苦しみの果てに見た愛
 
                       絵本作家 内 田  麟太郎(りんたろう)
昭和十六(一九四一)年、大牟田市生まれ。児童文学作家・詩人。大牟田北高校卒。十九歳で上京、看板職人を経て児童作家を目指す。その活躍は童話や絵本・詩集などさまざまで、個性的な文体で独自の世界を展開し、絵詞作家(えことばさっか)を自称する。著書に「さかさまライオン」「うそつきのつき」「がたごとがたごと」ほか多数。
                       ききて  山 田  誠 浩
 
内田:  「わらう」という詩を読みます。
 
     からすが わらう
     ―からからから
     くつが わらう
     ―くっくっく
     とぼとぼじいさんが わらう
     ―とほほほほ
     かじが わらう
     ―ひひひひひ
     はげたかが わらう
     ―けけけけけ
     ははが わらう
     ―ははははは
 

ナレーター:  言葉遊びが大好きな絵本作家の内田麟太郎さんです。ユーモアたっぷりの朗読で、子どもたちを惹き付けます。詩のように短く、おかしくて易しい文章。内田さんの絵本は親子で楽しめる作品として知られています。
 

 
質問者: 内田さんの本を読んで聞かせながら、どう思われます?
 
読者A: そうですね。なんか言葉がとっても楽しくて、子どもも読んでいると、なんか載ってきて、なんか楽しくなりますね。
 
読者B: もう絵を描く人が遊ぶ余地があるというか、なんか文章が面白いけど、なんか書き込みすぎていないというか、そういうところがいいですね。
 
ナレーター:  内田さんはこれまでのユーモラスな絵本に加えて、三年前から新しいテーマの絵本を書くようになりました。そのテーマとは「母親」。幼い頃、実の母と死に別れた内田さんは、新しい母に馴染めず、やがて憎むほどの確執(かくしつ)を続けます。五十年を経て和解できたことで、初めて母親をテーマにすることができたのです。その最初の作品が、『おかあさんになるってどんなこと』。この物語では、二匹の小ウサギが赤ちゃんウサギを連れてお母さんごっこを始めます。名前を呼んだり、手を繋いだり、小ウサギはお母さんらしく振る舞います。しかし、突然赤ちゃんウサギが熱を出し、小ウサギは心配で心配で夜通し看病します。やっと熱が下がった翌朝、小ウサギは思わず赤ちゃんを抱きしめていました。小ウサギの台詞で、内田さんはこう書いています。
 
「お母さんになるってことは・・・」
「心配して 思わず ぎゅっと抱きしめて
思わず 涙が出ることよ」
 
内田さんは五歳で母親を亡くし、六歳からマルエさんに育てられました。父親は福岡県大牟田市(おおむたし)で看板職人をしながら詩を書いていました。兄弟は、内田さんと弟、マルエさんの連れ子二人、そして新たに生まれた二人の子を合わせて六人になりました。父親は、新しい家族への配慮からか、内田さんの実の母親のことは一切語らず、写真も残しませんでした。マルエさんは、弁当のおかずや小遣いなど、何かと自分の生んだ子とそうでない子に差を付けました。内田さんは母から愛されない孤独を感じながら成長していきます。
 

 
山田:  最近になって書かれたお母さんをテーマにした絵本があるんですけども、『おかあさんになるってどんなこと』という絵本の中に、お母さんがおそらく子どもたちに対してするであろう様子が書かれていて、「ぎゅっと抱きしめました」こういうふうにお母さんだったらする様子が書いておられますが、こういうことというのは、内田さんご自身が小さい頃・・・
 
内田:  う〜ん。そうだと思うんですね。父親が再婚して、新しいお母さんが来て、上手くいかなかったわけですよね。今、自分は子どもだから何にもできないけども、自分がそれだけの力―体力ですよね―体力ができたら殺す。殺さないまでも、必ず仕返しをしてやる。仕返ししないでこのまま終わるものか、という感情だったと思いますね。これは子どもが持つべき感情じゃないと思いますけどね、私は。だけど、そういう感情を持っていたんだ、ということはやっぱり隠せないというか本当のことですね。
 
山田:  それほどお母さんに対して、ある種の復讐心というんですか、恨みと言いますか、そういう気持ちがその当時は募(つの)っていた、ということですね。
 
内田:  ええ。で、子どもの本の仕事をしていますから、小学校なんかへ行って子どもたちと会いますよね。わぁっと寄って来たりするわけですよ。思わずこうぎゅっと抱っこしたくなるじゃないですか。抱っこしますね。思わずというか、ほっぺたカチャカチャとやって、頭コリコリとやって、「おおっ!」とか言って仲良しになるわけですよ。本当はそういうことなんですね。新しい母親が来ますよね。そこに二人の男の子がいた。そうしたら、「今日からお母さんになるからよろしくね」とぎゅっとすれば、そこで四歳の子であり六歳の子であるわけですから―私、六歳で入学していますから―ほんとにそこから自然な家族の立ち上がりというかな、成り立ちがあったと思うんですね。
 
山田:  子どもというのは、ぎゅっとやったら、それで仲良くなり解けていくのに、そういうことがお母さんとの間にまったくなかった?
 
内田:  なかったですね。母親にぎゅっと抱っこされたということはないですよ。手を繋いだという記憶もないですね。名前は呼ばれますよ。ご飯だったり、どこそこへ卵屋さんに卵買いに行って来てとか、いろいろ言われるわけですけれども、どう思い起こしても手を繋いで歩いたとか、ぎゅっと抱っこされたということがないわけですね。私は虐待されたわけではないんですね。殴られたり、食事を抜かれたり、ということではなくって、愛されないということは、自然がなくなるということなんですね。自然に抱きしめたり、「ちょっとこれ、お菓子美味しいから食べる」とかという、自然がなくなるということなんですよ。母親が子どもに呼びかける自然。子どもが疲れたり、遊び疲れてきて、うたた寝すると、蚊が来ちゃいけないからというんで、蚊取り線香を焚くとか、そういう自然がない。私の多分寂しさ悲しさというのは、この当たり前のことがなくなっていた。そういうことなんだろうと思うんですね。寂しさ、悲しさというのは。
 
山田:  そういうものがずーっと募っていったということなんですけど、いろんなことをされましたですか?
 
内田:  やっぱり万引きするんですね。本を万引きしてきますね。これ家に持って帰るわけにいきませんよね。友だちにくれるわけです。「大阪のおばさんがおみやげにくれたから」と言ってあげるわけですね。万引きというのが、例えば翌日万引きしたら、二、三日してまた万引きしたりするわけですね。昔は新幹線なんてないですから、大阪のおばさんが行って帰って、行って帰って、というわけですね。だけど、後で思ったけど、〈あ、悲しい物語をつむぐんだなぁ〉と思いますね、自分を支えるために。多分私が五年生ぐらいの時だと思うんですけど、「ちょっと家に来い」と言われて。で、父親と一緒にお坊さんがおられて、お坊さんが私に説教されるわけですよ。「万引きなんかして、天国にいるお母さんに対して恥ずかしくないですか」とおっしゃったわけです。私は亡くなっている母親を物差しとして生きているということはないわけですよ。亡くなっている母親というのは、もう呼んでも呼んでも帰って来ないということですね。だけど、その時初めて、「亡くなったお母さんに対して恥ずかしくないですか」と言われた時、ぼろぼろ泣いちゃったんですね。それはほんとに恥ずかしいと思ったんですよ。で、それで万引きはスパッと止めちゃったんです。母親に対して悪いということですね。それでそれから立派な生き方ができるかと言ったらそうでもないんですね。やっぱりまだ子どもでもあるし、人間は忘れる動物でもありますから、じくざぐじぐざぐしていくんだけど、万引きだけはピタッと止めましたね。
 
山田:  実際にお母さんに対して暴力を振るうとか、そういうこともあったわけですか。
 
内田:  ありました。罵(ののし)ったり、蹴っ飛ばしたり、それは大きくなればよくやっていましたし、母親は色が白くて太っていたんですね。「この白豚!」とか言いながら、パンと飛び出していったりとか、そういうことをしていたわけですよ。
 
山田:  「するな!」とか「何でそんなことするの!」とか、
 
内田:  それは逆に逞しい人でしたからね。非常にパワーがある人ですから、罵(ののし)り返したり殴ってくるわけです。小学六年生で、私は特に小柄ですから。とにかく母親のほうがずっと大きいし体力もありますから、私が打った力のそれはもう何倍の力で反撃があるわけです。で、自分は辛い思いをさせているから、こんなことをされたからというんで、殴られた子を抱きしめてなんとかじゃなくて、むしろそこでは正々堂々たる、要するに勝負が始まる。例えば田舎のお饅頭を食べながらね、「こういう間柄であるんだけども、お母さんがこういう気持ちでいるんだから、あなたもそれをわかって頂戴」という、そういうことは一切なかったわけです。高校卒業して親父の看板の手伝いをしながら家にいたんだけど、やっぱり母親の目というのは、どっか出て行って貰いたいという目なんですよね。目というか気持ちがね。弟たちは自宅で寝ているんだけども、私は嫌だから仕事部屋のほうで寝ていた。家に帰るのが嫌というか、母親の目を合わせるのが嫌という感じがありましたから、映画館が開いている間、映画をずっと見るわけです。辛くて辛くて生きていることを忘れたくって、ものを考えたくなくて、ただ映画を見て、そこへのめり込んで、忘れたくて映画館に行っているわけじゃないですか。ところが映画を終わって、その歌謡曲が流れている間にすぐに素に(す)戻っちゃうんですよね。このすぐ戻ることの悲しさ、辛さというのは、ほんとにちょっと家出したりしている人にはわかると思うんだけど辛いんですね。恥ずかしい話なんですけど、昔はやっている映画のあらすじ書いたようなのをくれるんですよ、チラシみたいな。それを二つに折って、埴輪(はにわ)じゃないけど、指で破っていくと、必ず泣いている男というのかな、仮面みたいなのを作っていて、今どんなに悲しくてもそんなことしませんけどね。ひたすらこうやってこうやってもぎりながら、次の映画が始まるのに耐えるという。その映画を見るお金というのは、母親がお好み焼き屋をやっていましたから、レジに現金があるわけですね。そこへパッと行って、レジを開けて、ガバッとお金掴んでポケットへ入れるわけです。と、店の人とか―お袋もいたんだと思うんだけど―「ダメ!」と言わないわけです。荒(すさ)んでいますから。何か言ったら、殴り倒すという顔になっていますからね。遠巻きにして、私が金を掴むのをただ見ているという。映画館から帰って来ると、やはりこれは生きているのを忘れたいわけですから、睡眠薬飲んで寝るわけですよ。睡眠薬というのは中毒しますから、どんどん量が増えていくわけですね。今の睡眠薬は知らないんですけど、睡眠薬が切れると、凄く苛立って、暴力的な状態になるんですよ。それで鉄棒なんかで食器を割ったり、窓ガラスを割ったり、ともかく割って歩くわけですね。自分の感情を暴発(ぼうはつ)させていくというか、爆発させていくという。そうすると、当然身体もどんどん痩せていくわけです。映画館なんかで、ぱぁっと生唾が出て止まらない状態で、体温が下がっていくのがわかりましたけど、ガァっと。十九歳の二月の終わり頃だと思うんですよ。それが何のきっかけだったか。というよりは、もう薬物中毒の身体でもあるし、ボロボロになっていますからね、で、何かの拍子に爆発させて、殴り倒して蹴飛ばしたんですね。で、もうほんとに母親を殺そうと、パァッと台所に包丁を取りにいったわけですよ。母親はもう今までの罵りとか殴る蹴るのとは違うと瞬間的にわかるわけですね。それまでは母親も対応していたんだけど、パァッと飛び出して行って、一日二日で帰って来れるような状態ではないというのが、母親もわかったわけです。母親が帰ってきたのも知らないまま、それから一週間後ぐらいに、私はもうほんとのどん詰まりになって、東京へ出て行ったわけです。それでも東京へ行った時に、田舎を完全に捨てるということではなかったですよ。一丁前の職人になって戻って、母親を踏ん付けてやるというか、そういう思いでしたね。
 

ナレーター:  一九六○年三月、内田さんは夜行列車で東京へ向かいます。誰も見送りに来ませんでした。都内の看板屋に見習いとして住み込み、その一方で父が参加していた同人誌の仲間となりました。自らの孤独や苛立ちをユーモアに包んで表現した内田さんの詩は、同人誌にたびたび掲載されました。父に続く若き労働者詩人として期待されたのです。母親で悩むより、もっと強い思想を持ちたいと考えて、一時政治運動にも加わります。そこで妻となる裕子(ひろこ)さんと出会いました。転機が訪れたのは三十七歳の時、作業中に梯子から転落し、腰椎を骨折、現場の仕事はできなくなりました。既に二児の父親であった内田さん、収入の足しになればと童話を書いて児童雑誌に投稿を続けるようになりました。四十四歳の時、『さかさまライオン』が出版社に認められ、初めて絵本になります。そして絵本日本賞を受賞しました。このことが内田さんと母マルエさんの関係を変えるきっかけとなります。
 

 
内田:  私の親父は、私が世の中に出て、子どもの本で生活ができるようになってほしいと願っていたわけですね。願っていたけども、私の本を一冊も見ることなく亡くなったわけですよ。で、賞を貰ったわけですからとぼけるわけにもいかないし、田舎に電話したんです。で、「さかさまライオン≠ニいう絵本で絵本日本賞を貰った」って。そうしたら母親がいきなり電話の向こうで泣き出すわけですよ。「お父さんが生きていたらどんなに喜ぶか」って。それで虚をつかれた。まさか母親が泣くとは思わなかったんですね。これも母親が年取ったなあという感じが一つありましたね。それは年取ったなあと、泣いている。それはほんとは生身の母がそこにいる、ということなんですね。〈ああ、喧嘩が終わったなあ〉という感じだったんですね。泣いている人とは喧嘩できないんですね。「お父さんが生きていたら」と言って、泣いているんだけども、やっぱりそれは私のためにも泣いてくれているんですよね。亡くした夫のためにだけ泣いているのではなくて、それがわかるわけですから。で、そこで私の感情というのは、一つ堰に穴が開いて温かいものが入り込んできたんだと思うんですよ。それでもまだ私は、母に関する絵本は書けるという自信はなかったんですね。書けない。
 

ナレーター:   「さかさまライオン」
     いつも いつも、ためいきをついている
     ライオンのかげがいました。
     「もういやだ。こんなくらしは」
     むりもありません。
     ライオンが はしるたびに、
     かげは いしころに あたまを ぶつけていましたから。
     「とまってくれ―」
     かげの こえが きこえる
     ライオンなんて、いませんでした
     ど、ど、ど、ど、どっ。
     がち―ん。
 
主人公の影はいつもライオンの支配から逃れることができません。しかしある晩、闇の中なら離れられることに気付きます。ようやく手にした自由。影は一人で気ままに動き回わるうちに自信を持てるようになりました。ついには影とライオンの立場が逆転。そうなって初めて相手を思いやり友情を深めます。
 
内田さんは、ライオンと影が象と遊ぶ絵を見返すうち、知らぬ間にマルエさんを赦すようになっていた自分に気付きました。
 

 
山田:  最初こういう絵をご覧になった時、どんなことを思われたんでしょうか。
 
内田:  僕は、長新太(ちょうしんた)さんを尊敬していましたからね。エメラルドグリーンのグラディションというか、ライオン全体が緑色なんですよね。色は毛がないライオン。美しいなあと思っていたんですよ。で、美しいというのもあるんだけど、とてもこの絵が気持ち良かったんですよ。何で気持ちいいのかわからないんですね。わからないから知りたいわけですよ。この象さんのこの緑色が気持ちいいのかなあとか、自分の最初の絵本が世の中に出たから気持ちいいのかなあとか、と捲(めく)っていって、で、ここへきた時に、〈ああぁ〉という感じがしたんですね。つまり母親は、身体が大きかったけども、小さい私と母親の関係というのは、私は自分自身を十分に感じることができないわけですよね。例えば影みたいなもので。母親はいつもこの大きい象のように、私にいつものし掛かって、のし掛かられて私は影のように生きていた、と感じたわけですよ。この物語はそのように解釈が正しいのかどうかわからないんだけど、しかしその時私は、〈あっ〉というか、お袋赦していたから、それが気持ち良かったんだ。ここでは影のライオンと象が遊んでいるんですよね。というか、むしろ象をからかって、ライオンと影とがさかさまごっこして、駆けごっこして遊んでいる。象も巻き込んで遊んでいる。それが気持ち良かったんだろうと、私は解釈した。俺だってゆっくりゆっくり母親を赦すほうへ歩いていて、いつの間にか気が付かないで、自分でそれを書いていたんだ。知らない間に自分で書いているものですから、自分でも気が付かない、と。
 

 
ナレーター:  マルエさんとの和解のきっかけをもたらした創作活動。その才能は父・博(ひろし)さんから受け継いだものです。看板職人だった博さんは、炭坑の町・大牟田のプロレタリア詩人でもありました。マルエさんとの確執には決して介入しませんでしたが、詩人としての父の生き様は、内田さんの大きな支えとなっていました。博さんは、軍国主義への抵抗運動に参加し挫折を経験します。しかし筆を折ることは決してありませんでした。内田さんが生まれた時、辛くとも生き抜く決意を詩に込めています。
 
     「幼な子に」―わが子麟太郎におくる譜 
     おさな子よ
     おまへのつぶらな瞳に
     美しい秋の夕空が濡れ
     お前へは幾度か父の顔をみつめようとする。
 
     それは映らなかったか
     あかあか夕日入る草を踏み
     あたたかい愛情のしたたりの中で
     昨日も今日もおまへを抱いた
     そのひと時の波立たぬ
     父の胸の奥ぶかいいたみは映らなかったか。
     父は創夷(きず)を癒す術(すべ)を知らず
     あゆみとどむる術を知らぬ
     愚かにひとすぢのみちに鈴を振り
     そのように生きてきたのだ。
        (『悲しき矜恃(きょうじ)』より)
 

 
山田:  お父さんは詩人でいらっしゃって、詩集をいくつも出しておられたわけですけども、子どもの頃読んだりはされました?
 
内田:  読みました。親父の詩は前衛的な詩でもないし、実験的な詩でもないから、言葉を辿っていけば、子どもにもほぼわかる詩なんですよ。思想的な問題のある詩は別にしても、ほとんど貧しい人たちとか、苦しい暮らしの中で思いを抱いて生きている人たちの詩ですが、それは子どもにもわかるわけですね。尊敬していましたね。下の弟たちはちっちゃいですから、親父の書いた原稿がぱぁっと散らばっちゃう。それに落書きしたり、飛行機にして飛ばしたりしているわけですよ。私は、原稿用紙というのは詩人にとって大切なものなんだ。そこに書いてあることも大切なものだ、と思うから、それをずっと拾い集めて、残してやっていたんですね。多分、小学校五年生の時、詩を投稿して佳作になるんですけれども、その時は父の影響が入っていて、詩を書きたいという思いで書いていたわけですね。だから、私が詩を書き出したりした時、親戚から父は責められているんですね。「お前は自分の子を谷底へ落とす獅子のようなもんだ」と。親父は笑って、私に言っていましたけど、「しかし麟太郎も自分で歩き出した道だ。俺が書けと言ったことじゃないんだ」と。高校生の頃だったかなあ、中学生の頃だったかも知れないけども、「詩をどう書いたらいいか」と、父親に聞いたんですね。そうしたら父親が、「教えない」と言うんですよ。教えないというよりは「言わない」と。「おれは自分が大きな詩人である、優れた詩人であると思っていない。だけどおれは詩を書いているんだ。俺がお前に詩の書き方を教えると、俺の書き方になる。それはいいことじゃないんだ。だから俺は教えない。しかし俺の本箱にいろんな詩人の本がある。あれを読め。俺はお前には教えない。あそこにある本を読んで学びなさい」と。ところが今思うと、偉かったなあと思いますね。最初、瞬間的にはケチと思っちゃうんですよね。ケチと思っちゃうんだけども、勿論父の時代とは違いますけども、私は父のバトンを受け取って歩いているという気がするんですね。
 
山田:  新しいお母さんにあまり自分のことを取りなしたりはしてくれないけれども、お父さんに対しては信頼感みたいなものを凄く持っていらっしゃった、ということだったんでしょうかね。
 
内田:  私が母親を「ほんとに殺してやる」と言って、台所に包丁を取りに行った後なんだろうと思うんだけども、父親が母親に「お前はイエスキリストのようにみんなを同じように愛せないのか」と言ったらしいんですね。それは私が東京へ出てくるちょっと前に聞いた記憶があるんですよ。それが私のために父親が初めて私の寂しさに関して口を聞いてくれた一言。それしかないという感じがしますけどね。「俺はそうマルエに言った。しかしマルエは、私はできません≠ニ言った。で、お前が離婚しろというなら離婚する」と、父親が言ったわけです。だけど、私は、「それは別だ」と言ったんですよ。「離婚する、しないというのは、父親と母親の問題であって、私は関係ない。それは私は返事しない」と。何も言わなかった気がします。父親はもっと大きな考え方でやっていたんだけど、私はそれが時々ふっと自信がなくなる時があったんですね。自分がこんなに淋しい思いをしたんだから、私の父親が時々冷たい眼差しで信之(のぶゆき)と建作(けんさく)を見ていたんじゃないのか、と―再婚して母親が連れてきた子どもをね。「信之だって、そんなこというけど、麟ちゃん、おれも麟ちゃんの父ちゃんに愛されなかったばい」と言われたら、私は立つ瀬がないから、通夜の時、「どうしても聞きたいから」といって、聞いたわけですよ。「親父も人間だから、お前たちを虐めたということがあるんじゃないか」って。そうしたら伸行が、「母ちゃんが差別したばってん、父ちゃんは絶対せんじゃった。兄弟の中でも、もしかしたら俺が一番愛されていたかも知れんばい」と言われたんで、私はビックリしたんですよ。そうすると、〈ああ、やっぱり父親は偉かったな。大きかったな〉という感じがするわけですね。
 

ナレーター:  『さかさまライオン』の後、内田さんは次々に絵本を発表します。その作風は、自らナンセンスな絵本≠ニ呼ぶように、意外性のある物語と笑いに満ちています。理屈は捨て、幼い子どもの心に届く絵本を追求したのです。作品は読者の支持を受け、受賞も重なりました。一方で内田さんは、母親というテーマだけは絶対に書けないというわだかまりを持ち続けていました。
 

 
内田:  私は東京へ出て来てから、子どもの頃の悲しい夢というのを見ていなかったみたいなんですね。母親が電話の向こうで、「お父さんが生きていたら」と泣いてくれて、〈あ、喧嘩は終わったなあ〉と思って―それからどれぐらいなんでしょうかね、半年ぐらいなんでしょか―子どもの頃の夢をみたんです。原っぱというより、もっと広いんですよ。果てしなく原っぱという感じかな。で、そこへ小学三年生か、四年生かという私が立っていて、もうどんよりとした空の部分が圧倒的に多い夢なんですけどね。私がどんどん小ちゃくなっていく。悲しくて消えるみたいな、消える寸前に、わぁっ!と言って目が覚めるわけですね。家の奥さんは初めて見る私なんですね。子どもたちもビックリするわけです。「どうしたの! どうしたの!」っていうわけです。子ども時代に「蓋するんだ、蓋をするんだ」と頑張っていた私に、油断を見澄まして出てきたんだと思うんですね。それは多分そうとしか考えられないわけですよ。つまり、私は母親に対してある緩やかな態度を取った。そこの隙間を縫うように、そういう子ども時代の夢が吹き出してきたんだと思うんですよ。それまでむしろ見ないのが不自然なんですね。見て当然なんですよ。だけど私は不自然な―人に話さないとか、妻にも話さないとかっていう感じでいましたからね。
 
山田:  そのことで、夢までもある意味で押さえ込んでいたものが、小さい頃のお母さんとの葛藤みたいなものが時々顔を出す、というようなことはあったんでしょうか。
 
内田:  突如というかな、わけもなく死にたくなるというのがあるんですよ。それは自分でもわけがわからないんですよ。街を歩いたりして突如悲しくなる。ただ、基本的に家庭の中で嬉しい時になるんですね。
 
山田:  嬉しい?
 
内田:  嬉しい時。娘が高校受験に合格したりしますね。当然お祝いをささやかにするわけですよ。本人の娘はニコニコだし、母親もニコニコだし、妹もニコニコだ。私も嬉しいんだけど、そうやっている間に、わぁっ!と悲しくなってきて、一人だけ津波が来て私をさらっていくみたいな感じになるんですね。
 
山田:  ほおぅ。家族で楽しくしていらっしゃるとこに、そういうものが襲ってきて、自分だけどっかへいってしまいそうな感じになる、ということですか。
 
内田:  多分、慣れていない―慣れていないというとおかしいけど、友だちと外でザリガニいっぱい釣ったりして遊んできますよね。家に帰ってくると、途端に寒くなるというか、冷たい感覚が私を包むんですよ。
 
山田:  小さい頃ですね。
 
内田:  小さい頃ですね。友だちのところに行って遊んできて帰って来たらまた冷たい。そうすると、私はそれを覚えていないんだけど、多分私の無意識というのは、温かい幸せと必ず冷たい、それをずっと繰り返していたと思うんですよ。千回も二千回、三千回も。それに私は気がついていない。忘れているんだけど、温かい家族の雰囲気が、わぁっ!となった途端、それが多分私を襲っていたのかなあ、という感じがするんですね。
 
山田:  子どものものを書くとしたら、そういうこととダブって、という躊躇(ちゅうちょ)はなかったでしょうか。
 
内田:  それはないですね。出だしが怪我しちゃったから、看板描けないから子どものものを書こうという、非常に散文的な、身も蓋もない出発ですから。それで最初、長新太さんという方と出会うんだけど、「内田さんがいいところはね、わぁっと惚(とぼ)けていて、話の柄がおおらかなことなんだよ」とかと誉めてくださるじゃないですか。「それが他にない内田さんのもっともいいところだよ」と言われると、〈じゃ、そのふわぁっと大きくて、なんか惚けていて、という、それを伸ばしていきたいなあ。そっちへ歩いていって、そういう本をまた書きたいな〉と思うじゃないですか。怪我して始めた仕事なんだけど、やっぱりいい仕事をしたい、いい仕事をしたい。そういうふうに本が出るということは楽しいですね。本が出て読者に渡って、「笑いました」とか、「心がくすぐられてとても気持ち良かったです」とか、返事がきたりしますね。そうすると、私を幸せにするし、気が付くと、私はどんどん解かれていく。「内田さんと仕事をしたい」って、絵描きさんから言われると、嬉しいし、編集者から「内田さん書いてください」と言われれば嬉しい。やっぱり嬉しいということがずっと重なるわけですから、そういう少年の生い立ちはあるにしろ、私はこう開かれていく。柔らかくなっていくわけですね。
 
山田:  もう一つ、東京にいらっしゃって、東京で四人家族で幸せな生活をしていらっしゃる時にも、楽しい場で自分が逃げたいと思うようなことがずっと何度も起こったとお聞きしたんですけれども。
 
内田:  これは孫が生まれることによって解かれたんですけどね。小さい孫がいて、娘がいて、私と三人で多摩川の公園に行ったんですね。ずーっと芝生があって、で、娘が孫を、「たか〜い、たか〜い、たか〜い」とするわけですよ。したら、いきなりわぁっと涙が出てきましてね。で、その時、〈あ、自分より悲しかったのは、自分と弟を残して死んでいった母親のほうが自分より悲しかったんだ〉というのが、心に落ちてくるというか、頭じゃなくて、その時、思ったのは、〈死ななくて良かったな〉と思ったんですね。母親は死ぬ時に一番願うのは、私と弟の幸せだったと思ったんですよ、意識が薄くなっていく時に。とにかく何もできないわけですから、残す子どもに対して。例えば財産がいっぱいあるとか、なんとかがあるとかじゃないわけですからね。ただ二人の子どもが幸せになってほしい。そう願っていた。願われた私が自ら命を絶っていたりしたら、それは今際の際の母親の願いに一番反したんだなと思って、それが諒解できた時にほんとに恥ずかしいぐらい泣けて。恥ずかしいから反対向いていたわけです。これは、私が打ち立てた物語かも知れない。物語かも知れないんだけど、これはやっぱり私の心が頷いた諒解なんですね。そこから一切死にたいという誘惑が消えちゃったわけですよ。だから今嬉しい時はほんとに家族みんなで嬉しいし、楽しい時には家族みんなで楽しいし、その波がくることは一切ないわけですね。
 

ナレーター:  マルエさんとの確執にも、終止符が打たれる時が訪れました。内田さん五十五歳の時です。『さかさまライオン』の受賞以来、実家を訪ねたり、母の日には贈り物をしたりして、内田さんは少しずつ和解への道を歩んでいました。長年書けなかった母親をテーマにした絵本が書けたのも、マルエさんとの和解があったからでした。
 

 
内田:  私がこういう仕事をしているので、講演で福岡へ行きますね。福岡へ行きますから、どうしても友だちと会ったりしますから実家へ帰るわけです。と、母親とたまたま二人っきりだった。二人でお茶を飲んで、お饅頭食べていて、二人っきりでいたら、母親が「麟ちゃん、愛さなくてごめんね」と言ったんですね。ビックリしちゃったんですよ。へえっ!と言っちゃいけないんですけど、あれは何でしょうかね、もうほんとに全部解けていく。母親はやっぱりその一言を言わないと死ねなかったんじゃないかと思いますね。年齢的にいうと、七十代の後半ですからね。で、私は、「もういいよ」と言ったわけです。母親が私に、「愛さなくてごめんね」と言っていない前にこの本を書くとしたら、母親に対して当てつけになるんですよ。母親が当てつけと感じるだろうし、弟たちが「当てつけの本を、麟ちゃんが書いたばい」というふうに感じると思うんですね。つまりお母さんというのは、子どもを抱きしめるものじゃないですか。手を繋ぐものじゃないですか。そういうことを母ちゃんがしてくれなかったから、麟ちゃんは当てつけに書いてるばい、となるじゃないですか。ところが、母親が―マルエ母親というか―「麟ちゃん、愛さなくてごめんね」と、マルエ母親はずっと悩んでいたと思うんですね。鬼でもなければ蛇でもないという言い方になるわけですよ。母親は、私が苦しんでいるということは、どんな鈍感でもわかるわけですよ。ただ、それに対して身の振る舞いができなかった。しかし、幸いというか、誰もいなかった。誰もいなくて二人っきりだから。で、私ももう構えていませんから、自然体になっていますからね。つまりこの自然体にしてくれたのは、子どもの本を書くことによって、私はいろんな人に愛されたことだろうと思うんですよ。で、自然体になっていて、母親も言いやすくて、「麟ちゃん、愛さなくてごめんね」と言ったわけじゃないですか。そうして、その言葉を聞いて、私が解かれて、でこの本を書きますね。すると、この本は当てつけじゃないと思うんですね。私とマルエ母親の問題じゃなくて―私とマルエ母親の問題でもあるんだけども―お母さんに子どもたちが求めている一つの普遍的なものだと思うんですよ。私は最近思うんだけど、私は、マルエ母親との関係で貰ったものは負の遺産なんですね。いろんな心の病を持ってしまった負の遺産で、自分ができていたわけですよ。だけどそれで生涯を終わることは詰まらないと思うんですね。で、私は今のその負の遺産をプラスに切り換えることができたという気がしているんですね。『お母さんになるってどんなこと』というのは、そういう恨みとか辛みとかで書けないんですよ、こういう本というのは。ある開かれた場所に私が出て行って初めて書けた。〈あ、俺は母親の本を書いていいんだ。書ける。書けそうだ〉。それはまだぼんやりしたものですよ。だけど、これは書き出したらすらすらと書けたんですね。すらすらと書けたんだけど、読み返すと、ほんとにこれは母親なんだけど―父と子の関係でもいいんだけど―親と子の関係の一番大事な元がきちっと出ている本だなあ、と。それも自然に出ている本だなあ、という感じで納得できるし、好きな一冊なんですよ。
 

ナレーター:  今の内田さんが新たに取り組んでいる絵本があります。そのタイトルは「殺さないで」。殺人を犯そうとした少年の心に、どこからか、「殺さないで」という声が聞こえます。その声によって、少年の荒(すさ)んだ心は徐々に穏やかになっていきます。なぜ憎しみを抱いた人間を殺さなかったのか。少年はその理由を捜し求めます。この絵本の構想が生まれたのは二年前。内田さんが、幼い頃、実の母親と暮らした場所を訪ねたことがきっかけでした。
 

 
内田:  〈俺は、なぜ母親を殺さなかったんだろうか〉と言うんで考えるわけですね。もう一つは、〈あれだけ淋しくて辛くて憎んでいた筈の自分が、何故母親を人間として赦すほうへ、自分が歩いていかなければいけない、というんで考えているんだろうか〉という思いがあるわけですね。これはどこからくるんだろうか、と思った時に、私を生んでくれて亡くなった母親が、私にくれていたものじゃないのかなあ、という気がするんですよ。
 
山田:  比較的最近になって、お母さんの故郷を訪ねていらっしゃいますよね。
 
内田:  はい。
 
山田:  これはどういうことなんでしょうか。
 
内田:  小さい頃から出てくる母親の思い出というのは、青いみかんと疎開していた時しかないわけですね。貧しくて栄養が足りないじゃない。だから皮膚病にでもなったんでしょうかね。病院に行って、病院から出てくると、昔ですからゴザの上にいろんな物を並べて売っている、田舎の人たちが。その時、青いミカンを買ってくれて―多分「果物でも食べさせろ」と医者に言われたのかしら。貧しい時代ですからね。だから今でも青いミカンが出ると買ってきて偲ぶというか。それが亡き母を偲ぶ私の中の一つの行事という感じですけどね。ぼんやりと東郷村(現熊本県玉名郡菊水町(たまなぐんきくすいまち))というとこなんだ。東郷(とうごう)村のどこなんだろう。わからないわけですよね。で、「絵本があってよかったな」というエッセイを書く機会を貰って、どうしても自分がいつも想い出すその土地を訪ねてみたい。何丁目何番地という証拠を持っていないわけですよ。ただそこへ行ってウロウロしながら、〈あ、ここだった〉というところへ辿りつかなければいけないわけですから。「金比羅(こんぴら)神社はこの辺りにあるでしょうか?」というと、「お、知ってる。俺の車について来い」といって、ミニトラックというか、バンにくっついて行って、ビックリしたのはまったく同じだったんですね。
 
山田:  頭にあったのと?
 
内田:  そう。それはこれだけ時代の変遷が激しいわけですから変わるんだけど、そこは川から盛り上がっている岩がご神体になっている―金比羅山神社で。「あそこで父親が釣りをしていた記憶があるんですけど」と言ったら、「ああ、あれは大きな台風が来た時に流されたばい」と言って。と、間違いないわけですから、それで金比羅神社に行って、友だちが気をきかしてくれたのか、どこかへ消えちゃって、私一人だけで行って良かったですよ。自分に自信持てたというか。
 
山田:  自信持てた?
 
内田:  自信を持てた。自分は確かにここで親と過ごした子なんだ、と。でも私は、母親に愛されて育っているわけですね。と、これは私の人間の形成にとってとても大きな力だったと思うんですよ。その後、新しい母親との関係で躓きはしたんだけども、これが私の脳から、私の無意識から消えていることはなかったと思うんですね。これが私を育てていたと思うんですよ。それがこの復讐の感情とか、こういうのを越えて前に歩いていきたい、ということだったと思うんですね。
 
山田:  『殺さないで』という本を書いていらっしゃるそうですが。
 
内田:  これは、少年と少年が決闘する場面から始まるわけですね。ナイフを持って、両方の若者が、非常に殺風景な風景というかな、工場跡地みたいな、誰もいないところで、ぱあっと走っていく。走って行って刺し殺そうとした時に、「殺さないで」という声がその少年に聞こえてくる。この少年は、その声が誰の声かわからないんだけど、刺し殺しをやめて、で、ナイフをポトンと落としちゃう。で、何故自分に「殺さないで」という声が聞こえてきたのか、誰が言っているのか、少年はわからないわけです。「戦争が始まると、戦争でどうしても人を殺したくないという人たちは、やっぱりお父さんとお母さんに愛された人たちが基本的な力だ」という本を読んだことがあるんですね。で、不幸な生い立ちをした人たちはどうしても暴力的な傾向に走る。これだけ母親を憎んでいたし、また憎んで当然だったろうと思える自分が、何故こうしているんだろう。俺って人がいいなぁ、とか、何故恨みを持続できないんだろうとかって。自分の人のよさをあきれるような時ってあるわけですね。くそっ、この人の良さってどこからきたんだ、と思うと、結局それは、〈あ、なんだ。人が良いだけで、ほとんど生活力とかなかったという母親の遺伝子と、その母親のところで育っていたからだ〉って、単純なことを思ったわけですよ。そうすると、人を殺さない力、人は必ずカッとして暴力的になるんだけど、最後の最後にとめてくれる力は、小さい時に周りの人とどういう親和的な関係を結べていたか。そういうことが大きいことじゃないかなあ、と思ったんですね。それを一つの本にして届けたいと思ったわけです。そうすると、これは私が、生みの母親の問題、育ての母親の問題でいろんな葛藤を越えて、一つの普遍的な課題というか、普遍的な絵本としてみなさんに届けることができるんじゃないか、という感じなんですね。それで書いた。最近、子どもをどんどん書いていると、自分に向いているというか、自分はこれが好きだったみたいな感じがしてしょうがないんですよ。とても幸せな感じです。それは幸せなんですよ。「自分は怪我したから始めた」と、聞かれると、その通りだから言っているんだけど、こんな好きだった仕事が、「怪我したから始めた」というのはちょっとおかしいんじゃないかな、と思う時がありますね。多分好きだったんじゃないでしょうかね。
 
     これは、平成十九年六月十日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである