私の一遍上人
 
                           詩 人 溝 口(みぞくち)  章(あきら)
昭和八年静岡県生まれ。法政大学卒。詩誌「PF」主宰。詩集に「戦史・亡父軍隊手牒考」「鏡の庭」「'45年ノート残欠」「船団に灯がともる」「公孫樹の下で」「流転/独一」他、評論に「伊東静雄―詠唱の詩碑」など。
                           ききて 白 鳥  元 雄
 
ナレーター: 静岡県の西部に広がる菊川市。東に日本有数の茶の産地、牧之原台地があります。お茶の街菊川として知られたところです。今日はここ菊川に生まれ育ち、現在詩人として活躍している溝口章さんをお訪ねします。溝口さんは地元の高等学校で教鞭を執り、また詩人としても活躍し、多くの詩集を出版してこられました。その溝口さんが、最近わが国中世の遊行僧(ゆぎょうそう)として名高い一遍上人(いっぺんしょうにん)(1239-1289)について、一冊の詩集を纏められたことを知り、中世を生きた一遍上人の心と、現在詩人の心との間にどのような触れ合いがあったのかお伺いしようとご自宅をお訪ね致しました。
 

 
白鳥: 
     「念仏が念仏する」
     毛状緑色(もうじょうりょくしょく)の穂をくねらせて群生(ぐんせい)する
     川土手道のエノコログサが かぜにまかせて
     念仏する
     音(ね)を挙げて澄み渡り和す 甲虫(こうちゅう)たちが 草むらに潜み
     念仏する
     ゆくさきざきに ちらちりぢりにまいあがり とぶ 羽虫たちが
     ちらめいて
     念仏し
     上 中 下段に静止して 宙に浮かぶ
     トンボたちが 羽をうごかし
     念仏する
     そのかなたに
     秋空を埋め尽し
     漂泊する
     うろこ雲が
     悠々 寂々と
     念仏し
     川面(かわも)に映る その模様が 流れとともに輝いて念仏する
 
溝口さんの詩の「念仏が念仏する」の冒頭の部分を読ませて頂きました。溝口さんのお作は数々あって、今までの作の中で、例えばこれが『'45年ノート残欠』、溝口さんの戦争体験、少年としての戦争体験、昭和二十年のあの凄まじい戦争体験を中心にして書かれた詩。そして『戦史・亡父軍隊手牒考』―お父様の召集された時の資料をもとに書かれた。その中には四、五歳の溝口さんの記憶の断片を散りばめた。そういう現在乃至現代を書かれた詩が多いと、私は思ったんですが、その中で鎌倉時代の遊行僧一遍に強く惹かれたのは何故なんですか。
 
溝口:  難しい質問ですね。私の生まれた年は昭和八年一月十六日です。つまり昭和八年と言いますと―その前に昭和六年に既に満州事変が始まっていました。戦争のただ中で生まれたわけですけれども、勿論生まれてから暫くして、私が四歳の時に―昭和十二年になりますが、父に召集令状がきます、そして出征をしました。当時ですから、歓呼の声に送られてと賑やかに駅頭まで送って行きました。そして万歳の渦の中を蒸気機関車が駅を出て行きます。その車窓は全部軍事用の列車ですから、召集された兵隊たちがみんな乗っていました。窓からしきりと手を振る父親がいたんですけど、私は誰かが抱え上げてくれたんですが、ついに人混みの中で見ることはできなかったわけです。その昭和十二年から始まって、昭和十四年に父が帰還するまで、言うなれば出征兵士の家族の家ということになるわけですね。そしてその父が還って来た。その時の体験が、先ほどの『戦史・亡父軍隊手牒考』ということになります。しかしそれで戦争が終わったわけではなくて、さらに戦争が続いて、私が旧制中学校の一年生に入る時が、言うならば昭和二十年、もう日本はどん詰まりの年になります。硫黄島の玉砕の時が入試の日になりまして、もう沖縄戦、さらには昭和二十年まで続くわけです。そういう長い戦争の事史の中で一番頭の中に残っているのは、「一億一心」「一億玉砕」、そういう掛け声だったわけです。つまり日本の国難の時期に生きていた。しかしその結末は敗戦をもって終わった。そういう国難の時期というのは、日本はたくさんあったかというと、あまりなかったと思うんです。一遍上人の時代も言うなれば、モンゴル―元(げん)の大軍が日本に押し寄せてきて、そして日本がそれを防ぐことができるかどうか、という瀬戸際にあった。
 
白鳥:  「元寇(げんこう)」と言われるそのとこですね。
 
溝口:  そうですね。元寇と言われるあの時というのは、一つは「文永(ぶんえい)の役(1274)」、もう一つは「弘安(こうあん)の役(1281)」というふうに分かれますけれども、その時期に一人の聖がそれとまったく無関係なように日本の国を歩いていた。何人かの信ずるものたちと一緒に遊行(ゆぎょう)の旅を続けていた。それに私は実に驚いたんです。つまり私たちはあの時に日本国民として一億一心でしかあり得なかった。あの国難の時代にもっと別な価値観を求めて歩いている一人の僧がいた。
 
白鳥:  七百年も前ですね。
 
溝口:  そうなんですね。それはとても驚きでした。ただ私はその時に、いきなり驚きだというだけでまだ上手くそのことを理解はしなかったんですけれども、ただ何となく頭の中に残っていたことは、太平洋戦争が終わったちょうど昭和二十年八月十五日に、「国破れて山河あり」という言葉が―杜甫の詩なんですが―出てきました。それは人々がみんな「国破れて山河あり」という言葉をそれぞれの思いで呟いたと思うんです。私のごとき中学一年生でさえも、「国破れて山河あり」が実に印象深く残りました。もう一つは、私の中にあったのは、「国破れて私がある」という気持ですね。山河よりも私じゃないか、と。「私が生き残った」ということ、「私が生きている」ということがとても印象が深い。それは一遍とどっかで重なるかも知れないと、そう思いながら一遍を追い続けてきました。
 
白鳥:  具体的に一遍と出会われたというか、敗戦という大きな国の状況、大状況の変化と言いますかね、その時はまだ中学一年生、十二歳?
 
溝口:  十二歳ですね。
 
白鳥:  一遍と出会われるまでには、それからまだ時間はかかるわけですか。
 
溝口:  そうなんですね。ですから、「国破れて山河あり」と、一遍のことを言ったんですが、出会うのには随分と時間が経ちました。いうなれば、戦後よく五十年とか六十年と言いますけれども、むしろ戦後五十年経った以後、どういうわけかそこの出会は私は不思議というしかないんですけれども、たまたま『一遍上人語録』を読んで、その中の思想を、言っている考え方、それに惹かれて『一遍聖絵』を読んで、ああそうだったんだ、と。私たちが、「神風が吹いてくれれば日本は救われるかも知れない」と願っていた太平洋戦争の末期の最中と同じような状況の中で、一遍はいたんです。すると、一遍は私の今を歩いているわけです。いや、私の先を歩いているのかも知れないな、というような気がしたんです。
 
白鳥:  そして『語録』を読み『聖絵』を見、ご自身で一遍の足跡を歩かれたわけですね。
 
溝口:  そうですね。『語録』を読めば読むほど心を打つというか、刺激的な法語に出会うんですが、それをいろいろと考えているだけで、もう奥が深いという感じがしました。そうしますと、もう一方の『聖絵』は一人の聖がどのような旅を続けたか、ということが書いてあるわけで、むしろこれを読みながら一遍の旅の跡を追ってみたい、と思い出したわけです。そうしたらこちらの法語の意味もだんだん自分の中に入ってくるのではないか。自分が捉えようとしている法語の実体がもう少しわかるかも知れない。そこでまずこの聖絵に従って、聖絵の中の、自分にとって、ここは、と思うところを旅をしたい、ということを始めたのが十年ちょっと前ぐらいですかね。
 
白鳥:  たしか高校の国語の先生でいらっしゃいましたね。
 
溝口:  ええ。
 
白鳥:  その合間、わずかなお休みを使いながら、
 
溝口:  はい。夏休み、冬休み、春休みという休暇中が一番使いやすいですし、勿論その他連休の期間もありますので、そういう休日を使って聖絵の世界を歩いてみたい、と。歩くことによって、私が何故この上人語録の法語にそんなに打たれたかということがわかってくるであろう、ということで歩きました。
 
白鳥:  詩という作品化へのきっかけになったのはなんですか。
 
溝口:  そうですね。実は私は、現代詩を書いている人間です。けっして和歌の世界にいるわけでもなければ、俳句の世界にいるわけでもない。現代の詩というものが一遍とぶつかり合うことができたかというのは、初めはあんまり考えていませんでした。自分の考えとしては、一遍そのものを自分はエッセイを通して理解をする。自分がものを書くことによって理解する、そういう具合だったんです。しかしある時、京都・東山の長楽寺(ちょうらくじ)へ行ったんです。勿論、一遍上人像他遊行(ゆぎょう)上人の像が展示されているということは勿論知って行ったんだと思いますね。でもその時、その像を見ることによって、そんなに刺激的衝撃的なものを味わうとは思ってもいませんでした。でもその展示会場に入りまして一遍上人立像を見たんです。勿論並み居る遊行上人座像などもそれなりに迫力があるものでしたけれども、一遍上人立像を見た時に、実に驚いたんですよ。何が驚いたか言いますと、一遍がこちらに向かって歩いて来るような気がしたんですね。しかも〈この眼差しはどこを見ているんだろう、この上人は〉とそんな感じがしたんです。その眼差しこそ、まさに一遍の聖絵や、あるいは上人語録の中に表されていた一遍の思想そのものが、この仏師によって、つまり一遍上人像を彫り上げた仏師―康秀(こうしゅう)(慶派の仏師)という、それは運慶の流れを汲む、慶派のリアリズムを汲む一人の仏師なんです。その仏師はもうとうに一遍上人が亡くなってしまった後の、まあ百年ぐらい違うんじゃないですか。ですから、康秀はまったく見ていない一遍を彫り上げて、しかもそれが私だけじゃないと思いますね、おそらく他の方にとっても、何か一遍がここに立っている、ということを思わせる。
 
白鳥:  そうですね。この鋭い眼差しというのはつくづく感じますね。
 
溝口:  そうですね。その鋭い眼差しというのは、実はただ人を見据える鋭さではなくて、何か遠くのものを追い求めていく鋭さですね、あるいは深さですね。この世の現実を遙かに超えたものを求めていく虚空の眼差し、なんかそんなものを感じたんですよ。それでちょっとこういう言い方は些か慎みたい言い方ですが、「康秀のように私も詩の世界で一遍を造形することが絶対にできないとは言えないだろう」。つまり康秀も見ていなかった。言うならば、一世紀近く違うわけですね。だからその康秀がこのような彫刻を彫り上げることができたということが、一つの刺激になりました。非力ではあるけれども些かなりとも、この現代の詩の中で、それを描くことができていい筈だ。また私もそれをしたい、と思ったんです。
 
白鳥:  その辺が今までの作品群とはちょっと違って、今度の『流転(るてん)/独一(どくいつ)』、副題が「一遍上人絵伝攷(えでんこう)」と、今までのテーマと全然違うな、という感じがしたんですが。
 
溝口:  そうですね。「一遍上人絵伝攷(えでんこう)」―自分でも何と大きな題を用いたな、という気がしないでもないんですけれども、しかしこれは私が、〈詩を書く究極のものにしてみたい〉という思いで、我が身を鼓舞するような題にしました。
 
白鳥:  先ほどのお話ですと、一遍上人は四国伊予(愛媛県松山市道後)のお生まれになるわけですね。
 
溝口:  そうですね。伊予の豪族ですね。豪族の中で特に水軍と言いますか、船を操る軍団と言いますか、その長が河野家です。ですから河野家というのは、ちょうどお祖父さんなんです。源平の合戦で、平家方は海の戦が得意なんですが、源氏方はあまり海の戦が得意ではなかった。その源氏方について大変な功績を挙げます。特に壇ノ浦の合戦において平家を滅ぼすその時には大活躍をしたわけです。そういう水軍の名家の末裔というか、祖になるわけですね。もっともお祖父さんの代ですから、そんなに経っていません。それが一遍の生まれのあら筋でしょうか。
 
白鳥:  それは言えば、侍の家で、かなり大きな豪族なんですね。
 
溝口:  侍の家であり、もう少し言えば、城持ちの侍ぐらいの出だということになりますね。それが一遍の一つの血筋です。それに続いて後鳥羽上皇の側と鎌倉の北条方との間に不和が起こりました。「承久(じょうきゅう)の乱(1221)」と言いますが、その合戦においては朝廷側についてしまった。それで朝廷側は負けました。そのことによって祖父やその叔父たちがみんな島流しに遭ったり、あるいは処刑をされるというような悲運に見舞われたんです。たまたま一遍の父親はその時に既に武士ではなくて僧侶になっていたんです。そのために難を免れたのではないかというふうに言われています。その子どもとして一遍は育ったわけです。従って幼くして一遍は出家して、そして自分の父親と同輩である九州にいる聖達(しょうたつ)(1203-1279)の元に修行に行きます。聖達(しょうたつ)は法然上人から言いますと、法然上人の孫弟子にあたる人です。その方の元に修行に行き、そしてまた戻ってきたんです。戻って来て、しばらくの間は普通の世間の生活をするわけですが、ある時に一念発起して出家をする。聖になるという道を選ぶわけです。それが一遍上人の遊行の旅の始まりになるわけです。
 
白鳥:  おいくつですか?
 
溝口:  それは三十六歳。出発の年が文永十一年(1274)なんです。
 
白鳥:  それが先ほど話された元寇の第一回の襲来の年ですね。
溝口:  そうです。まさに文永十一年の春の旅立の聖絵がありますけれども、
 
白鳥:  これが聖絵、今、国宝になっているものですね。
 
溝口:  そうですね。素晴らしい絵巻ものの絵だと思います。国宝になっている「一遍聖絵」(一遍上人の遊行の生涯を描いた絵巻)。その文永十一年に元の軍勢の最初の襲来があるわけです。つまり「文永の役」です。だから一遍が旅立ちをしたという時には、武士たちはもう備えのために大変大騒ぎをしておったと思うんですね。九州博多方面に集まってきたという形で、その時に旅立ちが始まる。 
 
白鳥:  そうですね。一度は出家したとは言い、また武士の家に戻っていた。その一遍が国の騒ぎとは別に旅立って行った。そして一遍が向かったところが大阪、奈良・・・
 
溝口:  一遍は四国を旅立ってから、今で言えば、大阪の難波の天王寺へ行き、そして天王寺から更に熊野を目指します。今、文化世界遺産で有名になっている熊野を目指して行くわけです。熊野というところが宗教の一つのメッカですので、そこを目指して行きます。その山中で一人の僧侶―お坊さんに出会うんです。一遍は道中何をしていたかというと、「南無阿弥陀仏」のお札を配ることによって―賦算(ふさん)と言います―そのお札を受け取った者が極楽世界へ行けるという。お札を受け取ることによって、その人は信仰にもとづいて浄土の世界へ往生できるということを説きながら歩いていたんです。
 
白鳥:  藤沢の時宗(じしゅう)の総本山清浄光寺(しょうじょうこうじ)(俗に遊行寺(ゆぎょうじ)と言われる)でちょっとお預かりしましたお札、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ) 決定往生六十万人(けつじょうおうじょうろくじゅうまんにん)」ですね。これは現代のものですが、こういうものを配る。それを賦算というんですか。
 
溝口:  そうですね。お札を配ることを賦算と言います。
 
白鳥:  それが布教活動になる。
 
溝口:  そうです。ですから当然のことながら出会う人にそのお札を渡すわけですが、熊野の山中で出会ったそのお坊さん―当然僧侶ですからきっと信仰篤き者ですから渡せばすぐ受け取ってくれると思ったんですね。「お受け取りください」と。ところがその僧侶は拒んだんです。何故拒んだかと言いますと、「私はまだそれを信ずるまでに至っていない。信ずるまでに至っていない未熟な私がそれを受け取るわけにはいかない」と言ったんですね。それで一遍は困ってしまいました。道中大勢の人がいますから、そこで「渡す、渡さない」の押し問答になってしまったら大変です。その時一遍は無理矢理渡すんです。「信じていなくてもいいから受け取ってください」と無理矢理押し付けたんです。それが熊野山中での一遍の一つの疑問の出会ですね。つまり信じてもらってお札を渡す。これが一遍上人が考えていたお札の配り方なんです。信じてもらってお札を受け取る。しかしそこで一人の僧侶が、「私はまだ信ずるまでに至っていない」というわけです。それを無理矢理押し付けてしまった。これで良かったのかなあ、と思った。そして熊野本宮のところへ来て、そこで一遍は夢うつつに熊野権現の化身を見るわけです。そして熊野権現の化身が、「一遍よ、お前は下手なお札の配り方をしている。間違ったお札の配り方をしている。一遍がお札を配るから人が救われるのではない。救いというのは、ここに書いてある南無阿弥陀仏∴「弥陀様が救ってくれる。そしてもう阿弥陀様が既にみんな救ってしまったんだ。そのことをお前が伝えればいいだけだ。だから信不信を問わず、信じようと信じまいと渡すということをしなさい」ということを言われて、それで一遍は、半ば夢のようなお告げから目覚めるんですね。これが一遍の賦算の遊行の確信なんです。私はお札を配ることだけでいいのだ。決して「信じなさい」とか、「迷っているならこうしなさい」とか、そういうことはいう必要はない。それが私の賦算の究極の目的でいいという形で、熊野本宮の証誠殿(しょうじょうでん)を旅立ちながら遊行をさらに続けていくわけです。
 
白鳥:  その時に名号(みょうごう)に対する絶対的な、それのみというようなひたぶるな一遍の信仰というのが生まれたわけですね。
 
溝口:  名号そのものを一つの絶対的な決定(けつじょう)の確信にするという仕方、それは一遍が師の法然(ほうねん)などから受け継いだものを、さらに一遍独自のものにした、という感じがあります。
白鳥:  その後、まさに遊行の旅に出て、ちょっと地図を用意してみたんですが、次々に各地を回り始めるわけですね。
 
溝口:  熊野を皮切りにして一度四国へ戻って、四国から九州へ渡る。九州から中国地方、京へ向かって上り、そして京からさらに信州へと遊行の旅が続くわけです。信州の佐久(さく)に至って、また一つの一遍の転機があります。それは何かと言いますと、一遍というと、「踊り念仏」という言葉がすぐ出てきますけれども、一遍の布教の活動の中の一つのキーワードは「賦算」―信、不信を問わずお札を配る。もう一つは、「踊り念仏」というものがあるわけなんですが、それは初めからあったんじゃなくて、この信州佐久の地へ来て、初めて踊り念仏というものが一遍の一つの遊行の行(ぎょう)になるわけです。
白鳥:  そうですか。この聖絵に現されているこの念仏踊りは、割に小さなお庭の中でやっているようですね。
 
溝口:  そうですね。この聖絵が描いたここの場面というのは庭で踊っています。そして一遍は廊下に立って鉦(かね)を叩いている。そしてあまり大勢ではありません。しかもよく見るといろんな人が踊っています。つまり時宗のお坊さん、尼さんだけではなくて、その土地の人も一緒になって一つの輪になって踊っています。これが踊り念仏の始まりだと思われます。それは共に踊っている形ですね。この踊り念仏がここで始まったいわれをちょっと考えてみますと―私自身の考えになってしまうかも知れませんが、たまたま自分の叔父の河野通末(こうのみちすえ)が島流しに遭って死んだ場所、つまり流刑の地なんですね。ですからそこを訪ねて亡き叔父の魂を慰めるという意味があって行ったんだと思います。その地でまるで偶然のように至ったのか、あるいはいわれがあったのか、踊り念仏が始まって、それはやがて一遍の大きな布教の手立てにもなってきたわけです。
白鳥:  そして白河の関を越えて陸奥(みちのく)へ入っていく。
 
溝口:  そうですね。その佐久から一遍たちは何故奥州を目指したのか。そこには自分の祖父の河野通信(こうのみちのぶ)の墓があるんです。つまりそこに河野通信は流されて生涯を終えたんですね。そこのところを一遍は訪ねて行った。
 
白鳥:  河野家の英雄だった人ですね。
 
溝口:  そうです。だから一遍は武士の出である。しかもそれは並の武士ではない。つまり壇ノ浦の合戦においてはまさに戦功の筆頭とも言えるような水軍の名家(めいか)の出です。しかも誇るべき祖父であります。その祖父が遠く奥州の地で果てたんですね。一遍上人はそこを訪ねることによって、「何かを捨てたんだ」と思います。
 
白鳥:  捨てた?
 
溝口:  はい。「捨てたんだ」と思います。それはなんとなれば自分の名家の出である武士の末裔であるという誇り、あるいはそれに纏わる自分の執着心。どうしてあの偉大な祖父が惨めな形で果てなくてはならなかったか、ということへの思い。そういうものをそこを訪れて経を読み、ねぎらうことによって、一遍さんは捨てたんだと思います。
 
白鳥:  溝口さんの作品から、
 
     「墳丘(ふんきゅう)の地」
     日を浴びて 葉が舞い落ちる
 
     かぜもなく
     放たれる
     くれないの
     葉の音は
     かすかだが
     おもいがけず
     いそがしい
 
     木の末(うれ)につつまれて息をのむ 空さえも
     とどめあえず
     時は 無常に剥がされて
     日を潜ぐり 地に転ずる その束の間を
     うけとめるてのひらは
     濃密な生と死の温もりの 混然に地と化して
     めぐる季節を喰みつづける 我執の土
     ・・・・
     ほそぼそと
     魂をゆらすほどでもなく 鎮(しず)もっている
     ことさらに懐土望郷(かいどぼうきょう)のむかしを探すこともない 今は
     一穂(いっすい)を手折って
     上人の語録にはさむばかり
 
溝口:  あたかも風に靡いているススキの一本であるかのように、武士の出であることを、あるいはそれに纏わる執着心やら誇りやら、全部を捨てきって、一遍は一つの北への旅を終わったという感じがします。その記念にススキの穂を語録にはさんで帰ってきました。一遍はその次からもう一つの転機が生まれるんだと思うんですね。それは何であるかというと、奥州の旅を終えて関東へ戻って来ます。そして、鎌倉へ差し掛かる頃―まだ鎌倉へ入らないと思うんですが―差し掛かる頃が弘安四年(1281)です。つまり元の大軍が再び押し寄せてきた。しかも自分の従兄弟に当たる者が河野水軍の誇りとして元の軍勢の船に襲いかかって、痛手を深手を負いながら戦功を挙げているという最中、一遍は聖塚まで行って、つまりすべてを捨てた。そして鎌倉へ来て―鎌倉へは入れませんでしたが、片瀬の地蔵堂の近くで踊り念仏を始めたわけです。その時は、佐久の踊り念仏がそこの土地の人々と時宗たちとが輪になってささやかに念仏をしていた場面でした。ところが違うんですよ。舞台を作ってその上で踊り念仏をしていたんです。つまり時宗たちだけが踊り念仏をしているのを、大勢の人たちが取り囲んでそれを見上げているんです。そういう踊り念仏に変わったんですね。ですから、一体それは何故か。つまり踊り念仏そのものを通して、一遍はさらに布教を民衆へ浸透させようと思ったんです。もうすべてを捨てきった後は、民衆に向かって自分の南無阿弥陀仏の思いを伝えていけばいい。もう自分が背負ってきた武士の名家の誇りは聖塚(ひじりづか)に置いてきた。そういうふうに私には受け取れるんです。
 
白鳥:  豪族という身分を捨て、妻子を捨て、勿論住むところも着るものも何も捨て、それだけじゃなくて、誇りすら捨てて、という。
 
溝口:  つまり「誇り」というのは執着心ですね、一つのね。だからそれを通して心を捨てるということをどこまで徹せられるか。今おっしゃったように、「捨てる、捨てる」という形で、一遍はだんだん名号の核心へと迫っていくんだと、私は思いましたね。ですから人々はおそらくそういう捨てきった一遍の一行を見て、その踊り念仏の姿にちょうど浄土から自分を迎えにくる阿弥陀様一行を彷彿(ほうふつ)として見たかも知れない。従ってそこから後の一遍の遊行の踊り念仏は、周りの人々の関心を呼んで、都へ入ってからは、とても押すな押すなの盛況だった、と。今で言えば、都人衆が、とにかく踊り念仏を通して自分が浄土に救われることを願っていたわけです。
 
白鳥:  聖絵には、牛車まで集まってということは、随分位の高い人から民衆までという、そういうふうだったんですね。
 
溝口:  ですから、私はその時が一遍の布教者としての最高潮のところ、大成功をおさめた布教者一遍上人のもっとも華やかな時だったんではないか、というふうに思います。この場面のその後、一遍は病を得て、京都の桂で長い滞在期間があります。そこで病気の療養をします。そういう状態に移るわけですね。そこから後はおそらく病気を抱えながら、また遊行を続けていくという形になっていくんだろうと思います。そこからやがて最後の旅の段階へとやがて入っていきます。それはどの辺りからかといいますと、一遍が四国の阿波の国を歩いている時に、自分の病を強く自覚する時があるんです。そして周りの者に漏らすわけです。「私の生涯は幾ばくもない。死期が近づいているんではないか」ということを、これは聖絵にそう書かれています。人々はとてもそれを聞いて驚きます。勿論不安がります。しかし一遍自身はもう既にやがてくる死の時期を予感していたんではないかと思います。それはちょうど阿波の国、そしてやがて淡路島へ渡る。その辺りにもう一遍の心の状態、体の状態、その時に私が感じたのは、布教者としての一遍よりも病を抱えながら歩いていく孤独な漂泊者としての一遍、そんな思いが頭の中によぎってきます。そして私は一遍を追うのではなく、一遍の中に入って一遍とともに歩くことができるかも知れない。そんなふうに考えました。それは私と言いますか、私たち自身孤独な旅人だからだと思います。決して一遍のような優れた布教者ではないけれども、孤独な旅人であることにおいては、私たちも変わらない。つまり私も変わらない。ここで私は一遍の背中を追ってきた私ではなく、一遍とともに、できれば一遍の中に入り込んで歩いていきたい。こんなふうに考えて、私の詩集で言えば、『流転(るてん)/独一(どくいつ)』という題名の詩を書き始めることにしたんです。
 

 
     「秋風が吹いた」
     秋風が吹いた
     さわやかに はじめての
     それは からっぽになった(私)の体のなかを擦り抜けると
     陽の注ぐ竹の葉群(はむら)を掻き分けて
     清々(せいせい)と音立てて揺らせていた
     浅葱(せんそう)にけぶる空の青が どこまでも広がっていく のびやかな
     この軽さは いったいどうしたことだろう
     軽すぎるのだ 世界までが
     ちぎれ雲が 列をなし
     陽に染まって
     踊っている
     それが 天上の季節なのか
     地上は
     暑熱(しょねつ)に焙(あぶ)られて 野草たちは萎えしぼみ
     踏む足もとからほこりが立つ
     白い道(私)は道の辺の草となり
     称名を聴いている
 

 
溝口:  私は、一遍という偉大な布教者が私の目の前にいました。あるいは私はその後を追ってきたんですけれども、病を得て「もう私の死期が近い」というふうに告白した時に、一遍は一人の旅人、孤独な漂泊者になったという気がしました。それは人間として私と変わらない人間、漂泊者、そこで私は詩の中で、今なら一遍の中に入って一遍とともにこの旅を続けることができるという気がしました。
 
白鳥:  それが括弧()をつけた(私)という文字を使っていらっしゃるわけですね。
 
溝口:  そうです。この『流転/独一』の一遍の旅を追っていったわけです。その時に私の中に長楽寺の一遍上人立像の姿が浮かんできました。康秀という仏師は見ない一遍の思想をあのように素晴らしく彫り上げてきた。私は拙いけれども、詩の世界において一遍と一体になりながら歩いていくんだ、と書いたんですね。その時にふっと思ったのは、いやいや、こういうことは、私がしているんじゃない。もっと前の偉大な先達が既にしているではないか。それは例えば西行です。西行の詩の中に、
 
     心なき身にもあはれは知られけり
       鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮
          (西行)
 
というとても有名な歌があります。「心なき身」って何だろう。つまりそれは人の心を持たないような人間、そういう意味じゃないだろう。つまり一遍流に言えば、心を捨ててしまったその後でさえも、しみじみと哀れが身に沁みてくる。そういう感動を西行は詠おうとしたんではないか。この道は一遍の道とどっかで重なっているんじゃないか。一遍が歩きながら、人々に説こうとしたこの世を超えた世界というのは、つまり西行の言葉で言いば、心なき身でもわかる哀れですね。あるいは心なき身にさえも、身でなくては味わいない哀れかも知れません。そういうことを感じた時に、ああ、私はそういう西行の道を真似て追っているかも知れないな、という気がしたんですね。でもそう言い出すと、もう一人いるのではないか。それは後世の芭蕉ですね。奥の細道を旅をしながら、あの俳句の世界を切り開き、そして最後病中の吟として、
 
     旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
         (芭蕉)
 
あの夢は俗世の夢ではない、といいますね。それは一遍上人の思い描いた名号の世界であり、西行が歌の中で極めようとした心なき身を超えた哀れの世界、そういうものだろうな、ということを感じました。
 
白鳥:  一遍上人はついに最期を兵庫県でお迎えになるわけですね。
 
溝口:  兵庫の観音堂という場所が一遍上人の最期の場所になります。その最期の場所の様子は『聖絵』の中に描かれています。それは大勢の人々が亡くなった一遍の周りに寄り集まって嘆き悲しんでいる。涙を流し、泣き悲しんでいる場面。私はその場面をどう捉えようかと思っていました。で、「終章」を書きました。
 
白鳥:  溝口さんの作品の、
 
     「終章」
     ・・・
     溶暗(ようあん)の海のかなた
     波立ち騒ぐほのあかるみに生まれ出た
     候鳥(こうちょう)の群れが
     いっせいに東へむけてとび立っていく
     追えば 雲はすでに色褪せて白々(しらじら)と治(おさ)まるものの
     もはや耐えがたいまでの輝きに崩れる
     嶺の一隅に
     兆をふるえのぞかせて
     遂に日は天空へと昇っていた
     ―おそらくは
     その時だったのだ
     正応二年八月二十三日
     辰の刻 晨朝(じんちょう)礼讃の最中
     聖は 息のかよいを止め
     だれひとり気づくものなく
     彼岸へと旅立った と
     波音が まばゆい朝の光をのせ 砂地を踏む私へと 寄せて来る
     (死ぬことは生まれることと変わらない)
     私は そのことを聖の声で聴いていた
 
溝口:  嘆き悲しむ聖絵の世界。私は勿論それは真実だと思います。しかしもう一つの真実が隠されている。それはそうした悲しみを超えた世界、つまり一遍が求めたのは人間の生と死、その差別を超えたもっと大きな感動の世界、それを一遍は思い描きながら、あの世へと旅立ったんだろうと、私は思います。海の上に浮かぶ雲、その雲をかき分けながら昇っていく陽の光―太陽。それこそが一遍の入寂に相応しいと思いました。そしてその雲の様子や、空の様子を眺めていると、波の音が聞こえてきました。一遍は心の中でこんなことを言ったことがありました。一遍が興願僧都(こうがんそうず)という方へ念仏についての心得を手紙で返事をした。その中の一文章でした。
 
     よろづ生としいけるもの
     山河草木、ふく風たつ波の音までも、
     念仏ならずといふことなし
 
つまり風も波の音も山や川や草も木もすべてが声を発し、祈りの声を発し、念仏をしている。これがつまりわれわれが目にしている世界である。一遍は『法語』の中でこういっています。おそらく一遍は自分の臨終に際して、このような世界に包まれながら、念仏称名の世界に包まれながら旅立ったに違いない。そしてそれを残ったものに伝えていったに違いない。私はその詩の中で波の音を聞きながら、「死ぬことは生きることと変わらない」。いや、これは私の言葉ではない。一遍が肉声で私に伝えてくれたんだ、と。そういう感動を覚えながら、この詩を作りました。そして私は、とすれば一遍はもう亡き人になってしまったけれども、しかし山や川が念仏を唱えている。そういって一遍は教えたではないか。私は敗戦の時に、「国破れて山河あり」―国が破れてしまってこんな惨めなことはない。でも山や川がそこにある、そして私もここで生きている。でも私はその時に、「山河あり」の意味があまりよくわかっていなかった。山河が何を私に伝えようとしているのか、よくわかっていなかった。「私あり」という私の思いと、「山河あり」とは別々なような感じがしたんです。ところが一遍のこの入寂を通して、それは違う。〈山河は祈りの声を上げているんだ。私というものはその中に包まれて生きているんだ〉。つまり敗戦の時に、私の中に宿題のように残った、「国破れて山河あり」国破れて私だけは生きた。それが一遍の法語の中に、あるいは一遍の思想、あるいは教えの中で合体していくと言いますか、自分に「これぞお前の歩くべき道だ」と教えてくれているような気がしたんです。とすれば、私は一遍の教えに従って歩くんですが、一遍はこういっていました。自分が死んだ後、
 
     法師の跡は、跡なきをもって跡とす。
 
何もないよ。何もないじゃ困るじゃない。いや、そんなことはない。今、法師が跡とは、それは、
 
     法師が跡とは一切衆生の念仏する処これなり
 
私は念仏しているだろうか。いや、私は詩を書きながら一遍を追っていたんだ。とすれば、私が書く詩、それが一遍がいう念仏するところになるのではないか。私はそうすると、もう詩の遊行を止めるわけにはいかない。この道を歩くしかない。いや、歩かせて貰えることになるのだ。そういうような思いが致しました。
 
白鳥:  最後に「念仏が念仏する」のお作を溝口さんの声で読んで頂けませんか。
 
溝口:  わかりました。
 
     「念仏が念仏する」
     毛状緑色(もうじょうりょくしょく)の穂をくねらせて群生(ぐんせい)する
     川土手道のエノコログサが かぜにまかせて
     念仏する
     音(ね)を挙げて澄み渡り和す 甲虫(こうちゅう)たちが 草むらに潜み念
     仏する
     ゆくさきざきに ちらちりぢりにまいあがり とぶ 羽虫たちが
     ちらめいて
     念仏し
     上 中 下段に静止して 宙に浮かぶ
     トンボたちが 羽をうごかし
     念仏する
     そのかなたに
     秋空を埋め尽し
     漂泊する
     うろこ雲が
     悠々 寂々と
     念仏し
     川面(かわも)に映る その模様が 流れとともに輝いて念仏する
 
 
     これは、平成二十年一月二十七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである