大往生のすすめ
 
                  香川県立中央病院医師 朝 日  俊 彦(としひこ)
一九四六年香川県高松市生まれ。一九七二年岡山大学医学部卒業。一九七十九年岡山大学医学部講師を経て、一九八二年から香川県立中央病院泌尿器科部長。現在、岡山大学医学部臨床教授、香川大学医学部臨床教授、香川保健福祉大学非常勤講師を務めるかたわら、日本ホスピス在宅ケア研究会副代表、香川ターミナルケア研究会世話人、かがわ尊厳死を考える会会長を務める。著書に「あなたは笑って大往生できますか」「笑って死ぬために」「笑って大往生」ほか。
                  き き て      金 光  寿 郎
 
ナレーター:  真冬の明るい日差しの中に広がる香川県高松港。瀬戸内海国立公園の一角にあって、四国の玄関口としての長い歴史を刻んできました。今日は、高松市の中心にある香川県立中央病院にお勤めの朝日俊彦さんをお訪ねします。朝日さんは、昭和二十一年のお生まれ、岡山大学医学部に学び、講師を勤めた後、現在はこの香川県立中央病院泌尿器科主任部長として忙しい日を送っておられます。一方で朝日さんは、「日本ホスピス在宅ケア研究会」副代表や「香川尊厳死を考える会」会長など終末医療についての認識を深める活動にも携わり、身体の病気を治すだけでなく、達観した死生観による心のケアにも尽力しておられます。気さくなお人柄で、健康相談に来る人にも気軽に応じておられます。港に近い松福町にあるご自宅で、終末期から死後の世界までを視野に入れた医療のお話を伺います。
 

 
金光:  先生の病院にいらっしゃる患者さんは、当然自分の病気を治してもらおうと思っていらっしゃるわけで、先生もそれに応えて当然治療されるわけですけれども、ところが先生があちこちで講演なさっている記録なんかを拝見しますと、どうも病気を治す短い期間だけじゃなくて、もっとその人がどういう生活をしていて病気になって、その病状が、先になって、どうなったらこの人はどういうふうに生きればいいか。なんか非常にロングスパンで患者さんのことを考えていらっしゃるようですけれども、そういうふうにお考えになるようになったのは、臨床を始められて何年ぐらいで、そういうふうに考え方が変わってきたんでしょうか。
朝日:  医者になってちょうど十五年目ぐらいの頃だと思います。これを受け入れるのはやっぱり難しかったですね。だから、今でも患者さんとのいろんなお話し合いの中では、心の中で葛藤があるわけですね。死んでいく患者さんに対して温かく見守っていくということはとても大事なことなんですけども、死の恐怖というのはみなさんお持ちですから、それをなくしてしまうというのは、生身の人間としては非常に難しいと思いますね。だけどもその中でいろんな学びというふうなことで自分なりに習練といいますか、そういうようなことを積んでいますと、恐怖心というのはだんだんと薄れていく感じはしますね。そうすると、患者さんに対してでも、「こういうふうに思われたらどうですか?」とか、「こういう考え方があるんですよ」というふうに説明されますと、多くの患者さんが受け入れられるようになってきますから、これは大事な観点なんだろうと思うんです。だからそこのところの話をしないと、全然話し合いになりませんけれども。
 
金光:  昔はあんまり病院ではそんなふうな話は出なかったと思うんですが、先生がそういうふうに考え方が変わるまでに何か良い方法があったんですか。
 
朝日:  最初は、僕も恐かったですからね。何とかそこから抜けでないことにはこの苦しみはとれない、と。世間の方は、勿論死ぬということはまったく日常的には経験しないわけですけれども、私らは病院で仕事していますと、日常茶飯事ですから、そこから逃れるということは難しいわけですね。そうしたら、「死ぬとはどういうことか」ということについての勉強をしておく必要がありますし、なんぼ勉強しても頭の中で考えるだけではわからないんで、実行しないといけないと思いましてね。
 
金光:  実行というのは、どういう実行ですか?
 
朝日:  その時に、とにかく本に書いてあったわけですけれども、「仏教の八つの正しい道(八正道(はっしょうどう)=正見(しょうけん)・正思(しょうし)・正語(しょうご)・正業(しょうごう)・正命(しょうめい)・正精進(しょうしょうじん)・正念(しょうねん)・正定(しょうじょう))を歩めば四苦八苦から解放されるのだ」と。「四苦八苦」というのは、生・老・病・死の四苦と愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五陰盛苦(ごおんじょうく)の四苦を合わせた八苦ですが、こういうふうな、いわゆる普通の人間が味わう苦しみから解放されるのだ、ということを読みましたから、とにかくやってみようということで始めたのが三十九歳の時ですね。
 
金光:  ということは、二十年ぐらい前ですね。
 
朝日:  そうですね。
 
金光:  その「八正道(はっしょうどう)」というと、正見―正しく見るとか、正しく思う―正思、正しい言葉―正語というような、あの八つですね。
 
朝日:  そうです。
 
金光:  それを具体的にどうなさったんですか?
 
朝日:  それを毎日とにかくできているか、できていないか、ということを日記に全部書くようにしよう、と。日記を付けていこう、と。普通心の中で思ったことは残りませんからね。
 
金光:  さっさと消えちゃいますからね。
 
朝日:  そうです。そうすると、自分が、前はどうだったかとか、今はどうだったか、それは思い出すことはできますけれども、具体的に出すのは難しいと思うんですね。だから具体的に何かということになりますと、記録に残す。分かり易くいえば、日記を書き続けるということです。そうすると日記で、自分がこの時にこう思ったとか、そういうようなことをずっと書いていくわけですね。
 
金光:  随分細かく書いていらっしゃるんですね。
 
朝日:  そうすると、「あ、こんな時にこんなことを思っている」とか、「あんなこと思っている」とか、患者さんとのやり取りで、「こういう拙いことがあった」とか、そういうようなことが残っていますから。
 
金光:  次から次へといろんな事実が出てくるということですね。
 
朝日:  気付きがありますね。ここに赤字で書いていますね。これが特にインパクトが強かったことを、こういうふうにちょっと書くようにしたほうがいいと思って書いているんです。だから日記をただダラダラ書くんじゃなくて、何かインパクトがあったことを最後の一行に赤字で書け、と。そうしたらそういうような気付きが毎日毎日の積み重ねの中である、ということが将来にプラスの要素になっていきますから。これは習慣になりますと、書かないと寝れないんですね。だから学会へ行く時でも、これだけは持っていくんです。必ず寝る前には書く。
 
金光:  私なんか忙しいと、出張なんかしますと、一週間ぐらいブランクで、一週間前を思い出そうとすると四苦八苦しますね。毎日書いていると、そんなことは勿論ないわけでしょうけれども。
 
朝日:  そうですね。だから海外へ行く時も持っていくんですね。これだけは寝る前に書くということに決めています。そういうふうにしていますが、忘年会や何とかで随分飲んだりして、そういう時は書けせんから、次の日の朝、起きてすぐ書くようにしているんですけどね。
 
金光:  もう何年ぐらい続けていらっしゃるんですか。
 
朝日:  そうですね、もう二十年ぐらいなりますね。
 
金光:  そうですか。それを一日の終わりのしめになさる。それが終わると安眠できるという。
 
朝日:  そうですね。僕の習慣ですから。
 
金光:  そうすると、先生は治すほうでいらっしゃるけれども、そういう態度で続けて書いていらっしゃる、ということになるんでしょうね。
 
朝日:  患者さんの病気を治すということで二つの観点があると思うんですね。一つは、「身体を治す」。一つは、「心を治す」。そうすると、人間の身体ということになりますと―「生・老・病・死」これ真理ですから―そうすると身体を治すということは、成功ということは難しいと思うんですね。だって必ず死ぬわけですから。だけども、心を治すということは可能なわけですね。そうしたら身体ばっかり目がいくんじゃなくて、心にも目をやった医療というのが大事なんだと思うんです。記録を残さないと、「出来たか、出来なかったか」という評価ができませんから、だからそういうふうにしながら、自分としてはやっております。普通ものの見方というのは自分本位ですから、どうしても患者さんのために「こういうことをしよう、ああいうことをしよう」というんですけれども、病院の都合とか、例えばレントゲンの検査でも、「この日しか予約が取れませんでしたよ」と言うたら、患者さんに、「この日に来い」ということですね。
 
金光:  それはそうですね。
 
朝日:  患者さんの都合を無視すると言いますか、そんなあたりにちょっとした横暴さというのがあるんだろうと思うんですね。患者さんのための医療だったら、患者さんの「ご都合は如何ですか?そのご都合に合わせますよ」というのが大事な視点なんですけども、なかなかそれは難しいと思うんですね。だけども、そういうふうなものの見方ですね。自分ばっかりがいいんじゃなくて、相手にとってもいいことを、あるいは第三者からみて、公平なものの見方はどうかとか、そういうふうな練習を随分しますと変わりましたね。
 
金光:  しかし、最初は自分でも、自分は不公平だ、とあんまり思っていらっしゃらないでしょう?
 
朝日:  当たり前と思っていましたから。
 
金光:  患者のために良かれと思ってやっている、
 
朝日:  そうです。
 
金光:  それが日記を書いていらっしゃると、必ずしもそうでないという場合も出てくるわけですか。
 
朝日:  相手の立場にたって、という考え方をするわけですから。
 
金光:  それが出てくると、「ちょっとあの言い方はこうしたほうが良かったなあ」とか、何かその辺のそれまで気付かなかったところに気付かれることが増えてくるわけですね。
 
朝日:  そうですね。とにかく記録として残しておかないとわからないということがありますから。最初の頃は、厳しい病気の患者さんに説明しますね。「こういうような病気で、こうで、こうなって、こういうふうなことが考えられるから、こういう治療がどうですか?」と説明しますね。その説明しているところをテープにとりまして、録音したものを後から聞き返しまして、「ああ、こういうふうに表現したのは、これは拙かったな」とか、「ここはもうちょっとこういうふうに言ったほうが、患者さんにとっては良かったんではなかったかな」というのは練習しました。それから患者さんとけっこう僕はお付き合いさして貰いました。そうすると、馴染みになりますと、向こうも嫌なことを言いますわね。それが勉強になるんですね。普通は、先生には言えません。医者には言いたいけど、言いたいことが言えないことになりますと、いつまでも天狗というんですか、お山の大将といいますか、それだと結局わからないずくで終わってしまう危険性があるんだと思うんですね。
 
金光:  そうすると、そういうところを患者さんからパッと言われると、なんかそれが、いわばエゴの皮が少しずつ剥がれてくるという方向に、嫌でもおうでも気が付くと変わってきますでしょうね。
 
朝日:  それが最初の頃は、例えば僕が患者さんに、「こうしたらどうですか」とか、「こういう薬がありますよ」とか言いますね。普通は「はい」と言ってくれるものと思っていますよね。
 
金光:  それはそうでしょう。
 
朝日:  玄人と素人ですから。ところが拒否反応を示されますと、ムカッとするわけです。
 
金光:  それはそうでしょう。せっかく診てやっているのに、と。
 
朝日:  若い頃はね。ところが不思議と、そういうような「八正道」で、ある程度大きなものの見方ができるようになってきますと、患者さんが言うと、「あ、そういう考え方もあるのかな」とか、「あ、それも尤もだわ」というて素直に聞くことができる。そうしたら、「僕の考え方はこうだけども、あなたの考え方はこうで、その折衷案として、何かその中でより良いものを打ち出していくことができないでしょうかね」ということになってくると、とても穏やかな対応ができてきますから、そうしたら患者さんも喜ばれますね。
 
金光:  そうすると、そういう信頼関係ができたところで、病状の説明とか、それからいわば身の上相談みたいなところまで話が進むんだろうと思うんですが、そういうことがだんだん多くなってくるわけですね。
 
朝日:  そうですね。だから患者さんに質問して貰えるように。患者さんは聞きたいことがいっぱいあるわけですから、こちらが壁をつくっていますと聞きにくいですよね。だから病気の説明する時に、普通はざっくばらんに、「あなたの仕事は今まで現役時代はどんなことをされていましたか?」とか、「どういうことが得意でしたか?」とか、例えば漁師さんだったら、餌の付け方とかね、僕は素人ですから、向こうはプロですから、そんなことを聞きますと、「先生、こうやるんですよ。ああやるんですよ、こうするんですよ」と教えてくれますね。僕は聞き手ですから、教えて貰えますね。そういうふうな会話をした後で、実は病気のことについての話にもっていきますと、患者さんがけっこう、「先生、そんならこれはどうですか?」とか、「ここはどうなっていますか?」ということで、けっこう質問するんですね。そうすると、いい関係ができてきますから、だから雑談と言っていいかどうかわかりませんけども、そういうふうなのを入れる。だけども、今は忙しいです、時間に追われていますから、だからなかなかそういう余裕のある患者さんとの話し合いというのがなかなか難しい状況だというのも事実ですね。
 
金光:  そういう長いご経験の中で、現在の人の中に、「自分はいつかは死ぬかも知れない」ということを考えていらっしゃる方というのは、どの位いらっしゃいますか。
 
朝日:  少ないと思いますね。僕も随分たくさんの方をお見送りしましたけれども、それでも僕よりか遙かに、「あ、この方は凄いわ」という方はいらっしゃいますね。そういうような方からまた教えて頂けますし、今頃は患者さんといろんなお話をしていましても、「死ぬことを忘れているんじゃないんか。ずっと生き続けるんじゃないんか」と錯覚されている方がいるんじゃないかと思いますね。「死ぬんだ」ということをある程度認識して頂いて、そして、「どんな死に方をしたいのか」という、ちょっとしたイメージをもってもらうだけでも、これからの生き方というのが変わってくるんだと思うんですけれども。
 
金光:  死に方と生き方というのは、これは違うもんですか。
 
朝日:  これは生き方が死に様になりますし、その人の死んでいく姿が生きてきた証(あかし)になってきますから、だからとても「いい人生を送られた方は、いい死に方をされる」と思いますし、この辺りは連動しているんじゃないかと思いますね。
 
金光:  そうすると、今まで考えたことのない人に、どうもこの人が癌の末期が近づいているという場合には、そのことを知らせてあげないと気が付かないわけでしょう。どうしていいか、その方はわからないということが出てくるんじゃないですか。
 
朝日:  いや、それは、「知らせる」というよりか、むしろ「思い出してもらう」という感覚ですね。だから、「あなたにしてみたら、お父さんもお見送りされたはずだし、お母さんもお見送りされたはずだし、お父さんやお母さんをお見送りされた時はどうでしたか?」と。おじいさんおばあさんもありますけれども、そういうような時に、自分がその時にどう思われたとか、その立場にあなたがもうそろそろ近づいているんですよ。だからそれなりの心の準備がいる。だからこれは、「子は親の背中を見て育つ」というふうに、昔から言いますよね。そうすると、だんだん歳をとっていくに従って、子や孫に対して、いい歳の取り方、それから病気とのお付き合いの仕方、それから最終的には臨終を迎えるわけですけれども、そういうような時に、子や孫にそういうふうないいものを見せてやるというのも、これも大事な教育なんだろうと思うんですね。
 
金光:  そういうふうに自分の両親とか、そういう人をお送りした方のことに気が付いて思い出されますと、その人の態度と言いますか、その辺の心境も変わってきますか。
 
朝日:  だから僕は、「あなたのお父さんの時はどうでしたか?」と言いますよね。そうすると、「あ、そうだった。おれもその番に来たんだ」と言うて、気付くわけですね。そこから「親父の時はああだった。お袋の時はこうだった。そうすると自分としてはこういうふうにしてみようかな」とか、「こうなりたいな」ということが出てきますから。そうすると、それでまた家族の方も交えて話し合いをすることで、いい話し合いができてきますし、その辺りははじめてなんだ、ということじゃなくて、先輩と言いますか、先達がおるわけですから、だからそういうふうな中で、自分がそれを見習いながらやっていくというふうに思って頂ければ、そう難しい高いハードルではないと思うんですけどね。
 
金光:  自分もそういう時期が近づいたのだなあと思われた場合に、今度は亡くなった人のことよりも、自分が死ぬという場合に、死に対する恐れというのが、人間もちゃんとインプットされているんだろうと思うんですが、それを解きほぐすためにはどういうふうに、先生はおっしゃるんですか。
 
朝日:  この辺りですね、現代の方はどういうふうに思われているかというのは、はっきりしたデータがありませんけれども、来世観をもって頂くというのは大事なんだろうと思うんですね。
 
金光:  亡くなった後、何も無くなるんではない、と。次に世界があるんだ、と。
 
朝日:  それから三途(さんず)の川を渡って向こうに行くんだ、と―彼岸といいますけども。だから、そこのところで来世観がいくらかでも持てるか持てないか、というのでまったく変わってくるんですね。僕も患者さんとたくさんお話さしてもらうんですけれども、「もう死んだら終わりだ。もう無くなるんだ」というふうに言われる方は藻掻(もが)くんですね。
 
金光:  でもそういう方はいらっしゃるでしょうね。
 
朝日:  そう、けっこういらっしゃいますね。それでも僕はベッドの横へ行っては、「お父さんやお母さんが向こうで待っていますよ」とか、そういうようなことをずーっと言い続けるんです。そうすると、「騙された積もりで逝ってみる」と言われますけども、騙されたつもりでも、そういうふうな気持になってくださると、ちょっと何か肩の張りというのが取れてくるように思いますね。
 
金光:  人間ってみんな身体持っていますよね。悩むのは体が悩むよりも心が悩む―病気で痛い時は別としてですね。そうすると、その辺の心と体の関係とか、そういうのもそこでは当然話題にあがってくるわけですね。
 
朝日:  なってきますね。それはその人の考え方というので違ってくると思うんですね。僕もたくさん患者さんとお話していますと、だんだん身体の調子が悪くなっていくとか、弱っていくことに対して悔やむとか、どうしても愚痴ばっかり出る方と、それから案外ケロッとしている方といらっしゃるんですね。その大きな違いというのは、自分のことばっかり考えている。とにかく家族のこととか、そういうことは全然考えずに、自分のことばっかり考えている方というのが、どうも身体の具合が悪くなっていくと、非常に悔やみ方が強いですね。ところが周りの人のことを気遣っている方というのは、自分のことはさておいて、というところがありますから、弱っていっても別にそんなに狼狽(うろた)えるというようなことなく受け入れていっているように思いますね。この辺りが若い頃からの考え方が出てくるんだろうと思うんですね。
 
金光:  それに対する、いわば準備と言いますか、心の切り換え方と言いますか、何かこうやればいい、というような方法があるものですか。
 
朝日:  人生を見直して貰うというのは、とても大事なんだろうと思うんですね。アメリカのホスピスでも、患者さんに、「自分のライフ(命)がズーッと物心(ものごころ)ついてから今日までの自分がどうだったか」ということを見直してもらうような作業が、非常に向こうは具体的なのがあるんですね。だから、自分が生まれてからどうだったか、というのをずーっと記録していく。つまりそれをずっと埋めることによって自分史が出来上がるわけです。その自分史が出来上がりますと、「あ、ここはこうしたら良かった」「ここはこうすべきだった」「こんなに両親の恩を受けて、自分は育てられたんだ」とか、いろんな気付きがありますから、そうすると、残された時間の中で何かお返しできないか、という気持になってきますね。そうすると、その方にとってはとても良い残りの充実した時間が送れるんだろうと思うんです。
 
金光:  先生も、「書いてみませんか」ということをお勧めなさるんですか。
 
朝日:  これはあるんです、ちゃんと教材が。
 
金光:  そうなんですか。
 
朝日:  アメリカのホスピスで作られたものが、勿論日本語に訳されていますけどね。僕も患者さんにお勧めするんですけれども、それを自分でやってみよう、と。やってみないといけませんから。自分で物心ついてからずっと今日までのことをずっと質問に従って書いていっていますと、両親のこととか、いろんなことの質問を埋めなければいけませんから、埋めていっていますと、涙が出てくるんですよ。その感激といいますか、感謝の気持と言いますか。
 
金光:  日常生活で忙しい間は全然考えてなかったような子どもの頃のことが思い出されてきて、「あ、悪かった」とか、そういうことになるわけですね。
 
朝日:  そうですね。忘れていますから。静かな時間の中で、勿論慌ただしいところでは無理ですけれども、静かな時間の中で、自分がズーッと書いておりますと、「あ、こんなこともあったんだ」「こういうこともあった」ということを思い出しますから。だからそういうふうなのが患者さんにとってとても大事な作業だと思いますね。
 
金光:  健康な先生がそれだったら、患者さんが時間をかけて、それをやっていると、変わられるでしょうね。
 
朝日:  それは見方も変わってきますし、それがある意味でご遺族の方には形見になるんですね。だからそういう意味で、これは子や孫に残していく自分史としても、とても良い教材だと思うんです。アメリカのほうはそういうような教材がなかなか発達していますね、
 
金光:  この場合は、「自分は人にこうされた」とか、虐めなら虐めの記憶だけでなくて、自分がその時「どう思ったか。自分は何をしたか」。むしろ自分史だから、人のことを書くよりも、自分がその時「どう思ったか」。その辺のところも書いておかないと自分史にならないわけですね。
 
朝日:  自分が「どう思ったか」という蘭もけっこうあるんですよ。だけども、してもらったことがけっこう多いんです、忘れていますから。僕らは生活していますと、人からしてもらったことは当たり前。してやったことは覚えている。例えば、親からしてもらったことは忘れて、子には「こんなことをしてやった。あんなことをしてやった。だからわしが年取ったら面倒みろ」とか、その辺りになってくると、いい人生を送るには難しいんじゃないかと思うんですね。してもらったことを十分に思い出すことができると、恩返ししようという気が起こってくるようです。
 
金光:  それを実施なさった方は、みなさん、自分の今まで気付かなかったことに気付かれる方がたくさんいらっしゃるでしょうね。
 
朝日:  「いい宿題ができた」といいますね。
 
金光:  それができた頃には、今、病気がどうあろうと、自分がこれからどう生きればいいか、ということにも、新しい目が生まれてくるわけですね。
 
朝日:  そうですね。残された時間、例えば一ヶ月とか、残された時間が短い時に、もうあとすることがない。例えば、死ねば終わりだ、ということであれば、することがないですし、だから医療者にしても、掛ける言葉、例えば何か慰めの言葉掛けても虚しいだけだ、ということになってしまいますけれども、そういうような長い人生の中での今日があって、それからまた先がある、と。つまり過去、現在、未来がある、と。未来があるんだ、と。それはこの過去の延長線上にあるんだ、ということに気が付いてもらうと、これからどういうことをしていくか、ということでも、話題がいろいろできてきますから。
 
金光:  例えば、あと一ヶ月、あるいは二週間なら二週間という場合でも、するこれが出てくるわけですか。
 
朝日:  はい。
 
金光:  「死んだら終わり、何もない」と言ったらすることがなくなるわけですけれども、それをやってくると出てくるわけですか。
 
朝日:  宿題みたいなのがありますから。そういう意味で、生き甲斐―これ亡くなる前だと死に甲斐というのかもわかりませんけれども―だけども「生き甲斐」というのが出てきますと、意気消沈しているというんじゃなくて、活気があるというんですか、生き生きとしてくるんですね。
 
金光:  具体的に、どんな方でもいいんですが、例えば病状が重くなって、本人も自覚されて、あと十日なり、あるいは一ヶ月なり、ということになれば何をするか。例えばどういうことをなさるんですか。
 
朝日:  勿論その人によって課題は違いますけれども、それでも身辺整理とかがありますよね。
 
金光:  まず奇麗にすることがあるんですね。
 
朝日:  そうですね。自分の心の整理というのもありますし、それから身内の整理とか、いろんなことがありますよね。まず財産ある方だったら当然財産の整理もありますし、いろんなことがあって、そういうような整理ができればできるほど、落ち着いてくるようですね。ある程度整理ができますと、次に何をしようか。過去の清算を済まさないといけませんから。過去の精算が済みますと、これから何をしようか。ちょっと建設的になってくるわけですね。
 
金光:  そうすると、もう無になってしまうんだったら、何もやる気ないですけれども、そうじゃなくて、今までこれだけ世話になっている。だから自分は何かしなきゃと思うと、それに応じてやることが次々に生まれてくるもんですか。
 
朝日:  そうですね。例えば分かり易いのは両親がいらっしゃるから、そうするとお父さんお母さんの関係だけでもわかりますね。これから亡くなるわけですけども、向こうへ逝ったらまた会うわけですから。そうしたら、そのお父さんやお母さんにどういうお礼の言葉とか、場合によっては言い訳も言わないといけませんし、それから何十年も経っていますから、自分はこんなに頑張ったんだとか、そういうような報告とか、そういうようなこともできるということになれば、それまでにすることというのは出てくるわけですね。
 
金光:  そこまで考えの中に入ってくるわけですね。
 
朝日:  そうですね。
 
金光:  そうすると、あんまり死んだ先がどうこうと、悪いことを考えるよりも、「じゃ何を話そうか」というような、「自分が何をしたから、これを報告しよう」なんてということになってくると、けっこう忙しいでしょうね。
 
朝日:  宿題がありますから。
 
金光:  なるほど。
 
朝日:  僕の個人的なことですけれども、僕が「感動した」というのはおかしいんですけども、お袋がほんとに亡くなる四日前―膵臓癌(すいぞうがん)だったんですけども―亡くなる四日前に、「回送御礼のハガキを自分が書きたい」というんです。書くような状況ではない、死ぬ四日前ですから。そういう状況ではなかったんですけれども、「私が亡くなったら、多くの方がお焼香に来てくれるから、みなさんにお礼の言葉を言いたい」と。「回送御礼として残したい」と、お袋が言うんです。「それはみさなんきっと喜ばれるから」と思って、お袋が言ったことを、僕がメモしまして、それを印刷屋さんに回して、回送御礼のハガキを作りまして、みなさんにお渡ししましたら、みなさん喜ばれましてね。「こんな温かい回送御礼のハガキ貰ったのは初めてだ」と。その最後が、「自分の人生、とても感謝して、いい人生が送れた。満足している」と。最後に、「ああうれしい。「両親に、もうすぐ会えます」というて、それで締めているんですね。だから、そういうふうにして亡くなっていったお袋というのは、ほんとに有終の美を飾ったんではないか。僕は母を自慢するじゃないんですが、見送る側も、そういうふうに言って亡くなってくれるというのは、本当にこちらも気が安らぐというか、いいお見送りができた、という気持がしますね。
 
金光:  今、お母さまのお話ですけれども、病院にいらっしゃる患者さんでも見事な最期というか、お別れされる方はお出ででございますか。
 
朝日:  いらっしゃいますね。
 
金光:  そういう方の場合、心境はどういう感じで逝かれるんでしょう。
 
朝日:  穏やかなんだと思いますね。僕もたくさんの患者さんを診さしてもらっていますけれども、亡くなる時に、ある程度満足感が要ると思うんですね。自分の人生に対して満足できた、いい人生が送れた、と。それからもう一つ、感謝の気持がいるだろうと思うんですね。周りの人たちに対して、感謝の気持、そしてそういうふうなものが、穏やかな心境の中で執り行われている、と。だから心が揺れていたんでは難しいと思うんですね。だから穏やかな心境で、満足感と感謝の気持というのがあるんだろうと思うんですね。それで、未亡人という言葉は悪いですけれども、世間一般では、ご主人が亡くなった後で、残された方を未亡人言いますけども、「未亡人の会」というのを作りまして、みなさんにいろんなお話を伺う機会を作ったんです。そうしたら奥さんにしてみたら、ご主人をお見送りして一番安定していた方というのが、臨終間際に、ご主人が「ありがとう、ありがとう」と言うて奥さんに感謝の言葉をきちんというて、息を引き取られた方の奥さんはそれから非常に精神的に安定した生活が送れているようですね。それを聞きまして、みなさんにお勧めするんですね。亡くなる前には、「奥さんにこういうふうに言ってください」と。いい別れができるみたいです。
 
金光:  でも、そのためには、そのつもりになる構えができていないと、最期だけ取って付けたように言っても、それは無理でしょうから、なにがしかの受験準備じゃありませんけれども、そのための準備というのは要るんじゃないですか。
 
朝日:  必要だと思いますね。
 
金光:  どんな準備ができるんですか。
 
朝日:  僕は患者さんとお付き合いをさしてもらっている時に、普通「何とかこの病気を」と思うんですけども、病状によっては見通しがかなり厳しい場合がありますから、そうすると、ゴールを考えるわけです。この方はいずれ亡くなるだろう、と。そうすると、亡くなる時にこの方がいい状況で亡くなって頂きたい、と。良い状況で亡くなるためには、今、どうしておかないといけないか、ということですね。これは受験の例えでいうと分かり易いですけども、何とか受験で受かってほしい、と。そうすると、今から英語の単語を覚えて貰うとか、数学の問題をちょっと解いてもらうとか、そういうようなことの積み重ねで受験ということになるわけですね。だけども、これが受験があるから、とにかく急に「しなさい」と言われてもパニックになりますから、だからある程度早い時期から要るんですよ、と。だから、「あなたが今抱えている問題を一つ一つ解決していくようにされると、この時はとても安定したいい状況で、みなさんとお別れできますよ」ということをお話するわけです。
 
金光:  なるほど。でも、それは病院にいらっしゃる方は、病気だから、患者さんとしてでしょうけれども、一般論とすれば、人間というのは必ず死ぬという。よくいう占いにしても、「あなたは死にます」というのは、はずれっこない、とよくいわれますね。だから健康な人間にとっても、本当はその準備というのは当然あっていいはずなんですね。
 
朝日:  と思いますね。だから、僕ら病気の患者さんとお付き合いするわけですけれども、それでも突然死というのもけっこうありますからね。勿論交通事故とか、あるいは心筋梗塞とか、日本人の場合に多いのは、風呂場なんかで急に倒れて亡くなった、とかということはけっこうあるわけです。そうすると、死ぬということだけはいつ来るかわからないわけです。常に心の準備をしておくということが大事なんだろうと思うんですね。
 
金光:  心の準備の場合に、人間は、生きるためには何にも執着なし、というわけにはいかなくて、「あれもしたい、これもほしい」というのがあるわけですけれども、その辺の執着との関係というのは、うまく処理できる方法というのはあるんですか。
 
朝日:  これは毎日のトレーニングだと思うんです。よく人生のことを「一日一生」と言いますね。「一日一生」ということは、朝起きて―生まれるわけですね。寝る時が―死ぬわけですね。これで一日一生です。そうすると、臨終間際、人生の終末期というのはいつかというと、寝る前ですね。寝る前の一時間なら一時間というのが、一応人生の終末期ですから、そうするとその一時間を如何に充実して、如何に実り多いものにするか、というのは大事なんだろうと思うんですね。ところが、多くの方はテレビをズーッと見ていて、コマーシャルですと、「あれ買え、これ買え、これが欲しくないか、あれが欲しくないか」ということになりますと、欲をかき立てられますね。欲をかき立てられた状態で寝るというのは拙いんじゃないか、と思うんです。寝る前というのは、心穏やかに、そして一日のことを振り返りながら、ある程度感謝とか満足の気持を持つような日々の練習を積まれていますと、たぶんよくなるんじゃないかと思うんですね。そうすると、寝る前の一時間というのは、できるだけ心が穏やかになるように、精神的にも落ち着くような書籍を読むとか、家族で温かい話し合いをするとか、そういうふうな時間をもつような工夫というのも要るだろうと思うんですね。
 
金光:  心を穏やかに落ち着いて眠りたい。でも眠りたいと思えば思うほど穏やかになれないで、眠れない。なんか頭で考えるよりも、今おっしゃったような実践をするということがその場合必要なんでしょうね。
 
朝日:  身体のほうからズーッと動いていったり、身体のほうでやってきますと、自然にそういう感じというのはついてくるんだろうと思うんですね。この辺りはなかなか世間一般の方たちは、頭だけで考えてなんとか処理しようとしますから。「いい方法がないか」ということをみなさん言われるんですけども、たぶん具体的な方法をご存じないんじゃないかと思うんです。ちょっとした具体的なこと、例えば世の中でストレスというのがありますね。みなさんは、「ストレスを緩和したい。ストレスをなくしたい」ということを願っているわけです。そうしたらどうやったらいいか、と。発散の仕方は、と。やけ酒飲むとかですと、かえって身体に悪いわけで、ストレス発散するような具体的な方法を知るというのはとても大事だと思うんですね。僕がある時―これちょっと拙いんですけども―とても嫌な患者がいまして、その方ととにかくお付き合いしないといけない、入院していますから。けれども、嫌で嫌で、という時に―これもストレスですね―それをどうやって解決できたかといいますと、家から病院まで自転車でいくわけですけども、彼の顔を思い出しまして、ペタルを踏む度に「好き、好き」と言って踏んで行ったんですよ。
 
金光:  「好き、好き」で行くわけですか。
 
朝日:  二週間ほど経ちますと、嫌いじゃなくなりました。三週間でなんとなく好きになったんですね。これ行動ですから。だから頭の中でそれを解決しようと思っても無理ですから、行動に訴えて、具体的にそれをやってみることによって、自分の身に付くんだろう、と思うんですね。だからこういうふうなことは、多くの先達の人たちが、「こういうふうなことをやった」「ああいうふうなことをやった」というんで書いていますわね。それをやらなんだらいかんのだろうと思うんです。
 
金光:  先ほどもお話がありましたけれども、自分のことだけじゃなくて、他の人のためになんかしてあげるというか、これなかなか実際難しいことなんですけど、そこへ結び付くのには、その前に心の条件というものがないと、他人様のために、というのは出てこないじゃないでしょうか。
 
朝日:  これも練習だと思うんですね。僕は、例えば世の中で「偉人」と言われる方は、いいことをずーっとしているから偉人になるわけですね。逆に「悪人」という方もいますわね。この方たちも急に悪になったんじゃなくて、ちょっとずつ悪い練習をしていて、はじめて極悪非道なこともできるわけで、練習の成果ですね。そうすると、どういう練習をしたかによって、その人がなりたつということになってくるわけです。そうしたら、いい練習を積むというのが大事なんだろうと思うんですね。そうすると、感謝をする練習とか、相手の立場に立って考える練習というのは、とても大事だと思うんですね。僕が最初に練習しましたのは、対人関係じゃなくて、物に対してですね。女房とスーパーマーケットに行きますと、魚売り場で曲がかかるんです。「さかな、さかな、さかなを食べると頭が良くなる・・・」これ漁連の曲ですけどね。だけども、それは俄(にわか)に信じがたいんですね。それなら受験生の息子がおって、毎日、刺身を食べさしておったら受かるかというと、これは保証の限りじゃないです。これは原因があって結果がある。つまり魚を食べるという原因があって、頭が良くなるという結果がある。これ因果の法則なんです。辻褄が合っているようなんですけれども、「因・縁・果」といいますね。真ん中に大事な「縁」の部分が抜けると、話が繋がらんと思うんです。だから魚を食べて一生懸命勉強すると頭が良くなる。「一生懸命勉強する」というのを抜かすと拙いと思うんです。そうすると、例えば食べ物でも、「こういうのを食べると健康になる」と。これも「魚を食べると頭がよくなる」と同じことですから、これもちょっと真ん中の「縁」の部分が抜けているわけで、相手の立場にたって感謝する。食べ物というのは、例えば魚にしても、肉にしても、野菜にしても、果物にしても、全部いのちがあるわけで、そのいのちを頂いて生かしてもらっているわけですから、そうしたらいのちに対して感謝の気持で食べさして頂く。例えば、今晩サンマの塩焼きが出たとしますね。そうすると、サンマの立場でちょっと考えてみると、サンマにしてみたら海で泳いでいるほうが気持がいいわけです。それが幸か不幸か網に掛かって食卓に載ったわけですから、残念だとか、辛いという気持があると思うんですよ。そうしたらお箸をつける時に、一言「サンマ君ごめん」と言うて、食べさして頂く時に「君、僕のお腹の中に入って、僕の血や肉になって、僕と一緒に世のため人のためにお役に立とうじゃないか」と語りかけてやりますと喜ぶと思うんですよ。元気も出てきますしね。ところが、そういうことは露考えずに、焦げ目があるから発ガン性があるとか、これは冷凍物で身が痩せているとか、文句ばっかり言っていますと、サンマの立場がないでしょう。サンマにしてみたら、こんな人のお腹に入っても、血や肉になってやらない。すぐうんこになって出てやるとか、そういうことになると、身体の調子がよくなるというのは難しい。だから身近なところからすべて練習なんですね。そういう練習をしていますと、僕はある日気付いたのは、自転車で病院へ行きますね。仕事を終わって帰りますね。自転車が僕の帰りを待っているんですよ。ジッとね。それにふと気がつきまして、サドルをポンポンと叩いて、「おまちどうさま」というてやると、なんとなく嬉しそうな感じがするんですね。この辺りは、「そんなバカな」というふうに思えば、それはそうですけれども、だけども相手の立場というのを考えながら、感謝の気持で生活ができれば、とても幸せになってきますし、そういうふうな気持で自分の手とか足とか、そういうのにも「ご苦労さん、ご苦労さん、今日一日ありがとう」という気持で、
 
金光:  普通は考えませんけどね、なるほど。
 
朝日:  お風呂に入った時に、足の裏も奇麗になぜてやって、「ご苦労さん、ご苦労さん」という気持でいきますと、身体の調子が悪くなりました時に、「長い間ご苦労さん」と。ほんとにいろいろ有り難うという気持になるだろうと思うんですね。ところがそういうことを露考えていませんと、「この出来損ないが」とか、「この手が悪い」とか、「肩が悪い」とか、文句ばっかりいうようになってくるんで、その辺りがちょっとした考え方の違いなんだろうと思うんですね。
 
金光:  しかし、それは面白いと言っちゃ失礼ですけども、先ほどのお話を聞きながら、悪人というのは、相手のことを考えていたら相手に酷いことはできませんね。それから相手に自分のことだけしか考えていなくて、そうすると周りとの繋がりも自分の都合だけで考えると、一方通行で、向こう様からこちらになんか感謝してもらうとか、そういうことはまったくないわけですし、結局不幸な生き方に繋がるわけですね。
 
朝日:  そうですね。だからほんとに自分さえ良かれというのは、良いと思って錯覚しているわけですね。だからこれをよく喩えで、水の向こうに毬(まり)かなんかがあって、「来い来い来い」というたら向こうへいく、と。「向こうへゆけ、向こうへゆけ」と言ったらこちらに来る、という喩えがありますけれども、多くの方のためにいろいろとさして頂くということが自分に振り返ってくるようになりますから。
 
金光:  それと「因・縁・果」のお話で、日本人というのはどっちかというと、わりに短絡してしまう傾向がなきにしもあらずで、「縁」のところが抜ける可能性も強いわけですけれども、「縁」という、これは縁遠い話じゃなくて、生活に原因と結果の間の「縁」というのにもっと目を向けないと、人間関係にしても「彼奴さえ居なければ幸せなのに」という考え方と、その途中に何かこういういろいろな条件があるから、あの人もこうしたんだろうみたいな、その辺までの気配りができる、できないで、相手に対する考え方も変わってきますでしょうね。
 
朝日:  と思いますね。
 
金光:  目の付け所。何を、どのくらい見るか、ということも練習がいるでしょうね。
 
朝日:  そうですね。だから最初に言いましたけれども、「八正道」というのが非常に大きな視野を持つような練習になってきますから、そういうふうなことで、「正見」「正思」「正語」、つまりどのように物事を見るかとか、思うとか、語るとかという練習を積んでいきますと、相手の立場に立って、ということができるようになってきますと、非常に穏やかな人生が送っていけるようになってきますね。そうすると、病気なんかに対しても、病気の立場に立って考えることが出来ますから。
 
金光:  なるほど。病気の立場に立って考える。
 
朝日:  そうです。せっかく病気にならしてもらって、その病気が自分にどういうことを教えようとしているのか。病気から自分はどんなことが学び取れるんだろうか、ということを考えることで、病気に対する見方が変わってきます。
 
金光:  いいチャンスですね。
 
朝日:  そうです。学ぶチャンスですから。
 
金光:  それによって、今まで気付かなかった人生と言いますか、人間存在というものについての新しい気付きというものも出てくるわけでしょうね。
 
朝日:  「せっかく」という言葉は悪いんですけれども、病気になったわけです。これは「なれた」とも言いますけれども、そうすると、その病気から何か学び取らないのでは、貴重な人生が勿体ないですから。だから病気を否定して、何とか病気をやっつけよう、やっつけようとするんじゃなくて、病気と自分が二人三脚で歩みながら、病気から何を学び取るか。その病気によって、自分はどういうふうに心が成長したか、というふうな見方をされると、いい入院生活ができるんじゃないか、と思うんですね。
 
金光:  それでせっかく病気になったんだから、と言いますか、自分が生きているというのを見直すチャンスとして、これからいよいよこの世界とお別れするという場合、全部持っていけるわけじゃないですけれども、その辺の捨て方と言いますか、工夫もあるわけでしょう。なんか具体的に先生がなさっているその辺の工夫は?
 
朝日:  これはとても大事なことですから、死ぬ時は、裸一貫と言いますか、ある物を全部置いていくわけですから。そうすると、全部自分の身の周りにある物は捨てていかないといけないわけですね。僕が看護学生に授業にいく時によくやっているのが、四つの観点ということです。
一番目は、目に見えるものでもっとも大切なもの(例えばお金とか、今頃の若い人は携帯電話とか、大事な指輪とか、まあ目に見えるものですね)
二番目は、自分にとってとても大切な人(例えば親とか、恋人とかありますよね)
三番目は、自分にとっての行動とか、あるいは習慣(例えば碁が好きだとか、ボランティア活動とかがありますよね)
四番目は、目に見えないもの(例えば勇気とか、愛情とか、信頼とか、絆とか、こういうものは目に見えませんから)
その四つのそれぞれ大事なものを三つずつ書いて貰います。そうすると、十二ありますから、それを前に並べてもらいます。それで、「あなたはもう残り六ヶ月の命ですよ。その中で六つ捨ててください」と、捨てさすわけですね。「次は、三ヶ月になりましたよ」と言って、六つの中から三つを捨ててもらうわけです。それで、「残りはわずかです。三つのうちの二つを捨ててください」。最後は一つですね。「その一つは何が残りましたか?」ということで、それぞれ考えてもらうわけです。
 
金光:  看護学生さんには、その「三ヶ月ですよ」とか、「あと一ヶ月ですよ」というのはどのくらいの間隔を開けて言うんですか? 二、三分ぐらいで?
 
朝日:  ゆっくりした時間で考えてもらうんです。
 
金光:  彼女たちはだいぶ考えるわけですね。悩みますか?
 
朝日:  真剣にね。「どっちを捨てるか」と言うてね。例えば親と恋人とどっちを捨てるとかね―捨てなければいかんわけですから。
 
金光:  そうすると、改めて自分にとって本当に大事なものは何か、ということを捨てるうちに自然に気が付いてくるわけですね。
 
朝日:  そうですね。最後の一つというのが残るわけですから。そうしたらこれをどうやって育てていくか、と。
 
金光:  傾向としては何が残るんですか?
 
朝日:  けっこう「愛」というのがあるんですよ。やっぱり看護学生ですからね。
 
金光:  なるほど。
 
朝日:  捨てられないというのに、「お母さん」というのもけっこうありますね。自分が死ぬとなるとお母さんに最後までずーっと面倒みてもらわなければいけないということで。だけども目に見えるもので最後まで残るのはまずないですね。
 
金光:  そうでしょうね。でも、しかし、別に看護学生さんだけじゃなくて、我々だって、何が一番大事か、と思って日頃生きているというのは、これはいい考え方の仕方になりますね。
 
朝日:  と思いますね。自分にとって何が大事か、ということがわからない、と。つまりまだまだ自分は人生長いんだ、というふうに思っていますと―そうでもないんですけれども―残りの時間が限られてきますと、「短い時間の中で自分は何を集中してやらないといけないか」「自分はこれだけやらないと、死んでも死にきれない」というようなものを見付けておくということが大事だと思いますね。それがわかりますと、それができますね。できた方というのは、表情が変わってきますよ。その満足感というのがさらに強くなります。
 
金光:  しかし、それがわかった場合も、それは目の前ですぐ手に取れるかというと、そうじゃなくて、例えば「愛」みたいなものだったら、いつまでも、どこまでも続く生き方ということになるわけですね。
 
朝日:  それでも「愛」ということに気が付いた時に、もう一度、例えば夫婦とか、親子の愛を確認するとかね。
 
金光:  日々日頃の生き方の中で、それをどう実証するかという。
 
朝日:  見直してみるとかね。そういうような作業ができるだけでもプラスになっていきますから。
 
金光:  そういう練習に気付くことができるチャンスというのは、病気と言い、あるいは死ということを考えることと言い、これは日々「忙しい、忙しい」と言って、放り投げている問題じゃないようですね。
 
朝日:  これはとても大事だと思いますね。ただ、今の病院の実際の生活の中では、忙しさの中で明け暮れていますから、そうするとそういうふうなものに気付くかというと、難しいと思いますね。患者さんにとって大事なのは、だんだんと身体の具合が悪くなっていった時に、もうこの身体じゃなくて、むしろ心のほうが大事なわけですから、そうしたらその人の心にどう関わっていくかというのをこれから専門家を養成していって、多くの方が安心して死ねる。「安心して死ねる」という言い方はおかしいですけれども、これはちょっと前になるですけれども、聖路加国際病院の日野原重明(ひのはらしげあき)先生とアメリカのホスピスの見学に行きました時に、ほんとに看護婦さんが、「この方はもう短いんですよ。もう一週間保つか保たないか、わからないんですよ」と言われたそのご婦人が、ほんとに痩せた非常に厳しい状況の中で、僕らにニコニコ笑顔をくれながら、「I'm happy(私は幸せなんだ)」ということを言われたあの言葉に感激しましてね。日本の方も多くの方がこういう状況でみなさんとお別れできるというのが理想なんだろう、と。そうしたらそういうふうな方向にどうすればいけるか、というのが僕の大きな課題なんです。
 
金光:  でも、人間の心というのは、いろいろ複雑なもので、それを「I'm happy(私は幸せだ)」という言葉がでるところに気付いてもらうというのは、これはなかなか大変でしょうね。
 
朝日:  そうだと思いますね。だけども、目指すべきものが何か、ということが、患者さんや家族や、あるいは医療者の中ではっきりしておけば、気持は右に左に大きく揺れますけれども、治りたいとか、あるいはダメだとか、諦めたり、揺れますけれども、目指すべき方向さえしっかりしておけば、それは十分可能だと思うんですね。
 
金光:  そうなりますと、生老病死という、その状況を、心の場合はそれを超えた世界が広がることができるということでございますね。
 
朝日:  そうですね。
 
金光:  どうもありがとうございました。
 
     これは、平成十九年二月四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである