打たれた傷によって
 
                      安城教会牧師 武 岡(たけおか)  洋 治(ようじ)
一九三七年三重県生まれ。名古屋大学大学院農学研究科博士課程修了。一九七八年米国ミシガン大学生物科学部へ派遣研究員。一九八五年ボリビア共和国サン・フランシスコ・ハビエル大学農学部へ派遣専門家として海外へ。著書に、「Reproductive Adaptation of Rice to Environmental Stess」「光遙かに」「遙かなる旅路の果てに」他論文多数。
                      ききて    山 田  誠 浩
 
武岡:  生憎エアコンもなくて、蒸し暑いけども。
 

 
ナレーター:  武岡洋治さんは、大学の教授を退官し、教会の牧師となったのは三年前のことでした。それまでは名古屋大学農学部で植物栽培学を教えていました。ライフワークは稲の実りの仕組みを顕微鏡レベルで解明する研究でした。しかし、十四年前、農業調査に出掛けられたアフリカ・スーダンで薬害に倒れ、眼に重い後遺症を負いました。日本の医療機関で予防用にと処方されたマラリア治療薬を飲み、その強い副作用のため、右眼を失明、角膜移植によって取り戻した左眼のわずかな視力に頼る生活となったのです。定年後神学を学び、牧師となったのは六十六歳の時でした。
 
武岡:  私はね、読み書き、パソコンするのに三種類の拡大レンズがいるんですよ。これとね。細かい文字を―聖書を読んだりする時はこれですしね。大きな文字を―これね。書いたりする時はこれをこっちにつけて。これがパソコンやる時のもの。
 

 
ナレーター:  武岡さんに、不自由な目で新たな人生を歩み出すきっかけを与えてくれたのは、スーダンの盲学校の子供たちとの交流でした。アフリカで倒れた時、懸命に看護し、命を救ってくれたスーダンの人々への感謝を込めて、武岡さんは、十一年前、同じ障害を負っている子供たちを支援する活動を始めました。不足する医薬品や医療品を送ったり、スクールバスを修理したり、毎日一杯のミルクが飲めるよう手助けをしたりしています。子供たちは長く続く内戦や旱魃(かんばつ)による貧困のなか、栄養失調のために視力を失っています。そうした現実を生きる子供たちから多くを学んできたという武岡さんが、なかでも忘れられないのは、初めて盲学校を訪ねた時、ある少女が投げかけた言葉でした。
 

 
武岡:  初めて訪れた盲学校ですけどもね。そこでささやかな歓迎の会を開いてくれましたんですけど、その時にナラ・ハムザという生徒が点字をたどりながら英語でこういうスピーチをしてくれたんですよ。
 
     私の眼は何も見えないけれど、私の心は何でも見えます
 
って、英語でね。英語で語ってくれたわけですよ。その彼女のスピーチを聞いた瞬間、私は非常な衝撃に打たれましたね。私はこれまでごくささやかながら顕微鏡を使って観察という仕事をしてきて、こうして眼を患うまでは眼を使って仕事をささやかながらやってきた。自分では眼が見えると思っていたんですね。そして、今こうして眼を患っている状況の中で、〈よく眼が見える、見えることが当たり前だ〉と思っていた時には、見えなかったものがあるのではないか。見えなくなった時に見えてくるものをハムザは見ている。
 
山田:  なるほど。それは武岡さん自身がまだそのことに十分気付いていないのではないか。もっとそういう思いに立ち至るべきなのではないか、という思いがその時に湧いたということでしょうか。
 
武岡:  「べき」という義務感よりも、そういう世界があるんだなあ、と。それを後々に私は、「視力を失って与えられる恵み、与えられた恵み」というふうに表現をしているんですけれどもね。それはすぐわかって貰えるかどうかわかりませんけれども。〈視力を失って開かれていく新たなる世界というものがあるのではないか。どうもありそうだ〉というのが、現在の私の心境ですけどね。
 

ナレーター:  武岡さんと安城(あんじょう)教会との関わりは四十五年前に遡(さかのぼ)ります。かつて安城には、名古屋大学農学部があり、教会の設立には、そこで聖書研究会を開いていた人たちが関わっていました。農学部で学んでいた武岡さんも、この教会で洗礼を受けました。生きる手掛かりを求めて苦しんでいた時に出会ったイエスの言葉がきっかけでした。以来、自分の人生や世の中に起こる出来事を、聖書の言葉を通して考えることを続け、三年前牧師としてこの教会に戻ってきたのです。
 

 
(礼拝説教から)
 
武岡:  今日は九月十日。明日は九月十一日であります。ご承知のように九・一一。アメリカ・ニューヨークの中枢部を襲った同時多発テロという事件からまる五年が経とうとしております。改めてまた私たちはこのイエスの言葉に立ち帰されているのであります。「右の頬を打たれたら左の頬をも出しなさい」と言っておられる。頬を打つということは、これは歴然(れきぜん)とした暴力であります。「受けた暴力に対して暴力を持って仕返しをしてはいけない」ということであります。何故ならば、「受けた暴力に対する暴力は決してその両者の間に和解を生み出すことはできない」ということをよくご存じであるからであります。暴力はむしろ暴力を拡大再生産するんであります。暴力の連鎖、暴力の拡大、そのことを戒めておられる。律法学者に勝(まさ)る義というは、このことを言っておられるんですね。
 

 
山田:  退官後に牧師になられるという。これはとても大きな人生の展開だったというふうに、私なんか思うんですけれども、ご自身ではどんなふうなお気持ちでいらっしゃいますか。
 
武岡:  今、私が仕えている教会は、かつて私が学生の頃に洗礼を受けた、いわば母教会ですのでね。この安城教会、まさかこういう形で今の自分があるとは想像もできなかったわけですね。教養部の一年終わった春休みに、私はちょっと病気をしましてね。肋膜を患いまして、二ヶ月半ほど郷里に帰って、入院して静養していたんです。そして退院する時に病院の院長から、「今度再発したら、お前は肺結核になるから十分注意するように」と言われてきましたからね。みんなほとんど就職していく時に、「特に化学関係といいますか、薬品を扱うような製薬会社だとか、そういう方面はどうも無理だろう」と言われましてね。そういうことで、あれこれ学生下宿で悶々としているような状況が続きましたね。高度経済成長が盛んになってどんどん理工科系の、農学部も含めて就職が良かった時代で、私一人が取り残されるような思いで(笑い)。
 
山田:  胸の中に、何か解決仕切れないもの、というふうなものを感じておられた、ということなんでしょうか。
 
武岡:  ええ。そうですね。一つは健康上の問題がありますし、六十年の安保の、国の中がいろいろと激動していた時代ですね。学生仲間のうちでも進歩的な学生たちから言われていたことは、「人民が勝利した暁には、個人的な悩みといったようなものは自然と解消していく」という。そういう話―主張・意見と言いますかね、かなり有力な学生たちの間で考えられていたわけですけれども、しかし私はね、〈しかし果たしてそうだろうか〉という気持は拭(ぬぐ)えなかったんですね。そういう時に通り掛かった教会の看板にですね、
 
     重荷を負って苦しんでいる人はわたしの所に来なさい。
     あなたがたを休ませてあげよう。
 
という、これは聖書のマタイ福音書の、「疲れた者 重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう(マタイ11:28)」という言葉ですが、その言葉が飛び込んできたわけでしてね、そういう思いの中でいた時にね。それが教会の門を叩くようなきっかけの一つになったわけでしてね。
 
山田:  ここにごく古い『ヨハネ伝福音書』という。
 
武岡:  これはおそらく小学校の高学年か中学生になった頃か、私の街にきた進駐軍の兵士からもらったような記憶があるんです。付箋付けてありますけど、このヨハネの言葉にイエスが人々に言われた、「われに従え」という。この箇所にも傍線が引いてあるんですね。他にも傍線がありますけれども、「われに従え」、つまりキリストに従え。キリストである私に従えなさい、というこの言葉ですね。これが今の私の有り様を大きく決めてきたといいますか、導いてきた言葉のように思いますですね。
 

 
ナレーター:  大学院を経て研究者となった武岡さんの専門は、稲科植物の実験発生学。冷害や乾燥など環境のストレスを受けた作物が、どのように形態を変化させ、環境に適用しながら実りをもたらすのかを研究してきました。そんな武岡さんは、スーダンからの研究生を受け入れていた同僚の経済学の教授に、砂漠化による深刻な食糧問題を抱えるスーダンでの調査に誘われました。一九九二年八月、武岡さんは、ナイル河畔にあるスーダンの首都ハルツームに到着します。スーダンはアフリカ最大の農業国でありながら、旱魃や砂漠化による深刻な飢餓を抱えていました。農業生産をあげるため、ナイル河の水を利用した大規模な灌漑機械化農業を導入。しかし、水分の蒸発が激しいため、灌漑した土地に塩類が溜まり、作物が穫れなくなる現象が起こっていました。イサム・モハメドさんは農業の近代化によるこの新たな砂漠化の問題に注目、名古屋大学で博士論文を纏めようとしていました。武岡さんたちはイサムさんと共に伝統農業との比較をしながら、砂漠化の実態調査を始めました。八月三十一日にハルツームを出発。遊牧風景などを撮影しながら乾燥地帯を進みました。九月二日砂漠に近い土地で、伝統農業を行う農民と出会います。三日後の雨の気配を察知して種蒔きの準備。わずかな水分も逃さぬよう、根を残して草を刈っていました。九月三日には塩類の集積で放棄された農場に遭遇します。灌漑によって溜まった塩類の種類や濃度を測るため早速土壌の調査。武岡さんは手際よくサンプルを取っていたと言います。九月四日、大規模機械化農場を訪ねる予定だった武岡さんは、途中セナールで身体の変調を感じました。眼や喉が赤く腫れ、急速に悪化。調査を中断し、ハルツームに戻る車内で気を失ってしまいました。病院での診断は、マラリア治療薬によるきわめて強いアレルギー。皮膚や粘膜が爛(ただ)れ、鼻や口の中の浮腫(ふしゅ)によって、現地では九割以上が命を落とすと言われていました。眼はほとんど見えず、爛れた消化器官からの下痢や下血が続くという思いがけない事態でした。
 

 
武岡:  ご承知のように、サハラ砂漠って世界で最大の砂漠の南の淵ですね。「南淵(なんえん)」と書くんです。そこを現地の言葉で「サヘル」と言いますけどね。そのサヘル地域は一年を通して、雨期と乾期―雨の季節と降らない季節ですね。草が生えたり、カラカラになったりする。ちょうど波打ち際で波が寄せたり返したりする。それは似ているんですね。その草の生え具合に応じて、遊牧民たちが牛とか羊とか、そういうのを飼って生活してきているわけですね。そこへもってきて、世界的な大資本が入って、樹木も何かも全部開墾してしまいましてね、根っ子も引いてしまうんです。「抜根(ばっこん)」と言いますけどね。そしてそこへナイル河からだぁっと大規模な水利灌漑施設を通しまして、そこへトウモロコシとかソルガムとか―輸出作物ですね。商業的農業形態なんですけどね。開発されてから、一、二年はいいんだけれども、三、四、五年と経つにつれ、生産力がガタッと落ちていってしまう。最終的には穫れなくなってしまうんですね。これは一種の「塩害」―塩の害というんです。「土の死」と、私たちは呼んでいますけどね。地力が無くなってしまって、そこで生えることができないんですね。
 
山田:  そういう先進国の大規模な農業開発が、開発途上国にどんな影響をもたらしているか、というふうなこともキチッと調べようということが狙いだったわけですね。
 
武岡:  ということで、そういう計画で現地に入ったんですけどね。
 
山田:  二週間ぐらい経った時ですね、体調が悪くなられたのは?
 
武岡:  ええ。現地に着いてから二週間。てっきりマラリアに罹ったかなあと思ったんですよ。日本を出る時に、日本の公的医療機関で、肝炎だとか、コレラだとか、黄熱病(こうねつびょう)だとか、熱帯へ行くに必要な予防措置を医者に相談して、どういう薬を飲み、どうしたらいいか、と。その時に、マラリアについては、「このファンシダールという薬を一週間に一錠ずつ飲みなさい。もしマラリアに罹った時には二錠飲みなさい」という、こう注意書きも貰って、そして八月二十二日に家を出る時に、最初の一錠を飲んだんです。そして現地に着いた次の土曜日に二錠目を飲んだ。そして、身体の変調に気が付いて、ヒョッとしたらマラリアかも知れないと思ってしまった。後にしてみると、それは間違いだったんですけどね。三錠目を飲んでしまった。そして九月六日ですけど、イブンシナ病院で診察してもらって、その結果は、「これは強いアレルギー。スティーブンス・ジョンソン症候群という病気だ」と。そのマラリアの薬の副作用。非常に強いアレルギー症状が出た。「すぐ入院して治療しないと危ない」と言われたんですね。ドクター・スリマン・サレーの指示に従って、私の担当医になったのが、ドクター・タマムという若い医師なんですけどね。彼がいろいろ指導してくれましてね。そして治療が始まったわけです。治療が始まった途端に、私は昏睡状態になってしまいましてね。後から聞いたら、「四十一度五分ぐらいの熱が出た」って。とにかくぐったりしてしまっていましたね。病院といってもエアコンがあるわけでなしに、天井からプロペラファンが回っている。その下のベッドで、暑いですから下着だけでゴロンと横たわっているだけですね。上からプロペラファンが回っているわけですから、乾涸(ひか)らびてしまう思いですね。乾燥よりも乾きっている。大変なものでしたね。その頃ね、私は、「脳味噌まで乾涸(ひか)らびてしまいそうだ」という一言を書き残しているんですけれどもね。それほど脱水症状が酷かったんでしょうね。
 

 
ナレーター:  武岡さんが帰国後に書いた詳細な闘病記録の中には、ハルツームの病院にいた頃のことが三行詩の形で記されています。家族と連絡を取ることもままならなかった武岡さんは、一人先の見えない闘病を続けていました。
 
     口内浮腫(ふしゅ)
     喉の奥まで拡大し
     呼吸を断ちて死に至らしむ
     寝返えれば痛き
     赤く爛(ただ)れしわが股間(こかん)
     眠れぬまま夜の明ける
 
     視力失せしわれに
     天井の蛍光灯
     まぶしくて見えず
 
     疲れ果て襲い来る蚊を追い払う力もなく
     只刺されるままに横たわる我ぞ哀れ
     郷愁の止み難き
 

 
武岡:  このままでは生きて日本へ帰れないかも知れない。家族の待っている日本へ帰れないかも知れない。その思いがだんだんと強くなってきましたね。とにかく毎日毎日下着が汚れるわけですから。しかもそれも赤い血に染まった下着ですけど、それをイサムさんは自宅へ持って行ってくれて、そして妻のアシャがそれを洗濯して、そして病院へ届けてくれていたんですけどね。下着、パンツ類に全部アイロンかけられていたんです。洗濯したアイロンのかかったパンツというのは、私は初めてでしたけどね。これもイサムさんと彼の妻のアシャの心遣いですね。昼はそういうふうにやっているでしょう。だからアイロンかけて消毒してあげなければ危ないという配慮があったようですね。そこまで配慮してくれたという。
 
山田:  そういう人たちの温かい気持、支援が当然あって、何をこう毎日の中で思っていらっしゃったですか。
 
武岡:  こういうことが起こりましたね。どこからともなく、「罪の裁きは死である」と。「罪の裁きが死」この言葉が、私の脳裏に響きましたね。
 
山田:  それは何の言葉なんですか?
 
武岡:  わかりません。罪はわかりますね。裁く。罰と言ってもいいですね。「罪の裁きは死」この言葉がちょうど稲妻のようにでましたですね。稲妻のように響いた。そのイメージが、私たちが現地のサヘルを調査している最後の日にね、夕方でした。夕陽が沈む頃でした。行く先にね、道路の向こうに、真っ黒なカーテンが下りている。そこに時折パッと稲妻が走るんですよ。そうして大きな雷鳴が轟いた。その中に我らの車が突っ込んで行ったんですよ。レナールへ行く途中で。もの凄い雷鳴とどしゃ降りの雨の中をくくりぬけて、そしてレナールを経て、ハレツームに着いたわけですけどね。そのイメージがあったのかも知れませんですね。「罪の裁きは死である」という言葉がね。何故かわかりません。いろんなことが走馬燈のように出てきましたですね。小さい時にやったいろんなあれやこれやの―例えば余所の家のミカン畑で黙ってミカンを取って食べたとか、女の子を虐めて泣かして、だけど何とか何とかということから始まってね、いろいろ罪の意識、小さい時から積み重なってきている罪の意識みたいなものが、そういう瞬間に、それが箱の蓋を開けたようにして、いろんなことが思い起こされてきたように思いますね。
 
山田:  というのは、「罪の裁きは死である」というのは、自分がその裁きのために死に遭っているんじゃないか、ということですか。
 
武岡:  そういうことです。自分の地位にせよ、名誉にせよ、何にしても、そういうような諸々(もろもろ)のこと、あるいはしてはならないことをしてしまったし、すべきである時にしなかった、というようなことも含めましてね。自分がこれまで神に対して犯してきた大小さまざまな罪が、その裁きとなって自分に死の宣告を下されたんではないだろうか、と。そういう不安に駆られていったわけですよ。
 
山田:  そういう状況の中に、とても苦しい状況の中におられて、その時の武岡さんご自身の救いというのは、どういうことだったんでしょうか。
 
武岡:  ですから、寝る前に、「主よ、イエスさま、私は寝るのが怖いんです」という祈りしましたですよ。何故ならば、もう目が覚めないかも知れない、という。
 
山田:  主にはいつも祈っていらっしゃったわけですね。
 
武岡:  祈っていました。「主われを愛す」という讃美歌があるんですよ。
 
     主われを愛す 主は強ければ
     われ弱くとも 恐れはあらじ
     わが主イエス わが主イエス
     わが主イエス われを愛す
 
つまりこの讃美歌の言葉の中に、メロディの中に、自分はイエスによって愛されているという、この願いというか、思いというか、信仰というか、そういうものが絶えず歌を口ずさむたび毎に自分の中に湧いてきた。
 
山田:  「主われを愛す」というのは、その時の思いとしては、「主われを愛して救ってください」という、そういう思いで歌われたということでしょうか。
 
武岡:  いいえ。むしろ逆だと思いますね。自ずとメロディが出て、口からついて出た。歌っているうちにね、〈ああ、そうだ、自分はイエスによって愛されている〉ということが自分の中にジワッと湧いてくる、という。
 
山田:  「愛されている」ということは、そういうふうに讃美歌を口ずさんでいらっしゃっているなかに、「そうだ、イエスは私も愛してくださっているんだ」ということが、何かその大変な中に、武岡さんに安らぎというか、
 
武岡:  そういうものをですね。自分自身が負った罪というものは、諸々の形で、依然として、厳然としてあるわけです。そういう罪を負った自分を、イエスという方はご自分自身が十字架に掛かって自分の命を投げ出されたことによって、この自分が負っている罪が帳消しにされた、と。そういう形でイエスは、自分と神の間を取りもって下さった。そういうふうに言ったらわかりますでしょうかね。
 
山田:  そのイエスが、私たちと神との間にいて、イエスが私たちの罪を神に対して、
 
武岡:  身代わりになって引き受けてくださった。
 
山田:  つまり十字架に掛かることによってですか?
 
武岡:  帳消しにしてくださった、という、そういう聖書のメッセージですね。ある夜パッと目を開いて、看護婦さんが目薬さしてくれる。その瞬間にね、その看護士さんの背後に、あるいはその瞳というのか、イエスのイメージとダブって見えたことがあったんですよ。イエスが背後にいるとかということね。つまりその看護士さんの背後か、その看護士さんと一緒になってか、そこにイエスが実在している。そういうイメージを、私は見たことがあるんですね。周り真っ暗な病室であるということでね。それ以来、身近なところで、そういう突如として、アシャの、あるいはスーダンの友人のそうした直向(ひたむ)きな熱意と奉仕というのは、形で呼ばれるような、こうした中に私は、〈あ、こういう形を通して、キリストの愛が身近に添えられているんだなあ〉というふうに。
 
山田:  そういう人たちを通して、私とともにいてくださる、という。
 
武岡:  そういう出来事が起こっているというふうに、私は受け止めたんですけどね。それは具体的で、身近で、切実な事柄の中にね。いつも静かな、そして素朴な出来事ですよね。起こっている、それは私の心情的なものかもしれませんけどね。これもある時思いがけない形でやってきましたですね。夜眠れない日が続きましたけれどもね、夜中に赤ん坊の泣き声で目が覚めましてね。二階の方からその声が聞こえるんですね。赤ん坊が生まれたみたいだ、と。しばらく真っ暗なところで立っていた時に、これもある瞬間ですけどね、自分の命はあの赤ん坊の中に宿る。あるいは自分のこの命は、あの赤ん坊の中に受け継がれる。たといこの自分の命は果てたとしても、あの新しく生まれた命の中に受け継がれるならば、自分は自分の死を受け容れることができるのではないだろうか。受け容れたい、という願望かも知れない。何とかして自分の死の意味をそこに見出したい、という思いかも知れない。それなんかも錯綜しましたけれどね。しばらくしてから僕の中で込み上げてくるものがありましてね、廊下の壁叩きながら、「スーダンべイビィ!、スーダンべイビィ!」って(笑い)。
 
山田:  そうですか。
 
武岡:  そのことが起こってから、その出来事があってから、自分の中に少しずつ心の安らぎみたいなものが生まれてきたし、そして自分の皮膚の全体の症状もだんだんと快復に向かっていった。
 
山田:  そうですか。
 
武岡:  ええ。
 

 
ナレーター:  一時は命の危険もあった武岡さんは、イサムさんや妻のアシャさん、スーダンで出会った医療者の献身的な支えによって一命を取り留めることができました。倒れて三週間、十三キロも痩せた武岡さんは覚束ない足取りで帰国の途に着く日を迎えました。
 
古き皮膚の浅黒く死に
真新しき皮膚の真紅(しんく)によみがえり来る
十字架の死と復活をここに見る
 
「主われを愛す 主は強ければ」
わが歌う讃美歌に看護婦も和して歌う
朝のガーゼ交換の思いがけず楽しいひととき
 
帰国した武岡さんは、その足で名古屋の病院に入院します。皮膚の炎症が順調に快復に向かう一方で、気がかりは角膜の潰瘍(かいよう)が進行する両眼のことでした。日本に帰りさえすればという期待も虚しく、有効な治療法はないとの宣告を受けます。入退院を繰り返すなか、徐々に見えなくなっていく眼。失明への不安からやり場のない思いを抱え込むことになりました。
 
武岡:  この出来事をずーっと取材してくれていたある新聞記者の人が、当時の厚生省ですね、今の厚生労働省に取材しましたところ、このファンシダールという薬は、「治療用としては認可しているけれども、予防用としては認可していない」という返事だった、ということを教えてくれましてね。あのスーダンの病院に入った時に、ドクター・スリマン・サレーから、「これは世界的に使用しないようにしている薬なのに、何故日本でまだ使われているのか」と。謎が一つそこでわかってきたような気がすると同時に、どうして飲んではならない薬を飲まされたのか、という。飲んでしまったのか、という。この思いがまた大きく私の中にのし掛かってきましたですね。当時私の大学院に留学生がおりまして、その中の一人の留学生が、「こういう薬の被害を―副作用ですね―被害を受けたんだから、それを裁判に訴えて、その事柄をハッキリするのは、社会的責任ではないか」と言われました。まあそれも私は考えないわけではありませんでしたけれども、その時の状況から言いまして、それどころではなかったですね。「まあ早く職場に復帰するように」と言ってくれる人もあるし、「まあゆっくり静養することだよ」とかと、いろいろ声を掛けてくれましたけど、どうしても素直に聞き取れなくなってしまうこともあるんですね。もう自分はこのまま要らない存在として終わってしまうんだろうかとか、そういうような思いやらが湧いてね。自分で精神的にも、また随分家族のみんなに心配掛けましたけど。
 
    再入院して 初めて知った
    眼病者の 視障(視覚障害)の現実世界
    視力喪失は 人間の別の死である
    病室の療友たちに人生模様を見た。
    みんな視力減退に不安を抱く者ばかりである
    そこに、生きる手ごたえを感じた。
    失明の近い状態でこれからどのように生きたらよいのか
    同じ悩みが 互いに心を裸にするのだろうか
 
六人部屋の部屋で、約六ヶ月―三月から九月までの六ヶ月ぐらいの間に、かれこれ六十人ぐらいの人と出会って、退院して別れたりしましたけどね。みんな、勿論生活のこれまでの歩みが違いますし、勿論職業も違う。病気も一応ではない。その中でただ一つ共通しているのは、眼を患っている、ということ。この一点だけなんですね。ところがその一点において、通じ合うものが自然と生まれてきた、ということもあるんですね。眼を患っている、と。
 
山田:  やはりそういう場所で、そう方たちからの励ましというのは、どういうものだった、というふうに思いになりますでしょうか。
 
武岡:  「無言の励まし」というよりしかないですね。こういう形の励ましというね。例えば眼の手術に誰か行く、と。前もって看護士さんが来て準備しますでしょう。そしてキャリアで運ばれていくでしょう。そうすると、みんなが、「頑張って来いよ」という一言。男同士ですからね、多くは語らないわけです。「頑張って来いよ」と。その一言が大きな意味を持つ。そして行って帰って来る。一時間二時間の予定で行ったとして、時間が過ぎてもまだ帰って来ないというと、「遅いな。どうしているんだろう」と。その一言がね、その心のうちを吐露(とろ)しているというのがわかるんですよ。そうしたら病室の中で、そういう人たちと会話を交(か)わし、いろんな自分の体験を話し合ったり、聞いたりする中で、少しずつ自分の経験したことを書き留めておこうという気力が湧いてきましたね。苦しんでいるのは自分だけではない。ここにみんなが同じように不安を抱えているんですね。そういう人もいるんですね。そういう中でやっぱり自分の中に、ある留学生に問われた問いがありますからね。そして彼の問いに誠実に応えるために自分の出来事を書き留めておかなければいけない、というふうな気持もありましたから、そこで自分の体験を生かして残そう、という決断みたいなものができていったと思いますね。そういう中で毎日暮らしている中で、聖書を読みますと、「イエスはあらゆる病気の人々、あらゆる悪霊に取り憑かれた人々を癒された」という記事がたくさん出てくるんですよ。イエスという人が、今もしかしたら、この病室に一緒におられるんじゃないだろうか、という思いもしたことがありますね。つまり傷を負ったり、病を負ったり、そうした悩みや痛みを、患いを負った一人のただ中に、イエスはおられるということを、私は体験してきましたしね。そういうことを聖書を通しても知らされていますからね。現実の中に、イエスは立たれる場所は一つにこういうところもあるんじゃないだろうか。その病室の中で、みんなの人々といる間にそういう受け止め方が出てきましたですね。 
 
山田:  それはいろんな人生体験を経られて、眼の病気で、此処にみんな集まっていらっしゃる、その人たちと交流をなさっている中で、つまりそういう患いを持った人と言いますか、そういう人はそのことによって人を癒していく力がある、ということなんでしょうか。
 
武岡:   気付く、気付かないに拘わらず、そういうことが起こるということですね。ですから、この現実の世界において、この時代において、「イエスの十字架の立つところはどこか」と言われたら、もっとも苦しんでいる人たちのいるところ。悩みを抱えている人たちの直中(ただなか)に、病める人々の直中にその十字架は立っている、と。その現実の直中で聖書を読むことによって、その聖書の福音のリアリティ―リアルな響きといったものが響いてくる。ですから聖書というのは決して書斎の書物じゃありません。一人静かに祈る時も勿論大事ですけれども、イエスの癒しの記事を読めば、そうではないですよね。讃美歌にもある通りですけどね。そういうことを今改めて思わされますね。
 

 
ナレーター:  病院で綴った闘病の記録をもとに、武岡さんは一冊の本を纏めました。再発防止の願いを込めて、努めて客観的に書いたこの本は、自分のやり場のない憤(いきどお)りに対して出した一つの結論でした。左眼の角膜移植を終え、わずかな視力を取り戻した武岡さんは、一九九五年にスーダンを再訪しました。かつて入院していたハルツームの病院を訪ね、命を救ってくれた医療者やお世話になった人々に感謝の言葉を伝えて廻りました。そして、彼らがいたからこそ書くことができた本の売り上げを、スーダンの人々に役立てて貰いたいと考えました。その時出会ったのが、エルヌール盲学校の子供たちでした。その後も「日本・スーダンひとつぶの会」を設立し、援助活動を続けます。内戦や飢餓、貧困によって、子供たちが光を失うという現実。武岡さんは自分や子供たちに起こった苦難を、どう受け止めればいいのか。聖書の言葉の中で考えたいと思うようになりました。
 

 
武岡:  私は、あるマラリアの薬で失明状態になりました。一方スーダンの子供たちは、栄養失調で失明する子どもが多いんですね。十分栄養を摂ることができない。そういう形の貧困ですよね。そうした飢え、飢餓によって引き起こされる失明が、特にスーダンとか、発展途上国に非常に多い。日本では、薬害による失明というのがある。私自身にとっての問題は、こういう事態に思い掛けず遭遇するようになって、こういう後遺症を引っ提げて今生きている。その出来事を一体自分にとって、どういう意味があるのか。意味がないのかも知れない。しかし、それを聖書の福音に照らして、考察・考えた時に、どういう意味が出てくるのか、出てこないのか、ということですね。その意味を少しじっくり集中して勉強してみたいという心境になりまして、ちょうど二○○○年の三月に定年を迎えることができたのを機会に、京都の同志社大学の神学部修士課程に入れて貰いましてね―入学試験を受けて、二年間行っておりました。
 
山田:  それは信仰のうえで、どういう意味を持つ、というふうに?
 
武岡:  薬害であっても、飢えであっても、それは本人自身が招いた失明ではないわけですね。運が悪かった。貧乏くじを引いたんだなあ、というような受け止め方もあるでしょう。しかしそれでは当の本人にとってはやりきれないですよ。納得いかないわけですよ。その心理状況というものは、ある留学生が指摘したことでもあると思うんですね。
 
山田:  つまり「ちゃんと告発すべきだ」という。
 
武岡:  告発して、白黒をハッキリさせる、という。そのことによって自分の気持が納得するとか、何とかという。それは僕も痛いほどよくわかるんですね。しかし、その一方で、この聖書のイエス・キリストの福音というものを読みながら考えていった場合、また違った見方もあるかもしれない、と思うんですね。そういう中で一つの手掛かりを与えてくれたのは、アメリカの公民権運動の指導者であったマーティン・ルーサー・キング牧師の言葉なんです。キング牧師の教会で爆発物が投げ込まれて、四人の少女の命が奪われた、という事件がありましてね。その四人の少女の死をめぐって、その告別式にキング牧師は、「自ら招いたのではない死というものは、人を救う力がある」という、この言葉に遇えたんです。「人を救う力がある。で、あるが故に、だからこそ私たちは報復してはいけない」。
 
山田:  報復してはいけない?
 
武岡:  「報復してはならない」ということで、人々を説得したというか、説教で宥(なだ)められたわけですけど。この言葉の意味が、私はずっと頭の中にありましてね。「自ら招いたのではない苦難というものは、人を救う力がある」という。もう一つはドイツのディートリヒ・ボンヘッファーという、若くしてナチスによって処刑された神学者・牧師がいるんですけど、あの人はイエスの十字架の意味を、「この人を見よ」と言っているんです。「この人」とは、イエスのことです。「世の中の力は、この人に激しく襲いかかっている。しかし、彼は、それを我が身に受けて、そして完全な神の愛によってのみ、そこにおいて和解がなりたった」と言っているんですよ。神学的な表現ですから、わかりにくいかも知れないんですけれども、キングとボンヘッファーに共通しているのは、「暴力をもって暴力に応えることをしない」ということを言っているわけですね。究極の解決は何かと言えば、「和解だ」と。「和解にこそある。その和解は、受けた被害を同じような力で持って返すことにおいては、それはなかなか決して実現するものではない」ということを言っている。そこにイエスの十字架の死と復活の意義があることは確かなんですけどね。そういうことの中に、私は、書いた論文の中で、
 
「そうした和解を受けたいわれのない失明に追い込まれた人に与えられる一つの使命といったものがあるとすれば、それは和解のための当事者として、その人は立てられているのではないだろうか」
 
という。和解の当事者という。昨日、礼拝説教で、「右の頬を打たれた」話をしましたけど、右の頬を打たれたことによって和解の握手の手を差し伸べる、という。この一歩踏み出たことですよね。
 
山田:  つまりスーダンの貧困による失明。それから武岡さんの薬害による失明。つまり自分が原因で起こしたのではない、
 
武岡:  私は、飢えによって失明する。そういう子供たちがこれ以上出ささないようにするということ。薬害をこれ以上出さないようにする。再発防止をする、という、そのことですね。そのことこそが真実の意味の和解というか、仲直りをするというか、そういうことに通じていくのではないか、という一つの期待を込めてのことですけどね。
 
山田:  つまりそのことを告発し報復する、ということでは、それは連鎖を起こしてしまう。
 
武岡:  連鎖していく。
 
山田:  ほんとになくすためには、和解の方向に、どういう形か踏み出すべきである。
 
武岡:  踏み出していくということですね。イエス・キリストによる和解ということは、そこでダブってくるわけなんですね。キング牧師も公民権運動の中で、そうしたさまざまな事件の中で、「贖罪(しょくざい)」―罪の贖(あがな)いということを言っている。「その贖いの信仰に根ざすが故に暴力を持って暴力に対抗してはならない」と、そのことを強調しているわけです。
 
山田:  「贖罪」というのはどういうことなんでしょうか。
 
武岡:  「贖(あがな)う」というのは、身代金を支払って、その人を自由の身にしてあげる、という、そういうのが元々の意味なんですね。これが奴隷の状態に置かれていた人々が、身代金を支払われることによって、自分が自由の身になる、という。それで解放という意味があるんですね。それは別な点でいくと、自分の負った罪、あるいは自分の病気、苦しみ、悩みから自由にされる、という。これが罪の贖いというんですね。それを歴史の中で起こったのが、イエスの十字架の死と復活の十字架ということであると。それには『旧約聖書』の「イザヤ書」の五十三章に、こういう言葉が語られているんですね。
 
彼は打たれ神に叩かれ苦しめられたのだ。しかし彼は我々の咎(とが)のために傷付けられる。我々の不義のために砕かれたのだ。彼は自ら懲らしめを受けて、われわれに平安を与え、その打たれた傷のよってわれわれは癒されたのだ
 
打たれた傷によって我々は癒された。イザヤは言っているわけですね。この言葉がイエスにおいて実現した、というのが、『新約聖書』の伝えるメッセージなんです。歴史の中でこういう形でこれが実現したんだ、というんですね。こういう聖書の箇所もあって、これは私にとっては、これは大きな支えであると同時に福音の根拠でもありますし、考察の土台になっていることなんですけどね。
 
山田:  それはスーダンの体験も、それ以降のことも、つまり牧師におなりになったりしたことも、すべてそういうことというふうにお考えになるわけですか。
 
武岡:  そうですね。それに尽きると言っていいかも知れませんね。ですから、私はスーダンの子供たち、そして人たちのほんの些細な一滴の水というもの、和平の実現が一日も早くスーダンにくるように、という切なる祈りが込められて、そういうことなんですよ。ほんとに信じて、和平がきて、平和がきて、子供たちが安心して勉強ができて、そしてまあ不自由なくというか、ある程度学校給食もできていけば、私たちの役割は終わるんですよ。ですから、その和解の当事者というのは、そういう意味合いで、その子供たち、その人たちこそが、自分の口から声を出して、そういうことをアピールすることができるわけですよ。日本においては、私たち当事者がそういうことを、自分の意志を表示する。世間に訴える。アピールする、という。声を出し続けていくということですね。それを私は、「和解の当事者」と呼びたいわけです。争いをこれ以上続けさせない、という。
 
山田:  武岡さんは、これからやっぱり和解の当事者として生きていきたい、という思いを持っていらっしゃる?
 
武岡:  そう思いますし、そういう役割が与えられているんではないか。あるならば、そういう使命として、私はこの教会に仕えていけたらと思ったわけですね。自分から、自らこうなりたいと思ってその道を選んだわけじゃないですよね。
 
     これは、平成十八年十月一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである