人生の座標軸をもとめて
 
                  東北大学名誉教授 宮 田  光 雄
一九二八年高知県生まれ.一九五一年東京大学法学部政治学科卒業。現在東北大学名誉教授。一九六○年ドイツ留学。政治学・ヨーロッパ思想史専攻。東北大学で教鞭を執る傍ら、昭和三十二年から、三十数年来学生のための聖書研究会と読書会を主宰。昭和四十七年自宅敷地内に学生の寄宿舎「一麦学寮」を建てる。平成四年退官。主著に「西ドイツの精神構造」「ナチ・ドイツの精神構造」「政治と宗教倫理」「平和の思想史的研究」「十字架とハーケンクロイツ」「現代日本の民主主義」「メルヘンの知恵」「キリスト教と笑い」「きみたちと現代」「生きるということ」「いま人間であること」「大切なものは目に見えない」「われここに立つ」「ボンヘッファーを読む」「権威と服従」「同時代史を生きる」など多数。
                  き き て    浅 井  靖 子
 
ナレーター:  緩やかな坂が続く仙台市郊外の住宅地。ここに昨年春その歴史を閉じた学生寮があります。「一麦学寮(いちばくがくりょう)」。聖書の言葉、一粒の麦から名付けられたこの寮では、半世紀の歴史を持つ学生のための聖書研究会が開かれていました。今もその会を巣立った人たちの集まりが、同じ敷地にある住宅で続けられています。参加するのは、教育や医療の現場で働く人、定年を迎えた人などさまざまです。学生時代、人生の道しるべを得たこの場所に、今も毎月一回集います。会を主宰するのは、東北大学名誉教授宮田光雄さん。ヨーロッパ政治思想史の専門家です。クリスチャンである宮田さんが、自宅に集まる学生と聖書を読むようになったのは、五十年前のことでした。以来、二千人近い学生たちをこの会から送り出してきました。
「宮田聖書研究会」と呼ばれるこの会を、宮田さんは妻の通子さんと一緒に運営してきました。聖書を読む会だけでなく、人生の指針となる本も読む読書会も行ってきました。今みんなで読んでいるのは、ドイツの神学者のテート(ハインツ・エドゥアルト・テート:1918-1991)が書いた『ヒトラー政権の共犯者・犠牲者・反対者』。ヒトラーが独裁とユダヤ人排斥を強めていく時代、教会やキリスト者がどう行動したのか。政権に協力した人や抵抗運動を闘った人々の歴史を詳述したものです。生きる意味を探求し、時代にどう向き合うかを考える参加者にとって、この場所は今も昔も自分の生き方を確認する場所となっています。
 

 
浅井:  もう先生の読書会を巣立った方々というのは二千人を超えるそうですね。
 
宮田:  そうですね。昔は毎日曜日やっておりましたから。そして噂を聞いてやってくる人たち、一回だけで止める人もいたでしょうから、座っただけという人を勘定すると、二千人ぐらいにはなるんでしょうか。無論勘定したことはありませんが。ただもう私たちも歳を取りましたので、昨年の三月には寮を閉じまして、今、集会としては、毎月一回の読書会をしているだけです。そして参加している人たちも、もう現役の学生はすっかりいなくなって、かつての仲間たち、年齢で言いますと、もう六十近い方から一番若い方でも三十代の半ばぐらいの人たちでして、一種の同窓会であると言ってやっております。
 
浅井:  今、読書会で先生の読んでいらっしゃるのがお手元にありますけれども、神学者のテートさんがお書きになった『ヒトラー政権の共犯者・犠牲者・反抗者』という、このご本だそうですね。
宮田:  そうです。テートさんというのは、私より十歳ぐらい上の先輩でもあり、また研究上の私の先生でもあるわけなんですが、元ハイデルベルグ大学の教授をしておりまして、この書物はテート先生の最終講義なんです。我々の現代日本の問題にもとても通底するところがあるものですから、みんなも関心を持って一緒に読もうということになったわけです。このテートさんの本は、いわゆる歴史書ではないんです。つまり歴史的な経過を一つ一つ追っていって書いたものではなくって、むしろ『ヒトラー政権の共犯者・犠牲者・反対者』という書名が示しておりますように、政権に対して協力していった思想家とか哲学者とか、そういう人たちがいますね。それに対してユダヤ人のように犠牲になった人もいるし、しかも逆に教会闘争とか、ボンへッファー(1906-1945)、バルト(1886-1968)に代表されるような反対行動をした人たちもいる。そういう人たちが、状況をどのように捉えていたのか。何故ある人は協力し、何故ある人は反対に踏み込んでいったのかという。副題が「内面史ために」という題が付いているんですが、ある状況に立たされて、ある人がある決断をする。いろんな選択肢がある中で、その時にどういう動機付けがその人の選択を可能にしたか、ということを分析しているんですね。そういう意味では、私たちが日本の問題を考える場合にも、非常に直接的に自分自身の反省をするための手掛かりを与えてくれるというところがみんなの興味を惹いているんだと思います。
 
浅井:  先生が主催されてきた聖書研究会、読書会というのも、そういうある局面で「如何に生きるか」ということを目的に?
 
宮田:  最初はそんな大袈裟なことをまったく考えていませんでした。私は、仙台にまいりました時、二十七歳でした。だから大学では一番若い助教授だったわけですね。私の当時の講義なんかは実に内容もお粗末だったと思うんですけれども、若さの故に若者が寄ってくるんですよ。講義の後でお話をしていたのが、「それじゃ自宅へ来い」ということになって、自宅にも集まるようになり、そうすると徹夜で人生談義、政治談義をする、という過程が出発点なんですね。そしてやがて、私自身の立脚点はやっぱり聖書にあるということで、一緒に聖書を勉強してみるか、というようなことから始まった。最初は月一回ぐらいのかなり自由な放談会だったんですが、やがてもっとコンスタントに勉強しようかということになって、聖書を学ぶ会と読書会を併行してやるようになったんですね。
 
浅井:  それは信仰を持っている人、持っていない人にかかわらず参加なさって、キリスト教の信仰に入るということを目的にした会ではなかったんでしょう?
 
宮田:  それはハッキリしています。私自身は特に自覚的に宣教活動というような、改宗者をつくるというような、そんな目的意識は持っていませんでした。だから特定の信条宗派にこだわらないで、むしろ人間として真剣に生きる生き様を探求するということでした。私の理解によれば、聖書におけるイエスのメッセージというのは、いわゆる当時ユダヤ教で起こった改宗運動―改宗者をつくるという運動ではなかったと思うんですね。聖書の言葉では、「メタノイア」―悔い改め、と訳されるんですけれども、むしろ人生の根本的な方向転換ということを呼び掛けていると思うんです。そういう意味では、私たちがここの読書会や聖書研究会で学んだことと共通している。私たちもまた自分の真のアイデンティティを発見するために、今の生き方を全面的に転換して、自分自身というものを新たに発見しようという、そういう動機付けがあったわけですね。ご承知のように、この団地はとても坂道が多い団地で、「自転車を押してこの坂道をあがってくるのは気が重い」と、みんないうんですが、それが午後二時から五時まで読書会を済ました後は、「実に気持が軽くなって帰っていける」と言ってくれるんですね。それはとても嬉しいことでした。
 

 
ナレーター:  長く東北大学法学部の教授を勤めた宮田さんの専門は、ヨーロッパ政治思想史です。ヨーロッパのデモクラシーや国家体制を生み出した政治思想の変遷に、キリスト教がいかに影響を与えてきたのか、その関係を探求してきました。歴史学や政治学のみならず神学、哲学、社会学など、多彩な領域の資料を読み込み、丹念に分析していくという研究スタイルを貫いてきました。宮田さんが、特に力を傾けてきたのはナチズムの研究です。未曾有の悲劇を引き起こした全体主義国家が、ルター(1483-1546)を生んだドイツに何故誕生したのか。宮田さんにとって、研究とキリスト者としての信仰は、常に分かちがたいものでした。また社会科学者の視点から、戦後民主主義についてさまざまな発言を行ってきました。それもキリスト教との出会いなしにはありませんでした。宮田さんがキリスト教と出会ったのは、敗戦後間もなくのことでした。戦争末期、故郷高知から大阪の軍需工場に動員された宮田さんは、度重なる爆撃を生き延びます。敗戦後、宮田さんは、授業が再開された京都の第三高等学校に戻りました。それまでの価値観が崩壊するなか、生きるべき道を求めていた宮田さんは、同志社大学の栄光館で開かれたあるキリスト者の講演会に足を運びます。
 

 
宮田:  「彷徨から信仰へ」と題する講演会がありまして、何となくその題名に惹かれて友人と一緒にそこを訪れたんですが、それがキリスト教とのまともな出会いの最初でした。ただ今から思うと、まったく変なんですが、そのお話の中身はあんまり覚えていないんですね。そうじゃなしに、むしろその時はじめて聞いた栄光館のパイプオルガンの素晴らしい響きにとても感動したんですよ。文字通り自分の身体を貫くような、そんな感動がありました。その時歌われたのは有名な「主よ御手(みて)もて 引かせ給え」という、『讃美歌二十一』の五○四番だったと思いますが、その讃美歌でしてね、言葉も素晴らしくいいんですけれども、特にメロディーが「魔弾(まだん)の射手(しゃしゅ)」というオペラの序曲の有名なメロディーなんですが、今でもそれは私の愛唱歌の一つになっていまして、忘れがたい思い出なんです。だから私は若い人たちと話していて、「キリスト教に出会う出会いというのは、少しも固定的なものではないよ。讃美歌に惹かれて入信する人だっているんだよ。僕がそうだったよ」と、いつも話すんですが。
 
浅井:  先生、そのパイプオルガンの音、あるいはその讃美歌にもの凄く心を惹かれられたのは、何故だったんでしょうか。
 
宮田:  そうですね。私は一九二八年六月四日生まれなんです。これは日本近代史にとって、ある象徴的な日なんですよね。つまり「満州某重大事件」といって、張作霖(ちょうさくりん)が関東軍によって爆殺されるという事件が起こったんですね。それがつまり日本の大陸侵略の、その後「十五年戦争」と言われるようになった日中戦争の遠い原因になるんですね。だから私どもの幼少年時代というのは、まさにそうした日本の侵略に彩られた軍国主義時代というもので覆われていました。私が中学一年生の時に太平洋戦争が始まったんです。そして大阪にある軍需工場で生産活動をさせられるという体験をしました。その間に爆撃もあり、そして結局作業が出来なくなって、今でも忘れられない情景は夜中に貨車に乗せられまして、
 
浅井:  それは工場が爆撃された後ですね。
 
宮田:  そうそう。工場から四国のほうに帰って行くその周辺がボウボウと燃えている。そういう中で命からがら郷里に帰ったという体験もあります。そういう意味では戦争という体験が私に全く違った世界に対する憧れを植え付けていたんだ、と思いますね。当時は私の記憶では、パイプオルガンというのは日本全国でも数カ所しかなかったというような時代でして、私自身パイプオルガンというのは、生まれてはじめて聞いたんですよね。耐乏に次ぐ耐乏で苦しんでいる、そういう人生体験しかしていなかった者にとって、まったくそれを断ち切る、天なる世界というか、「ヒンメルスブラウ」という僕の好きな言葉があるんですが、「天上の青」という、特別のある世界を予感したんですね。
 

 
ナレーター:  宮田さんは、聖書の注解書を買い求めては寮の自室に籠もって毎晩一章ずつ読むことを何よりの楽しみとするようになりました。中でも惹かれたのは、聖書に貫かれた平和主義や隣人愛という考え方でした。食糧難のためしばしば帰郷していた宮田さんは、故郷の伝道所で洗礼を受けました。そこで年輩の伝道者を手伝って、信仰者の輪を広げていく中で自らの求道を続けました。一九四八年、宮田さんは東大法学部に入学します。まだ焼け跡が残る東京では、新しい時代の都市作りの計画が進み、前年には日本国憲法が施行されていました。当時東大総長だった南原繁(なんばらしげる)の総長演説は、平和憲法に基づいた国家建設の理念を訴え、しばしばニュースにも取り上げられていました。内村鑑三(うちむらかんぞう)に学んだキリスト者であり、政治学者でもあった南原繁との出会いが、宮田さんの人生の方向を決めるものとなりました。
 

 
宮田:  多くの『総長演説集』が書物になって出ていまして、私も尊敬を持って読んだんですが、その中に『祖国を興すもの』というのがあります。その中で戦後の新憲法を、平和憲法の意義について論じた講演が載っていました。今でも私は忘れられないのはその中の次の言葉でした。
 
今次の戦争で日本が学んだものは、実に「剣(つるぎ)をとって起(た)つ者は剣によって滅びる(マタイによる福音書)」ということである。今や我々は過去の軍国主義と極端な国家主義とを断然払拭しなければならない
 
という言葉だったんですね。これは私の心を強く打つものがありました。すなわち、そこには軍国主義批判というものがあり、しかもそれを支えるものとして、当時私が導かれていた聖書の御言葉があったわけでして、私のこれからの生きる指針として、非常な力付けになったといっていいと思います。私にはとても幸いだったのは、南原先生の最終講義の年に当たっていたんですよ。元来、東大総長は、講義が免除されるものだそうなんですが、南原先生は、講義をなさることが非常にお好きでしてね。だから総長のお仕事をなさりながら自分の授業もきちんと持たれていました。その年が最終講義だったということが、私の人生にとって、ある意味で偶然ですけれども、決定的な出会いを意味していたわけです。先生の講義内容は、『国家と宗教』という、先生が敗戦直前に出されて、日本語で書かれたヨーロッパ政治思想史の金字塔ともいうべき書物です。そこに貫いているのは、ヨーロッパ思想史を貫く一番重要なガイドラインは、権力と精神との対決である、という構図でした。
 
浅井:  その「権力と精神の対決図式」というのは、それはどういう?
 
宮田:  我々、今日、「デモクラシー」という政治制度のもとに生きているわけですが、デモクラシーの憲法というものを構成しているのは、それは「権力対人権」という構図ですよね。実はヨーロッパの政治思想史の長い長い歴史的な系譜の中で、はじめて成立したといっていいと思うんですね。「国家権力というものは、人間の内面世界に対して介入してはならない」という。「人間の内面的世界、精神的世界というものは、神さまにのみ関わる独立無二のものでなければならない」という、そういう考え方があるわけです。そういう伝統が、私の理解では、原始キリスト教以来連綿としてあったと思うんです。特に中世を特徴付けていたのは、教皇権(きょうこうけん)と国家権力が対立していた。つまりただ単に抽象的に、精神の世界に対して、権力は介入してはならないというんじゃなしに、むしろ教会と国家というものが制度として並立していた歴史が、一千年あったというのは、大きいと思うんですね。「精神というものは、そんなにも独立した、犯してはならない存在である」という価値感覚。南原先生が総長演説で、私たちに語りかけられたのも、まさにそのことだったと思うんですよ。南原先生は、講義をなさる時に参考書とかノートとか、そういったものを一切持参なさらない。そうでなくて、小さな名刺大の紙にお話の筋というか、項目を書いていらっしゃると思うんですが、総長演説もそうだったんですけれども、授業も同じで、それを見ながらお話をなさって、そのうえに先生は、ノートをとることを禁止なさるんですよ。「ノートをとると、ノートをとることに追われて、私の訴えたいガイスト(Geist:精神・たましい)を聞き逃してしまうから、ノートをとってはいけない」とおっしゃる。でも、やっぱり試験を受ける時にノートがないと困りますから、僕などは他の学生の背中に隠れて密かにノートをとったりしたんですが。
 
浅井:  先生ご自身も、その研究テーマとしてヨーロッパ政治思想史を選ばれたのは?
 
宮田:  私は当然南原学派の一番の末端なんですけれども、南原先生はドイツ哲学を非常に高く買っておられる。しかもその中で、カント(ドイツの哲学者:1724-1804)をとても評価しておられるんですね。私もだから南原先生の弟子として、ドイツをやろうということになったわけです。だからカントであるとか、ゲーテ(ドイツの文学者:1749-1832)であるとか、シラー(ドイツの劇作家・詩人:1759-1805)であるとか、近代ドイツは非常に優れた思想上の偉人を生んでおりますけれども、そのドイツに何故ヒトラーのような、ほんとに野蛮人のような人が、独裁者として民衆の支持を受けるというような事態が生じたのか、というのは、私にとっては、非常に関心が大きいところでした。だからそれを研究したいということで、思想史の道に踏み込んだわけです。
 

 
ナレーター:  一九五六年、宮田さんは助教授として東北大学に赴任、政治思想史や政治学の講義を担当するようになりました。二十七歳の若き研究者のもとには、学生たちが集い、やがて自宅の一室でともに聖書を読む会が始まりました。しばしば議論が深夜にも及ぶ学生たちとの日々、その一方で宮田さんは研究者としてナチズムの研究を深めていきました。政治や経済の成功を背景に、空前の全体主義国家をつくったヒトラー。宮田さんはこのヒトラーの演説に聖書まがいの言葉が使われていることに注目します。その支配が神の啓示であるかのようなプロパガンダが繰り返され、ヒトラーは絶対化され、神聖視されるようになります。「ナチズムは、国家が人々の精神に介入する政治宗教だ」という視点を、宮田さんは提示します。民衆はヒトラーに熱狂し、教会もまたその支配の元に統合されていきました。そんな中、覚めた目でナチズムに抵抗した人々が、「告白教会」と呼ばれる教会組織を結成、ドイツ・バルメンで、「バルメン宣言」を採択します。それは、「聖書の言葉のみを神の言葉とし、神以外の一切を神としない」という信仰を告白したものでした。このキリスト者たちの教会闘争に、宮田さんは強い興味を抱くようになりました。その闘争を担ったのが、現代を代表する神学者カール・バルト(Karl Barth:1886-1968)でした。「バルメン宣言」の起草者であるバルトは、地上のもの一切を絶対化しないという信念のもと、常に時局を冷静に見つめ、難しい闘争を指導していました。リアルな政治的態度を持ち続けたバルトに、宮田さんは惹かれるようになりました。
 

 
宮田:  バルト自身はスイス人なんですよ。スイスに生まれて、一九二○年代の初めに、田舎の牧師をしていたんですが、その人が、『ロマ書講義』という本を書きましてね、それがスイスよりもドイツ国内でもの凄く有名になったんです。それによって彼は、ゲッティンゲン大学の教授に招聘(しょうへい)されるということになるんですね。その後彼は、最後はボン大学に移るんですけども、そこでナチ政権が登場してきまして、バルトらしい抵抗を始めるわけなんですね。ナチスの政策で、「国家公務員はみな総統ヒトラーに対して絶対の服従の宣誓をしなさい」という命令が出るわけです。バルトは無条件の宣誓をすることを拒否しました。また授業を始める時に、学生に向かって「「Heil, Hitler(ハイル・ヒトラー)!」と言って始めなければいけないことになっていたんですが、バルトはいずれもしなかった。彼はその代わりに「ローズンゲン(日々の聖句)」を読みまして、讃美歌を歌って、そして授業を始めるのです。ローズンゲンというのは、ドイツでもう二百年近い歴史のある、敬虔なクリスチャンはみな使っているものです。命令を拒否した結果、当然懲戒処分になるわけですね。そして裁判になって、紆余曲折はあるんですが、結局文部大臣の命令で免職になるんです。そしてボンから追われて、彼はスイスに帰ってバーゼル大学の教授になるという、そういう過程があるわけです。そういうバルトのヒトラーに対する抵抗は、私にとって非常な関心と研究の対象でもありましたし、そしてさらにバルトを支えた彼自身の神学が私の信仰にとっても非常に大きい支えになることに気付いたんです。だからバルトなしには私の現代ドイツ史研究はなかった、ということは、研究者としても言えるし、信仰者としても言える。私は自分自身の信仰というものを、体系的に説明しようとすると、バルト神学というものなしにはできないという、それほどにまでバルトに傾倒している一人です。
 
浅井:  それはバルトのどういうところから影響をお受けになったんでしょうか。
 
宮田:  私はバルトの名前を初めて耳にしましたのは第三高等学校時代ですが、戦前から日本の教会では、バルトに傾倒する若手の牧師さんたちがかなりたくさんいたと思います。そのような時代に翻訳された説教集であるとか、あるいは『ロマ書』の抄訳であるとか、そういったものは私も手にしました。しかし当時の私の力では、なかなか判読するのが難しい難解な神学でした。「神と人間との断絶」ということを非常に強調したのが、当時の段階のバルトだったわけですね。「質的な断絶」という言葉を彼は使っていたんです。ところが私が東京に上京して、東大に学ぶようになった段階で、漸く第二期というべきか、むしろ晩年のというべきかわかりませんが、バルトのその後の仕事がいよいよ翻訳で私たちの前に紹介されるようになったわけですね。特にその中で一番著名なのが、ここにあります井上良雄先生の訳された『教義学要綱』という書物です。特にここで印象的だったのは、かつて『ロマ書講義』を書いた段階で、彼が示していた「神と人間との質的断絶」という側面がまったくなくなっていたんです。むしろイエス・キリストは、「神が人間になった」という受肉(じゅにく)の立場を中心にして、神の側からイニシアティブをとって人間の問題をご自分の事柄として取り上げてくださったという。人間の問題が、いわば冷淡に疎外されているんではなくして、神の恵みの視界の中に取り込まれているというのです。「信ずると否とに拘わらず」という言葉を、彼はしばしば使っています。「信仰する者も信仰しない者も、認める者も認めない者も、実はすべての人間が、あるいはすべてのいのちが、神の恵みの秩序の中におかれているんだよ」ということを彼は繰り返し強調している。そして、それこそ彼のいう「神の大いなる肯定」―「ニグロスヤゴッテス(Die grosse Ja Gottes)」ということの内容だと思うんですけれども。論理的にいえば、難しい問題ではあるんですが、私がとても興味を惹かれたのは、そういう神学の立場が論理的に転換したというだけではなくて、むしろそこにはバルト個人の「自分がほんとに神の恵みによって生かされている」という恩寵体験というものがとても働いていると思うんですね。バルトの教会闘争、さらに戦後の東西対立の「冷たい戦争」の時代のバルトの闘い、そういったものを支えているのは、単なる神学の論理じゃなしに、むしろ「神の恵みに圧倒されて生かされている」という、彼の生き生きした信仰告白が、彼を現実にそのように動かしているんじゃないか、ということに、私は感銘を受けたんです。
 
浅井:  宮田さんご自身、ドイツに留学されていた時代でしょうか、実際バルトにお会いになったご経験があるそうですね。
 
宮田:  ええ。私はドイツに留学する時には、バルトに会うということを考えていました。だから留学先もスイスに近い南西ドイツのチュービンゲン大学を選んだんです。一年ぐらい経ってから、少しドイツ語ができるようになってから、彼に連絡しましたら、会ってくださるということで、彼の自宅に招待されまして、会いに行きました。教会闘争時代のバルトの写真ばかり見ていましたから、非常に戦闘的で、キッとしたような、そういう表情のバルトを思っていたものですから、「ああ、こんなに変わったんだなあ」と、とても第一印象として驚きでした。ただ話をしていますと、やっぱりバルトは変わらんな、と思ったのは、歴史問題、現代問題、日本の問題も含めて、非常に鋭い質問を発し、また鋭い断定を下して話をされることについて、変わらないな、と思いましたね。二時間ぐらい時間を割いてくださって、非常な感激だったんですが、最後にいよいよお別れする時に、書斎から玄関まで送ってくださって、その途中で私が、「私のヨーロッパ留学の最大の目的は、あなたにお会いすることでした」と言ったら、バルトがそれこそ呵々と笑ってね、僕の肩をポンと叩いて、「なんとお安いご用でしょう」とおっしゃったのにはほんとに感激しました。先生のお宅を訪問した後で、彼の講義にも出るようになりまして、ドイツからバスで通って何回か聞いたんですが、階段教室で学生の方が高い方に座って、先生は一番下の演壇のところで上を見ながら話されるんですが、もう実にリラックスしたムードが支配的なんですよ。それは何故かというと、バルトが講義の間に即席のアドリブのユーモアを飛ばすんですよ。そのたんびにもうみんなが腹を抱えて笑うような笑え声が絶えない。それにはほんとに度肝を抜かれました。私もそれまで既に、バルトに対する『献呈論文集』の中に、「笑うバルト」と題する神学論文があって、凄く変わった論文の題名に惹かれて読んだこともあったんですが、ほんとにそこには現実に笑っているバルトがあったわけでして、バルトの持つ大らかさ、神の恵みに生かされている人の自由さ、そういったものを痛感しました。こうしたバルトの印象は、彼自身の政治行動全体を貫いていると思います。状況を見るリアリズム、そういったものを可能にしているのは、私はユーモアだと思うんです。神の恵みによって解放された者の持つユーモア。「覚めた目で」という言葉が、バルトがとっても好きな言葉なんですよ。「ニヒテルン」という言葉で、酔っぱらっていないという。僕もとても好きな言葉で、「ザッハリヒ」とも言っているんですが、当時のバルトが好んで口にした言葉に、「力強く、落ち着いて、ユーモアを持って」という言葉があるんですよ。これはとても素晴らしい。政治倫理の言葉として言えるだけでなく、私たちの人生の生き様としても、「力強く、落ち着いて、喜びを持って、ユーモアを持って生きる」というのは、とても僕たちには大きい力を与えてくれると思います。
 

 
ナレーター:  一九七二年、宮田さんはドイツ留学以来念願だった学生寮の建設を始めます。まだ貧しい学生も多かった時代、少しでも良い環境で学べるようにと、妻の通子さんと十年にわたって温めてきた夢の実現でした。「一麦学寮」の定員は六人。毎日の夕食を通子さんが作り、祈りや読書をともにしました。寮の集会室で開かれるようになった聖書研究会には、生きる指針を求める学生たちがさまざまな大学から集まり、多いときには四十人以上にもなりました。夏の修養会や春秋のハイキング、クリスマス会など行事も多彩になりました。宮田さん夫妻は、学生たち一人一人の発言に耳を傾け、その時期のその人に相応しい本を選んで手渡すことを続けました。大学紛争やバブル経済、そしてバブルの崩壊、学生たちは時代とともに変わっていきました。しかし宮田さん夫妻は変わることなく、それぞれの時代の学生が抱える課題と向き合い、ともに人生を探求してきました。聖書を読み、本との出会い、人との出会を共有する中で、一人一人が変わっていく、その姿を二人で見守り続けてきたのです。
 

 
宮田:  私の同僚などから、時々皮肉な批評として、「研究時間をそんなことに使うのは勿体ない」というような助言を受けたこともありますけれども、私はむしろ「生かされた」というか、そのことによって「自分の生活が豊かになった」ということに対する喜びと感謝というものが大きいように思います。決してムダではなかった。私は思想史家なんですけれども、乞われるままにある時期、例えばジャーナリスティックな活動も致しました。新聞雑誌にエッセイを書いたり、論文を発表したりしました。こういう時代批評の仕事というのも、実は学生との聖書研究会、読書会という出会いがなかったならば、やっぱりなかっただろうと思うんですね。つまり彼らに対して、乞われるままに、問われるままに、ある時点での態度決定を語らなければならない。そのためには調べ物もするし、自分の思想史研究の成果を、それに生かしたような評論を書きましたが、そういった仕事は、傍に学生がいなかったならば、たぶん怠けてしなかっただろうと思うんですね。私は、五十冊ばかりの本を書いたんですけれども、そういったものよりも、むしろ学生たちとともに過ごし、現に過ごすことを許されているほうが、私にとってのライフワークだった、というふうに言えるんじゃないかと思うぐらいです。
 
浅井:  人と人とが出会い、何かの力が働いて、ある人が変わる、お互いに変わっていく。ともにその場を共有するというんでしょうか、そのことというのは、目に見えるものとして言えるような成果は何もない営みですね。
 
宮田:  そうです。この聖書研究会―読書会よりもむしろ聖書研究会がそうでしたが、与えられたテキスト、いろんな角度からみなが議論するでしょう。三時間かけてここでやるんですが、盛り上がらなければいかんと思うんですよ。盛り上がるために私と妻とが事前にいろいろと、それぞれ手分けして勉強しているものがあるんですけど、それは注解書ではないんですね。文学体験というか、人生体験というか、そういったものの蓄積なんですね。参加している人の片言隻句(へんげんせっく)に切り結びながら、聖書のテキストの暗示している中身を、今いったような内容で膨らませていくわけです。それは素晴らしい体験なんです。だけども、それはそれで終わるわけですよ。何も残ってない。よく表現できないんだけれども、僕はここには何かがあるという、その盛り上がりの体験を通して、その手掛かりは何だったのか、と言えば、聖書なんですよ。だから聖書のテキストというものが、我々にそのような力を与えてくれる。人生に対する肯定的な見方、勇気を持ち希望を持って生きていこうとする力を与えてくれるという、そういう思いが残るんですね。
 
浅井:  その中で時代とともに、宮田さんご自身が学生さんに伝え投げかけることに、何か変わってきたということというのはあるでしょうか。
 
宮田:  私が出会った初期の学生というのは、非常に主体的な主張を持っていましたね。読書にしたって、こちらが指定などしなくても、自分からどんどん私の蔵書を借り出して読んでいたようなところがありました。だからそういう人に対しては、私も主体的決断を迫るという。己を主とするんじゃなくて、神を主とするという。イエスを主とするという。そういう言い方をよくしていました。だから自己主張ではなく、むしろ神の促(うなが)しに対して、神の招きに対して、己を捨てて決断して従っていく、という。そういうことを強調していました。それが大学紛争も終わり、八十年代になり、学生も非常にマイルドになってきますよね。むしろその中で、アイデンティティーを求める方向の中で、挫折体験をし、非常に彷徨う不安を持つ。そういう人に対して、励ますスタイルもやっぱり変わってこざるを得ないという側面がありましたね。だから、「お前の責任で決断せよ」というんじゃなしに、むしろ「大いなる神の恵みによって、僕たち一人一人のいのちは支えられているんだよ。そのことを受け入れさえすればいいんだよ」という。そういう意味での「根源的信頼」という言葉が、一種の流行語のように私たちの集会でも用いられるようになりました。
 
浅井:  それはバルトが神学の中で伝えていたような、「大いなる神の恵みがこの世に満ちている。信ずる信じないに拘わらず」という、そことも通底する。
 
宮田:  おそらく僕は通底していると思いますね。私たちの集会でモットーとしていた若者の目指すべき方向性というのは二つありまして、一つは、「真の自己の発見」というか、「自分のアイデンティティーを確立する」ということでしょう。もう一つは、「他者の発見」ということなんですよ。自分一人が生きている唯我独尊ではなくって、他者もまた自分も同じく、与えられたいのちを生きようとしている、と。切実な願いをもった主体であるということを発見する必要があるという。これはとても大事なことです。その二つをともに可能にするのは、僕は、よく考えれば、「神の恵みによって、僕たち一人一人が掛替のないいのちを与えられている」ということだと思うんです。そのことに対する感動というか、心から腹の底からの共感というものが、僕たちのアイデンティティーというものを支えてくれる力なんです。そして気が付いてみると、他の人も同じなんですよ。日頃は馬が合わないこの人も、同じく神さまによって個性豊かにつくられ、イエスさまによって差別なく愛されている、その当の当事者なんでしょう。それが他者の発見なんですね。口幅ったい言い方に響くかもわかりませんが、僕と妻とは私たちの集会に来る学生を、能力とか性格とか、そういったことで差別したことはまったくないんですよ。一人一人まったく平等なんです。ほんとにどの子も僕たちは好きだったんですよ。そのことは学生たちが気が付いていたと思うんです。ここではみなと差別されないという。特に珍重もされないけれども。だけどあの人は嫌いとか、お前は能力が劣っているから、と言ったようなことはまったくありませんでした。これはまったくみな平等でした。だからここへ来ると、みな解放されて、自由にものが言えたんですよ。それは僕は素晴らしいことだったと思います。
 

ナレーター:  今、昔からの仲間たちと、ファシズムに向かう時代を描いた本を読みながら、宮田さんは、現在との共通点が多いことを感じています。今の時代に如何に生きるのか。それはここに集う人、誰もの課題となっています。
 

 
浅井:  これまでナチズムの研究も含めて、歴史研究をしてこられたお立場で、今の時代をどう生きればいい、というふうにお考えでいらっしゃるでしょうか。
 
宮田:  私は、二つのことを言いたい。一つは、バルトの好きな言葉で、「最後から一歩手前の真剣さで真剣に生きる」という言葉をご紹介したいと思うんです。「最後から一歩手前」という言い方は、「究極以前」という意味なんです。だから「究極的なもの」というのは、「神の救いの恵みに預かっているという事実」、これが究極的なことなんですね。私たちが現に生きている社会の問題、歴史の問題、それすべて究極以前の世界なんですね。この地上の世界の出来事が、最後的な、決定的な事柄であるかのように思うと、そこでの勝ち負けというものに、もの凄くこだわるわけですよ。そして場合によっては自殺する、というようなことにもなってしまう。バルトはそうは言わないわけです。それは究極的な事柄ではないから、自分の運命がすべて決着するかのような、思い詰めた、そんな絶対的な態度決定ではない。だからそこで落ち着いて、ゆとりを持って、ユーモアを持って生きていこう。その真剣さには、あるユーモアがあるわけですよ。そういう生き方をしようじゃないかという。それはとても大事なことではないでしょうかね。もう一つは、社会科学者としての私がいう言葉なんですけれども、ほんとの意味での現実主義者であるということなんです。それはどういうことかというと、僕たちは現実というと、意外と一枚岩のように思っているんですね。だからある状況から既成事実というものが生まれてくると、「ああ、もう終わってしまった」と言って投げ出してしまう。それは間違っていると思うんです。現実というものは極めて多面的であって、さまざまの可能性に満ちているんですよ。真のリアルな現実主義というのは、常にその事実をみている我々の態度というものを含んでいるわけですよ。我々が、いや、それはやっぱり間違っている。憲法違反である、と。憲法の理想はそういうことを言っていない、というふうに受け入れることを拒否するならば、常に現実というものに含まれる可能性という側面が働いてきて、事実が既成事実にならないで、もう一度状況化する、という可能性が含まれているんです。これは政治学的に言えることなんです。僕は、その最初のバルトの説明と、この政治学的な判断というのは結び付くと思うんですよ。究極的なるものというものを、心の底に持っているがゆえに、我々はそれ以外のところで勝負があったと思わない。むしろ真剣に取り組んだけれども、ユーモアを持って取り組んでいくというところに、僕たちは既成事実に屈服しない心のゆとりと、状況化への力というものが出てくるだろう、というふうに考えるんですね。とってもピッタリする言葉を最後にご紹介して、私の今の説明を補足したいと思うんですが、それは相変わらずカール・バトルの言葉なんですが、バルトが生涯の最期に語った台詞なんですよ。これはどういう状況で語られたか、と言いますと、一九六八年、当時チェコで、それまでの共産主義支配に対して、チェコの社会主義改革というのが、新しく軌道に上ろうとしていた時代なんですね。プラハの春ですね。それがソビエトの戦車及び五カ国連合軍の戦車によって踏みにじられたという。これはその年の十二月に、バルトが、トゥルンアイゼンという彼の友人と電話でお話しした最後の言葉、その晩に亡くなるんですよ。その時に、トゥルンアイゼンから電話が掛かってきて、「時代は暗いね」と話しかけた。それに対してバルトも「実に暗い」というお話をこもごもし合うんですけれども、最後にこう書いてあります。
 
バルトは、「そうだ。世界は暗澹としているね」と言った。
しかし彼は次のように付け加えた。
「但し、意気消沈だけはしないでおこうよ、絶対に。何故なら支配していたもう方がおられるのだから。モスクワやワシントン、あるいは北京においてだけではない。支配していたもう方がおられる。しかもこの全世界においてだよ。しかし、まったく上から、天上から支配していたもうのだ。神が支配の座についておられる。だから私は恐れない。もっとも暗い瞬間にも信頼を持ち続けようではないか。希望を捨てないようにしようよ。すべて人に対する全世界に対する希望を。神は私たちを見捨てたりはしない。私たちのうちのただの一人も、私たちお互いみなを見捨てたりはしない。支配していたもう方がおられるのだから」。
 
この電話交換をして、その晩、バルトは寝について、翌朝奥さまがいつものようにモーツアルトのレコード音楽をかけても、彼は起きてこないから見に行ったら、ベッドで息を引き取っておられたという。ほんとに文字通り最後の言葉なんですね。一九六八年に「時代は暗澹としているね」と、バルトは語っていますね。そして、私の率直な実感としては、一九六八年よりも「今の時代のほうがもっと暗澹としているね」と言いたいですけれども、でもこの時代に対して私たちがいうことは、このバルトの言葉以外にはないだろうと思います。だからやっぱり希望というものを捨ててはならない。僕は日本のいろんな新聞投書とか、新聞の川柳とか、その他の記事を見ていますと、あちこちで希望へのアピールを、アドバルーンをみなが揚げているんだと思うんですね。だから我々もまたそのアドバルーンを揚げなければならない。キリスト者の場合には、特にそれは希望の宗教として、神の大いなる肯定に支えられた希望を、我々は捨てるわけにはいかない、というふうに思っています。
 
     これは、平成十九年二月二十五日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである