この世の苦を書き続けて
 
                         作 家 車谷(くるまたに) 長吉(ちょうきつ)
一九四五年兵庫県姫路市生まれ。姫路市立飾磨高等学校出身、本当は姫路市の公立トップ高を目指していたが受験で失敗する。その事が後の強烈な上昇志向の源のひとつになった。高校三年で文学に目覚め、慶應義塾大学文学部独文科では目が潰れるほど本を読もうと決意していた。広告代理店、出版社勤務の傍ら小説家を目指すも、一度は挫折して故郷の料理屋で働く。住所不定の九年間は、神戸、西宮、曽根崎、尼崎、三宮などのたこ部屋を転々と漂流していた。しかし再び東京へ行き作家デビューを果たす。名門大学卒のインテリジェントでありながら、播州地方の方言を使った民衆言語で書く下層庶民的な生活実感は、近代と自己に疑問を投げかけている。「反時代的毒虫」としての「私小説家」を標榜する異色の作家。著書に、『鹽壺の匙』『漂流物』『赤目四十八瀧心中未遂』『武蔵丸』他。夫人は詩人の高橋順子。
                         ききて 山 田  誠 浩
 
ナレーター:  東京・文京区向丘(むこうがおか)。古い家が建ち並ぶ狭い路地裏に、作家車谷長吉さんは暮らしています。午前四時、修行僧のように早朝に起きるのが車谷さんの日課です。二時間ほど瞑想して小説の構想を考えます。二十五歳から小説を書き始めた車谷さん、自らを私(わたくし)小説作家と称し、実生活で起きた出来事を赤裸々に描いてきました。人の世の苦しみを見据え、書き続けることで救いを見出したい。その作品は、人の愚かさ、醜さを容赦なくえぐり出しています。追い詰められた男女の道行きを描いた『赤目四十八瀧心中未遂』は直木賞を受賞しました。
 

 
山田:  「詩や小説を書くことは救済だ」というふうに書いていらっしゃいますね。それはどういうことですか?
 
車谷:  人間はやっぱり四苦八苦(しくはっく)というものを抱えているわけですよ。「四苦」四つの苦しみというのは「生・老・病・死」ですよね。生というのは生きることそのものが苦しみだ、悪だ、と。老は老人になること。病気になること。死ぬこと。この四つは避けがたいわけですよ。だからこの「生・老・病・死」ということが、お釈迦様から言わせれば、「人間の悪であり苦しみである」ということをおっしゃるわけですね。だから僕はお釈迦様というのは凄い慧眼(けいがん)な人だと思いますね。
 
山田:  「四苦八苦」とおっしゃいますけど、それをとにかくテーマにして書いていく。
 
車谷:  そうですね。だから私も病気したことがあるけども、病院に二ヶ月ぐらい入院して、二回大手術をやりましたね。この頭蓋骨の中に膿が溜まる病気だったから、そうすると、顔の上唇と上顎をメスで切り離して、脳の中の腐った部分をメスで削り取るという手術を二回やりましたね。病気も苦しみですね。だから苦しみと結局闘うのが人間の一生じゃないでしょうかね。だから人生全体の中では、嬉しいということは非常に少ないですね。八割ぐらいが苦しみじゃないかな。例えば学校に入れば試験というのがあるわけだし、学校を卒業する時には就職試験というのがあるわけだし、僕はたまたま慶應義塾大学というのに入学したんだけど十一倍の競争率だったですよ。そうすると、十人落ちているんだね。そうすると、十人の人に悪いな、という気がありますよ。悪いなと思いながら、同時に自分は受かって良かったなあというなんか非常に利己的な考えもあるわけですね。自分は受かって良かったなあと考えているのは一体何だろうというふうに、なんか不可解なものが、嫌なものが自分の中にあるな、と十八歳頃思いましたね。この世の中で人間ほど悪いものいないんだから。魚なんか殺して平気で食っている。牛を殺して牛肉なんかも平気で食っているんだから、豚とか蟹とかも。私も牛肉も食べるし、魚も殺して食べますけども、なんか罪悪感感じるなあ。僕は、人間性の中の悪を書いて、それを活字にすることによって、多くの人に人間性の中の悪を知ってほしい、目覚めてほしい、と。例えば魚や蟹を殺して食うことだって悪なんだよ、ということを知ってほしい、自覚を持ってほしいな、と。そのうえで生きてほしいなという気持、願いを持っていますね。
 

 
ナレーター:  人間の悪やどうしようもない苦しみを描いてきた車谷さん。作家としての眼差しには、幼少期の原体験が深く関わっています。代表作『鹽壺(しおつぼ)の匙(さじ)』は、少年時代に体験した叔父の自殺を描いた小説です。
 
宏之(ひろゆき)叔父は昭和三十二年五月二十二日の午前、古い納屋の梁(はり)に荒縄を掛けて自殺した。享年二十一。私が小学校六年生の時のことだった。平生は何の変もない村の中に、戦慄(せんりつ)が走った。
長い時間がその当時の狂瀾(きょうらん)を沈めてくれた今、宏之の死が私に一つの静謐(せいひつ)をもたらしてくれたと思わないわけには行かない。この死の光は、その後の私の生の有り様を照らし出す透明な鏡として作用して来た。あるいはそれは呪われた天の恵みであったかも知れない。(『鹽壺の匙』より)
 
作家の車谷長吉さんは、昭和二十年終戦の年に、兵庫県飾磨市(しかまし)、現在の姫路市に生まれました。生家は代々地主で、昭和二十二年の農地改革で大部分の土地を無くしました。そのため経済的な基盤を失い、父親は呉服店を営みますが上手くいかず、生活は苦しかったといいます。母方の祖母は同じ町内で高利貸しを営んでいました。車谷さんはしばしばお金を借りに行ったことが今も忘れられないといいます。
 

 
山田:  育っていた家庭の環境の中で、やっぱり原体験として、人間というのは悪だというふうに思ったり、人間のどうしようもない側面というふうにみることになった、幼い時の体験をちょっと話して頂きたいと思いますけど。
 
車谷:  そうですね。私の祖母は、それから曾お爺さんも同じ村の中で、いわゆる金貸しをしていましたね。関西の言葉で「銭売(ぜにう)り」ですね。だからそこへ僕の親父は呉服屋という商売をしていたんですけれども、戦後は呉服というのはほとんど売れないで洋服に変わっていたわけですね。商売不振だから、結局金を借りにいくことがしばしばあったんですよ。親父は商売をやっているんだけど、自分では行かないんですよ。自分の嫁である、つまり私の母親に頼んで、「おばあさんに頼んで金を借りてほしい」と頼むわけですよ。そうすると、昼間行くのは差し障りがあるから、晩飯食って、夜の八時ぐらいになってから幼い私を連れて金を借りにいくわけですよ。おばあさんも簡単に金貸してくれないですよ。だから金を借りに行く時に、道々、「私がお尻を抓(つね)ったら、わぁっと泣くんやで」と、こういう具合にいわれるわけです。そうするとおばあさんからすれば、〈あ、孫が泣いているか。可哀想だな。じゃ、お金貸してやろうか〉と、こういう具合になるわけですよ。それが芝居なんですね、一種の。だから金というのはなんか大変なもんだな、というのは小学校あがる前から思っていたな。
 
山田:  そういう中から人間の何を感じておられた、ということなんですかね。
 
車谷:  一つは金というものが有り難いな、と。一つはお金というのは人を泣かせるものだ、苦しい思いをさせるものだから罪深いな、と。それはもう幼稚園ぐらいの頃から思っていましたね。ただ「罪深い」なんていう言葉は大人の言葉だから、そういう気分を持っていたということですね。言語化されない、言葉にはならないんだけど。だからお金の二つの側面である「有り難い、嬉しいな」というのと、それから「恐いな」というのはありましたね。
 
 
ナレーター:  車谷さんにとって生涯忘れることのできない悲しい出来事。それは小学生の時に起こった叔父の自殺です。地元の進学校に進んだ叔父の姿は、車谷さんの憧れでもありました。
 

 
車谷:  僕が小学校六年生の時の五月二十日だったけど、昼過ぎに学校から帰って来ると、家におばあさんが居て、それで「宏之(ひろゆき)さんが亡くなったんだそうだ」と言うんで、僕も同じ村の中だからすぐ母親の里へ飛んで行ったんですよ。そうすると玄関の戸を開けたら、そこに土間があるんですけども、母親が土間に転げ回って泣いていた。号泣というか、大声をあげてね。私は物心ついてから母親が泣いている姿なんか見たことないし、転げ回って泣いているというのは。普通ちょっと立って、あるいは坐って涙を流しているというんじゃないんですよね。その姿を見て、なんか胸にグッときたな。母親が転げ回って泣くなんて思って。それで死というものがまだよく理解できなかったけども、母親が転げ回って泣くということが、つまり死なんだ、ということはわかったですね。それでとにかく立ち上がって僕の顔を見ると、「宏(ひろ)ちゃんが死んだんだ! 宏之叔父さんが死んだよ!」とこう僕にいうわけですよ。それがその時に、人生最初に感じた死というものだったですね。それから宏之叔父の死というのは何だったんだろう、何で死んだんだろうな、ということを考えるようになりましたね。
 

 
ナレーター:  小説『鹽壺の匙』には当時の模様が書かれています。
 
叔父は大学受験に失敗し東京の予備校に通いますが、ある日故郷に戻ってきます。
勉強が思うように進まなくなったことに加えて、さらにそれに追い討ちを掛ける形で、自分を尊敬できなくなるような何かが東京であったのではないか。宏之本人は、何もあらへん、自分に負けただけや、と言うだけであったが、明らかに魂の打ち摧(くだ)かれた人であった。あるいは自分を軽蔑せざるを得ない何かを心に抱え、その苦痛にうめいている人であった。
 
叔父が抱えていた深い挫折感。車谷さん自身もその苦しみを体験することになります。高校受験の失敗です。
 

 
車谷:  十五歳で高等学校の入学受験を落ちた時に、まず頭に浮かんだのは、僕も自殺ということが頭に浮かびましたね。姫路西校を受けて落第したから自殺しようと思ったんだけど、お袋がすぐわかっていて、「宏(ひろ)ちゃんは死んだんだけど、お前は生きてくれ」と。宏之叔父は大学受験に失敗して死んだんだ。僕は高等学校受験失敗で、死のうと思ったけど、お袋はもうすぐわかったんだな。僕が何を考えているか、というのは。だから、「お前、宏ちゃんみたいに死なないでくれ。生きてくれ」と。
 
山田:  やっぱり高校入試に失敗したということは、大きな挫折という感じだったんですか?
 
車谷:  もうすべてを失ったような気がしましたね。生きていく手掛かりのすべてをね。だから姫路西高等学校に入れなかったということは、生きていく手掛かりが何もないというふうに思いましたね。勉強する気がないし、何も目標がないから、毎日とにかく昆虫採集ですね。蝶、カブトムシですよ。それ二年間やっていたですね。それで教科書、ノートは全部学校の下駄箱に突っ込んでおいて、学校でも授業をあんまり出ない。ところが高校学校の三年生の六月、十七歳の時に、夏目漱石と森鴎外を読んだことによって、自分もとにかく無茶苦茶文学が好きになっちゃって、それで宏之叔父さんの死について考えるきっかけを与えられたような気がしたね。
 
山田:  それはたまたま読んだんですか?
 
車谷:  高等学校の同級生が―ある男の人と女の人の数人のグループが、森鴎外の『高瀬舟』の主人公の喜助(きすけ)の死について議論しているのをたまたま耳にしたんですね。それで自分も読んでみようと思って、学校の図書館で鴎外の本を借りて『高瀬舟』を読んだんですね。そうしたら非常に興味を覚えたですね。
 
山田:  何に興味を覚えられたんですか?
 
車谷:  『高瀬舟』の主人公の喜助の自殺について。それから同じ本の中に入っていた『阿部一族』も読みましたね。これも『阿部一族』の人が最後自殺するわけですよ。これも非常に興味を覚えました。
 
山田:  興味というのはどういう意味でしょうか?
 
車谷:  〈あ、自殺する人が宏之叔父以外にもたくさんいるんだ、それぞれに理由があるんだ〉ということですよね。その後夏目漱石の『心』というのを学校の図書館で借りて読んだら、これも主人公の先生が自殺するわけですよ。先生の友だちのKというのも自殺するわけですよ。それぞれに理由があるわけですね。そうすると、〈宏之叔父の場合はどういう理由だったんだろう〉ということを考えるようになりましたね。僕も小説家になって、宏之の死について、それまでいろいろわけのわからなかったことを、なんかわけのわかるようにしようと思って、それで十七歳の時から、宏之の死について書くことだけが人生の目標になりましたね。
 

 
ナレーター:  作家になろうという志を抱き、車谷さんは慶應義塾大学文学部に進学します。毎日のように図書館に通い、閉館になるまで小説を読み耽りました。その時一人の作家と出会い、私(わたくし)小説という分野に目を開かれます。昭和の初めに活躍した嘉村礒多(かむらいそた)(1897-1933)。自己暴露的な私小説で知られています。二十あまりの作品を残し三十七歳という若さで亡くなっています。代表作『業苦(ごうく)』。結婚に失望し、妻子を捨て、東京に駆け落ちした波乱の人生をもとに書いています。自らの業を隠さず、あからさまに書くことで、人の苦しみを描ききった嘉村礒多の作品。車谷さんはそこに文学の可能性を見出します。
 

 
車谷:  嘉村礒多というのは山口県の田舎の地主の息子なんですね。僕の家も昭和二十二年まで播州の地主だったから。だから自分と地主の家の長男ということでお互いになんか共通点があるということで、それだけで関心をもって。『嘉村礒多全集』が戦前に小林秀雄の編集で白水社から全三巻で出ていたのが―昭和十七年ぐらいじゃないかと思いますけれども―学校の図書館に置いてあったので、それを全部読んだんですね。そうすると嘉村礒多は自分の人生を素材にして小説を書いているんですね。そういうのは、いわゆる「私小説というのだ」ということをはじめて知ったわけですね。それで、そうすると〈私も自分の私小説として、自分の叔父さんの死について書けば、小説が可能じゃないか〉というふうに思いましたね。大学の二年生終わった時だから、二十歳の時ですね。
 
山田:  嘉村礒多の作品のどういうところが非常に車谷さんに響いたんでしょうか?
 
車谷:  一言でいえば、テーマというか題材は、「業苦(ごうく)」というんです。人間の業の苦しみという。だから人生の闘いの仕方が嘉村礒多さんの場合は凄まじいですよ。親兄弟で、嫁との闘いが徹底している。親兄弟、嫁との闘いが徹底していて、それをありのまま書いているわけですよ。それで凄いな、と思いましたね。漱石、鴎外に劣らないと思ったね。作品の数が少ないだけで。人間の業の苦しみの極限を書いたな、と思いましたね。もうとにかくこれ以上凄い作品はない、と思ったな。
 
山田:  そうですか。
 
車谷:  悲しみ、なんか業の深さ、そういうふうなものを、嘉村礒多よりはより深く書くという決心をしたな。
 
 
ナレーター:  小説を書くことを志した車谷さんでしたが、生活の糧を得るため、大学卒業後広告代理店に就職しました。サラリーマンと作家という二足の草鞋。しかし小説を書くこととは相容れない自分の職場にいつしか疑問を抱くようになります。
 

 
車谷:  東京日本橋の中どころの広告代理店に勤めたんですけれども、社長がとにかく繰り返していうことは、「人を騙せ。人を欺け。で、仕事を取ってこい。金儲けとはそういうものなんだ」と。入社の時の挨拶から始まって、とにかく「人を欺け、人を騙せ」。それに嫌になって、反感というか嫌な気持を毎日持ち続けたな。人間の業そのものだとは思ったけどね。文章を書く人間の立場とはちょっと違うんだなと思ったな。だから自分は文章を書く立場になりたいからあんまり業を背負いたくないというふな虫の良いことを考えましたね。広告代理店で、その広告取りの仕事を毎日毎日して、人を欺いて、人を騙して、ということが嫌になったということですね。そうすると、自分はもっと貧乏でもいいから人を欺かない生活をしたい。騙さなくてすむ、と。自分の同僚たちはより多くの収入を得て、より良い生活をしたい、というのが大体みんな希望だったけど、僕はより最低の生活ができれば。だから食事は普通一日三回するんだけど、一日に一回でいいとかね、そういうふうに思っていた。それから美味しいものを食べたいとは思わない。だから大体インスタントラーメンをワンパック買ってきて、それを包丁で三等分して、それでお湯を注いだら膨れあがってしまうから生の固いのをポリポリ囓(かじ)って、三等分して食べていた。
 
山田:  それはそうしてでも作家になりたいという思いですか?
 
車谷:  そうですね。だから貧乏は厭わない、と。
 
 
ナレーター:  昭和四十七年、投稿した小説『なんまんだあ絵』が文芸誌の新人賞候補に選ばれます。それを機に会社を辞めた車谷さん。二十八歳で小説家として生きようと決心します。
 

 
車谷:  これは僕の田舎の家のおばあさんが死んだ前後のことを書いて、それで『なんまんだあ絵』という小説を投稿したんですよ。それで新潮に投稿すると―投稿者の数が年間千二百篇ぐらい投稿するわけですね、世の中の人が―その中で一つ選ばれるんだけど、それに選ばれるとは思わないで投稿したんだな。そうしたら五、六編の中には選ばれて、五、六編の作品が新潮新人賞候補作として、『なんまんだあ絵』が新潮に載ったんですよ。僕としては、極端に言えば、初めて書いた小説が新潮に載ったから、いずれ叔父さんのことを書くつもりでいたから、作家になれるんじゃないかなあという錯覚を持ちましたね。それでその時当選されたのが山本道子さんのなんだけど、僕は第二席だったんですよ。そうすると、「次は車谷だ」というんで、今度は新潮社の方がアパートに訪ねてくるようになりますね。それである作品を書いて渡したらボツになって、「これじゃダメだから」というんで、十九回書き直しをさせられたですね、二年間ぐらい。
 
山田:  書き直しを十九回?
 
車谷:  十九回。
 
山田:  その十九回も書き直しをしておられた頃というのは、書くことというのは、何を書こうとしていらっしゃったんですか?
 
車谷:  それがいまだにわからないわ。いまだにわからない、というのは、結局テーマがはっきりしていないわけですね、自分で。小説にとって一番大事なのはテーマなんですよ。テーマ(主題)が一番大事なんだけど、何を書こうとしていたのかということが、いまだに―二十九歳頃のことを振り返ってみてわからない。一番最初の『なんまんだあ絵』は、お婆さんが亡くなったから、祖母追悼の気持を書くということがはっきりしていたんですね、私小説ですけど。でも二つ目は何を書こうとしていたのか、自分でも未だにわからない。
 

 
ナレーター:  サラリーマンを辞め、小説の執筆に専念する生活が始まりました。しかし書けない自分に苦しみ、煩悶する日々が三年間続きます。
 
 
山田:  このノートは何なんですか?
 
車谷:  これ創作ノート。
 
山田:  あ、かつての?
 

ナレーター:  小説の題材を書いた創作ノートには、当時の苦しい思いが日記のように認(したた)められています。作家を志す出発点となった叔父の自殺。書きたいという気持がありながらも書けません。
 
他人の過去を暴(あば)き出すことの疚(やま)しさ、叔父であってみれば尚更だ。
お前、こんなことを書いて、というかも知れないという虞(おそ)れ。
 
車谷さんは書くことへの怖れがありました。
 

 
車谷:  これが古いノートですよね。昭和四十九年、「自己についての小さなメモ」と書いてある。
 
僕は行き詰まった。こうなることは、あらかじめわかっていた。それに対して精いっぱい抵抗もこころみたように思えるが、併し、甘えがあった。何とかなるだろう。何とかしてくれるだろう。そういう気持があった。逃げ道をふさいで、自分の進みたい方向に進んだために余計現在の僕を息苦しくしている
 
とかなんて書いているなあ。
 

 
ナレーター:  小説を生み出すことのできない車谷さん。その生活は経済的にも追い詰められていきました。
 
僕にとって自分の「生」は「苦痛」と「不安」だ。
 

 
車谷:  その時は、自分を支えていくだけの作家的才能がないんだと思いましたね。だから一応書くのを止めよう、と。自分には才能がないんだからね。だから新潮に二回小説が載って、エッセイが一回載って、三回活字になったんだけど、それで自分の作家生活は終わり、と。それでまあ先のことを考える余裕はまったくなかったですね。アパート代が払えなくなったら、居るところがないから。売るものも全部売ってしまったし、だからほとんど自分の着ているものと、身ぐるみ全部剥がされちゃったような状態になって。お金もないし、とにかく寝るところがないから、あとは江戸川の川原へ行って寝る以外はないんだ。上野の森の公園か。とにかく親のところへ逃げ帰ろう、と。逃げて帰った後どうなるかということは全然考えていなかったな。
 

 
ナレーター:  車谷さんは、三十歳の時、東京での生活に見切りをつけて、故郷の兵庫県飾磨に戻ります。実家に戻った息子に、母は言いました。
 
「小説書くいうようなことは、馬に狐乗せて走らせるようなことや。ええい。まだ目ェがさめへんか。さめへんやろ。あんたの上に狐が馬乗りになっとうが。あの人らがあんたの背中に馬乗りになっとうが。あんたは競馬馬のように走らされて、脚の骨が折れて、倒れたんやがな。
脚の折れた馬なんかに、もう用はないで。
そやさかい、あんたはこないして逃げて帰って来たんやがな。むごたらしい、まだ生きとうがな。よう帰って来たわ。魂はくたばって。腑抜けになって。
 
その後八年間、旅館や料理場の下働きをしながら、京都、西宮、尼崎などを転々とします。
 

 
車谷:  まあ母は凄く怒鳴ったわねぇ。「お前のような極道者は―親が考える意味で―世の中の一番下の職業について飯を食っていけばいいんだ。お前はものを書くことが原因で会社を辞めちゃったんだけども、そういうことはもう考えるな」とも言ったですね。それでとにかく料理の下働きの仕事を一生やろうと思ったんだね。
 
山田:  一生?それはどういうことですか?
 
車谷:  いや、普通、会社員になると定年退職まで会社に勤めるじゃないですか。それと同じで料理の下っ端の仕事を一生続ける、と。親方にはならないで。料理の下働きをしようと。
 
山田:  下働きとは具体的にどういうことですか?
 
車谷:  例えば、ネギの皮を剥いたりするわけ。そうするとネギを切るのは料理長なんだ。米を洗うのは下働き。米を炊くのは親方。だから要するに全部下拵えですよ。で、汚れた物を洗うとかね。
 
山田:  ということは、料理の下働きをしていると。一緒に働いている若い人たちはやがて料理の板前さんになろうとか思っていますよね。そういうこと全然思わない?
 
車谷:  全然思わなかった。料理長になろう、板前になろう、というふうには思わなかった。下働きでいいと。そうすると料理場にいると、親方は当然自分の下につく人はみんな自分のように親方になりたいということを目指してくるんだと思っているわけですよ。そうすると、料理長になりたいという色気を一切示さないで、下働きだけやらしてくださいというのが不気味でしょうがないんですね。で、「お前は何を考えているんだ」と。「何を考えとるんや」と、関西弁で言えばこうなるわけですね。そうすると、三十四歳ぐらいの頃に、当時の親方が、「何考えとるんや」と、喫茶店に呼ばれて言われたから、「何も考えていないんです」と。僕は作家になれなかったら料理場の下働きを一生やって、それで暮らせばいいな、とぐらいに思っていた。だから上昇志向というのはゼロだった、その時は。でもなんか文学が好きだという気持は捨てる気はなかったし、それから休憩時間には自由に時間を過ごしていいんだと思っていたから、だから野呂邦暢(のろくにのぶ)さんとか、島尾敏雄(しまおとしお)さんとか、司馬遼太郎(しばりょうたろう)さんの本なんかよく読みましたね、休憩時間にね。
 
山田:  こう料理の下働きなんかをして長い間過ごされた、そのことはものを書くことにはどう影響したというふうに思っていらっしゃいますか?
 
車谷:  一つはサラリーマンの世界と違って、生きた言葉がこの世界にある、と思いましたね。サラリーマンというのは儀礼的な言葉で、死んだ言葉なんですよ。言葉というのは、生命のある言葉と生命のない言葉がありまして、会社員をやっていた時に、会社で使っていた言葉というのは生命のない言葉なんですよ、僕の感じでは。料理人の時はなんか「大根取って来い」とか言われたら「はい!」と言って取りに行くわけですよ。そういうのはなんか言葉が生きているな、と思っていたの。包丁というのは、ちょっと使い方を間違うとすぐ指を切るわけですよ。切ったら血が出るわけですね。だから包丁で大根を剥いて、かつらむきをして刺身のけんなんか作るんだけど、一つ間違えばすぐ血が出る世界だから、ある意味では真剣な生活だったですね。だからちょっと間違えば血が出るというのは僕のサラリーマン時代にはなかったですね。
 
山田:  料理の下働きで過ごされた期間のまやかしのない言葉と言いますか、生きている言葉というのが。
 
車谷:  だからサラリーマン時代は、おべんちゃらを言ったり、胡麻擂りを言ったりして仕事を貰うわけですよ、余所の会社から広告代理店の時は。そういうのはないわけですね、料理人の世界は。だから料理人生活九年がなかったら、三十八歳以後の作家生活は一切ない、存在しないと思いますね。その九年間の間に皮膚呼吸したというか、見たり聞いたり肌で感じたりしたことが、現在の私に生きていると思いますね。
 

 
ナレーター:  当時のノートには、小説を書くことから離れざるを得なかった車谷さんの孤独が綴られています。
 
逃げ道のない世界。古里へ帰ればいい。併しそこには私の居場所はなかった。
自分の力以外に頼るもののない世界。誰にも助けを求めることは出来ない。
 
そんなある日車谷さんの仕事場を親しかった編集者の前田速夫(はやお)さんが訪れます。前田さんは、車谷さんに、「もう一度書いてみろ」と、小説家に戻ることを強く勧めます。
 

 
車谷:  「この人はね、ここの、こんな店の下働きをしているような男じゃないんだ」と、前田さんが言ったんですよ。そうしたら安藤という料理長が、「こんな店とは何だ!」と言ってもの凄く怒ったの。そうしたら、「失礼いたしました」と言ってさ。「この人は本来東京で作家生活をやる人だ」と言った。だから僕は、親方が怒っているから割って入って、「前田さん、帰ってくれ。私、もう東京へ帰る気はないんだ。あんたのいうこんな生活でいいんだ」と。それが三十四歳ぐらいかな、帰ってもらったわけ。前田さんとしては不本意な気持で帰ったんじゃないですかね。それから二年ぐらい経って、今度は神戸で働いていたら―神戸市内に須磨というところがありまして、須磨離宮の隣になんとかという旅館がありまして、「そこの宿屋にいるから来い」と電話が掛かってきたんだ、僕の勤めている料理屋へ。それで急遽休暇を取って行ったんですよ。「二年前、尼崎へ行った時は説得に失敗したけど、今日は何が何でも東京へもう一遍帰って来て、作家を始めるということをお前に約束して貰わないと帰らない」と。「何日でも此処に連泊する」というんですよ、須磨の旅館に。それが午後の明るい時間だったね。それで朝四時まで話して、「じゃ、私が必死になって小説書くから、今すぐ原稿渡せないから東京へ帰って待っていてくれ」と言ったんですよ。それで前田さんは、「待っている」と言って。それで「最低四ヶ月、あるいは半年以内に原稿を送ってくれよ」と。それで「とにかく芥川賞が受賞できるレベルのものを送ってくれよ」と。それで須磨の駅で別れたんですよ。
 

 
ナレーター:  編集者との再会。車谷さんは再び小説家を目指す覚悟を決めました。
 
小説を書くことは地獄を通過することだ。地獄の火で焼かれることだ。私はこれから小説と命の遣り取りをする。生涯この業火に焼かれ続ける。これが私の決心だ。
 
車谷さんは、半年をかけて、『萬蔵(まんぞう)の場合』を書き上げ、編集者との約束を果たします。渾身の力を込めた作品が芥川賞候補になりました。作家としての再起をかけた作品。しかし落選します。
期待感を抱いていた。それがだめになった。「萬蔵の場合」で落選したということは、あれ以上の作品を書かなければだめだ。けれども、あれで精いっぱいかも知れない。ということは、私はいつ迄たっても幕下ということだ。それでも小説を書くのか。命懸けで書いたのに。さみしい。さみしい。
 
どうしたら『萬蔵の場合』を超える作品を生み出すことができるのか。その後車谷さんは、創作ノートの中でひたすら物語の構想を練り続けます。そして辿り着いたのが作家としての原点でもある叔父の死でした。これを書き上げたら小説家を止めてもいいとまで思い詰めたテーマでした。
 
小説とは結局遺書だ。遺書を書くことだ。
 

 
車谷:  自殺した宏之叔父のことをモデルにして小説を書きたいという気持はずーっと強く持っていた。それを書き上げたら自分はこの世に用はないと思っていた。自分は作家としてなんか派手派手しくやりたいという気持はゼロだったのね。京都へ帰って、それで大徳寺僧堂に入って、後は世捨て人として生きていこうと思っていたんですよ。
 

 
ナレーター:  四十七歳の時、最後の一作ということで書いた『鹽壺の匙』。叔父の死を描いたこの作品で三島賞を受賞します。あとがきには、車谷さんの思いが綴られています。
 
詩や小説を書くことは救済の装置であると同時に、一つの悪である。
私はこの二十年余の間、ここに録した文章を書きながら、心にあるむごさを感じつづけて来た。併(しか)しにも拘わらず書きつづけて来たのは、書くことが私にはただ一つの救いであったからである。
 
小説が高く評価される一方で、自分の叔父や一族のことを書いたことで、車谷さんは近親者から非難を受けます。
 

 
車谷:  家の母親を除けば、書くことを「良いことだ」というふうに言った人はいないね。「悪いことだ」と。要するに文章を書くことは悪いことだ、止めなさい、と。お前は人間の楽しみよりは、人間の苦しみばっかり書いている、と。だから例えば三島賞とか、賞をもらっても喜んでくれる人は少数ですよ、自分の周辺ではね。
 
山田:  小説家というのは、人の悪を見るという意味では、やっぱり自分自身も悪人でなくちゃいけないということになるんですか?
 
車谷:  僕はその通りだと思いますね。だから自分のことを善人と考えたことないですね。悪人だと思いますね。私以外の小説家も、例えば夏目漱石とか森鴎外なんか読むとやっぱり悪人だなと思いますね。
 
山田:  それはどういうことですか?
 
車谷:  人間性の真実を書いているからですよ。真実というのは悪なんですよ。悪を書いているからやっぱり凄いなと思いますね。人間性の中の悪を書ききるということは、自分自身が自分自身の悪に耐えるということですから。耐えられない人はたくさんいますよね。小説書くことほど辛いことはないと思いますね。それは人間性の中の悪を見つめて、とにかくすべての人間は―極論ですけれども、すべての人間は悪人なんだ、と。
 

 
ナレーター:  自分が生涯を懸けて書きたいと思っていた叔父の死。それは人間の業苦をえぐり出すことでした。車谷さんは、それを書くことが悪であるという現実を突き付けられます。
もう小説を書きたくない、という気持。書けば、必ず引き裂かれる。
 
その頃出会ったのが詩人の高橋順子さんです。当時私小説を書く車谷さんの痛みを唯一理解してくれた女性です。平成五年、二人は結婚します。車谷さん四十八歳、高橋さん四十九歳の時のことです。車谷さんは東京の百貨店に勤めながら小説を書く道を選びます。
 

 
車谷:  『鹽壺の匙』という小説なんですけども、それが済んだ時には、なんか僕は京都へ行って出家しようと思ったんですね。ところが出家をとめたのが家の今の嫁さんです。嫁さんはまだ結婚していない、知り合いの女だったんだけど、「私、一緒に生きていってあげるから、あなた、小説を書きなさい」と言われた。「一緒に生きていってあげますから」というのは、「結婚してあげるから」ということだけど、それで「私があなたの嫁さんになってあげるから書き続けなさい」ということになった。そうすると、書き続けるということは、要するに職業作家になるということなんだなあ、ということはわかりました。
 
 
ナレーター:  こうしたなか、五十一歳で書いた『漂流物』が再び芥川賞候補に選ばれます。しかし落選。さらに追い打ちをかけるように勤めていた百貨店の経営が悪化、リストラの対象となり、自宅待機を言い渡されます。
 

 
山田:  『漂流物』が芥川賞候補になるわけですね。
 
車谷:  ええ。それで僕は賞を貰えると思っていたんですよ。それで文芸春秋で下銓衡(したせんこう)する人がいるわけですよ。二十人いるわけです。二十票入ったわけです。それで普通は十三票ぐらい入ると当選するんですよ、下銓衡で。ところが二十票入ったにも拘わらず本銓衡で落ちた。それでガクッときちゃってね。なんとなく私の考えが甘かったんだけど、貰えるもんだと思っていたら、なんかガクッときちゃって、強迫神経症という病気になったわけ。
 
山田:  それはどういうふうになったんですか?
 
車谷:  例えば家が揺れているとか、あらゆる植物から毒素が発散されて、自分の身体が毒素を身に浴びるとか。それから人の話し声が―傍にいないのに、一部屋に一人だけいるのに―ある人が、「あなたなんかダメですよ!あんたなんかダメですよ!」というのが、ぱぁっと聞こえるわけですよ。ただ汚いことをやっているという感じはあったね。だから絶えず手を一日に六百回も七百回も洗うということですよ。
 
山田:  汚いことをやっているというのはどういうふうに?
 
車谷:  汚れたことをやっている。要するに人が嫌がることをやっている、と。それは小説の作法だと思いますけども。だから相当自分が冷酷にならないといい作品は書けないですね。だから、「車谷さん、冷酷ですね」と言われることもしばしばありますけども、まあそれは職業病だなあと思っているな。
 
山田:  そうするとご自身の生活としては?
 
車谷:  だから事実上会社にも行けないし、飯も食えないし、嫁さんが家の中を動くことが恐いわけですよ。「動くな!」と、私が怒鳴るでしょう。嫁さん、こんな格好したままで、十時間ぐらいこうやっている。だからもう生活は完全崩壊ですよ。
 

 
ナレーター:  当時の暮らしを、妻の高橋さんはこんなふうに書いています。
 
その危機とは結婚二年四ヵ月めの春、連れ合いの強迫神経症の発病であった。因業(いんごう)が表看板になっている男だが、因業であることを持続させる意志の力は、しばしばこの人の肉体の力を凌駕(りょうが)するほどである。因業の刃(やいば)がただ空(くう)を斬るということはなくて、さまざまな抵抗にあう。それに堪えようとすることで、心身を擦り減らし、消耗する。自分をもてあます。
幻覚と幻聴、幻視に悩まされ、一日に何十回も手を洗い清め、私の立ち居振る舞いを規制するようになった。
すると、この暮らしは虚構なんだ、嘘なんだ、というめまいのような感覚がやってきた。
 

 
山田:  奥さまもこれは一緒に生活されるだけで大変だったと思いますけど、
 
車谷:  凄く大きかったですね。だから〈嫁さん、よく逃げて行かなかったな〉というふうに、あとでよく思いますね。ただ病気がある程度よくなってから聞いたら「やっぱり離婚も考えた」と言っていました。「逃げ出したいと思った、ということを思わなかったら嘘になる」と言っていましたね。それで強迫神経症の中で、嫁さんが自分の知り合いの編集者から仕事を貰ってきて、二人で毎日校正の仕事をして、余った時間で小説を書くということをやっていたですね。それが直木賞を貰ったその日まで続いたですね。だから五十三歳まで続いたですね。直木賞を貰った日も、夕方に賞が発表されるんですけど、夕方四時ぐらいまで校正の仕事を家でやっていましたね。
 

 
ナレーター:  平成十年、病を患いながらも書き上げた『赤目四十八瀧心中未遂』。車谷さんは長年の夢だった直木賞を受賞します。主人公は作家を目指しながら挫折し、すべてを捨てて無一物となった男。兄の借金を背負った女、綾(あや)は「うちを連れて逃げて」と言います。この世の果てへの道行き。男女の情念の世界を見事に描いた作品です。車谷さんは受賞直後に自らの胸のうちを語っています。
 
『赤目四十八瀧心中未遂』を書くのには六年費やしました。死に物狂いで書きました。それだけに受賞できて男子の本懐です。これからのことはただ恐ろしいだけです。
 

 
車谷:  小説を書く場合は、登場人物を突き回すわけですよね。つまり悪意に満ちた自分になるということですよね。それで主人公たちが、困れば困るほど、具合がよくなるわけですね。だから登場人物を追い込んでいくのは非常に苦しいですよ。人を追い込んでいくことだから。だから、それは赤目(赤目四十八瀧心中未遂)においてもより苦しいところへ追い込んでいくにはやっぱりある苦しみはありましたね。文学で一番苦しいのは登場人物をより苦しいところへ追い詰めていくということですね。追い詰めることができるかどうかに、その作家の才能のすべてがかかっていると思いますね。だからいわゆるお人好しの人は小説書けないと思いますね。より苦しいところへ登場人物を追い詰めていくというのは。そのうえで救済を与えなければいけないから。
 
山田:  特に車谷さんのように人間の業なり、そういうものを描いていく作家にとってはそういうふうに言えるということなんでしょうね。
 
車谷:  私以外の作家の方もそうだと思いますよ。より苦しいところへ追い詰めていくというのは。歴史小説を書いていらっしゃった司馬遼太郎さんなんかでもそうだったと思いますよ。織田信長が死ななざるを得ない方向へ書いていくわけですね。私が書くならば作り話か、あるいは無名人だけの話であってね。より困った方向へ追い詰めていくわけですよ。だから人をどの程度追い詰めて、徹底的に追い詰めることができるかどうかが作家の才能、あるいは覚悟だと思いますよ。だから人を追い詰めることが出来ない人は小説家になれないと思いますね。
 
山田:  一方で、「書くことを救済だ」というふうにおっしゃっていますけど、それはどういうふうに自分の救済であったというふうに思われますか?
 
車谷:  やっぱり自分の心の中でモヤモヤしていた形のつかないものに形を与えた、ということですよ。これからも与えていきたいということですね。モヤモヤした、なんかある気分のようなものがありましたね。気分というのはこういう形しているものが気分だと、人に見せることができないわけですね。それにまあ文字を通じて形を与えるということでしょうね。だから淋しいとかということは、言葉でいうことは可能なんですけれども、淋しいということが具体的にどういう形なんだ―具体性を持たせるというか、それが文章を書くことだなあと思いますね。だからそれをある程度の人には理解して貰えるように公共性を持たせないといけないということです。独りよがりではダメですね。
 
山田:  ただそこに登場する人物の姿なり関係を描くことによって、そこに人間の淋しさなり悲しさなりを描いて形にしていくということ、それがどうして救いになっていくんですか?
 
車谷:  人間はお釈迦様がおっしゃったように、四苦八苦というものを背負っているわけですよ。「生・老・病・死は、全部苦だ」と、お釈迦様はおっしゃるわけですね。だから生・老・病・死にやっぱり形を与えることじゃないでしょうか。それが救済だと思いますね。仏への道だと思いますね。
 
山田:  ということは、車谷さんはそういうことを実際に形にしながら、自分がどこかで癒されていたり、救われたりしているところがあるんですか?
 
車谷:  ありますね、形を与えると。生・老・病・死に形を与えるとなんか救われたような気持になられるということですね。その作品を読んで下さって、「共感を覚えた」という数多(あまた)の手紙を頂くから、〈あ、やっぱりそうなんだな〉ということはある程度は思いますね。
 
山田:  なるほど。じゃ、これからもさまざまなテーマで小説をお書きになるかも知れませんけど、それはそういう作業をこれからも続けていくということですね。
 
車谷:  一つは無一物ですね。もう一つは淋しいということですね。それは嫁さんがいても淋しいですね。それは何故淋しいかというのは、いずれやっぱり一人で死んでいかなければいけないということが、すべての人の人生には待っているからですね。
 
     これは、平成十九年四月二十二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである