命の重さ―還らざる若者への鎮魂歌―
 
                   作 家 神 坂(こうさか)  次 郎(じろう)
一九二七年和歌山県生まれ。昭和一九年陸軍飛行学校卒。戦後、劇団俳優座演出部などを転々とし、土木技師、建設会社役員を経て、歴史小説を書き始める。昭和三三年「鬼打ち猿丸」で大衆文学賞を受賞し、長谷川伸の門下となる。和歌山に在住し創作活動を展開する。五九年十八年がかりでまとめた「元禄御畳奉行の日記―尾張藩士の見た浮世」が六十万部のロングセラーになり、ドラマ化もされる。著書に「操られた巨人」「南方熊楠の生涯」「紀州史散策」「おかしな侍たち」「黒潮の岸辺」「今日われ生きてあり」「おかしな大名たち」「修羅を生きる」ほか多数。
                   ききて 峯 尾  武 男
 
ナレーター:  太平洋戦争の戦況が悪化する中、日本軍は搭乗員もろとも敵の戦艦に体当たり攻撃をする特別攻撃作戦を行いました。その特攻作戦では、多くの若者たちが命と引き替えに愛する人々や祖国を守るため出撃しました。作家神坂次郎さんは当時飛行兵として戦い、多くの特攻兵たちと身近に接しました。戦後生き残った神坂さんは青春の日々を奪われた戦友たちの叫びを書き続けてきました。
 

 
峯尾:  あれからもう六十年以上経ちます。そして、その特攻隊員の若者について書かれた神坂さんの一連のこの本が、二年前に出されたこのハードカバーで一応の終止符ということですが、今のお気持ちは如何ですか。
 
神坂:  そうですね。肩の荷を下ろした、というのか、これで申し訳が立つな、というふうな凄く嬉しい気持があります。
 
峯尾:  この著作そのものにかけられた年数というのが?
 
神坂:  二十二年。連載を始めて二十二年。構想の段階で三十年経っております、何も書けなくって。書きたいんですが書けなかったです。その三十年というのは随分苦しかったです。途中でふっと挫折するような気持もあったんですが、なんとか最後まで全部走り続けられましたんで、これでほっとしています。亡くなった男たちへの言い訳がたつたような気も致します。
 

ナレーター:  一九二七年和歌山市に生まれた神坂次郎さんは、太平洋戦争の最中、旧制中学四年終了後、陸軍航空学校に入りました。戦時中は陸軍の飛行兵として全国の飛行基地を転々としてきました。
 

 
神坂:  少年時代というのは遠くから軍歌の靴の響きが聞こえてくるような、そういう時代だったですね。ですから凄く緊迫しておったと思うんです。太平洋戦争が始まったその時には、これは大変なことになった。ともかく国を守らんといかんという、そういう思いが少年の心にありましたですね。これは私なんか少年兵として行ったんですが、学徒の人とはまた随分違う、すぐ目の前の戦という気がありましたですね。
 
峯尾:  時間的にいうと、学徒出陣より少し前ということになるんですね。
 
神坂:  ええ。半年ほど前です、飛行学校に入ったのは。ですから学徒出陣の神宮外苑の出陣学徒壮行会は戦争終わってからしか知らなかったです。
 
峯尾:  そうですか。もうそういうような状況を知るような立場にはもういらっしゃらなかった。
 
神坂:  なかったですね。兵営の中ですからね。飛行学校の中ですから、そういうことを考える暇も、勿論ニュースもありませんし、ともかく凄い訓練でしたから、血の小便が出るって本当なんですよ。ですから途中で亡くなった友だちもおりました。ともかくそれに耐え抜かないと戦場に出して貰えないというような気がありましたね。
 
峯尾:  それは、それこそ今の若者だったら、いや、自分はとんでもないところへ来てしまった。選択を誤った、というふうに感じるのではないかと思いますが、当時はそんな雰囲気ではないわけですね。
 
神坂:  私の場合はなかったように思いますね。ともかく真っ先に駆け付けなければ。その頃は旧制中学の四年生だったんです。「何で士官学校へ行かなかったか」とか、「士官になる道を選ばなかったのか」ということをよく言われたんですが、士官になる道を選んで、他の歩兵とか、自分の思いが違う兵科になると困るんですね。飛行学校というのはともかく飛行機に乗って飛んで行ける。そういう少年の夢のようなものもありましたですね。
 
峯尾:  その飛行学校に入られている間に、場所をいくつか変わられたということなんですか。
 
神坂:  それ以来、転々と。飛行兵というのはよく変わりますから。原隊がないとよく言われたぐらいで、転々と変わっていきます、戦況の変化によって。学校を出まして、それからすぐ戦場ですからね。内地におりましても戦場なんです、飛行兵は。普通の兵科ですと、時間をかけて運ばれて戦地へ行くんですが、飛行場ではすぐ死ぬわけですよね。飛行機が落ちるとすぐ死にますから。ですから、小学生なんかと一緒に遊んでおっても、もう次の時間死んでいるかわからないですね。明日の約束はできないんです。午後の約束はできないんです。まずそれが戦隊勤務の飛行兵の宿命なんですね。
 
峯尾:  神坂さんは何カ所ぐらい?
 
神坂:  やっぱり六、七箇所ぐらいは変わっている筈ですね。転々として、三日ぐらいしか居らなかったというのもありますから。大きくは群馬県の館林(たてばやし)―そこは特攻編成基地なんですが。それから途中津のほうの、そこはもうごく短時間居った。知覧へ変わりまして、そこからまた名古屋の愛知県の小牧飛行基地に、飛行師団司令部に勤めました。そこで敗戦で。
 
峯尾:  この一連のシリーズの最初が『今日われ生きてあり』という本。これは世に出たのが昭和五十八(一九八三)年ということで、戦後からするとかなり経っていますよね。
 
神坂:  そうですね。
 
峯尾:  これは何か特別なわけがあるんですか。
 
神坂:  書きたいとは思っていたんです。ですけど、どういう文体で書けばいいのかという、それで三十年ぐらいかかっているんです。いわゆる戦争小説として克明に書けば書くほど読む人から離れていくわけです。わからないんです。軍隊用語とか、激戦がどこにあったとか、そんなことを細かく書いたって読む人には関係ないわけです。それじゃなしにどうしてわかるのかなあと思って、私の大先輩の山岡荘八(やまおかそうはち)という有名な作家の先生ですが、その人が随分目をかけて下さいまして、「君、やらないか」と、大きな出版社を紹介してくれたんです。私、書けなかったんです。大先輩からいい話を頂いて書けないというほど苦しいことはないですね。一番いいチャンスなんですね。連載をさしてやるというんです。だけど後になって、それはやっぱりお断りしてよかったなあと思います。その歳にならないと書けない、もっと距離をおかないと、密着し過ぎて書けないということがありますから。だから、三十年間迷ったというのは―常に資料は随分集めておりましたですが―書けなかったというのはそれですね。どうしたら読んで貰えるのか。年代も何も違う人たちに読んで頂けるにはどういうふうに書けばいいのか。ということは、文学しかないんです。文学ならわかって貰える。時代が変わってもわかって貰えるんではないかな。文学のうちでもノンフィクションノベルという、そういう虚構のない、嘘のない、本当のものを、それをもの凄く詩的な感じ、詩のように書けるんじゃないかなあ。彼らの人生を見るとほんとに一種の光芒(こうぼう)を放って消えていったような男たちを如何に書けるかというのがそれですね。ノンフィクションノベルという、そういう舞台があったんじゃないかなあと思って、それなら時代が遠くなっても読んで貰えるような気がしましたですね。そうでないと、亡くなった人に申し訳がないですね。次ぎに読んでわからないというのでは困るんですね。私は、一番最初に―宗教心はありませんが―原稿用紙の中に一字一字亡くなった男たちの名前を彫り込んでいこう、写経をするように彫り込んでいこうと思って書いたんですね。若いですから無名でありますが、何とか将軍じゃないんですね。だけど無名の若者たちが如何に凄かったか、如何に素晴らしかったか、どういう人生を送ったかですね。そういう人たちの名前を一人ずつ書いていこう。もうそれ以外にないんではないかなあ、と。書き始めた時にそれを思いましたですね。
 
峯尾:  いよいよ執筆に入るに際して、特別のきっかけというのは何かあったんですか。
 
神坂:  それは、私の飛行学校の同期の男で、薩摩(鹿児島)の男なんですが、福元勇蔵(ふくもとゆうぞう)―先年亡くなりましたが―それが随分いい男でして、いかにも九州っぽらしい熱血漢で大きなことを言わない。ほんとのことしか言わないような地味な男なんですね。私はそういう男が好きで人生の中の一番の友だちではないかなあ、と。
 
峯尾:  その薩摩男の福元さんと直接には何があったんですか。
 
神坂:  私は知覧へ行きそびれておったわけなんです。彼はそれを知っているわけです。私がためらっているのを知っているので、無理矢理に連れて行ってくれたんですよ。
 
ナレーター:  戦時中神坂さんが行った特別攻撃隊の基地・知覧は鹿児島県の薩摩半島にありました。太平洋戦争末期、この知覧の基地から多くの若者たちが沖縄方面に向けて飛び立って行きました。戦後、特攻基地は連合軍によって解体され、茶畑やサツマイモ畑などになっています。

 
神坂:  久しぶりに知覧へ連れて行ってもらって、南薩(なんさつ)鉄道の駅があるんですが、「CHIRAN STATION」と書いているんですね、英語で。ですから随分変わっているわけなんです。そこに特攻英霊芳名碑というのがありまして、四百何人死んでおりますが、それをずーと克明に名前が彫られているんですね。その福元が一つずつ指で想い出すようにして、自分の知人がないかというふうな調子でこうなぞっていったんです。途中でもの凄い声を出したんですね、「ここにお前(まン)さの名が・・・」というて。「何や!」と言って行ったら、私の本名が彫り込んでいたんですね。
 
峯尾:  受難碑の中に、
 
神坂:  そうです。
 
峯尾:  神坂次郎さんというのはペンネームですね。
 
神坂:  そうです。
 
峯尾:  本名がその中にあって、
 
神坂:  一生懸命指で突っついている。その時にぞっとしました。今までどうしても逃げようと思っていたんです、戦争から。それで特に飛行機乗りの話からは逃げよう。家族にも話はしたことはなかったんです。その時にぞーっと背筋に走るものがあって、これは逃げておったらいかんと思って。そういう男たちの若者や少年たちのことを書いて残すべきである。そのためには小説書きになろう。本気で腰を据えたのがその時です。その知覧の特攻英霊芳名碑の中に私と同名の名前を見た福元勇蔵が、太い指でこう突っついていたのを覚えております。それがきっかけです。
 
峯尾:  同姓同名?
 
神坂:  そうです。
 
峯尾:  実際にその命を落としたのは別人で、
 
神坂:  そうです。私よりも二期か三期ぐらい上の人なんです。
 
峯尾:  知覧にはどれぐらいいらっしゃったんですか。
 
神坂:  きわめて短い間ですね。克明な記憶はないんです。あの忙しさの中ですから、幾月も居らなかったですね。
 
峯尾:  しかし、そこでその飛行機に乗って飛び立って行った若者たちをご覧にはなっているわけでしょう。
 
神坂:  はい。出撃というのはやはり見に行きましたですね。
 
峯尾:  その時にまだ十八歳になるかならずの年齢で、ほぼ同じ世代の人たちが変にめそめそしたり怖がったりしないで飛び立っていくわけでしょう。
 
神坂:  そうです。それは不思議なぐらい心が澄んでいるんでしょうかね。決断するのはもっと前に決断しておりますからね。ですから、私の持っている写真の中でも、知覧の取違(といたげ)というところがあるんですが、特攻というのはすぐ飛び立つんじゃないんですよ。宿舎から軍用トラックに乗って、飛行場まで運ばれるんですね。
 
峯尾:  この『特攻隊員たちへの鎮魂歌(レクイエム)』というご本には、「微笑を浮かべながら人々に別れを告げ、搭乗機に向かう隊員たち」というふうな説明が付いているんですが、ほんとにトラックの上の青年たちが穏やかな表情をしていますよね。
 
神坂:  いい表情ですよね。この十七、八から二十二、三までの若者がこんな表情ができる。あと二時間何分で死ぬんですよ。それは大変なことなんですね。時代がそれだけ煮詰まっているんですね。白熱化しているんですね。緊張感というのはもうとっくに、死生云々というのはもうとっくに済んでいるんです。それまでが大変だったと思いますね。見送ってくれた人に悲しい顔を見せないというのは若者のいたわりですよ。凄いですよ、その当時の若者というのは。
 
峯尾:  これトラックのこちら側でみんな頭を下げていますが、多分この伏せている人たちの表情というのはこれよりずーっと厳しい、あるいは悲しいものなんでしょうね。
 
神坂:  そうですね。その前の小学生なんか、おそらく涙をこぼしているんじゃないかなあと思うんですね。今まで凄く鬼ごっこしたり、よう遊ぶんですね。ハーモニカを聞かせてもらったり、お菓子をもらったりね。飛行兵ですから、チョコレートなんか、その当時としてはきわめて珍しいものを持っておりますからね。そういう仲間ですよ。乾パンなんかもよく貰っていましたけど。それが死にに行くというのがかすかにわかるんですね、この小学生に。それが笑っていますからね。ですから凄く悲しいんじゃないかと思いますね。
 
峯尾:  そして、こちらの本の写真は女学生が見送っている。
 
神坂:  そうです。これは知覧高女の女学生ですね。そういう女の人ばっかりがここまで来て見送ったんですね。
 
峯尾:  これは飛行機のすぐ側ですね。
 
神坂:  そうです。これは掩体壕(えんたいごう)から出て来て滑走路へ行くまでなんですよ。まだだいぶ時間があるんですね。ですからこの余裕があるんですが。この飛行機は「隼(はやぶさ)」なんですが、二百五十箇の爆弾が腹の下にあるのがよくわかるんですね。だからこういう悲しさというのはまだまだ残っているんですよ。この見送りの女学生の名前を調べたことがあるんです。みな聞いた人によっては違うんですね。これだけ一緒におったのに後ろ姿ばかりなんですが、「これは何とかさん」「これは何とかさん」というので、迷った覚えがあります。だから戦争中のことというのは―六十何年前というのはこんなにわからなくなっているんですね。
 
峯尾:  その神坂さんを決心させた、知覧に行かれたのが「昭和五十七年」とお書きになっていますね。そうするとたしかに知覧そのものも随分変わっているんでしょうね。
 
神坂:  そうですね。戦争が終わった後、連合軍が入って来た。特攻宿舎というのはブラン・テーブスという将兵が率いた兵隊の一隊が全部壊してしまった。知覧で残っているのは給水塔だけですね。片一方に衛兵司令室のコンクリートの塊が転がっているんです。これには弾痕がいっぱいありました。それから滑走路の横のコンクリートの側壁のようなものぐらいしか残っておらなかったですね。その当時、特攻おばさん≠ニ言われた鳥浜とめさんですが、とめさんの「富屋」食堂だけがあったんですね。少年兵が行けるような食堂ですよ。それで町へ出るとみんなそこへ行くんですよ。食べ物にそんなに困っている筈はないんですが、そこで食べる親子丼が美味しかったり、なんかいろんな雰囲気がちょっと違うんですね。
 
峯尾:  しかしそのおばさんにすれば、自分を慕ってご飯を食べに来てくれた若者たちが次々に居なくなっていくわけですね。
神坂:  そうですね。初めは飛行学校の分教場だったんです。飛行訓練の学生たちがみな少年兵もそこへ入って来ますし、いわゆる学徒の連中も入って来ますし、それがそこで訓練を受けて各地へ行きまして、次ぎに帰って来た時は全部もう特攻になっているわけですね。ですから悲しさというのは、鳥浜とめさんは言わないですが、随分悲しさがあったんじゃないかなと思います。やがては死んでいくという、それを目の前に控えておりますから。
 
峯尾:  この本の中に、「ホタル花咲く頃」という宮川三郎軍曹のお話があるんですが、これは特攻おばさんと親しまれた鳥浜とめさんから聞かれたお話ですね。
 
神坂:  そうです。宮川三郎というのは、織物で有名な雪国の小千谷(新潟県)の生まれなんです。地方航空機乗員養成所に入ったんです。陸軍飛行学校とか、そういうところでなしに養成所ですから、ちょっと年長なんですよね。それでとめさんが随分気に入った人なんですが、「おばさん、おれも明日出撃するよ。だけどおばさん、おれ、帰ってくるよ」と。「どげんして戻ってくっとナ」と言ったら、「蛍になって化ってくるよ、きっと」と言った後で出撃して、それから随分時間が経って暗くなった頃にホタルが一匹飛んで来たというんです。凄く感動的な話なんです。これはおばさんからも聞きましたし、娘さんからも聞いたことがあるんです。麓川(ふんもとがわ)の河原ですずしげな鳴き声をあげている河鹿蛙(かじか)の上を一匹の蛍が飛んで来、開け放した富屋の窓から舞い込んできた。食堂の中の柱にとまった。空襲がありますから電灯を暗くしているんです。いち早く蛍を見つけたのは、とめさんで、ビックリしまして、「宮川さん!」と言って。ふたりの娘さんも泣きながらホタルを見た。とめさんの声に応えるようにぐるぐる回っておって、やがてすーっと飛んで行った。おそらく郷里(くに)へ帰ったんであろうと、みなが思ったんですよ。この宮川三郎という人は、子どもの頃から散歩に行くと、いつも蛍袋(ほたるぶくろ)(高さ三○〜五○センチ。茎頂に淡紫色の大きな鐘状花を数個下垂)の花がありまして、その中にホタルが来るというんですね。ホタルの宿屋というんですね。いつでもお母さんとお父さんと三人で散歩すると、ちょこちょこと走って行って、蛍袋を覗くんですよ。「何しに行くんだ」と言ったら、「寝坊のホタルがおったら起こしてやらにゃいかん」と言ったという。宮川さんが亡くなった後で、お母さんが語っているんです。宮川さんのお墓を建った時に、「周りに蛍袋を植えてやろう。あれだけホタルが好きな子だったから」という話を聞いたことがあります。宮川さんがホタルになって帰って来るというのは、そういう素地があったわけですね。小さな頃からホタルが好きで、「ホタルに化(な)って帰ってくる」と言った。人生の一番最後の、一番大事な時にふっとこう出たんでしょうね。考えもなく出たと思うんですよ。ホタルに化って帰って来るというのは、小千谷の母親の元へ帰ることなんですね。特攻おばさんが、「あれ何年かかるかなあ」と言っていましたけどね。小千谷まで遠いからね。最後に玄関まで畳の上を杖をつきながら、足の痛いのを堪えて送ってくださいましてね。お別れにとめさんが歌を書いてくれたんです。
 
峯尾:    散るために咲いてくれたか桜花
       散るほどものの見事なり
       贈 神坂次郎殿 特攻の母鳥濱とめ
 
「久しぶりだなあ」というようなことを、とめさんは神坂さんにおっしゃったんですか。
 
神坂:  いいえ。そんなことは言わないんですがね。
峯尾:  あ、そうですか。
 
神坂:  「よかったねぇ、よかったねぇ」と。
 
峯尾:  「よかったねぇ」の背後には、他の再び会えなくなった、死んだ多くの若者たちへの思いがあるんですね。
 
神坂:  ええ。一生懸命にこう書いてくださいましてね。これは一番のいい記念になりましたですね。
 

ナレーター:  戦後復元された三角兵舎。このようなところで特攻隊員たちは、出撃の命令を待ちながら家族への最後の手紙や遺書を書きました。当時の姿を伝えるために建てられた知覧特攻平和会館。全国の遺族から集められた特攻隊員たちの遺書・遺品・写真などが展示されています。
 
峯尾:  そして、年月をかけて、しかも日本全国広い範囲に渡って資料を集められたわけで、それがまだお手元にあるわけですね。
 
神坂:  そうです。これは取材した記録なんです、ぼろぼろになっていますが。
 
峯尾:  コピーがずいぶんたくさんありますね。
 
神坂:  全部コピーして保存しておかないとわかりませんから。
 
峯尾:  写真も随分集められたわけですね。
 
神坂:  そうですね。その頃の写真というのは、戦後こういう写真を持っていると、連合軍から重労働に処せらるというデマが特攻基地の周辺に渦巻いたわけなんです。それでせっかく残した遺書なんかでも焼いてしまったり、そういうことをされたのは随分多いんです。だから残っているのはきわめて少ないんですね。私も何通か遺書を―コピーですが―持っておりますが、残るというのは持っておった人の心の温かさですね。そういう恐怖感の中でそれを握りしめた、そういうものですから凄く貴重なものですね。
 
峯尾:  そういう資料集めを神坂さんが始められたのは、「よし、それじゃこれを書くぞ」という知覧へ行かれた後で、そういう活動を始められたんですか。
 
神坂:  いいえ。もう敗戦直後からです。軍のほうからくれた教科書とか書類を全部家へ送っておりました。たまたま家が焼けずにありましたから残ったんですが、それ以後随分探しました。まだ去年ぐらいまでは軍の書類なんかをよく専門にやっている古書店をしょっちゅう毎月のように東京へ出て行って回ったりやっておりました。そして掻き集めたものがほとんどだと思うんです。ずーっと続いております、去年ぐらいまでは。
 
峯尾:  そうですか。その本の中には、特攻隊員だった個人の家族に宛てた手紙であるとか、日記であるとか、そういうものも克明に書いていらっしゃいますが、それは個人のその人の残された家族の元を訪れて、
 
神坂:  まあ、ほとんどそうなんですが、そうでなければ、例えばある機関に保存されたとか、自衛隊の資料室にあったとか、それを全部訪ね歩いてコピーを取らせてもらったりしております。現物を持つというのはこれは大変なことで不可能なんです。せめてコピーでも取らしてもらったり、見るだけでも見せてもらったりしております。そうでないと間違ったことを書くと困りますので。
 
峯尾:  しかし個人の家を訪ねられて、例えば、「亡くなった息子さんが残されているものを拝見できませんか」とおっしゃったとしても、もうそのことは忘れたいとか、いろんな方がいらっしゃるでしょうね。
 
神坂:  ほとんどがそうですね。そして訪ねて行けないんです、私が生きておりますから。
 
峯尾:  なるほど。
 
神坂:  亡くなった先輩とか仲間とか、そういうところにこうぬけぬけと行けないわけです。行ったら向こうが変な感覚を持つというのは当たり前なんですよね。だからそれは避けて、自分で行かずに、誰かに行って貰う。それをしないとダメなんですよ。ですから直接調べたくっても調べられないものがあるんですよ。だからそこに調べられる人を介して頼む以外はないんですね。ですから凄く時間がかかるんです。
 
峯尾:  そうでしょうね。
 
神坂:  それをしないといけないですよね。
 
峯尾:  さまざまな資料を集めて、本になる前にいろんな資料に接せられるわけですね。思い出深いものもたくさんあると思いますけれども。
 
神坂:  感動が深かったのは、ザラ紙の通信紙に書いた遺書ですね。悲しいことは書いてないんです。ただ普通のことを書いているんです。それを書いた時の瞬間がわかるわけなんですね。
 
峯尾:  通信紙というのは?
 
神坂:  普通の通信用の―電報用紙があるでしょう、あれみたいなのが―軍用のものがあるんです。それがもの凄く粗悪な紙なんですよ。もうすぐ使ったら捨ててしまうもんですからね。それなんかに悲しいことは書いてないんです。「人生駆(か)け足」と書いてあるんです。それだけですよ。一行だけ書いている。真っ直ぐ死んでいく、というんですね。それを誰がどう読むかですよね。それはおそらく検閲の目を抜けるために、「死にたくない」とか、「もうすぐ死にますよ」というようなことは書けないですよ。「人生駆け足」は、問い詰められたら、もの凄く勇敢なんですよ。その返事ができるんです。読み手によってはそうなんです。「軍人半額」という合い言葉があったんですよ。飛行兵はそのまた半額なんですよ。二十五ぐらい前には全部死んでしまうんですよ。だからそういう言葉があった。それで「人生駆け足」と書いた意味がわかるんですよ。もう目の前ですね、駆け足ですから。だからその一行をどうとるか、ということですね。
 
峯尾:  それは家族に出しているわけですね。
 
神坂:  そうです。検閲があっても大丈夫なんですよ。検閲の判が押しているんですよ。「何とか様」と書いているんですね。「人生駆け足」それだけですよ。だからもの凄く短いんです。例えば遺書をほとんど書かなかったというのがそうです。オーストラリアの新聞特派員のデニス・ウォーナーが『KAMIKAZE』という本を書いています。「戦争末期になったらほとんど遺書を書かなかった。書いているのは、お母さん≠ニ書いているぐらいだ」と。それで届くんですよ、お母さんには。一行でもいいんですよ。「お母さん」と言っていたら、お母さんには思うことがいっぱいあるわけですよ。その子の言いたいことがいっぱいわかるわけですよ。ですから、「あの子の文は私の棺桶に入れてください」と言ったのはそうなんです。そんなに細かいことを書いていないんです。戦争中ですよ。凄く検閲の厳しい軍隊ですよ。ですからそういうものはどう感動するか。時間が経ったら感動しないんですよ。「人生駆け足」と、今の若い人が読んでもまったく感動しないでしょう。そういうものが歴史の見方なんですよ。歴史をどう見るか、どう捉えるか。そういうのに巡り会うと凄い感動がありますよ。戦争がぎりぎりにこうなってくると、少年兵はほとんど遺書を残さないんです。未練である、と。やっぱり残すのはほとんどお母さん≠ネんです。お父さんは残念ながらないんですね。「お母さん、お母さん」ばっかりなんですね。だからそれはもう不思議なことですね。外国の報道特派員の中でも、「不思議にお母さんへの遺書が多い」と書いていますからね。
 

 
ナレーター:  遺書の代わりに短歌一首をお母さんに贈った隊員もいました。
     南の雲染む果てに散ろうとも
     故郷(くに)の野花とわれは咲きたし
 

 
神坂:  手紙もなく歌一首だけあるんです、お母さんのところに。故郷(くに)の野バラですね。桜花爛漫たる桜ではなしに、凄く豪華な菊の花でもなしに、田圃の畦道に咲く花になりたい、と。お母さんがいつも野良へ出て働くんですよ。そういうのはやっぱりグッときますよね。歌一つだけですよ。もう原稿用紙何万枚書いた遺書よりは強いですよ。
 
峯尾:  この膨大な資料を丹念に読み取られて、当時の特攻隊員となった若者たちの信条、生き方、ものの考え方というのを、神坂さんはどんなふうにお感じになっていらっしゃいますか。
 
神坂:  やっぱり時代が煮詰まって、白熱化した時代というのを考えないとちょっとわからないんですね。だから凄く日本を「愚劣なりし日本よ、優柔不断なる日本よ」なんて詩を詠んでいる人があるんですよ。だけど、「汝 いかに愚かなりとも 我らこの国の人たる以上その防衛に奮起せざるをえず」と書いているんです。もの凄く揺れて、揺れた自分をそっちへ見つめよう、見つめよう、としているわけですよ。ですから、いろんなものを考えて、可哀想なぐらい考えているんです、若者が。一生懸命考えた挙げ句にやっぱり突撃するんですね。ある帝国大学の秀才が、その先生が、「彼が今学校におれば、私はあの子に学問を習いに行っているであろう」というぐらいの秀才なんです。それが恋人に手紙を出しているんですね。「夕暮れ飛行場の柵の外に僕は出た。遠いところから小さな小学生が、飛行機服を着た僕のほうを見て頭を下げた。僕はあの子どもたちのためなら死ねる。京都の大好きな京都のためなら僕は死ねる」と。「日本のため」とは書いていないんです。「僕は京都のためなら死ねる」。純粋な学徒でしょうね。それは恋人にだけはそれを言っているわけですよ。他の遺書ではまた違うわけですね。もの凄く戦う、戦う、というふうな、「今日の努は何ぞ 戦うことなり。明日の努は何ぞ 勝つことなり。凡ての努は何ぞ 死ぬことなり」と、それしか書いてないわけです。それと京都のために死ねる。僕はあのちびっ子のためなら死ねる。同じ学徒が凄く揺れ動いているんです。だから二つあるんですね。友だちのところに書いた時に、凄く激しいものを書いて、恋人の時にはもの凄く優しいものを書いたり、だからその激動の日本が始まって以来、国が倒れる、もう音立ててこう崩れていくんですがね、その真ん中におった若者の気持というのはわかるんです。一つには決められないんですね。だからいろんなものに、いわゆるインテリーであるだけに、学徒は迷いに迷っているわけです。その挙げ句の果てに決めたわけですね。川柳ばっかりを書いたものがありますね。それなんか凄く学徒の凄いインテリージェンスというのを感じるんですよ。
 
峯尾:  これは四人の二十三歳の若者が作った句ですが。
 
神坂:   アメリカと 戦う奴が ジャズを聞き
      ジャズ恋し 早く平和が くればよい
 
とかね。特攻へ征(い)くんですよ。直前半分がもう征っているんですよね。残り半分はまた征きまして、結局、大学ノートに四人の合作で川柳百句残ったんですがね。そういうゆとりですよね。これから死ぬ。二時間何分で死ぬというのに、そういうゆとりを残して征った。みんなが出撃した後がらんとしたところに百の川柳を書いた大学ノートだけが残った。これで窓を閉めた。明日出撃だから窓を閉めた。その窓をもう開けることはないんですよね、自分の手で。だからそういうものを川柳で詠んで、その心をほろっとさせるというのは凄くいいですね。中には若者らしい、
 
     慌て者 小便したい ままで征き
 
とかありますがね。それで飛行機で飛び立つ時に、あっと思ったらポケットにばら銭が入っていて、それを撒いて行ったとかね。なんか如何にも学生らしいですね。自分にひっついているしらみが可哀想にこいつも死んでしまうんか、という句があったでしょう。
峯尾:  殺生は 嫌じゃとしらみ 助けやり
 
私がやっぱりガクッと衝撃を受けたのは、
 
     生きるのは よいものと気がつく三日前
 
神坂:  そうですね。
 
峯尾:  後は、
 
     特攻へ 新聞記者の 美辞麗句
 
非常にクールな見方をしている。
 
神坂:  そういう目で見ているんですよね。
 
峯尾:  萬歳(ばんざい)が この世の声の 出しをさめ
 
これまさに辞世の川柳ですね。
 
神坂:  そうですね。
 
峯尾:  父母恋し 彼女恋しと 雲に告げ
 
神坂:  それは若い素晴らしい男たちですからね。こんな大動乱の真っ最中の学生が、ほんとに川柳百句詠めるというのは凄い教養だと思うんですね。素晴らしい男ですよね。ゆとりがあるんですね。みんな学校は違いますけどね。歳がみんな同じなんですね。それで二回に分かれて二人ずつ出撃して征って死んでしまうんですよ。普通の俳句とか短歌ならわかるんですが、川柳でこれだけ余裕を示している。自分がもう死ぬとわかっていながらね。
 
峯尾:  後三日 酔うて泣く者 笑ふ者
     体当り さぞ痛かろうと 友は征(い)
     出撃の 時間来るまで ヘボ将棋
     別れ酒 もう一杯と 強い奴
     いざさらば 小さな借りを 思い出し
 
これだけさまざまな人たちが実際の名前で、いつどういう形で亡くなったか。すべて、言うなれば無名の人たちをこうやってずーっと書き続けていらっしゃったわけですね。
 
神坂:  歴史というのは富士山に似ていると思うんです。どっから見た富士山だけがホンモノだとは言えないんですね。裾野が広いんです。今度の戦争で教えてくれたのは歴史の見方、学び方ですね。これがわかったと思うんです。だから別に頂上だけじゃなしに、いろんな方面の見方があるわけですよ。ですから、私は部下を見捨ててフィリッピンから台湾まで逃亡した司令官よりは、ホタルのあの宮川軍曹のほうが偉いと思うんです。私の腹の中では上位になっているんですよ。それを書くべきだと思うんです。私はずーっと小説を書いて百何冊ぐらい本は出ておりますが、いわゆる織田信長とか豊臣秀吉とか、偉い人一回も書いたことないんです。無名の人ばっかり書くんです。「秀吉は」と言ったら一回で済むんです。無名の「誰それが」、無名の頃の「熊楠(くまぐす)は」と言ったってわからないんです。「そんなしんどいことを何故するんや」と言って編集長に叱られたことがあるんです。編集長にそれを話したって、戦争の話したってわからないんです。だから私はこういう無名の若者を書きたいというきっかけになったのが、私の出発点がここなんです。これが到着点じゃないんですね。私の小説を書いた出発点がここで、いろんな無名の人、ずーっと無名で有名人よりも素晴らしい男たちばかりを書いたわけなんです。だから私の著作の中にはそういう人が随分多いと思うんです。戦争が私に歴史の見方、人の見方を教えてくれた、と思いますね。それ一番大事な原点がここにあるんじゃないかなと思いますね。
 

ナレーター:  太平洋戦争は、日本の無条件降伏で終わりました。人々は玉音放送で日本の敗戦を知らされました。
 

 
神坂:  私が、玉音放送―天皇の放送を聞いたのは小牧の格納庫の中です。何を言っているのかちょっとわからなかったです。ほとんどの人が、「いよいよ日本も危(あやう)くなってきた、もっと頑張れ」と言っていると思ったんです。その玉音放送の後で、鈴木貫太郎首相の放送によって、はじめて日本が敗れたのを知ったんですね。私は、「終戦」という言葉は嫌いなんです。間違いなく「敗戦」なんです。言葉は誤魔化すという大人たちの知恵というのを私はもの凄く嫌いなんですね。ですから、私は、「敗戦」としか言わないです。あれでたしかに負けておるんです。負けたという自覚がないとダメです。終戦なんていうのは、変な幕が下りたような感じではないですね。だから日本は、価値観がぐぅっと変わったわけですね。平柳(ひらやなぎ)という家では、四人戦死しているんですね。軍神の家≠ニ呼ばれていたんです。みんなエリートで、平柳四兄弟の壮烈な奮迅ぶりは町びとの誇りであった。国民学校の児童たちは先生から、軍神の家≠フ前を通るときには敬礼するようにと教えられていた。
 
峯尾:  戦争中はそういうふうにして、
 
神坂:  だが、やがて敗戦によって、世間の眼は一変し、耳をふさぎたくなるような罵声であった。町びとたちは人変わりしたように悪口を浴びせかけた。「軍国主義者」と言われ、石をぶっつけられたんです。
 
峯尾:  戦争が終わってから、
 
神坂:  ええ。善家善四郎という人は特攻で戦死しているんです。そのお母さんは、息子が戦死して金鵄勲章(きんしくんしょう)を貰っているわけですね。その勲章や記事が載った新聞を大事に小さなトランクに入れて、空襲の最中に逃げ回っていたんです。それが敗戦後、心ない人に「国賊」と言われ、「軍国主義者」と言われたんです。それで妹さんとお母さんが抱き合って泣いた、というんですよ。「善四郎が可哀想や」と言って。
 
峯尾:  神坂さんご自身も、戦後の戦いのなくなった日本へ戻って来られた時に、違和感というか、あるいは不快感も感じられたというようなこともありました?
 
神坂:  ありますね。例えばもう一度勉強しようと思ったってダメなんです。軍の生徒はダメです。五分の一ぐらいしか採ってくれないんです。よっぽど秀才でないとダメなんですね。それから飛行服しかなかったわけですよ。新橋歩いていたら「特攻くずれ」と言っているんですね。「特攻くずれ」というのは、その頃はやたら機関銃をぶっ放したりなんかしていたんです。アメリカのジープを襲ったり、そんなことをしてかっぱわれるかわからんと言うんで、警戒せ、というような、そういう風説(うわさ)が広まったんですね。今まで別に特攻だから手を合わせて拝んでほしいというわけではないですね。私も特攻でもありませんし、飛行兵ですけどね。そういう人の軽さですよ。軽く変わってしまうんです。だから戦争というのは恐いですね、人を変えるというのが。大人たちの狡さというのが身に沁みたですね、十八歳の少年には。だから自分は自分でいかんとしょうがないというんで、お芝居やってみたり、土建屋になってみたり、そんなことをしたわけですね。そういう脇道を随分歩きましたけど、これもやっぱり戦争のお陰なんでしょうね。ですから、私らが受けた苦しみというのは、随分いろんなものがごっちゃにあるわけですね。簡単にいかないんですね。自分自身でもちょっと分析できないんですがね。ただそれをわかるためにと思ってこれを書いたんです。二十何年間です。考えて三十年ですよ。それの歳月を思って貰えれば、わかってくれると思うんです。その間同じことばっかりコツコツやっていたというのは、何でかというのは、自分でもはっきりしたものは出ないんですよ。ただこれをやらんといかんという気持だけなんですね。それをどう解釈して頂くか。これは本を読んで頂くしかないんですね、物書きとしては。
 
峯尾:  書くことによって、それこそ神坂さんが見てこられた、感じてこられたことというのは、世の中に少しずつでも伝わりつつあるなあというふうにはお感じになりますか。
 
神坂:  そうですね。名前ちょっと挙げられないんですが、ある関東の女子大の方から手紙を頂いたんです。「知覧へ行きたい。どことどこと、何を見たらいいか」と。「私のような地味な作品を読んで、どうしてそこへ行きたいんですか」と言ったら、「若者を見送ったのは私と同じ歳ぐらい。だから彼女たちはどういう気持でそこから送ったのか。その場所をみたい」という手紙を貰って大事に置いております。だからそういう人たちに読んでもらうというのは、これだけでも嬉しいですね。
 
峯尾:  そして、今や戦争をまったく知らない世代が圧倒的な数を占めるようになりました。この意味でいうと、幸せな人たちなのかも知りませんけれども、しかし忘れてはいけないことというのはありますよね。
 
神坂:  戦争は決していいことではないと思いますが、私の見てきた、また聞いた若者たちには凄く純粋さがあった。例えば嘘をつく必要がなかった、仲間の同士で。格好をつける必要がなかったんです。つけてもみんな死ぬんです。土壇場なんです、土壇場というのは悲しいですが。その純粋さというのは若者特有のものがある筈なんですよ。今の若い人は、もう八十歳の老人の私の目からみますと、どうも違うんですよね。澄み切っていないんですよ。清澄さというのか、清冽な、というか。昔は若者にはあったんですよ。全部が全部にあったとは思いませんが。今度の戦いで亡くなった人たちはたしかに清冽な心を持っておったわけですよ―良いとか悪いとか別として―仲間同士の信頼感とか、先輩と後輩の信頼感とか、それはたしかにあったわけですよ。それは若者として欲しいと思うんですよね。いずれ年齢が重なっていくと違ってくるのがありますけど、若者の一時期ですね、そういうものがやっぱり欲しい。それがあったというのは、逆に考えて、私は、そういう亡くなった男たちを間近に見ておった幸せというのを感じますね。言葉を換えると、大変な逆境なんですが、逆境なるが故にホンモノが出たんですね。嘘を言わなくってもいい、誤魔化さなくてもいい。いずれみんな死んでしまう。人間はどうせそうなんですが、だけどその人たちは期間が凄く短かった。白熱化しているんですね。一瞬の光芒を放って消えていった男たちですね。私は凄く羨ましいような気がしますね、この歳になるとね。ですから、戦争を終わった後で、何度か苦しいことがありました。職業についても、何にしても随分苦しいことがありました。その時にチラッと思ったことがあるんです。〈あの時に一緒に死んでおけば良かった〉と。死ぬ幸せというのを私はその時思いましたですね。〈こんなことならあの時に〉と思ったですね。ですから、亡くなった若者たちが理不尽な戦に巻き込まれたとは言いますが、その中でお互いの信頼感があるわけですね。ですから私の書いた人たちは素晴らしい男たちだけを私は書いたと思うんです。だからそういう境涯が決して良いとは言いませんが、その中に追い込まれて、なお自分の精神性を保っておったというところが、今の若い人にもうちょっとあればいいんじゃないかと思うんです。今は物が溢れているわけですね。溢れすぎているわけでしょう。しかし、その当時はすべてのものに欠乏しておった。頼るのは自分の心だけなんですね。心をどう磨いていくか、ということだと思いますね。だからそういう男たちの、若者たちの心に、今もまだ八十歳になっても憧れておりますけどね。それで別に逆の意味でいっているんじゃないですが、ああいう男たちと知り合いになれたというのは良かったと思いますね。
 
峯尾:  そうすると、こういった本を今の若い人たち、次の世代の人たちに読んで貰うことによって、かつての日本人はこういう人間たちだったんだ、というメッセージには勿論なりますよね。
 
神坂:  そうなって欲しいですね。
 
     これは、平成十九年五月十三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである