詩を生きる心
 
                        詩 人  (キム)   時 鐘(シジョン)
一九二九年朝鮮半島北部のウォンサン(元山)に生まれ、チェジュド(済州島)で育つ。四八年の「チェジュド四・三事件」にかかわり、渡日。在日朝鮮人。一九五○年「新大阪新聞」夕刊「働く人の詩」欄に投稿。以降六六年大阪文学学校講師。七三〜八八年兵庫県立湊川高等学校で公立高校初の正課朝鮮語教師をつとめる一方、日本語による詩作を始める。九八年約五十年ぶりに青少年時代の故郷済州島を訪れる。また「朝鮮評論」詩編集など在日の文化活動にも参加、詩集「地平線」「日本風土記」「新潟」「猪飼野詩集」「光州詩片」「化石の夏」、評論「さらされるものとさらすもの」「在日≠フはざま」など。
                        ききて 西 橋  正 泰
           
ナレーター:  大阪市生野区の平野川沿いの一部は、かつて猪飼野(いかいの)と呼ばれ、戦前から朝鮮半島やチェジュド(済州島)の人たちが多く住んでいます。詩人・金時鐘さんが朝鮮半島の南にあるチェジュドから大阪に来たのは、戦後四年を経た一九四九年(昭和二十四年)でした。日本の敗戦で祖国朝鮮が解放されたのは、金さんが十六歳の時です。それまでは日本による植民地支配の中、祖国の言葉を奪われ、日本語で教育を受けました。大阪に来て以来、日本語で詩を書くことで、自分とは何か、という問いかけを続けてきたのです。日本に来ておよそ六十年、金さんは日本語でものを考え、日本語で詩を作ることの矛盾と葛藤のなかで生きてきました。今回は、金さんが長く講師を勤めている大阪市谷町にある大阪文学学校でお話を伺います。
 

西橋:  ここは大阪文学学校の図書室ですね。
 
金:  そうです。
 
西橋:  いろんな本がありますけど、金時鐘(キム・シジョン)さんはここで詩の講座を長くもっていらっしゃるそうですね。
 
金:  そうですね。ここ数年は公開講座をやっておりますが、半年に三回ほどですけどね。一般の人も参加ができるようなところです。
 
西橋:  そうですか。ここから大勢の文学者が誕生しているそうですね。
 
金:  文学賞は随分いろいろありますが、かなりの受賞者たちがおります。そして今、文壇的にも一線級で書いている書き手たちもかなりおりますね。
西橋:  田辺聖子(たなべせいこ)さんなんかもここで最初にね。
 
金:  田辺聖子さんは第一期生ですが、近年では玄月(げんげつ)(1999:『蔭の棲みか』で受賞)さんが芥川賞を取られましたね。
 
西橋:  金さんは、一九七八年、四十九歳の時に、この『猪飼野詩集』を出されるわけですね。
 
金:  猪飼野というのは、今では還流ブームなどもあって、うちの国との違和感がかなり埋まって、むしろ好感をもってくれる日本の人も増えてきているので、猪飼野は今観光コースになっておりまして、自分もよく行っております。でも八十年代いっぱいまでは、猪飼野というのはまだ孤島みたいなものですよ。周囲は全部日本の人たちで、猪飼野がなくなったのも、そもそも猪飼野の周辺の日本の人たちが、「猪飼野」という地名のために子どもの根元にさわるとか、土地、家屋の売買に値を叩かれるとかで、陳情して猪飼野をなくしたんですよね。
 
西橋:  地名を?
 
金:  ええ。
 
西橋:  じゃ、この『猪飼野詩集』から一編ご紹介頂けますでしょうか。
 
金:  最後の方の「へだてる風景」というのを読みます。
 
     「へだてる風景」
     川は
     暮らしをつらね
     暮らしは
     川をへだてる。
     川はへだてて
     集落があり
     集落をへだてて
     街がひろがる。
     街はながれる川を知らず
     川はひろがる海を知らない。
     澱んだ果ての
     堆積であり
     堆積の果ての
     にごりである。
     あぶくをまたいで
     橋がのび
     対岸を見すえて
     街が切れる。
     異様な臭気を
     はびこらせ
     小火(ぼや)のような
     雑閙(ざっとう)がもえて
     集落は
     すでに
     眺める位置で
     迷路である。
     橋が渡って
     対岸でなく
     川がかたどって
     流れでない。
     打ち過ぐ日日の遠景に
     好奇のいちべつが
     かいま見る
     黒い仕切りの
     対岸がある。
     せり上がる空間での
     まばたきであり
     見とおせぬ距離での
     実在である。
     蟹も這わず
     風紋もよじれず
     古老だけが船を見たといい
     鳥かげの記憶は
     古老すらない。
     下水集めて
     運河であり
     退路を断たれて
     なお川である。
     うごけぬ運河を
     猫が浮き
     境界をなして
     川がしなびる。
     日本と朝鮮の境い目であり
     朝鮮と朝鮮の雑居であり
     異郷でいぶる
     家郷であり
     年月であり
     味覚である。
     さらされた
     干物の愛にまぶされて
     奥歯に饐える
     日暮れがあり
     にじむ飢があり
     もみくちゃの目が見る
     ゆがんだ顔の
     白い悔いがある。
     百済の里に
     葦はなく
     海が出会った
     河口も断たれた。
     堀りすすんだ水路を
     集落がかかえ
     ひしめいた泥の
     地下足袋も
     固い川床の
     コンクリートの下だ。
     澱んだ運河に集落はとぎれ
     川を求めた人たちの
     行方を知らず
     運河だけが
     地を割った末裔たちの
     かたえで
     黙る。
 
西橋:  ありがとうございました。「へだてる風景」という作品ですが。さて、金さんは、一九二九年に、今の北朝鮮のウォンサン(元山)のお生まれですね。
 
金:  北朝鮮のウォンサンで、日本でいう日本海よりの大きい港湾都市です。
 
西橋:  そこで生まれて、七歳からはチェジュド(済州島)で育たれたんですね。
 
金:  主にお母さんの仕事があってのことでしたけどね。
 
西橋:  お母さんのお仕事というのは?
 
金:  お母さんは料理旅館をやったんですよね。
 
西橋:  お父さんは何をしていらっしゃったんですか?
 
金:  お父さんは済州島の―卵みたいな島ですから―築港工事がありまして、海に七、八百メートルでしょうか、防波堤が突き出まして、その築港工事に従事したんですね。
 
西橋:  少年時代は、「皇国少年だった」というふうに書いていらっしゃいますね。
 
金:  いやぁ、恥ずかしいですね。私と同年輩の友人たち、まだ日本にかなりおりますが、僕みたいな体験というのは特別のようですね。僕は根っからの皇国少年でした。
 
西橋:  でも、言葉は勿論日本語で?
 
金:  小学校、中学校、旧制でしたが、みんな日本語の授業ですから、「学校内では朝鮮語は喋ってはならない」と言われたのが、小学校三年生の時から、学校内での朝鮮語使用が禁止ですね。使った人は体罰を受けるんですよ。席次、成績順も、当時は修身操行とかいう科目がありまして、朝鮮語を使ったら、もう絶対級長とか班長にはなれないんですよね。それでも僕みたいに烈々な皇国少年はちょっと少なかったですね。恥ずかしい。
 
西橋:  そうですか。でも日本の支配を全面的に信じて受け入れて育ったわけですね。
 
金:  そうです。支配という意識すらありませんね。天皇陛下の御稜威(みいつ)の及んでいる中での幸せみたいなものをずーっと習わされましたからね。天皇陛下の赤子(せきし)(天皇を親に見立てての人民の称)になることが一番いい生き方なんだ、と。つまり朝鮮人でありながら、八紘一宇(はっこういちう)(太平洋戦争期におけるわが国の海外進出を正当化するために用いた標語で、世界を一つの家にするの意)の―だから一番上の子どもになれるんだ、というふうに言われたんですね。
 
西橋:  家でも日本語で会話されていたんですか?
 
金:  そうですね。お父さんは日本語の読み書きも非常によくできますし、日本の新聞も取り寄せて読んでいた人でしたけどね。お母さんはほとんどダメでしたね。ですから、僕は会話が親子の間でも途絶えましたね。必要最小限の言葉で、例えば、「ご飯」といったり、そういう単語はお母さんは覚えますからね。お母さんがいつも苦笑いしながら盛ってくれていましたけどね。なんか僕はうちの国の全体を表して、「朝鮮」という言葉を使っていますけどね、南北併せて。朝鮮語の素養というのがからっきしないんですよ。
 
西橋:  そうですか。
 
金:  済州島ですから本土とは全然言葉が違うんです。日本でいえば、鹿児島弁みたいなものですけどね。ですから、本土では通じません。その済州島弁は一応話せましたけど、それはどうしようもなく、お母さんと話す時には内心もの凄く咎(とが)めていたものですよ。僕はいけないことをするなあ、というふうに。親子の間でもやっぱり隔たりが、隙間が大きくなっていった感じでしたね。
 
西橋:  そして、一九四五年八月十五日、日本の敗戦で、状況は一変するわけですけれども、金さんからいえば、祖国が解放されたわけですけれども、その頃十六歳ですよね。
 
金:  ちょうど旧制中学校の卒業年度の夏休みでした、日本が敗戦になったのはね。決してオーバーではなくて、僕は、天皇陛下の玉音(ぎょくおん)放送というのを、家にラジオがあったもんですからじかに聞いたんですが、ほんとに立ったまま地の底にめり込んでいくような失望感に陥りましたね。日本が負けるはずなんて全然ないと信じ切っていましたからね。神の国でしょう、神国。ですから、今に神風がもう一遍吹いて、「敗戦」は一遍ひっくり返るんだ、というふうに思っていましたね。町では「解放になった」といって、山も揺れんとばかり同胞たちが「万歳!万歳!」と叫んで町を練り歩いていましたけどね。僕だけはなんかはぐれた犬のようにしょんぼりしていました。
 
西橋:  お父さんの様子はどうだったんですか?
 
金:  口の重い人でしたけど、私が皇国少年ぶりを発揮するほど、親父は非常に苦り切っていきました。口の重たい、ものを言わない人でしたが、日本が戦争に負けて親父の気持ちがちょっとわかるような気がしたんですけどね。植民統治の機能が働くところには一切働かないといった、そんな親父なりの意地だったんでしょうね。よく当時は国民服を男はみな着るようになっていましたね。カーキ色の服を着てゲートル巻いて、戦闘帽を被る。親父は周衣(トルマギ)というコートのような外出用の朝鮮服を着て悠然と町を出歩いていました。町では青年たちがもちろん朝鮮の青年たちですが、噴霧器に墨をつめまして、朝鮮服で町に出る人に、よってたかって墨を吹き付けちゃうわけです。顔までもやられるし。お父さんがそのようなめにあっているのを想像するだけで辛くて、自分なりに呪文を唱えたりしたんです。終戦になったら、親父は途端に忙しくなりました。私は植民統治下で大きくなって、植民地統治のあこぎさというのをほとんど実感というのを持っていないんですがね。日本が戦争に負けてみると、自分が何者だ、となってきますと、やっぱり空漠たる思いに駆られますよね。私には、世界の子どもが誰もが最後に歌うであろう童歌(わらべうた)がないんですね。あるのは全部日本の歌でして、日本の童謡も実にいいんですけど、それは日本の人たちにとっていいものであって、童謡―これは後ほど、私は詩をやることと兼ね合っている問題ですけど、たぶん日本の優れた実に情感豊かな小学唱歌とか、童謡、童歌というのは、日本人の良さを表していますけど、縁もゆかりもない中国の何千キロ先にまで日本の兵隊たちが行って、向こうの人たちを殺したりしながらでも、やはり夜は家のことを思ったり、子どもを持っている人は童謡を歌ったり、小学唱歌を歌ったはずなんですよね。つまり歌はいいんだけど、歌が歌われる状態とか、歌が生きてきた過程というのは、僕は恐ろしいものを感じるんですよね。そこには批評が全然ありませんからね。それは縁もゆかりもない人を殺したその人たちの家族は随分悲しいでしょう。自分らも辛いです。兵隊に徴兵されて、それこそ縁もゆかりもないところまで行って、戦争をして、自分の家族を思ったりして歌を歌ったに違いないですね。だから、僕は日本の童謡も小学唱歌をほんとにたくさん覚えていますが、それが自分の国が植民地統治下の状態で、いい歌だとして身につけたのが、僕には悲しく辛いんですよね。つまり朝鮮の子どもとして、自分の国の朝鮮語で歌う歌は一つもない。ただ、一つだけあるんですよね。お父さんが魚が釣れても釣れんでも出掛けて行って、防波堤の築港の岩場に座っていました。その弁当を届けるのが僕の役目でしてね。早く出掛けた時には昼弁当、昼出掛けた時には夜弁当と。私は無口な親父がとっても大好きでしてね。威厳めいたものにも、僕は敬服しておったのかなぁ、そんなのがありましたけど。親父の弁当を届けたら、寒い時なんか膝元に抱いて、親父の股ぐらに僕は小さかったので座っておった。親父がよく日暮れになると歌ってくれた歌が「クレメンタイの歌」という歌でしたがね。僕はてっきり朝鮮の民謡だと思って、日本に来たら、それはアメリカの歌だったのはちょっとガッカリしたんですが。歌詞は朝鮮語の歌詞でしてね。それは日本では「雪山賛歌」で歌われていますね。朝鮮語の歌詞は、日本語でいいますと、
 
     広い海辺に苫屋ひとつ
     漁師の父と年端もいかぬ娘がいた。
     おお愛よ、愛よ、わがいとしのクレメンタイよ、
     老いた父ひとりにして
     おおまえは本当に去ったのか
 
     それは風の強い朝のことであった。
     母を捜すのだといって渚へでたが、
     おまえはとうとう帰ってはこない。
     おお愛よ、愛よ、わがいとしのクレメンタイよ、
     老いた父ひとりにして
     おまえは本当に去ったのか。
 
という歌詞ですけどね。
四十五年八月十五日、天が崩れるような思いで日本が負けちゃいましてね。町中は山も揺れんとばかりに、「万歳!万歳!」で何日も揺らいでいるのに、私は一人で、家が海に近かったせいもありますけど、渚に立って口をついで出るのはみんな日本の歌でしたね。「海征かば」とか、そんな歌ばかり歌った。それが一週間ぐらい経った日の夕暮れでしょうか、親父がいつも魚釣りをしておったところまで、築港へ出掛けたら、ふっとそのクレメンタイの歌が出てきましてね。そうしたら朝鮮語で歌えるんですよね。お父さんがいつも歌っておったものですから。
 
西橋:  お父さんの膝の上で聞いた歌ですね。
 
金:  そうしたら、滂沱(ぼうだ)と涙が溢れましたね。そういう歌をくれたお父さんですね。
 
西橋:  そういう中から「朝鮮人として生きていくんだ」という自覚が芽生えてくる何かその後のきっかけがあったんですか。
 
金:  私は、光州で中学に行きましたが、解放直後、刑務所から出たという―四年間か務められた―崔賢(チェヒョン)という優れた指導者に出会いまして、まだ四十前ぐらいの方でしたけどね。何しろ解放にはなったものの青年たちが自分の国についてほとんど何も知らないですよね。歴史も何分知るわけじゃなくて、第一植民地統治を受けていた、という実感がないんですね。どのようなものが植民地統治だったのかもわからず。ただ、わけに日本人が威張っている、というふうに反感を持っておったんでしょうけどね。僕は、当然だ、というふうに思っているようないけない少年でしたね。崔賢(チェヒョン)先生に連れられて、「チェコジャンキャッキ(自分の在所探し)」と言いますが、「自分の在所探し」といった運動がありました。農村を訪ね歩いて、農民たちの生活を聞いたり、そこで一緒にちょっと一つの文化祭みたいなのを開いたり、農村の子供たちと出会っていくという運動でしたけどね。その中で、朝鮮語の勉強会も毎晩して貰いましたし、それこそ私も死に物狂いでしたね。これオーバーな表現でなくて、僕はずーっとそういうことを言ってきましたが、壁に爪を立てるような思いで、自分の国の文字・言葉を覚えました。そういう植民地統治の事実とか歴史的なことを知ってくると、血が逆流するような思いにやられてきましたね。それで学生運動に入り込んでいくようになりました。
 

 
ナレーター:  日本の敗戦による祖国解放後、朝鮮半島は南北分断され、一九四八年、南には大韓民国、北には朝鮮民主主義人民共和国が成立しました。南の大韓民国が成立する前の一九四八年四月三日、祖国分断が決定的になることに反対して、チェジュド島民が武装蜂起(ほうき)します。共産主義の台頭に反対する軍などの勢力がこれを武力鎮圧、「チェジュド四・三事件(一九四八年四月三日に現在の大韓民国南部、済州島で起こった人民遊撃隊の武装蜂起にともなうとされる虐殺事件。南朝鮮労働党が関わっているとされ、政府軍・警察による粛清と鎮圧によって、多くの島民が虐殺された)」と呼ばれるこの事件で、少なくとも三万人を越える島民が虐殺された、と言われます。この時金さんも島民の一人として武装蜂起に参加し活動を続けていましたが、結局軍などに追い詰められ島を脱出。命からがら一九四九年、日本に辿り着きます。
 

 
西橋:  その脱出にはお父さんが随分力を尽くされたんだそうですね。
 
金:  とにかく私は一人息子ですので、脱出させるために、家の金目のものはほとんど使い果たしたと思います。その右翼青年団とか海岸警備隊を買収しなくては脱出させられないですよね。港から四、五十キロ先に無人島がある。岩だけの富士山みたいなクァンタルという無人島がありますが、カモメが何百年そこで糞を垂れているので白く見える島です。まずそこへ脱出したんです。小さい漁船に乗せてもらって。漁船といっても戒厳令下ですから、許可を得た漁船だけがサーチライトを浴びる中で漁をするわけです。先に警官も船の持ち主まで買収しなくちゃなりませんですからね。その時母からの物だといわれた荷物があって、それを持って、私もすぐ離れられなくてうなだれておったら、お父さんが、「たとえ死んでもわしの目の届くところでは死んでくれるな。お前の母も同じ思いだ」と言ってね。サーチライトを浴びて、クァンタルへいきました。無人島でね。「溜まり水がある」と聞いておったんですけど、何もなくてね。ほんとにそれ事態もほんとに大変で死んだほうがいいような辛さだったですけどね。
 
西橋:  ご両親とはそれ以来お会いしていない?
 
金:  それっきりです。
 

 
西橋:  金時鐘さんは、二十歳で日本に渡って来るわけですが、そして大阪市生野区の猪飼野に住むことになるわけですね。
 
金:  第一大阪へ辿り着くまでも大変でしたけどね。〈もうこれ死ぬな〉と思って、「とにかく鶴橋というところへ行ったら同胞がいっぱいおるから、そっちへ行きなさい」と、密航船の人がいってくれたこともあって、なんとか鶴橋まで来たけども、行き暮れましてね。お腹は空いて空いて、めまいが起きて。疎開道路というのがあるんですが、そこに焼けたトラックがありまして、その運転席で一晩過ごしました。翌日は、〈もうこのままじゃ死ぬな〉と思って、翌日朝警察に自首しよう。自首する分には処刑されないだろう、という思いがありますから。向こうだったら処刑になっちゃいますからね。それでも夢遊病者みたいに歩いていたら、肩を叩かれて、同じ船できた人が、「お前、まだ行くとこがないのか」ということで、助けられたんですね。その人は猪飼野の大成通りのちょうど出口のところにいたんです。猪飼野ではみんな長屋に住んでいるんですよね。こちらへ来たら「四・三事件」の禍の深さ、悲劇の深さを痛感しました。法事は大体同じ日にわぁっと起きるんですよ。四月三日からぶっ通しで夏にかけて、どの家でも法事があるんですよ。
 
西橋:  「四・三事件」の犠牲者の遺族の方ですね。
 
金:  自分のお婆さんが向こうで殺されたとなれば、本土でやっても、こちらでも法事をするわけですね。平素は一緒に暮らしているんです。醤油を隣と分け合ったり、何か分け合ったりしているんですが、法事の日になると、途端に顔を背けちゃうんですよ。「お前の誰それが告げ口したから、家の親族みんな死んだ」とか、そういうことが、わぁっと起きるんですよ。猪飼野はそういう点で、戦前の同胞の推移とか経てきた事実とか歴史、また解放になった、日本でいえば終戦になった後の同胞のありようとかがもろに現れてくるんですね。
 
西橋:  凝縮されて、
 

 
ナレーター:  日本に来て後、金さんは当時の大阪猪飼野の工場で働き、在日朝鮮人の文化拠点を築くため、文化サークルを作るなど、南北に分断された祖国統一のため活動します。一方で金さんは、大阪の詩人小野十三郎(とおざぶろう)(1903-1996)の『詩論』と出会い、それまでの詩作だけでなく、人生の思考方法を根底から覆されます。
 

 
西橋:  金時鐘さんが日本で詩を作るようになられて、その時に詩人の小野十三郎―この大阪文学学校を創設した小野十三郎さんの『詩論』というのが非常に衝撃的だったそうですね。
 
金:  孤独も窮まったような暮らしでしたからね。住むところも食うところもない状態がずーっと続いておったんで、そういう中でも、なんかそういう自分の心を多少とも癒すものは望郷の念と言いましょうか、故郷への思いなんですよね。育ったところとか、親への思い、友人たちのこと、そういうのがありますが、道頓堀にありました天牛という古本屋にたまたま寄ったら、『詩論』という本ですから、「詩」という字が見えた。それで開いたら、「故郷」という文字に目がいきましてね。棍棒で頭を打った、殴られた思いがしましたね。こういう内容です。
 
「故郷とは、熊本だとか信州だとか東北だと言った奴がある。私は、いつも熊本や信州や東北に向かって復讐しているつもりだ」
 
というんですね。正確な表現じゃありませんが、
 
「私を包んでかくれている情感、情念の「故郷」に対して、それは復讐されるべきものだ」と言われると、なけなしの寄りどころが取り払われたみたいで、私の孤独感はこの上なくつのったものでした。自分の心情の拠り所が、「それは復讐されるべきもんだ」と言われますと、これはどんな本だと思いましたね。「どういうことなんだろう」と。「故郷を、自分の心情の慰めに思い起こすことは、思い起こす対象は既に故郷ではない」ということが続けますがね。これはどういうことなんだろう、と。これは『詩論』ですが、私にとっては人生の摂理みたいなものです。神の恵みのような本になりましたですね。小野さんが言っているのは、「詠うより描くべきだ」というんですね。それは「詠うという情感は、批評というものをなくさせてしまうものだ。批評を起こさせない」。いつも描くためには取らなくちゃならないわけですね。「情感から離れて、なるべく情感を通して見て取ること、描いていくと、それでもそこに貫く抒情がある。それが今日詩人が求めるべく抒情なんだ」と。これは朝鮮人の私にもよく思い当たることがありますよ。うちの国でも、今なお韓国だって随分優れた詩人がおりますし、いい詩集がたくさん出ています。日本と違って向こうで何十万部も売れる詩集はざらにありましてね。日本ではそれはできない国でありますんですが、韓国でも詩集の評価となると、抒情的でいい詩集だと。抒情的で、という言い方が褒め言葉になるぐらい抒情と情感との間の見境がうちの国にはないんですよね。
 
西橋:  まずベースに批評精神というものがあって、それをこうきちっとものを見つめて見つめて、それを表現していく。その中に流れる抒情というものが、本当の抒情なんだと。批評精神がまず大事なんだと。
 
金:  日本の現代詩は他者と噛み合うことが全然ないんですよね。あくまでも自分、個人の私的なことの心情を観念的に書くということですから、他者とは噛み合うことをいつも意識する。他者の生―生きていることが、自分の生きていることと兼ね合うもんだということを、いつも自分の思想はだしていくことが大事なんですね。私はそういう点では、『詩論』からほんとに自分の一生の生き方を教わったように思うわけですね。
 

 
ナレーター:  金さんは祖国朝鮮への思いを彼岸花に託した詩です。
 
「彼岸花の色あいのなか」抜粋
 
     どこに行きつく日日であろうとも
     終わりはいつも終わらないうちに終わっていくのだ。
     またそのさきのどこかのへりで。
 
     わたしを彼岸へ乗せていきませ。
     見果てぬ涯のはてない祈り
     摩訶曼陀羅華曼珠沙華(まかまんだらげまんじゅしゃげ)
 
     なぜ日本では
     マンジュシャゲがシビトバナで
     チョウセンアサガオはマンダラゲなのか。
 
     夏の茂みに尾羽打ち枯らし
     叶わぬ思いが毒をひそめる。
     それでも花を彼岸におくのか。
 

 
西橋:  「詩を生きる」とおっしゃいますね。
 
金:  文学というのは書かれたものですけどね。特に小説は書かれない小説は存在しないわけでありますね。ですが、詩は書かれなくても存在するというふうに、私は信念としては持っています。だから、人はほとんど詩は、人間がみんな万人に等しく持っているものです。自らめいめいが持っている。一生涯平教員で通す人もあれば、賄え場で調理して包丁握って一生過ごす人もおりますし、線路工夫で過ごす人もおりますしね。その過ごしている過ごし方が、自分が生涯をそこで熱中している、懸けていることで生きている人にはもうその人の詩を持っている。人はめいめい自分のがもう既に詩だと思っているんですよ。
 
西橋:  生き方そのものが?
 
金:  はい。つまり詩の究極は存在そのものが詩であることが一番美しい詩なんですよ。「詩人とは何か」というと、そういう存在の美しいものを言葉で発語できる人が詩人なんですね。詩はみんなが持っているものですよ。喉元までも突き上がる思いを持って、言葉でない表現で生きている。絵描きもそうでしょう。映画を見て私たちがいいと思うのもそうです。映画を作った人の詩に私たちは出会っているわけですよ。だから、詩は、文字にならない詩はたくさん存在します。つまりそれを見て取ることができる人、そういう思いを抱えて言葉にしないまま、詩を抱え持っている人の思いに出会う。むしろその思いと兼ね合う自分、その時、詩が私的であり得るはずが絶対ないんですよね。
 
ナレーター:  その後金さんは高校の社会科の教員に採用され、十八年間神戸の公立高校で朝鮮語の授業を受け持ちました。金さんは日本人や在日韓国朝鮮人の生徒たちに、言葉を通した文化の多様な豊かさを説き続けます。日本に来ておおよそ五十年後、ついに祖国チェジュンドへの帰郷を果たします。
 

 
西橋:  二十歳でお父さんに助けられて日本に来られて、そして再び祖国の地を、金時鐘さんが踏まれたのが、六十九歳の時、一九九八年ですね。
 
金:  そうです。金大中大統領になったお陰で、その年ですね。
 
西橋:  半世紀近くたってようやく。
 
金:  まったくそうなります。お父さん、お母さんが亡くなってちょうど四十年目ぐらいでした。
 
西橋:  当然亡くなる時にも会えなかったわけですけれども、半世紀近く経って、祖国の地を踏んだ時の金さんの思いというのはどうでしたか。
 
金:  家の国の習俗からして、親の死に目に会えなかった。会わないばかりか、墓すら放置したままというのは、もう人間のうちに入らないようなものです。不孝も窮まった存在なんですね。父母の墓はどこにあるかわかりませんが、うちの母方の縁戚の誰かが墓を見てくれているというふうには思っておったんですけど、当然済州島というのは母方の親戚だけがおるわけですけどね。僕は罵倒されるということが当然と思っているわけですから。
 
西橋:  親不孝者だと、
 
金:  罵(ののし)られると思いましたね。済州島空港のゲートを出たら、四十年間墓守してくれた母方の縁戚の甥に当たる人と、私がずーっと済州島におった時、ずーっと一緒だった姪が来ていまして、家族連れて。罵倒どころか、姪が来て、走り寄って抱きついて、「よく帰ってくれました」と言って、しゃくり上げますね。甥もたってしゃくりあげていまして。罵倒する人がいないのもまた辛かったですね。私が、何故離れたかを知っているわけですからね。罵倒せずに、「よくぞ帰ってくれました」ということは、ほんとに堪えました。お父さん、お母さんの墓へ行くこと事態が恐くてね。何日も寝られなかったですよ。飛行場に着いて、その足でお墓に行ったんです。飛行場から近いところでした。道ない道の八重葎の生い茂ったのを払って墓に行ったんですが、よく墓が手入れされていましてね。うちの国の墓は饅頭みたいな墓で、一年でも草ぼうぼうになっちゃうんですが。道無き道のところへ行って、墓がよく手入れされていまして、一昨年も行ったんですが、何回目行っても、うちの家内が気兼ねで、よう聞かなかったことがありましてね。四十年墓守をしてくれた甥に、僕のことを、「写真ぐらい一枚ないでしょうか?」と聞いたんですよね。甥と姪が絶句しちゃって、そして、「写真全部私が燃やしました」と言って、わんわんと泣き出しましてね。写真館が家の隣で兄弟付き合いをしていましたので、随分家に写真があったんですけどね。とにかく私に関わるものはみんな燃やした。「痕跡がないように、残っているものは全部私が燃やしました」というてね。家内もさすがにはじめて「四・三事件」がどれほどのものかを実感したんでしょうね。だから罵倒されないことも辛かったし、そのように受け止めてくれることもあまりにも有り難すぎてね。
 
西橋:  その後、何度も、去年も帰られていますね。
 
金:  それでも済州島は七つから大きくなったところですが、とにかく馴染めないということがあるんですね。また親父が北出身の者ですから、済州島の言葉と違う言葉を使っていることもありましたし、それよりもいい思い出がないんですよ。特に〈四・三事件は思い出したくない〉というふうに、自分をずーっとそういう訓練で何十年も耐えてきましたからね。少しでも思い出したら、とても何日も寝られん状態になりますから。昨年十一月、済州島の作家詩人たちに呼ばれて、文学シンポジウムに参加しました。それは二年前から言われておったことが、私の都合で―実は本当は行くたくなくてね。とうとう逃げられずに昨年行ったんですが、それは篤い篤いもてなしを受けまして、随分本当に大きな文学シンポジウムでしたけどね。三日間やりましたが、大きい会場が満杯の状態で、私がメインで講演をするようになりまして、〈何を話したらいいものか〉と、こっちを発つ前から考えていたんです。何せ一週間ぐらい空かそうとすると、用事を片付けていかんならんものですから、徹夜が二日も続いていたんですが、なんか構想が纏まらなくて、飛行機の中で覚悟を決めたのは、せっかく行くことだから、俗受けするようなことじゃない話をしよう、と。私がほんとに思っていることを、そして国の文学をやっている友人たちと分かち合える話をすべきだと思ったのが、「情感と抒情について」の話です。一時間にわたって話しました。会場はなんか水底に沈んだように静まっていましてね。予定の時間を終わったら、司会者が、「質問がありませんか?」と言ったら、反応が全然ないんですよね。ほんとに水底にずぼんと沈み込んでしまったみたいな、寂(せき)として。僕はとても堪えかねて、「いや、こういう抒情の問題は韓国では十年先じゃないと論議にならないと思いますよ」と、私は居たたまれなくて、取りなすつもりでそう言ったんです。そうしたら僕のすぐ前におった三十五、六の青年がすくっと立ち上がって、「金時鐘先生の今のご発言は傲慢に過ぎます」と言いましたね。それで会場が漸くうぉっと揺らぎましたよ。執行部がせっかく招いた主賓客になんと失礼なことを言うか、と思って色をなしていましたけどね、真っ青にね。僕はほんとに救われました。「今のご発言は厳しく受け止めます」と。つまり「傲慢過ぎる」と言った人は、何故傲慢かというと、「私たちが質問がないか、と言って黙っているのは、それほどにも重たい問題を提起して下さったので、それを私たちはどう受け止めるべきかを今思い巡らして、今座っているところなのに、それをまだ十年かからなくちゃわからん、というのは傲慢だ」と言われたんですね。僕は、それでもうほぐれました。済州島が近くなったですよ。それで三日間ほんとにいい交流ができましたよ。彼らは、「情感と抒情とは別だ」ということを初めて聞くんですね。本土からの参加の人たちもおりましたが、だから「情感と抒情」についての違いなどの論議は、韓国でもかなり深まってくると思います。
 

ナレーター:  現在、金さんは一九四○年に日本で刊行された『朝鮮詩集』の再翻訳に取り組んでいます。『朝鮮詩集』は、朝鮮の詩人たちの詩が、朝鮮人の文学者によって流麗な日本語に翻訳されたものです。島崎藤村をはじめ日本の名だたる文学者が賛辞を寄せました。当時この詩情を愛読していた金さんは、今、朝鮮語で書かれた元の詩を自らの日本語で再翻訳をおこなっています。
 

 
西橋:  イ・ハユン(異河潤)さんが作った「野菊」という詩を、キム・ソウン(金素雲)さんの訳でまずご紹介したいと思います。
 
     「野菊」
            イ・ハユン(異河潤)
            キム・ソウン(金素雲)訳
 
     愛はしや野に咲く菊の
     色や香やいづれ劣らね
     野にひとり咲いては枯るる
     花ゆゑにいよいよ香はし。
     野の花のこころさながら
     この国に生える詩人(うたびと)
     ひとり咲き ひとり朽ちつつ
     偽らぬうたぞうれしき。
 
金:  これは、日本人の心情にはほんとによく入ると思いますね。
 
西橋:  五・七調で、
 
金:  そこはかとないなんか感傷も働きますしね。
 
西橋:  この詩を、今度は新たに金時鐘さんが訳されて、これから出版するんですけどねも、金時鐘さんが訳された「野菊」を読みます。
 
     「野菊」
            イ・ハユン
金時鐘訳
 
     私は野に咲いている菊の花を愛します。
     色と香りいずれもお劣りはしませぬが
     広い野にいじらしく咲いては散る花ですので
     私はその花を限りなく愛します。
     私はこの地の詩人を愛します。
     侘びしくとも思いのままに
     咲いて散る花のように
     色も香りも偽りひとつありませんので
     私はその人たちが詠む詩をこよなく愛します。
 
金:  詩として、その国過ぎるぐらいの詩なんです。原詩それがそうなんですよ。それに金素雲さんは、心情のどっかには亡国の憂いをいっぱい抱えておられたんでしょうね。そこに日本の短詩型的な音調律がちょうどうまく合わさったんでしょうか。だから『朝鮮詩集』のおおかたがそういう感じの思い入れがすぎる情感的な訳が多いんですよ。金素雲さんの、有り体にいえば、聖戦完遂に対する文章もたくさん書きましたし、詩も天皇陛下に忠節を尽くすようなことにもかなり書いていらっしゃいますけど、金素雲さんだけに限らなくて、あの暴圧の時代に誰がそういうことに関わりなく身を処し得たかということはできない時代ですね。ですからそれが論難されるべきことではありませんで、『朝鮮詩集』にも、かつての植民地統治に否応なく参加させられ、八紘一宇が一番いい思想で、正義の戦争を今やっているんだということに、否応なく組み込まれた人がかなりおります。ですが、あの時節、それでも暴圧の谷間の隙間風みたいに、そこで揺れておった人たちの詩なんですね。だから心の奥でジンとくる詩人たちの詩です。
 
西橋:  そういう意味では、つまり金時鐘さんの思いとしては、元々のこの一つ一つの詩を書いた朝鮮の詩人たちの思いをできるだけ今の日本人にわかる言葉でもう一度表現し直してみたい、翻訳し直してみたい、と。
 
金:  それと私自身が、つまりすべから 日本語で日本の一番美しいいい言葉といいうような音調律のとれるすんでのところで、七五調になっているような、歌を詠う形の言葉にぞっこん打ち込んで、それを育ったものですからね。それから切れるということは、私の場合解放とは言いましても、今六十年経て南北に分断された意味でありますし、私が自分の体に照らしてわかっていることは、解放はなったものの半年経たずに元の木阿弥に戻ってしまったようなもの。何から解放されたのか、今でも私にとっては、日本に来て六十年近くなりますけど、何から私にとって解放とは何か、今でも自問自答していますよ。私は自分の国は民族心とは文字までも言葉までもなくさせようとした中で、無くさせる側の言葉を身に付けた者として、私にとって行き着くところ、私にとって解放は日本語から切れることなんですよ、僕は。つまり小説にみるような流麗な精緻な日本語でない日本語。自分を育てあげた日本語でない日本語で、日本語への報復をしたいという気分をもっているんですね。そのためにも、『朝鮮詩集』というのは早くから情感過度までの情感ない原詩になるだけ原詩ににじりよれるような訳がしてみたいと思ったものですね。訳がしたいというのはそのまま自分自身の、自分の日本語の検証でもあると思っています。
 
西橋:  今日はどうもありがとうございました。
 
     これは、平成十九年三月十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである