんし、私は私をお粗末はお粗末なりに堂々とぶちまける以外に手はないんですね。それで私なりに、とにかくお粗末なりにそれこそ堂々と訴えたいことは訴えて書き上げたわけです。言うことと、言って筆にするということは、やっぱりこれ道をつけるというようなところがあるようですね。
 
内山:  自分にハッキリしますからね。
 
木寺:  そうなんですね。私はそれを書きながら、その時に深く思ったことは、少なくとも出世や自分の損得で生きるんではなくて、自分の信ずる道を歩もうということだけは、自分に深く言い聞かせたという記憶が、どの辺書いているというところまでも覚えております。これは非常に強くありましたですね。それで私も定年に対する根本的な考えは、外に向かって、こういう奉仕をしていますとか、そういうことじゃ本当の奉仕にならない、と。働く職員がどっからどう見ても、宗教家から見ても、先生から見ても、誰から見ても生き生きと生きているという、その人間の生きるということをすべての根本におきたかったわけですね。その一点だったんです。
 
内山:  いわば自分の生き様ですね。
 
木寺:  そうですね。そしてこう振り返って見ると、私も会社とともに、そしてまた職員のみなさんとともに、特に私の部隊は第一線のセールスマンの人たちですから苦労が多いわけですね。そういう人たちとともに歩む私自身の道を捜しておったんだと思うんです。
 
内山:  どの位の人数の人を使って?
 
木寺:  多い時には内外全部二千人使える部隊でした。
 
内山:  そうですか。
 
木寺:  そういうことでやっぱり自分なりに今振り返ってみると、やはり会社とともに歩み、そして第一線のセールスマンのみなさんとともに歩み、しかも私自身の道であると、そういうものを見つめていたんですね。それでそれをどこまで見つめていこうということを心に決めて、自分で何よりもそれを大事にしていこうということは、こうして自分で深く心に刻んだということがありました。気が付いてみると、実はその本を書きあげて、早々に禅堂の門を叩いているんですね。だからそれが私の中にずっと入って、ある意味ではまた随分威勢良く自信に溢れてやっていたんですけれども。
 
内山:  それは昭和何年頃ですか。
 
木寺:  ちょうど五十歳に差し掛かった頃です。
 
内山:  そうですか。
 
木寺:  ちょうど四十で、管理職に就いて十年目です。
 
内山:  そうですか。十二、三年前?
 
木寺:  そうですね。それで書き終わったところで、坐禅堂を訪れていましたね、気が付いてみると。私なりに道を見つめていたんだなあということを自分なりに振り返って思いますですね。それが最初の出会いで臨済禅でした。高歩院(こうほいん)住職の大森曹玄(おおもりそうげん)老師、辻雙明(つじそうめい)先生の不二(ふじ)禅堂と二つ訪れて、そして辻雙明先生の不二禅堂に決めて、そこに通わせて貰いました。で、間もなくすぐ今度は、静岡に転勤になったわけです。それで静岡へ行ったら、たまたま臨済寺の専門道場がありまして、すぐそこに通い始めまして、まあ静岡の時代に、というのは、通勤時代が東京と違ってゼロ同然ですね。時間も取れましたし、もう日曜、休日は勿論のこと、朝に夜に、接心にもほとんど通いましたね、夜ですけれども。そういうことで坐禅生活にどっぷり浸かった生活ができたということがございましたですね、ところがちょうど静岡へ転勤して、しばらくして健康診断をしたら、胃潰瘍の疑い、ということの診断を受けまして、まあ私は健康だけは自信があったんですが、これはいかんと思いまして、病気を引っ提げて仕事はしたくないし、ちょうどそれは二月の末頃でしたけど、四月からお隣の支社を吸収して、第一線の、よりもう一回り大きい支社になるということが決まっていました。だから、どうしてもこの一ヶ月かけて治そうと思ったんです。それで入院の必要は勿論ない程度のものだったんですが、一ヶ月でとにかく完全に治そうと決心しまして、一ヶ月完全に休暇を取って休ませて頂いたんです。それが非常に良かったんですね。もうそれで病気も忘れて、薬は勿論指示通り飲んで、食事も家内に全部頼んで、そして打つべき手は打ったんですから、私はただ坐禅三昧の生活と、そして運動不足にならんように散歩と坐禅と、それから読書はたまたまですけど、暁烏敏(あけがらすはや)さんが講釈した『無量寿経』をじっくり味わいながら坐禅三昧の生活をする、と。これは生まれてはじめてこんな爽やかな生活したことはありませんでした。
 
内山:  優雅な生活ですね。
 
木寺:  つくづくそう思いましたですね。それで初めて今まで闇雲に坐っていた坐禅が、坐るというのはなんか知らんけど良いもんだなあということと、それとその『無量寿経』を読んでいたものですから、仏というのは自分の外側にあるんではなくて、これは自分の生活の中にあるんだなあ、ということを実感して、理屈じゃなくて感じましたですね。ちょうどそういう折りもおり老師のこの『自己』というご本に出会いました。
内山:  そうですか。
 
木寺:  自分の中にあるんだ、生活の中にあるんだ、人生の坐りの中に自己があるんだ、ということを感じていた時期だけに、これだけが大きく私を惹き付けまして、これをむさぼるように読まして頂いたんです。それが坐禅にトントン拍子に深まっていくきっかけになりましたですね。それで老師をお訪ねしたわけです。
 
内山:  そうですか。
 
木寺:  それがきっかけで『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の味読会(みどくかい)の存在を知って、そしてそれにちょうど定年までまるまる四年通わして頂きました。
 
内山:  そうですか。
 
木寺:  それでとうとう定年で、六十歳の選択ということになったわけですが、しかしさっき老師も申しましたけど、実は会社から過分のお話を頂いたわけですが、やっぱりサラリーマンにとって重役というのは魅力があるんですね。
 
内山:  そうですか。
 
木寺:  それと私は職場に自分の理想を実現していくということにもの凄いファイトと情熱を感じていたわけですね。ですから頭で考えると、どうしても収まりがつかんで、非常にトコトン魅力があるんですね。それでありながら家内にはあっさりと、「こういうお話があったけども、おれは坐禅修行に生きることにするから」って。家内も「結構ですよ」といってくれたんですが、しかし一面では頭の中はどうしてもそちらに惹かれるんですね。それで一週間時間を頂いて、念には念をいれようと思って頂いたんですが、まあ役員の中には、「まあ一期でもいいじゃないですか」というふうに、「それからでも遅くないじゃないですか」という方もいらっしゃったわけですけどね、ほんとに専務の部屋に入って行ってお返事するまで、頭の中では結論出せないままに身体だけが入っていったという感じでしたけどね。しかし前に坐ってみたら、姿勢をちゃんと伸ばしてなんのわだかまりもなく、「せっかく有り難いことですけども、坐禅の道を選ばせて頂くことに致しました」と、きっぱりと答えておりました。どうなっているのかと思うんですが。しかし、よく老師おっしゃいますけど、ほんとにこの頭の思いというやつはなかなか簡単に切れるもんじゃないですね。
 
内山:  そうね。その点から言ったら、お釈迦さんなんか、それこそ王城を捨てて出家されるんだから大変ですよね。
 
木寺:  素晴らしい実物見本だと、私はその時思いましたね。
 
内山:  私なんかは世間では生きられない。生きる甲斐性がないから坊主になっちゃっているけどね。
 
木寺:  その時ほんとにキザな言い方ですけれども、ほんとにお釈迦様というのはとにかく素晴らしい実物見本だなあということをつくづく思いましたですね。それでとうとう決心だけは自分でしなければいかん、と。そして老師に後は万事お預けして、「どうぞよろしく」ということでお願いしたわけです。
 
内山:  あれが昭和五十八年ですかね。初めて来られた時―私が前にいた安泰寺(あんたいじ)という寺はいま兵庫県の鳥取県境に移っていますがね―そっちへ修行したいという人は回すわけなんですがね。
 
木寺:  私もその覚悟ではいたんです。
 
内山:  ところが若い人ばっかりの修行者なんで、そこへ六十過ぎの人が行かれると、若い人の修行を妨げるところがあるから、それで私も考えて、それで私のもう一人の弟子で、櫛谷宗則(くしやしゅうそく)というのが、今、宇治田原に居て、それで私の身辺の面倒もみてくれているんですが、この櫛谷宗則のところへ行って黙って三年坐りなさい、と木寺さんに言ったわけですよね。
 
木寺:  ほんとに櫛谷宗則さんのもとにやらして頂いてほんとに有り難かったと思います。決まりました時に、櫛谷宗則さまから私に最初に頂いた手紙に、「今まで木寺さんは大勢の人々の注目になりながら仕事をなさったでしょう。しかしこれからは違います。此処では誰も見てはおりませんよ。その見ていないところでお互いにご一緒に一つ自己ぎりの自己≠修行致しましょう」と。
 
内山:  その大切なのは見物人を意識しているというんじゃなくって、見物人なし、傍観者なし、という。その「自己ぎりの自己」という、そこが修行のしどころなんでね。
 
木寺:  しかし前に老師からも聞いておるんですけど、自分の身体で受け止めていないんですね、当時は。しかしその手紙を頂いた時にはほんとにしみじみ思いましたですね。
 
内山:  あの櫛谷宗則というのは、私についてもう十八年ですね。若いけれどしっかりしてですね。
 
木寺:  私はほんとに自分の暮らしなんかはまったく眼中にない、
 
内山:  耕雲庵(こううんあん)は宇治田原の湯屋谷(ゆやたに)に、
 
木寺:  あのバス停の終点です。あれからちょうど一キロほど谷川を上って、ちょうど四十戸ぐらい家がありますけど、その一番奥ですね。そこからまた一つ、これが一番奥の行き止まりの最後の家です。
 
内山:  湯屋谷の東塩谷(ひがししおたに)とかというんでしょう。だから一番奥だもんね。
 
木寺:  そうです。此処から更に百メートルぐらい、この坂道が実際には急なんです。もうこれを托鉢で帰ってくる時なんか此処まで来ますと、
 
内山:  夜になりますからね。
 
木寺:  もうこれを上りながら星を仰いで帰りましたけども、ほんとにこの坂はもの凄い急なことと、星空が懐かしいです。
 
内山:  そうですか。
 
木寺:  それから耕雲庵。これはすぐ下にもの凄い孟宗竹の林がありましてね、そこから取って頂いて、
 
内山:  随分太い竹ですね。
 
木寺:  直径が十四、五センチありますね。
内山:  木寺さんが書いたんだ。
 
木寺:  それでまたこの下駄が、どこから置いてもこうやってきちんと揃えてあるんですね。これが非常に鮮烈に私の目に焼き付きました。これが櫛谷宗則さんですね。端然とした宗則さんの坐りが常に傍にあってほんとに三年間の修行をなんとかやってこれました。ほんとに有り難いと思っております。
内山:  これは木寺さんの接心だね。ほんとにどこの大和尚かという貫禄だね。
 
木寺:  ほんとに恥ずかしいですが。
 
内山:  耕雲庵もこうやって写真に見るととてもわからないんだけど、ほんとはまったくのあばら屋ですものね。
 
木寺:  凄いあばら屋でしたね。一時は雨漏りが激しくて、洗面器やバケツでは足りなくて、農業用のビニールシートを持ち出して受けたこともありました。それこそアッという間に金魚飼えるぐらい溜まっちゃうんですね。
 
内山:  そうですか。藁葺き屋根だもんね。
 
木寺:  直して頂いたらそれでもきちんと直るんでよくしたもんですね。今は漏りませんけどね。それから風呂がなんと二時間かかるんです、沸かすのに。長州風呂と申しましてね、そこだけ鉄板ですね。薪は間伐した材料を地主さんに頂いてきて、チェーン・ソーで切って、薪割りも作務(さむ)の一つですから。しかしとにかく耕雲庵に入って、まず目を見張ったのはなんといっても乏しい生活ですね。玄米のお粥で、しかも玄米は新米じゃありませんね。一番安いのは三十キロ入りを千円で買った時もありましたね。こんな米もあったのかと思いましたけど。
 
内山:  そうですか。
木寺:  しかしその玄米のお粥で、
 
内山:  月いくらぐらいでやっている、と言っていたな。
 
木寺:  二人で現金一万五千円の生活でした。電気代も全部含めて。
 
内山:  あそこへ普通の人が、「生活が大変だ、大変だ」「足らない、足らない」という、あそこへ行って接心したら、一遍に、「あ、これでいけるのか」と、みんな安心しちゃった、という話があるからね。
 
木寺:  まったくその通りですね。私も、〈いや、こんな生活もあったのか〉と思いましたね。惨めな思いは全然ゼロでした。
 
内山:  これが坐禅するという気持があればこそ、どんな貧乏生活も風流になるんですね。それも惨めだという気がしないわけですね。
 
木寺:  それこそ最初の年が十年来の寒波がきた年でして、まあアカギレだらけになる。坐っていても毛布一枚で坐っていますからシモヤケになる。
 
内山:  木寺さんなんか社長時分毎日朝自動車でずっと、そして送り迎えされているじゃない。それが朝から、
 
木寺:  それは私はなんともなかったですが、ふっと思い出したことはありましたね。食事が終わったら、すぐ今度は茶碗洗ったり、釜洗いゴシゴシやるでしょう。向こうではなにもほったらかして、みんなとお茶のみに行ったりした生活ですからね。
 
内山:  よく切り替えられて辛抱されたと思う、まる三年。
 
木寺:  私は案外そういうことは、後になってえらいとこへ入って来たんだなあというのを少しずれて感じてくるようなところがありましてね、わりと気楽に。
 
内山:  坐禅も毎日やっているわけでしょう。
 
木寺:  毎朝二時間、五時から七時まで。夜はちょうど三ヶ月目頃からですが、宗則さんは、私の気持を察して頂いて、六時から九時まで三時間。だから少なくとも一日五時間は坐禅している。ですから、五時に食事をして、五時間には青空を仰ぎながら歯を磨いて、これはほんとに爽やかなこんな贅沢な生活はありませんでしたね。それと接心はご承知の通り朝四時から夜九時まで、もう食事時間以外は全部座り込みでしたけれども、これは最初はやっぱり大変でした。でもだんだん慣れてきてとうとう三年で二百八十八日一回も欠かさずやり通させて頂きましたけども。
 
内山:  去年の四月からちょうどまる三年経ったわけですね。
 
木寺:  お陰様で非常に生きる世界といいますか、これが非常に広々となったということ、これは実感して、生きるうえのやっぱりどんなことになろうとも、という確信といいますか、これは強くありました。
 
内山:  その点ね、私は思うんだけど、木寺さんは、私がさっき言った、世間に働いているところから今度実存的自己への切り替えを見事にやられて坐禅をされた実物見本だね。もう一つ実物見本として、私の親父の話を持ち出しておこがましいんですが、私の親父の内山道郎(号光弘:1878-1967)というんですが、これの生き方もあげたいと思うんですね。実は私は若い時代、親父の生き方をいつでも批判して悪口言っていたわけです。ところが私自身年取ってきてみたら、今考えてみると、親父はなかなか風流ないい年の取り方をしたという気がするんでね、一つ見て頂きたいんですが。
 
木寺:  お父さまですね。
 
内山:  ええ。大体親父は五十五、六の頃、昭和七、八年ですかね、不景気のどん底ですね、あの時家を破産させましてね、それから埼玉県の田舎にちっちゃな寺を買っちゃって、そこに引っ込んじゃって、それからまったく東京へも出なかったもんですね。それで七十七、八の頃お袋さんも死んだもんだから、それから以後、東京の多摩市に兄がいるんですが、そこへ引き取られて、そして折り紙が趣味で、ずっと折り紙をしてきたわけです。そして八十八ぐらいだったですが、喉頭肉腫になって病院に入ったりなんかしながら、折り紙の中でも花紋(かもん)折りという折り方を夢中になったわけです。それというのが日本民芸館の柳宗悦(やなぎむねよし)先生が私の親父の花紋折りをバカに誉めて下さって、そして激励してくださったんですよ。それで私の親父は八十八でもって、柳先生の柳工芸デザイン研究所の所員になった。病院に入院しているまんまですが、所員として給料まで頂いて、そしてこの花紋折りを一生懸命作ったんですね。こういうのですがね、これを折り方はそのものとしては、折り紙の風車の変化ですね。それでこれの折り方の変化を、私と親父と昭和十年頃一緒に研究していたもんです。それは無限に変化するものだから、親父はそれに興味感じちゃって、そして作りも作ったり八十八から九十までの間に一万種から作ったの。
 
木寺:  これが八十八からのお作りになった作品ですね。
 
内山:  今、私の手元にあった作品を見てみると、これが八十八から九十までの間の老人が作った作品かって、今更ながらびっくりしちゃうんだね。折り方としては決まっているんですが、折り目そのものに冴えている。
 
木寺:  なるほど。
 
内山:  冴えを感じるんですね。
 
木寺:  そこからきたんですか、「冴えの老人」という言葉が、
 
内山:  それで私の「冴え老人」という言葉を言い出したんだけど、それで親父が亡くなってから一万種からの作品を柳先生にお願いして日本民芸館へ収めさせて頂いているんです。だから民芸館で時々展示もして頂いているわけですがね。その点、親父は折り紙作っている頃一生懸命作りながら、「今度どんな新しいものを作ろうか」と言って、「夜寝るのも惜しくてしょうがない」と言っていたもんです。これを私は未だに思い出して、それほど夜寝るのも惜しんでやる、それが九十までの人ですからね、そして九十の最後の最後まで作品を作った。七月に私行ったんだけど、その時はまだ一生懸命やっていた。それで九月に亡くなったわけですがね。とにかくそういう点で親父としては、いわば趣味で自分の人生を切り替えているわけですね。そして趣味の深さというか、趣味のところに如何にも冴えていっている一つの実物見本としてあげてもいいんじゃなかろうか、とこうおこがましいけど、私の親父の話もさせて頂いたわけです。ところが妙なもんでね、親父の悪口ばっかり言っていたけど、年取ってきたら、私がだんだんそれに似てきた。この頃花紋折りの折り紙からもう一つの変化させて折り紙独楽(こま)を作ったんですよ。ちょっと見て頂きますと、例えばこういうふうに回るわけですね。普通独楽といえば軸立てて、それからその周りを削って独楽にするでしょう。だから軸はもう真っ直ぐについているに決まっているわけです。ところがこの折り紙独楽はこういうふうに軸を付けるわけです。これをちょっと広げてみますと、こういうふうなんですね。
 
木寺:  一枚でできているんですね。
 
内山:  ええ。これで一枚の四角い紙ですね。これをこういうふうにして、このところで折ることによって六角にすると同時に独楽の形にしちゃうわけだ。そしてこれをこういうふううになるわけですね。このところが花紋折りと似ているんです。それからもう一つ此処へ折り込むわけですね。そしてこういうふうにできちゃう。それをこのところへ軸を差し込んで、それでこう回るわけですが、これみんなね、どれでもこれでも個性があるわけです。そこが面白いところです。それから同時に、この軸の付け方で良い独楽悪い独楽になるわけですが、回しているとだんだん独楽が良い独楽になっていくわけです。そこんとこがまた楽しい。しかも独楽というのは独り楽しむという字が当ててあるでしょう。私はいつでも独楽独り回して楽しんでいる。それでできた作品を大体孫にでもやれば、みんな喜ぶんじゃないんですか。今の孫たち喜ばないんなら、それは紙屑に捨てることも簡単だしね。しかもこれ材料費が安いわけです。千円ほど紙を買えばずいぶんしばらく楽しめるわけですね。そういう意味でこの折り紙独楽は一石何鳥もあるんで、みなさんに勧めたいんだね。しかもこれ指先を使うと頭の衛生に良いらしいんだ。
 
木寺:  その頭ですけど、これは老師の折り紙というのは、ご本を拝見しても非常に体系的に進められるところに興味をお持ちなんですね。
 
内山:  そうですね。そこに変化ですね。私には根本の原理というか、そこに興味を持ってやっているわけですが。
 
木寺:  なんか老師は、「根本に、根本に」という、そういうところにね。
 
内山:  今のお話に戻ってみますと、年取っていく場合にも、根本的に言ったらみんな人間というのは自然的存在でしょう。だから自然的存在として、当然生涯の周期があるわけですね。いわゆるライフサイクル。そのライフサイクルに合わせて、ただ生活安定するばっかりじゃなくって、一つその辺切り替えて、そして本当に年寄りは年寄りなりに生きるということがあっていいんじゃなかろうか。それでその時本当に呆ける余地はないわけで、ほんとうにいよいよ冴えていくという生き方があっていいんじゃないかと。私がこんなこというのは、それこそ若気の至りで言っているのかも知れないで申し訳ないわけですが、しかしそういうこともあっていいんじゃなかろうかと、まあ一応お話させて頂いたわけですね。
 
木寺:  今お父さまのお話を伺いましたけれども、折り紙も勿論長いこと子どもの時代からおやりになって、しかも非常に体系的に身に付けておられて、それをまた技術的にもそれを如何様にも変化させていくという、非常に深い、普通の人の真似できないことを味わい、喜んでおられたと思うんですが。
 
内山:  やっぱり木寺さんの実物見本なんかは宗教的に切り替えたわけですね。それに対して私の親父なんかは、いわば趣味的に切り替えているんですね。それで趣味の深さに本当に老いの冴えを見せていると思うんです。これどういう形じゃなくちゃいけないということはないと思う。少なくとも例えば、和歌や俳句とか、あるいは手芸とか、お茶やお華の稽古事でも何でもいいと思うけれど、本当の意味で趣味とか何かに打ち込んで、いよいよ冴えていくという生き方があっていいんだと思う。それの一つの見本として、私の親父の話もさせて頂いたわけだし、私自身もこれからいつまで生きるか知らないけど、今とにかく独楽は一昨年の秋から作ったわけですが、これ毎日回しているわけですね。カラスの鳴かぬ日があっても、私が独楽を回さない日はないくらい。そしてより一層よく回る独楽を作ろうと、一生懸命になったわけですよ。私は本当に坐禅できたけれど、坐禅がもう足がダメになっていよいよできなくなっていますから、それで坐禅できなかったら念仏称名でいくと私は思っている。それと同時に、またこんな独楽も楽しんでいるわけですね。これ宗教でもなんでも一つの教学とか宗派として受け取っちゃダメですよ。そうでない自分の人生に当て嵌めて、自分の人生としてどうか。結局自分の人生としては、どこまでも温めていく、深めていく。これが道元禅師の言葉でいえば、「証上(しょうじょう)の修(しゅ)」といいますが、これ修行していく。南方仏教の人たちも、結局は死ぬということのために、それの用意期間としての老いの時を過ごすんですね。これが大切だと思う。今、私が今日話させて頂いているのも、その辺の、ただ働くことだけに価値をおいているんじゃなくって、もう少し自分自身の実存―深さですね、見つめていきたいと、こう思うんです。それで今日の話いろいろになって纏まらないような話であるわけですがね、最後に拙い詞だけど、いわゆるpoemじゃなしに、私のもう一つの詞(し)をご紹介したいと思うんです。
 
       老年期
     明日がある若い時代
     今日は明日のために
     生きる当てをもつ
     明日のない老年期
     ただ今日を完結する
     深さのなかにこそ
     生きる意味をもつ
 
 
     これは、昭和六十二年二月八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである