砂漠からの声
 
                 青山学院大学・女子短期大学講師 野 村  祐 之(ゆうし)
一九四七年生まれ。青山学院大学文学部神学科卒。一九七六ー七八年、世界教会協議会(ジュネーブ)に勤務。一九八一年イェール大学神学大学院修了(神学修士)。現在、青山学院大学、同女子短期大学、東京女子大学、フェリス女学院大学他非常勤講師。著書に「死の淵からの帰還」「輝いて、もっと輝いて」「ボランティアのこころ」ほか。
                 き き て(ディレクター)    浅 井  靖 子
           
ナレーター: 『DESERT WISDOM(砂漠の知恵)』(野村祐之編訳、ヘンリ・J・M・ナウエン監修)。アメリカで出版されたこの本は、千六百年以上前、エジプトの砂漠に隠遁したキリスト教修道者の言葉を集めたものです。地位や財産を捨て、砂漠で神と向きあって、人々は生きる根源を問いなおす言葉を残しています。その言葉を禅画のような墨絵で表現した本が、二十五年前二人の人物の出会いによって生まれました。ヘンリ ナウエン(Henri J.M.Nouwen:1932-1996)さんはオランダ出身のカトリック司祭で、当時イェール大学神学大学院教授、キリスト教のスピリチュアリティー(spirituality:霊性)に関する著作で広く知られていました。野村祐之さんはその教え子でした。野村さんはナウエンさんが授業で紹介した砂漠の修道者の言葉を心に浮かんだ東洋の修行僧のイメージで描きました。キリスト教の修道者「アバ(Abba)」「アマ(Amma)」は、日本語では「師父(しふ)(Abba)」「師母(しぼ)(Amma)」と呼ばれています。
 
師父ポイメンは語った。師父ピオールは毎日を真っ新に始めていた。
 
ある時のことスケーティスで或る兄弟が罪を犯し、長老たちが協議に集い、師父モーセにも声をかけた。ところが彼は出て来たがらず、そこで司祭が伝言を送り伝えた。「来てください。皆があなたをお待ちしています」。そこでとうとう腰をあげ、使い古しの穴あき籠に砂をいっぱい詰め込んで、背中に負ってやってきた。出迎えた人々が、「師父、いったいそれはなんですか」と尋ねると、老師は答えてこういった。「自分の罪は背後に垂れ流し、それが目に入らぬのを幸いに、誰かの罪を裁くため、今日はこうして出向いた始末」。これを聞いて一同は、何も問わずに兄弟を赦して解放したという。
 

 
浅井:  東洋のお坊さんのように見える絵と、それからそこにあるのは手書きで書かれてありますけれども、キリスト者の言葉ですね。これはそれがドッキングしている世界なんですけれども、千六百年以上も前の言葉でありながら、今もなんというんでしょう、現代の私たちの心にも響く力が何かあるような気がするんですね。
 
野村:  そうですね。これは今から三十年近く前になりますけれども、アメリカのイェール大学の神学大学院で神学の勉強、聖書の勉強をしていた時に出逢った一つの授業からなんです。ヘンリ・ナウエン先生という先生が教えていた、ある意味で不思議なコースで、「砂漠の霊性と現代の牧会(ぼっかい)」というコースだったんです。「牧会」というのは、現代の教会でいう牧師さん、或いは神父さんとしての仕事ですね。今から千七百年前の「砂漠の霊性(スピリチュアリティー)」ということが、どういう意味であるか、というようなことで、これは日本では思いもよらないと思ったもので受講したんです。どんなものか、食い付くだけ食い付こうと思って授業を受けてみたんです。小難しいとかなんかよりも、もの凄く易しいですね。易しいというのは、簡単で易しいんではなくて、そもそもこの人たちが難しいことを拒否したんです。ですから、物質的な豊かさ―物をいっぱい持っていて偉いとか、そんなんで偉いんじゃない。物を捨てていくわけですね。ちょっと余計な話かも知れないですが、僕の母はクリスチャンだったんで、私は母の影響があると思いますが。けれども、父親が実は耶蘇(やそ)(キリスト)嫌いだったんですね。だけど、この人たちのことを知ったら、「あ、これを親父にも教えてあげたい」と思ったんです。教えてあげたら、親父は、「耶蘇(やそ)嫌いでもあるけれども、あなた方の生き方や信仰だったらわかるよ」と言ってくれるんじゃないか、と思ったんです。
授業中に、教科書を読んでいたら、そこにフッと砂漠の師父のイメージが浮かび上がってきたんです。それで慌てて鉛筆で悪戯描きみたいに描きとったのが出発点だったんですよ。
 
浅井:  そうですか。それでその時に出てきたイメージというのが、この墨絵のお坊さんたちのイメージだったんですか。
 
野村:  そうですね。マンガを描いたり、悪戯描きは好きでしたけど、墨絵なんて描いたことがなかったんです。小学校の時に書道で筆を持ったことはありますけど、筆を持って絵を描いたことは全然ないんです。
ところが、僕のクラスに一緒にいた友だちがホスピスのナースだったんですね。彼女が、ホスピスに関わる中で、どんなに医学的な知識があっても、看護士としての経験があっても、心がほんとに深くしっかりしていないと患者さんを受け止められない。そういうことから、彼女は熱心なカトリックですけれども、閑な時間に神学校に行って心の勉強をしていたんです。そして、どう生きるかというこで、「砂漠の霊性と現代」のコースを受けて一緒のクラスにいたんです。そんなことから、僕はホスピスに行ったら、彼女から、「日本人だったら書道できる? 字は筆で書くでしょう」というから、「ああ書きますよ」と言ったんです。「やったことある?あなたも」というから、「小学校の時、宿題で、正月≠ネんて書いたもんです」と言ったんです。そうしたら、彼女が、「それ、それをこの人たちに教えて頂戴」って言うんですね。それでニューヨークのチャイナタウンに行った時に筆と墨を買ったんです。
 
浅井:  そのことと、この絵が結びついたわけですね。
 
野村:  ええ。
 
ナレーター:  ある日、アレクサンドリアの主教、聖テオフィロスがスケーティスまでやって来られた。集まっていた兄弟たちが、師父パンボにいった、「ひと言お言葉をかけられたら、主教さまのお心もここでおおいに満たされましょう」。すると老師が答えていった、「もし彼がこの沈黙に霊感を感じぬのなら、言葉をかけても始まるまい」。
 
千六百年以上前、師父母たちが隠遁したのは、エジプトの砂漠地帯。繁栄するローマやアレキサンドリアを離れたキリスト教者たちが、ナイル川流域やシナイ山周辺の砂漠に点々と庵を結んでいました。当時ローマ帝国によって公認されたキリスト教は、世俗の権力との結び付きを強め、また教義の確立のため神学論争に明け暮れていました。イエスの教えの原点にたち返ることを望んだ師父母たちは、身一つで砂漠に赴き、洞窟や粗末な庵でひとり労働と祈りの日々を送りました。師父母が修行に明け暮れた砂漠地帯には、やがて修道者が集まって住む修道院が作られるようになりました。それは現代まで続く修道院制度の原形となりました。今も同じ場所で師父母たちの精神を受け継ぐ人々が、修道の日々を送っています。この春野村さんは、師父母たちの足跡を求めて砂漠の修道院を訪ねました。

 
野村:  僕は、今年の春砂漠の修道院に行って見て驚いた。アレキサンドリアのところまでは、海が蒸発して、雲があって、緑が豊かなんですけれども、ここから二十キロ、三十キロ南の方に行くと、突然砂漠になっちゃうんです。彼らのところは、砂漠だったんです。「砂漠であった」ということが決定的なことだったと思うんですね。そのことをつくづく感じました。今回、実際に行って理屈じゃなくて見て感じました。その修道院の修道士たちは、そこでは共同生活しているわけです。時には修道院長の許可を得て、外の砂漠の中の穴蔵に独りきりで何日か過ごすという伝統があります。そこにほんのお水と乾いたパンを持って行って過ごすわけです。
 
浅井:  今もその砂漠師父母たちと同じような暮らしをする人たちが今いるという。
 
野村:  そうです。私もその砂漠の穴蔵へ歩いていかせてもらったんです。その穴蔵は向こうの丘の上に見えるんです。「あそこだ」という。「嵐がきたら大変だよ。そんなに近くないんだよ」と言われたんです。それでその人たちがいうのは、「嵐がきた時はとにかくそこにしゃがんで大人しくしていろ」というんです。「大丈夫ですよ。帰ってきますよ」と言ったら、「嵐がきた時、歩いて行ったら命が危ない」というんですね。「方向を見失って、こっちだと思うのに、とんでもない方向に行って、それっきり帰って来れなくなるよ」というんです。脅かされて、というか半信半疑でしたが。ほんとにお天気の良い日でしたが、歩いて行ったわけです。風が心地よかった。砂漠というわりには涼しいじゃないか、と思ったんです。そうしたら、フゥーッと風が吹いて来たんです。砂漠の砂というのはほんとに埃のようなんですね。風でびゅうっと巻きあがったら、アッという間に―ほんとに数十秒のうちにうわぁっと巻き込まれたら何にも見えないんです。太陽も見えないし、どっちが上か下かすら、こうやって立っている以上、こっちが下だろうという、地面が見えないんですね。天も見えない。天も地もない。その中に自分だけがふぁんといる感じなんです。「彼らが言ったことは、あ、これか!」と思ったんです。それで「しゃがまなくちゃ」と、とにかくしゃがんでいたんです。嵐がスーッと去ったら―それ何分経ったのかしら、何十分はなかったと思いますけど―さぁーっと過ぎ去った。落ち着いてみたらもう砂まみれです。耳の中から砂がサラサラサラと落ちる。その音だけが砂漠に響いているんです。他に音がない。服もフッと振ると、サラサラサラサラと砂が落ちる。〈ああ、自分という存在はこの砂粒の一つみたいなものだ。ここで息絶えて終えば、僕はどうなる? 太陽と風にパッと吹き曝しに遭って、最後はこの砂粒になって終わっていく。この自然の一部になっていく。何十年か生きてあの世にいくのかも知れないけれども、実は人間なんてこの砂粒のようなものがまた砂粒に還っていく。一瞬の嵐の中のひとときを生きているようなものだなあ〉って、なんか理屈じゃなくってパッとそう思ったんですね。そうすると、神さまが人間を創られた時、創世記の二章のところに、「土の塵(ちり)で人を創られた」とあるんです。「土で」でなく、「土の塵」で、ほんとに塵なんですね。この砂漠で原典返りみたいな感じでした。で、それを全部包んで、その嵐を起こして、僕にそれを気付かせてくれている大いなる力みたいなものを感じたんです。また話がそれてしまうんですけど、フッと立ち上がると地平線に僕だけがいる、と。「再び」を「アナー」、「立ち上がる」というのを「スターセス」ということで、「アナースターセス」というのは「復活」という言葉なんです。ですから「復活」というのは、ギリシャ語を直訳すれば、「再び立ち上がる」という意味です。その時は僕の自分の存在というのが、「フッと再び立ち上がって、新しいいのちの気付き」という。そうすると、嵐全体というのは僕に死を体験させたんじゃなく―ある意味でそうかも知れないけど―だけど神さまのみ心の中にフッと包み込まれた。そしてまた新たに生かされた。それは親鳥が羽で雛を呼び集めて、フッと包むそんな感じに思われたんです。
 
浅井:  その砂漠に分け入った、といいましょうか、砂漠に出て行った師父母たちは、そこで何を求めて生きたんでしょうか。
 
野村:  独りっきりになりたかったんだと思います。集団で行ったんじゃないんです。それぞれ一人ひとりで行ったんです。その独りっきりになりたいというのは、この世のいろんな関係から切り離れて、という。それと同時に三つのことがたぶんあると思うんです。周りとのゴチャゴチャから切り離れて「独りになりたい」ということ。それからほんとにひとりであるこの僕―ある意味では家族とも、父親としての僕、夫としての僕ではなくて、僕としての僕、という、そのひとりをもう一回見付け直したい、見付け出したいというのがあった、と思うんです。
 
浅井:  見つめ直したい?
 
野村:  見つめ直したい、という。私はこの世に独りっきりしかいない。その私とほんとに独りっきりで出会っていく。ですから神との関係を回復した時に、その独りっきりの私というのがもの凄く問われてくる、見えてくるという。そして神が絶対者であるからそれと直面した時に、相対的な存在である自分、勿論社会から完全に隔絶されて、本来の独りぼっちの自分、神に生かされている自分というのを、自分が見付ける。
 
浅井:  それが独りになるということですか?
 
野村:  そうですね。
 
浅井:  さっき三つとおっしゃいましたけど、二つ目は?
 
野村:  そこでほんとに「自分と出会うための静寂の中に置く」。その静けさというのは―砂漠はほんとに静かです。耳の中に入った砂が落ちる音だけみたいなそういう世界だから。けれども、それは心の静けさであるわけですよ。環境の静けさ、心の静けさ。そうすると、今頃家族がどうしている、あれはどうしていると、自分の持ち物やなんかに気を使っている、人間関係に気を使っていると心の中でザワザワしている。
 
浅井:  それは騒音なんですね。
 
野村:  それも騒音ですね。ですから、そういうのから全部逃れてほんとに安らぎの究極としての静寂というその境地を求めた。
 
浅井:  それが物欲にとらわれたり、或いは人の噂に気をとらわれたり、或いは人を裁いたり、そういう心の中の騒音みたいものから、
 
野村:  開放されるわけですよ、そういった騒音からね。我々がものを語る時、歌う時、おしゃべりする時も、吐く息を使っていますから、それは神さまが与えて下さったいのちの息をお返しする息で、人を慰め、人を励まし、人を呪い、人の嫌味を言い、という、自分の存在自身がこうしている。そこではそういうことからも開放されるわけです。すべて開放された静寂の中で神と一対一で出会うわけです。そうした時今度は、その神さまから授かったいのちの息を神さまに素直にお返しする、という思いがあります。それも包み隠さず素直にお返しして、さらに新しい息を頂く。これで実は三つ目の「祈り」ということですね。
 
浅井:  この砂漠の師父母たちに出会ったナウエン先生の授業というのが、「砂漠の霊性(スピリチュアリティー)」という授業のタイトルだったと思うんですが、そのスピリチュアリティーというのは、いまおっしゃったような三つのことですか?
 
野村:  「独りでいること」「安息の静寂のうちにあること」「祈り―神さまとのコミュニケーションにあるということ」は一つのことですからね。そのどれが欠けてもいけない。ですから、そういう意味でいうと、キッと彼があの授業で目指していたのは、この人たちがほんとに砂漠に行って、そこで見出した人間の生き方、いのちの原点としてのスピリチュアル(spiritual)なものを現代の砂漠の中で、どういうふうに生かしていくか。「現代の砂漠」というのは、サハラ砂漠じゃなくて、自分の周り―それが東京砂漠であり、自分の心の中の砂漠である。そこに出向いてそこでどう見出していくか。その中で独りになり、静寂のうちに神さまとのコミュニケーション―祈りをする中で新しく生かされていく、という。そういったことに繋がってくる意味でのスピリチュアリティーじゃないかと思うんです。
 

ナレーター:  二人が出会ったイェール大学。一九七八年春、野村さんが入学の面接を受けるために訪れたキャンパスで、唐突に声をかけてきたのが教授のナウエンさんでした。着古したよれよれのシャツを着たナウエンさんを、野村さんが庭師と勘違いしたというエピソードを、ナウエンさんはとても気にいっていたと言います。アメリカで心理学を学んだナウエンさんは、宗教学と心理学とを結び付けた業績で脚光を浴び、イェール大学に招かれました。しかし信仰の問題をただアカデミックに論ずることに疑問を感じたナウエンさんは、自らの内面を赤裸々に告白した著作を発表することで、スピリチュアリティーを探求しようとしていました。一方、野村さんは青山大学神学科を卒業後、ジュネーブの世界教会協議会に勤務。キリスト教が社会の現実にどう向き合えるのか。芸術を通して表現する道を模索していました。派遣されたアメリカでイースト・ハーレムの教会を手伝うようになった野村さんは、過酷な現実を生きる人々の姿に圧倒され、自分に何ができるのか自問自答する日々を送っていました。あらためてキリスト教美術を学ぶために入学したイェール大学で、ナウエンさんから「砂漠の霊性」の講義を受けることになったのです。
 

 
浅井:  その当時、ナウエン先生というのは、何故こういう砂漠のスピリチュアリティーを授業で取り上げていらっしゃったんでしょうか。
 
野村:  いわゆる「霊性(スピリチュアリティー)」ということは、キリスト教にとっては一番原点であるのに、あまりまともに取り上げられていなかった。個人的には信仰の心のあり方の問題というだけで、もっと聖書の意味の解釈だとか、神さまが三位一体(さんみいったい)というのはどういうことか、という知的な神学議論、聖書研究ということはもの凄く進んでいたんです。しかも特にプロテスタントの中では、そういったお祈りをするとか、心のあり方というのは、個人的なことということで神学校でまともに研究することではないという雰囲気さえあったんです。
 
浅井:  そうすると、ナウエン先生が、「砂漠のスピリチュアリティー」という講義を学生たちになさっていた時も、知識として師父母たちの言葉を教えるということだけではない?
 
野村:  そうですね。ですから彼自身が、彼自らのスピリチュアリティー(霊的)なあり方の中で、学生と一緒に、学生を導きながら共にその砂漠の原点―客観的に、アカデミックに探求するだけではなくて、それを本当の意味で探し求めるという。探し求める方へと彼自身が求めていったと思います。それから先生の授業が初めにいつでもお祈りをして始まった。時にはメディテーション(meditation:瞑想)―静かにそれこそ沈黙、静寂というのはどういうことかということで二十分三十分ずっと坐りっきりのこともある。「君にとって静寂にいるということはどういうことか?」。そうすると、この授業は「何じゃ?」っていう人もいると思います。ですから彼が真摯に本気でその深みへみんなを導き、自分自身がいこうとすればするほど、ある意味では、はっきりいって終えばエリート大学院の枠内には嵌りきらないといった辛さも彼は感じている。それと同時に学校ですから、学生には点数を付けないといけないわけですね。それからそういう論文も発表しなければならない。それは客観的に評価されるわけです。ところが、例えばそういうことを学んだ学生の思いの丈(たけ)が書かれたものを、これを「何点、何点」なんて、彼は点数を全然付けられなくなっちゃったわけです。それぞれ何に素晴らしい、美しいというような、それぞれとの関わりにおいて、その学生がどれだけほんとに受け止めているか、ということで評価していく。そうしたら、学校のほうでは一応大学院の教育なんだからちゃんとした客観的な評価の基準で評価してくれないと困る、と。それまで客観的に分析的にそういう本を出して、それは評判になっていた時には、みんな誉め称えていたけれども―表ではそうでありながら、ちょっとそういう居心地の悪さというのを彼は感じていたかも知れないんです。でも、先生は何の素振(そぶ)りもなく、もう一人の研究者として学生としてぶつかり合ってくれた。例えば毎週日曜日の夕方には彼は自分のアパート―彼といっても神父さんとして独身ですから、独り住まいなんですけど―誰でも来たい人はいらっしゃい、というんで、こっちはみんな行って、時にはなんかつまみ物とか、何か一本下げていく人もいるし、とにかくそこへ行って、自分の恋愛の悩みから、神学論争で先生に挑んでみたり、ほんとに何でもありの、もの凄くクリエーティブな環境でした。ある時、たまたま僕だけ残って、ワイングラスなどを洗っていたんです。キッチンの皿洗い場のすぐそこが食器棚だと思って何気なく開けちゃったんです。そうしたらそこでとんでもないものを見て慌てて閉めた。あの聖母とキリストのイコンの飾られた聖画像が置いてあり、蝋燭を立てる場所があり、祈祷書が置いてあったんです。そこにちょっと坐る場所が作ってあったんです。「先生、どういう時に使われるんですか?」と聞いたんです。「これはチャペルだよ。毎晩此処でお祈りしてから寝るんだよ」とおっしゃる。「え、チャペルって? 先生、わざわざ此処をそのために?」と言ったら、「だって聖書でイエスさまが祈る時には、人から離れて独りで祈りなさい、と書いてあるだろう。だから他の人から離れて独りで祈るために此処を準備してあるんだ」と言われたんです。「でも、先生お独りですよね」と言ったら、「うん、そうだよ。時には自分からも逃れて独りにならなければいけない。それは難しいことだからね」とおっしゃったんです。
 

ナレーター:  師父アガトンは三年間、小石をしゃぶっていたという。無言でいることを学ぶまで。
 
ある老師が語った。「ひたすら祈り続ければ思いの乱れにすっと筋がたつ」。
 
罪を犯したある兄弟が、司祭によって追放されて教会から出て行った。すると師父ベッサリオンが立ち上がり、彼と一緒に出て行きざまに、こう言った、「わしも同じ罪人の身じゃ」。
 

 
野村:  これが実はその時使っていた教科書の一つです。これはトーマス マートン(1915-1968)というアメリカでも有名なスピリチュアリティーの書き手で、トラピスト修道院の修道士で、ナウエン先生よりも一世代上の方ですけれども、その方がこういったお話を集めてこういう本を出しているわけです。師父母たちの言葉を一つ一つ集めて英語に訳したんですね。本来のものはギリシャ語とかラテン語です。こうやってバァッと書いてある。これに自分が線を引いたところがありますが、論文を書くために、内容の大事なところに線を引いたんです。そうしてこのところを読んでいるうちに、後ろ姿が見えちゃったんです。これは、アバ・スムダムスという人ですけど、アバ・スムダムスの後ろ姿が見えたんです。それでワッと思って、これは書いたんです。
 
浅井:  それが最初に描いた絵だったんですか。
野村:  そうなんです。此処にも「沈黙を学ぶ」とありますね。舌を出して、「あ!」って自分で押さえている。沈黙を学ぶという時にこういうのが見えたんです。ナウエン先生にレポートを出さなければいけないんです。その時、タイプしたレポートだけではなくて、こっちも冗談半分で、でもせっかくだから鉛筆書きじゃなくて、こうやって墨で書いたんです。先生によっては、そういうことをやると、バカにしたというか、ちゃんとアカデミックにして貰いたいという人もいるわけです。だけどヘンリ先生だったらわかって貰えるんだろうと思って出したんです。そうしたらもともと書いたレポートよりもこっちのほうをよっぽど喜んで下さったんです。先生は、「これを是非みんなに展覧会やって見せろ」と言われた。そして、「もし許可くれるんだったら、ニューヨークの出版社の編集者に是非見せたいけど、いいか?」というんです。「どうぞ」というのがきっかけで、生まれたのがこの本です。これはこの文章を絵にしたいわゆるイラストレーションのつもりはないんです。例えばこの時の宿題というか問題というのは、これを読んで、それを理解して、僕なりにどう思うか、という解釈を論文にすることです。それを字で書く代わりに僕がどう感じて、どう思うか、ということを絵で解釈したつもりなんです。ですから、これはこれの挿絵ではなくて、僕の理解した受け止め方はこうですよ、というプレゼンティションのつもりなんです。先生はよくわかってくれただけではなくて、編集の人に見せて、編集の人が「じゃ、これは全部活字にしましょう」といったら、「それは絶対ダメなんだ。手書きのこの字でなくちゃいけない」と言われたんですね。
 
浅井:  それはどうしてですか?
 
野村:  で、編集の人が、「え!それは何ですか? こんなのでは読めませんよ」ったら、「いや、読めない筈はない。ちゃんと書いてあるじゃないか」と。「いや、だけれど、さぁっと読めないじゃないですか?」「まさにそうだ。これはさぁっと読んで、あ、わかった。次の頁へ、といってはいけないんだ。この人たちが一息一息生き、一歩一歩歩いたその足跡、息の跡なんだから、一言一言をちゃんと受け止めて、それを呼吸するように跡づけていかなければいけない」と言われたんですね。
 

 
ナレーター:  ナウエンさんは、この時、野村さんが絵を描くのと同じ筆で、文字を書いていたことに深い意味を見出していました。野村さんが描いた絵は、見る人の心に、師父母たちの生き様を直接訴えかける力を持っていました。そして同じ筆で書かれた文字も、単に思考を伝えるための道具ではありませんでした。手書きの文字それ自体が、言葉の意味とあいまって、師父母たちの信仰を人の魂の深みにまで届ける力を持っていました。そのことにナウエンさんは気付いていたのです。ナウエンさんの勧めで本作りに取り組んだ野村さんは、アメリカ滞在を一年延ばし、師父母の言葉を原語から訳し直します。その仕事のさなか、ナウエンさんは大学を辞め、司祭として南米に行くという話を聞きました。
 

 
浅井:  野村さんにとっても、授業の中で読み続けたこの師父母さんの言葉というのは、学問として学ぶというものとはちょっと違うものだったんですか?
 
野村:  明らかにそうですね。初めは勿論そういう構えでした。しかも、キリスト教がローマで公認された頃のものというと、小難しい歴史の話から、神学用語いっぱい出てくるんだと思う。ところがほんとに裏をかくというか、それを読んでみると、アッというぐらい人間的なその人たちの気持が伝わってきるんです。「あ、わかるなあ」という気持がするんです。その頃、週末になるとニューヨークまで二時間ぐらいですから、イースト・ハーレムの教会へ行っていた。そうしたら、〈あそこの人たちと変わらないんじゃない〉と感じたんです。そうだよね、みたいな感じというのがある。ある意味でいうと、その砂漠に行って生活の中から吐き出された言葉なんだけれども、誤解を恐れずにいえば、〈あ、ハーレムは砂漠なんだ。そこでギリギリのいのちを一生懸命受けている人たちが吐き出す言葉と、彼らの言葉が響き合うのは当然だな〉と思ったんですね。
 
浅井:  ナウエン先生のお勧めで、これを本にしようというふうにおなりになって、その時に、原語からというか、古い本からもう一回ご自身で訳し直されたそうですね。
 
野村:  そうですね。それが可能になった理由というのは、イェール大学にその原本があったんです。それはそれこそ千六百年前からの話が、ずっと修道院に写本の形で伝えられていたわけです。あるのはわかっていたけれど、一般にはなかったのが、十九世紀の半ばになって、当時のローマ教皇が、パリ大学のジャン・ポール・ミーニュという先生―彼も修道士です―に命じて、「全部それを印刷しろ。そして一般の人でもアクセスできるようにしろ」というんで、彼は、ギリシャ語で伝わってきたものの全集と、ラテン語で伝わってきたものの全集―それがパリ大学で十九世紀の半ば頃―ちょうど明治維新の前後の頃ですけれども―初めてトータルな形で出版されたんですね。きっと奇特な方がいて、これは大事なものだから、というんで、それをセットで買って、イェール大学に寄付したんですね。それで大学の中央図書館で司書の人が捜してくれたんです。何気ない本棚の脇のところに、その全集だけを百科事典のように集めた別の本棚があって、「ああ、此処です」と捜して教えてくれたんです。そうしましたら、本のページがくっついているんです。今はそういう本はないですけど、向こうではたまにはあるんです。要するに全部畳んで、本を閉じたまま裁断していないんですね。それを切るのがペーパーナイフなんです。真っ新なページを僕が初めて読むんだ、という。こんなことしていいのかなと思ったけど、「勿論当然です」と言って、許可してくれた。
 
浅井:  明治になる頃の本ですね。
 
野村:  逆にいうと、僕は手に取るまで誰もそれを読んでいなかったわけです。誰かが寄付して置いてあったけど、誰も触ってもいなかったんですね。そういうわけで、それをとにかく英語にさせてもらったということです。その本の中から、どれを選ぶか、といった時に、いろんな選び方があると思うんです。歴史的に大事なものだとか、有名な話は押さえるとか、それもいいけれども、僕は是非ハーレムのホームレスの人に手伝ってほしくて、こっちで二百ぐらいの話を選んで、それを「Yes」「No」でその人たちに訊いていったんですね。「これ読んでこれどう思う?」「あ、そういうことってあるのよね」とかいってくれると、「yes だよね」といった具合にそれを集計して、その結果がこの本になったものなんです。
 
浅井:  支持が高かったものを集めたわけですね。
 
野村:  そうです。今でも顔を思い出しますけど、ホームレスにいたおじさん、おばさん、ああいう人たちが一生懸命の生活の中から、「それってわかるよ。響くよ」と。いい意味でいうと、昔の師父母たちと彼らがなんかスピリチュアルの中で交流している、という。だからそういう意味でも、この話は古くない。今、ほんとに僕が感動したのは、彼らの言葉が僕を通り抜けて、その人たちの生き方に力を与えている、という。
 
浅井:  その翻訳の作業と絵をもう一度書き直すというような、そんなお仕事をしていらっしゃる頃、ナウエン先生はイェール大学を離れたんですね。
 
野村:  大学を辞められたことを知らなかったんです。みんなが驚いて、「え! どうして辞めちゃうの?」「何があったの?」と、僕が彼と近しいことを知っている人は、僕のところに連絡してきて、「お前なら、ほんとにことを知っているだろう?」というんです。だけど、「僕、何にも聞いていないし、知らない」というぐらいに驚いたんです。その時、僕は、「あ、先生はもっと砂漠の奥深くへ行くな」と思ったんですね。例えば、アントニオスという人にしてもそうですけれども、砂漠へと逃れて行くわけですね。そこでそうやってスピリチュアルな生活をしていくと、今度街から彼を慕って、噂を聞いていろんな人が会いに来る。それで「アドバイスくれ」「家に来てくれ」とか、なんだかんだ言われると、またアントニオスという人の場合は、またそこを去ってもっと砂漠の奥へ奥へと、三回ぐらいずっと逃れていくわけですね。僕はイメージの中では、ちょうどヘンリ先生が、ここにきたけれども、さらにほんとに魂の根底を支える本物を求めて、「あ、また先生は砂漠の奥へ行くな」という感じがしたんですね。そんなことでイェールのほうではお別れパーティとかいろいろあったんですけど、僕はこの仕事もあったし、もの凄く心の安らかなこともあって、そこへ行ってみんなで誉め言葉を言ったり、「先生、あら残念」「あら、凄いわや」というのも、ちょっと僕自身が精一杯で耐えきれないと思ったから、僕は静かに仕事をしていたんです。そうしたら、ある時電話がかかってきて、パッと電話を取ったんです。そうしたら、「あ、祐之、君、そこにいるかい」というんですね。「電話だもの、いるでしょう、答えていますよ」と言ったら、「Do you remember me?」と、明らかにヘンリ先生の声なんです。「僕のことを覚えているか?」というんです。「ええ、どうしたんですか?ヘンリ先生」というと、「あ、僕のことを覚えてくれているんだ」というんで、これはちょっとおかしいぞ、と思ったんです。「ちょっと待っていてください! 今行きますから」と。とにかくとるものも取り敢えず行ったら、彼が家のキッチンの方のドアがちょっと開いていたんですが、ひょっと見たら、茫然と立っているんですね。しょうがないから、「失礼します」と言って入ったら、どうしようもなく、手を出そうとしたら、彼はグァッと抱きしめて、「祐之!」と言って、目をちょっと滲ませているんです。こっちはなんだかわからないから、何か途絶もないことが起こっているな、と思ったんです。それからお茶を入れてくれて、いつものようにという感じで、お茶を飲みながら話していたら、「みんなが僕が一旦去るとなったら、あんなにイェールの人たちが僕のことを思ってパーティしてくれた。その時みんなにいいこと言ってくれる中で、僕は幻を見てしまった」と言うんです。それから「僕がいるところで、みんなが周りで歌を歌って、ダンスを踊って、わぁっと歓びの声をあげてくれて、声の高まりと同時に、みんなが踊る土煙がわぁっとなって、それがさっと落ち着いたらそこには誰もいない。僕ひとりが荒れ果てた地の真ん中に一人立っていた。あんまりの恐怖心で君のところへ電話した。もしかしたら君も居なくなっちゃったんだないかと思って」と言うんです。「先生、砂漠にいたんじゃないですか。僕も砂漠にいましたよ。それぞれにそれぞれの砂漠にいたんですよ」と言ったんです。そうしたら彼がもの凄く目を輝かした。「あ、そうだね。僕たちはそれぞれなりに砂漠にいるんだね」と。それでその後彼はペルーにサッと行くわけです。そういうわけで、「あ、やっぱり彼は砂漠を求めて行ったな」と思ったんです。
 

 
ナレーター:  ある哲人が聖アントニオスに尋ねて言った。「師父よ、書物に親しむ喜びを取り上げられた生活で、どうしてそんなに楽しくしていられるのですか」。アントニオスが答えていった。「わたしの本は、哲人よ、神の創られたこの大自然。神の御言葉が読みたいときは、いつも眼前に開かれている」。
 
師父アントニオスが語った。「人々が皆おかしくなってしまうとき、おかしくない人を見かけると、挑みかかって言うだろう。『変な奴だな、お前さん。俺達みたいじゃないからな』」。
 
ある日、師父アルセニオスは年老いたエジプト人に考え事の助言を請うた。それを見かけたある人が彼に問いかけこういった。「師父アルセニオス、ギリシャとローマの大いなる知識に通じた方なのに、農夫に知恵を借りるとはいったいどうしたことですか」。彼は答えてこういった、「おっしゃるとおりギリシャ語とラテン語を駆使して知識を修めはしたが、このお百姓さんのイロハすら、いまだ知らずにいるんだよ」。
 
教授としての名声より神から与えられた使命を求め、ナウエンさんは一司祭としてペルーに赴任します。南米の貧しい人々に仕えることを使命として感じたからでした。しかし、言葉や文化の壁に直面して挫折。アメリカに戻ったナウエンさんは、目の当たりにした南北アメリカの格差の現実を人々に伝えることで、自分の使命を果たそうとします。しかしそれは容易には受け入れられませんでした。失意の中、道を探し求めたナウエンさんは、三年後ようやく自分のいるべき場所を見出します。カナダ・トロントにある障害を持つ人と共に暮らす共同体「ラルシュ・コミュニティー」でのことでした。ナウエンさんはそこで司祭としてだけでなく、介護者としても働くようになりました。これまでの経歴が役に立たない仕事。しかしそこにこそ探し続けた神からの求めを感じていたといいます。
 

 
浅井:  ナウエン先生は南米のスラムで宣教をなさる。で、一司祭としてラテンアメリカに行くというのは、それは何故そんな選択をされたんだと思われますか?
 
野村:  きれい事でいうつもりはないですけれども、僕のイメージの中では、彼は、「良い悪い」とか、「素敵かどうか」じゃなくて、愛さずにはいられない人だったと思うんです。「愛する」というのは、自分のためにこう相手を愛するというのではなく、自分を捧げ尽くすというか、give and give ですよね。無条件に愛する、という。
 
浅井:  それは人気教授として、みんなからは愛されていますよね。
 
野村:  そうですね。
 
浅井:  尊敬もされている。それではいけないということですか。
 
野村:  それは全部こっちに還ってきてしまうわけですよね。無条件に捧げ尽くすような愛というのが見出せなかったと思うんです。その南米に行った時には、彼が「イエール」の「イ」の字も知らないだろうし、アルファベットだって読むのが得意じゃないかも知れない。で、そういう中で、「ヘンリ ナウエンさんが何様か」という人は全然いないわけですよ。だから僕のところに書いてくれる手紙にも書いてありましたけれども、「子供たちが寄ってたかって木登りみたいによじ上ってくるし、酔っぱらいに絡まれるし、それだけフッと聞いていると酔っぱらいがもの凄い深い質問をして、人生の機微なんかをぽっと言ってくる」ということを書いていますね。それってやっぱり砂漠の師父母たちと同じ鋭さ、一所懸命生きている、そこから出てくる言葉というのを、彼なりに感じとっているわけです。そういうふうに真剣に一生懸命生きている人たちというのと、彼の真剣さとが互角に出会うというか、彼の肩書きがどうかとか、本を書いたとか書かないとか、そんなこと一切抜きです。だけど神父さまとしてちゃんとミサをたててくださる。そして罪の告白に、罪の赦し、お祈りをしてくださるということでは無条件で尊敬した、と僕は思うんです。それからやっぱりカトリックの神父さまというのは、圧倒的な存在ですから、友だち同士になり切ろう、自分の弱味すら見せよう―わざとではないけど自然に見えてしまうような時になると、向こうのほうからとんでもない、というものを感じてしまって、ほんとの彼自身になり切れないというか、そこまで自分をgive というか、捧げるというか、与えきれない、という。それから言葉の点で、彼は五、六カ国語を話しますけれども、スペイン語というのは、それに加えてさらに新しい言葉です。これは僕と比較しちゃどうしようもないんですけども、僕はハーレムの時もそうですけど、英語がわかればハーレムでみんなと会話できるか、或いは溶け込めるかと言ったら、それはとても溶け込めませんね。学校で習った、或いはちょっとした白人のお洒落な英語でしたら、そのことによってある種警戒心というんじゃないですけれども、なんか心許せないような距離感をおいてしまう。じゃ、変な言葉、スラング使えばいいかといえば、それはもう正反対です。その使い方がとんでもないことになりかねない。という意味でいうと、何語というんじゃなくて、彼らの言葉を話せる。彼はきっとそのことにはもの凄く苦労したと思いますね。近付こうとすればするほど、やっぱり近付ききれないものが見えてくる。結局彼が最後にそれを見出した場所というのが、カナダのトロント郊外の「ラルシュ・コミュニティー」だったと思います。そのラルシュのメンバーの人たちとの出会の中では、今まで彼が誰であるかということ、例えば南米の場合は、彼が神父さんであるということ。それは向こうの人たちも神父さまということで接したわけですけれども、ラルシュのメンバーの人にとっては、神父であろうと何であろうと、そのこと自体ある意味でどうでもいいことなわけですよ。ですから、結局ヘンリがヘンリとしてあること自体、そしてそれも彼が何でもできるスーパーマンならいいんじゃなくて、如何にどこかぎこちなくて、どこかぶきっちょうで、どこかダメ、と。ある時は笑われながら、そのメンバーの人に「そんなおむつのかけ方あるか!」と怒られながらも、一生懸命その人のおむつを替えていくというような仕方で、徹底的に仕えるということ、ほんとに誰かがそこで見て、どうという評価抜きに、その時の自分が感じたまんまに応えていくというような仕方で生活していらっしゃる様子が見えましたね。
 
浅井:  お訪ねになられた時に?
 
野村:  訪ねた時も。それからある意味でビックリしたのは、神父さんが四人いるんですね。「今日、ミサがあるよ」といって、いつもヘンリがやっているんですが、「あれやりたい」という人がいると、「ハイ」といって、服着てもらって、それでミサのやり方では―でもそれはちゃんとした正式のミサですから―彼が横について、「ハイ、じゃ、ベル鳴らして」とか、「じゃ、今度はどうして」と、きっちりアシスタントとしてアシストしながらやらせるんですね。「ミサって、素人にさせていいもんなの?」と思われるんですが、しかしそこにカトリックの司祭がいる時は、その司祭の責任で物事が行われるんですね。彼はそのルールをウンと広くとって、自分が徹底的にアシスタントとして仕える者として―司祭というのはみんなに仕えられるものでなくて、徹底的に仕えるものとして、神さまに仕えていく、という。やっとそういう場所をあそこに見出しつつあったんじゃないかなあと思います。そして、砂漠の師父母というのは、まさにこの世俗の世を捨てて、まっしぐらにその根底に捧げられて生きる。そのことを求めていった人じゃないんでしょうか。ナウエン先生は限りなくそこに届いていた、と僕は思っています。そういう意味で、彼は僕に取って師父(アバ:Abba)だと思うんです。
 

ナレーター:  野村さんとナウエンさんが生み出された『師父母の言行録』は、その後八カ国語に翻訳されました。特にこの三年間で、ナウエンさんの故郷オランダ、中国、ポーランド、イタリア、日本、合わせて五つの言葉に訳されています。本作りを終え、日本に帰国した野村さんとナウエンさんとの交流は、太平洋を隔ててその後も続きました。しかし一九九六年カナダのラルシュから故郷オランダに旅したナウエンさんは、突然の心臓発作を起こし、六十四歳でこの世を去りました。
 

 
野村:  唐突な出来事でした。その時僕は、「ああ、残念!」、勿論残念ですけども、思ったことが二つあったんですね。というのは、思い起こせば、その亡くなる二ヶ月ぐらい前だったんですけど、連絡をくれて、「この本をもう一度二人でやろうよ」と。ところが、翻訳をしたテキストがあるし、これを新しくするわけにいきません。これは千六百年の歴史のある。それから僕に新しく解釈し直して絵を描けって言われても、これ以外のものはそうは出てこないから。だけども、「僕と一緒にやろう」と言ったんです。
 
浅井:  もう一度砂漠の師父母たちの言葉を?
 
野村:  この師父母たちのスピリットを今の人たちに分かち合うのに、「二人でもう一回新しい形でやってみよう」とだけはおっしゃったんです。その時は安請け合いじゃないんですけども、「ああ、素敵だなあ」と思うと同時に、ただ先生はこれを喜んではくださっていたんですが、これより先の何かを見ているな、と。じゃ、それにご協力できるんだったらその話に乗ろう、みたいな感じです。でも結局それはそれっきりになってしまいましたから。先生が一体これに何を見ていたのか? 明らかにこの師父母たちの生き方、それからその精神というのが、ある意味で今の時代にこそ必要だということはもの凄くわかるし、彼はそのことを少なくとも言っていたと思うんです。それからもう一つは是非日本に来たい、とおっしゃっていた。実に細々(こまごま)したことまでおっしゃって、「どっかの講演会だとか、どっかに招かれて講義をするというのではなく、とにかく君に会いたい。君が僕を連れて行きたいという場所に連れて行ってくれ。そこで観光旅行して歩くんじゃなくて、そこに坐ってじっくり話がしたい、或いはそこで君が紹介する人たちとじっくり出会いたい」と言っていたんです。僕は、それだったら成田に着いたら飛行機で九州へ連れて行って、屋久島へ行って屋久杉の前で二人で沈黙のうちに坐って、あの屋久杉のいのちの存在を感じられたらとか、勝手なことを考えていたんですね。カトリックでもいらっしゃるし、是非その後はキリスタンの遺跡と長崎の被爆地に一緒に坐ってみたいとも思った。こっちの夢は広がりながらも、あんまり積極的にそのことを提案はしないでいた。当然その日はくると思ったし、そんなの忙しく押っついてもしょうがないとも思いました。それもすべたは夢に終わってしまったというのが、残念というか、なんか彼が残していってくれた宿題で、やはりこれに関わらせて頂いた者として、一つのヘンリ先生の今の現代人、日本に住む、東京に住む者としては、この源に日本のことが、ある意味で橋渡しをしながらも、この師父母たちが生きて生活した場、そして今もその後を継いでいる人たちがこの生き方をしている場所へ行ってみたいと思ったんです。そしてそのチャンスが与えられて、この春にエジプトの、というよりも、まさに修道院があった場所を、ずっと今でも継いでいるその修道院を訪ねることができました。司祭の方に、「こんな本を作ったんですよ」と言って見せたら、「僕、この物語知っている!」「あ、これも!」「いやぁ、これは僕たちのこの場所から、この師父が住んでいたのは、君、あそこだよ!三十分かからないで行けるよ」「ここに住んで、アバ・モーセはあそこの修道院に遺体が安らいでいるよ」というふうに言ってくれたんです。
 

ナレーター:  師父シソエスが語った。「神を求めよ。いずこに神が住むかではなく」。
 
三月、野村さんが訪れたエジプトには、師父母たちの精神を今に生かそうとする人々が、修道生活を送る共同体が生まれていました。砂漠に暮らし、共に働き、共に祈る修道の場・アナフォーラ。神さまへの捧げものという名前が付いたコミュニティです。修道士だけでなく、神との対話を求める人々を広く海外からも受け入れています。そのアナフォーラの毎朝のミーティングで、野村さんとナウエンさんが作った本から、師父母の言葉が一日に一つずつ読まれることになりました。この日は断食の決まりを破って旅人をもてなしたアバ・モーセの話でした。
 
     これは、平成十八年六月二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである