仏道に生きる
 
                      御誕生寺住職 板 橋(いたはし)  興 宗(こうしゅう)
一九二七年、宮城県多賀城生まれ。東北大学卒。一九五三年、渡辺玄宗禅師について禅門に入る。その後、井上義衍老師に参禅す。福井県武生市・瑞洞院住職、石川県金沢市・大乗寺住職などを歴任。一九九八年、神奈川県横浜市の大本山・總持寺貫首、曹洞宗管長に就任。二○○二年、貫首・管長の公職を辞し、現在福井県越前市の御誕生寺住職。著書に『良寛さんと道元禅師』『むだを堂々とやる!―禅の極意』ほか。
                      き き て   金 光  寿 郎
 
ナレーター:  厳しかった残暑も去って、日ごとに秋の気配を濃くしている福井市越前市。ここは平成十七年の十月に元の武生市(たけふし)と今立町(いまだてちょう)が合併して新しい市になりました。十月の初め、市内を流れる日野川の東にある御誕生寺(ごたんじょうじ)をお訪ねしました。福井県には道元禅師が創建された永平寺があり、此処御誕生寺は総持寺(そうじじ)を創建された瑩山(けいざん)禅師(1268-1325)がお生まれになったところに因んで名付けられました。御誕生寺の住職・板橋興宗(いたはしこうしゅう)禅師は、昭和二年のお生まれで、現在は雲水の指導と、また建設中のこのお寺の完成のために尽力しておられます。雲水たちは、四、九のつく日を除いて、毎朝近郷近在の街や村に托鉢に出掛けます。
板橋興宗禅師は、金沢市の名刹大乗寺の住職や横浜鶴見の総持寺貫首や曹洞宗管長などの職も務められました。宮城県の農家に生まれ、今年八十歳。大学卒業後、すぐに出家してから半世紀が過ぎた現在の心境をお伺いします。
 

 
金光:  よろしくお願い致します。今日は曹洞宗の総持寺をお作りになった瑩山(けいざん)禅師のご誕生のところに来ております。御誕生寺へお訪ねしているわけでございますが、瑩山禅師という方はどういう方でございますか。
 
板橋:  大本山永平寺を開かれた道元禅師はどなたもよくわかっているんです。道元禅師は一人、二人を相手にして、本当の本物を育てるというので、京都に一度興聖寺(こうしょうじ)を建てられますが、それを捨てて、今現在ある越前の山奥に入られて永平寺を作られたのです。ですから、お弟子さんたちは実にほんとにごくごく少なかったんです。その道元禅師からみて四代目にあたる方が、この越前の辺りで生まれられた瑩山禅師なんです。その瑩山禅師のもとに、たくさんの弟子が育ちました。そのお弟子さんたちが全国各地にお寺を建て始めたのです。いわば道元禅師は山の頂上で滾々(こんこん)と清らかな水を噴きだしておった。それが細々と流れてきて、瑩山禅師の時代になって大きな湖になったようなものですね。そこから全国に川が流れたような形ですね。そんな意味で曹洞宗一万数千ヵ寺ある現在のお寺の大部分がここの湖から出たお寺だということになります。それが能登の総持寺を中心にして出たものですから、能登の総持寺が本山になりました。それで永平寺の道元禅師が高祖(こうそ)と呼ばれるのに対して、瑩山禅師は太祖(たいそ)と呼ばれているのです。その瑩山禅師がこの辺にお生まれになったというのです。御誕生寺というお寺を建てようという運動は数十年前から、あるいは百年ぐらい前からあったのです。それがご縁がありまして、この辺の土地をご寄付して下さり御誕生寺を建てるようにすすめて下さる方がおられました。私がそのご縁をいただいて現在にいたっているわけです。
 
金光:  今その本堂をこれからお建てになろうというところでございますけれども、伺ったところによりますと、板橋禅師さんはこの土地とは最初ご関係がなくて、
 
板橋:  勿論そうです。
 
金光:  仙台のほうの農家のお生まれだと聞いていますが、なんで禅のほうの道にお入りになったんでございますか。
 
板橋:  戦争中に、いわゆる旧制中学というのがありまして、そこから海軍の幹部を養成する―今の防衛大学にあたるような海軍の兵学校というところに入りました。一年ほどで敗戦になりましたから、宮城県の家に帰ったんです。ところが海軍におった時から肋膜を患っておったのを知らなかったんです。運動するとヒューヒューと胸が痛むんです。人知れずおトイレで休んでいたこともありました。朝起きるとシーツがびしょ濡れになっているぐらい寝汗をかいておった。それが病気であることも知らず、同僚と同じ日課をこなしていたのです。それから敗戦となり、郷里の仙台の田舎に帰りましたら、すぐ入院ということになりました。そんなこんなで、二、三年療養生活をしていました。それから仙台の大学に入ることになりましたら、我々の同級生から四年も遅れちゃったんですね。今なら「四年遅れたらどうしたんだ」と、人にも言いますけれども、当時としたら大変な劣等感と屈辱感でした。厳格きわまる兵学校生活から、急に自由わがままな生活になったのです。生活態度が万年床になりますと、「こんな筈じゃない、こんな筈じゃない」と言いながら、ぬるま湯にひたったような生活から抜け出せず悶々としていました。そんなこんなんでノイローゼやら不眠症みたいになっておりました。その時に仙台で、「坐禅をしながら学生たち数人が仙台の大学へ通っている」ということを聞いたもので、そこへ入れてもらったのです。禅寺で規律ある生活しながら通学しているうちに、〈はぁ、私はもうこれ以外に生きる道がない〉ということを自覚しました。それが坊さんという道に入る決定的な動機ですね。
 
金光:  以前、その頃自分の決心だとか、周囲の方たちにいろんな言葉を書き記した手帳を拝見したことがあるんですが、ちょっとその最初のところを見せて頂けますでしょうか。
 
板橋:  自分にもこんなのがあることを忘れておったのです。昭和二十八年三月十九日ですね。
 
金光:  「発菩提心(ほつぼだいしん) 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど) 正念相続(しょうねんそうぞく)」と書いてあります。
 
板橋:  そうですか。
 
金光:  やっぱり覚悟を自分自身に言い聞かせた。
 
板橋:  その当時、大学生が卒業する頃に就職で、みんながわいわいと騒いでいる。私は不思議でしかたなかったですね。就職戦線でなんでウロウロしているのかと思って。私にはこの僧以外にないと決まっていましたから。
金光:  それで決心されたわけですが、この次ぎのページにお母様の言葉、「出家を許す」という。まあ厳しい一言。
 
板橋:  父親が、幸か不幸か、私が入院中―敗戦後の昭和二十年の十一月頃に、脳溢血で急逝するんですね。それも私にとっては坊さんになる一つの因縁というものですね。父親が、もし生きておったら、坊さんになるなんて話もできません。私を、もう少し金の儲かるようなお医者さんにでもしようと思っておったですからね(笑い)。「私が坊さんになる」ということはおくびにも出せんような家庭でした。幸か不幸か父が亡くなっておった。それで弟一人おったのですが、母親に、「頼む、頼む」とお願いしました。母親というのは情に脆いですから、早く月給を取って貰いたかったのでしょうが、「まあ、それじゃ」というようなことで許してもらったのです。
 
金光:  それが昭和二十八年のことですから、現在、もう半世紀経っているわけですね。で、その間ずっと伺うところによると、修行の道場のある、僧堂のあるお寺でずっと過ごす時間が随分長かったそうですが、世の中の―ここの誕生寺のお仕事ならお仕事が、必ずしも思うようにいかない状況にも出会うことがおありじゃないかと思いますが。
 
板橋:  大ありですね。
 
金光:  その時はどうなさるんですか。その出会は?
 
板橋:  それは、今、本堂を建てようとしています。あるいは釣鐘までも作ろうかとも思っています。いろいろな計画がありますね。その通りに、思うようにお金が集まらない。どうしようかな、どうしようと絶えず、坐禅中も考えています。(笑い)
 
金光:  そういうことを考える?
 
板橋:  それは考えます。それは考えなかったらできません。(笑い)
 
金光:  でも思うようにパッと集まれば問題ないですけども。
 
板橋:  集まったら集まったなりに、また次々に夢が出てくるでしょう。人間ですからね。出てきたら出てきただけ考えるでしょう。
 
金光:  あんまり思うようにならなくても、困った、困った、ということではないわけですか。
 
板橋:  出来なければ、しょうがないじゃないですか。(笑い)
 
金光:  それはそうですけれど(笑い)。頭でいろいろあれこれ、くよくよ考える。それを普通煩悩というらしいですけれども、あんまりくよくよお考えにならない。
 
板橋:  そうですね。もし本堂を建てるにしても―例えば地震になって潰れてしまった。焼けちゃった。どうしても建物を建てなければならない。金がないということならやはりいろいろ金策で走り回るでしょうね、また努力もするでしょう。私にすれば、もう一、二年生きている間に本堂や坐禅堂でも出来て、正式の修行道場にできればいいがなあ、という一種の夢ですね。理想ですから。ダメならダメで仕方がありません。またなんらかの見込みが多少あるからやっているのでしょう。地震でやられた能登のように是非それをやらなければならん、やらなくちゃというのであれば托鉢もするでしょう。全国のお寺さんを廻ってもお願いもすることでしょう。
 
金光:  そうすると、言葉が悪いかも知りませんけども、ある程度そういう大きな動きにお任せするというようなところが、
 
板橋:  お任せね。そういう事業的なことのお任せばかりではありません。自分のいのちをいつでもがお任せですね。自分の息づかいが宇宙大に生きようとする気をおろそかにするようではいけません。
 
金光:  あ、そうですか。
 
板橋:  ただし、生きよう、生きよう、としてはいけません。呼吸困難になりますからね。そうじゃなしに、ごく自然に、じねんに息づいている様子ですね。どこにあっても足りている生き方ですね。
 
金光:  そこのところを自分の身体の姿勢でいうと、私たちが日常の生活で、わが身体をどういうふうにすると、そういう自然な、良い・・・
 
板橋:  自然にですか。一番精神の安定する方法は姿勢をこう正すんですね。背骨を真っ直ぐにして、こうやって息をしていると、自ずと腹式呼吸ですね。それは仏教や、東洋の呼吸法では丹田呼吸ですね。丹は、いのちの泉がここで溜まっているという意味で、丹田でしょうね。丹田呼吸が自ずとやれていると、精神安定しますね。これは医学的にも、坐禅によりセロトニン(情動に影響する神経伝達物質)が分泌されるとか、いろいろ学問的にも研究されています。正しい姿勢というのは、自ずと精神安定に大変いい、ということが科学的に証明されている。これは当然ですね。
 
金光:  そうなると、心のほうも変わってくるもんですか。
 
板橋:  息づかいが安定すると、自ずと精神も安定しますね。
 
金光:  それは最初におっしゃった万年床的な生活のスタイルとは全然違ってくるわけですね。
 
板橋:  違いますね。寝ころんで頭だけでゴチャゴチャ考えこみます。それを丹田呼吸やてると、頭のほうが空になるんですね。風通しがよくなる。頭の中が風通しがよくなるということは、身体全体―脳も含めた、この六十兆の細胞の働きがごく自然にフル運転しているんですね。連携がうまくいってフル運転している。自分から使わないけれども、コンピューターが必然に作動している状況ですね。それを「自然(しぜん)」と―仏教でそれを「じねん」と言うんですね。
 
金光:  「自然」と書いて「じねん」と読むわけですね。
 
板橋:  ええ。ところがですね、英語で「ナチュラル(natural)」の自然と仏教的な自然(じねん)を一緒にしちゃったんですね。西洋の文化が、自然というと、あの自然現象を自然と見るらしい。仏教のほうの「自然(じねん)」は、自ずから燃える。「然」は燃えるの言語です。自活動している様子、自然体で活動している様子を「自然(じねん)」というんですね。いわゆる自然現象も含めた身体のほうもですね。西洋のほうは、身体の現象までは自然と言わないと思います。私は、英語の先生に聞いてみたいと思うんですが、「ごく自然な態度、ごく自然にやれている、という時には、英語ではどう表現するのか」と聞きたいですね。ナチュラルとかというのはあまり使わないんじゃないか。いわゆる作為のないというような表現はするけれども、ネーチャー(nature)というような表現と違うと思います。こちらから意志のない、作為のないというような表現の英語を使うんじゃないかと思うんです。ところが日本の仏教の「自然(じねん)」はですね、身も心も自然現象も含めた自然(じねん)なんですね。自分が「自然(じねん)」になると、見るもの、聞くもの、感じることすべてが「自然(じねん)」なんですね。
 
金光:  普通日常生活で、自然にいろんなことをするという場合、何か欲しい物があると、あるいはすぐ欲しいと思うのも自然と思ったりですね、身体を調え、呼吸を調えての自然と、それから日常生活で、物が欲しいとか、なんかがしたいとかいう、それも自然の中に入るのかどうか。身体と心の使い方みたいな、その辺のところは呼吸を調える生活の中からご覧になると、どういうふうに?
 
板橋:  非常に微妙なとこですね。非常に微妙ないいご質問ですね。いわゆる身体をみだりに、わぁわぁやっている時にこれ自然なんですね。これも食いたい、暴れたり、一杯飲みたい、これも自然なんですが―こういう表現をしましょうか、ここに盥(たらい)があったと。それが波だっている時に、水面に写るのも波だって見えますね。これも自然ですよね。ところが静かになっているところで手をかざすと、比較的まともに見えますね。これも自然です。ところが身体全体、宇宙全体からの生き物とした時に、どれが自然の理法にかなっているか、無理のない自然にマッチした生き方でしょうか。乱れるよりは冷静に受け取られるような、自然のほうが宇宙全体のリズムの中に生きるものとして真っ当じゃないですか。頭の中がゴチャゴチャやっている時には、自殺するのも自然になります。人を殺すこのも自然になります。人を殺すことも自然のなりゆきですね。乱れているほうも、それも自然という言葉を使えば自然なんです。やはり波が立たないような状況になっている時の判断というのは、大自然の中に息づいている人間としてどれが良いか悪いか、理屈なしにわかりますね。私はよく「愚痴を愚痴らない」ということを言います。愚痴までは出るんですが、「その愚痴をグチグチと思いつづけない」。たとえば「痛いなぁ」と気付いた時に、それからグチグチと不平を言いたがる。これは頭で考えるんですね。その時に、次々に頭で考えこまないことです。腹が減ったら腹の減った状況におるんですね。腹の空(す)いた状況におるんです。我慢じゃダメですね。腹の空いたのと一つになっているんです。食べるのも自然ですけど、空腹感と一つとなっている。これをすばらしいことなんです。人々は肉体的にも感覚的にも刺激でまぎらわせの生活をしたがります。―これはちょっと話が前後しますが―寂しい時は寂しいんですね。今の人だったら寂しさも感じないぐらい次々にゲームをやるとか、映画を見るとか、まぎらわせる。
 
金光:  そうですね。
 
板橋:  その寂しいなら、寂しさと一つになっているのが日本文化の「寂び」ですね。今日は誰も訪ねてくる人がなく侘びしいなあと思うとき、それを誤魔化さないで、侘びしさとひとつの息づかいでおる。それが「侘び」です。その時の落ち葉の落ちるさまやら蛙が飛び込む水の音のようなものを肌で感じている。西洋の文化ではこういうことをどう表現するのでしょうか。これが心が乱れておったら、葉っぱが落ちようと、蛙が飛び込もうと全然気付かないですね。同じ自然でも、何でもやってもいいといっても、やはり人間は、頭や心が静かな、平静の状況になっているのが、天地自然に生きる生き物としてのごく自然な生き方じゃないでしょうかね。大自然のリズムと一つの息づかい、ここに自然と微笑(ほほえ)みがわいてきます。
 
金光:  この頃、事件を起こしている人の言葉を聞きますと、「何かむしゃくしゃして」とか、「イライラしたから」と。酷いのは、「誰でもいいから殺したかった」みたいなことまでいうのは、まったくそういう波で表すと、もう台風みたいに乱れてしまっていることでございますね。そこのところを調えるのには身体を正しく、
 
板橋:  息づかいやら心を平静にしていることですね。平静というと、坐禅の姿だけかというとそうではありません。身体の動きと、頭の働きがひとつになっているのがよい。よしあしを批判する自分がない状況なんですね。例えば、何かを企画したり計算したり一生懸命やりますね。頭を使わないことじゃないんです。ただその時結果を問題にしたり損得の念がはいると、つい不完全燃焼の煙が出るようなものです。一生懸命勉強しながら、研究しながら、これで合格するかな、人から認められるかなと、計算がはいると、もうそれから不完全燃焼が出るんですね。身も心もひとつに打ち込んだときが完全燃焼の状況とでも表現したいところですね。身体と心が一致してやるんですね。だから運動とかなんかやっていて、その時はいいんですが、これで優勝しようかなぁとなると不完全燃焼してしまう。
 
金光:  お書きになったご本を拝見していますと、人間の脳のことを分けて、「人間脳」と「いのち脳」というふうに分けて表現されていることがありますが、これも今おっしゃった心の状況と関係がある表現でございますか。
 
板橋:  私は、何かの本を見てそんなヒントを得たんでしょうが、身体でじかに感じていることを、それはいのちそのものといいたいのです。こう抓(つね)ると痛い。叩けば痛いですね。またこういうふうにこちらを見る。見ようとも思わないのに目にうつる。私は、これを「ご縁」ともいうんです。「出会」ですね。「出会」というのは、ホッと見たら見える。自分が見ようと思わんで見えている。こちらを見れば木が見える。このように自由自在に見えるのを「空(くう)」ともいうんでしょうね。こちらを向けば、こちらのほうがすぐ見えます。頭をカチッと叩けばすぐ感じますね。今、こうある存在自体が空の働きです。経文にある「色即是空空即是色(しきそくぜくうくうそくぜしき)」の働き、いのちそのものなんですね。
 
金光:  むしろ身体の働きそのまま、対象と一体となっているのを「いのちの脳」、
 
板橋:  そうですね。
 
金光:  グチグチ考えるほうが「人間脳」ですね。いわば大脳皮質のほうがいろんな計算をしたり、損か得かとか、そういうのを計算するのが大脳皮質の働きだとか、聞いていますけれども、「人間脳」というのはそちらのほうを指していらっしゃる。
 
板橋:  私なりにね。猫はどんなに辛かろうと痛かろうと―それは痛さを感じているけど、痛さそのことを悩まないですね。人間は空腹を感じます。感じますと、なんで今日だけ遅いのや、おれに喰わせないのか。あの連中どうしたとかと、頭でグチグチ考えますね。それが悩みやら苦しみや、いろんな問題を起こす。猫は腹減ったら腹減っただけなんですね。彼らには「悩み」はないと思うんです。ただし悩みがないから、これでいいんだ、という悟りのような心境もないんですね。人間はなんでそうなったかというと、知恵ができたんですね。こうすればこうなるという知恵ができたんですね。それが文明なんですね。文明の社会になって、人間が知恵がついたために、身体の動きの「命そのもの」と、もう一つ「頭の中の世界」が別になっている。私、こう対談しながら、これ終わったらどっかへ遊びにいこうかな、腹減ったから次は何を食べようかな。いや、あの人のところに遊びに行こうか、なんて考えの世界が展開します。ここに息づいておりながら、頭は別の世界にいますね。だからいつでも身体の命そのものと、頭の世界が別になっている。だから、「もっともっと」と頭の中で考えるんです。「もっと何かしたい、もっと美味しいものを、今度はどこへ行こうか」、それを満たすような努力をし、満たしているのが文明社会なんですね。だから次々に新しいものを。いうなれば、昔なら濁酒(どぶろく)一つで済んでおったのが、今はあらゆる種類の吟醸酒やワインが店頭に出ていますね。それでも足らんから、また次々と。だから足るということがないですね。そこに流れているのが、欲望の原理、経済の原理でしょうね。
 
金光:  そうすると、もう一度そこの柱に貼っているように、
 
     からだがわかっている
 
という言葉を貼っていらっしゃいますが、身体がどういう状況かという。「身体がわかっている」ということを頭で確認するというのは、
 
板橋:  確認まで要らないんですね。寒いのは、〈ああ、寒いなあ〉と思うと身体が自由に対処して動きます。確認して頭の中で問題にするのが人間社会です。それで文明が進むのです。ところが、これで「足る」ということがないのです。不平と満足の二人三脚の世界が展開していくんです。
 
金光:  あちらのほうにあります、
 
     今が誕生
     今が0(ぜろ)
     今が極楽
     今が臨終
 
という言葉がありますけれども、これは、今が、
 
板橋:  すべてですね。
 
金光:  今、息していることが誕生であり、0歳ですね。今、お腹が空いてることが誕生であり、0歳です。それはその出会を、あ、そうだ、と。そこのところであんまり心を働かさんでいいわけですか。
 
板橋:  事実がそうなんですから。
 
金光:  事実がそうなんですか。考えるんじゃなくて、事実を見ろ、と。
 
板橋:  事実に気付きなさい。今というのを、時間の観念でとらえ、―「さっき」「明日」「今」と考えがちなんです。事実の連続があるだけです。
 
金光:  掴まえようがないですね。
 
板橋:  ないですね。そういうことで(扇子で机を叩く)と、パシッと音が聞こえている事実、手をつねると痛い。これが今なんです。事実を今というんです。私はそれを「出会」というんです。あるいは、「縁」といいますね。出会がそのままがその時の自分のいのちなんです。出会ですね。それを仏教では「因縁」とか「縁」と言います。「今が誕生」というのは、今の出会が誕生なんです。こちらを見ると松の木が見えますね。これが誕生なんです。それが「臨終」でもある。その時、その時が移っているということです。「死にたくない」という、あの臨終じゃなくて、その時が「すべてだ」ということです。いのちの丸出しです。
 
金光:  その時、誕生して、その時終わって、刻々と動いている。それが、
 
     この出会
     ありがとう ありがとうさん
 
というのも書いていらっしゃいますが。
 
板橋:  そうですね。私たちが今こうやっている。今こうやっていることが地球始まって以来の出会、宇宙始まって以来の出会なんですね。
 
金光:  はぁ・・そういうことですか。
 
板橋:  私はそう思いますね。
 
金光:  四十億年、
 
板橋:  ビッグバン始まって以来、
 
金光:  ビッグバン以前から。いやビッグバン以前から(笑い)。
 
板橋:  それは、だから私がこうやって息づいていることは、まことに「有ること難し」なんです。「有り難し」が「有り難うさん」になった。その時その時の出会ですね。ただし、ここも大事ですよ。彼女迎えに駅まで行った、と。彼女はどっかで浮気して会われなかった、と。会えなかった、それも出会なんですね。事実の展開あるのみです。
 
金光:  プラスばっかしじゃないわけですね(笑い)。
 
板橋:  会えないという出会。だからその時その時のすべてが出会。見えたこと、感じたこと。すべてが事実であり、有りがたい、いのちそのものです。それを歩く時に、われわれは、「この雨降りに、この砂利道を」とかと考えながら歩きます。頭の世界で歩いています。それを身体でじかに感じながら歩け、「足の裏で歩め」ということですね。歩く時は身体で感じながら歩きなさい。それなのに歩きながら全然別なことを考えている。別の世界に行っている。それでは「生きている」実感も喜びも台なしにして生きている。これが人々の実感でしょう。
 
金光:  それは頭で歩いているわけですね。
 
板橋:  そうです、そうです。
 
金光:  足で、足の裏で歩かないで。
 
板橋:  それがあまりにも普通になっちゃったですね。問題にもしない。
 
金光:  そうしますと、若い人で、自分の将来設計をする時に、学校出て、いい会社に入って云々という。もう先も見えている、と。もう世の中はわかってつまらん、見るべきことは見た、みたいなことを二十歳前後でいう人がいるんですけれども、その人は今の出会というのをしていないわけですね。
 
板橋:  そうですね。
 
金光:  頭の中だけで、
 
板橋:  出会の尊さを―理屈で尊さを考えたってダメですよ。「俺はこれ何百年来の尊さ」なんて、そんなの屁理屈ですからね。それに実感を持って、「ああ、そうか」と、そこに合点して生きていることですね。こういう質問があったんですよ。「どうせ我々死ぬのにね、なんでこうして生きていなくちゃならないの?」という質問をある所で受けたんですね。今生きていることに不満を感じているんですね。それはどういうことかというと、「どうせおトイレ行ってすべてを出してしまうのに、なんで食わなくちゃならないの」と同じ論理なんですね。ということは、食うことに空腹感を感じていない、食い飽きているから。どうせトイレで出るというのに、なんで食うのか、という愚痴になる。
 
金光:  頭の中だけで完結していますね。
 
板橋:  身体が満たされちゃっていますからね。満たされるというか、飽満していますから。それをほんとに腹減ったらそんな考えできる筈はない。「ああ、美味しかった! ありがとう! ご馳走さん! おにぎり一つありがとう!」と、目を輝かせます。食い飽きている者にとっては、「なんで食べなければならないの・・」とつぶやく。これが現代社会なんです。
 
金光:  でもその世界はそれこそ新鮮な驚きみたいなのはないわけですね。頭の中で、今日もこんなものを食べて、という。どうせなんとかなるだけじゃないか、みたいなところで生きていますと、新鮮な花を見ても、新鮮な驚きはないし、朝日が昇っても「また出たか」くらいなことで終わるかも知れませんけれども。
 
板橋:  「また出た」とも思わないでしょう(笑い)。それは何故かというと、満たされ切っているものですから。いつでも海の中にいる魚が、なんじゃこんなところ、と、ほんとの水を求めたがって。文明進めば進むほど便利な物で充たしてくれますね。それが人類の知恵だとすれば、知恵の所産の物質文明が「人類の衰亡に至る道だなぁ」と思うんです。お猿さんは木に上って生活しているからまだ猿なんですね。ところが我々の先祖が木に上られない時代があったんですね。我々人間の先祖が、木のない所、サバンナ(熱帯の雨の少ない地帯の草原)に生活しなければならない時代があったんですね。そのころ木に上っている猿は今でも猿さんです。ところが人類だけは、自然現象の変化でどうしてもそのサバンナに住まなくちゃならん必然性があった。その時、いろいろ苦労したことでしょう。手で掴む、石で叩く。そういうことでだんだん知恵がついたんですね。その知恵が文明なんですが、その文明の知恵が、人類をダメにするほうに向かえつつあります。文明が進めば進むほど。
 
金光:  「文明」というのは、知恵よりも、むしろ知識の集積がこういう形に。
 
板橋:  「文明」は「文化」とは違いますね。便利な物ですね。これが人類を―滅亡という言葉は使いませんが―ダメにしていくんでしょう。
 
金光:  むしろ昔の人、殊に宗教的な智慧の世界と言いますか、そういう智慧の世界はむしろ便利さに追いやられて、どっかだんだん智慧が隠れてきているような気がしないでもない。
 
板橋:  文明の世界は、頭の中で要求しますので、「もっともっと」とつぎつぎに新しいものを作り出していきます。
「足」という字を書きますね。「足」という字は、「たる」とも読む、「たす」とも読むんです。送りがな一つで違うんですね。「たす」は足し算です。「たる」は今の息づかいに足りている。今の一個のおにぎりに感謝。大自然の一点を眺めて、それで足りている。片方は足し算なんです。もっともっとつぎつぎに足すのですね。
 
金光:  「足る」ところにいかないと。
 
板橋:  ダメですね。絶対にダメです。それは最後まで足し算でいきますから。その足し算の最後に、人類はヘトヘトになっちゃうのでないでしょうかね。それが今、兆候が現れてきているんじゃないですか。何で豊かな世の中にいるのにさまざまな犯罪が起きる。それで、「美味しく頂く」のと、「美味しいものを」というのは違うんですね。美味しいものを食べたがる。「美味しく」は腹減ればおにぎり一つが嬉しい。
 
金光:  お腹空いたら美味しくなるという。
 
板橋:  喉が渇けば一杯の水がどんな銘酒よりも美味しいですね。それで一つ誤解を受けやすいことですが、足ること―「これでいいんだ、これぐらいで足りているんだ」と言って、頭でいい聞かせちゃダメです。それはダメです。それは不平が次々に出ますから。ただ足りているんです、足りていることに気付くんですね。
 
金光:  考える前に、もう足りている。
 
板橋:  足りているんです。それを「俺はこれぐらいでいいんだ」と、どこかに言い聞かせがあったんじゃダメです。今の息づかいに足りているんですね。今の世界に「足る」ということで疑問もないのです。疑問がなくなることですね。
ここで話題を変えてみます。道元禅師がいろいろご修行されて、やっと気付かれたことは、「眼は横に、鼻は縦」についている自分に気が付いたんです。それで、「私はもう学ぶことがなくなった。一生参学の大事ここに終わりぬ。一毫(いちごう)も仏法なし」と。一つの仏法らしいものはないんだ。なんじゃ、当たり前でよかった。そしてお釈迦さまが出てきて、「お前、それは違う」と言われても、「そうですな。違いますな」なんて、お互いに手を取りあって、ニコッとするような心境です。お互いがそれで問題がない。しかし、足りているから美味しいものもいらないか、というと、そうじゃないんです。お茶を出されれば、おいしく飲むでしょう。ごく当たり前ということです。
 
金光:  やっぱりそのために道元禅師の場合ですと、人間は生まれつき授かっているんだというか、悟りの世界にいるんだという言葉を聞きながら、それでなお何で修行しなければいかんのか、という疑問がおありだったという。
 
板橋:  そのために無駄骨を折ったわけですね。修行というのは大変高級そうに見えますが、迷っている人間が無駄骨を折っている最中なんですね。無駄骨を折るほどの迷いもないと、足りているという世界にも気付かれませんね。
 
金光:  身体と頭の関係でいうと、それはどうなんですか。足りている時は身体と頭の中が隙間ないわけですね。ピッタリ一緒の場合ということになりますでしょうね。ところがやっぱり欲しいとかなんとか出てくるのは、頭と身体が隙間があるということですか。
 
板橋:   頭の中で不完全燃焼するんでしょうね。
 
金光:  「煩悩無尽」という言葉がありますけれども、その煩悩というのは、その隙間から出てくる。
 
板橋:  いや、いや。そうじゃないですね。煩悩というのはグチグチ愚痴ることです。いろいろな欲求は人間のエネルギーです。その善し悪しじゃないんですね。それにグチグチする、まとわりつく考えですね。それが煩悩です。食欲や人間の肉体的な欲求がなくなったら、死人と同じです。廃人になることはありません。生き生きしながらまとわりつかない。そこら微妙なところですね。理屈じゃないですね。
 
金光:  それで、じゃ、そういう愚痴が出てきているな、と思いますね。これは愚痴だなあ、と自分で気がつく。愚痴をなくそうと思って、なくなるんですか。
 
板橋:  愚痴というのは言葉で繋ぎますから、「ああでもない。こうでもない」となります。言葉を絶え切るために、「なんまんだ、なんまんだ」とか、「ありがたし」「南無妙法蓮華経」、なんでもいい。自分の好きなように「サンキュー、サンキュー」でもいいですね。そういうふうにして、言葉を繋げない。自分の持ち言葉を念じている。誰でも必要です。言葉で繋ぐとグチになる。
 
金光:  そういう時に、例えば「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」という言葉を続けると愚痴でなくなるわけですね。
 
板橋:  つぎつぎ考えこまないことが大切です。私がよくみんなに言うんですが、「夜、ご主人の帰宅を待ちわびている主婦は、亭主は今頃飲んでるのだろう。若い女の子たちとキャーキャーやっているんだろう」と、こう思うと、もういたたまれん。私はご飯も食べないで、お風呂も沸かして待っているのに、その時に女の人に助けられながらヨロヨロになって玄関から入ってきたら、皿など飛びますね。イライラしているんですから。その時に、「亭主のバカ、亭主のバカ、バカバカ・・・」バカを口ずさんでいるんです。その間にいつの間に「バカバカ、なんまんだぶ、バカバカ、なんまんだぶ」、「なんまんだぶ」を途中でチョコチョコ入るようになります。で、心が落ち着くんですね。その時に、「ただ今」というと、「あらぁ、遅かったね」と、こうなるんですね。
 
金光:  言葉を繋げない、という。
 
板橋:  そうです。それが修行の根元ですね。頭の中でグチグチ考えないで、その時の息づかいによろこんでいることです。
 
金光:  そうすると、例えば呼吸を調えますね。で、頭の中にはいろんな思いが湧いてくるだろうと思うんですが、湧いてくるのを相手にしたらダメですね。
 
板橋:  こういう話しますね。古池を眺めておった時ですね、ボチャン!と、子どもが石を投げ込んだ。そうすると波が立ちますね。静寂を破りましたね。その時むかついて「誰だ、このバカ者が!」と、わぁわぁと追っかけていったとします。それが今のテロのくり返しにつながる。今の世間ですね。その次ぎに、ある種類の人が、「うん、子どもが遊んでいるんだ。こんなことで腹立ってはあかん。ダメだ。そんなことではダメだ。子どもは子どもなんだ。ここでじっとしなくちゃ」という、まあ言い聞かせて心を静めようとする。これは道徳の範囲であって、いわゆる宗教の大部分でしょう。それからもう一つ、宗教の抜け出したところで、「ボチャン!」と(扇子で机を叩く)こういう音が出たわけなんですね。アッと驚きますよ。驚きますが、それ以上どうこうもしないですね。例えばお釈迦様でも道元禅師でも良寛でも、「バカ野郎!」となぐられたとします。「おおッ」と驚きます。驚かなかったらこれは変です。人間ですからその反応は微妙ですよ。ですが、そこから追いかけるものがないですね。そうすると、不思議なことに、驚きと不愉快な感情をそのままにしておくと、いつの間にか喜びに変わるんです。その喜びは、「あっはっは」と笑うんじゃない。微笑(ほほえ)みなんですよ。それが「煩悩即菩提」。渋柿が自然に甘柿に変わるようなものですね。これはお天道様の中に生かされている、大自然の中の生き物のごく自然な作用ですね。渋いのがあるうちはまだ未熟なんです。熟すと甘くなる。渋さが渋いほど甘い柿になる。だから悩みの大きいほど、解消する喜びも大きくなるんです。ここが面白いですね。
 
金光:  良寛さんがなんか月夜に畑でお月さんを見ていたら、芋泥棒かなんかと間違いられて、村人に叩かれたりしたそうですけれども、それを平然と受け止められた、という話を聞いたことがありますけれども、これは「大愚(たいぐ)」と―大きな愚(おろ)か―大愚良寛という、愚かさという言葉を使っていらっしゃいますけれども、そこのところが今おっしゃったところと共通するんでしょうか。
 
板橋:  共通でしょうな。それを学ぼうとしたらダメですね。
 
金光:  ダメですか(笑い)。
 
板橋:  ダメですね。他人(ひと)のまねではいけません。
 
金光:  あ、なるほど。
 
板橋:  それを、そういう状況の良寛さんだったんだなあ、ということを知っていて、面白い人だなあ、と思えるのはいいんですが、そうありたい、と思って、真似しちゃダメですね。
 
金光:  ということは、変なほうにいってしまう、ということですか。
 
板橋:  それは無理があります。「少欲知足(しょうよくちそく)」ということがあるんですね。欲を少なくして足ることを知る、というんですがね。その欲を少なくして、「これでいいんだ。このままで、貧乏でもいいんだ」という、言い聞かせがあっては、それはダメです。不満の種がくすぶっています。
 
金光:  一種のやせ我慢みたいな、
 
板橋:  やせ我慢なんですね。無理があります。そうでなくて、今の息づかいにおるのです。だから自分の息づかいを満足感で味わったらダメですね。
 
金光:  そうすると、もうこれでいいや、というと、なんか新しい意欲なんか湧いてこない世界かなあと、すぐそう思うんですが、そうじゃないわけですね。
 
板橋:  そうじゃないですね。ごく当たり前ですね。
 
金光:  当たり前というのは凄く妙味のある世界のようですね、お話を伺いますと。
 
板橋:  そうですね。
 
金光:  なんかしなきゃダメだ、ということではない。ごく当たり前にいる。
 
板橋:  ここの御開山の瑩山禅師は「平常心是道」と言っていますね。初めは「平常心是道」というと、何もしないで、ごく平静にしているのが道だ、というふうに考えるんですね。そうじゃないですよ。怒られたら癪に障るのは当たり前ですからね。これ平常心ですね。「腹減ったら腹減った、何か美味しいものは」「あ、美味しいな」、それが平常心じゃないですか。だけど、その形を真似しちゃダメですね。平常というのは、状況を真似ることじゃないですね。そうありたいことじゃないですね。問題にならない。当たり前でおられることです。
 
金光:  「平常の心」というのと、「是道」という道がバラバラじゃ困るわけですね。
 
板橋:  そうですね。平常のままですね。
 
金光:  平常のままがそのまま、
 
板橋:  それを「道だ」と人はいうんでしょうね。
 
金光:  そうすると、ちょっと言葉は悪いかも知れませんけれども、取り付く島がないような世界ですね。
 
板橋:  そうですね。私は、仏教というのは宗教でないような気がします。俗にいう宗教ではないですね。
 
金光:  そこでよく聞くのは、「ただ坐りなさい」と。
 
板橋:  そうですね。「ただ」ですね。
 
金光:  だから、坐ってどうこうなるんじゃなくて坐る。
 
板橋:  これを(扇子で机を叩く)ポンというのを感じるわけですね。それが「ただ」ですね。(版木を叩く音が聞こえてくる)
 
金光:  聞こえたら聞こえたまま、
 
板橋:  「まま」って、「聞こえたら聞こえたまま」という観念があって聞いたんではダメですね。それを身体でただわかっている。頭の問題にしない。
 
金光:  すみません。今の音は何の音ですか?
 
板橋:  あれは小さな木魚ですね。韓国で買ってきた小さな木魚です。ポンと叩く。今のは昼食の合図です。
 
金光:  それを、聞こえたままだ、と。
 
板橋:  それはある程度の修行としては必要なんですね。そういうことも絶えず必要ですが、そういうことだけでは窮屈ですね。坐禅しなければならん、坐禅しなければならん、と。修行しなければならん、と同じように。
 
金光:  そうすると、我々頭で考えるようにできていますから、その話を伺うと、すぐ「そうならなきゃ」、あるいは「なりたいなあ」とか、そういうふうに思うわけですけれども、それよりもむしろ元はというと、呼吸を調え、姿勢を正す。
 
板橋:  初めはね。
 
金光:  初めは、ということでしょうか。
 
板橋:  最後には風鈴のようになるんですね。東西南北の風のままチリン、チリンと鳴っている。鳴らなければ鳴らない、鳴ったら鳴ったですむ。北風だけを望んだり南風がダメという構えがないことです。
 
金光:  あちらに、
 
     なぜ死ぬの・・・?
     生まれたから・・・
 
というのがありますね。伺うところによると、禅師さんは、癌の手術をなさったそうですね。
 
板橋:  そうですね。
 
金光:  死ぬということについては?
 
板橋:  それは死にたくないね。いつでも元気でおりたいね。こういう質問を受けたんですね。「人間には運命があるんですか?」と聞くんですね。生まれたら必ず死ぬという運命はあるよ。「何故死ぬの?」というから、「生まれたからでしょうな」と答えたのです(笑い)。
 
金光:  それは間違いないですね(笑い)。でもそれで落ち着ければいいですけれども、仏教の場合は、苦を抜き楽を与える。「抜苦与楽(ばっくよらく)」という。
 
板橋:  非常に誤解を受けますが、私の考えでは、お釈迦様は仏教を説いておられないと思うんです。説法ということを、お釈迦様は自覚しておられないと思う。その時にその場に応じた、「さあ、そうか。ああ、よかったな」。その時、その人なりに反応し、相談に応じておられたと思います。
 
金光:  相手に応じて話しされた、と。
 
板橋:  その時、その人に反応しているんです。反応というか、その時の真心で相談にのっておられた。現代でいうカウンセラーでもあったのでしょう。人生相談のカウンセラーであっても、お釈迦様は「解脱(げだつ)」されています。ふつうの人々より一段高いところから、大局を見ぬいて相談されたと思います。人々のストレスの結び目がどこにあるか見抜けたでしょう。そこを上手に指摘し、その人なりの暗示を与えられたと思います。
お釈迦様は、ご在世中に文字には何も書かれていません。しかし人々は、お釈迦様は、このようにいわれた、こういうことを聞いたということが、後の人々が、「われかくのごとく聞けり」と経典として残されたのでしょう。そこから流派や宗派も出てきたものと思います。人間は他の動物と違って、「ものごとを考える」知恵を身に付けました。これが現代文明社会をつくりあげました。その知恵の限度を知る英知がないと、人間が文明社会の奴隷になり、文明社会によって人間がダメになっていくでしょう。特に原爆や水爆を持っています。これから本当の英知は「節制」の力でしょうね。「足るを知る」知恵でしょう。さもないと、「万物の霊長だと自慢していた人類はあんな惨めな最後になった」と樹上のお猿さんたちから笑われることになりましょう。
 
金光:  それがお釈迦様以来の禅定の生活。息を調え、身体を調えるのがスタートだ、と。
 
板橋:  スタートですね。
 
金光:  そういうふうに伺いました。どうもありがとうございました。
 
板橋:  どうも、わざわざご遠方から。
 
     これは、平成十九年十月二十八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである