鎮魂の思いをこめて
 
                      現代俳句協会会長 宇 多(うだ) 喜代子(きよこ)
昭和十年山口県徳山市生まれ。武庫川学院大学家政学科卒。「草苑」創刊に参加し、昭和四六年同人、のち編集長。現代俳句協会会長。新興俳句の研究や評論活動も行う。句集に「りらの木」「夏の日」「半島」「象」、著書に「ひとたばの手紙から」ほか。
                      き き て     西 橋  正 泰
 
西橋:  庭の一角に大きな柿の木があります。兵庫県伊丹市の「柿衛(かきもり)文庫」にお邪魔しております。ここは伊丹市立美術館と併設されていまして、国文学者の岡田柿衛(かきもり)(柿衛は俳号、本名利兵衛。明治二九年生まれ。昭和二○年伊丹市長。昭和五七年財団法人を設立)が集めました近世俳諧資料が展示されています。今日の「こころの時代」は、俳人で現代俳句協会会長の宇多喜代子さんにお話を伺います。どうぞよろしくお願い致します。
宇多:  どうぞよろしく。
 
西橋:  宇多さん、これ見事な柿なんですね。
 
宇多:  ええ。これは頼山陽(らいさんよう)(江戸後期の儒者・史家:1780-1832)の柿と聞いておりまして、この伊丹に頼山陽が立ち寄られた時に召し上がったんだそうです。それを柿衛翁が大変ずーっと守ってこられて「柿衛」と。毎年こんなにたわわになりますね。渋柿ですけど、熟すと美味しいです。
 
西橋:  そうですか。実もですけど、葉も美しいですね、今ちょうど。
 
宇多:  ええ。ちょうど柿紅葉(かきもみじ)と申しましょうかね。
 
西橋:  宇多さんは五十年以上俳句を作っていらっしゃいまして、たくさん句集も出していらっしゃいます。合わせて戦争を体験した俳人たちが、戦争とどういうふうに向き合って俳句を作ってきたのか。そういうことをお調べになって、それをまた次の時代に伝えようということで研究もなさっていらっしゃいます。宇多さん、今俳句を詠む人というのはもう莫大な数だそうですね。
 
宇多:  私が知る限りでも日本中、どういうところに行ってもその土地に俳句を愛好する方がいる。そうすると、ほんとにどこへ行っても寂しくないんですね。必ず出会いますね。それくらい多い。それが「何様」でなくて、さっきまでミカンを摘んでいたよとか、さっきまで海で仕事をしていたよ、という人が集まって句会をします。
 
西橋:  宇多さんが俳句をお始めになった頃というのは、それほど多くはなかった?
 
宇多:  私が始めた頃は特に女の方は少なかったですね。昭和二十年代の終わりですからね。非常に女の人が少なかったし、全体にさほど今のようにたくさんという印象はなかったですね。
 
西橋:  どうして俳句を始めようと思われたんですか。
 
宇多:  祖母が親しくしていたお寺の和尚に遠山麦浪(ばくろう)という方がいらっしゃって、その麦浪和尚がいつも私の家に来て、祖母と一緒に、いわゆる茶飲み話をして、それを傍で聞いておりました時に楽しそうでね。その時に私は、祖母がやっていた短歌よりか、麦浪和尚の俳句のほうが面白いな、というのが直感でわかって、それから手ほどきを受けまして、家に見える度に書いたのを見てもらうんですね。
 
西橋:  個人指導ですね。
 
宇多:  ええ。それがとても良かったと思いますね。そうすると、○を付けたり、ちょっと線を引いたりして教えて頂いて、それが楽しかったです。
 
西橋:  さて、宇多さんが十八歳で俳句をお始めになって、最初の句が
 
    あじさいの芽の出る庭に落ちる椿
 
宇多:  なんとも奇妙な句でね。目の前にあったことをそのままと言ったらそういうものなんですね。あじさいの芽がちょうど出る時に椿が落ちるというね。それを見せましたら、それをとても誉めてもらったという。ところが最後の「落ちる椿」というところにちょっと棒を引いて、「落椿(おちつばき)」と書いて下さったんですよ。それが私には、「ああ、そうか。こういう言葉があるんだ」と思って、お風呂に入って、「落椿、落椿・・・」とお念仏のように言っていて。〈ああ、言葉というのは面白いな〉と思いましたね、その時に。それでもその程度の拙い作品なんですけれども、「ああ、そうだ。その通りだ。こうすると、あじさいの芽も椿も喜ぶよ」と言ってもらったんですね。その一言がずーっと今も嬉しいというか、嬉しかったというか。
 
西橋:  麦浪和尚が「落椿もあじさいも喜ぶよ」と。
 
宇多:  「喜ぶよ」って言って貰ってね。ほんとはその時にこういうのは「季重(きかさ)なり」と申しまして、季語がたくさん入っていたり、定型―「五七五じゃないじゃないか」と、その時に言われたら、たぶん私は俳句をしていなかったかも知れない。
 
西橋:  枠を嵌めようとされたら。
 
宇多:  ええ。とにかく何かを言葉にするということで、面白いなと思って、それから何となく病み付きになって始めました。
 
西橋:  句会に参加なさるようになったのは?
 
宇多:  しばらくして、もう少しお姉さんになってから行くようになりましたね。二十代になってからですね。句会に行きましても若い人がいませんでしたね、当時は。現代詩をするお友だちが多かったもんで、俳句をする人が少なくてね。俳句をしているということをいうのが恥ずかしかったんですよ。
 
西橋:  なんか年寄り臭いみたいな感じがする?
 
宇多:  う〜ん。何故かみんなの前でいうのがとても恥ずかしかったですね。これは私どもと同じ年代に俳句をお始めになった方々と共通でその感覚をいつも語り合う。これは今の若い方にはどうしても解ってもらえない。隠していました。
 
西橋:  そうですか。俳句をやっているということを。お若い頃の句会ではご苦労もおありでしたか?
 
宇多:  ええ。それは今から思うと、当時はおじさんに見えたんですけれども、今から思うと、まあ四十代ぐらいだったんでしょうね。そういう人たちが口角に泡を飛ばして俳論を交わしております。そこに娘が一人入っていっているんだから、何をいうているのか解らない。だけども当時はまだ句会を「運座(うんざ)」という古い言い方をする人だとか、どっかへ吟行(ぎんこう)へ付いていくと、「お嬢さんも発句(ほっく)をおやりか」と。「発句」というようなことをいうようなおじさんがいる時代でしたから、その中で若い私としては、それなりに付いていくのが必死でしたね。それで当時はおじさんたちは句会が終わると必ず飲みに行きます。飲みに行くけど、私はそういうところに、「お前は来ちゃいかん」「お家へ帰れ」と言われる。行きたいと思いながら。ところがある日一度だけ「今日は付いて来るか」という人があって、行った時には、初めて居酒屋のようなところへ行って、そこでおじさんたちは俳論を交わすわけですよ。その時に初めて、「これは葱鮪(ねぎま)というものだ」というようなね。家では食べられないようなものを。でもそれでも当時は、まだ女の子が外でお酒を飲むなんていうことは絶対いけないと思っていたから、ただ傍にいるだけでしたけれども、まあそれやこれやが勉強でしたね。今けっこう飲みます(笑い)。やっぱり俳論のために意見が違うわけですね、みなさん。これは「の」の字がいいという人がいる。「に」の字がいいという人がいる。ただそれだけのことで延々とやるわけですよ。俳論をたたかわせるわけですよ。そうすると、喧嘩をしているんじゃないんだけど、なんとなくそういう雰囲気というのはやっぱり日常生活にございませんからね。大のおじさんたちが寄り集まって、一字のことで、「ああだ、こうだ」というような世界は。そういうことは私には刺激的で面白かったですから、けっこう引っ付いて歩いていました。面白かったですよ。吟行と言って俳句を作るために郊外に出掛けていっても、そこでいろんなことが―草の名を教えてもらったり、「これは石蕗(つわ)だよ」とか、柿の葉っぱが赤くなると、「これは柿紅葉(かきもみじ)というんだよ」とかね。柿若葉(かきわかば)が柿紅葉(かきもみじ)になるのだという。そういう言葉をたくさん知っていく楽しみもありましたし、今思うと、それは歳時記の中の世界の言葉なんですけれども、非常に歳時記の言葉も楽しかったし、結局不愉快なことがなかったんですね。一緒におじさんたちの中にいても。
 
西橋:  宇多さんの初期の作品からいくつかご紹介頂けませんか。
 
宇多:  そうですね。
 
     蓑虫(みのむし)のいのちふくらむ風の中
 
というごく初期に作った句があるんですね。これをある時評なさる方が新聞で紹介して下さって、佳い句だと言って。その時にもの凄くうれしかったですよね。だけども、〈あ、自分の句を違う人が見るんだな。句会だけでなくて、違う人がみるんだな〉と自覚みたいなものがその句をもとに感じましたね。蓑虫がふっと垂れてきますでしょう。そうすると風でふわふわとします。そうすると、俳句をしていなかったら、多分あれは害虫として、むしり取って捻り潰すくらいでしょうけども、やはりそこに今思うと、いのちがゆらゆらとしているというふうに見たというのは、やはり若かったんだなと思って。好きですね、若い時の句ですけど。
 
     運命線生命線にぎやかに冬
 
という句があるんですね。これね、若い時というのは、ほんとに自分では決めがたいような人生の岐路みたいなものに立つ時がある。こっちを選ぼうか、こうしようか、こうしようかという時に、私は別に手相がどうこう言うんじゃないんだけど、何となくこんなことしてみて、これでいいんだろうかなんて見た、そういう感慨の句ですよね。若い時の句というのは未熟ですけれども、今だったらほんとに手を入れたい句がたくさんあるんですけれども、もう今では二度と作れない、ああいう句は。そういう意味では愛しいですよね。その未熟がむしろ愛しいというかしらね。そういう句が多いです。
 

ナレーター:  俳句を目指す宇多さんは、戦後を代表する女流俳人の一人、桂信子(かつらのぶこ)(1914-2004)との出会から、俳人としての生き方を学び取りました。
 

 
西橋:  桂信子さんの作品とのお出会というのはどういうことだったんですか。
 
宇多:  これは昭和何年でしたでしょうかね、初めて『昭和文学全集』というのが出たんです。その時に私の家は、父が復員してきたばかりで、そう裕福でもなかったのに、父がそれを買ってくれたんですね。全巻五十冊ありましたね。その中に俳句短歌集が一冊ありまして、今、私、大事にしておりますけれどもね。それがあって、その中を読んでおりますうちに桂信子のページに突き当たって、それで句を読んだら、やはり女の人で珍しい―女の人はほんとにその俳句集にもなかったんですね。その時に珍しい女の人だと思って読んでいましたら非常にピンとくるものがあって、それがきっかけでしょうかね。それと母と同じ生まれ年だったということですね、大正三年という。
 
西橋:  桂信子さんが師でいらっしゃるわけですけれども、桂信子とのご本人との出会というのは?
 
宇多:  これは昭和四十五年に桂信子がそれまで一人で他のところでやっていたご自分の「草苑(そうえん)」という主宰誌をお持ちになって場をお広げになった。そこへ参加したんです。
 
西橋:  最初から?
 
宇多:  はい。創刊の頃から。神戸に永田耕衣(ながたこうい)という先生がいらっしゃったんですね。私の親しい友だちが永田耕衣先生のお弟子さんで、行かれるたんびに付いて行っていたんです。そうしたら、先生が大変可愛がってくださって、いろんなお話をそこで伺いましたね。その時に、「桂信子が本を出すよ」ということで、それで、〈あ、あの桂信子だ〉と思って、行こうと思って決めて行きましたね、最初の創刊第一号の句会に。それが本当の出会で、終生桂信子の最期の日までずーっと勉強させて頂いた。
 
西橋:  二○○四年に亡くなるんですね、三年前に。九十歳でいらっしゃった。
 
宇多:  そうです。
 
西橋:  その桂信子さんの傍で、やがて「草苑」の編集長をなさるんですね。
 
宇多:  ええ。編集を手伝うようになりましたね。ほとんど三十年間ずっと手伝ってまいりましたね。
 
西橋:  傍でずっとご覧になって、桂信子さんの俳人としての生き方といいますか、人間としての生き方と言いますか、そういうところは?
 
宇多:  俳句の先生ではあったんですけれども、「ここが拙いよ」とか、「こう変えたらいいよ」ということはまあなかったですね。ただ非常にキリッとした方で、凛とした方でしたから、何か事に対面した時、殊に何かを選ぶというような時の態度、そういうものにハッとするようなことがしばしばございましたね。時流におもねないし、権威におもねないし、非常に卑しいことを一番嫌がるという。これは私が初学の時に可愛がってもらった遠山麦浪という人が、「卑しい人になっちゃいかん」ということを言われました。これはまあ俳人じゃなくてもそうなんですけれども、桂信子にも共通して、卑しい俳人にならないように、ということを言わなかったけど、今思うと、その一言に尽きますね。
 
西橋:  桂信子さんご自身は、ご自分の句について、お気に入りの句というのはおありだったんでしょうか。
 
宇多:  これはもうほんとに最晩年ですね―亡くなられる数ヶ月か前に、「私はこの句が大好きなのよ」と言って、自分の句を恥ずかしそうにね―九十の女性でしたけど、恥ずかしそうにね。
 
     大花火何といってもこの世佳(よ)
 
という。大きい花火が空に広がる。なんといってもこの世はいい、と。「俳句というのは生きることを肯定する詩だ」ということを、いつもおっしゃっていたからでしょうね。「私はこの句が大好き」ということを言っていらっしゃった。
 

 
ナレーター:  桂信子の代表的な俳句です。
 
     一本の白髪おそろし冬の鵙(もず)
      男の旅岬の端に佇(た)つために
     青空や花は咲くことのみ思ひ
 
もう一人、宇多さんに新しい刺激を与えてくれたのが永田耕衣でした。永田は戦後独自の俳句の道を歩みました。
 

 
西橋:  永田耕衣さんの句会に出ていらっしゃったわけじゃないんですね。
 
宇多:  そうじゃないんですね。先生ご自身のお宅にしょっちゅう行きました。そうすると、自ずと俳句の話になるし、面白い話をたくさん聞きましたよ。あのね、お散歩しておりましたら、猫が余所の門柱にうずくまっていました。そうしたら、「猫のおでこを触ってみ」と言われて。そうすると、猫は皮からすぐ頭蓋骨なのね、骨なの。こういう感触というのはやっぱり物の存在ということをとてもよくおっしゃっていたから、物があるということを、自分で自覚していくというんだろう、自分で会得していくんだろう、ただ見て綺麗だとかじゃなくて、なんかぬるぬるしたものを手で触ってみるとか、白鳥だって綺麗に見えるけど首を触ってみろ、とかね。なんかあまりふわふわしたような句じゃダメだよ、みたいなので、諫(いさ)められたことがございますね。
 
西橋:  その触覚でもってきちっと自分の中に入れてみろ、と。
 
宇多:  ええ。入れてみろ、と。ですから、私は今でもこういう石だとか、こういう物を見ると触る癖があるんですね。木の幹だとかね。椿の葉っぱなんか素手で触ってはいけないんだろうけど触ってみたり。そうすると、椿の花の感触と他の花の感触が違うなとか、面白いです。
 

 
ナレーター:  俳句はその時々の心の記録だと、宇多さんは言います。
 
     さようならをどこで告げよう草紅葉
     夏波を両手で掴む三十過ぎ
     旅鞄軽し十月十五日
 

 
西橋:  宇多さんのこの掛け軸は芭蕉が書かれたもので?
 
宇多:  真筆で、これは非常に贅沢な軸の前に座らせて頂いております。これは「庭興即事東野芭蕉(ていきょうそくじとうのばしょう)」と書いてございまして、「庭興(ていきょう)」―庭に興味を持って目の前のことを句になさったということで、「東野」というのは東(あずま)の国ですね。東国の住まいに住んでいる芭蕉だということで、上方にいらっしゃって、江戸に行かれる時に、途中で美濃の国の本龍寺(ほんりゅうじ)というお寺に宿泊なさったそうです。その時にお寺のご住職さまに、ご挨拶で作られた句で、それを懐紙に認められたんですね。
 
     作りなす庭をいさむるしぐれかな
 
という句です。ちょうど今頃の時期の、できたばかりの綺麗ないい庭に時雨(しぐれ)がやってきたんでしょうか。時雨は初冬の雨ですからね。そういう句ですね。
 
西橋:  「作りなす庭をいさむるしぐれかな」。優しい字ですね。
 
宇多:  私は不案内で教えてもらったんです。「しぐれ」の「し」の字というのが、これが非常に味があるというか、こう長く書いていらっしゃる。これが特徴らしいんです。これは柿衛翁がお集めになった資料の一つで、こういうものがある空間なんですね、こういうのが一つあると。それとやっぱり日本語というのは非常に多彩ですからね。例えばこの「しぐれ」と言っただけでも、春雨から夕立から、まあ雨だけでもたくさん名前がこのように、語彙が豊富でしょう。その面白さがありますしね。「しぐれ」を「時雨」と書くようなね。芭蕉さんが「しぐれ」の「し」の字をずっと伸ばしたことで、時雨の雨が―時雨というのはわりと強いんですね、雨の勢いが―それがこう偲ばれる。非常に面白いことがいっぱいある。俳句というのは、日本の表現というかしら、日本の言葉にとっても非常に大事な表現形式ですよ。これは軽んじられるものではないと思うんです。でないと続いてきません、芭蕉の昔から三百年以上ね。
 
西橋:  宇多さんは四十五歳の時に、『りらの木』という第一句集をお出しになりましたね。それをお出しになる時のお気持ちというのは、どういうことだったですか。
 
宇多:  それまで私が学んできましたところの先生方は、「句集なんていうものは生前に出すものではない」と言われていたんです、当時。「句集は死後に一冊出ればいい」と言われるくらいだったんですね。自分もほんとに句集なんて出すものじゃないと思っておりまして、ずっと四十五までは出しませんでした。ところがやはり「纏めておいたほうがいいよ」ということになって作りました時に、この句を思い出しますね。
 
     ふるさとの火色(ほいろ)はじまる落椿(おちつばき)
 
火の色ですね―「ほいろ」。「落椿」というのは和尚に直してもらった。それ私の故郷なわけですね。この「落椿」という言葉をみるために故郷風景―心象の中にある故郷なんですね。それがうんと広がってくるという。そういう句がこの中にありますね。この句を見るとほんとにその時のことを思い出す。だから言葉というのはほんとにこれ見ただけでも。
 
     初夏の眼前の闇一騎飛ぶ
 
これは初夏ですから夏初めですね、目の前には暗闇の中にすっとなんか閃光のようなものが飛んでいくのが、私には馬が飛んでいくように見えたとかね。非常に面白かったですね、この句集は。
 
西橋:  今でも愛しい句集ですね。
 
宇多:  そうですね。今の歳では二度とこれができないというのが第一句集の持つ力、魅力かも知れませんね。今ひょっとしたらこの句よりは違う知恵はついているんですね。ところがこういう句はもうできないと思うと、これはとてもとても、やはり昔の若い時の写真を見るような、白髪の一つもない時代の私がここにいるんだと思うとね。
 

 
ナレーター:  宇多さんは「りら(モクセイ科の落葉灌木)」にある強い思いがありました。
 

 
西橋:  「りら」への思いを少しお話頂けませんか。
 
宇多:  これは私の父が―私は二歳の時で全然記憶にございませんけれども―北支ね、当時の中国大陸の北のほうへ出征致しましてね。それから十年間あちらに行ったままで、帰ってまいりませんでしたね。ずっとあちらにおりました。昭和二十一年に帰ってまいりましたけど、それまでずっと北支というところにいました。
 
西橋:  軍人でいらっしゃったんですね。
 
宇多:  はい、そうです。出征致しまして。その時に父が帰って来まして、りらの木―ライラックですね―その木の美しさを何故か妙に言っておりましたね。あちらでよく見かけたらしくて。日本ですと、北海道辺りにりらは咲くんですね。それがどんな木だろうと思って、どっかから頂いて来て、我が家に植えましたらかなり大きくなりました。
 
西橋:  大阪で?
 
宇多:  大阪に住むようになりましてから。そうすると、房は紫の綺麗な花なんですね。それを見ておりました時、なんか父を象徴するような木のように思えて。十年間、私は父とやむなく離れて暮らしておりましたから、急に圧縮してその後の何年間は父のことをとても興味があったし、楽しく過ごしましたけれども。それで父が亡くなりましてから、この句集を作ったんです。
 
西橋:  そうですか。じゃ、お父様の思いを込めて。
 
宇多:  そうですね。そういう憶いも含めて『りらの木』という句集を作りました。
 
西橋:  そうですか。
 
     父までの瓦礫(がれき)を越えるりらの枝
 
という句もその句集の中にありますね。
 
宇多:  そうですね。これはやっぱり「りらの木」という題名にしたくらい、父とりらの木というのは重なるんだけれども、やはり長じてきますと、葛藤もあるわけで、どうかして父離れをしなくては、というのでできた句ですね。
 
西橋:  でも十年間も留守だとまだ物心も付かない時にお父様は戦争にいらっしゃったわけでしょう。
 
宇多:  はい。
 
西橋:  帰って来られた時に、もう宇多さんは十いくつになっていらっしゃるわけでしょう。
 
宇多:  十でしたね。
 
西橋:  なんかちょっと最初は照れくさいというか、
 
宇多:  照れくさいんですね。ちょうどこういう座敷の長押(なげし)に、母が父の写真を掛けておいてくれました。ですから毎日それを見ております。それで写真を写す時にカメラのほうを向いた写真というのは、自分を見ているように思いますからね。その写真の前をお部屋のあっちからこっちへ来たりしながら目を合わせて、そういうことをよく子どもの時にしていました。ところが実際に帰ってくるとおじさんのわけですよ。今まで見たこともないおじさんがね(笑い)。急に「お父さんです」と帰って来ても、やはりお父さんだと思うんだけれども、今までいない人がやっぱり家で一番偉そうに座っているわけでしょう。ですからちょっと違和感がありましたけれどもね。でも優しい人だったし、写真集を買って来たり、本を買って来たりしてくれましたからね。とてもそういうことから勉強させてもらうことも多かったです。
 
西橋:  俳句なんかなさらなかったんですか、お父さんは?
 
宇多:  まったく。でも勧めてくれました。俳句をしたらいいというのを。ところがどうも初めは大人の真似をしたいんですね。俳句会にいくようになって、おじさんたちがやっているような真似の句を作ると、「どうもお前らしくない」と、いつも言っておりましたね。
 
西橋:  宇多さんの句をご覧になって?
 
宇多:  はい。飛んだり跳ねたりするのが好きでしたから、「どうもお前らしくない。大人しいな」とかいうのを、いつも言っていましたね。
 

 
ナレーター:  句集『りらの木』に収められた百六十二句のうち、「死」という言葉を使った句が十四あります。
 
     人の死に菊と柱の多い家
     鳥のごとくいつの日か死す三人(みたり)いて
     死に際は蝶いちまいをひきよせる
 

 
西橋:  その死を意識したご自身の体験としてはなんか?
 
宇多:  これはね、私のやっぱり空襲でしょうか。山口県におりまして、当時徳山で今周南市(しゅうなんし)と言いますけれども、当時徳山に燃料廠というとても大きな標的になる海軍の施設がございましたの。そうすると、空襲が終戦の年の七月二十六日だったと思いますね、夜明けに大変大きな空襲がありましたね。それまでに爆撃もあったし、その時にもうほんとに家が焼け始めましてね、ちょろちょろと。軒の辺りから焼け始めて、もうこれはここにいたら危ないというので、母が私に綿の入った夏布団に水を掛けて、それで私をくるむように―火の粉が飛んできますからね―火の海を逃れて川上へ―ずっと川がありました、市内を流れている―その川上の石の橋の下へ私を連れて行って、待避させてくれました。「そこで少し待っていろ」ということで、私はそこでしばらく待っておりました。そうしたら母は、祖父や祖母が気になるというので、「ちょっと此処で必ず来るから待っていなさい」と言って帰って行ってしまった。ところが子どもが永遠の時間というのを感じるというのは、子どもでもわかるんですね。この時間は、誰もついに来ないんじゃないかという感じでしょうかしらね。
 
西橋:  怖くなった?
 
宇多:  怖いんじゃなくて、誰ももう此処へ来てくれないんじゃないかという。寂しいんでもない。そこでウロウロし始めるわけです。ところが散髪屋さんがあった辻、お魚屋さんがあった辻というのがあればわかるんですけれども、それが全部焼け野原になって目印がないんですね、帰る自宅に。その道中には逃げて行く時、ちょうど七月で水田でした。ですから上から降ってくる、焼夷弾というと、これぐらいの筒に入ったあれがパラパラ、まさにパラパラ降ってくるんですね。そうすると、私が走っているここに落ちる、ここに落ちる。ですからほんとにその間で生き延びたわけですよ。私の前を行っていた人は直撃を受けてパッと倒れて死んでしまう。そういうところを潜って逃げていったんですけど、あれがもし麦畑だったら一面焼けていたなと思いますね。水田でしたから、パチャンジャッと消えるんですけどね。そういう体験をしながら、いざ空襲のB29がいなくなって自宅に帰ろうと思ったけど道がわからない。くるくる回っておりましたら―私はこういうお話は滅多にしない。六十過ぎてするようになったんです。機会あるたびにするんですけれど、矢絣を着た私の親しいお姉さんがご近所にいた。そのお姉さんが矢絣のもんぺの上下ね、とてもご自慢だったのを着たのが見えたんです。そうすると、道の傍に死んだ人がズーッと並べてあるんですね。あら、みんなが昼寝をしているのかしら、と思ったんですよ。人が死んだのを見たことがないから。九歳でしたからね。ところが一人で歩いているとぶっつかる。誰かが死んだ足にぶっつかる。そういう中をかいくぐっていて、〈あ、お姉さんがいるわ〉と思って、こう見たら手がグローブのように腫れ上がっていた。それも異常でしたけど、ふっと見たら首がなかったんですよ、首が飛んじゃって。
 
西橋:  その矢絣でお姉さんが?
 
宇多:  空襲で明らかにそうなったんですけどね。矢絣でしたね。それは首がなかった。そういうのを消そうと思っても、頭の一番奥に沁みついていますよね。ですからしばらく私は矢絣という模様を見ると、体が硬直してちょっとダメでしたよね。それで、私は高校へ行く頃まで、ちょっと矢絣を見たり、ブゥーといってお昼のサイレンが鳴ったりすると、空襲が甦ってきて、体がなんか固まるような、なんかどきどきとしてくる。今でいう、、一種の病気でしょうね。
 
西橋:  PTSD(心的外傷後ストレス)みたいな、
 
宇多:  そうなんでしょうね。今そういう名前があるけど、当時はないし、当時はこういう症状が出てもカウンセラーがあるわけじゃなし、ただ母が傍にいてくれて、風呂に一緒に入ってくれる、そういう時に。それでいつしか治っていましたね。私はいつでも思うけど、どんなことがあっても自分に治す力ってあるんですね。「いつしか折り合うよ」って。私、いつも言っているんだけど、折り合いが付くんですね。しょうがないと。克服していく力がある。ですからいつしか治ってくるというのかしら。でもやっぱり異様な症状ですね。どきどきしてくるという。そのあたりからが死というものが夢幻じゃないみたいな。
 
西橋:  第一句集の『りらの木』に死という言葉が多いというのも、そういうご体験から?
 
宇多:  なんかどっかにそれがひっかかって出てくるんだろうけど、まだそれでも自分の死ということとは、当時はまだ重なりませんでしたけど。
 
西橋:  頭の手術をなさったそうですね。
 
宇多:  ええ。ここからこう切ってね。手術をする前に、和歌山県の熊野へよく通っておりまして、あの時も、私はどうしようかなあと思っておりました。手術をしてよくなるという保証はないし、どうしようかな、と思って考えた時期がありましたね。でもお陰様で大成功だったんですけど、良いお医者さまに当たって良かったんですけどもね。ほんとにその時も、自分が考えている時に蛇がちょろちょろ出てきた。その蛇を見ていた時に、「ああ、切ってもらおう。頭の手術をやろう」と思って決心したんです。何かあの蛇が導いてくれたみたいでね、今思うと。穴惑(あなまどい)(秋の蛇のこと。冬眠前の蛇)という蛇で、のろのろした蛇なんですね。その蛇がこう出てきて、〈あ、手術をやってもらおう〉と思って決心したんです。
 
西橋:  どう繋がるんですか?
 
宇多:  それはわからないですね。なんか何かきっかけがあって、アッと思って、大手術をやったんです。助かって、それからというものは生きるだけ。蛇に助けられた。蛇はこう前に進むという力を持っていますからね。なんかそういうことで、〈あ、蛇がここへ出てきたということはいいんだ〉と思って決心しました。
 
西橋:  一九八四年に『片山桃史集』という本を出版なさいましたね。この片山桃史(1912-1944)という俳人との出会というのはどういうことですか?
 
宇多:  これは、ちょうど頭の脳神経のほうの病気になりました時に、退院しましてから家に籠もりがちになりますよ。人に会うのが嫌になるし。そうした時にごそごそ家でいろんな調べ物をしていました。その時に『旗艦(きかん)』という桂信子先生の日野草城(くさのそうじょう)という先生がお作りになった俳誌があったんですね。その『旗艦』の発行人としていらっしゃった方が、岡橋宣介(おかはしせんすけ)さんという方が亡くなられて、後にその『旗艦』の創刊号から終巻号までが手元にあるのを、ご遺族の奥様が「これをどうか後日の役に立ててほしいと主人が言っていたから、誰かに貰ってほしい」ということを人づてに、私のところに来て、「あなたが貰ってあげてください」ということで、私はそれを頂戴に上がりましてね。その本を見ておりました時に、句友でもある坪内稔典(つぼうちねんてん)さんが、「これ総目次を作っておくと後日役に立つよ」ということで、その『旗艦』の総目次を作ることにしたんです。まさに辛気くさい仕事なんですね。全部読まなければならないわけですよ。創刊号から終巻号まで全ページを。それをやっておりました時に、今まで名前はあまり聞いたことはないんだけれども、この俳人の句は好きだな、と思ったのが、この片山桃史の句だった。それから富澤赤黄男(とみさわかきお)という人の句だったんです。その富澤赤黄男という方はもうその時に、私は知っておりましたけれども、片山桃史という名前はその時初めて知ったくらいで、ずっと纏めて読んでおりますと、これがとてもグッとくるものがある。要するに、父と同じくらいの年頃で、戦地へ、ニューギニアに行かれたんですね。まず中国大陸を転戦して、最後にニューギニアに行かれて、いわゆる玉砕の島と言われるニューギニアで、最期を迎えられて、ついに遺品の一つも、遺骨一つも何にも帰ってこないという、そういう俳人だったんです。その俳句をずっと纏めて抜き出して見ているうちに、この人はこのままだと無縁仏というのかしら、そのまま知られることもなく、これほど青春三十で亡くなるまで戦争と俳句だけの人生だったわけですよね。そうしたらせめてその俳句だけでもお墓を立てたいと思って、私は資料収集を始めたんです。桃史の作品、文書、その他を十数年かかりましたけれども、全部集めて、この一集に纏めて、さてこれを出版するとなると大変だったんですよ。まず機動力がないし、それにお金がないし、すべて何にもなかった。知られている俳人でもないから出版社も相手にしてくれない。桃史が丹波出身ということで―今でいう兵庫県ですね―そこへ当時はまだ福知山線と言って、列車が今ほど便利でなかったものですから、ゴトゴト福知山線に揺られて行って、いろいろの方にお会いしたんです。
 
西橋:  片山桃史を知っている人たちがいらっしゃった?
 
宇多:  その当時はいたんですよ。多かったですね。同学校の同級生だとか、それとかお身内もとても協力してくださって、それと俳句の友だち、その他がとても協力してくださって。そうすると、私、この間ハッとしたんですが、当時は父と同じくらいの年頃でしたから、そのぐらいの父と同じ世代で、父は帰ってきたけど、帰らなかった人がいる、と。その人たちは同じ世代ですよね。ところが、今、私がこの七十になってきますと、三十で死んだ片山桃史は息子なんですよね。桃史は歳を取らないけど、こっちは歳をとる。だから、父であり、夫であり、兄であるような人たちがみんな死んで帰らない。今となったら息子が帰らないみたいな感じでね。こっちは歳をとるけど、桃史は歳を取らないままね。生前に残した、これが桃史の句集なんです。『北方兵団』という。昭和十五年にちょっと帰国されたんです。その時に帰って来て、片山桃史はこの『北方兵団』を作り、その桃史はニューギニアで戦死した。その後、ニューギニアでお身内を失われた方が、俳句に関係なく、たくさんいらっしゃって、遺骨の収拾に何度か誘われましたけど、私は行かなくて、句集を作るほうでお墓を立ててあげようと。今も聞きますと、ニューギニアにはまだまだ帰れない遺骨がたくさんあるんですね。ニューギニアのわずかな生還者が協力をしてくださったんです。それでどういうところにいて、最後がどうだった、というのをその方から聞くことができたんです。そういうことは俳句とは無縁なようですけど、やはり俳句との繋がりですね。
 
西橋:  戦地からも投稿していたわけですか?
 
宇多:  そうです。昭和十六年ぐらいまでそれができたんですけど、ニューギニアに行ってからは何にもできなくて。
 
西橋:  『旗艦』という俳句の雑誌の中の片山桃史が作った句に、ピンとこられたわけですね。宇多さんを掴まえた桃史の句というのは、例えばどんな句があるんですか。
 
宇多:  こういう句があるんですね。
 
     透明な紅茶軽快なるノック
 
お紅茶なんて飲んだり、ドアをノックしてお部屋に入ったりという生活、いきなり都市生活者の生活に入っていたわけですよ。ですから初めは、
 
     さくら咲く朝のスリッパひややかに
とか、やたらにそういう句を作っています。
 
西橋:  生まれ育った丹波の農村から都市生活者になった?
 
宇多:  都市生活者になった。新興俳句というのは都市の俳句なんですね。それを勧めたし、推進した人たちが農村に住んでいていきなり都市へ来て、そのビルだとかタイピストだとか、お花も―菊の花とか桜の花じゃなくて、カーネーションだとか、バラとか、そういう今までの生活になかった新素材、それを句に取り入れようというのが新興俳句です。とっても魅力が当時あったと思います。当時青年たちにとってね。
 
西橋:  でも、中国の戦地から送ってきた句やなんかではどうですか?
 
宇多:  戦地から送ってきた句となりますと、これはもう戦場俳句なんですね。ですから片山桃史には、戦争俳句というレッテルがズーッと終生付いて廻ったんですね。今でも俳句辞典なんかで引きますと、片山桃史は「戦争俳句の片山桃史」と言われるけど、好きで行った戦争じゃない。けど、行ったら戦争の現場だったから、その時の現場を句にした。それが片山桃史の後年の句ですね。
 
     なにもない枯野にいくつかの眼玉
 
という句ですね。斥候(せっこう)と言いましょうかね、見張りに立つと、何にもないんだけど、全部が敵の眼玉に見えるみたいな感じなんですね。
 
     一斉に死者が雷雨を駆け上る
 
死んだ人が一斉に雷雨とともに駆け上がっていくという句を残しておりますね、
戦場から。
 
ナレーター:  戦争で志半ばで倒れた片山桃史の俳句を伝えることは、戦火を生き延びた自分にとって、大切な務めであると、宇多さんは言います。片山桃史の戦場俳句です。
 
     我を撃つ敵と劫暑(ごうしょ)を倶(とも)にせる
     屍(かばね)らに天の喇叭(らっぱ)が鳴りやまず
     敵眠り我眠り戦場に月
 

 
西橋:  宇多さんには『ひとたばの手紙から―戦場を見つめた俳人たち―』というご本があるんですが、一九九二年にお出しになった。これは戦争と俳人のお話なんですけども、プロローグのところで、アメリカで宇多さんが預かったひとたばの手紙のことを書いていらっしゃいますね。
 
宇多:  これもね、こういうのを奇しき縁というんでしょうね。私はどうもこういうのをする役にどうも宿命的にあたるみたいで、私は何気なく遊びに行ったアメリカで、ちょっと知り合ったジャズシンガーだったというご婦人(メリーアン)が、例の硫黄島に、戦後、自国の兵士の慰問に行かれたのね。あそこは洞窟があるみたいなんです。その時に、「洞窟に入っていたら奥から声がした。それで声がしたので、振り返ったけど誰もいない。出ようとすると声がする」とおっしゃる。「呻き声のようなものがする。それで奥へ入っていったら、ちょっと岩の棚のようなところに束があったんです。なんかくるんだもの、しで紐で結んだものが。これだろうと思って、それを自分の上着のポケットに入れて持ち帰った。開けてみたら日本の字ということはわかったけど、何が書いてあるかわからない。でもこれはどうも棄てるに棄て難く、五十年間ずっと持っていらっしゃった。で、日本の方に会う機会がある度に持って行ってお渡ししようとするけど、どうも渡しそびれて今日になりましたけど、あなたのお国の方ですからこれを持って帰ってください」というので、言付かって帰ってきたんですよ。一種の厄介を引き受けたわけですよ。それで帰りまして、あらゆる手だてで捜しました。それが宮崎県の椎葉村(しいばそん)の出身の兵士で、手紙を出した人はその兵士の奥さんに当たる方だった。その手紙を全部見ましたけれども、「麦ができた」とか、「麦刈に隣の誰かが手伝ってくれた」とか、「馬の子が生まれた」とか、そういうことしか書いてないんですね。「お父さま、お母さまはお元気です。あなた、どうぞ軍務にお励みください」みたいな、それがいわゆる金釘(かなくぎ)流で書いてあるんですよね。ボツボツと。それが兵士の妻になる人と子どもさんが宛てた手紙なんです。だからその兵士はきっとそこで果てられたんでしょうね。ところが手紙は残ったんですね。それでまず役場に問い合わせましたね。宮崎県の椎葉村役場に。そうしましたら、椎葉村というのは例の平家の落人(おちゅうど)の伝承のあるところで、お名前が「椎葉」さんと「那須」さんと、その兵士のお名前と、それが多いんですよ。これだけじゃわかりにくいというので、ついにわからなかった。そうこうするうちに戦後五十年という年を迎えまして、わからないままに本を作ったんです。
 
西橋:  ご遺族がわからないままに、
 
宇多:  はい。そのまま本を出しましたら、それを私の句友の津沢マサ子さんという方が読んでくださって、「この名前聞き覚えがある」と言いまして、それで、「自分は椎葉の出身であるけれども、母親に聞いてみよう」と言ってくださった。それで夜中の九時半でしたね。ああいう時間て覚えていますね。郷里のお母さまは九十歳だったんです。「今頃の時間に電話したら迷惑だから明日でいいわよ」と言ったのを、「いや、こういうことは今がいい」と言って、お電話してくださった。ところが急に起こされて、「こういう人のことを知っている?」と聞いても、「それはわかりませんよ」と。お母さん、ぼおっとしていらっしゃって。「わからない」という返事だった。ところが目が冴えてこられてでしょうね。それで今度あちらの九州から電話がかかってきて、「その人のこと知っている。それはこうこうこういう家の誰々だ」ということをおっしゃったんですね。ところがそれは屋号だったんですよ。同姓が多いと、屋号で「何とかの何々」と言いますから、屋号で思い出してくださって。すぐ私は翌日宮崎県の役場に、この件に関わってくださっている方がありましたので、その方に―役場の方も椎葉さんとおっしゃるの―それですぐご遺族がわかって。椎葉村におられて、ちょっと宮崎の方には出ていらっしゃったけれども、いらっしゃったんですよ。すぐ連絡がついて、私はその手紙を持って行きました。それで、「よく帰ってきた」というので、私はお墓参りに行きました。屋敷墓でしたけどね。行きましたら戦死したというので、このくらいの石ころを一つ役場から貰った、と。
 
西橋:  白木の箱かなんかに?
 
宇多:  いや、このくらいの箱だったの。それに石ころが入っていた。それが、「これがお父さんです。戦死なさった」と言って、仏壇に置いてあった。そうすると、その娘さんはみんなが寝静まっても、私が生きた父を迎えたように、その娘さんは石ころを迎えられたわけです。そうすると、夜中に起きていって、箱を振ったらコロコロ音がした。「これ、お父さんか」と思ったと言っていらっしゃった。たまたまこの片山桃史であったり、椎葉村の兵士であったりしておりますけれども、こういう方が日本中に大勢いらっしゃるんですよね。
 
西橋:  その中の一人だったわけですね。
 
宇多:  それがみんな俳句の縁で繋がっていたということですね。
 
西橋:  俳句歴五十年以上なんですけれども、その俳句歴とご自分の人生の重なりというのは何だったんですか?
 
宇多:  俳句というはなにも裃(かみしも)を着てやるものでもございませんからね。私は普段着で、筵の上でにぎりめしを食べながらでけっこうだと思います。ですからあんまり仰々しくならずに俳句をする。ところが、「高が俳句だけども、されど俳句」の部分があるんですね、自分の内部には。ですからそこの両方を上手くバランスを取りながらやっていけたらいいと思いますね。俳句というのは、ことさらなもんでなくて、例えば私にこの手があったり足があったりと、それと同じように、俳句が自分の内部にあるような気がする。非常に自然体で自然の形でね。いわゆる天然とか自然とかというものがあるのであれば、それは私の俳句がそうですね。木が生えていたり、草が生えていたりするのと同じように、自分を取り巻いているものの一つとして俳句がある。自然というかな、自分にとっては自然の一つというかな、我が身即俳句みたいなところがありますね。だからあんまり頑張ろうとか、ぎんぎらぎんにしようとかでなくて、もう私が歩けば俳句も歩く。私が蹲(うずくま)れば俳句も蹲るみたいな、そんな感じがします。
 
西橋:  じゃ、このことを一生懸命詠むんだという感じで、どういう言葉が、なんてことはあんまり、
 
宇多:  いや、それはやはり人知れず、やっぱりなんかいい言葉はないかと思って、言葉の漁渉と言いますか、漁(あさ)りますよ。ですから歩いていても看板の文字だとか、駅のアナウンスとかというのが非常に刺激になります。要するに、日本語で組み立てられたものが全部ね。常にスタンバイをしていなければいけないわけです。作らない日が続くと、俳句と縁がない日が続くと、萎(しお)れるような感じがします、自分がね。自分が作るだけではなくて、誰かのを読むとか、言葉を面白いと思うとか、何か俳句じゃなくても、何かそういうものがないと。
 
西橋:  五七五の中に非常に深いものが、
 
宇多:  ありますね。短いから言えないと言うんじゃなくて、短いからこそ言えるということって多いんですよ。これが、何でも言いなさい、と言うんだったら、言えないけど、短いからこそ言えるというのは、ある程度の感覚も大事だし技術ですね。それと俳句はトータルなんですね。日本の文化―例えばこういうところに座っていると、日本座敷とか、夏座敷、冬座敷、そういうものに関わる、食べるもの、衣食住、トータルなんですよね。農村、漁村、山村の暮らし、街の暮らし。ですから非常にやってみると、奥が深い。非常に立体的なものです。俳句というのは平面でぺらっとしたものではないです。そこを見極められると、これは抜けられないですよ。
 
西橋:  俳句人生五十年、宇多喜代子さんの俳句から、
 
     主義主張異ってよき花見かな
     粽(ちまき)結う死後の長さを思いつつ
     考えを打ち切る青葉木菟(あおばづく)が鳴く
 
     これは、平成十九年十二月九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである