数寄屋が教えたもてなし≠フこころ
 
                   京都工芸繊維大学名誉教授 中 村  昌 生(まさお)
昭和二年愛知県名古屋市生まれ。昭和二二年彦根工業専門学校建築学科卒業。昭和二四年京都大学工学部助手を経て、三四年京都工芸繊維大学建築学科講師。三七年助教授。四八年教授。平成三年退官。桂離宮の修理に貢献するなど、和風建築を中心とする伝統的建築の保存に尽力。のち福井工業大学工学部教授。池坊文化学院院長。文化財保護審議会委員を務める。著書に「茶室の研究」「茶匠と建築」「近代数寄屋邸宅集成」「茶苑の意匠」「現代の数寄屋公共施設集」など。
                   き き て         峯 尾  武 男
 
峯尾:  今日の「こころの時代」は、京都東山の南禅寺近くの山荘「清流亭(せいりゅうてい)」に来ています。お話を伺うのは、数寄屋の研究、そして茶室作りに五十年の経験をお持ちの中村昌生さんです。茶室を通して、日本独特の「和の心」「もてなしの心」について、これから中村さんにいろいろとお話をして頂きます。どうぞよろしくお願い致します。
 
中村:  よろしくお願い致します。
 
峯尾:  私、こちらは初めてですけれども、ここへ寄せて頂いて、こう やって縁側に座っているだけでなんか心がゆったりとしてきますね。
 
中村:  そうですね。ほんとに幽邃(ゆうすい)というか、すがすがしい感じが致し ますね。
 
峯尾:  これはやはりここにお住まいなさる方だけでなくて、ここを訪 れる人にとっても心が安らぐようなところ。
 
中村:  平素お住まいになっているところとは違う環境ですね。ほんと に自然に囲まれた、雰囲気の中で、お互いが楽しむ。お料理を頂いたり、あるいはいろいろな趣味ですね―歌を作ったり、というように遊ぶ場所が山荘ですから。
 
峯尾:  まさに主が客人をもてなす場でもある、と。
 
中村:  そういうことですね。東山を借景するによし、また綺麗な水が流れて―ちょうどこれが作られたのは明治の終わり頃でしょうか、当時の名工が建てましたが、大正御大典の時に、東郷(平八郎)元帥がここに宿泊されて、そして清らかな水に非常に感動されたんでしょうね、「清流亭」という名前をお付けになった、と伝えられております。
 
峯尾:  なるほど。お庭の建物が一体になるということも、作られる方、あるいは勿論住まいする方にとっては大切な要素なんでしょうね。
 
中村:  そうでしょうね。これは日本の住まいの伝統と申しますか、日 本人の暮らし方の伝統でしょうね。この自然なくしては生きられないという気持、それが特にこういう山荘というような心を憩わせる場所には、特にそれが求められる。だから、たとい限られた場所の中でも、そこに自然の風景を拵えて、そして建物を作る。建物と自然とが一体になっている。そういう雰囲気の中に身を置くということが理想だったんでしょうね。
 
峯尾:  中村さんはずっと手がけてこられた茶室作りにしても、やはり基本的にはそういうお考えである?
 
中村:  そこに基本がございますね。
 
峯尾:  そうですか。これまでに百ぐらいというふうなお話を聞いたんですが、実際どれぐらいになりますか?
 
中村:  私はあんまりいくつ作ったとか、そういうことを数えたこともございませんし、そういう自覚はないんです。ただ、想い出すのは、あの時にはあんな苦労したとか、あの時はあんなふうに事が運んで物が出来てよかったという悦びとか、そんなことが心の中に残っているだけで、あまり数などは数えたことはございません。
 
峯尾:  中村さんの最近の大きな仕事と言っていいかどうかわかりませんが、京都の迎賓館、これは構想の段階から携わっていらっしゃるんですね。
 
中村:  それはたしか平成三年だったと思いますが、京都に迎賓施設を作るということで、委員会が開設されて、私は京都府様のご指名で委員に加わりました。あくまで和のたたずまいの中で、しかも日本人のもてなし方で、国公賓を待遇する施設、そういうものを作るということが目的でございました。京都にずっと続いてきた日本建築の美しい伝統を現代にも、先端的な技術を導入して、現代と伝統を融合させる。ただ基調は現代和風の態様を基調とする、というようなことが最終的に定まったように記憶しております。
 
峯尾:  京都の迎賓館は鉄筋コンクリート作りという説明を読んだ記憶があるんですが、実際に素材としてはそういうものを使っているんですか。
 
中村:  あの中には鉄筋コンクリートも鉄骨造も内蔵されております。しかしよくみなさんは、「これ木造で出来ているんですか?」とおっしゃるぐらい、そういうことは隠れてしまっております。いわゆる現代和風でありまして、伝統的なたたずまいを支える、あそこの中には非常に大きな空間もございますから、そういったものを支えるのは従来の木造ではなかなか困難でございますから、現代の構造技術も導入されて、ああいうたたずまいに仕上がっているわけですね。
 
峯尾:  まさに現代和風ということですね。
中村:  そうですね。
 
峯尾:  いろいろ資料を見せて頂いたりしますので、お座敷のほうでお話を伺いたいと思います。
 
中村:  そうですか。それじゃ。
 

 
峯尾:  中村さんは大学時代に日本建築史を専攻なさったそうですね。
 
中村:  はい。ずっと日本建築史の講義をしておりましてね。日本建築史と言いますと、昔は社寺建築が主でございました。
 
峯尾:  昭和でいうと、二十年代ぐらいですか?
 
中村:  ええ。戦後ですね。戦後、伝統的なものは全部排除するというような風潮がございましたね。住宅ですと、日本住宅の封建的な要素を全部払拭しようという感じで、床の間も追放しようというような意見が非常に雑誌に出てきた、そんなことを記憶しております。そういう時代に、これはやっぱり物がすべて変わっていくな、と思いましたね。お茶もそうですね。昭和二十五年に、新日本茶道展というのが東京で催されました。その頃は茶室も今日でいうところの立礼(りゅうれい)―椅子式の茶室になるとか、お手前にしても変わる、と。私、記憶のあるのは、茶筅(ちゃせん)も要らない。ミキサーでお茶を点(た)てるというような、そんな実演もあったかと思います。そんな時代ですから、これは変わっていくな、と。日本住宅が大きく変わる。畳の座礼から立礼というような、そういうふうに変わっていくんじゃないかと思いました。そういうふうに大きく変わっていく やはりこの日本建築の、特に先人のこれまでの長い歴史の中での伝統の根というもの―「不易流行」と言われますが―不易の源流をしっかり掴まないと、ほんとに新しいものの創造ができないのではないか、というような考えから、日本建築の伝統を探ろうという姿勢になるわけですね。恩師に連れられて桂離宮(かつらりきゅう)を拝観させて頂き、説明を聞いて、私は大変感動致しましたね。こういう建築こそ調べることによって、この日本の建築の伝統というものがわかるんじゃないか、と。いわゆる日本人の暮らしぶり、生活の仕方に根付いた建築の伝統が調べられるんじゃないか、ということが、こういう道に進む一つのきっかけであったかと思いますね。特に私が感動したのは、「古書院(こしょいん)」と言います御殿のたたずまい、これが当時の武家の非常に権力を漲(みなぎ)らせたような威厳のある構え方ではなくて、非常に優しい穏やかなたたずまい。そこに月見台が作られている。この月見台もごく簡素な月見台で、それが座敷とずうっと続きに庭へそのまま直結するような、庭から見てもまた屋内から見ても、そうした自然と建物との繋がりというものは素晴らしい。そういうところに深く感動致しました。私は松琴亭に行きますと、茅葺きのごく民家風なたたずまい、決して民家と同じじゃないんですね。茶室というと、これももてなしの空間ですわね。客をもてなす場所ですが、そこに囲炉裏というものを―炉を切ったということ。畳というのは、茶室が生まれる頃の当時は上層階級の住宅にあるもので、そういう畳を狭いながら畳敷きの座敷を作って、そして囲炉裏という非常に古くから日本人の生活の中で伝えられてきたものを作って、そしてもてなしの場所にするという、これと共通しているという感じが致しましたね。これは桂離宮のようなものを調べるには、茶の湯の世界を知ることが非常に大切じゃないか、と。茶の湯を通して建築を見る。また建築を通して茶の湯との関わりを調べるということが必要ではないかな、ということを感じた。それがこういう仕事に取り組むきっかけであったと思いますね。
 
峯尾:  戦後の風潮の中で、桂離宮をご覧になって、自分のやるべきことはこれだ、と。全国の茶室を調べて歩かれたそうですね。
 
中村:  先ず残された歴史的な茶室を見て廻る。特別にそれだけを目当てに仕事を始めるという姿勢ではなくて、機会があれば拝見を乞うということで茶室を見た。特に京都はたくさん残っている。文化財に指定されておるものは勿論京都に一番たくさん遺構が残っておりますから、そういうものを拝見する。なかなか拝見できないところが当時多かったんですね。拝見するためにはいろいろ苦労がございました。先生に紹介状を頂いて訪ねて行ってもお許しがでない場合もありました。だんだんいろいろな方にご紹介を頂きまして、ほぼそれまで本に載っておりますものは大体見ることができたと思います。で、ちょっと見ていくうちに、大体一つの茶室を見ますと、誰が作ったという作者の伝えがございますね。そうすると、その作者についていろいろこれまでの論文なんかを見て、その作者についての知識を得ながら、その茶室を見にいくわけですね。そして見ていくうちに、だんだん単に見るだけでなく、実測を―難しい実測ではなく―どのくらいの寸法でできているかというような、大体実測をしながら見ていきますと、よく頭に入るんですね。それで材料のことやいろいろメモしながら見ていく。そしてこの作者にはこういう作風があるな、と。それぞれ茶室には個性があります。極端な話が、非常に似た茶室であっても、作者が違えば、そこに何か違うところがあるんですね。よく茶室の本を見ると、「どれもこれも一緒に見える」とおっしゃる方があるんですけど、しかしそうじゃなくて、その一緒に見えるほど似ておることの中のわずかな差、それがやっぱり作者の個性がそこに滲み出ているわけですから、それを発見しないといけない。そういうふうにして茶室を見ていくうちに、私は大変楽しくなったのは、その遺構を通じて、それを作った作者と対話するわけですね。
 
峯尾:  なるほど。
 
中村:  「どんなつもりでこんなことをしたんですか?」と聞くと、なんらかの答えが返ってくる。返ってこない場合もあります。そういうふうにして、いろんな茶室を見て廻るということが、先ずは研究の初期のあり方だったかと思います。
 
峯尾:  昔から残る茶室の数々を見て歩く。ご研究かも知りませんけれども、中村さんご自身、それをかなりお楽しみになったんじゃないですか?
 
中村:  いや、それは楽しい一面もございます。しかし私としては真剣なんですね。それを作った作者と対話するという、こういう作業に真剣なんです。ところが周りからはちょうどおっしゃいましたように、みんな先輩なんかに言われました。「お前さん、そんな研究しておっても論文は書けんよ」と。「学位論文など書けんよ」と言われましてね。言われるとますます私はそれに挑みたくなる性格がございまして、やって見せようという気になりましたね。それでたしかにそういう実物を見ているだけでは論文にならないものですから、それから茶書を調べようと思いました。茶書というとほとんど作法手前のことが書いてあるんですね。しかしそういう中に少しずつ茶室に触れたことが出てくる。非常に貴重なことが出てくる。従ってそういう言葉を見付けるのがとても楽しみになりましたね。それで茶書がたくさんあるところは東京上野の図書館―帝国図書館と言われておりました―あそこにたくさん茶書がございました。それを見せて貰いに行く。まだ若い頃は随分向こうへ一週間ぐらい出張することができましたから、カメラを持って、初めからカメラを据えて、そして茶書を何冊も借り出しまして必要なところを写真に収めたり、メモをしたりして勉強してきますと、だんだんいろいろ茶室の作りについて、ただ出来たものを見ているのとは違った角度からの知識が得られるようになりました。そしてだんだん作者作者の個性、あるいは作風というものの違いがわかってくると大変興味深いんですね。そんなことで、論文を書く仕事に取りかかれたわけです。
 
峯尾:  そうなんですか。お書きになった論文のタイトルは今もちゃんと覚えていらっしゃいますか。
 
中村:  「初期茶室の研究」ということで、特に「六茶匠の作風をめぐっての研究」というふうにしたかと思います。いわゆるこれは個性がある茶室。その個性がその人々の作風に繋がっていくわけですね。それで千利休(せんのりきゅう)(1522-1591)の師匠の武野紹鴎(たけのじょうおう)(1502-1555)、それから利休、千宗旦(せんそうたん)(1578-1658)、古田織部(ふるたおりべ)(l544一l6l5)、小堀遠州(こぼりえんしゅう)(1579〜1647)、金森宗和(かなもりそうわ)(1548-1656)、こういう人たちの作風を調べますと、大体いろいろな変化のある茶室の諸形式を、これらの人の作風によって大体理解することができるんですね。
 
峯尾:  しかし、その論文は立派にパスした、と。
 
中村:  いやいや、まあまけて頂いた(笑い)。その研究で私は非常にこれは大事なことだなあと思ったのは、茶室を作ることの作り方、創作上一番大事なことは寸法である、と。この寸法に私は思想がある、と。単に形のいいものを作るためにはこういうプロポーションがいいということだけではない。茶室において、その作者がこの寸法にしている。例えば茶道口(さどうぐち)をどれだけにしているか、というようなこと。その中にわずかずつの違いが作者によってある。やっぱりその作者の思いが寸法に託されているんですね。私は寸法というのは非常に大切だと思ったんです。それで論文を書くうえにも非常に寸法を重視しましたし、また記録に残されているものには、茶室の寸法書きが多いんです。
 
峯尾:  寸法書きが?
 
中村:  いろいろな寸法ばっかり書いたものですね。いわゆる利休の茶室を伝えるのに寸法で伝えられている。特にこれは大事な資料だったんですよ。ここにありますのは、利休が聚楽(じゅらく)の屋敷を作りますね。秀吉の築いた聚楽第の城下、一条戻橋の付近に作りました。茶室だけでなく、書院なども含めてその寸法を記録している。これは杉木晋斎という人の写した「利休家之図」という寸法書きですけれども、元になったものは少庵(しょうあん)が書いたものだと伝えられております。それの写しのようですけれども。
 
峯尾:  これがすべて寸法なんですね。
 
中村:  そうですね。
峯尾:  『二帖敷の本』ですか。
 
中村:  聚楽屋敷に二畳の茶室がありました。その寸法ですね。
 
峯尾:  「軒の高さ、畳より桁上まで五尺三寸。石より敷居の高さ一尺五寸」。
 
中村:  これ床高のことですね。
 
峯尾:  これは何ですか?
 
中村:  くぐりですね。躙口(にじりぐち)ですね。
 
峯尾:  「くぐりの高さ二尺二寸五分」。すべて数字ですね。
 
中村:  ほとんど茶室についてはこの寸法書きで大体復元できるんですね。
 
峯尾:  そうなんですか。
 
中村:  で、こういう寸法書と共に間取りぐらいは書いてあるものがありますけれども、そして後は細かい寸法を書く。こういう形で茶匠たちは―例えば利休の茶室は手本になる茶室だから、といって、こういう寸法を残して、それを人に伝えるわけですね。ですからそういう意味で、私が寸法に着眼したことは間違いではなかった。茶室作りの一番大事なところ、茶匠たちが一番心をすり減らしたところは、この寸法の組み合わせ、寸法の決定にあると思います。そういうことに思い至ってきました頃、特に茶室研究では素晴らしいご研究をなさっていた堀口捨巳(ほりぐちすてみ)博士(1895-1984、日本の建築家。ヨーロッパの新しい建築運動に心惹かれ、東大同期生らと従来の様式建築を否定する分離派建築会を結成。後に日本の数寄屋造りの中に美を見出し、伝統文化とモダニズム建築の理念との統合を図った)が「おこし絵図」という図面を復刻するというお仕事をされまして、それを東京大学の稲垣先生とご一緒にお手伝いするという機会に恵まれました。それでその「おこし絵図」―簡単に申しますと、組み立て式の模型ということですね。台紙に平面図を書きまして、そして壁面を貼り付けるわけですね。
 
峯尾:  なるほど。
 
中村:  これをこういうふうに垂直に、各壁面を立てますと、ここに立体ができあがるという図面なんです。こういうおこし絵図は古くからあったようですけど、特に茶匠たちが―技術者ではありませんね。いわばデザイナーかな―そういう茶匠たちにとっては専門的な図面を作って、それから空間を読み取るよりも、こういう組み立て式の模型を使うほうが分かり易い。しかも茶室というと非常に複雑でしょう。小さいけれども非常に複雑な構造を持っています。そういったものがこういう組み立て式ですと非常に分かり易い、ということで、こうした茶室のおこし絵図というものが昔から随分伝わっておりました。それがまた私の茶室に対する考え方を一歩深めることになります。また広げることにもなりました。それでいろいろの茶書を調べ、いろいろなことを調べ、寸法書きを調べてもなかなかちょっと分かり難い、解きにくいところがあるんですね。茶書に書いてあることもしっかりと解釈できない部分がある。やっぱり自分もこうしたものを作ってみたらわかるんじゃないだろうか、ということを思いました。昔の茶匠という人は単に図面を書いて渡すというだけではなくて、例えば織部などは松家から茶室を設計してほしいと言われた時に、それじゃと言って平面図を送って、そして特に床柱と中柱だけは、自分が材料を選んで、そうして墨付けをして送っているんですね。そこまで茶匠は仕事をしている。そういうことを知りますと、自分も実際にどういうふうに丸太を使うかというようなことも体験しないことには、これは茶匠の創造の秘密に迫ることもできないな、という気がだんだんしてまいりましたね。そうしましたら、これはほんとに恵まれたことですけれども、一つ二つと作ってくれないかという、お仕事に恵まれまして、いつの間にか、そうした実践的な仕事のほうに時間をたくさん取られるようになって、あまり論文が書けなくなってしまったんですね(笑い)。
 
峯尾:  そうですか。茶室をいろいろご覧になって、ご覧になるだけで寸法が解るというお話もありましたし、茶書をたくさんお読みになった、ということですが、実際に茶室を中村さんご自身が作られるとなると、それはそれなりにご苦労があったんではないですか。
 
中村:  ええ。それは単に技術的には私なりにいろいろ考え、こういうおこし絵図にしましても、細かなおさまりをどうするかというようなことは技術的な問題。しかし茶室というものは、いわゆる茶の湯の道具―例えばお茶碗とか、茶杓だとかと同じように、それを手にした時に、ジーンと茶の湯の世界というものが感じられるような、そういう造形でなければいけないとされています。そのように茶室というものも、それを眺め、そこに身をおいた時に、じわっと茶の湯というものが感じられる。そういうものでなければいけないという。難しく言いますと、茶の湯の心を造形化するという、こういう仕事だ、と私は思うんですね。そう致しますと、私のようにお茶の心もわきまえないものにとっては、そこは非常に難しいわけでございます。そこで私は初期の茶人の言葉として、こういうことが言われているんですね。座敷を作るのは、
 
     異風になく 
     結構になく
     さすがに手ぎわよく
     目に立たぬ様に
 
という、この言葉が、私は非常に頭に染み込んでおりましてね。
 
峯尾:  「異風になく」、
 
中村:  要するに、パッと変わった。「これは変わっているね」というような、そういう作りはダメだというんですね。
 
峯尾:  その次が、「結構になく」、
 
中村:  「結構になく」―これは立派に見えるというのはいけないという。
 
峯尾:  「さすが手ぎわよく」、
 
中村:  さすがに洗練されている、と。さすが綺麗というですね。茶人はよく「綺麗」という言葉を使いますが、これはけばけばしい意味の綺麗ではなくて、まあ一種の爽やかといったような意味なんでしょうね。 爽やかなということでしょう。最後は、「目に立たぬように」―控えめに。茶室が目に立ってしまって、そこで行われる茶の湯を圧殺してしまってはいけないということなんでしょうかね。
 
峯尾:  現場で実際にご苦労なさったことっていうのはありますか。
 
中村:  それはまず建物の姿形、具体的にいいますと、あまり高くならないことですね。建物を低く作る。低く作ると言っても、中で人間の行動が束縛されてはいけません。それであって、これだけの容積がいる。しかしながら、これを組立っていくと、こんなふうになってくる、と。なかなか低く作るということはなかなか難しいことなんです。茶室を見ておりますと、そういうことが実によくやられている。だからいろいろ見ておりますから、自分もそれなりにやるんですね。例えば大きい屋根があって、そこに庇(ひさし)がついていくんですね。その庇を付ける位置。しかし出入りする場合に頭がつかえてはダメでしょう。そんな制約もある。そして全体の建物が決して聳えるような感じがしないような姿に作るということ、これもなかなか工夫のいることでした。
 
峯尾:  百ほどの茶室を作ってこられて、それがご本に纏まっていますね。
 
中村:  お恥ずかしいんですけどね。自分の作ったものが人様に見て頂くようなものとは思いませんが、個人のお使いになる茶室ではなくて、不特定多数の方が茶の湯に、またその他の目的にも使えるような茶室ということで計画されたものをお手伝いしたものと、それからまったく個人のお使いになる茶室のものとに編を分けまして、こういう本を作って頂いたんですけれども、大変私にとっては面はゆいものですけれども(笑い)。
 
峯尾:  それでは今度はやはり中村さんの一つである公共の茶室ですね。そちらでお話の続きを聞かせて頂きたいと思います。
 
中村:  そうですね。府民ホール(京都府立府民ホールアルティ)にございます。
 

 
峯尾:  まさに街の真ん中の、こちらが公共施設ですよね。
 
中村:  そうですね。
 
峯尾:  このホールへ、私は何回か来たことがあるんですが、まさかここに中村さんの茶室があるということを知りませんでした。
 
中村:  昔、茶人たちが「市中の隠」と言いましたように、まさにここは「市中の隠」で、こういう近代的な施設からホールに入るとほんとに山里のような雰囲気がございますね。
 
峯尾:  特に例えばご苦労なさった、あるいは力を注がれたところというのは?
 
中村:  この敷地があまり広くありません。そこにこちらの屋内から見て、またこれを実際にお使いになる場合の両面を考えて建てなければなりません。それでいろいろ苦心しまして、ここではあまり派手なたたずまいにならないほうが良いだろうと思いまして、ああいう穏やかな屋根の作りにしました。そして土間庇という庇を回しまして、そして庭が自然に建物の中に吸い込まれていく。また屋内から出て来ても自然に庭へ出られるようなそういう外観を工夫しました。だからホールとしてはちょっと地味な外観ではないかと、私は思います。
 

 
峯尾:  中村さんのお作りになった茶室・数寄屋を初めて拝見するんですが、外観と同じように、決してきらびやかではない、むしろ非常に地味な感じですね。
 
中村:  そうかも知れませんね。一応ここはいろいろ外国のお客さんもみえるという想定で立礼(りゅうれい)式―椅子式の茶室と、こうしてお茶のほうでは小間(こま)と申しますけど、四畳半台目(だいめ)という広さですが、こういう小間を水屋で繋いだ形なんですね。ちょうどL字型になっております。ほんというと、これに多目的のような広間がつくと宜しいんですけれども、それだけの面積がないもんですから、これだけの面積で、いわゆる日本の生活文化の美しさゆかしさ、そういったものを内外の方に味わって頂こうということで作られたものなんです。
 
峯尾:  これが中村さんんがお作りになった公共の茶室ですよね。これはまた新しい時代を託したものだ、ということじゃないんでしょうか。
 
中村:  戦後お茶が大衆化され、いわゆる茶道人口が増えた。そういう方の楽しみのためにももっと広い茶室が必要だということで、いわゆる誰でも参加できる茶室というものが求められるようになってきた。これは時代が求めるようになってきたと思いますね。そういう意味で公共の茶室というものが、これは行政が作られる場合もあるし、その他いろいろ団体が作られる場合があるでしょうけど、これは不特定多数の人が使われる、あるいはまた参加される茶室でありますから、広く茶の湯というものの気持・雰囲気、そういったものが建物全体に感じられるようなデザインをするということが使命だと考えますと、そういうことは大変私の勉強になる。いわゆる現代和風を志す実践ができるわけですね。そういう点で特に茶室らしいものがちょっと薄まっていても、それ全体が一つの、そこへ入ると茶室だなあ、と。どういう流儀の人が入られても、そこに茶の湯を感じて、そこで自分の思い思いのお茶が実践できるし、またお茶を頂く、という施設が公共の茶室であろうというふうに、私は認識してやってまいりました。
 
峯尾:  丸い柱が、床柱を初めとして、何本も使われているんですが、これを拝見すると、それぞれに木の種類は別なんですか。
 
中村:  大体床柱が赤松、それから中柱が辛夷(こぶし)というふうで、一般普通の柱は、いわゆる京都の北山丸太、これを使っておりますけれども、要所要所にそういう皮のついたままの自然の素材をまじえて、そして全体がなんとなく自然の瑞々しさというようなものを漂わせ、そしてなんといっても茶室は客をもてなす場所ですから、お客様を迎えるのに相応しい座の構造を考える。いわゆるお客様は床のある上座の方へ、そしてお茶を点てる亭主は下座の方へというように、そういう配置を考える。そして今、通って来られた道―露地(ろじ)でございますね―露地を入って茶室へ入る。そうすると、そこは茶の湯の空間としての適当なほどよい明るさと、そしてまた広がり方ですね。広がり方も天井もやや低くなりますが、茶でいうと侘(わび)の空間、そういう作りになっておるわけでございますね。
 
峯尾:  そしてこちらの茶席の主はお客を心からもてなし、この茶室へ入られたお客様は何かゆっくりしたようなくつろぎの気持が味わいるということでしょうね。
 
中村:  茶の湯というのは、言い換えれば、客をもてなす遊びでございますね。その場合、もてなす側の亭主は、これはたとい立派な方々であっても、自ら山中に庵(いほり)ずまいをする忍者の気持になって、不如意な生活と申しますか、不自由な生活をしている身でありながら、だから物として豊かなもてなしはできなくても、心を込めたもてなしをする。そういう遊びなんですね。ですからこの茶室もこのような自然の素材を使った鄙(ひな)びた作り、そういう雰囲気ではあるけれども、そこで亭主の温かい心、客を迎えた悦びと、それをもてなす温かい心が客に伝わるように、茶室そのものもそういう遊びをするに相応しい雰囲気を作り出す、そういうことですね。
 
峯尾:  こうした一見何でもないというように見える、これが数寄屋の建築というふうに考えていいでしょうか。
 
中村:  そうですね。先ほど申しましたが、「目に立たぬよう」ということがありましたね。それですよ、極意は。従って、例えば非常に良い材料ばかりを使って作ったとしても、これは良い材料ばっかりを使って作っています、というふうに見えては、これはいけない。それで簡素な材料を使う。簡素な材料ばっかり使って、決してそれで貧相なものを作ってはいけないわけですね。やはり宗旦などが言っておるように、綺麗という表現でなければいけない。そうすると、私はある意味で簡素な材料を使って作る数寄屋も、これまた一つの贅沢だと思うんですね。贅沢と言えば贅沢。しかしそれは物質的な贅沢ではなくて、それを作る技に非常に手が込んでいるとか、心入れが深いとか、ということになるわけで、表現としては非常に簡素で控え目で楚々(そそ)としているようだけれども、しかしそういう作品を作るということは贅沢な作品だということにもなろうかと思うんですね。そういうことで私は、どちらに属しても大変ある意味で贅沢な仕事をしているということにもなる。しかし本当の気持ちというのは、贅沢とか質素とかという対立的な考え方ではなくて、やはり立派に見えないように、素朴に質素にしながら人の心に迫るような、そういう表現を作りたいという仕事をしている。それがなかなか会心の作に至らないというわけでありますけれども、しかしそういう仕事ができるということは、私は大変嬉しいことだと思いますね。私にとっては、それは私の柄に合った仕事だと思っております。
 
峯尾:  その数寄屋の技術というのが、まさに日本人の心を表現していると思うんですが、それはこれからの先の時代に受け継いでいくということはかなり大変なことじゃいんですか。
 
中村:  それはそうでしょうね。やはりややもすると、こういう建築は、消極的な老人の趣味のように一般に考えられておりましたけれども、決してそうではない。利休の考えたこういう建物を作る思想というのは、むしろ昔からの日本人の自然とともに生きるという伝統―西洋の建築というのは、いわゆるギリシャの神殿にしても立派な基壇を拵えて、そしてその上に壮麗な柱を立てて建築を作る。いわゆる大地を制服する。そうした人間の構築力の賛歌とでもいうような、そういう建築ですわね。ところが日本建築は、昔から掘立柱(ほったてばしら)じゃないですか。伊勢神宮へ行っても今でも掘立柱でしょう。これは大地とともに、という気持で作る家作りですね。そういう伝統がずーっと今に続いていると思うんですね。木造建築にはそういうものが続いている。特にこの自然の素材を使うこういう茶室の建築なんかは、今は柱が腐りますから掘立にはしませんけれども、自然の根石(ねいし)を置いてその上に柱を立てる。自然の石ですから凹凸がございますね。そうすると、大工さんはこの石を水平に切るのでなく、石の自然のなりに合わせて柱の底を削る。これを「ひかる」と言いますが、そして完全密着するように立てるんですね。私は、自然を大切にする掘立柱の気持は、そういう技術に私は伝わっている、というふうに思えてならないんです。その技術を駆使するものはその人の心ですね。心使い。こんな面倒くさいことせずに、石の方を切ってそこに柱を立てればいいじゃないか、と。これじゃ数寄屋は成り立ちませんね。そういう気持、心というものを大切にする人たちがこういう数寄屋というものを立てるんです。ですから何も数寄屋は自然の材料を使わなければ、自然の丸太を使わなければ数寄屋だということではない。どういう材料を使っても、そういう自然を征服しようとか、自分の構築力を誇るというような気持でなく、むしろ人とも自然とも協調して共に生きる、そういう気持で物を作るのが、私は数寄屋だと思うんですね。だから先ほどご覧頂いたように、私も、これを作る時には決してこの建物が聳えるような感じになって、周りの自然を威圧するようなものになってはいけない。前の自然とほどよく協調していくようなたたずまいに作ろう、と心掛けるわけですけれども、そういう建築を望む方々が数寄屋を建てるということだと思うんですね。
 
峯尾:  中村さんが京都伝統建築協会を作られたのが、昭和五十五年ぐらいですね。
 
中村:  そうですね。もっと前から四十年頃から任意の団体としては、私たち同士が実際に建築のお仕事をなさっている方々らと一緒にグループを拵えていたんです。私は、日本の大工技術というのは世界に誇る技術だと思うんですね。この技術を絶やすということはゆるされない。なんとか世界に誇るべき日本の文化的な宝を将来に伝えるために、一つお互いにいろんなことをやっていこう、ということで集まったグループがありまして、それが昭和五十五年に協会を設立するということになりました。ややもすると、「伝統には正と負と、プラスとマイナスがある」と、ある方はおっしゃるんですけど、我々のように、伝統と組み合って仕事をしている人には負はないんですよ。プラスになる。いわゆる創作の糧になるものだけを掴もうとしているし、掴んで、そしてそれを新しい創作に活かすんですね。こういうことがどうも若い世代の人に十分理解されていないように思う。そういうことで、ややもすると伝統というと、後ろ向きの姿勢だと、それは創作ではない、というふうに決めつけられるわけです。私はそういうものではないと思うんです。そういう伝統技術は外から見ておってもわからない。やっぱり中へ入って、その技術を噛み締める時に初めてわかるし、新しく生み出す力の糧になるということがわかるんですね。外から形だけ見ておってもわからないです。ですから茶の湯でもそうでしょう。例えば茶の湯の心は謙虚になるという。しかし、謙虚ということは、実際になることは難しい。難しいけども、本当に謙虚にならないことにはまた茶室も作れないんですよ。と同時に、数寄屋の技術というものも、そういう気持になって初めて周りとも、隣の建物とも、広い環境とも調和する建築が作れるわけです。だからやはりそういう心を探求しながら、技術を磨くという修行が、この数寄屋の技術の今後の継承のためには必要です。そういうことで多くのことを継承していくために将来を受け継ぐ人たちと一緒に京都伝統建築技術協会という協会を作ったわけです。こういうふうで続いていくんだなあ、という、私はひそかに手応えを感じているんです。こういう数寄屋の技術が、今後はもっと見直されていく。そしてほんとにこういう日本の建築が、世界の人たちが自分たちが築いてきた構築を誇りとする建築の作り方に反省を持ち始めている時に、日本の建築が古来からそういう建築の伝統があるということを世界の人も見てくれるであろうと思います。そういう時に、私は日本の建築の中では、特に数寄屋はか弱い楚々(そそ)とした建築のようでありますが、そこに込められた精神性の豊かさ、それが技術に結びついている、造形に結びついている。こういう世界を見直して頂きたいものだな、と思うんですね。
 
峯尾:  そして初めにもご紹介したように、中村さんは数寄屋の研究、そして茶室作りを手がけて五十年ということですが、五十年を振り返ってみられて、今、どんなお考えをお持ちですか。
 
中村:  そうですね。大変お恥ずかしい、こういう研究者としても、大変狭い領域のみをただひた走りに走ってきたということかと思いますけれども、私は後悔していないんです。それでそうした研究、あるいは実践的な研究を通じて日本建築の心髄というと言い過ぎかも知れませんけど、なんか私はそういうものに触れることができたなあという気持がこの頃ほのぼのとしています。特にこういう建築が茶室という客を心を込めてもてなすという、そういういわば遊びの文化ですね。文化から生まれた建築であるということで、そこで一番大切なのは亭主と客、これが親しく心を触れ合わせながら一座を建立するということが茶の湯である、と。そのためにやっぱり利休時代から説かれた心は謙虚さということですね。亭主は客に対して、また客は亭主に対してお互いに謙虚の心を持ち合うことによってそこに和が生ずる、と。床の間というのは、美術品を飾る場所と理解されておりますが、私は、底にあるのは、そこで集う人々の心を一つにつなぐ役割を床の間はしている。だから床の間は絶えなかったんですよ。戦後、床の間の追放論もありましたけれども、今も続いているんじゃないですか。そういう心が床の間にはある。そういう役割が今日もまだ生きているんですね。日本座敷を作る時、床の間を作るということは、そこで集う人の心は一つに繋ぐという役割がある。それはまた人々が謙虚な気持を持ち合うからだ、ということで、私自身謙虚さとはどういうことかということは、この頃ちょっと少し解ってきたような気がするんですね。なかなかほんとになれないんですね。利休の言葉にも、
 
     叶いたるはよし
     叶いたがるはあし(南方録)
 
という言葉がある。これは相手の心に自ら叶おうと努力するんじゃなくて、自然に人と人との心が合う。こういう人と人との交わりが一番理想なんじゃないでしょうかね。そういうふうにお互いの心が自然に出合い触れ合い、そして一つの和ができるという。それにはやっぱり謙虚という気持を持たなければならない。だからこうして生意気に物作りもやってまいりますと、会心の作はできないんですよ。いつまで経ってもできない。作るたんびに。そうすると作らせて頂いた方に大変失礼ですけれども、そういう気持がいつまでも拭えない。やっぱり、あ、これをやった、今度こそはやった、と内心ちょっと思っても、さあよくみるとやはり恥ずかしいなあと思うところがあるんですね。そういう一つの謙譲さというものがあって、また次の仕事に挑戦することができるというわけで、私はこういう謙虚な気持を自分の心に養うことが出来たということは、この仕事をやってきて、ほんとに幸せなことではなかったか、と思っておる次第です。
 
     これは、平成十九年十一月十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである