森の記憶とともに
 
                     ジャーナリスト 吉 田  敏 浩(としひろ)
一九五七(昭和三二)年大分県生まれ。一九八一年明治大学在学中探検部に少数民族問題プロジェクトを発足させ、アジア各国を歩く。学生時代探検部仲間とタイ・ミャンマー国境を訪ねて以来、長らく秘境≠ニされてきたミャンマー北東部山岳地帯の少数民族をたびたび訪問。カチン語を習得し、昭和六○年三月から少数民族の開放組織民族民主戦線≠フゲリラ部隊に従軍。三年七ヶ月かけて五千キロを歩き、フリージャーナリストとして地図上の空白地帯の人々の暮らしぶりを外部に伝える。現在、フリーのジャーナリスト集団「アジアプレス・インターナショナル」に所属。著書に「森の回廊」「宇宙樹の森」「生と死をめぐる旅へ」「北ビルマ、いのちの根をたずねて」「反空爆の思想」ほか。
                     き き て    大 高  崇
 
ナレーター:  戦争の本質は流血である。より大量により速やかに相手に流血を強いること。そこには敵味方という冷たい隔たり、心の壁が築かれている。ジャーナリスト吉田敏浩さん。吉田さんはいま一市民の立場から民間人をも大量に殺す戦争の本質と向き合い、いのちの掛け替えのなさを省みない国家の論理を厳しく批判しています。いのちとは何か。死とは何か。吉田さんの一貫したテーマです。これまでホスピスなど終末期医療の現場や後を絶たない自殺者の周辺を数多く取材し、生きること、死ぬことの意味を問い続けてきました。その吉田さんの原点は、今から二十年前、ビルマ(現在のミャンマー:1989/6/18 国名がミャンマー連邦≠ノ変えられた)での命懸けの取材でした。軍事独裁体制が続いていたビルマ、現在のミャンマーでは、カチンやカレンなどの少数民族が、自治権の確立を求め、政府軍と熾烈な戦いを繰り広げていました。この内戦で少数民族の多くが家を失いました。難民となって隣国のタイなどに逃れる人が続出していたのです。吉田さんは、一九八五年、ミャンマー最北部の山岳地帯に一人で潜入しました。日本人としてはじめてのことでした。吉田さんは少数民族のゲリラ部隊と行動を共にし、ジャングルでの戦いを記録します。武力で優る政府軍の攻撃に、仲間のゲリラ兵たちは負傷し、時に死んでいきました。吉田さん自身、何度も死の危険に直面しながら、三千カットを越える写真を撮りました。
 

吉田:  これはズーッと日本から持って行って、ズーッと僕が担いでいたザックですね。爆弾の破片が小屋の中に飛び散っていたんですよね。で、Tシャッツとタオルとか毛布とか、ズタズタに切り裂かれていたんですけど、このザックは無事だったんですよ。傷一つ負っていなかったんですよね。
 

 
ナレーター:  ミャンマーの森での経験は、今も脳裏に深く刻まれています。そして、生きること、死ぬことの意味を、吉田さんに問い直させ続けています。
 

大高:  ビルマ、現在のミャンマーですけれども、いわゆる辺境と言われるようなところですけど、そういうところに行ってみたいというような興味、関心というのは、いつ頃から湧いてきたものなんですか。
 
吉田:  小学生の頃などに、いろんな探検記ですね―例えば『南極探検』とか『北極探検』を読んで、まあ一種の遠い海外、世界への憧れというのは最初あったわけですね。具体的にビルマに行こうと思ったのは、文化人類学者の岩田慶治(けいじ)さんという文化人類学者の方がいらっしゃるんですが、その人が書いた『東南アジアの少数民族』という本を読みまして、「カチン人やパオ人やパラウン人やリスー人といったさまざまな山地に住んで焼畑(やきはた)を営む少数民族の人々が、村が点在して暮らしている」ということを書かれてあって、そういう山地の人・山の民は、雲の上―雲海ですね、山岳地帯の高いところから朝見ると、低いところに雲海が見えます。その雲海の上に山の高い部分がまるで島のようにずーっと連なっているのが見えるんですけど、その雲海・雲の上の山地は自分たちの世界、山に住む我々の世界で、雲の下にタイとかビルマとか中国といった国家があっても、自分たちはそういった国家に支配には服さない。そういう制度にとらわれないで、雲の上の世界で生きていく。そういったことに関心を持って、行こうと思ったのがきっかけですね。
 

ナレーター:  大学時代、探検部で活動した吉田さんは、二十七歳の時、ミャンマーへの長期取材の旅に出発します。当時世界でもほとんど報道されていないミャンマー少数民族の戦いの現状を伝えようとしたのです。当時、ミャンマーは事実上鎖国状態でした。吉田さんはタイ国境の町・メホンソンで少数民族ゲリラと合流、カチン独立軍の総司令部があるカチン州ナポまで険しい山岳地帯を越える行軍に同行しました。その行程は想像以上に困難でした。おおよそ百二十人のゲリラ部隊は、敵対する政府軍の接近を警戒しながら行軍を続けました。出会い頭の戦闘を避けるため、自動車も入れない密林や山道を選んで歩いて行ったのです。武器や食糧など二十キロの荷物を担ぐ兵士たち。緊張と疲労で体調を崩す者が続出しました。吉田さんも日に日に消耗して痩せこけ、下痢やマラリアに苦しむ時もありました。
 

 
吉田:  つまり政府軍が自動車道路沿いにパトロールをしているんですね。そして少数民族のゲリラの通過をブロックしているわけです。ですから、そういう状況にある時というのは、いち早く、その地域―自動車道路に近い辺りから脱出しなければいけないので夜通し歩くこともあるわけですね。ですから、徹夜で歩いたりしていますと、まず足の裏が―僕は日本から持っていった軽登山靴を最初履いていました。その靴が破れた後はゲリラが履いている中国製の靴を履いたんですけれども―足の裏に肉刺(まめ)ができて、肉刺だらけにもなりますし、足が勿論棒のように疲れますね。そして、乾季ですと、もの凄い暑さの中を昼間は歩くわけです。
 
大高:  何度ぐらいですか?
 
吉田:  気温は、日向(ひなた)では四十度近いんじゃないですかね。雨季の場合は、今度は雨に打たれながらビニールシートを合羽代わりに被って歩く。全部土の道なんですけど、勿論ぬかるんで、泥濘(ぬかるみ)ですよね。そういった中を延々と歩く。ですから、靴の中も雨季はびっしょりになりますよ。川を渡る時も、部分的に竹の橋もある場所もありますけれども、ほとんどの川は雨季になると一気に増水しますので、橋がないんですね。そうすると、膝とか腿(もも)とか腰まで水に浸かって流されないように川を渡るということもあります。そうすると、靴の中に細かい砂が入って、靴下の間に細かい砂粒が溜まってくるんですよ。それでも、靴下を脱いで一々乾かしたりしている暇がありませんから延々と歩くわけでしょう。そうすると、だんだん砂が足の指のところに食い込んできて、擦れてもの凄く痛くなることもあり、皮が剥(む)けたりすることもありますよ。お腹を壊して下痢が続いたり、風邪を引いたりして体調を崩した時は、それはもう〈何で此処まできたかなあ〉と、そう思うような時もありましたよ。
 

 
ナレーター:  深い森と二千メートル級の山々を越える行軍。七ヶ月後、吉田さんたちは漸く目的地ミャンマーの最北部のカチン州に到着しました。この映像はカチンの村に到着した時に、ゲリラ兵が撮影したものです。吉田さんは、この頃既に現地のカチン語を話せるまでになっていました。村人から篤(あつ)くもてなされ、日本語で「太郎」に当たる「ブラン・ジャー」という名前で呼ばれるようになりました。吉田さんは、村人の家に寝泊まりし、山岳少数民族の普段の暮らしぶりに接するようになります。電気も水道もなく、太古から変わらず、森の恵みに支えられて生きる人々。太陽、月、大地、そして森に宿る精霊を崇め、季節毎の祭りではその精霊に豊かな実りを祈る。まさに自然のリズムと一体になった暮らしがそこにはありました。かつて本で読んだ雲海の上に生きる人々がたしかにいたのです。四月、森の一角に火が放たれます。焼畑です。主食の米やトウモロコシなどは、この焼畑で作られていました。火を入れた後に種を蒔き、秋に収穫します。収穫が済んだ畑は十年以上休ませることで、再び森に戻ります。村の人たちの暮らしは、この焼畑を中心に営まれていました。焼畑は自然のリズムと一体になった暮らしの象徴として吉田さんの記憶に残っています。
 

 
大高:  実際、焼畑の火入れ作業もご覧になったかと思うんですけれども、その時の印象はどうでしたでしょうか。
 
吉田:  焼畑を火入れをする時はですね、全部切り開いて焼畑用地を村人が全部取り囲んで、そして、竹を細かく割って裂いた松明に火を点けて、男の大人たちが山の尾根の斜面の上の方から手分けをして、火を要所要所に放っていくんですね。そうすると、上から燃え上がってきた火と、下から放った火が真ん中で合わさって、もの凄い炎と煙が天に燃え上がって、辺りがオレンジ色に、夕焼けみたいな色に染まるんですね。そういうふうに煙で太陽の光が幕になってですね、ちょうど燃えている時に、熱風が巻き起こって、嵐のように強風が吹くんですね、熱の対流現象で。その時に、鳥が、小さな鳥がその炎に巻き込まれないように必死に森の方に飛ぼうとしているんですね。飛ぼうとしているんですけども、風に煽られて飛べなくてまた戻される。必死に炎から逃れよう、生きようとして飛んでいるわけなんですね。飛んでいる姿を見て、僕も炎から逃れる鳥と一緒に、何とかしっかり逃れてほしいというふうに思いながら見ていて、その鳥は何とか逃れていったんですけどね。そういう焼畑を切ると、草や木や竹の死、それから虫とか小動物、鳥も小鳥も含めた小さな動物も、焼く時に一緒に死ぬこともあるわけですね。ですから、そういう森に棲む森の植物や虫や動物の死と引き換えに、人間が生きる糧を得る場であるな、と。つまりいのちですよね。彼らのいのちを僕が食べているんだなあ、というふうに思いましたね。
 

 
ナレーター:  カチンの村には、さまざまな神話が語り継がれています。
 
はるかなむかし、この地上にまだ生き物がいなかった頃のこと。神々はすべての生き物の母なる木・マトゥム・プンヌーを高い山に産み落とした。マトゥム・プンヌーはやがて巨木となり、さまざまな種類の葉や実をつけた。やがて木の実からはすべての種類の植物が、木の葉からはすべての種類の鳥が、樹の皮からは鳥以外のすべての虫や動物や人間が生まれ、そして世界中に広がっていった。人間も動物も草木もすべて生き物のいのちはみな同じ根を持ち繋がり合っている。
 
村人は神話の意味をそう教えてくれました。
 

 
吉田:  夜は真っ暗。つまり電気もないし、ガス、水道も勿論ないわけです。囲炉裏に火を焚いて、そこでいろんな話を村の人に聞いたりする。神話や言い伝えを聞いたりする。その時に、森の精霊とか、大地の精霊や太陽の精霊、月の精霊、雷の精霊をこの祭りの場に呼び招いて豊作を祈願するんです。その時に囲炉裏の火で、村の人が囲んで語り部の語る言葉にずーっと耳を傾けているわけですね。こうやって膝を抱えて、僕もその中に混じって隣の人と身体を触れ合いながら。そうすると、なんかタイム・スリップするというか、神話の中で語られる太古の時代―古い古い遠い時代に、ずーっと自分もその時代に戻っていく、時を遡っていくような気がするんです。つまり人類の遠い祖先が、洞穴というか、岩室で焚き火を囲みながら、夜、闇の中で、ちょっとだけ明るい火を囲みながらきっと会話をしたでしょう。それは日本人の遠い祖先もそうだったと思います。縄文時代とか、もっと古い旧石器時代とかね。その頃語られたものがだんだんと神話となっていったんじゃないかなあという感覚ですよね。つまり彼らのカチンの村の人の感性ですね。それが私の心にももの凄い影響を及ぼしている。そうすると、森の中を歩いて、森を見る目がある意味で日本にいた時より変わるわけですよ。
 
ナレーター:  静かな森は、しかし政府軍の接近で一瞬にして戦場と化します。村人たちからなるゲリラ部隊は、旧式の武器を手に取って政府軍と戦いました。戦闘が始まると、吉田さんはゲリラ部隊と行動を共にしました。普段は穏やかな仲間たちが、戦場ではただ敵を殺すための兵士に豹変し、やがて次々と傷付き、倒れていく姿を目撃したのです。

 
吉田:  一九八六年三月二十二日ですけどね。カチン州の西部のフーコン平野でゲリラが政府軍の部隊を待ち伏せ攻撃をしたんです、廃村の跡で。それで勿論政府軍側も反撃をしてきて、迫撃砲や機関銃を撃ってくるんです。その時に僕は、距離で廃村跡から森の中の小道を百十数メートルぐらいちょっと離れたところに身を潜めて、そこには救護兵とかがいるんですね。そうすると、負傷したゲリラ兵士が、担架で載せられて来たり、あるいは肩を他の元気な兵士に支えられながらやってくるでしょう。そうすると、血が首筋の間に―迫撃の破片で首筋を貫通はせずにかすめたわけですよ。そこから血がわぁっと流れて、胸の辺りに。そうすると、救護兵が薬で止血するわけでしょう。服を脱ぐと彼の胸に鮮血がばぁっと垂れていく。あるいは足の部分を迫撃砲の破片で負傷した兵士の片足が真っ赤に染まっているわけですよ、血でね。それを僕も傍で目にした時というのは、改めて足の裏から震いというか、おののきがずーっと湧き上がってきましたよ。なんか胃がズーッと持ち上げられるような感じでね。つまり鉄の塊や破片というのが、その人の身体を切り裂いて、血が流れている現実。それをはじめて目(ま)の当たりにしたわけですけれども、その時はそういう場に自分が勿論取材で行っているわけですけれども、恐怖、おののきを覚えましたね。
 

 
ナレーター:  十人以上がいのちを落としたその日の戦闘の後、若いゲリラ兵士の表情を捉えた写真です。森が静けさを取り戻した時、吉田さんはその後の人生を大きく左右することになる光景を目にします。
 

吉田:  ゲリラ部隊の部隊長―少佐ですけど―が、「こっちに来い」と。付いていくと、廃村の跡の草むらに政府軍兵士の遺体が倒れているわけですよ。うつ伏せになって倒れている。それを政府軍兵士のゲリラの少佐が右足でゴロンと蹴って転がすわけですよ。映画で僕も前に見たことがあるわけですけれども、人間の遺体は普段はちゃんと手で動かし、足蹴にしたりしないわけじゃないですか。しかし戦争ではよく映画などでも、足でゴロンと転がしているシーンが出てくるんですけど、実際僕もその場で見たら、あれは本当にそうだったなあ、と非常にショックを受けたんですよ。人間の死というものがこういう形で扱われている。その時に、政府軍の兵士の死体を、僕は写真をゲリラ兵が周りに何人かそれを見ているところを入れて撮り、その後もうちょっと近づいて一枚撮って、もうちょっとさらに近づいて、上半身のアップもまた撮ったんですよ。その時に政府軍兵士の遺体というのは、右手がこうなって、死後硬直といいますが、硬くなってこうなって倒れているわけでしょう。で、彼の軍服の胸は銃弾で撃たれて流れた血に染まって黒ずんでいるわけですね。そこに蟻がもう這い寄ってきているんですよ。それから蠅がどこからともなく飛んできている。僕は、それで三枚目の写真を撮った時に、さっき僕を呼んで政府軍兵士の遺体を足でゴロンと転がした彼がもの凄い目で僕を睨んだんですよ、振り返って。それは刃で突き刺すような眼差しだったんですよ。何で? 僕はその時、ゲリラ兵士の部隊長が〈何でそんなに突き刺すような目で僕を見たんだろう?〉と、その時非常に驚いたんです。だけど、「どうして?」というふうに聞き返す雰囲気ではなかったんですよね。その後僕もずーっとフーコン平野を後にして、奥部の山岳地帯の村を回ったりする中でも、時々、〈どうしてあんな目で僕のことを睨み付けたんだろうなぁ〉と、ずーっと考え続けていたんですよね。
 

ナレーター:  この光景と、仲間の刺すような視線の記憶は脳裏に深く刻まれ、やがて吉田さんを苦しめることになります。九ヶ月後の一九八六年十二月、吉田さんはマラリアを発病、この時は日増しに病状が悪化し、昏睡状態に陥りました。
 

 
吉田:  マラリアの高熱と悪寒。もの凄くゾクゾクして四十度以上の高熱がでるんですよね。背骨を氷の柱で貫かれたような、ほんとに身体の内側からガタガタ寒くなるんですよ。歯がカチカチと鳴って、全身の骨の節々が軋むように痛くなるんです。で、マラリアが酷くなって、その時は熱にうなされて、なかなか眠れないですし、頭の中で耳鳴りがする。そういうことがどんどん続いて、勿論食べることも食べられないで吐く。吐くわけですよ。水を飲んでも吐く。そうすると、だんだん今度幻聴とか幻覚が現れてくるんですよ。マラリアでうなされて。恐ろしいのは、竹で編んだベッドに寝ていると、地面から青白い手が伸びてきて、自分の身体をわぁっと包んで、がぁっと地面に引きずり込みそうな幻覚ですよ。それから暗い水の中にドボーンを沈んでいって、仰ぐと、上の方に光が輪っかになって、そこに向かってやっと浮き上がって、ああ、ほんとに溺れ死ぬ寸前、あ、苦しいという時に、やっと浮かび上がってくるような、そういうような幻覚。耳元が、いつも水がずーっと流れ続けている音がするんですよ。そういう幻覚幻聴にもの凄く苦しめられたんですけども、恐ろしいですね。そして、八十七年の一月ぐらいですね。やっとちょっと立ち上がって、フラフラとベッドから家の小屋の前に出たんですよ。朝だったんです。そうすると、周りにいたゲリラ兵士が、「どうしたんだ?」と聞かれて、向こうには山が見えたんです。そうすると、こう見ていたのが、がぁっと、今度は自分の眼の瞼の裏から真っ赤な血の海、血の幕がずーっと垂れてくるようになって、眼を開けているんですけどね、血の幕で真っ赤に染まったんですよ。慌てて恐ろしく、こうやって眼に手を当てて、血が出ているのかな、と思ったんですが、本物の血は出ていないんですよ。そうすると、またわぁっと血の幕で、眼の中が真っ赤な血に。そうすると、真っ赤な血の海の幻覚というか―その時は幻覚とは思っていない―幻覚だったわけですけど、幻覚とはわからないわけなんです。そのうちに僕がフーコン平野で写真を撮った政府軍兵士の死体が、こういうふうに手を硬直させたものが、僕の写真がまるで写真を撮った時の光景が目の中にそのまま焼き付いたように、政府軍兵士の死体がぐぁっと浮かび上がってきたんですよ。その時は、もの凄い恐ろしくて、ほんとに恐ろしかったですよ。そうして、何度かそういうことが繰り返されて。そのうち、またフラフラっと・・・。その後よく覚えていないんですよ。また横になって、その後さらに病気が重くなって、吐いたり、それから昏睡状態に。後で聞くと、もう全然起き上がりもしない昏睡状態になって。つまりほとんどマラリアで死にかけていたわけなんですね。その夜ですよ。夜中に目覚めて、その幻覚がずーっとつきまとって離れないわけでしょう。この幻覚、どうすればいいのかなあと思って、何故かわからないんですけど、とにかく自分のカメラをバックの中から取りだした。とにかくカメラで写真を撮ったから自分の眼に焼き付いている。そういう写真に撮ったから目に焼き付いて、だからその幻覚が出るんじゃないかなあと思ったんです。どうかよくわからないんですよ。僕がずーっと持ち歩いていた登山ナイフで早く壊さなければ幻覚がおさまらないと思って、カメラのレンズを、ガーン!ガーン!とナイフで壊し始めた。その時はマラリアで錯乱状態ですね。普通の正常な状態ではないですよ。一種の錯乱状態ですよ。カメラをナイフを突き立て、一眼レフですから、交換レンズは外せますから、嵌っていたレンズを取り外して、中にミラーがあるんですよ、その鏡をガシャン!と砕いて。
 

 
ナレーター:  闘病は四ヶ月に及びましたが、吉田さんは奇跡的に一命を取り留めます。しかし恐ろしい幻覚の記憶は吉田さんの心に深く刻まれました。
 

 
吉田:  忘れられればいいわけですけどね、そういう妄想というか、幻覚妄想は忘れられないわけですよ。熱とか病がよくなると共に、そういうものが全部記憶の中から消え去っていれば、もうそんなに問題はなかったんでしょうけどね。しかし、そういうのが残っているわけでしょう、記憶に。今も覚えているわけですから。ずーっとあるし、その恐怖やおののきが僕自身に何を問い掛けてきたのか。何を問うているのか。それはずーっと考え続けさせられていることですね。
 
 
ナレーター:  ある日、吉田さんは一人の少年が亡くなったと聞きます。吉田さんと同じマラリアが原因でした。マラリアで死ぬことは、この村では珍しくありません。吉田さんは、精霊信仰に則った少年の葬儀に立ち会うことにしました。
 

 
吉田:  お葬式に周りの村からも人が来て、死者が息を引き取った寝床の枕元にいって、枕元でその儀式を司るドゥムサーという老人ですけれども、その時にいろんな語り掛けをする。「すべての草木もいつかは死ぬ。チャキャー樹 キンサー樹 カラー竹・・・」と、草や木の竹の名前をいくつか挙げて言って、「すべての草木もいつかは死ぬ。死ぬのはおまえだけではない。死は何も特異なことではない。すべての者に訪れるものだ。だから不安に怖がらなくていいから、此処の最後の死の床から頭を起こして、そして柩(ひつぎ)のところに移りなさい。あなたは祖聖ですよ。祖先の霊になって、シャンゴー高山の中の祖霊の地に、これから赴くんだから」ということを語りかける儀式を最初にやるんですね。そして外に出て、僕も。そうすると、まるで暗くなって山地―シャンゴー山脈という高い山脈があって、その家の氏族の祖先の地というのは、その山脈の峠を越えた向こう側なんですけど、それを僕は見ながら、少年の魂に、「迷わずに行くんだよ」というふうに、ほんとに僕も心の中で語り掛けるような気持でしたよ。だからそういう世界に、僕もその場にずーっと浸っていますと、確かに一人の死者が山地―山の中のあの世にいって祖先になっていく、という。そういう彼らの心の世界に、今、僕自身もある意味で一緒にその場においては浸っていたわけです。
 

ナレーター:  一九八八年十一月。三年七ヶ月のミャンマー滞在を終えて、吉田さんは帰国しました。政府軍兵士の遺体を撮った時の仲間の刺すような視線。マラリアでうなされながら見た恐ろしい幻覚。そして、山へ飛び立っていった少年の魂。吉田さんは、森の記憶を反芻(はんすう)しながら、人間の生と死について考えるようになりました。死はすべての終わりなのか。吉田さんは、日本で生と死の現場の取材することにしました。ホスピスの入院患者や老老介護の現場、自殺や事故で家族を失った人たち。死の現実と向き合う人々の元に足繁く通い、彼らの言葉を聞き続けました。
 

 
大高:  日本に戻られてから、特に生と死の現場というか、いのちの現場を数多く取材されているんですけれども、その取材の中でどういう発見なりされましたか。
 
吉田:  いろんな人たちを訪ねお話を聞いたんですが、非常に印象に残っている一人の方は、バスの運転手をされているご主人が、貸し切りバスを運転中に心臓の発作で動脈瘤の破裂ということで亡くなった。過労死ですね。その奥さんにお話しを聞いたんです。ご主人が亡くなった後、もうちょっと自分が健康管理に気を使ってあげれば良かったとか、自分のせいで主人を過労死させた、という自責の念に苛まれた、と。まだ四十代の働き盛りで亡くなった。歳もほぼ同じぐらいの年齢だったんです。奥さんは、その当時四十代で夫をなくしているわけです。そして亡くなった後、ずーっとどこにも出る気もせずに家の中に閉じ籠もってばかりいた。子どもにも、「一緒にお父さんのところへ行こう」と、そこまで思い詰めたらしいです。今でも、亡くなって何年も経ってもなかなか寝られない夜がある。やはりどうしても思い出してしまう。自分がちょっと何とかしてあげられたんじゃないか、と思い出すと、夜も寝られなくなる。ずーっと寝床で寝られずにいる、とその時に、時々、「ほら、寝ろ!寝ないと体もたねえぞ! 少しは寝ないといけないぞ!」という、ご主人が―東北地方の方なんですけど―そういうふうに話し掛けてきてくれる。そうすると、スーッと眠れる時があるんですよ、というふうに話してくれたんですね。その時、僕はそれを聞いていて、「ほら、寝ろ、寝ないと体もたねえぞ」という、奥さんの声音がちょっと変わっているわけですよ。僕は、ご主人は勿論亡くなっているわけですからお会いしたこともないし、その声も聞いたこともないんですが、きっとこういう声だったんだろうなぁ、という。つまりそういうふうに、その言葉を聞いた時に、ほんとに亡くなった人の思いが、亡くなったご主人と今生きている奥さん、つまり死者と生者、生きている人と死んだ人の間に共有するものが、心の中で共有している世界がある。その共有している世界が残された人の生きる支えになっている、ということを、その時非常に感じましたね。北ビルマで死んだ人を、「すべての草木もいつかは死ぬ。死ぬのはおまえだけではない」という言葉から始まる葬儀がある。山のあの世に見送られていく死者の魂。亡くなった人は見送られて祖先になって、いろんな儀式の時にまた里に呼ばれて、里を訪れて子孫を見守って、幸をもたらしてまた帰っていく、という。だから、心の中に、生きている人間と死んでいった人たちの共有する場があって、亡くなった死の側が生の側をどこか目に見えないところで支えている、というんでしょうかね。
 

 
ナレーター:  死者と生者が共有する場を求めて、吉田さんは四国遍路への関心を深めていきます。一九九六年のことです。遍路をすることは、生者が一旦死者の世界に赴くことだ、と言われています。死者を意味する白装束を身に付けるのもそのためです。吉田さんは、遍路の途上で亡くなった人の墓や札所を一つ一つ巡りながら、死者の世界に思いを馳せました。そうするうちに、吉田さんの脳裏にミャンマーの森での記憶が甦ってきました。
 

 
吉田:  僕自身は歩きながら、北ビルマの山を一緒に歩いた兵士や世話になった村人、後で亡くなった人もたくさんいるわけですね。戦死したり、病死したり、たくさんいる。その人たちのことをやっぱり思い出しますよ。その人たちを思い出しながら、一緒に歩いている時、あの兵士から水筒の水を分けてもらったなあとかね。水はずーっと山の上で水場に行き着かない限り、水が手に入らない時は貴重ですよ。カンカン照りで暑い時なんか、もう水が欲しくて欲しくてしょうがない。そういう時に、僕は先に飲んじゃって、自分の水が無くなっていたから、「これ、飲むか」と言ってくれた兵士もいます。水を分けてくれた。その後、戦死した兵士もいます。しかし、自分がそういう人たちの思いをどこまで思いが及んでいたのかなぁということを、ずーっと毎回考えさせられて、そういうことにどこまで思い至っていたのかということをずーっと考えて歩いていると、だんだん足取りもトボトボしてきて、自分が今までしてきたことって、何だったんだろうなあ、と。ある時に、ずーっと足元だけ見ながら歩いていたら、道路の脇に石とか砂粒というか、ずーっと車が通る道路脇にそういうのが飛ばされていますよね。それがずーっと散らばっているのが見えてくるんです。ある時、小石のほんの小さな欠けらや砂粒がアスファルトの上に散らばってあって、太陽の光が当たっていたんですけど、一個一個が違う形に見えたんですよ。砂粒とか砂利の小さな粒ですよ。つまりそれまでは、砂が散らばっている、砂利の小さな粒がある、というふうな、全体として散漫にしか見ていないんです。その時は何故か一個一個が見えて、一個一個が形が違う。何故そう思ったのか分かりませんけど、生きているいのちがある。有機物も無機物にしても、形が一個一個違うんだなあという。一つ一つが形が違うなあと思って、人間も一人一人が存在している、ということを直感的に感じた、見えたんですよ、その時に。北ビルマで出会った人たちのことを、どこまで一人一人の気持ち、一人一人の心まで、僕自身が―夥しい人間と会ってきたわけですよね。親しい言葉を交わした人もいれば、あんまり言葉を交わさなかった人もいるんですけど―一人一人の中にそういう広い世界というか、宇宙がある、と。生きている人間も死んでいった人も、一人一人の世界の広さ、奥深さはたった一つしかない。しかもその世界というのはたった一つしかない。内宇宙といいますか、同じ心の世界というのは、一つとして同じものはない筈ですよね。
 

ナレーター:  日本での取材を経て、吉田さんは恐ろしい幻覚となった政府軍兵士について改めて考えるようになりました。実はあの時、死んだ兵士の胸ポケットには、家族の写真がありました。まだ幼い子どもの写真。妻と二人で撮った写真。敵の兵士のことは、その場では深く気に留めることもありませんでした。しかし今、敵の兵士にもその人だけの掛け替えのない世界があったことに気付いたのです。
 

 
吉田:  その時の戦闘の模様がこの記録帳の中に書いてあるんですが、その時に兵士の胸ポケットから出てきた写真には、兵士の赤ちゃん―男の子が写っていたんですよ。その写真には、その子の名前と、「一九八五年十月二十九日生まれ」というふうにビルマ文字で書いてあった。それを僕はメモしているんですよ。僕が写真を撮った兵士は、一九八五年十月二十九日生まれの子どもがいる兵士だったわけでしょう。で、一九八六年三月二十二日ということは、生後五ヶ月の男の子だったわけですね。そうすると、当時お父さんが遠いカチン州の森の戦場でいのちを落としたというのは、後で政府軍から戦死通知を貰ったでしょうけど、奥さんと一緒に。だけど、遺体は後でゲリラが当然森の中に穴を掘って埋めたわけでしょう。死んだ遺体はどこに埋められたかもわからない。勿論遺骨も戻らないですよね。だから、戦死の知らせを受けた時に、その奥さんはどんな気持だったのかなぁと。子どもは、まだ全然父親の記憶がない。その子どものことを考えて見たら、二○○六年ですと、ちょうど二十歳になっているんですね。僕は、この本『反空爆の思想』を書いていて、もしあの子が生きていれば、二十歳になっているんだなあ、と。成人しているんだなあ、と。家の息子よりも三歳上の二十歳になりますよ。つまりその後、お父さんの死をどういう形でお母さんから聞かされたか知りませんけど、どういうふうにされて、子どもがどう思ったのか、と。そういうことが当時はまったく思いが及ばなかったことが、漸くそこまで思いが至るようになってきたということですね。それはまあ自分の中で折に触れて反芻してきたわけなんですが。その時に原稿を書いていて、ふと、「あなたは」という発語、言葉が浮かび上がってきたんですよ。つまりそれまではその政府軍兵士のことを書いた時は、「政府軍兵士は」とか、「彼は」という言い方、書き方をしていたんです。つまり自分の心の中で記憶を回想して、言ったり書いたりする時は、「彼は」とか、「政府軍兵士は」というふうな発語でしたね。それが「あなたは」という問い掛けに、つまり「あなたは一九八六年三月二十二日に、朝、銃声をはじめて聞いて、待ち伏せされたと気が付いた時に、どんな気持をもち、反射的に何を考えたんだろうか。その戦闘の中で最後に弾を受けて倒れ落ちる時に、最後にあなたの心をよぎったものって何だったんだろうか、という。「あなたは」という問いかけをはじめてしている自分に気が付いたんですよ。それは自分の頭の中でですよ、原稿を書きながら。そうすると、「あなたは」と、問い掛けると、今度は向こうから、「あなたは」という答えが返ってくる。これは、僕の心の中でですよ。「そういうあなたはどう思いますか。もしそういう場合に立たされたら、私のような立場に立っていたとしたら、あなたはどう思いますか」という、こちらの問い掛けに対して、死者からの問いかけが、僕の心の中に生じた、湧き上がってきたんですよね。
 

 
ナレーター:  吉田さんは著書の中でこう語っています。
 
私は、カチン人が語り伝えてきたすべての生き物の母なる木の神話を思い起こす。地上の生き物は、みな神々が生んだ母なる木から生まれ、この世界中に広がり増えていった。私はすべてのいのちの母なる木に、豊かなイメージを喚起され、みんな根源においては繋がっている。いのちの根を共にしているという真実が肌で感じられてくる。そして国家や民族といった枠組みでは捉えられない他者への開かれた感受性に出会えた気がする。私にもっとも欠けていたのが、この他者への感受性だったのだろう。もしもこの感受性、感覚、創造力があったならば、戦死した政府軍兵士への痛みの念を持つことができて、マラリアの床で、死と流血の幻覚を見ることもなかったかも知れない。あれから二十年、死んだ兵士を撮った時の仲間の刺すような視線とあの幻覚の意味を、吉田さんは漸く理解することができたのです。アフガニスタン、イラク、パレスチナ、世界各地で今も戦火はおさまることがありません。高度に発達した軍事技術によって、瞬時に大勢の人のいのちを奪う現代の戦争。それを遂行する国家の論理に、いのちを失う一人一人への感受性をみることはできません。
 
だからこそ吉田さんは、失われたいのち一つ一つの掛け替えのなさを見つめながら、今、戦争を批判し続けています。
 
     これは、平成十九年三月四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである