技とこころを伝える
 
                       刀 匠 河 内(かわち)  國 平(くにひら)
昭和十六年大阪市生まれ。昭和四一年、関西大学法学部卒。大阪で十四代続いた刀匠の家に生まれ、大学卒業後、人間国宝の刀匠・宮入昭平に弟子入り相州伝を習う。長野県坂城町道場で六年間修業の後、昭和四七年、独立。東吉野村平野に鍛刀場を設立。昭和五九年、人間国宝隅谷正峯に入門備前伝を習う。昭和六二年、無鑑査認定を受ける。平成一七年、石上神宮、鋳造七支刀を復元(復元メンバー八名と共に)。
                       ききて 西 橋  正 泰
 
ナレーター:  炎の中から鉄の芸術品と呼ばれる日本刀が生まれようとしています。日本刀を専門に作る鍛冶職人。それが刀匠です。河内國平さんは六十五歳。新作名刀展で八回特賞に選ばれ、今は無鑑査で出品しています。日本刀の様式が完成したのは今から千年以上も前、平安時代の末期と言われます。洗練された独特の曲線、鍛えられた地鉄(ぢがね)、そして刃文(はもん)。日本刀は世界でも例のない美しい刀剣と評されています。河内さんの工房は奈良県と三重県の県境、人口二千九百人あまりの奈良県東吉野村にあります。
 

 
西橋:  河内さん、ここは二階の作業場ですけれども、どちらかというと、仕上げ段階になるんですか。
 
河内:  そうですね。仕上げ場といいますね。
 
西橋:  そうですか。河内さんの作られた刀を見せて頂けますか。
 
河内:  ほんとに研ぎ上がったばかりなので、
 
西橋:  そうですか。
 
河内:  まだ袋もできていないんですがね、銘も切っていないんですが。
 
西橋:  白鞘(しらさや)に入っているわけですね。
 
河内:  ええ。鞘の中に収まっている時は、油が付いているもんですから、その油を取らないと見えない。
 
西橋:  なるほど。
 
河内:  どっかに油が付いているね。だからまず油を取るんです。しかし完全に取れませんよ。手に付いた油でも石鹸を使わないと取れないのと一緒で、完全に取れないから、それで打粉(うちこ)を打って、その油を取るんです。
 
西橋:  打粉というのは?
 
河内:  これ、砥石の上澄みで、細かい細かい粉なんですね。砥石なんですがね。その打粉を打って、そして拭きとる。刀には三つの見なければならない―見方ですね。三つあって、まず「形すなわち姿」をこうして見るんですよ。線を見るんですね。姿が良いかどうか。線によどみがないかどうか。ちょっと変なことになっていれば―髪の毛一本の線ですよ、こういうのは。それでこうして形を見る。だから刀を見ている人の形を見て、こうして見ている人は大体姿を見ているな、とわかる。姿というのは時代によって変わるから、時代を考えているなというかな。二番目に、「鉄すなわち地鉄(ぢがね)」でしょう。どこの鉄か、青くみえる鉄かどうか。こう引き寄せて、この黒い部分が鉄(かね)の色ですよ。
西橋:  ああ、なるほど。こちら側ですね。
 
河内:  ええ。それをこう見て青黒く輝いているかどうか。それで疵がないとか、綺麗に出来上がっているかというようなことを見るんです。それは自分の鑑識眼の中で比べなくても、普段、刀見ていると、これは少し青く見えるぐらいだな―反射ですが、それを見ます。その次ぎに、「刃文」。それはこうしてライトがあったら透かして見る。
西橋:  見えますね。
 
河内:  そうすると刃文がでるでしょう。その輝き。要するに刀自身から光なんか出ていませんから、すべて反射ですよね。だからよく反射するかどうか―簡単に言えばね。それは刃文というのは人間が作るから、焼き入れによって作るから、やっぱりこうして見たら作者がちょっとわかってきますよ。この刃文は誰が焼いた刃文かな、と。だから、姿は時代を掴めます。いつの時代かということ。それは使う道具だから、こうして見たらいつの時代か大体わかる。それから地鉄を見たら、それは鉄の色だから、産地がわかります。備前ものかなぁ、相州のものかなぁ、という国がわかる。砂鉄から作るから、基本的にはね。その中で刃文を見ると、これはその中の誰の作った刃文に似ているな、と。それが一つの鑑定の方法ですけどね、覚えていれば。刀は武器だから面白がって違う姿をやっていませんよ。使えなかったら意味ないもの。
 
西橋:  この刀の場合だと、あとは銘を入れて完成という。
 
河内:  そうそう。しばらく眺めていてね。大きく欠点はないんです。自分の思ったように。例えば刃文―絵になっている。この刃文―反射ですがね、かなり自由に出来るんですよ、僕は。やっぱり慣れてきているんですよ。それはかえって面白くない。上手にやったからなんて面白くないです。どっかで失敗があるような、まあ言えば、人間の技術の及ばないものができる、偶然で。それは面白いものね。思う通り出来てきたら面白くないですよ、逆にね。だから、四十代から五十代ぐらいの鍛冶屋の仕事というのか、職人の仕事がやっぱり一番面白いのと違うかな。刀だけじゃないですよ。年寄ってきたら「熟練」だとかいう言葉があって、それはそれで落ち着きますけどね。力があるものというのは四十代から五十代。でも、一から十まで自分の作ったもんだからね。それは楽しいよね。
 
西橋:  そうですね。
 
河内:  でも我々ぐらいの年齢になってくると、人の意見を別に聞いていないし、自分で大体自由にできるもんだからね、面白い時期ではある。
 

 
ナレーター:  河内さんは、昭和十六年、大阪の刀鍛冶の家に生まれました。終戦直後の刀作りが禁じられた時代を見て育った河内さんは、家業の刀鍛冶を継ぐ気持ちはなく、関西大学法学部に進みます。しかし、大学四年の時に出会った一冊の本が河内さんを刀鍛冶への道に進ませたのです。その後修行を経て独立した河内さんは三十五年前、この地奈良県東吉野村で工房を開きます。
 

 
西橋:  河内さん、もうこの山の向こうは三重県ですね。
 
河内:  三重県ですね。吉野でも一番東の端ですね。
 
西橋:  東吉野村。あの山の所々に紫の花が見えますね。あれは?
 
河内:  藤ですよね、今の時期。山藤、綺麗なものですよね。
 
西橋:  そうですか。ウグイスが鳴き、さっきトンビが飛んでいましたけれども、長閑なとこで、もう此処へ入られてどれぐらいになるんですか?
 
河内:  三十五年ぐらいかな。僕は、自分が今刀で飯が食えるようになったのは、やっぱりこの土地にきたからだと思いますよ。
 
西橋:  そうですか。やっぱり土地から受けるいろんなもの、
 
河内:  そうですね。よく「土地が生んだ」という言葉がありますよね。それはほんとにそうですよ。人間なんてちっぽけな力ですもんね。それはやっぱり自然がかなり―それも十年単位で考えると、大きな影響を与えているようですね。
 
西橋:  そうですか。今、刀匠と言われる方は日本でどれぐらいおられるんですか。
 
河内:  ほんとにざっとの話で正確なことはわかりませんが、四百人ぐらいでしょかね。僕らの会があるんですがね、それは二百人ばかりが登録をしていますね。
 
西橋:  河内さんが刀匠になろうと思われたのは、お父さんが刀匠でいらっしゃったんですよね。
 
河内:  まあね、代々鍛冶屋なんですけどね。
 
西橋:  第十四代河内守國助(かわちのかみくにすけ)さんというのが、お父さんですね。
 
河内:  そうですね。
 
西橋:  関西大学の法学部を卒業されて、お父さんがやっていらっしゃったから後を継ごうということではなかったんですか。
 
河内:  それはまずない、と言ってもいいんじゃないですかね。しかし、「血は争えない」という言葉があるので、やっぱりそこから出ているとは思いますけれどもね。例えば宮入(みやいり)昭平(しょうへい)(1913-1977)―僕の師匠・親方ですが―に会ったということが非常に僕の人生に大きな影響を与えていると思いますね。もしこの人に会わなかったら、あるいはここまで刀に打ち込めなかったかも知れない。それは大変な人でしたよ。

 
ナレーター:  河内さんの師匠、宮入昭平(みやいりあきひら)は、長野県の刀鍛冶でした。刀鍛冶の流派の一つ、鉄の鍛え方に優れた相州伝(そうしゅうでん)を伝える名工です。宮入昭平は昭和三十九年、五十一歳の時、國の重要無形文化財、いわゆる人間国宝になりました。
 

 
西橋:  人間国宝の宮入昭平さんの『刀匠一代』というご本を読まれたんですか。
 
河内:  そうですね。友だちに勧められて、というか、友だちが見付けてきて、それで僕も当然勧められて読んだんですがね。簡単な本でしてね、字の大きな。親方が―親方と我々は言ってしまうんですが―宮入昭平にとっては、「話したことを筆記された本だ」とおっしゃっていました。簡単な本で、ほんとに一晩で読めてしまいましたよ。ところがその本が僕に与えた影響が未だに大きいんですがね。もしあの本に会わなかったら今の人生がないと思うぐらいね。別に内容がどうのということないんだけれども、最後に、「私は今まで弟子を持っている。しかしほんとのことを教える弟子は未だにいない」というふうな意味のことを、最後の二行に書いてあったんですよ。
 
私は愛刀家や研究家が出ることは、結構と思っています。が、せめて一人でもよい。将来を託せるような刀鍛冶が生まれてくれないかと、そればっかり、切に願ってやみません。
 
その時にほんとに一番最後の二行を読んで、なんか自分が呼ばれているような気もしたし、「河内、お前やってみないか」と言われているような気が―その時は宮入昭平という人とは面識はないんですよ、知らないんですよ―言われているような気がしたし、ちょっと生意気な言い方だけど、〈よし、おれがやってやろう〉と思いましたね。「跡継ぎがまだいない」というふうな書き方をしているもんですからね。〈これは自分の使命かなあ〉と思ったし、〈やってやろう〉と思ったですね。それで宮入昭平を訪ねて行った。夜行で当時行ったと思うんですよ。それで朝着いたかな―ちょっと記憶が薄れていますが―夏休みだったんですよ。それで奥さんにお会いしたらね、そういう連中が来るんですよ、何人も。〈また来たか〉というような顔ですわ。で、それでも続かないということだったんだけれども、親方が炭焼きに行っておられて留守だったんですよ、弟子も誰も。僕は運がいいというか、炭焼きやっている時は手がいるんですよ。一人でも欲しいわけだ、いろんなことで。気持よくね、「じゃ、手伝っていけや」というわけですよ。もうそこで長いこと―一ヶ月ぐらい居たんですかな。
 
西橋:  その炭焼きのところで?
 
河内:  ええ。そうすると、ほんとに星が唐松の―山の上でしたからね―根もとの方に星があるんですよ。その感激は今も忘れへん。上になんかないですよ。ずーっと星が唐松の間に見える。暗くなったら電気がないから寝る以外にないんですよ。発電機使っていたけど、石油いる話だし、使わなかったけども。で、朝明るくなったら起きるという生活ですわ。夏だから四時頃に明るくなる。夜七時半か八時頃に本を読んでいても寝なければならないでしょう。それがまた感激してね。大阪で大学へ行っていましたからね。その世界はビックリして、こんなところで仕事している人いるのかと思ったらね。まあ一ヶ月ぐらいやりましたかね、ちょっと仕事手伝って、それで親方は先に山から下りて一足先帰られて、坂城の家の仕事場のほうへ。それで僕らは後片づけをして帰るんですよ。帰ってから「弟子にして欲しい」と頼んだんですよ。そうしたら「大学出てから来い!」いうたら終わりでしたわ。まだ途中でしたが、僕は辞めてもいいなと思っていました。若い時そうですよ、これはいいと思ったら。そうしたら「大学済んでから来い!」とえらい怒られましてね。
 
西橋:  きちんと卒業して来いと。
 
河内:  そうそう。やりかけたことは最後までやれ、ということですよ。やっぱり刀の仕事というよりも宮入昭平が好きになりましたね。
 
西橋:  炭焼き小屋での一ヶ月が、
 
河内:  黙々と働いている姿だとかね、おっしゃることだとかね。この人に付いていこうということですよ。それは刀はどっかへいっていたね。今思うと、例えばもし宮入昭平という人が能面なんかやっていれば、ひょっとしたらそれやっているかもしれへんぐらい思いますよ、なんか変な話だけども。だからこの人に着いて行こうと思いましたね。
 
西橋:  でも、宮入昭平さんのお弟子さんになるということを、ご両親に告げたら、ご両親は猛反対された?
 
河内:  お袋はね。親父は喜んでいましたよ。宮入昭平という名前を知っていたしね。お袋も知っていましたよ。刀の世界にあるんだから、人間国宝にこんな人がいるというのはね。でも面識もなかったし。
 
西橋:  お母さんは何でそんなに反対だったんですか?
 
河内:  親父で苦労したからでしょう。親父が刀鍛冶だったばかりに、ほんとに苦労したですね。作ってはならない時代でしたしね。
 
西橋:  戦後ですね。
 
河内:  そうです。それ以外にする術がないというかね。子どもが五人いて。刀やっていると悪いことをしているように言われた時代ですものね。親父もはっきり「もう刀の時代はこない」ということを言っていたな。「絶対来ない」ということを僕に何度も言っていました。「もうそんな時代こない」って。当時、ほんとに赤貧洗うがごとし、と。僕も高校時代はあまり裕福ではなかったですから、アルバイトしていましたしね。家族大変だったのは覚えていますよ。
 
西橋:  そうですか。河内さんとしてはすぐ大学卒業式終わったらいらっしゃったわけですね。
 
河内:  そうです。
 
西橋:  その刀鍛冶の修行の第一歩というのは、宮入親方のところではどんなところから始まるんですか?
 
河内:  まあ奥さんの使い走りと庭掃除ばっかりですわ。まず庭掃除ですね。今、僕も弟子たちにいうんだけどね、一番家の中で美しくしなければならないのはトイレだと思うんですね。そこには明るい電気を点けて、「汚いところほど綺麗にせ」と、僕はいうんですよ。「見えないところほど」。そんなことが基本だし、親方はよく、「掃除なんかできない奴が刀出来るか」と、時々言いましたよね。そのことは、僕は今でも本当のところわかっていないかも知れないけれども、一日や二日で掃除できませんよ。庭の草は生えてくるからね。そうすると、毎日少しずつやればウンと綺麗になるんですよ。そういうコツコツした仕事、覚えることだとか、そういう心の構えみたいなものがね―砂の上に家建ちませんよ。絶対建たない。だからそういう意味では、足元を、というかな、綺麗に清潔にして、誰が来られても、それから誰が見てもその人たちが気が休まるというかな、そういう場所にしておかないと刀なんかできませんよ。そんな汚いところでね。それは職人だから刀が非常に優れていて、みていると、人生の生活というか、非常識な生活をしているのが職人の面白いとこみたいな言い方しますね。僕は決してそうじゃないと思いますよ。それは才能のある連中というのは、花火があがるように、やっぱり時々上がりますよ。そのことは「絶対いかん」というんです。人生長いもの。絵描きでも何でも才能のある連中が―ゴッホなんかでもそうなんでしょうけど―いるけれども、そんなものごくわずかですよ。普通の人間がそんなわけにはいかないですわ。そうすると、花火みたいにあがって喜んでいてもあきません。
 
西橋:  宮入親方もその構えと躾から、
 
河内:  そうそう。奥さんもみんなそれは言いましたね。今の子は無理ですけどね―今の子は無理というのは、今の現代の子―僕らも二十三歳から二十四歳ぐらいからでしたから、そんなの初めからできていませんよ。それはやっぱり大人の仕事ですよ。口酸っぱくなるまで言わなければならない人間もいるし、言わんでも聞く子もいますけどね。それでもやっぱりそれは教えたり躾たりするのは大人の仕事でしょうね。
 
西橋:  徐々に宮入親方は、少しずつ刀鍛冶の技術的なことを?
 
河内:  刀は自分が好きで来ているし、覚えようとして来ているからね、黙っていても覚えますよ。
 
西橋:  見て?
 
河内:  見て、それはほんとにほっとけばいいんですよ。他のことをやらせるほうのことが大変ですわ。使い走りだとかゴミ捨てて来いだとか、
 
西橋:  そうすると、河内さんご自身も親方のやることを見て、
 
河内:  そうそう。盗むというやつですよ。そんなの一々言いませんよ。親方は自分の仕事をしているだけですものね。弟子のための仕事なんかしませんよ。だから兄弟子さんと夜ね、仕事が夕方六時頃済みますね。ご飯食べて七時頃だ。親方が「すぐ風呂に入れ」と言うたら入らなければならないんだけども、お風呂に入るまでの一時間ぐらいがあるんですよ。その時にコツコツ仕事を覚える。手鎚(てづち)なんていうのは言われてできることと違うし、向こう鎚だって。言われてその通りしてできるんだったら、誰だって出来ますよ。でもやっぱり体力もいるし、向こう鎚の練習はしなければならないでしょう。いろんなことを自分で覚えるばっかりですものね。
 
西橋:  じゃ、その兄弟子たちと一緒に一時間ぐらいの間にいろいろやるわけですか。
 
河内:  そうそう。毎日ね。親方が仕事を「これ、してみろ」と言いますや。一年か二年経ったら言ってくれるんですよ。その時期が早い子もいるし、いろいろですけどね。その時できなかったら怒りますものね。
 
西橋:  出来ないといけないわけですか?その段階では。
 
河内:  そうそう。「何やっていたんだ!」と言われますわ。でも「一回もさしていない」なんて通りませんよ。自分で覚えていかなくちゃいけませんよ。「させていない」なんて言ったら絶対さしてくれない。親方がいう時には、兄弟子に習ったり自分の身に付けてやっておかないと。親方の仕事を手伝うんですものね。だからそれまでさぼっていたら怒りましたな。僕の兄弟子も怒られていたな。「お前は何んだ。何にも練習していないんか!」って。親方自身は「やれ」なんて言うたことないですけどね。
 
西橋:  それは自発的にやるもんだと。
 
河内:  当たり前ですわ。とにかく掃除だとか刀以外のことはなかなか自発的にやらないものな、みんな。でも、それができるようになるのをみているでしょうし、今思うと。
 

ナレーター:  刀鍛冶の厳しい修行をさして、「炭切り三年、向こう鎚五年、沸(わ)かし一生」という言葉がよく使われます。沸かしは炎を見ながら火の中の鉄の状態を見極める技。真っ赤な鉄が溶ける直前まで感知し、打ち始めるタイミングを判断します。向こう鎚は鉄の温度が下がらないうちに鉄を叩き、鍛え上げる技で全員の呼吸が揃わないと大変危険です。
 

 
西橋:  「苦節十年」というお話がでましたけれども、「炭切り三年、向こう鎚五年、沸(わ)かし一生」という言葉があるんだそうですね。
 
河内:  あるんですね、鍛冶屋にはね。当然炭切りは燃料として松炭を使うわけですが、それはある一定の大きさに切らないと、火の温度が変わるからね。だから同じ大きさに炭が切れるかどうか。大変な量の炭を使うから、それは早く切らなきゃダメですよ。粒を揃えなければならない。それからもう一つは、無駄のないように切れるようでなければいけませんよ。やっぱり下手に切ると粉が出る、崩れて。だからそのことが大事で、まあ一生やる仕事だからね。そんなところで無駄―一本や二本のその時だけのムダだったらいいけど、一生やるんだからね。だからプロの仕事というのはそういうものですよ。だからそんなことを黙ってできるようになるには三年―三年では無理な連中もいるし、
 
西橋:  「向こう鎚五年」というのは?
 
河内:  それは鍛錬する時に。「沸かし一生」という言葉が次ぎにありますが、沸かしというのは、鉄は初め黒いわけですよ。赤める。火の中に入れて真っ赤になってくる。それがずっと過ぎてしまえば溶けるという。そのちょうど赤む、溶ける手前が沸かすという温度なんですよ。だから溶けるでもない、赤んでいるんだけど、過ぎている。単なる赤いだけじゃない。溶ける寸前―寸前よりもうちょっと手前かな。それは鉄によって違うんですよ。鉄の炭素量によって違いますよ。鉄にもいろんな鉄がある。それを、沸かしの言葉がでましたから、最初は「試し沸かし」ということをして、この鉄がどのくらいまで耐えるかなあというかね。どのくらいまでやっていてくっついてくるかなあとかね。仕事ができるかなあ、というとこを見極めるのに、初め「試し沸かし」ということを、二、三回探りながらやっている。よし、ここまで沸くな。この鉄はここまで沸かせばいいな、ということがわかってからまた五、六回やるんですがね。そんなことがわかってくるのに、沸かしは鉄によって違うから一生かかるんですよ。それをくっつけるのに向こう鎚で叩いて仕事をしていくわけですね。沸いている時に叩かなければいけません。冷えたらあかんでしょう。ですからほんとに短時間で、パッと出した時、ドンと叩いて貰わないと困るでしょう。その場所ですよ。端のほうを叩いたら浮きますし、真ん中叩かなければいけませんわね。そうすると、空気が全部出る。それはこっちが指示するわけですよ、手鎚で。その手鎚の調子、音を聞いて、親方が強う叩いたら強く叩く。軽く叩いたら軽く叩く。それから動かしますわ、僕らは鉄敷(かなしき)の上で。絶えず向こう鎚というのは真ん中叩くんですがね。追いついてきたらいけません。つい追いついてきますよ、人間なんて。親方が向こうへ引っ張ったら自分も向こうへいきよるんです。それはいかんですわ。そんなことに動されずに真ん中きっちり叩く。それから三人で打つから。
 
西橋:  こちら側が三人、
 
河内:  そうそう。三人トンテンカンといって、次ぎ親方の手鎚が入る。また次ぎ三人入るでしょう。その時に、真ん中の者なんかタイミング崩したら次ぎ落ちてきますからね。だから、一だって二だって三だってね、ちゃんと合わないと、これはリズミカルでないとあかんですわ。
 
西橋:  なるほど。
 
河内:  そんなことがわかってくるにはやっぱり相当時間がかかるね。
 
西橋:  向こう鎚五年、
 
河内:  僕は左利きだったんですよ。日本の道具というのはみんな右利きなんですよ。例えば鞴(ふいご)でも左手で動かすんだけれども、水桶が右にあったりね。こんなの逆にないですよ。だから二十四歳から右にしたんですよ。ただ下手でしたよ、やっぱりね。
 
西橋:  最初のうちは、
 
河内:  最初も最後も下手ですけどね。最初から右利きの奴みたいに上手(うま)くはいかない。それでよく笑われたし。今でもほんとに記憶にあるのは、鏨(たがね)をもの凄く鎚振り上げて、こんな小さい鏨の頭を叩くんですよ。切る、鉄をね。それ二人か三人でやる時もある。トントンと。それが、有名な研ぎ師の人が―今、人間国宝ですが―東京から自分の弟子たちを連れて、修学旅行みたいなものでしょうね―弟子たちが独立する前に宮入へ来て、こうして刀を作るんだということを見学に来られた。その時、僕、叩かされたわけですよ。それで外してね、失敗ですわ。鏨の柄を叩いてしまうんです、木のとこを。鏨の柄が折れてピューンと飛ぶんですよ。その見学者の足下まで飛んだものな。みんな見ているとこでね。「バカ野郎!」なんて怒られて終わりでしたけどね。「お前は!」なんて。時々外していたから、親方はまたやったかぐらいのことなんですけど。「おめぇはバカ野郎!」と言うたら終わりでしたけど。それはいまだに頭にあるね。やっぱり左利きだったし、体も小さかったし、そんなに力あるわけではないし、大阪育ちだしね。今までそんなに重い物を持ったことがない生活ですやん。
 
西橋:  大学生ですね。
 
河内:  そうです。浪人もしていたし、体も弱っているわけですよ。それで行ったでしょう。別に大学でスポーツしていたわけでも何でもないからね。ひ弱なもんだと思いますよ。他の弟子たちは山形から来ていた上林(かんばやし)(勇二)君だとか、福島県から来ていた藤安(ふじやす)(正博)君、新潟の渡邊(繁美)さん。この連中みんな田植えだとか、稲刈りだとか、そんなことをしているんですよ。やっぱり体使う仕事しています。その三人は少なくともそうでした。僕はなんか何にもしていないものね。だからやっぱり体力も続かなかったしね。
 
西橋:  途中で止めようかなあと思ったことなかったですか。
 
河内:  ありましたよ、何回も。それはありましたね。
 
西橋:  どんな時ですか?
 
河内:  宮入という人は、怒り出したら口きかんですよ。口聞いてくれませんわ。朝、「おはようございます」と言っても知らん顔しているんですよ、庭で会っても。その原因がわからんわけですよ、弟子は。その時やっぱり兄弟弟子に「なんやろうなぁ」と聞くわけでしょう。それ自分でも納得いけへんということもないけれどもね。まあ若い時ですからね。それも僕らは三年ぐらい休みはなかったですからね。結構苦しかって。そうしてきつく怒られたり、自分が悪いのはわかっているんだけれども、言い訳が自分には出ますよね。迷いましたよ。それでも、例えば、〈もう今日、止めようかなあ〉と思う時期があるわけですよ。その時に刀から離れたくないもんだから、昼まで辛抱しようとまず思う、僕はね。昼になって、もう一遍思い直すんですよ。わざとですよ。六時から十二時まで午前中辛抱できたんやから、それは経験を積んだというわけですよ。夕方まで辛抱できる。いったんもう六時間済んでいるから。十二時まで辛抱したのだから、夕方六時まで辛抱してみよう、と。まあ出来るだろう、と。今度、六時間、六時間、十二時間辛抱出来たんやから、明日ももう一遍十二時間辛抱したろう、と思うんですよ。もういったん経験しているから。そんなことして頑張ったですよ。三年か四年経つと、要するに親方の仕事がはっきりと任されるようになりますわ。彼奴おるから便利だ、と。彼奴がおるからやってくれるという。それで任されるようになるともう楽しいですものね。展覧会でも行って、あるいは百貨店で親方の刀が飾ってあってね―それが親方の名前ですよ―しかし、この刀を作るのに、おれがここをやったんだ、と。一から十までのうちのその一つの仕事はですよ。例えば鍛冶押(かじおし)という仕事があって、おれが鍛冶押したんだとか。まあ最初の頃は、この刀を作るための炭切りはおれがやったんだと思ったらそれだけでも嬉しかったな。だんだんそうなると、居れるようになる。だから仕事なんかで、「三日三月三カ年」とよく言いますね。一番しんどい頃ね。その三カ年過ぎればまあ大丈夫でしょうね。
 
西橋:  そういう喜びが少しずつ溜まっていくと、今度は自信になっていくわけでしょうね。
 
河内:  そうですね。認めてもらって、仕事のことで親しく親方から相談受けるようになると嬉しいですわ。「河内、これどう思う」なんてね。「こうしようと思うんだが、どう思う」とかね。「こんなことしたけど、面白いなあ」とか言ってくれると、それは子どもは嬉しいですよ。だからそうなってくると居れますわ。
 
西橋:  対等に扱って貰えているという、
 
河内:  ちょっと一人前に扱ってくれているのかなぁ、と思うと嬉しいなあ。
 
ナレーター:  六年に及ぶ修行を終えて、河内さんは独立を許されます。そして三十歳の時、奈良県東吉野村に現在の工房を構えます。同時に知り合いの紹介で出会った大阪育ちのあや子さんと結婚しました。当時あや子さんはまだ十九歳でした。東吉野の工房で夫婦二人による刀作りの生活が始まりました。
 

 
西橋:  ここで鍛刀場を作り、独立なさると同時に結婚もなさったわけですね。
 
河内:  そうです。それは、僕は時々笑われるんだけれども、人生の中で結婚というのは大きな仕事ですよ。もの凄い影響を受けますよ。えらい力がいりますよ。そんなことは刀に影響しますよ。だから早く済ませないと、刀を作る人生が短くなりますやんか。影響を受けるから。だから要するに、事業というかな、そういうことをするについては、職人として邪魔にならない時期、例えばコンクールが三月にあるのに、前の年の十二月やそんな時に結婚していてね、それを引っ張って次のコンクールに影響ない筈はない。だからコンクールが済んだらすぐ結婚してね。もうそんな計画をいうと人に笑われますけど。コンクールが済んですぐ火入れ式も結婚式も一日なか空いただけでやって、ここで。四月二十九日天皇誕生日、その時に火入れ式をやって、で、一日おいて五月一日に奈良市で結婚式やって、そこからもうすぐ次のコンクールに間に合わせられるというのかなあ。
 
西橋:  奥さんはまだ十九?
 
河内:  そうそう。まだ成人式やってなくて、結婚した時、成人式のお祝いをたくさん持って来ていましたわ。何やと思ったら。だから家内と今喧嘩すると「青春返せ」と言われるものね(笑い)。
 
西橋:  でも、良い相棒として、鍛刀場でもいろいろな手伝いをなさって。
 
河内:  ほんとによくやってくれていますよ。向鎚もしたしね。炭切りは当然もの凄く上手いしね。僕は、要するに炭切りをしてくれる人が欲しかったというのは事実ですよ。まだ弟子も来ないしね。誰か炭切りを手伝ってくれないか、と。僕は炭を切っていて、刀も作っていて、そんなの出来へん。早く炭切りが欲しい、ただで(笑い)。文句言わずに。
 
西橋:  宮入親方は、ここの鍛刀場に何度も見えたそうですね。
 
河内:  そうですね。最初は家を建てている最中に親方に来て貰った。「河内な、ここまで山に入らなくても仕事出来るで」とおっしゃいましたな。「山紫水明というのはこういう土地柄かなあ」と、まあ安心していましたね、山の中に僕が入ったことについてね。で、独立して、二、三年目かなあ、珍しく、「河内、仕事出来たか」と電話がありました。出品刀ですわ。展覧会があってコンクールがあるから、それの二月頃に大体形が決まらないと。三月締め切りなんですよ。いつか忘れましたけれども、その頃に電話掛かってきて、「河内、出来たか」というんですよ。「今年出品出来へんかもわかりません」と電話で言うたんですよ。「バカ野郎!」とガチャンと切ったら終わりでしたわ。怒られたなあというわけでしょう。それから四、五日ほどかして、親方が奈良まで来られて、朝、僕ら大体五時半か六時に起きるわけでしょう。親方それより早く起きてね、炭切っていてくれたですよ。ビックリしましたで。それは僕らは大体六俵ぐらいしか切れないものですよ。ところが十俵ぐらい切ったな、一日に。その時は弟(豊和)が手伝っていてね―まだ弟子来ていなかったなから―弟と親方が二人でこっちで炭切って、僕は鍛練で火を扱っていた。暗くしていますでしょう。まあ一日やっているわけですよ。親方がずっと炭切っていてくれてね。それで僕はトイレ行ったりする時があるから、その時は鞴(ふいご)を弟に吹かせるわけや、パッと変わって。それで吹いていて、真っ暗ですから。僕はトイレを済まして、仕事場へ戻ってくる。すると鞴もの凄く強う吹いているんですよ。僕が弟が吹いていると思っているからね、頼んでいるから。それでパッと交替して、「バカ野郎!強いやないか!」と怒ったら、パッと見たら親方が吹いているんですわ。それはやっぱり試して見ているんやな。僕の火床(ほど)がどうなっているとかね。これでいいかとか、と思いますよ。で、ニコッと笑って、自分は怒られたんだから、僕に(笑い)。そんな時でもやっぱり考えると、一度自分もそこへ坐って吹いてみて、河内の火床(ほど)がどうなっているのかなあとかね。ちょっと強く吹いてみたり、弱く吹いたりしていたんですよ。
 
西橋:  加減をいろいろ、
 
河内:  加減を。夕方になったら―弟と家内が先手をやっていたわけですよ―その時に、僕の弟に、「豊和君、お前片づけろ」。自分が先手やった。向こう鎚を親方自身が夕方六時頃にやってくれた。あの頃親方五十代かなあ、そのぐらいですかなあ。今思うと。僕らえらい年寄りみたいに思っているし、自分が三十歳ぐらいでしょう。まだ子どもみたいなものと思っていたからね。偉い大変な人だとばっかり思っていたけど、今、僕はその歳を過ぎてしまっているんですけどね。それは、例えば僕が弟弟子とこへ行って、そんなこと出来るかと言ったら出来ませんよ。なんとなくキザに見えるし、自然にはそういう行動は取れないですよ、ほんとに。それでも人間国宝だものな、当時。そういう教えというのかな、口で言わないでやって見せたり、それが僕にとっては無形の財産というか、今でも心の支えにしているんですよね。
 
 
ナレーター:  昭和五十二年、師匠の宮入昭平が六十四歳で突然この世を去りました。宮入親方の死は河内さんに大きな影響を及ぼしました。
 

 
西橋:  宮入親方が亡くなった時に、河内さんは右腕のお骨を拾われたそうですね?
 
河内:  そうそう。もうそれはやっぱり悲しかったしね。この腕がこの刀を作りだしたり、この腕がすべてを支えていたり、これが我々に伝わっているんだな、というわけです。こう箸で取るんですけどね。右腕の骨、どれかなと思いましたね。それは考えましたよ。午前中仕事していて、午後三時頃急に亡くなったんですもの。
 
西橋:  突然だったんですね。
 
河内:  鉄敷に手鎚置いたまま死んでいますな。職人としてはいい亡くなり方ですよ。だから職人のまま亡くなられた親方というのは、それはやっぱり親方の死に方ですよ。言うていた通りに亡くなっているわ。
 
西橋:  そうですか。六年間の宮入親方のもとでの修行。それからその後の亡くなるまでの何年間か、宮入親方という人と接してこられたことのもつ、河内さんにとっての意味といいますかね。
 
河内:  それは、この頃辛いのは、親方より僕は長生きしているわけですよ。でも六十四まで、去年、一昨年ぐらいまでは、子育てだとか、それから世間の付き合いだとか、職人としての構えですな。そんな時は迷います、というかね、やっぱり押し流されますよ。いい格好いうていても、物欲しい時は欲しいしね。そんな時は絶えず、〈親方だったらどうするかなあ〉と考えるのが僕の一つの基準なんですよ。すべてにわたって。ところが悲しいことに親方が六十四で亡くなって、僕は今六十五になった。だから初めて去年ぐらいから独立したみたいですね。
 
西橋:  気持の上で。
 
河内:  気持の上で。だから辛いですよ。今のほうがしんどいですわ。それまではどっか心の片隅では―片隅というかな、もうすべてが頼っていましたよ。自分にはこの親方がおる、というかね。だからその人が手本で、やっていれば間違いないだろう、ということを思っているでしょう。だから、誰が何言うても怖いことないんですよ。「何を言うている。親方がこうしたんですよ」と言ったら終わりでしょう。なんかそんなのありますや。でも去年ぐらいから六十五になると、もう親方を越えてしまったからね。だから辛いというか、独立しなければなりませんよ。
 
ナレーター:  既に卓抜した技を認められていた河内さんですが、宮入親方が亡くなったあと、次第に行き詰まりを感じるようになりました。河内さんは意を決して石川県の刀匠・隅谷(すみたに)正峯(まさみね)(1921-1998)に弟子入りを志願します。隅谷は美しい刃文が特徴とされる備前伝の第一人者でした。
 

 
西橋:  四十三歳の時に、石川県の刀匠の隅谷正峯さんの元へ、改めてまた弟子入りなさった。
 
河内:  弟子入りというかね、習いたかったですからね。だからそれは親方生きていたらやっぱりできないわ。で、亡くなられた悲しいことと、自分が行き詰まっていたことと、家内も賛成してくれたことと、いろんな条件があってね。それで人間って、よく「こんなことしていたらあかんやないか。考え改めよ」と言いますや。こんなの改まらないですよ、性格なんて。環境変えれば、ある程度改められる。絶対改められる。環境変えないで、そのままで考え方変えよなんて僕は絶対無理だと思っているんですよ。だからその時期に行き詰まりがあって、それから親方も亡くなったり、自分も―要するに今思うと、厄ですわ、ちょうどよく言ったもんや。四十一、二や。いろんな変化があって、精神的にも大分くびれていたでしょうな、きっと。それで、その時期隅谷先生にお会いすることがあって、大阪へ来てもらってちょっと話を聞いたことがある。で、お会いしてしばらく経ってから手紙書いて、もう行き詰まっていたし、自分も宮入の刀で特賞も六回取っていたかな。で、八回取ったら無鑑査になるんですよ。八回取ってしまったら、それはいわばある程度に達するから誰も教えてくれませんわ。今度、競争相手だけになる。それで六回目ぐらいになった時に、一度、隅谷先生の教えも乞うてみたいと思い出したんですよ。今やっておかないと、また来年特賞取っていったら、もう誰も相手にしてくれなくなるからと思ったりしてね、先生に手紙書いた。まあハッキリ断ってきましたわ。我々は相州伝、隅谷先生は備前伝をやっていた。備前伝が習いたい。「お前は相州伝では俺より上だ」とハッキリ書いてあったな。「だから教えることなんかないから」と断ってきた。
 
ナレーター:  備前伝の人間国宝・隅谷正峯に何度も弟子入りを断られた河内さんは、昭和五十九年ついに東吉野の工房を一旦閉じて、家族と一緒に石川県に移り住みました。当時結婚して十三年目になるあや子さんとの間には四人の男の子がいました。あや子さんは夫の行き詰まりを理解し、新たな弟子入りに賛成したのです。
 

 
河内:  お袋なんかでも「単身で行け」と。「子どもも友だちがいっぱい出来ているんだし、で、時々帰ってきたらいいやないか」と。でもそれは違うと思った。家族が一緒にやることで、将来何かあった時に相談も出来るし、というふうに考えていたから、苦労するんだったら一緒に苦労する。楽しみも一緒にやる、というのが僕の考えだから、連れて行く、と。もう一つは、ひょっとしたら十年かかるかもしれませんや。違う仕事だし。それは自分も経験しているからわかっていて、行った以上はものになってこなければムダだし、覚悟もしていたし、十年以上かかるかも知れん。あるいは一生そっちにいなければならなくなるかもわからんしね。そんな覚悟はしていたからね。それこそライトバンにいっぱい荷物積んで行ったんですよ。先生はまだ別に入門を許すわけでもなんでもないわけや。それでも見せて欲しい、と。アパート借りて。もう仕事見ていると、僕もできるわけだからね。そのうちに親しくなってきてね。「やるか」という話になるでしょう。そんなこと狙いで行って、無理矢理に入れてもらった。近くでアパート住んで。で、それこそ自分で刀やらないから、見ているだけだから。家内はアルバイトに電気屋に行って、子どもたちはみんな新聞配りしてね、それでまあ支えてくれたですよ。それは良いことですよ―良いことというか、僕は全然稼がないんだからね。自分の刀作らないんだものね。で、でも一年半ですかな、その時に展覧会用の刀を―また正月を吉野へ帰って来て、ここ吉野でやって、それで自分の下仕事をしてして、隅谷先生のところではやきば土とか、土の塗り方なんかが備前伝というのは違うもんでね、それを教わりたかったからね。まあ盗むというわけですよ。要するに先生のを見ていて。それでやってみて出品したら、文化庁長官賞、やっぱり特賞取れたんですよ、その時は。で、こっちも若いからだろうなあ、強気になってくるというかね。僕はちょっと特賞取れたし、子どもがちょうど中学三年になったのかな、二、三年生ですよ。受験のこともボツボツ出てきて苦しいなんて考えていてね。先生自身もなんか迷惑そうになっているしね。思い切って、特賞取れたから、やきば土大体自分でわかったというわけですよ。帰りたいと言うてみたら、「おお、いいぞ」とおっしゃるんですよ。だから結局向こうには一年半。それで二年続けて特賞取ったのかな。帰ってからも備前伝で今度はね。それで無鑑査になったんですけどね。
 

ナレーター:  その後、河内さんの工房には、刀鍛冶を目指す若者たちが全国から集まってきました。宮入親方譲りの厳しい修行によって六人の若者を一人前の刀鍛冶に育てあげました。今年も春から二人の若者が河内さんの工房で修行を始めています。
 

 
河内:  僕のとこは、まず「入門したい」と言って来ますよ。僕の有利なことというのかな、みんな押し掛け弟子ですわ。こっちから手を挙げて「来ないか」と言わない。それから募集なんかしたことない。それでも来たいという連中でしょう。だから押し掛け弟子だから言うこと聞く筈ですよ。まず止めてもいいんだから。それでその時の条件に、「カラスの頭が白いと言ってもウンと言えるか」というのが、僕のただ一つの採るための条件ですよ。あと細かいことは「朝早く起きろ」とかなんかいうけれど、そんなことは躾のうちで、
 
西橋:  親方が「カラスの頭が白い」と言っても、それは納得できるかと。
 
河内:  そうそう。要するになんでも聞け、ということですわ。それは、決して個性をつぶしてはいけないから、一生そんなこと続かせるわけじゃない。まあ三年ですわ。何にも知らないのに、自分で考えたってあきませんよ。まず職人なんていうのは、真似することから、言うことを聞くことから始まりますね。
 
西橋:  これまでに大勢の内弟子志願の青年たちが来て、どうでしたか?
 
河内:  もうつくづくね、方程式はないな。こいつがましだと思った奴がダメになったり、こんな者がものになるのかな、と思ったやつが良くなったりね。人間ってわからんもんですわ。期待したらダメになる。期待しなかったら上手くいく。その途中もあるし。決められないな。大人になって―大人になってというかな、先輩として時々説教してみたり、文句言ってみたり、というけどね、実は方程式ないな。わからん。人間というのは難しい。だから学校の教育で三十人も一遍もよく教えていると思うがなあ。僕は精々多くて六人ぐらい。それみな個性が違う。そんなの教えられっこないわ。だからそれはやっぱり基本みたいなことさえしっかりさしておけばいいな。火造(ひづくり)というて、刀の形を作ったりするのは、こんなのは一本より二本目は上手くなりますよ。二本目より三本目上手(うま)くなる。だから私の家で教えなくても、もし自分で刀作りだしておったら勝手に上手くなりますよ。ところが僕が教える一つの方針としては、自分が独立してからできないこと。例えば弟子生活できませんよ、親方だから。そうすると、向こう鎚はしないわ。銘を切ったりする刀は字を書くことも大事だから、銘を切ったりするのも、練習なんかしている間なんかないですよ。だから、この二つは、僕、弟子の間に徹底して教える。後のことは自分で学んでくるし、一本目より二本目上手くなる。二本目より三本目上手くなる。なると思いますよ、心懸け次第でね。それは教えなくても勝手に上手くなる。十本もやれば上手くなりますよ。だからそれはいいんだけれども、向こう鎚だとか、親方仕事になってしまうと弟子の仕事ができないから、そういうことは徹底して教えておくというかね。
 
西橋:  美術品としての日本刀の位置付けを考えた時に、刀匠・刀鍛冶の技だとか、心を伝えていくと、これからもずーっと、
 
河内:  伝承ね。
 
西橋:  伝承ですね。そのことはやっぱり常に考えておられる。
 
河内:  これが一番難しいわ。とにかく時代が変わるものね。それに合わないと本来生活はしづらいでしょう。その時代に生きているんだからね。だからちょっとキザな言い方だけども、刀を作る以前にその時代との葛藤がしょっちゅうある。ほんとはこんなことしたくないんだけども、やらざるを得ん。だから刀はその時代にのって生活するものでもないですからね。合わすわけにもいかない部分が多いですよ。そのことのほうが難しい人生でしょうね、伝統工芸やる人は。だから、例えば具体的にいうと、今、土日休みであったり、祭日が長かったりすると、そんなことしていて学べる仕事ではないですもの。だからそこでみんなが休んでいるのに休めなかったりね。やむを得んですよ、仕事を始めたら、そんな連休だから途中で休めるわけにもいかへんし。で、基本的には季節によって仕事をしていますよ。昔、刀の銘には「二月」「八月」という銘が非常に多いんです。それは今の「三月」「九月」ですよ。そうすると、彼岸の頃、要するに気温と水の温度が同じ頃なんですよ。その頃に焼き入れをするんですよね。そうすると、失敗しない。その時に連休があって、「休んでいるから」とか、「土日休みだから」なんてこしおられるのは辛いでしょう。良いものできっこないんだから。要するに刀を作る仕事に合わせて休みにせざるを得んでしょう。それは若い子にはなかなか耐えられないわ。土日休みの癖がついているから。朝起きるのが遅いし、夜型でしょう。僕のとこは、今は五時二十分頃に彼らは起きているのかな。僕は、「六時までには起きろ」と。僕が、「六時と言ったら、それは五時五十分だぞ」と。「今日は九時から、例えばどっかへ行くとか、八時に家を出るぞ、と言った時は八時十分前だぞ」ということですよ。常識ですよね。そういう言い方しているので、彼らはみんな早く起きてやっていますよ。そこへ慣れるまでにやっぱり何ヶ月かかかるわ。ほんとにかかりますよ、若い子は。一々起こしてね、朝僕のほうが、「親方が先起きているなんてあるかい」と、僕は怒るし、兄弟子より弟弟子が後で起きるなんて考えられないからね。それが躾でしょう。日本の一つの形ではあるんですよ。で、それは徒弟制度の良いとこですわ。だから、僕は、「徒弟制度を残せ」とは言わないけれども、参考にして、今の日本の風土に合った長い間の「躾」と「構え」を学ばせた方法だから、それを少し今の教育にも取り入れてみたらと思う。具体的にはわかりませんよ、専門家でないからね。わからないけれども、もしそういうことを参考にしながら教育をやってみたら、日本の風土の中で育つんだから、かなり良い線いくんじゃないかと思いますよ。
 
西橋:  大切なのは「辛抱」と「努力」だ、と。
 
河内:  大切というか、よく世の中に「素質」という言葉がある。「生まれながらに持っている」ということを言いますね。でも、じゃ、ない者は全然ダメなのかという話になるけれども、もし「素質」という言葉をもう少し噛み砕いていうと、それは「努力と辛抱できる性格を持っていたら、それはイコール素質だ」と思っているんですよ。だから、この二つを足せば「素質」と言える、と。だから二つやれというわけで。そんな「素質」と言われて、自分でないなんて自覚してみたらできませんよ。どんなことでもね。よく言うじゃありませんか、「この人まで、例えばイチローまではいかないけれども、近づくことはできる」という言葉があるでしょう。僕、その言葉は好きですよね。「そこまで到達しなくても近づくことはできる。限りなく近づくことができる」という。それは「努力」と「辛抱」ですよ。
 

 
ナレーター:  刀匠・河内國平さんは、鎌倉時代から南北朝にかけて作られた日本刀がもっとも完成されていると考えています。その当時の刀を目標に河内さんの刀作りへの挑戦は続きます。
 

 
西橋:  その刀の面で、河内さんが目指すところというのは、どういうところですか?
 
河内:  それは鎌倉期の刀なんですよ。それは相州伝、いろんな伝があって、流派があるんですが、宮入はやっぱり正宗の弟子で志津(しづ)という人がいるんですがね、その辺を目指したようですよ。僕もやっぱりそれは教わった限り、親方が到達できなかったところへ到達したいと思いますね。まあ平たくいうと、人に感動を与えるというようなというか、その人がほんとに好んで見てくれるようなもの、それは歴史から見ると鎌倉の末期から南北朝にかけてかな、鎌倉中期も面白いし、
 
西橋:  河内さんは夜なんか一人でご自分の刀を見られることはあると思うんですけれども、そういう時はどんな気持になられますか?
 
河内:  なんかわざわざ見るというんじゃなく、もの凄く見たくなるんですよ。それはまあ当然研ぎ上がってきた時だとか、パッと見るんだけれども、その研ぎ師の人と話しながら、さんざんいろんなこと言われてみて、「これが良かった、これが悪かった」という見方するでしょう。ところが猛烈に引っ掛かることがあってね、よくわかりませんけどね。ご飯食べても早く見たい早く見たい。もう一回見直さなければならんとかね、ありますよ。それはしかしさっき言ったように、刀であるからというよりも、自分のまあいえば作品だからね。それが世の中にもし悪いものを出せば、それはずっと恥かきながら、その刀が手元から離れるわけだから、それは難しい。というのは、物を作るということは、良い物も出来る。悪い物も出来る。しかし一番多いのはこの真ん中ですわ。どっちでもいいというか、悪いこともないけども、良くもない。これの数が一番多い。これをどこまでレベルを高くする―基準をね。それが高い人がやっぱり名工と言われているんでしょうね。しかしそれが低くて、この辺まででもいいわ、という自分の作品に厳しくなくてやっている人たちは、仕事は上手くても名工とは言えないね。僕は名工であるとか名工でないとかという判断は、上手い下手ではないと思っているからね。志がどれだけ高いか低いか。そんなの職人だもの、十年もやったら大体誰でもできるわ。そんなに難しい仕事じゃないです。親方も良くいわれたわ。「それぐらいの仕事はいつでもできる」と。買ってもらうようないいものを作ろうとするから失敗がでる。
 
     これは、平成十九年七月八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである