いのちは終わらない―一リットルの涙≠歩んだ二○年―           
 
                        木 藤(きとう)  潮 香(しおか)
                        石 澤  典 夫
 
ナレーター:  若くして難病に冒され、時には大粒の涙を流しながら、限りあるいのちの意味を問い続けた一人の少女がいました。その母親木藤潮香さん、六十九歳。木藤さんは娘の壮絶な生き方や心に突き刺さった言葉を数々語り伝える活動を続けています。
今から二十年前、木藤さんは子どもが書き綴った日記を一冊の本に纏めました。タイトルは「一リットルの涙」。今も多くの人々に読み継がれています。木藤さんの長女亜也(あや)(1962-1988)さんです。亜也さんが病魔に襲われたのは青春真っ直中の中学三年生の時でした。身体の運動機能が衰えていく進行性の病気で、原因は未だにわかっていません。次第に歩くことが困難になり、車椅子やベッドでの生活を余儀なくされます。そんな日々の中で、亜也さんは日記を書き続けてきました。十四歳から始めた日記は、二十一歳で文字を書くことができなくなるまで、七年間でノート五十冊にのぼります。日記は、亜也さんが二十五年の人生を生きた証(あかし)です。そこには運命に押し潰されそうになりながらも、前向きに生きようと苦闘する少女の言葉が切々と綴られています。
 

 
今日、転んで怪我をしたのです。そいで泣いちゃった。もっと強くならなくっちゃあ。
担架で保健室に運ばれていく時、渡り廊下のところで、青空がちょっと見えた。
ああ、寝ころがって青空を見るのは久しぶりだなあ≠ニ思ったの。
保健室で寝ている時も、窓から空が見えた。
青空に、白い雲がとてもきれいに流れていた。
そうだ、行きづまった時は、空を見ることにしよう。
(『一リットルの涙』―難病と闘い続ける少女亜也の日記から)
 

 
石澤:  随分と鳥の声が聞こえるんですね、この辺りは。
 
木藤:  そうですね。ほんとに街の中でこういう場所があるというのは、凄く心安らぐというのか、みなさんけっこうお散歩コースで。
 
石澤:  ここはよく亜也さんと一緒に来られた所なんですか? この公園は。
 
木藤:  あのね、一番よく来たのはね、東高の一年生の時に仲良くなったこの子たちもほんとに最後までの一生の友だちになったんですけど、そのお友だちが亜也ちゃんにこう肩貸しながらよく一緒に散歩してくれたコースなんですよ。
 
石澤:  どうです、こうやって歩いてみると、何を見ても想い出されるんじゃないですか。
 
木藤:  そうですね。ほんとに一生懸命で歩いていた、というのが、ほんとに。で、立ち止まらないとこう木は見られないんですよ。歩きながら私たちがこう見るように、こうやってキョロキョロ見れない、転んじゃうから。だから歩く時はほんとに一生懸命でこう歩く。
 
石澤:  とにかく歩くことが一生懸命で。
 
木藤:  そうなんですよ。それで、「亜也ちゃん、青空が奇麗だよ」という時は止まって、それで足踏ん張って、転ばないようにして、こうやって、「ほんとに奇麗だね」という感じでね。だから五十メートル歩くにも三十分、四十分。
 
石澤:  そうですか。
 
木藤:  こう歩くのが目的じゃなくて、お空が凄く好きな子だったから、空を見せてあげたいというのと、こう葉っぱの揺らぐ音とかね、鳥の声とか、そういう自然を凄く愛する子だったから。こういう葉っぱが落ちておっても、奇麗だなとか、感じるのがあると拾ってね、奇麗に拭いて、
石澤:  拭いて?
 
木藤:  そう。奇麗に拭いて、それでこれを押し葉にして、それで貼っていくんですね。
 
石澤:  この落ち葉を見てね、五十年ぶりぐらいですよ、こんなに落ち葉見たのは。
 
木藤:  ああ、ほんとね。ほんとに人が何気なくこう見過ごしていっちゃうことも、なんというかな、すぐ感じるというのかな。だからそれは突き詰めると、やっぱり何でもいのち―「いのちがあるんだよ。奇麗に、しっかり付いておったのがこう落ちたんだね」というような、なんかみんないのちに繋がるように思うのかなぁ。自分のいのちと合わせているのかなぁ、というのは、後になって思いましたね。
 
石澤:  亜也さんの書いた『一リットルの涙』、あれが出て二十年近い時間が経つんですよね。
 
木藤:  そうですね。
 
石澤:  どうですか、この時間の流れというのは?
 
木藤:  〈ああ、二十年経ったんだ〉という気持ですね。私は今でもあの当時のものがそのままあるという感じで、歴史を感じない月日が経ったんだ、というのをあんまり感じないんですね。ただ自分の体力が衰えてきた。私はもうじき七十になるんだ、という時に、〈ああ、亜也ちゃんが生きておれば、今四十いくつなんだなぁ。きっと子育てに一生懸命になっているんだろうなぁ〉というふうな形で思い起こしますけどね。なんか二十年経った、という実感は、端から言われて感じますけどね。ああ、もう二十年経ったんだね、というけど、なんか自分の中ではあの当時のままかなぁ。
 
石澤:  亜也さんと一緒に病気と闘ったあの時のまま、という?
 
木藤:  そうですね。
 

 
ナレーター:  保健士と働いていた木藤潮香さん。昭和三十七年、二十五歳の時に授かったのが亜也さんでした。亜也さんは四人兄弟の長女。大きな病気をすることもなくスクスク育ち、弟や妹の面倒をよくみる女の子でした。将来は何か人の役に立つ仕事に就きたいと考えていた亜也さん。高校進学を目指して受験勉強に励んでいた中学三年生の夏、異変が起こりました。歩く時にふらつくようになったのです。診断の結果は脊髄小脳変性症(せきずいしょうのうへんせいしょう)。身体の運動機能を調整する小脳と脊髄が萎縮していく病気でした。ゆっくりと、しかし確実に全身の運動機能を蝕(むしば)む難病でした。
 

 
木藤:  そうぞお入りください。
 
石澤:  ああ、可愛らしい。これはいくつの時ですか?
 
木藤:  それはね、十八歳ぐらいの時でした。養護学校(愛知県立岡崎養護学校)のちょうど三年生、
 
石澤:  そうですか。でも病気が進んでいるといっても、目がね、印象的ですね。
 
木藤:  ほんとに奇麗な眼をしているんですよね。澄んでね、それで大きくてね。あの眼から涙がポロポロこぼすんですよ。
 
石澤:  亜也さんは小さい頃、どんなお嬢さんだったんですか?
 
木藤:  とにかく元気で丈夫。とても元気な子で、ほんとにまるまる、コロコロ、スクスクという、そんな言葉が一番似合うような丈夫な子でした。
 
石澤:  長女ですよね。
 
木藤:  そうなんですよ。だからなんか弟や妹の面倒見がとても良い子で。
 
石澤:  そんなふうにして、健やかに育ってきてくれた亜也さんが、亜也さんの姿を見ていて、あれ!ちょっと変かしら?って思われたのは、いつ頃なんですか。
 
木藤:  中学校の三年生の時でしたね。
 
石澤:  どんな具合だったんですか?
 
木藤:  ちょうど三年生の夏休みという時期だったんですけど、痩せてきたんですね、凄く。歩く後ろ姿見ていると、一人だけ肩が揺れるとか、それから顔がなんとなく生気がないとか、そういうのが最初の気付きだったんですね。
 
石澤:  ご本人よりも、お母さんのほうが先に気が付かれた?
 
木藤:  多分本人もおかしいな、というのはわかっていたと思います。ただ口には出しませんでしたけど。
 
石澤:  病気と言いましょうかね、病状をお知りになったのは、たまたまお母さんが保健士の仕事をされたことも大きいでしょうね。
 
木藤:  大きいですね。神経性の病気に近い症状だな、というのを何となく素人判断しましてね。そしてその時二つ、頭に浮かんだのは、当時今ほど神経系の医者がいなかったんですね。だから医者を捜すことと、それから自分の思いを亜也にどう伝えようと、この二つだけを真剣に考えて、それで両方ともクリアーして、それで受診したんですけどね。
 
石澤:  初めて、「亜也さんの病気はこういうものだよ」と言われた瞬間というのは、今でも覚えていらっしゃいます?
 
木藤:  ええ。覚えていますけど、あんまり聞いたこともない病気―病名ですよね。で、「それはどういう病気ですか?」と、聞いたのをすぐメモって、で、先生は専門の先生だったんですけど、「もう百年ぐらい前からある病気だ」ということと、それから「原因も治療法もない病気で、進行はゆっくりだけれど、確実に進行性の病気だから止まることがない」ということを告げられて、で、「それについての説明する何か本がありますか?」と聞いたら、「専門書があります」ということだったんです。もう図書館、それから医学書―ちょうど名古屋大学の傍に鶴舞にはそういう医学書専門の本屋さんも当時あったんですね。そういうところへ行ったりして、全部抜き書きして、それで病気の概要はキャッチしたんですけどね。
 
石澤:  でも、それはつまり「治療法はない。進行性で止まらない」ということでしょう。
 
木藤:  はい。
 
石澤:  それで言ってみれば、死を意味するわけですよね。
 
木藤:  そうです、先はね。だから、そんなバカな!って。何でこの子が!とかね。
 
石澤:  だって、「なんで我が子は!」と思いますよね。
 
木藤:  そう思いますね。そんなことは「嘘でしょう」とか、「誤診でしょう」とか、「もっと良い医者へ行こう」とか、「日本でなくとも、外国にある筈だ」とかね、もういろんなことが。だから病気を認めたくないですね。それが凄くありましたね。一方、亜也のほうは、先生がほんとに優しい教授でして、「亜也ちゃん、頑張れよ」というふうに励ましてくれたから、「ああ、これで良くなる」というふうに、片っ方はそう思い込んでいるんですね。それこそ、さあ、受験頑張るぞ。これで楽しい高校生活送れる、という夢を今度は反対に膨らませた状態でおるもんですから、親はこちらでほんとに・・・それで毎日生活は続いているわけですよ。だから子どもの顔を見れなかったですね、しばらくはね。
 
石澤:  お母さんが病気を知られて、亜也さんに、じゃ、告げよう、と。結局亜也さんがその病気を知るまでに、どのぐらい時間があったんですか。
 
木藤:  自分が知りたいという気持になったのは、十八ぐらいの時ですかね。だから発病して三年ぐらい。悪くなっていく、良くならないという疑問が出た時に、自分の病気を先生に聞こう、と。先生が、「悪くなることはあっても、良くはならないんだよ」。それから亜也より年下の同じ病気のお子さんが入院して来た時に、亜也より酷かったんですね。そういう時に何気なく、「あの子は亜也ちゃんと同じ病気なんだよ」ということを見せてくれて、そして亜也は、〈ああ、将来自分もああなっちゃうのかなぁ〉というような、先をこう見ていたんですね。
 
石澤:  それも全部ご承知のうえで、黙って「大丈夫、よくなるよ、よくなるよ」と言うわけでしょう。
 
木藤:  「よくなるよ」は言わなかったです。私が絶対言わなかったのは、「頑張りなさいよ」という言葉と、「良くなる」という言葉だけは、先を知っていたから嘘は言えなかったんですね。いろんなこと見ていて、ほんとに一つ一つ頑張っている子だから、頑張っている子に「頑張りなさい」ということは。「頑張れ」とか、「良くなるよ」という、その二つだけはほんとにあの子には言えなかったですね。だからお互いに無言のうちで、あの子は一生懸命、「もう少し頑張れよ」なんて足さすっているんですよ、自分の足を。「やりたいこといっぱいあるのに」なんてこう足をさすっている、布団の上へ座ってね。そうすると私は一緒に傍へ行って、同じように言葉は言わないけど、一緒にさすってあげる、というようなね。
 

 
ナレーター:  日を追う毎に病状が悪化していく亜也さんに、木藤さんは日記を付けることを勧めます。体調の変化を記録に残し、正確な診察を受けられるようにすることが目的でした。しかしその日記の端々には、亜也さんの心の叫びが書き込まれていました。
 
涙もろくなっていけない。
自分の身体が思うように動いてくれない。
一日五時間やれば消化できる宿題をさぼってから、あせっているのか?
いや違う、体の中で何かが故障しはじめているようだ。
こわい! 胸が締めつけられる思いがする。
運動したい。思いっきり走りまわりたい。
勉強したい。きれいな字が書きたい。
病気は、どうしてわたしを選んだのだろう。
運命という言葉でかたづけられないよう!
わたしは病気に負けそうだ!
いや、負けるもんか
病気なんかに!
(一五〜一六歳の日記)
 
亜也さんは身体の不安を抱えながらも受験を突破、第一希望の高校(愛知県立豊橋東高等学校)に進学しました。しかし、ほどなく限界が訪れます。自分の足で歩くことが困難となり、通学も難しくなったのです。結局亜也さんは高校二年生の四月に養護学校(岡崎養護学校)に転校します。養護学校からの再出発。それは亜也さんにとって、大きな決断を迫られる出来事でした。
 

石澤:  希望の高校に入られるわけですよね。
 
木藤:  はい。
 
石澤:  東高ですか?
 
木藤:  ええ。
 
石澤:  そこで、「それこそ好きな世界で頑張ろう、とほんとに喜んでいた」というふうに伺いましたけど。
 
木藤:  その前に、「私は大きくなったら人の役に立つ仕事がしたい」という夢を持って、一番最初のステップは、高校へ行くことだよね、というふうに自分で決めていたんですね。それで、ここでいっぱいお友だちをつくって、それで楽しい高校を送ろう、と凄い夢持って入ったんですよね。
 
石澤:  向山公園も友だちと一緒に歩いたわけですね。
 
木藤:  そうです。その時もかなり若いせいか進行が早いんですよね。だから日に日にじゃないけれど、障害が酷くなってきた。その高校生の中で、例えば骨折して短期に治るとか、脱臼したとか、そういう事故の子どもさんにはみなさんは会っていると思うんだけど、亜也のような子どもを見るのはみんな初めてだと思うんですね。だから自分はどう関わっていいかわからなかった周囲のクラスメート人が、だんだん手を貸してくれるようになったんですね。そこら辺はほんとに優しい、それこそ当番制でもなんでもなくて、自然に手を貸してくれて、一緒に語り合ったり、図書室へ連れて行ってくれたりとかね、そういう友だちの優しさがあの子に生きる勇気を与えてくれた、というのか、そういう状態が高校では続いたんですね。だから凄く辛くて大変だったけど、あの子にとっては普通高校へ行って良かったなあ、って。
 
石澤:  何とか好きな高校でみんなと一緒に高校生活を楽しみたい、と思っていた亜也さんに、だけど養護学校へ行かざるを得なくなってしまう状況がくるわけですよね。
 
木藤:  はい。
 
石澤:  これはやっぱり「そうしなさい」という話をするわけでしょう。
 
木藤:  一番最初に、私は、ほんとにいつまで行けるだろう、という不安をしょっちゅう持っていたんですね。ただ三年間は絶対に行けない。どっかでそういう時期がくる、ということも自分で思っていたもんですから、ほんとは東高校へ入る時点で、最初から養護という道も勧められたんですけれど、私は、あの子が「ここへ行きたい」という夢を、私が潰す権利はないし、潰しちゃいけないんで、子どもの夢なんて、大人が絶対潰しちゃいけない。でも夢が叶えられないのは実感するだろう、と。その時が一つの決断する時なんだ。一緒に考える時なんだ、と。
 
石澤:  相当顔に出さなくても、大きいショックを受けたんじゃないか、と思うんですけどね。
 
木藤:  思いますね。だからあの子の表現はほんとに涙が多かったですね。よくポロポロ―ワンワンじゃなくて、ポロポロ。だからほんとに「自分の受けた試練」という言い方もしていましたけど、そういうものは自分で、「自分が耐える力があるから試練が与えられたんだ。だから自分で、それに耐える力を付けていかなくちゃいけなんだ」というような。ほんとは人というのは、自分で自分の人生を選択して、決断して一歩歩き出しますよね。だけどあの子の場合は、選択権がない決断を高校の時したわけですよね。
で、それの苦しみを、あの子はね―これはほんとにこれ涙の跡なんですね。一月十八日の日記に、「私は生まれ変わりました」という言葉から始まって、「東高を去ります。重たい荷物をしょって生きていきます。そう決断するのに、一リットルの涙が必要だったし、これからももっといると思います。耐えておくれ、私の涙腺よ」と。これ、この時期がこの子にとって、ほんとに今まで歩いた人生を、ガサッと変えなくちゃいけない決断の時に出した涙ですよ。私もこれがこの子の人生の一番大きな山場だっただろうな、と。
 

 
わたしは、生まれ変わりました。
着実に一段ずつ上った階段を、踏みはずして下まで転(ころ)げ落ちた、そんな感じです。
先生も友達も、みな健康です。
悲しいけど、この差はどうしようもありません。
わたしは東高を去ります。
そして、身障者という重い荷物を、ひとりでしょって生きていきます。
なあんてかっこいいことが言えるようになるには、少なくとも、一リットルの涙が必要だったし、これからももっといると思います。
耐えておくれ、
わたしの涙腺(るいせん)よ!
(一六歳の日記)
 
ナレーター:  思いを新たにしてスタートした養護学校での生活。しかし亜也さんの病状は、その後も容赦なく進んでいきました。変化は日記にもはっきりと現れています。日記を書き始めた頃、整然と列んでいた文字は徐々に乱れていきました。
 

 
椅子につかまって立ち、両手を離す訓練をしていた。
フラフラして五分と立っていられなかった。
こんなに真剣に一生懸命やってもできないって、どうして?
楽しいことといったら、食べる、読書、書くことしかない。
他の十九歳の人ってどんなことを楽しんでいるのかなあ。
畜生め!
十九歳が何だ、二十歳が何だ、
考えると泣けて仕方がない。
闇の中でのたうちまわるのがわたしの人生か?
(一九歳の日記より)

 
ナレーター:  二十歳になった亜也さん。その頃には一日の大半を病院のベッドで過ごす生活となりました。しかし亜也さんは日記を書くことだけは止めませんでした。そんなある日、母親の潮香さんは、亜也さんの日記に綴られた思いもよらない言葉と向き合うことになります。
 

 
木藤:  ここに書いてあるんですね、日記の。それで一番最初にこれを書いたんですよ。ここら辺は読めますね。「ために生きているのだろう」。ここが多分「お母さん」という言葉かなあ、と。で、これがね、初め読めなかったんですね、私が。ここら辺が読めなかったんです。ここら辺は読めたんですけど。それで、「亜也ちゃん、ゆっくりでいいから、もう一遍書いてごらん」と。この字はボールペンなんですよ。ボールペンはもう当時こういう握り方だったんですね。ボールペンはあれ玉ですから、転がるから、書けないんだから、「亜也ちゃん、フェルトペンで書いてごらん」と言って。で、こことここの間は時間的には何日か空間があるんですね。その時にこれを書いたんですね。「何のために生きているのだろうか」。こういう問いかけって、ありましたでしょうか? そういうこと聞かれたことあります? まったく予期せぬ問いかけですよね。「何かがしたい」とか、「どこどこへ連れて行ってほしい」とか、「して良いの」とか、「悪いのか」とか、そういうことじゃなくて、これはほんとに「生きている」ということ、「何のために生きているのか」と言ったら、私自身も、〈あ、私も何のために生きているんだろう〉というふうに思う。ハッとする、ドキッとする。でも、これはあの子の本音がストレートにきたんですね、私にね。重ったいし、ある意味は「前向き」ですよね。まだ「生きる意味を見付けたい」。それから「生きている証がほしい」みたいなね。それから一つの「自己主張」というんですか、「自分の存在を最後まで保っていきたい」という。これ本音だったと思うんですけどね。
 
石澤:  渾身の力を込めてぶっつけている感じですね。
 
木藤:  そうですね。一生懸命で書いている字ですよね。ほんとにスッと返す言葉はなかったです。だから、「母さんも何のために生きているの、と言われると、お母さん自身も自分に問うてみるね」と。この時は看護婦さんが付いていて入院していたものですから、それで土、日は私か妹のアコが泊まりに行くんですね。だから、「今度来るまでに、母さんも自分が何のために生きているのか、一生懸命に考えるね。次ぎに話し合おうね」ということでね。「でも、亜也ちゃん、今日も生きているんだよ。明日も生きているんだよ」ということを話して、「母さんも考える」という言い方で約束して帰って来たんですけどね。
 
石澤:  で、しかもこれは絶望じゃんなくて、まだ前に生きたい、前に生きたい、という。
 
木藤:  そうなんですね。こういうことを言いながら、「窓の外の木々に赤ちゃんのツバメが飛んできた」とか、そういうことをいうんですね。だから、「みんな生きているものというのは、みんな価値があるんだ。でも私は価値がない。そうしたら何のために生きているんだろう」というようなことも含めていたかなぁ、と。「人の役に立つ仕事がしたい」と言った子が、人の世話になりっぱなしで、人生を終わってしまうのはもの凄く辛いことだろう、と。何にも夢が叶えられなかったけど、一つでも、「あ、私も生きていて良かった」みたいなことを体験させてやらなければ、とてもじゃないけど無念だろう、という気持で、亜也ちゃんが病院のベッドだけど、「一つの本という形になって世の中へ飛び立って、それでどっかで役立てば、亜也ちゃんもほんとの社会人だし、人の役に立てたんだよ、ということを、あの子に実感されてやらなければいけない」という思いで、もう何が何でも本にしようと思って。亜也には何にも残っていない。今から先にも何もない。あるのは日記だ。この子の足跡だけだ、と思った時に、「亜也ちゃん、ごめん、日記にしていて」というふうに。本人居ないけど、段ボール引っ張り出して全部読んで、とにかく亜也にそれを早く「役だったね」っていうことを言わなければ、この作業自体に意味がない。あの子が生きていなくちゃいけない。生きているうちに、ということでね、もうほんとにタオル咬みながら、それこそ必死に原稿用紙に載せたんですよ。

 
ナレーター:  木藤さんは、『一リットルの涙』という、あの亜也さんの言葉を本のタイトルに出版します。亜也さんが二十三歳の時でした。『一リットルの涙』は出版直後から反響を呼びます。一年で三十万部を記録。木藤さん親子の元には、全国の読者から手紙が届くようになりました。
 

 
読者A:  私はいつも仲間はずれにされていました。生まれて来なければ良かったと思う時が、何度も何度もありました。いつもどこかに隠れて泣いていました。でも『一リットルの涙』を読んで、これからは挫けずに頑張ろうと思いました。
(小学校十一歳 女子)
 
読者B:  私は平凡な高校生です。今のところ身体に何の障害もありません。このことを私は不思議に思うことなく、むしろ当たり前のことと思い込み、今まで生きてきていました。勿論感謝などしたことがありませんでした。こんな私が『一リットルの涙』を読んで、思わず涙が溢れてしまいました。
(高校生 女子)
 
読者C:  うまく言いませんが、この本を読んで、私の中で何かが変わったように思います。この本を読んで、とても勇気付けられました。やっぱり生きていくことが大切なんだ、と。どんな将来が待っていようとも、進まなければならないのです。ほんとに良い本を書いてくれてありがとう。
(障害児の母親 二十七歳)

 
石澤:  この『一リットルの涙』が大変な反響を呼んだわけですよね。
 
木藤:  はい。ビックリしました。
 
石澤:  亜也さんはどんな印象だったんですか。
 
木藤:  一番ビックリしたと思います。自分がだんだんだんだん生きていく世界というのが狭く、普通は年齢とともに広がるんだけど、亜也の場合はどんどん狭くなっていくんですね。だから病院と経験した学校生活と家庭生活と―社会生活というのはないんですよね。だから初めて社会と振れた。まったく見ず知らずの人たちと触れ合うことができて、しかも触れ合いの元が自分の代わりに働いてくれた本を通して触れ合うことができて、そしてそういう人たちが亜也の生き方を自分の生き方に少し取り入れた、と手紙を見て感じた時に、ああ、役に立てたんだなぁ、ということをまず凄く嬉しがりましたね。それが生きてきて良かった、に繋がったと思うんですけど、そういう気持を持ちながら、照れくさそうにしていました。凄く恥ずかしそうに。そういうお手紙がだんだん日増しに増えてきて、中にはほんとに可愛いイラストが書いてあったり、奇麗な封筒であったり、また昔のおじいちゃんたちはあんまり学校も行っていない方も多かったものですから、カタカナばっかりの八十近いおじいちゃんのお手紙であったり、読んでくださった方の層は厚かったですね。
 
石澤:  なんでそんなに年齢の巾の広い方たちから支持された、というふうにお考えですか。
 
木藤:  書いた年齢が若い年齢だし、それから始めから本にしようという目的がない。ただほんとに書いた日記なので、素直な気持ちが全部出ている。だから病気じゃなくても、自分の生き方と照らし合わせて、皆さんが読んでくださったのかなぁ、と。文面が素直だからストレートに入っていってくださったのかなぁ、と思う。それとほんとに今あまり苦労ということがない時代になりましたよね。だからそういう一つは、必死にこうやって生きている子もいるんだ。自分はそれでいいのか、という。自分を見つめ直してくれる機会に役立ったのかなぁ、というふうに思う。ほんとにこんなにたくさんの人が読んでくれるとは夢にも思わなかったですね。
 

胸に手をあててみる。
ドキドキ、ドキドキ
音がする。
心臓が動いている。
うれしい。
わたしは生きている。
 
いいじゃないか転んだって
また 起き上がればいいんだから
転んだついでに仰向いて空を見上げてごらん
青い空が 今日もお前の上に限りなく広がって
ほほえんでいるのが見えるだろう
お前は 生きてるんだ
 

 
ナレーター:  昭和六十三年五月二十三日、『一リットルの涙』の出版から二年、亜也さんは静かに息を引き取りました。二十五年の生涯でした。たといどんな苦しみに出逢っても、いのちある限り一日一日せいいっぱい生き抜くこと、その思いを亜也さんは、『一リットルの涙』に託し旅立ちました。亜也さんを看取った後も、保健士として働いてきた母親の潮香さん。十年前に現役を引退してからは、数多くよせられる講演の依頼に、できる限り応えようと全国各地を飛び回っています。思春期の若者たちや子育てに悩む親たち、さまざまな世代の人々に向かって、木藤さんは「掛け替えのない人生を大切にしてほしい」と訴えかけます。
 

 
(講演会から)
 
木藤:  どうぞ、子どもたちと短い時間でいいから、ともに人生を語り合う時間を、何よりも大切につくってほしい。あなたは自分の人生を選ぶ自由も、可能性も持っているんだということを気付かせてあげてほしいです。そして自分はどんな人生をつくりあげていきたいか、今はその基礎を作る時、だからゆっくりでいいから真剣に考えるのが今であるということ、どんなに小さくてもいいから、自分なりの目標を見付けて、そしてそこへ行き着くためには、今、何をしたらいいのか。何をしなければいけないのか。それが今をムダにしない生き方になることを、一緒にどうぞ語り合ってほしいと思います。
 

ナレーター:  亜也さんの日記、『一リットルの涙』はこの数年、改めて脚光を浴びるようになっています。映画やテレビドラマが相次いで作られ、若い世代を中心に大きな感動を呼びました。それがきっかけとなり、原作となった亜也さんの本を手に取る人が増えました。出版から二十年、『一リットルの涙』は途切れることなく読まれ続けています。去年は文庫本にもなり、合わせて二百十万部というロングセラーとなっています。
 

 
石澤:  今、またね。
 
木藤:  そうなんですよね。
 
石澤:  『一リットルの涙』の読者が多い。これ、どういうことなんでしょうね?
 
木藤:  ほんとに私も二十年前に、亜也が、「あ、役だったんだ、私も」と思って、旅立ってくれただけで満足、というのか、良かったな。で、みなさんが読んでくれたお陰で亜也がそういう思いを持ってくれたんだ、という感謝ですね。読んでくださった方の。その時になんかやっと「亜也ちゃん、もう休んでいいんだよ。お母さんの懐で寝ていいんだよ」という気持になった矢先だったですね。
 
石澤:  たくさんのお手紙がきているんですって?
 
木藤:  はい。二種ありまして。二十年前に読んでくださった方が就職したりとか、あるいは結婚したり、お母さんになったりという、そういう人たちが二十年前に読みまして、「今はこうです」というふうで、自分の置かれた立場がどんどん変わってきた状態の中で「本を読むと、また違う受け止め方をしています」というふうで、一回読んで終わりにしていない方からのお手紙がよく頂けるんですね。だからそういう連続性のある続いている方と、今読んだ方、
 
石澤:  初めて知って、
 
木藤:  はい。そういう方のお手紙。そういうお手紙の中で、親が不登校の子どもさん抱えているとかね、自分自身がいろんなノイローゼー―職場の悩みでノイローゼーになった方とか、それから進路を迷っているという学生さんの方とか、そういうのは、読んでやっぱり放っておけないというのか、今は私は返事を書いて出してあげる―気になる人だけですけどね。返事を書いて出してあげる時間的な余裕もできたし、それも一つの亜也の生き方から学んだと思うんですけど、やっぱり気になる人とか、何かあった時に、それは見ぬふりしちゃいけないよ、という教わりがあったから。やっぱりせっかく向こうも一生懸命お手紙書いてくれたなら、私も知恵を絞って、「役に立つなら、私の知恵を書いておくね」というふうにして返事をあげたりしています。
石澤:  広がっているんですね。全部亜也さんの取り持つご縁ですよね。
 
木藤:  そうですね。「亜也ちゃん、しぶといね」という感じ。「私はまだ働くの」というような、
 
石澤:  亜也さんに生かされているというか、押されていますね。
 
木藤:  ほんとにいろいろなところへ出掛けても、「ほんとなら亜也ちゃん、あんたが行くんだよ。でけど、代わりに母さん行くでね」と。「じゃ、行ってくるね、留守していてくれる」という感じで。なんかあの子が私に残してくれた一つの使命かな、というふうに。「亜也ちゃんの代わりに働くね、この世では」という感じですよね。でも歳も考えるから無理しない程度に。他の子供たちは、「お母さん、いいよ、働かなくって」と言ってくれますけど、やっぱり亜也ちゃんと一緒というのは、一つは私の支えになっている、逆にね。今度は亜也ちゃんが私を支えていてくれているのかな、という思いがあるから、元気なうちはボチボチだけどやろう、というふうにね。
 
石澤:  二十年経っても、また亜也ちゃんが会ったこともないたくさんの人たちに刺激を与えて、凄い力ですね。
 
木藤:  ほんとにそう思わないと辛いです。ほんとに生きたかったでしょう。だからほんとは本出すよりか、生きたかったですね。本人は生きたかったですよ。だからせめてもの、こういう形で、みんなに愛されて良かったね、というふうに思わないとやりきれないものがありますよね。
 

 
ナレーター:  木藤さんの三人の子供たちは既に独立。潮香さんは間もなく七十歳を迎えます。
 
石澤:  バナナがお好きなんですか?
 
木藤:  バナナは一日一本は食べるといいって。今日はどうしようかな。亜也ちゃんに一個あげるかな。
 

 
ナレーター:  「お母さん、私は何のために生きているの?」。二十年前の亜也さんから突き付けられた予期せぬ問いかけ。木藤さんは、今もその答えを捜し求めています。
 

 
木藤:  はっきりそれが答えなのか、その質問というのはほんとに答えのない質問だろうな、というふうに思いますけれど、イエスかノーの答えはないけれど、何のために生きている、という。生きている間の積み重ねが結果的に自分の人生として振り返った時に、なんか言えるような気がしますね。だから亜也が亡くなって、これだけ月日が経った時に、「亜也さん、何のためにあんた生きてきたかわかったでしょう」ということは今言いますね、あの子にね。その時はなかなか答えは出なかったし、私は答えていないんですね。この質問に言葉で応えてない。それが今、「亜也ちゃん、短かったけど、充実した二十五年だったよね。お母さん七十になったけど、七十の人生と亜也ちゃんの二十五年の人生比べたら、亜也ちゃん、重たかったよね」ということが、やっと今言ってあげれますよね。
 
 
(参考)
脊髄小脳変性症とは? 脊髄と小脳が萎縮する病気の名前です。
人間の神経系は、頭蓋骨と背骨に囲まれて手厚く保護されている中枢神経と、そこから出て筋肉や皮膚・粘膜、関節や靱帯、血管や内臓、そしてその他の組織や器官に分布している末梢神経とに分かれています。
中枢神経は、解剖学的に大きく分けて、大脳、間脳、小脳、脳幹、脊髄に分かれています。
大脳は主としてものを考えたり、感じたり、運動を開始したりするプログラムが存在する脳であり、間脳は生き生きした生命感情を司る脳です。小脳は運動がスムーズにいくように調節し、バランスを保つために必要な脳です。脳幹はこれらの情報を脊髄に伝えたり、脊髄から入ってきた情報を小脳・間脳・大脳に伝達する役割をしています。
こうした中枢神経の中で、脊髄と小脳とはかなり密接な繋がりを持っており、神経線維が情報伝達のために行き来しているので、この両者が一緒に侵されることが稀ではありません。この病気で、なぜこの経路が選択的に傷害されるのか解っていませんが、この部分が病的に変性していく(壊されていく)病気が『脊髄小脳変性症』と呼ばれているのです。
 
 
     これは、平成十八年十月二十九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである