大人への条件―思春期をどう生きるか―
 
                    くだかけ生活舎主宰 和 田  重 良(しげよし)
昭和二十三年神奈川県小田原市生まれ。東京教育大学農学部卒。大学在学中から父の主宰する丹沢山中の一心寮(現・くだかけ生活舎)で青少年活動に参加。五三年大人も子どもも共に育つ同行教育≠フ実践の場としてくだかけ会≠フ活動を始める。五九年から家族と共に寮に生活の拠点を移し、以来青少年との共同生活の中で同行教育を実践・心の平和を育てる活動を続けている。著書に「悩める一四歳・そこからの出発」「心いっぱいに育て」「いきいき教育はあんしん生活から」「両手で生きる」ほか
                    き き て      金 光  寿 郎
 
ナレーター:  新緑の山々が美しい神奈川県足柄上郡(あしがらかみぐん)山北町(やまきたまち)。丹沢大山(たんざわおおやま)国定公園の一角、丹沢山地の山間を流れる皆瀬川(みなせかわ)に沿ってJR御殿場線山北駅から数キロさかのぼった所にある「くだかけ生活舎」をお訪ね致します。「くだかけ生活舎」は、今から四十年前、昭和四十二年に「小田原はじめ塾」の創始者・和田重正(しげまさ)(1907-1993)さんが、この山の中に開設した青少年の生活道場「一心寮(いっしんりょう)」から始まります。和田重正さんが、自分が体得した人生の知恵を、現代の青少年と生活を共にしながら、彼らに伝えたい気持ちから始めた道場でした。「くだかけ」とはニワトリの古い言葉で、ニワトリが好きだった和田重正さんが、昭和五十二年に人間の生きる方向を視野に入れた人間教育の会を作って、新しい教育の夜明けを告げる「くだかけ会」と名付けた時から使われています。そして昭和六十年に、和田重正さんの次男・重良さんが父の仕事を引き継いだ後に、「くだかけ一心寮」を新しく「くだかけ生活舎」として発足しました。今日、私を迎えてくださったのは、現在「くだかけ生活舎」主宰の和田重良さんです。
 

 
金光:  ここへいらっしゃって何年ぐらいになりますか。
 
和田:  僕がここに入り込んで住み着くようになってから、二十一、二年経ちます。
 
金光:  そうですか。それでその時はもうご家族ご一緒に入られたんですか。
 
和田:  ええ。そうです。みんな家族を連れて入り込んで来たんですけれども、その前に父がしばらくいましたんで、全体としては四十年ぐらい経ちます。
 
金光:  そうですか。いらっしゃった頃は、ここ「くだかけ生活舎」という名前なんですけれども、生活をする場所としては、ご家族以外にどんな方がいらっしゃったんですか。
 
和田:  主に不登校の子だとか、非行の子とか、学校からはずれてきたような子たちが一緒に共同生活をするという、そんなふうな場になっていたわけですけど。
 
金光:  規律を厳しくきちっとなさるというようなやり方?
 
和田:  いいえ。あんまり規律は、自分があんまり守れないので、規律というより良い生活ということで、まあ結果としては規律というようなことになるのかも知れませんけども。
 
金光:  押し付けの規律では、自発性というのは出てきませんわね。
 
和田:  はい。自分≠ニいうところから出発していくという、そんなふうなことを考えながらやっています。
 
金光:  それから二十年ほど経った現在の若い人たちの生き方だとか、あるいはその若い人がそれこそ二十年経つといい大人になっているわけですけれども、そういう人たちの生き方についてのお話をこれから聞かせて頂きたいと思います。よろしくお願い致します。
 
和田:  お願い致します。
 

 
ナレーター:  日頃、ここで生活している人たちが正座し瞑想する場所である全真堂(ぜんしんどう)でお話を伺いました。
 

 
金光:  日本という国でいろんな人の出来事が起こっているニュースなんかを拝見しますと、身体は随分大人になっているんだけれども、なんか精神的にはちょっとアンバランスと言いますか、まだ未熟さが残っているような事件がけっこう起こっているような気がするんですけれども、そういう良い生活をなさるという点からご覧になって、今力を入れていらっしゃるのはどういうことでございますか。
 
和田:  僕がここへ来てから出会っている、例えば不登校だったり、非行だったり、まあ普通に学校へ行っていても悩んでいるというような人たちが、次から次へと来てくれるわけですけれども、一緒に生活しながら、そこに見えてくる一つのことがありまして、それは僕は象徴的だなあと思っているのが、十四才以下の子たちがいろんな問題を起こしているわけですけれども、十四才前後の子が、いわば思春期という年齢なんですけれども、その人たちがそれこそわずか十四、五歳で、人生をそれこそ討ち死にしてしまったような、そういうような人たちに出会いますね。極端にいったら、やる気が無くなってしまうとか、社会生活ができなくなるというふうなことで、一体何なんだろうか。それは一体どこに、どういう問題があるのか。それで、ある時十四歳前後の子たちが十人ぐらい集まりまして、「君たち、今、どういう悩みがあるの?」と聞きましたら、そうしたら、みんな口を揃えて、「友だちができない」と言いましたね。
 
金光:  よく聞きますね。
 
和田:  「友だちができない」というのが一つのヒントだったんです。それから僕は十四歳頃の子どもたちの心の変化とか、身体の変化というのに興味を持ちまして、一つ本にしたわけです。「十四歳講座」というのをずっとやっていまして、問題は、教育≠ニいうのと人生≠ニいうことの中味がどっかで行き違っていく。例えば、「しあわせ観」―人生という側から見た時のしあわせ観と、教育という側から見た時のしあわせ観が違っているんだ、と。どっかで行き違っている、というふうなことを感じまして。
 
金光:  例えば、教育の場合ですと、良い学校へ行って、それで良い会社へ行って、良い結婚をして、というようなことが一つの目標みたいになっているような気がしますけれども、良い人生を生きるというのは、それとは違うわけですね。
 
和田:  教育の場合は―こんなふうに言ったら違うと言われるかも知りませんけれども―結果主義になっている。結果を問われる。そういうふうになっていますね。ですから、失敗は許されない、というふうな雰囲気があります。子どもたちが、どうしてこんなに重荷を背負(しょ)って来るの? ここに来る子たちがほんとにでかい荷物を持ったりもするんですよ。捨てきれないで、重荷を背負っていますよ。どうしてそんなに重荷を背負わされているの、というと、それは結果主義というか、競争させられて、結果がよくなければいけない、と。そうすると、重荷になりますね。捨てきれないものを背負ってくるわけです。それでよくよく見ますと、その辺のところで失敗を許されないこと≠ニいうのの積み重ねは、人生ということからすると、すべて自分を肯定をされない、否定されてしまう。
 
金光:  失敗、失敗という、成績が悪かった、と。
 
和田:  自分の人生という側から見た時には、これは自分のことですから肯定せざるを得ないわけです。お母さんたちの講座によく行くわけですけど、親が子の人生を丸ごと見ているか≠ニいうと、見ていないんですよ。教育の結果≠セけを見てしまっている。
 
金光:  子どものために良かれと思って、「勉強しなさい」とか、そういう、
 
和田:  はい。ですから、人生というのは一生あるわけですね。このことが見えなくなる。そうすると、自分の人生は自分のことですから全部肯定できるんですが、子どものことは一々「ダメ」という否定語が含まれてしまって、そこに僕は「しあわせ観」といいますか、それがギャップができてしまう元だというふうに思っています。その結果いろんなことが起きてしまっていて、自分を見失うという。結果としては、自分を見失う、というようなところに追い込まれていく。そうすると、また世の中は悪いですよね、今なんか携帯電話はあるわ、ゲームはあるわ、パソコンはあるわ、で、そういうふうなものにどっぷり浸かっていきますよね。目つきまで同じような目つきをしてきている。そういうようなことがありますので、それを元に戻していくということで、そこに基本は生活≠ニいうのが出てくる。生活≠ニ言ったって、大層なことをしているわけじゃなくて、ほんとに考えてみれば、当たり前のことで、ご飯を食べるとか、眠るとか、働くとか、そういうふうなことなんです。遊ぶというのがありますが、遊ぶ≠ニいうのは生活の基本だ≠ニいうことです。何故かと言ったら、遊びは結果が問われないんです。うまく遊べたということはないわけですから。
 
金光:  遊ぶのでも、ゲームにのめり込んでいる場合は、これはちょっと違いますね。
 
和田:  あれは遊ばれていますね。遊んでいるつもりではいるんですけども、実は遊ばれている。その「させられる」というのは、今の教育の姿勢ですね。
 
金光:  勉強もさせられている。
 
和田:  させられています。ですから、親は待てないんですね。だからさせてしまう。そういうようなことで、遊びもああいうふうなゲームとかは商業主義というか、すべて毒されて、次から次へと満足を要求されるという。そういうような欲望のことで言えば、次から次へ欲求が出ていることを「小満足」小さい満足という。そんなことがもうちょっと持続する「大満足」というようなものを得ていくことができないかなあということで、その生活の中にそういう要素を取り入れていく。ですから遊びというところから出発します。ご飯作るでも、風呂焚くでも、よくみんな失敗するんですよ。火なんか燃やしたことないですから。ご飯がもう焚けているのに、火を燃すのが面白くなって、いつまでも焚いてしまっている。風呂なんかも、「先生、お風呂沸きました」と言って、僕はいつも一番風呂を貰うんですけども、これはなんか毒味係みたいなものですね。「熱い、何でこんなに熱くしちゃうの」というと、面白いから燃すんですね。そういうことが少しずつできてくる。結果が問われないことで、自分が解放されてくる≠ニいう、そんなことでいろんなことを取り戻してくる。
 
金光:  今のお話を伺いながら、一つには、「させられている」ということの反対としては、「したいことをさせる」という、一種の放任というか、甘やかしみたいな方向へいかないかということが一つ、その前に、何で十四歳というところに目をおつけになったのか。これはやっぱり意味があるわけですね。十四歳に目を付けられたのはどういうことですか。
 
和田:  これはほんとに面白い年齢だと思います。
 
金光:  中学校の二年生ぐらいですね。
 
和田:  はい。世間ではというか、学校では、その時に職業選択というような進路指導をしますね。ですけど、僕らにしてみると、その頃から大人になっていく。身体も変わってきますね。どんどん変わっていきます。男の子は声が変わったりとか、女の子はほんとに一人前になっていく。そんなふうな時代ですね。その時に、人間として自分≠ニいうものを育てていく。そういう時に差し掛かってくるわけですね。ですから、あの時の変化は見逃してはいけない。身体の変化もいろいろあるわけですけれども、心の変化ももの凄くある大切な時代ですね。例えば職業選択みたいな、外のどっかに幸せがあるという、そういうものを追いかけてしまうことがあるので、子どもたちはそこで確かなものを掴めなくなっていますね。ですから、本来僕らはここで十四歳頃の人生というのはどういうふうなものか、と言ったならば、自分はどういう人間になろうとしているのか。何をすればいいんだろうか。もっと面白いのは、人からみて自分はどう見えているか。これはもうほんとにはっきり出てきますね。
 
金光:  鏡の前でいろいろ身だしなみ整えたりする。
 
和田:  面白いですね。台所の鏡の前で、茶髪にピアスの子が一生懸命やっているんですよ。「どこへいくの?」と言ったら、「ニワトリ小屋」というんですけど(笑い)。ニワトリ小屋へ行ったって、誰も見てくれない。ニワトリしか見てくれない。それでもやっぱりどう見えているか、ということが気になる。それは象徴的なことなんですけれども、外から見て、自分はどう見えているのか。異性に好かれるとか、そういうことも一大テーマですから、その時代を大事にしないということはもったいない。受験勉強なんかしていますから、受験勉強もいいんですけれども、それによって自分が成長していくということを忘れて、そういうやり方ではただ人生の問題をどっかにおいてしまって、それでは大人になり損なうな、ということですね。
 
金光:  最初に「討ち死にしたような子どもたち」とおっしゃいましたけれども、その「討ち死に」というのは、その時期に上手く自分の能力を発揮できないということですか。
 
和田:  はい。ずっと小さい頃から幼児期の遊びを奪われてしまって、もう知的教育だけをされてきた。そんな極端な例がありますけれども、そういうことの結果、時代に自分を発揮できなかったり、発揮されていく能力というものが学力≠ネんですね。ですから、ほんとはそうじゃなくて、能力というのは自分をどう生かしていくか=Bですから、僕は、「人生の指針」と言っていますけれども、「子ども日めくり」というようなものを作っていまして、それで子どもたちに「人生の指針」という簡単なことなんですけれども伝えようとしています。その中に、
 
     両手をつかおう
 
という、こんなふうなことを言っております。「両手をつかおう」ということは、やれば気持ちいいことなんですが、それは自分のもっている能力を発揮するという出発点なんですね。ですから、この時代に何か行き詰まりを感じたり―けっこう十四歳頃で、人生の問題考えていますので無駄じゃないですね。その時に、ヒントとして、行き詰まった時に両手を使ってご覧≠ニ。「両手を使う」と言っても何のことだかわかりませんから、例えば鋸(のこぎり)一つ片手でやってしまうんですけど、「なかなかこの鋸は切れないな」という。「両手を使ってご覧」というと、「あ、ほんとだ。こんなふうに切れた」と、すぐ実感としてわかります。それはどういう意味なのかと言ったら、人生に真っ正面に向かう、ということなんですね。
 
金光:  それは食事の時なんかでも、
 
和田:  食事時は酷いですよ。放っておけば、動物の餌場みたいに。ここは片手食いなんかまだいいほうで、口だけで食っているのがいますから。
 
金光:  そうですか。
 
和田:  それはちゃんと両手で、ちゃんと食器を持って頂くという。それは凄く大事なことですね。
 
金光:  黙って放っておくと、なかなかできませんか? そういう食べ方は。
 
和田:  ええ。そうです。もう腰骨はこんなんですし、もうだらしなくなりますよね。ですから、そこの能力≠ニいうものの見間違い。学校では頭の中で理解するということが能力≠セ、と。
 
金光:  食べればいい、じゃないということを、
 
和田:  そういうふうなことですよね。ですからそれは違うわけですね。生活という側から見た時に、十四歳頃の子が何をみてやっていくのか。これは一生、そういうものに出会っていくわけです。よく言われる「あの時代に出会ったものが一生左右する」と。ほんとにそういう例をいくつもみるので、まったくそこをはずせないというふうに思っています。
 
金光:  「自分」という言葉をお出しになりましたけれども、その年頃で自分は将来何になろう、と決めるのは、これはしかしなかなか難しいことじゃございませんか。
 
和田:  そうですね。相談にきた子が、「将来、僕は自動車修理工になります」というんですけれども、「いや、君はそれは今向いていないかも知れないよ」と言って混ぜ返すんですけれども。そうすると、「じゃ、何をするのかな。これは宿題だね」。それよりも、「今やることということは何だろう」といったら、大体は今の子たちは、生活が、さっき言ったような、食事とか睡眠とか運動もそうですけれども、もう一つ言えば、性のこと、これが多く乱れていまして、何でそこが問題なのか、ということが見えてこないものですから、そこからやり直しますね。そこではじめて自分に出会う≠ニいうようなことで、僕らは、「朝の三点セット」といっていますが、そういうことをやっています。例えば朝起きる。最初の一ヶ月間は、朝起きてこないんですね。普通でしたら起こされるでしょうね。起こしもするんですけれども、起きてくる≠ニいうことがどういう意味なのか。それは、僕は父の受け売りなんですけれども、ずっと言われてきたことがありまして、「気分と自分とは違うんだ」という。「自分と思って、気分のほうを大事にしていっては自分を見損なう」ということをずっと言われてきたんで、それは応用しているんです。例えば、寒い朝に誰でも起きたくないですよね。それに朝起きたらすぐお掃除。渡り廊下をお掃除するなんて寒くて嫌なんですけど、嫌だなと思っている気分に引きずられていってしまうと、そこで自分には出会わない≠ニいう。それはどんなことを思っていてもいいから、とにかくやってみよう、ということで、起きるということが一つのテーマになります。昼夜逆転していますから、そういう子たちが起きてくるようになる。というのは、自分のほうにその宿題があるということを認識しなければいけないわけですね。だから、自分は何かに引きずられている。そういうことがわかってくるために、まず起きてみる。家庭では次ぎに何をするかと決まっていないから、ズルズルしてしまうんです。ここでは起きたらすぐ掃除です。後はニワトリ小屋に行ってニワトリの世話をする、と決まっています。ですから、それをする。その次はここに来て坐る、というようなことをします。連続しているわけです。「起きる」「掃除をする」「坐る」という、その三つを「三点セット」と言っています。これはもう気分がどんなものであっても、そこをしていくという。そこから自分というものが一体何なのかな≠ニいうことが見えてくるといいな、と。これは十四歳頃の子たちはそこにまず取っ掛かりが見えてきますね。身体で知っていくと言いますか。
 
金光:  そうしないと、起きたくない、という欲望に引きずられる。なんか甘いものが食べたい、そちらに引きずられる。いわば欲望に引きずり回されるほうの自由な生活ということになってきますね。
 
和田:  そうですね。今の社会は楽なほうへ、楽なほうへ≠ニいきますので、楽なものにどういう味わいがあるのか。それは目先はいいんです。目先はいいんですけれども、
 
金光:  「楽で、何で悪い」なんて言いかねないですね(笑い)。
 
和田:  ここの裏山が大野山(おおのやま)というんですけども、その山を越えて向こう側に丹沢湖がありますが、「今日は丹沢まで行こう」と言うと、「わぁっ!」というんですね。それで「二時間ぐらいかかるかなあ」というと、「えっ! 車で行かないんですか?」というんですね。「歩いていくからいいんだよ」と。もう絶対に今の子たちは小学校四年生ぐらいからそういう習慣が付いていますから。僕は、また「子ども日めくり」に、
     苦しいから楽しい山登り
 
と。これが学校の先生方はこの言葉が好きらしいんで、よく教室に掛けているようですけれども、「苦しいから楽しい山登り」と一枚あります。「苦しいから楽しい」と言い切れないものもあるんですけれども、ただやっぱり山登りなんかは味わい≠ニいう。人生もまったくそうだと思います。味わう≠ニいう側からみたら、この楽しさの意味って違ってくると思うんですね。
 
金光:  それは車でシュッと行くのと、二時間かけて歩くのじゃ、随分到着した時の感じは違ってきますですね。
 
和田:  そうですね。見ている景色も違う。それから達成感も違う。満足度はまるで違ってくるわけですね。駅から此処まで来るのに一時間半山道を歩いくんですけども、最初みんな「えっ!」と言いますね。ですけど、来て見ると、凄い気持ち良かった。それから悩み事とか持って相談に来る人たちも、「歩いて来る間に忘れた」というですね(笑い)。ですから、僕は楽なんですけど。「何相談しようとしたか忘れた」って、「もういいです」ってなるんですね。ですから、そんなもんですね。やっぱり味わい≠チて、ほんとに楽しいということを、ある程度抵抗もあることも、そこを超えてみなければいけない。そこにはじめて味わい≠ェ出てくる。これは子どもでも体験できることだなあと思いますね。
 
金光:  それから「身体を使っていく」ということは、最初におっしゃった「両手を使う」というのに共通ですね。
 
和田:  そうですね。能力を発揮する。
 
金光:  両手だけじゃなくて、両足も全部使うと。
 
和田:  出さないように、出さないように≠オていますね、エネルギーを。「ケチな根性」と言っているんです。出さないように、出さないようにして、どれだけ得しているか。ほんとは損なんですね。だけど、どっかで違った教育をされていますよね。やらないほうが得だ、と。
 
金光:  やらないと道が狭くなっている、ということですね。いろんなことをやるほど、道は広いんだ、と。ただし、面倒だから、楽なほうばかりを選んでいると、狭いほうへ、狭いほうへいっている、という見方ですね。実際もそうなんでしょうね。
 
和田:  ええ。道が狭(せば)まっていく、ということでいいますと、特徴的なことがもう一つあります。今の子たちは、悩んでいく≠ニいうことが、それこそ僕らはこういう仕事をしていますと、正しく悩む≠ニいうことは凄く大事なことだと思うんですが、悩まないように、悩まないように≠ウせられていますね。「悩んでいる暇なんかない」と言われます。その一つに、好き嫌いの感情に振り回されていく、という。何でも嫌い≠ニいうところから入ってしまいますから。そうすると、それは道がどんどん狭まっていってしまうんですね。
 
     きらいなんて自慢にならん
 
というのが、この「日めくり」に書いてあるんです。そういうふうなところが、出し惜しみからくるんだ、という。そういうようなことが実際の生活の中で、例えば少子化で兄弟が少ないと我が儘≠ェ通ってしまう。それは親もそういうことは受け入れてしまう。そうすると、どんどん狭まってしまう、ということですね。代わりに何かをする、ということができてしまう。その子が努力しなくてもいい、という、そんなふうなことですね。
 
金光:  それは、しかし超えるというか、克服するのには、どういう方向があるんですか。
 
和田:  これは遊びが一番ですね。遊びの中で取り戻せることがたくさんあります。例えばこういう言い方をすると、心理学者に怒られるかもしれませんが、反抗期がなかったみたいな子がいます。それから引き籠もり系の人なんかでも、そういうふうなことがありますね。
 
金光:  「反抗期がない」ということは、素直でいいということには?
 
和田:  素直に育っている∞いい子だった≠ニいうことですよね。ですけど、それはどっかでほんとに自分に出会っていかなかったんじゃないか、と。
 
金光:  ある部分は眠ったままで、発育していない、という。
 
和田:  いい子≠ニいうふうに認められたいという願望が強くて、甘いたい。ですから、「大人になりたくない」という言葉をそのまま使いますから、これは自立できないというようなことにもなりますよね。そこを遊びというものは取り戻してくれるんだ、ということは、これは長年やっていますと、ほんとに確かだなあ、と思います。
 
金光:  またさっきに返りますが、部屋に籠もりっきりでやるゲームの遊びじゃダメなんですね。
 
和田:  それは創造力でないのでダメです。遊び≠ニいうのは創造≠ニ工夫≠アの二つがないといけませんね。ですから、幼児期の遊びは、見ていればよくわかるんですが、木工遊びをするにしても、何にもないものから何かを作り出してきますよね。頭の中はどういうふうに働いているのか、というぐらい豊かに働いていきますよ。そういうことは、何歳からでも取り戻せる、というふうに思っています。ですから、遊ぶ≠ニいうことから出発していって、それは結果を評価されないことです。で、物を作り出す。あんまりいい言葉じゃないけど「生産性」と言ったらいいんでしょうかね。例えばここでは畑をしたり、ニワトリを飼ったりしているわけですけども、何かを作り出すことそのものが遊びだ≠ニいうふうに、生活とまったくイコールだ≠ニ。工夫と創造がある。創り出すことの中に工夫がある。遊びイコール生活だ≠ニいう。
 
金光:  なんか特別にゲームをして遊ぶというようなことじゃなくて、外へ出て野山でいろんな取り組みをするのが遊びである、と。遊びも非常に広い意味ですね。
 
和田:  そうですね。ですから、時々その話をしますと、「家の子も遊んでいますよ」と言うんですよ。「何しているの?」と言ったら、「夜遊び」とかいうんですね(笑い)。「そういう意味じゃないでしょう。僕の言っているのはそういうことじゃなくて、それこそ物を作り出す。そんなふうなことを生活の中で、気持ちが遊んでいる。余裕がある。そういうふうなことから、こうどんどん活性化してくるものがあるんですよ」と。そうすると、好き嫌いというようなことでも、自分にとって、それがどういうふうに働いてしまうか。それがどういうブレーキになってしまうか。どういうふうなこと、怠けていく。「怠けていく」と言ったら怒られちゃうんですけど、できるだけ大変なことはしないでいく、という。そんなものがどういうふうに自分のブレーキになっていっているのか。これを発見していくわけですね。
 
金光:  やっぱりやっているうちに、自分で気が付くことがあるわけですか。
 
和田:  そうです。これは素晴らしいですね。どの子も素晴らしいですね。いくつもそういう例がありますけれども、自然のほうに目が向いていく。それで自分を発見していける。それで、感動する、という。
 
金光:  それまではあんまり自然なんかに目が向きませんか。
 
和田:  はい。もっと極端なのは、自分の生命―いのちに対しても鈍感になっていますから。いろんな事件が起きるんですよ。
 
金光:  「鈍感」というと、例えばどういうこと?
 
和田:  例えば、裏の沢に連れて行きまして、沢登りをして、上にも下にも行かれなくなった中学二年生の女の子がいまして、
 
金光:  そこまで登って行ったんでしょう?
 
和田:  登って行ったんです。みんなで登って沢登りに行ったわけです。そうしたら、途中で上にも下にも行かれなくなったんで、手を離したんです。落ちたら大変だから、勿論ザイルで確保していましたから落ちないんですけれども、それを平気でしますね。その時に驚いたんです。自分がこうした時に自分のいのちはどうなるか。そこが鈍感になっているぞ、と。そういうことがたびたび出てきますね。ですから、それを取り戻していくのに、自然の感覚―ここはほんとに山しかありませんから、その中で一つ藪に入れば、蛇はいるわ、蜂がいるわ、もう凄い危険な状態というのもあるんですけども、それをどうやって自分の生活の中に取り込んでいくか、という。
 
金光:  最初は、じゃ、そういう自然の蜂なら蜂の恐ろしさなんかも知らないわけですね。
 
和田:  そうです。それは危険ですから、「こういうふうに気を付けるんだよ」とよく言うんですけど。でも蜂なんか毎年何人か刺されていますけどね。
 
金光:  普通だと痛いぐらいで終わりますから。
 
和田:  そんなふうなことが、今度はそれが遊びというふうな中で創造的に取り組んでいけると、だんだん自分の心も動いてくる。それが活性化してくると面白いことに、ぐるりが見えてきますよね。
 
金光:  それまで見えないわけですか。
 
和田:  見えないんです。これが見えてくると面白くなるんです。
 
金光:  それはそうでしょう。新鮮に、新しいものが目に入ってきますからね。
 
和田:  だから、見えてきた時に、なんかしていろんなものが楽しくなってくる。そういうふうなことが心の動きになっていくわけですよね。
 
金光:  それはしかし頭の中で考えていただけじゃダメですね。
 
和田:  そうです。体験して、いろんなものを身体を通して知っていく。そのための仕掛けと言ったら―ここは何もないという状況ですので、自分で何かをしなければ出来ないという。仕掛けと言っても僕は何も設定をしないんですね。問題が出てきても、その問題に対して自分の答えを出していく。それまで時間がかかりますけれども、自分の答えを出していく。そういうことが必要だなあ、というふうに思っています。
 
金光:  それをやっていると、むしろ勉強するほうにも、当然遊びと学ぶということとが別々じゃなくってきますね。
 
和田:  そうですね。これは今まで二十年間こういうことをしてきて、それで中学もまともに出ていなかったような子たちが、立派な職業に就いたり、資格を取ったり、勿論大学も行ったりしています。それがアッという間なんです。そうなった時にはアッという間というか。だから、そうなるまでどういう道を辿るかというのは、それぞれなんですけれども、基本が生活の中の作業が遊びになっている≠ニいうことが重要だなあと思っています。ある子がトマトを作りまして、その子はもの凄く理屈っぽい子でして、過去の自分に引っかかっているんですね。行動がなかなかできなかったんですよ。その子が、ここでは農作業をいっぱいやるんです。土作りから、種蒔きから、苗作り、そういうものを全部自分でやってみる。そんな時、トマトを作りまして、そのトマトがもの凄く上手に出来たんですよ。もうほんとに美味しいトマトが出来たんです。そして、その時にそういうことができた自分≠ニいうのに満足いくわけですね。ですから、他にもそういう土作りから収穫までを全部やってみるということで、僕らは「有能感」と言っていますけど、自分で何かができるぞ≠ニ。そういうことができるという感じを甦らせる。それは畑の全部をやってみるというようなことで、もの凄くプラスになっている。そんなことを感じましてね。それでこのトマト以来、ある変化が起きたんですよ。それは過去ばっかり見ていた子が、ふっと前を向くようになるんですね。もの凄く面白かったですね。悩みは消えないです。ですけど、今まで小さい頃の自分に引っ掛かってしまっていたものが、ある時ふっと前を向くんですよ。今度、先々のことを考えられるようになっていく。そんなふうなことがありますね。あと、家業を継いでいる子もいるんですが、その子なんかもほんとに朝から晩まで畑をやるということに楽しみを見出したんですよ。そして、ほんとは彼はここでずーっとやりたいと思ったけど、「もうそこまで何でもできるようになったんだから」と言って、無理矢理お家に帰らせて、お家を継がれたんです。でも、そこから資格をいっぱい取りまして、今はもうほんとにいろんな役に立つ仕事をしています。ですから、これは凄く大事な要素がそういうところに含まれていて、次から次へと先が見えてくるという。このことは大事なことと思います。
 
金光:  その場合に、人間というのは、「あれをしたい、これをしたい」という、そういうしたいと思っているのが自分だ≠ニ思っている場合が多いわけですけれども、したいと思っている自分だけが自分かどうか、という。討ち死にするような人は、あんまり「あれもしたい、これもしたい」というふうな気持ちも出てこなくなっているということなんですか。
 
和田:  そうですね。
 
金光:  自分で自分のエンジンをかけるのに、今具体的に教えて頂いたケースは、自分のエンジンがかかったわけですね。自分の「ああしたい、こうしたい」という欲望だけを追い掛けても、これはエンジンがかかるとは言えない場合もある。その辺のとこは、ここではどういうふうにお考えでしょう。
 
和田:  それは、一つもの凄く面白いことですが、言葉で言えば、「捨てる」「手放す」と言ったらいいでしょうか、そういうふうなことが必要だと思います。それは無理矢理いろんなものを掴まされてきた、と言いますか、無理な力を入れさせられてきた。その積み重ねが、「やってもしょうがないじゃないか」という諦めみたいなものがあるわけですね。それで、討ち死にして、例えば夜遊びに耽るとか、そんなようなところへ行ったりするわけですけれども、それを取り戻す言葉として「日めくり」の中に、
     (グー)を開けば掌(パア)になる
 
と。「これは名言ですね」とか言って、自分で書いた言葉ですけれど(笑い)、心の中に握っている拳(こぶし)をパッと開いてご覧≠ニいう。これは何もしていないような、やる気なくなっちゃったような子でも、どっかにしがみついていますね。「俺が、自分が」って。これはこの頃幼稚園なんかへ話にいくと、お母さんたちもみんなそうですね。「私が、私が」って、心の中に拳を握りしめています。それで、「それは掌(パア)と開いてしまえばいいんだよ」と。「握りしめている拳を開いてご覧」そんなふうに言います。子どもは割に、「ああそうか。開くのか」と。で、生活していくうちに、例えばここの場合、薪運びなんか凄い力仕事とか、田圃の草取りなんて炎天下で大変ですけど、そんなふうなものをずーっとやって、あるところを越えると、それがパッと手放していられるというか、そこが子どもの場合できます。でも大人の場合は、また次ぎに質問してきます、必ず。「どうやれば開けますか?」という。「どうやれば掌(パア)ができますか?」。それが必ずよく出てきますね。
 
金光:  よく聞きますね。
 
和田:  ですけど、「それは開くしかない」というと、「その方法がないの?」と。ここ堂々巡りして。
 
金光:  頭で考えても、これは、「どうやれば」と思っているところにひっかかっているわけですから。
 
和田:  まあ手っ取り早いのが、最初に言った、例えば十四歳頃に、何だかわけわからないけど、こんなところに生活していて、そして毎日のように重労働をしている。その自分に気が付いて、「俺は何でこんなことをしているんだろう」って、日記とかに書いてくれます。「俺はどうしてこんなことをしているんだろう」って。でも、そこが出発点だって。その答えなんていうのは、僕が持っているわけないんですから、自分で見つけ出すしかないんですね。例えば薪運びしながら、フウフウ言って、「何で俺はこんなことをしているんだ。ほんとだったら家でのんびりしていればいいのに。どうしてこんなことをしているんだ」と。でも、自分は何でこうなっているのか≠サこが入口になっていって、そこを超えていった時に、結果として手は離せている。生活の中で、こういう一つの自分の引っかかりみたいなものが、拘り、とらわれているものが、気が付いたらなくなっている、という。そういうふうなことが、良い生活ということの一つの目的でありますね。
 
金光:  言葉だけつかまえていると、さっきの沢登りの女子中学生が途中で手を離すみたいな、そんな手離しとまったく違うわけですね。
 
和田:  すると、出鱈目(でたらめ)になりますから。その出鱈目なやり方が、今、例えば子どもたちの教育を支配してしまっていると思います。で、いろんな問題が起きてきていると思うんです。
 
金光:  むしゃくしゃしたから火を点けたとか、むしゃくしゃしたから刃物を持ったとか、あれなんかも、ほんとにそのむしゃくしゃの元を、自分の中に何が≠ニいうところまで思いが届いていないから、ああいうことになるんでしょうね。
 
和田:  ええ。ですから、その辺のところが、外からではどうにもならないことがありまして、自分が自分で体験していかない、と。そうすることの手助けが、こういうところの生活である、と。本来教育というのは、人間が幸せになるためにすることですから、教育をして不幸になっていたら話にならないわけです。
 
金光:  そういうふうに十四歳頃に、自分の中にはこういうものがあった≠ニいうことに気が付くと、それから成長してだんだん歳をとっていくと、どういう大人になっていきますか。
 
和田:  これは十四歳に限らないことですけれども、一生それは本来大人になるという意味をずーっと持ち続けていくんだと思いますが、じゃ、大人になるという意味を、どんなふうに思っているのか。世間的に言ったら、大人になると言ったら、社会的責任を果たす、そういうことも大事なことなんでしょうけれども。お酒が飲めるとか、いろいろありますよ。そういうんじゃなくって、この「日めくり」の中に、
     ひとのせいにしない
 
というのがあります。これはテストの点が、出来が悪かった、というと、「これはお母さんのせいだ」と平気で言いますから。これじゃ大人になれないよ、と。よく考えたら、大人でもそういう人いますね。「自分が出世しないのは彼奴(あいつ)のせいだ」と、何でもかんでもひとのせいにしてしまう。それは大人じゃないね。そんなこと言ったら、この人類全体が大人になり切っていないぞ、ということになりますね。日本の社会も、大人になり切れていないな。僕らは、この先何を求めていこうかというと、ほんとに大人になっていく道―それは何か、と。一々ひとのせいにしてぐずったりしないという、そういうことですよね。ひとのせいにしてしまう元というのは、何があるのか、って。そこが自分の引っかかりというものがあるんだなあ、と。素直に自分を発揮していく道というものが提供されてこない。そういう意味で、この思春期前後のところから、人生の指針―どっち向きに努力をすればいいのか、という。このことが、ただ強い不満を持って、待っていれば自分はそれで済むんだ、というふうに思っていると、それは一生そこにほんとの自分には出会わないで、大人になり損なってしまう。ですから、不平不満が出てくる元は何なんだろう、って、そこをちょっと確かめてみなければいけないな、と。
 
金光:  その場合に、大体自分のエゴが満足できると人間喜びますし、それが不満足だとひとのせいにしたり、面白くなかったりするわけですけれども、もう一つ元は、どういうことをしたいかという、自分が何を欲望として思っているかという、その種類にはよってくるんじゃないかと思いますが。
 
和田:  まさにそうだと思います。そこで欲望というものが、自分を育てていっているのか、それともなんか育てないで邪魔をしているのか、という。そういうことが一大テーマになりますね。で、十四歳の子たちをみていますと、一つ大きなステップアップの時、それまでは、例えば三歳児の欲望というのは自分というものを発揮していく。三歳児は、「自分が、自分が、自分で、自分で」と、そういうふうなので良かったわけです。それからずっと自分を成長さしていくのに、自己中心性という、エゴイズムをずーと発揮していくわけですけれども、中学二年生ぐらいの十四歳頃というのは、まさにそこから、今まで欲望が自己拡大のほうに、自己拡大の欲望として、ずっとそれで良かったんです。それだけで良かったんです。例えば、そのまま大人になっている人もいますよね。名誉権勢欲とか金銭欲とか―世俗欲ですけど、そういうものそれだけで。ほんとはそうじゃなくて、本来は隣の人も気持ちよくないと自分も楽しくなれない。そういうことが、この時代に知らないといけないわけですね。「なんか変だぞ、変だぞ」と、人生に思い悩む年齢ですから。その思い悩んだ時に一つの答えとして、自己拡大≠ゥら自他共存≠ヨという、そういう欲望のステップアップが必要なんです。ここでは共同生活の中で、隣の部屋の奴がうるさかったりした時に、どういうふうに対応するのか、そういうことで学習をしていきます。その隣の人も楽しくなかったら自分も楽しくなれない。気持ちよくなかったら自分も気持ちよくなれないんだ、というふうなことですね。これはまだまだ先があるとい思います。その先にほんとの深い安心安心は何なんだろう≠チて。昨日も東京のあるところのお母さんたちに、「深い安心に至るということはどういうことだろうか」という話をしたんです。それは、個≠ニいう自分と全体≠ニの関係が見えてこないと深い安心には至れないんだ、と。今、みんな個の、自分の凄い狭い自分のところだけで閉じ籠もって、そんなもので幸せなんて、深い安心なんてないんだ、って。ほんとに深く安心するということが、本来は身体ごとで知っているはずなんですね。でも、どっか、何かが邪魔をしていて、その欲望がステップアップしていかない。「次元の高い欲望」と言ったらいいんでしょうか。そこに進化していかないですね。ですから、そこを十四歳頃の出発点として、一つの欲望の表現として、もっともっと上のものがある。最終的には、「自分は何しているんだ」と言ったら、結論は「安心しようとしているんだ」と。そこが確認できたら、みんな幸せになられるのかな、というふうに思うんです。お金を稼ごうとして、まあ何億円稼いでも、どこにも安心がなかった、という―僕は知りません、一度も何億円も稼いだことないんで(笑い)。ただ、それが終点だというふうに思っていたら、それは安心に至らない。ですから、欲望をただただ自己拡大ではなくって、自他共存∞安心立命≠ニいうふうなところにステップアップしていく。最後は、無くなる欲というのがあるそうですけれども、それはよくわかりませんけれども、ほんとに欲を捨て去れれば、こんな幸せなことはないんでしょうけれども、生きている限り無いという説もありますので。ですから、より高次元の高い欲望に出発できていく年齢、その辺のところを教育という分野の人たちが、そこを掴まえてくれたらと思います。一番簡単に掴まえる方法は―これは父からヒントを貰ったんですけど―「欲望のことは、自分を振り返るのが一番手っ取り早いヒントだ」と。なるほど、と思うんです。教育を担当する人たちが自分を振り返ってみよう≠ニ。自分の欲望を振り返って貰う。そこから出発していければ、もの凄く大きな意味があると思います。今の子どもたちが意欲を失っていく≠ニいうことも、その欲望ともの凄い関係がある、と思います。
 
金光:  確かに安心できれば一番いいわけですけれども、安心ということは心配がない世界で、これは実は遊んでいる時はあんまり心配しないで遊んでいるわけですけれども、先ほどのお話で、遊びと仕事が一緒になるような話をされていましたけれども、それがいけると安心に一番近いんじゃないか、という感じがしたんですが、その点如何でしょうか。
 
和田:  父が亡くなってから、机のところに貼ってあった張り紙がありまして、こんなちっちゃな、なんかの挨拶状の裏紙でしたけど、それに、
     天地広大悠々遊戯
 
と書いてありまして。
 
金光:  天地は広く大きい、と。悠々と遊んでいる。遊戯ですね。
 
和田:  「天地広大悠々遊戯」と、このくらいの小さな短冊ですけど、それが書いてあったのを見つけたんです。それで、「あ、こういう心境で生きていたのか」。僕はあんまり言うことを聞かなかったんですけども、死んでから、「ああ、こういう何にもしないで、それこそ懐手で生きていましたから、何しているんだろう」と思っていましたけども、「あ、そういう世界だったのか」。これはほんとに生きていることそのものが遊びで、その遊ぶということがどれほど大きな世界をもっているのか。これは限界というものがない。そういう大きさだと思います。「どこからどこまでが家ということはないんだよ」と言っていますけど。ここは土地がどこまで、というのは決まっていますけどね。でも、そういうものではなくって、僕らが生きている世界というのは、それこそ無限大の宇宙の中に生きていて、そこにイキイキとしていれば、それでいいんだ、という安心感ですね。それが得られたらいいなあ、と、そんなふうに思っています。
 
金光:  現代のような忙しい時代ですと、なかなかそういうところに目を向ける、あるいは気が付くというのも難しいかも知れませんけれども、まあせかっく人間として生まれてきている以上、できるだけそういう世界に気が付くような生活を過ごしたいものだと思いながら伺いました。どうもありがとうございました。
 
     これは、平成十九年六月三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである