悲しみをこえて―銃で息子を失った母として―
 
                       出 演 服 部  美恵子
                       ききて 石 澤  典 夫
 
ナレーター:  一本の桜の木の前で、アメリカの高校生たちに語りかける母親がいます。名古屋市に住む服部美恵子さんです。
 

 
服部:  桜の木。一九九三年に植えられたんですけど、その頃はこれぐらいの高さで、ごくほっそりした木だったんですけど、今これだけ大きくなりました。事件があった時に植えられたんですけど。
 

 
ナレーター:  この桜の木は十五年前、アメリカで銃の犠牲となった美恵子さんの息子を悼んで植えられました。世界から銃による暴力が無くなるようにという願いが込められています。美恵子さんの長男・剛丈(よしひろ)さんです。一九九二年、アメリカ留学中に銃で撃たれ命を落としました。ハロウィーン(Halloween:万聖節の前夜:十月三十一日の夜)のパーティで、訪ねた家を間違い、不審者だと疑われたのです。当時高校二年生でした。日本の高校生が留学中に銃の犠牲となったことに大きな衝撃が走りました。事件は、日常生活に銃が溢れ、銃による犠牲者が後を絶たないアメリカの銃社会の現実をまざまざと見せつけたのです。突然一発の銃声に最愛の息子を奪われた美恵子さんは、行き場のない怒りと悲しみを抱え、銃のない社会を目指す活動を続けてきました。アメリカの家庭から銃の撤去を求める署名運動や銃の犠牲を考える講演会など、活動は十五年に及びます。
 
 
服部:  署名運動をやりまして、むしろそれはですね、私を癒してくれたような存在だったんですね。それをやっていなければほんとにおかしくなってしまう。私にとってはそういう運動だったんです。何かこうしてやらなければならないという、気がおかしくなるような気持でやっていました。
 

 
ナレーター:  服部さんの住宅は名古屋市の郊外の住宅地にあります。
 

 
石澤:  ごめんください。NHKの石澤でございます。今日はよろしくお願いいたします。
これはいくつの時の写真でしょうか?
 
服部:  これは一九九二年ですので、十六歳ですね。
 
石澤:  高校二年生ですか。
 
服部:  ええ。アメリカで撮った写真です。
 
石澤:  そうですか。
 
服部:  お父さんとお母さんが送って下さって。
 
石澤:  なかなか精悍な感じのする。
 
服部:  そうですね。元気の良い子でしたね。
 
石澤:  そうですか。この頃というのは高校時代何に一番夢中になっていらっしゃったんですか。
 
服部:  そうですね。
 
石澤:  勉強もやっていらっしゃったでしょうけど(笑い)。
 
服部:  身体を動かすことが凄い好きな子で、スポーツはずーっとやっていたんですけどね。ラグビーを始めまして、筋肉トレーニングとかね。
 
石澤:  これはその時使っていたボールですか?
服部:  使っていたんじゃなくて、亡くなった時にラグビーのお友だちが「棺の中に納めて欲しい」と言って持って来て下さったんですけど。
 
石澤:  随分いろいろ書いてくれていますね。
 
服部:  ええ。ただこんなに良い子だったかなとか思って(笑い)。知らなかった子どもの一面がこう亡くなってから見たような感じがしますね。
 
ナレーター:  剛丈さんは、一九七五年、父・政一さんと美恵子さんの間に生まれました。姉と弟の三人兄弟として育ちました。自宅で英語塾を開いていた美恵子さんの影響で、剛丈さんはアメリカに憧れを持つようになります。高校二年生の時、海外留学を募る国際交流団体の試験に合格、アメリカに旅立ちます。
 

 
服部:  二十年ほど前ですけれども、ミネソタから家にホームステイしていた子がいるんですね、二年間。まだその時剛丈は五年生だったかな。あんまり影響を受けるのは少ないかなあと思っていたんですけど、その子の影響を随分受けて、アメリカに興味が湧いたんだと思います。だんだん行く日が近づいてきますと、語学学校へ行きだしたりして、男子と凄く心配していたんで、「じゃ、行ったら」と言ったら、「うん。行く」という感じで、凄く熱心にやっていましたね。
 

 
ナレーター:  一九九二年八月、剛丈さんは、アメリカ南部のルイジアナ州でホームステイを始めました。日々体験したこと、感じたことを、日記や家族に宛てた手紙に綴っています。初めて見るアメリカの雄大な自然に触れた時の感動、優しく接してくれる仲間への感謝、そしてたくさんの友人ができたことの喜び。十六歳の剛丈さんは、憧れの国、アメリカを全身で感じ取っていました。どんな気持でアメリカに留学をこころざしていたのか、書き残した言葉があります。
どの国へ行くにしても、その国を「第二の故郷」と堂々と呼べるようになれば素晴らしい
 
剛丈さんはアメリカを第二の故郷にしたいと考えていました。しかし、留学を始めてわずか二ヶ月後、事件が起きました。ハロウィーンのパーティに招かれた剛丈さんは、訪ねる家を間違いました。不審に思った家の主は、剛丈さんの胸に向けて銃を発砲、病院に運ばれる途中、息を引き取りました。
 

 
石澤:  辛い話を伺いますけれども、そもそもこの事件をお聞きになった時というのは、どんなふうにだったんですか?
 
服部:  そうですね。私が外出をしていて、夕方帰って来ましたら、親類の者が集まっていて、様子がおかしくって、みんなしょんぼりした、なんか下向きの顔をしていて、主人に呼ばれて、「ちょっと座れ」と言われて、「剛丈は」と言った時に、〈あ、これは何か〉と。「銃でやられた」というふうに聞いた時は、ほんとに・・・今も思い出しても、どんなに例えていいかわかりませんけど。まあその日は息子の部屋へ行って、泣いているうちに、何か寝てしまって、夜が明けた、ということを覚えておりますけれど。
 
石澤:  実際、アメリカに遺体を引き取りに行くわけですけど、行く飛行機の中の時間というのは長かったでしょうね。
 
服部:  そうですね。泣くしかなかったですね。
 
石澤:  泣きながらも、どんなことを頭に描いていらっしゃったんでしょう。
 
服部:  どうしてこんなことになってしまったんだろうとか、自分の責任が大きいなとかね。
 
石澤:  奥さんご自身の?
 
服部:  ええ。やっぱり私が行きたいなと思っていた国でもありましたし、その夢を託して成長して、行った国でそのような事件になってしまったということでね。それからアメリカの銃の状況というのを何も知らせずに、的確な情報を与えずに送り出したという、その親の責任というか、それを凄く感じていましたので、〈あ、私が殺してしまったんだな〉というふうに思いました。
 

 
ナレーター:  悲しみのどん底で、美恵子さんは一編の詩を書きます。
 
     YOSHI あなたは
     どこへ行ってしまったの
     一発の銃声が
     すべてを消した
     あなたは
     アメリカが好きだった
     でもアメリカが
     あなたを殺した
     私たちは
     どうしたらいいの
     教えて YOSHI
     私たちに
 

 
服部:  そうですね。あの時はほんとに遺体を引き取りに行った時の気持だったので、アメリカを選んで、アメリカが好きだと思って行った息子に対して、どうしてこういうことをしてくれたんだ、という、そういうやはり攻撃的な言葉ですよね。今のようにとても平静に見ることができない。ほんとに子どもを失ったばかりの混乱した凄い悲しい、アメリカを恨む気持というのが出ていると思います。
 
石澤:  お二人で、まさにその最愛の息子さんの変わり果ててしまった姿を見てしまった、その時はご主人はどういったらいいですか。
 
服部:  そうですね。私と比べるとやはり主人のほうがしっかりしていたと思いますし、「私が殺しちゃった」というふうに言ったんですよ。私の責任が重いという意味ですけど。そうしたら、「そんなこと言うんじゃない。自分で選択していく年齢になって、自分で行ったんだから」ということを言ってくれたんで、ちょっとまあ気が軽くはなりましたけれども。有り難い言葉だったな、と思っています。
 
石澤:  それほどのショックを受けたけれども、その後の、言ってみれば立ち直り、立ち上がりと言いましょうか、端から見ていると、随分と勇気を持ってね、帰りの飛行機の中で気持を変えていますよね。
 
服部:  そうですね。あの時はほんとに不思議な体験というか、不思議な時間を持ったんで、なんか息子がすぐ傍にいて、〈そんなに泣いてばかりいちゃダメだよ。僕のために何かしてくれ〉と言って。なんかそんなふうに言っていたような気がするんですよね。
 
石澤:  それはいつどんなふうに思われたんですか。
 
服部:  息子は貨物室と言いますか、下のほうにおりましたね。主人を見たら主人は寝ていまして、それから通訳の方も二人付いて行って頂いたんですけれども、その方たちも寝ていました。それから他の乗客も全部ぐっすり寝ていらっしゃって、私だけどうしても眠れなくって、頭が寝ようと思えば思うほど冴えてきてしまってね。そういう時間だったんですけど、その時にふっとそういうふうに思ったんです。〈何かしてくれ〉と言っているような気がして。
 

 
ナレーター:  何かしてくれ、という剛丈さんの声。それに応えようと、美恵子さんはアメリカに銃の規制を求める署名活動を始めます。告別式に訪れたすべての人に、アメリカの家庭から銃の撤去を求める請願書を配り、署名を依頼しました。請願書には、「憎むべきは犯人よりも銃の所持を許しておくアメリカの法律である」と記しました。悲劇を繰り返さないためにも、アメリカの銃社会を変えたいという思いからです。服部さん夫婦の呼びかけに、日本にいる外国人留学生も加わり、全国に協力の輪が広がっていきました。
     YOSHI あなたは
     どこへ行ってしまったの
     一発の銃声が
     すべてを消した
     冷たくなった
     あなたを見ても
     まだ母さんは
     信じられない
     来年の夏
     大きなボストンバックと
     おみやげを持って
     帰ってくる
     母さんはそんな気がする
     帰ってきて YOSHI
     あなたはアメリカが
     好きだった
     でもアメリカが
     あなたを殺した
     私たちはどうしたらいいの
     教えて YOSHI
     私たちに
 

 
石澤:  その反応についてはどうでしたか?
 
服部:  ほんとにビックリというか、成功するとか、そういったことはまったく考えないで、何かこうやりたいという思いですよね。何かやってやらなければ気がおさまらないというか、親としての気持ちもおさまらないということで始めたんで、成功とかそういったことはまったく思ってもいなかったんですけれども、ほんとにいろんな方が署名をくださってビックリ致しました。
 
石澤:  そういったことをやるまでは、そういう運動とかはおやりになったことはなかったわけでしょう。
 
服部:  そうですね。何かしないではいられないという。何かすることによって、生きていくことになられるというか、自分自身がどうしていいかわからないような状況だったものですから。それが運動するということがむしろ随分自分を癒していくのにつながった、と思います。
 
石澤:  剛丈君が亡くなって、そんなに日も経たないうちに、そういう運動が起きるんですが、そこでお書きになった文章が、日本的なもの言いをすれば、「罪を憎んで人を憎まず」というようなスタンスだと思うんですよね。アメリカの銃社会が問題なんだ。よくその段階でそういうふうに自分の気持ちを切り換えられたんだなあという思いがするんですけれどもね。これ一般的に考えれば、〈犯人が憎い、アメリカが憎い〉って、そう思ったって別に不思議じゃないし、責められることじゃない、と思うんですけどね。
 
服部:  そうですね。やっぱり「息子が何かしてくれ、といっている」というふうに、さっき言いましたけど、憎んでいると気持が逸れてしましますよね。やはり銃規制を進めるということに意識を絞ってやっていきましたね。
 
 
ナレーター:  犯人を憎むのではなく、アメリカの銃社会を問題にする。そこには一人のアメリカ人女性との出会いがありました。ドロシア・モアフィールドさん。一九七六年、強盗に息子を銃で殺されたことをきっかけに、銃の規制運動に立ち上がりました。ドロシアさんは、美恵子さんのもとを訪ねて、銃で息子を失った同じ母親として励ましました。
 

 
石澤:  ドロシアさんとの出会いは、とても奥さんにとって大きな支えになったんだそうですね。
 
服部:  そうですね。ドロシアさんという方は、やはり息子を銃で亡くされて、コンビニインストアで事件に遭われたんですけれども、一年間ぐらい犯人を殺してやりたいという、そういう思いにとらわれて、苦しくて苦しくてという一年を過ごされたんですけど、一年ぐらい経った頃に、犯人を殺せば、すむほど家の息子の命は軽くない、というふうにふっと思われて、その後銃規制運動に走られて、その方の話を聞きましてね、私とよく似ておられる方が見えるということで、私も犯人を憎むよりは、むしろ別のことをやり始めようとしておりました。「どうして犯人のことがそんなに憎くないの」というふうに、おかしいという人はおりましたけれども。
 
石澤:  憎くないわけはないんですね。
 
服部:  憎くないわけはないんですけれど、憎んでいるとやりたいことができないというか、息子のために何かしてやれない、というふうに考えたものですから、憎む暇がなかったというか。よく似ておられる方が前に現れたんで、その点ほんとに嬉しかったし、今後の私の指針になりました。
 
石澤:  私の思いは決して間違ってはいなかったんだ、と。
 
服部:  そうですね。
 
石澤:  確かめられた、ということですね。
 
服部:  ええ。
 
石澤:  当時さまざまなメディアで、お母さんの姿を映したそのことについて、「泣かないお母さん」というふうに、まあ言ってみれば非難めいたこともあったそうですね。
 
服部:  う〜ん。時々電話でも中傷を受けましたし、
 
石澤:  そうですか。
 
服部:  ええ。でもね、すごく亡くなった直後から飛行機に乗って向こうの方に渡って、その辺りはほんとに一生分の涙を流してしまったというか、そして帰りの機内で請願運動を決意したんですけど、もう仕事をしなければという、息子の仕事を手伝わなくちゃと思った時から、涙がピタッと止まってしまって。
 
石澤:  泣いてなんかいられるか、と。
 
服部:  そうですね。泣いていては何も出来ませんよね。
 
石澤:  それも家に帰っても、ということですか?
 
服部:  そうですね。家に帰って時々一人になったり、車を運転したりすると、ドッと涙が出てくる日々が続いたんですが、でも人の前で泣いたことは一度もありませんね。子どもたちの前でもやっぱり泣いたことがありません。
 

ナレーター:  事件の半年後、美恵子さんは改めてアメリカの銃社会の現実に直面します。剛丈さんを撃った男性が、刑事裁判(東バトンルージュ郡裁判所)で無罪となったのです。男性は見知らぬ人が家の敷地に入って来て、恐怖を感じたと主張。陪審員は全員一致で正当防衛を認めました。
 
(アメリカ人へのインタビューから)
 
質問: 無罪判決をどう思いますか?
 
応答者A: よかったと思います。
 
応答者B: 知らない人が侵入してきて、止まれと言っても、止まらなかったら、どうすればいいの?
 

 
石澤:  アメリカでの銃社会の動きを見ると、一つの目安として裁判の行方があるわけですけれども、結果としては被告は無罪になったんですね。
 
服部:  そうですね。信じられないことでしたよね。家の息子はノックをして、で、そして向こうの奥さんがビックリして、ご主人が別のドアから「フリーズ」と言って発砲して亡くなったんですけど。そういった状況を無罪にするというのは、日本人ですから、とっても理解ができませんでしたね。被告そのものよりも、やっぱり被告の行為を無罪にしたという人たちに対する怒りというのが強かったですよ。どうしてこういうことをしちゃうんだろうという、そういう気持の方が強かったですね。
 

 
ナレーター:  裁判での無罪評決。その怒りと悲しみから救ってくれたのが、署名とともに全国から届いた多くの手紙でした。その数千五百通あまり。美恵子さんはそのすべてに目を通しました。そこには最愛の息子を失った母親を思いやる温かな言葉が綴られていました。「微力ですがお力になれるかと思い、筆をとりました」。同じ世代の子どもを持つ母親からの手紙です。アメリカの銃社会に立ち向かう美恵子さんを力強く応援する手紙も数多くありました。「アメリカという大きなものが動くような気がします。慰めではなく、エールをお送りしたいと思います」。
 

 
服部:  圧倒的なのはお母さんからのお手紙が多くって、子どもを持っているので、ほんとに気の毒でした、というということで、自分の身になって考えてくださって、そんなことがあってはならないということで、署名と一緒に頂いたお手紙ですね。同じように悲しんだ人がいるということ、そしてちゃんと私たちに手紙を書いてくれた人がいるということ、凄い共感してくださる方がいるということで、励ましになりましたね。癒しというか、お薬というか、そんなものだったと思いますけど。少しずつ私の気持ちが癒されていくお薬というか、そういう役割を果たしていたと思いますけど。
 

ナレーター:  悲しみに打ちひしがれそうになると、こうした手紙を取り出して何度も読み返したといいます。
 

 
石澤:  思わず涙してしまうような嬉しいお手紙もやはりおありだったでしょうね。
 
服部:  そうですね。特にそれほど親しくしていた方じゃないですけれども、ちょっとした知り合いの方からお手紙を頂きました。その中に、「一粒の麦」という言葉があったんですね。「あなたの息子さんは一粒の麦だ」という言葉がありまして、その言葉にほんとに「そうだ」というふうに思いましたね。
 

 
ナレーター:  それは聖書の言葉でした。
 
     一粒の麦が地に落ちて
     死ななければ
     それは
     ただ一粒のままである
     もし死んだなら
     豊かに実を結ぶようになる
       (ヨハネによる福音書)
 
尊い目的のために自らが犠牲となったイエス・キリストの言葉です。
 

 
服部:  「一粒の麦」というのは、一粒の麦が死ななくて生きていればたった一つの麦なんですけど、それが地面に落ちて、そして土の中に入って、芽を吹いて、たくさん実を結ぶ、という、そういう意味なんですけどね。文字通り家の息子も死んでしまったんですけど、死んだことによって、やっぱりなんかどっかがよくなるという、そういう仕事ができれば、死んでしまったけれども、実を結ばせることができるかな、という、そういう意味で凄くピタッとした、気持にはまった言葉だったと思います。自分の気持ちが後押しされるというかね。クリスチャンのバイブルの言葉ですけれども―私はクリスチャンではありませんけれど―ほんとに素晴らしい言葉だな、と思いました。慰めにもなりましたし、後押しもしてくれる言葉になりました。
 

 
ナレーター:  事件から一年後の一九九三年十一月、アメリカに渡った服部さん夫婦は、二百万近い署名を持ってクリントン大統領を訪ねました。美恵子さんは、銃規制を求めるワッペンを大統領の胸に貼り、悲劇を二度と繰りかえさないでほしい、と訴えました。その同じ月、アメリカ上院は、「ブレイディ法案(銃規制法)」を可決します。この法律によって、銃を売る際に、購入者が犯罪歴を持っていないか、麻薬中毒者でないか、などのチェックが義務付けられました。連邦レベルでの銃規制強化としては、二十五年ぶりのものでした。服部さん夫婦の活動がその実現を後押しした、と言われています。
 
 
(服部夫妻がクリントン大統領に面会したときの言葉)
 
クリントン大統領:  法案の可決は米国民にとって感謝祭のすてきなプレゼントになった。
 

 
 
石澤:  クリントン大統領に直接お会いになって、その思いを告げられるわけですけれども、どんな印象をお持ちになりましたか。
 
服部:  そうですね。和やかな表情で出迎えてくださいまして、ほんの少しで終わると思ったんですね。ちょっと署名の一部をお渡しして、そのまま帰るつもりだったんですけれども、招き入れてくださって、
 
石澤:  大統領執務室ですか?
 
服部:  そうですね。日本から持って行った写真とかも一緒に見てくださって、そういう時間も持ちました。
 
石澤:  具体的に大統領はなんか言葉がありましたですか。ワッペン付けてもいいですかっておっしゃった時、
 
服部:  ええ。銃規制の「銃はNo」と書いてあるワッペンですけど、「それを付けてもいいですか」と言ったら、「sure」と言って、「勿論ですとも」という感じで言ってくださったんで、たぶん初めての人だと私は思います。
 
石澤:  そうですよね。だってアメリカでは銃社会を支える力って、相当大きなパワーになっていますからね。それをしかし日本から来た母親の言葉を受けて、「sure」と言ったんですから。
 
服部:  そうですね。
 
石澤:  正直どんなお気持ちだったですか。
 
服部:  〈やった!〉という感じですよね(笑い)。なんか通じたという感じですね。
 
石澤:  やっぱり傍に剛丈君がいるんだぞ、一緒に来たんだぞ、という感じですか。
 
服部:  そうですね。一緒に執務室に入っていくという気持で入らせてもらいましたけれどね。
 
石澤:  そしてお母さんたちの動きが、いわゆるブレイディ法案(銃規制法)を可決させる後押しした力になった、というふうに言われておりますけれども。
 
服部:  そうですね。ほんとにその時は嬉しかったですね。目に入る形で何か成果がでたということで、「剛丈君の死が無駄にならなかったね」ということで、主人と喜びました。
 

 
ナレーター:  アメリカの銃社会を変えるために、次の世代を担う若者たちに訴えたい。事件の翌年から服部さん夫婦が中心となって、アメリカの高校生を日本に招く活動を続けています。今年もアメリカから四人の高校生がやって来ました。みな事件が起きたルイジアナ州で、日本語を学んでいます。四人は愛知県内の家庭に二週間ホームステイをします。銃を持つことを厳しく規制している日本の社会を実感してもらうことが狙いです。剛丈さんが通っていた高校です。美恵子さんはアメリカから招いた高校生を必ずここに案内することにしています。校庭の一角にある一本の桜の木。剛丈さんが亡くなった後、銃のない社会を願って植えられました。その木を前に事件のことを忘れて欲しくない。銃のことを考えて欲しいと美恵子さんは若者たちに語りかけてきました。
 

 
服部:  今これだけ大きくなりました。事件があった時に植えたんです。凄く大きくなっちゃっているんでビックリしちゃったんですけど、まあこれだけ時間が過ぎたということなんですけど。
 
アナ・ジャクソン: 剛丈君が生きていたら十五年間でいろんなことができたのに、私は銃規制についてあまり考えず、アメリカはこんなものだと思ってました。
 
コリーン・プリモー: (美恵子さんが)十五年も闘い続けていることに驚きました。普通はあきらめるか、ペースを落とすのに、ずっと闘い続けるなんて、
 
 
ナレーター:  美恵子さんは、これまでアメリカから招いた高校生は四十五人になります。みな剛丈さんと同世代の若者たちです。
 

 
服部:  やっぱり私たちの思いをこちらに来る学生に訴えたいとか、あるいはアメリカの学生たちは銃の所持を当たり前にしているものですから、銃の所持を認めない日本に来て、どんなふうに思うかとか、そういった異文化ですね、異文化体験を是非して貰いたいなあと、そういうふうに思って始めましたね。高校生の時期というのはまだ固まらない時期で、それなりに中学生よりもほんとものを考える時期に入っているので、時期的にいいですし、

 
ナレーター:  この日、美恵子さんと四人の高校生は、愛知県安城市(あんじょうし)にある高校を訪ねました。この高校では、吹奏楽部が中心となって美恵子さんの講演会を開くなど、高校生の立場から銃について考えてきました。美恵子さんは、アメリカの高校生と日本の高校生が直接会って、銃について考える機会にしたいと思ったのです。

 
日本学生: 銃のない平和な世界を世界がくるように、そして二度とこのような事件が起きないように祈っています。
 

 
ナレーター:  日本の高校生たちは、銃のない社会への願いを千羽鶴に込めました。そして剛丈さんへの思いを曲に託します。演奏するのは、「ゼア・ブロッサムズ・ダウン(花は散って)」。この曲には、姿形は見えなくても、亡き人は残された人々の心を励まし輝き続けている、というメッセージが込められています。剛丈さんを追悼するために、この曲を定期演奏会で事ある毎に演奏してきました。この後日米の高校生たちは、銃をなくすにはどうしたらいいのか、話し合いました。
 

 
日本学生A: 私はとても恐ろしく怖いことだと思うんですけど、日本ではそういうのが法律で禁止されているので、持つことはないんですけど、それがもし法律で禁じられることができるなら、みんなが持たない社会ができたほうがいいんじゃないかな、と私は思います。
 
米国学生A: 日本では法律で銃の所持を禁止すれば、みんな従うけれど、アメリカは違います。反対する人たちがでてきます。
 
米国学生B: 特にルイジアナでは銃を持つことを権利≠セと考えています。狩猟、そして自己防衛のためです。アメリカ人が変わる唯一の方法は、日本を見ることだと思います。銃の所持をやめることで、本当の自由と安全が手に入ると知ることです。
 

 
ナレーター:  銃が身近にある国で育った若者と、そうでない国の若者、みな自分なりの答えを見つけ出そうとしていました。
 

 
日本学生B: アメリカは銃を持つことが普通日常的なので、凄い恐怖で、怖くて外も歩けないくらいなってしまうと私は思います。
 
米国学生C: 家庭でどう育つかが大切だと思います。子どもは親のまねをするからです。日本のように子どものころから暴力を見ないで育てば成長してからも暴力をふるうことはないと思います。
 

 
石澤:  それにしても毎年剛丈君と同じような年格好の子が来るわけですね。どんな思いなんですか。
 
服部:  まあ可愛いなというのがまず第一ですけれども、まあ一年間ない、或いは二週間ぐらいですけど、短期の子は。その間でいっぱいいろんな経験をして、友だちを作ったり、いい思いをいっぱいして帰ってほしいな、というふうに願っています。
 
石澤:  どうでしょう。ついつい、あ、あの子が生きていればなあって思いません?
 
服部:  それはまあ思いますけどね。思ってもしょうがないことですから。その子たちに親としてのお思いを伝えたいですし、どんな事件だったか、ということも伝えたいですね。それから私たちがどんな活動をしてきたか、ということを伝えていきたいなあと思って、そういう中でやっぱり来る子は一人ですけども、その周りにいますよね、家族やら友だちやら。そういう中から少しずつですけど、変わっていくところがあるんじゃないかな、と。それを期待して続けています。
 
(留学生が服部さん宅を訪問します)
 
米国留学生達: こんにちわ。
 
服部:  どうぞお入りください。
 

 
ナレーター:  四人が日本にやって来て一週間。この日美恵子さんは全員を自宅に招きました。剛丈さんが使っていた机を前に、どんな息子だったのか。どんな思いでアメリカに旅発ったのか話しました。
 
服部:  剛丈のために友だちがいっぱい書いてくれたの。

 
ナレーター:  高校生たちが日本に滞在するのは二週間。決して長くはありません。それでも四人は美恵子さんの思いに直接触れ、日本の同世代の若者たちと語り合ってきました。このことは、銃が間近にあり、銃によって多くの命が失われている自分たちの社会について考え直すきっかけになったといいます。
 

米国学生達: 鶴に字を書きました。プレゼントです。
 

 
ナレーター:  美恵子さんへの感謝の気持ちを込めて折り鶴を作りました。そして今回の来日で、何を一番大切だと感じたのか、その言葉を鶴に記しました。ニールさんは、「分かり」、つまり理解すること、そして「安心」という言葉を書きました。
ニール・ボス: 理解≠ニいう言葉を選んだのは、違いを認め、誤解をとこうという思いから。安心≠ノは悪い感情や憎しみを捨てようという思いを込めました。
 
ナレーター:  マーサさんの折り鶴には「安心」、そして「信頼」を意味する「TRUST」という言葉が書かれていました。
 
マーサ・ランドリイ: 信頼≠ニいう言葉を選びました。信頼からすべてが始まるからです。他人を信頼すれば暴力はなくなる。信頼することが第一歩です。
 
服部:  素晴らしい言葉をありがとうございました。特にこの「信頼」という「TRUSUT」という言葉が凄く家の息子のケースにとても関係しているんじゃないかなあと思って、一人の信頼と、それから社会が安全な社会になるということで、たぶんアメリカもそうですし、日本でもそうですけど、いろんな国が、世界が平和な世界になっていくと思います。なんかみなさんの言葉をみて、日本へ来てみなさんちょっといろいろ考えてくださったんだなあと思って凄く嬉しく思います。どうもありがとうございました。大切にしまっておきます。
 

ナレーター:  アメリカから高校生を招いて十五年近くになります。その間に美恵子さん自身驚いている大きな心の変化がありました。五年前美恵子さんがルイジアナを訪れた時のことです。その時、これまで日本に招いた若者たちがパーティを開いてくれたのです。
 

 
服部:  私にとってルイジアナというのは、ほんとに息子を失った忌まわしい土地ではあったんですけど、長い交流を続けていくうちに、これだけいろんな知り合いができたというか、懐かしい人がいっぱいいる、そういう土地になったという、そんな自分の変化というか、心の中の変化が嬉しかったですね。無理矢理こう初めは心をこじ開けて始めたわけですけど、でもほんとに続けてきて良かったなあと思いました。
 

 
ナレーター:  事件から十五年、共に歩んできた夫の政一さんは、今年四月、定年を迎えました。
 

服部:  主人が退職したものですからね。一緒にやってくれるんでちょっと助かりますけど。
 
政一:  たまにやるもんだからえらいですね。続けてやるのは。休みながらやらんとね。
 

 
ナレーター:  一人の主婦が十五年もの間、アメリカの銃社会と闘い続けることができた。それは家族の支えがあったからだと美恵子さんは考えています。
 

 
石澤:  剛丈君にはお姉さんと弟さんがいらっしゃいますね。
 
服部:  はい。
 
石澤:  そのご姉弟はどういう感じでお母さんの動きを見ていらっしゃったんでしょうね。
 
服部:  いや、どうなんでしょう。わかってくれていたと思います。悲しくても頑張っているなということはわかってくれたと思うんですが、何しろ気持は申し訳ないんですけど、生きた子たちにいかないんですよね。もう八割か九割はいつも亡くなった子のことばっかり考えているもんですから、時々ヒステリックになったり、妙に頑張ってみたりね。だから娘が、「あの頃、お母さん、おかしかったね」って、随分後になってから言いまして。だからそういう言葉の中にね、娘の思いやりを感じました。
 
石澤:  残されたお姉さんにしても、弟さんにしても、彼らには彼らの青春時代もあるだろうし、受験勉強もあるんだろうし、家族と一緒にどっかへ行って楽しく遊びたいという気持もあるだろうし、だけどお母さんはそれを剛丈君のことに没頭していると。そういうところで、どうですか、不満をぶっつけられることってなかったですか。
 
服部:  そうですね。やっぱり母親の思いの篤さと、父親の思いの篤さ、それから兄弟の思いの篤さというのは全然違うんですよね。そこら辺で凄くどうしてあなた方は悲しい死を一緒に悲しんでくれなくて、一緒に誓願運動を同じように取り組んでくれなくって、というふうに思って、随分そこら辺でイライラカリカリきて、当たり散らしたこともありますし、主人と少しバトルもありましたし、そういうことを娘にもきついことを言ったりしましたし、でもバラバラにならずにすみましたね。
 
石澤:  そこは何だったんでしょうね。
 
服部:  やっぱり主人や息子や娘の思いやりですよね。カリカリきているなあとかね。僕たちのことも考えてよとか、きっと思っていたと思いますけどね。でもそれをじっと堪えていてくれたというのはほんとに有り難い存在だったなあと思っています。
 

ナレーター:  五年前、美恵子さんは事件の後、そのままにしていた剛丈さんの部屋を整理しました。今、残っているのは机や写真などわずかなものだけです。
 

 
石澤:  今、伺っているこの部屋は剛丈君の部屋だと伺いましたけど、五年前に整理されたそうですね。
 
服部:  ええ。そうなんです。ほんとにいろんなものがゴタゴタしていましたけれど、どうしても片づけられないという時期が長い間続いて、ある人が「居なくなった子どもの部屋の埃でも片づけられない」という人がおりましたけれど、私もそんな思いでずっといて。ですけど、だんだんこう活動していたり、いろんな人と会ったりしている間に、なんか自分と剛丈が一体化して、一緒にいるという感じが強くなって、あまり物に拘らなくなるようになりまして、あ、もう整理する時期がきたな、と思って、で、だんだんと整理を始めましたね。
 
石澤:  五年前というと、そこまで十年かかったわけですね。
 
服部:  そうですね。
 
石澤:  それくらいやっぱり時間が必要だった。
 
服部:  そうですね。十年ぐらい経った時に、何か気持が軽くなりましたね。
 
石澤:  そうですか。剛丈君という、言ってみれば一粒の麦がきちっと大地に根付いた証ですね。
 
服部:  あ、そうですね。ちょこちょこと芽を出しているかなあという気もしますのでね。まあ私たちのできる範囲で育て続けていかなければいけな、って思っていますけどね。
 
石澤:  剛丈君とは一心同体だと思いますけれども、この辺でなんかささやいていますか。
 
服部:  うん、まあ楽しいだらいいんじゃないって。〈お母さんの人生、楽しんだらいいんじゃない〉というふうに、〈僕のことも続けていって欲しいけど、楽しんでよ〉というふうに、私の息子ならそう言うでしょうね(笑い)。
 

 
ナレーター:  いつか銃のない世界がきて欲しい。ともに歩み続けてきた剛丈さんと美恵子さんの願いです。
 
     これは、平成十九年九月九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである