まほろばの心を撮る
 
                        写真家 井 上  博 道(はくどう)
昭和六年兵庫県の禅宗の寺に生まれる。昭和二九年龍谷大学文学部仏教史学科卒。二九年大阪産経新聞社写真部入社。四一年退社後フリーカメラマンとなる。五九年大阪芸術大学写真学科助教授を経て、六一年教授。平成九年退社。この間、六三年井上企画・幡を設立。奈良の仏像、仏閣、風景を中心として作品づくりを続けている。著書に「美の脇役」「奈良万葉」「東大寺」など多数。
                        ききて 西 橋  正 泰
 
ナレーター:  古の都奈良。日本の原風景がここにはあります。写真家井上博道さん。井上さんは国のまほろばと呼ばれてきた古都奈良の姿を半世紀以上にわたり、写真に収めてきました。その作品は観光ポスターを初め、書籍や写真集、雑誌などに数多く使われ、人々の目を楽しませています。井上さんは、飛鳥・白鳳・天平時代から受け継がれてきた風景を追い求めています。

 
西橋:  井上さんはもう奈良に住まわれて三十年になりますね。
 
井上:  そうですね。神戸からここへ引っ越して来てね。
 
西橋:  さらにその前から奈良の撮影はなさっていたんでしょう。
 
井上:  新聞社時代にね。どうしても奈良へ来る機会が多くてね。同級生にしても、ここの薬師寺のお坊さんにしても、あの頃はどうしても先輩後輩の結び付きが多くて、奈良に来る機会が多かったですね。
 
西橋:  そうすると、もう通算五十年ぐらいは奈良の撮影を?
 
井上:  そう、もう五十年は来ていますね。最初は友だちのようにお寺にいる人を訪ねて来て、その寺が親しくなって、まず来るというよりは人間関係から来るようになりましてね。
 
西橋:  なるほど。そのうち徐々に撮り始めて、
 
井上:  そうですね。
 
西橋:  ほぼ五十年も奈良を撮り続けられた写真家としての奈良の魅力というのはどういうことですか。
 
井上:  奈良はご覧になってもわかるように思い切り明るい空と堂塔のある姿が非常に大らかな気分になれる風景ですね。そういうものが凄い魅力になりましたね。
 
西橋:  じゃ、こういう大空がぴったりなわけですね。
 
井上:  ぴったりですね。今日のこの空、青い空と堂塔が輝いている。井上靖さんの『天平の甍(いらか)』なんて小説がありましたけど、あれは僕らに凄く影響を与えていますね。
 
西橋:  奈良の建物とか風景とかをお撮りになっている、その写真の中に日本人の心と言いますか、そういうものもお感じになりますか。
 
井上:  今、こういう風景を見ていてね、ほんとに贅沢だというか、幸せというのか、日本人の―日本人以外でもそうでしょうけど―こういうものを持っているという。あるというものではなくて、こういうものを心の中に持ち続けていけるということは素晴らしいですね。特に奈良のあり方というのは、いろんなことも含めて変化がないようで、五十年ぐらいずっと見ていると相当変化していますね。それが今になって、ああ、奈良が生きているんだなあ、という。
 
西橋:  「奈良が生きている」と。
 
井上:  生きている、という。単なる変化じゃないですね。景色も生きているし、僕らはその中で生かされているという気分で、奈良を撮し続けておるわけなんですよ。
 

 
西橋:  写真との出会というのは、大学時代ですか?
 
井上:  ええ。そうなんです。ほんとは妙心寺の禅宗の花園大学へ行かなくちゃいけなかったんです。しかしまあ割にこんなに大人しく見えるんですけど、やんちゃなので、龍谷大学をちょっと見に行ったら非常に荒っぽい学校でしたが龍大に入ったんです。田舎から来て、友だちもまだいないし、二年間は静かにしていたんです。二回生の終わりの頃に、友だちもできてきて、友だちから誘われて合唱団に入ったんですね。その中に写真部を作ろうという友だちがいて―今や聖護院の門跡になっている偉い人がいるんですけど―彼が誘ってくれました。僕はカメラを持っていないんです。そうしたら部を作ったところの人たちの中には、お寺の子がいて、京都のお寺の子は裕福でカメラを持っていて、「貸してあげるから入りなさい」と言ってくれた。頭数を揃えないと、部として認めて貰えない。学校から予算が下りない、というんです。
 
西橋:  龍谷大学の写真部の創立メンバーだった?
 
井上:  そうです。みんなのカメラを借りまくってやっていました。現像、プリントとか、道具がみなありましたから。そして嫌がる同級生を無理矢理撮って写真代を集めるとか、それが高じてあの頃コピー機がないですから先生の論文の資料を写したりね。
 
西橋:  大学と西本願寺は?
井上:  道路一つ隔ててですから。
 
西橋:  そうですか。ではしょっちゅう出入りしていたわけですね。
 
井上:  そうです。お寺は面白いしね。禅宗のお寺と違って面白味があってね。本願寺の飛雲閣は秀吉から譲られた別荘ですからなかなか彫刻が素晴らしい。そういうものを写真で撮ってみようかなあと思って。
 
西橋:  中に入って写真を撮ることもまったく自由にできたわけですか?
 
井上:  その頃自由です。昭和二十五、六年ですが、やかましくいう人もいないし自由に撮っていたんです。そしているうちに西本願寺の広報の人たちから、変わった学生がいるな、と。本願寺の雑誌で使う写真がいるんですよ。カットやら雑誌の表紙に要る。本願寺の編集の局長が、「お前来んか」ということで、アルバイトしていた。そして三回生の半ばぐらいに本願寺の嘱託みたいな形で学生ですけど授業のない時はやっていたんです。三回生になると一般教養は終わっていますから、わりとフリーな時間ができる。休みの日は遊ぶところもないし、精々パチンコぐらいで、そんなにお金もない。本願寺へ行って、撮った写真を使ってもらうとアルバイト料が貰えます。それと好きなものが撮れるわけです。
 
西橋:  西本願寺の中で、その頃好きなものはどんなものがあったですか。
 
井上:  国宝の欄間の形ですね。勿論絵画も素晴らしいです。狩野派の絵がいっぱいあったんです。それよりも、襖の引き手ですね。いい形しているんですよ。それを『美の脇役』に使っていますけどね。それからお寺の門の扉の彫刻とかね。異常なぐらいの彫刻で装飾過剰のような面白味みたいなものがあって、そういうものを撮っていたんです。形というのが好きだった。寺というよりは、装飾も含めて、いろんな物の形というのが、僕の田舎にはそういうものがなかったですから珍しかったですね。まあよう考えたら超国宝ばかりの中をウロウロして撮っていたんですね。あんな凄い時代ってないですよ。
 
西橋:  ということは、井上さんの美意識の原点みたいなものは西本願寺の中で。
 
井上:  そうです。
 
 
ナレーター:  学生時代、井上さんの将来を大きく左右する出来事がありました。それは当時新聞記者をしていた作家司馬遼太郎(しばりょうたろう)さんとの出会でした。
 

 
井上:  司馬さんは僕の編集長のところへいつも遊びに来ておられたんです。
 
西橋:  西本願寺では『大乗』という雑誌を発行されていたんですね。
 
井上:  僕が担当していました。
 
西橋:  その編集長であった青木さんのところに、後の司馬遼太郎さんが来られていたわけですね。
 
井上:  司馬さんは新聞記者で、しょっちゅう僕の横へ来てしゃべっておられた。
 
西橋:  じゃ、『大乗』の編集部でお会いしていたわけですね。
 
井上:  ちょっと話をするようになってね、僕が本願寺の御影堂の天辺に上って、最後に手をかけたところから鳩が出てもの凄い恐ろしい思いをしたことがあるんです。そのことを青木編集長が司馬さんに、「こんなアホなことをやる偉いやっちゃで」と、その時の写真を見せて話した。その頃から時々本願寺を撮っている僕のことを、ある本に書いてくれましたね。
 
西橋:  司馬さんと最初に会われた頃は、井上さんは二十歳か二十一ぐらいですよね。
 
井上:  二十一ですね。
 
西橋:  そうすると、司馬さんは八つ年上ですから、二十九歳ぐらいの時ですね。まだ若いほんとにパリパリの兄貴分みたいな記者だったわけですね。
 
井上:  仲良くなってから―あの頃食糧難で、例えば食事をするところにお米の配給切符を預けていないと米は食べられないんです。うどんだけはどうにかお金を出せば食える。大学の食堂でお金を出せば食べられるわけです。そんなお金もあんまりない。時々、司馬さんが、「おい、うどん食おうか」といってくれる。それは亡くなる前まで自宅に遊びに行っても、「うどん食おうか」というのが、延々と続きましたね。
 
西橋:  そうですか。そういう時に、井上さんがご自身の写真のこととか、自分の写真に対する考え方を話したことはないんですか。
 
井上:  ないです。何を言っていたもうかわからないが、写真のことは言っていないですね。
 
西橋:  司馬さんは井上さんの写真を見ていたわけですね。
 
井上:  見ていたんですね。それはずっとわからなかったんですが、新聞社へ入ってからわかったんです。司馬さんが桜橋の大阪本社へ行かれた。それで四回生になってからはあまり会うことがなくなった。
 
西橋:  井上さんにとってその頃司馬さんに感じられた魅力というのは、どういうことだったですか。
 
井上:  それが、僕は残念ながら幼稚ですね、ただその時笑ってばっかりで。ただ知識の泉みたいな感じで、無茶苦茶な物知りだということをお聞きしていた。何かあったら聞けば凄いだろうなあと思っていたんです。何せ歳が違うし、僕は子どもみたいなものですから。
 
西橋:  八歳年上ですからね。
 

ナレーター:  卒業後、井上さんは司馬さんを追い掛けるように、司馬さんが勤めていた新聞社に入社しました。ここで司馬さんと一緒に仕事をする機会に恵まれました。
 

 
西橋:  司馬さんと企画をされるようになったそうですね。
 
井上:  ええ。時々高いバナナの入ったミックスジュースをよばれながら、会社の話した。文化欄担当で、司馬さんがデスクをやられ、その後次長になられて、新聞の紙面がどんどん増えていく時代だったんです。十ページぐらいの紙面が二十ページになり三十ページとどんどんページ数が増えて、いろんな写真企画のものが増えてきた。ある時、司馬さんから、「ちょっとパーラーに来へんか」というから、あ、今日美味しいミックスジュースを只で飲めると思って行ったら、「文化部でも写真の連載をやってみようと思っているんや。文化欄で毎週一回連載してやってみたいんや」と言われた。「それ何ですか?」と言ったら、タイトルが「美の脇役」。「どんなものを撮りますか?」と言ったら、「ずっと学生時代撮っていたやろう。そういうもんや」と言われたんです。
 
西橋:  井上さんの写真を見ておられたわけですね。
 
井上:  ええ。例えば、「お寺があると、そうすると脇役に飾りがある。学生時代に撮っていただろう。あれやあれや」と。あ、そうか。ああいうものを新聞に連載するなんて変わっているなと思ってね。新聞と言ったら、ニュースかスポーツ、事件でしょう。そんなのばっかりの時代でした。文化系のそんなものが写真で連載されるということは、あの頃、他の社でもなかったみたいです。「これは画期的なもんやろう」と司馬さんは自慢してね。「だから君が見ていた日本の文化の中における形としての美の脇役、主体はいいねん。例えば、大将はいいねん。その下の方におる参謀とか、その辺のいい奴を掴まえてきて、それを取り上げるんや」と。後で考えたら司馬さんの小説はそれなんですよ。脇役が持っているもの凄さ。例えば郡山城はお城を造った時、石垣の中にお墓がいっぱい使ってあるんですよ。中には逆さ地蔵と呼ばれるお地蔵さんまでお城造る時に積んでいますよ。凄いですよ。そこら辺にそういうものがいっぱいあったわけです。司馬さんも「二条城のあそこはおもろいで」という。二条城の東大手門に朝行って、門の鋲を写真に撮った。その写真をみて、司馬さんは、「わぁ、綺麗だ。おっぱいみたいやなあ」と言われてね。
 
西橋:  そうですか。
 
井上:  「わぁ、そうか、綺麗だな」と思ったんです。この『美の脇役』の仕事が僕の写真のいろんな意味での原点になっちゃったんですね。ですから写真止められなくなりましたね。気分的に面白くて。
 
西橋:  こういう本に纏まった時は、ご自身の人生にとっても重みというものをお感じになったのではないですか。
 
井上:  その時はただ嬉しいばかりで、局長賞を一万円貰って、「よかった、よかった」と言って貰って、それが嬉しかったぐらいです。生まれて初めて本になったし。その頃よく考えたら本になった嬉しさだけで、重みというまで感じていないですね。若いんですね。これをきっかけにこの淡交新社から十一冊、僕の企画で出版されました。『室生寺』もそうだし、自分の考えで撮ったものが、こういう本に纏まるんだなあという面白さみたいなものが出てきて、だんだん新聞社でスポーツや事件を撮っている時間がもったいない。会社には悪いけど、そういう気持が出てきましたね。
 
ナレーター:  好きな写真を撮りたい。井上さんは新聞社を辞めて写真家の道を歩み出しました。仕事の幅を広げるため、拠点を東京へ移すことを考え始めた時、井上さんの脳裏に浮かんだのが、既に作家として活躍していた司馬さんの姿でした。
 

 
西橋:  司馬さんにご相談なさったんだそうですね。
 
井上:  ええ。出版社の編集長というのはみな東京にいますよね。そういう人の身近にいると、すぐ仕事ができると思っていたんです。ですからあの頃関西におった頭の切れるカメラマンはみな東京へ行きましたよ。だから今有名なカメラマンはみんな地方から来た人で、東京生え抜きの人はいないですね。東京東京とみんな出て行く。僕もああなりたいなと思った。東京へ行けばすぐ仕事があって、と。その頃司馬さんも大作家になっておられるし、下心があって、司馬さんも飛んでいるし、出版社の仕事を貰えると思った。司馬さんに「東京へ行きたい」と言ったら、ひょっとしたらアドバイスがあって、「誰々のところへ行け」と言って、もっと仕事ができるなあと思った。下心があって、ある日半分冗談めいて、「僕、ちょっと東京へ出たいと思うんですが」とちらっと言ったんですよ。一発で、「お前、アホと違うか」と言うわけです。「え!」と思って。「君は東京で何を撮るねん。東京に何がある。君が撮っているものあらへんやろう、周辺に」と言われた。なるほどな、と思ってね。東大寺も唐招提寺も薬師寺もないし、大徳寺もない。あ、それでガツンときちゃった。それで二度とそのことは言わなくなりました。
 
西橋:  ご自身の中でも整理がついたんですか。
井上:  つきました。それで決心つきました。よく考えたら、僕はそんなに器用じゃないしね。外国へ行って、パカパカ写真を撮れるような器用さはない。自分の撮れるものは今までのこういう中で、辛うじて日本の文化のものを撮るぐらいしか、自分の中にはないんじゃないかな、と思ったんです。家内と結婚して神戸に住んでいたんですけど、神戸から京都や奈良へ通い出したんです。家内は奈良の人間ですから、まあ奈良へ行こうか、と奈良に移りました。気分的にもお寺が好きですし、自分がお寺で育ったというのが自然にくっついているんですね。気も休まります。そのうちにだんだん博物館とか、いろいろ国の文化的な行政の中で、仏さんを分類されたり、まあ嫌だなあと思うようなことがいっぱい出てきたんですけど、まあ仏さんがいると安心するんですね。僕は、仏像という「像」がつくと嫌なんです。小さい時から「仏さん」と言っちゃうんです。子どもの時からみんな田舎の人は全部「仏さん」です、纏めてね。家らなら観音さんですね。観音さんを真ん中に挟んで観音講。観音さんの前でご馳走食べる。お薬師さんの日だったら、お薬師を囲んで飯食ったり、そういう感覚ですから、「お薬師さん」「お不動さん」とか、みんな「さん」なんです。
 
西橋:  家族みたいなものなんですね。
 
井上:  そうなんですよ。「仏さん」という。引っくるめた仏さんです。その代わりもっとふざけた時は全部引っくるめて「のんのんさん」ですね。何かやると「のんのんさん見てはるで」と。悪いことしたら「のんのんさん見ている。罰あたるで」という。それが一番怖かったですね。そうかといって良いことしたら、「のんのんさん見てる」。そういうものがずっとくっついているから、ほんとに親と同列よりちょっと上かなというのが仏さんですね。それがだんだん博物館的な美術としての仏さん。仏の見方が備わってきましたね。「何何立像」とかになってきてね。それでだんだん仏さんと離れていきますよね。 
 
西橋:  美術品鑑賞の対象になってきた?
 
井上:  鑑賞の対象なった。鑑賞も方便であって、そういうところから実際に信仰に入っていく人もありますから。鑑賞でも何でもいいんですが、仏さんの前に立って、そこから信仰というものが生まれてきて、信仰の世界に入っていったらいいんじゃないかな、と僕は思っています。
 
西橋:  井上さんは、奈良に住まわれてもう三十年近くになられるんですけれども、『東大寺』という写真集を出されていますね。これは昭和六十三年(1988)ですね。
 
井上:  ちょうど二十年前ですね。僕は、お寺撮ってもリアリズムだし、写真というのは絶対記録だと思うんです。だったら東大寺の今住んでいる坊さんの生活を含めて、きちっと一年間ドキュメンタリーを撮りたい。というのは、東大寺の一年間というのを見たら、寺役の仕事が非常に多くてもの凄く忙しいんです。朝早くから法要がいっぱいくっついている。こんなに東大寺は忙しいことをやっているんだ、という、一年間を記録にしてみようと思いました。その中にこういう仏さんの前でこうやってお経を読むとか、この仏さんの前でこういう法要やるとかね。全部そのために寺役というのがありますからね。鑑真さんのおられる戒壇院では、「鑑真忌(がんじんき)」と言って、鑑真さんが渡来してこられた巻物を読むわけです。聞いていたら涙が出るような世界ですよ。苦労して来られた、と。それを参籠して聞く人は一人か二人です。それを一生懸命やる。凄いなと思う。それをやる寺役を二年間ぐらい見ていました。どこで撮ろうかな、と。シャッターを切るまで随分時間がかかったんです。法要始まったら動けないでしょう。「舎利会」というのが一年に一回あるんですよ。仏さんの遺骨を拝む。舎利を拝む。その入れ物が国宝だから博物館にある。それを持ってきて、その入れ物を見て、こうやって回しているんですよ。後で聞いたら仏舎利を拝む。確かめて拝む。ああそうか、来年はあっちから見たら撮れるなとか、そういうことがあって、一、二年ぐらいは見ていた。ほとんど見ていましたね。シャッター切るのは三年目ぐらいしか切れなかった。そうやって一年間の行事をこの中でやる仏さんのあり方も含めて、行事をずっと追っかけていったら、この写真集『東大寺』になった。
西橋:  その中の一枚で、これが非常にユニークなポイントから撮られていますね。
 
井上:  これを撮っていて思ったんです。宗旨は華厳宗で、「華厳」という言葉を、これは聖武天皇がおっしゃったんですが、大陸辺りの思想ですが、「華厳」についていっぱい本も出ているし、難しい仏典もありますけども、引っくるめて言えば、「この世の中にあるすべてがお互い影響し合って、上も下もなく、お互いが輝いて、現在生きている」という。そうすると、自然界と一緒じゃないかな、と思ったんです。自然のあり方と。そんな難しい教義抜きにしたら、「ありとあらゆるものが光り輝いて、お互いが反応し合って、輝いて、幸せに生きている姿が華厳の世界」と。それをなんか写真で表現できないかと思ったんです。普通は下からこう拝む。そうすると、一対一の関係しかない。大仏さんが華厳の思想の中心におられて、ここから光を発して、全国の国分寺尼寺に華厳の思想を発揮して、その光り輝く華厳の世界を一つカメラに映像化してみたい、と。ここへ辿り着くのに階段も含めて非常に急なところで、恐ろしいほどの内部構造なんですよ。ここに辿り着いてパッと見た時の感覚は、なんか自分が跳ね返されてどっかへ、なんとも言えない圧力みたいなものがあって、レンズ向けて撮れるかな、と一瞬たじろぐというぐらいでした。今だったら平気ですけど―圧力があったですよ。これは絶対撮ろうと思って。
 
西橋:  撮っている時に、光明の中の居心地の良さみたいなものって?
 
井上:  包まれていきますね。安心というか。僕らは上から見るということはありませんからね。面扉(めんとびら)というのが大仏さんの真っ正面にありますね。それがパカッと開いて、昔は正月しか開かなかったんですね。昔は中に入って拝めないから、そこの面扉がパッと開いて、光明が輝いて、世界中に光が出ているという場所。その扉が開くんですよ。お盆も開きますけどね。そこからしか拝めなかったんですよ。それをそういう元の光源を見たかったんですね。そういう光を発する光源を見たい、と。そうしたら長い柱がピュッと、広角レンズですから絵が歪むでしょう。歪んだその中に毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)がドンと座っておられる。これが輝きの中心かと思ってね。光明の世界、自然との共存とか全部引っくるめて聖武天皇が考えたということは、こういうことなのかと思いました。勝手な想像ですけど。そこでまあ自然に対するものの見方というものも、いろんなことを学ばしてもらったです。自然界ってみんなそうなんですよ。人間が手を染めない限りお互い共存しています。全部が一緒におりながらね。春になればみな一緒に花を咲かすし、そういう世界が華厳の思想じゃないか、と。キザですけどね。その時そういうことを体感してほんとに幸せだったと思います。そういう体験をしてからリアリスティックなものの見方が変わっていく。一体大仏さんはどういう輝きをしているか、見たいというのがあるんじゃないですか。興味も含めてね。そういうところからの欲で撮ったんですけどね。
 
西橋:  東大寺を何年間かかけて撮られて、一冊の写真集になったわけですけれども、撮り終えた後、写真家としての井上さんに心に響くものって、どんなものだったんですか。
 
井上:  僕は、これがあるからこれだけのためにやっているんじゃないです。僕はずっと自分の中では続いているんですよ。先ほど言いましたドキュメンタリーですから、東大寺もそのうちの一つであるし、撮ったところによって、その寺の思想表現だとか、もののあり方とか、みんな違います。例えば自分の思っていたことと違うものにもあたるし、東大寺なんか日本の仏教の中心にトップにおるようなお寺です。その中で一つの自分の骨肉の栄養と言ったら怒られますけど、自分が知らなかった、無知だった部分を充たして貰える。各被写体が問うことによって。ただものを考えて、本読んでいるだけでは、僕は抜けていっちゃうんですよ。仏さんでも何でもその前に立って撮ると、骨肉―自分の体の一部に入ってしまう。だから物の前に立つ。仏さんを物と言っちゃ悪いけど、カメラマンは目の前に立って物をとらないと撮れない。合成写真ならダメなんです。そこの前に一旦立つと、それを見ていますから自分のものに初めてなる。その蓄積がやっぱり自分の財産であり、ずっと自分の写真の思想というものが同じものでありながら、浄化もされるし進歩もしていく。自分の思っていたことが確信もできるし、間違っていたものは間違っているし、そういうものの自分の中での写真における自問自答というものが、こうずっと続いてきて、あともう写真を撮っていくためのプロセスというと悪いけれども、栄養でもあり、自分の思想展開の重要な部分。ですから、『東大寺』は東大寺を撮ったからってこれで終わるというんじゃなしに、仏さんの前に立てば、ものの見方が『万葉集』になったり、いろんなものになっていると思うんです。『万葉集』一つとっても、あまり手掛けてなかった世界へ飛び込んでみる。やっぱり東大寺と同じ続きなんですよ。『美の脇役』と同じ続きなんです、被写体が変わっても僕にとっては。見た人によって違うんじゃないか、ということは、今年七十七の喜寿になるんですけど、そういう自分の中の一つの成長の記録という。
 
西橋:  さて、奈良にいらしてからの井上さんの大きなお仕事の一つとして、この『奈良万葉』というシリーズを全六巻出していらっしゃいますけれども、この『奈良万葉』のシリーズに取り組み始めた頃のお気持ちというのは、どういうことからですか。
 
井上:  この『東大寺』をやりながら、『万葉集』も入ってくるし、奈良と言ったら万葉の世界がどっかでみなくっついてきているんですよ。平城京一つとってもね。『万葉集』と言ったら古代文学の一つぐらいにしか思っていない。一時「万葉ブーム」というのが何回かあった。カメラマンも万葉集の中の「万葉の花」って特別じゃないんですよね。そこら辺にある薬草であったり―ほとんど薬草ですね―人間に役に立つ草木を「万葉の花」という名前を付けている。何でもない露草一つも万葉の花ですから、それを撮ると売れるよ、と。実際日本人は花が好きですね。僕も好きです。万葉の花を撮るよう出版社の人が勧めてくれるけど、花だけで万葉集って理解できるだろうかなあ、と思ったんです。それで少しずつ中西進先生や他の方々の訳した平仮名付きの『万葉集』をボツボツと見た。そうすると柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)という凄い人が出てきて、「挽歌(ばんか)」死を悼む言葉を作る歌人がおった。だから万葉集の前期は人麻呂の時代ですよね。各天皇に皇族に非常に可愛がられてね。というのは、亡くなられた時の彼の歌が、例えば亡くなられた時の挽歌だけじゃなく、一緒に旅をした時だとか、その風景を愛でて、それを素晴らしい漢詩にするわけでしょう。漢詩なんですね。そういうことをやる立派な歌人があって、重用されて非常に美しい歌を歌っているんだなあと思って見ていた。人麻呂の表向きの挽歌の素晴らしさみたいなものをみていて、あ、凄いなと思っていたんですけど、そんなに万葉集も読んでいませんから、はたと人麻呂の奥さんが亡くなった時の彼の悲しみの慌て方、それをもの凄く正直に歌に詠んでいるわけでしょう。秋の名月を奥さんと二人で見ていて楽しんでいたんです。その後亡くなったんです。亡くなった時、彼は秋の枯葉の中を奥さんを捜して、魂がどこに行ったかと悲しみ歩き廻って、どういう表現で奥さんの死の悲しみ、迷ってどこへ行っていいかわからんという、それを歌にした。そのあと迷って迷って一年経った名月の日にお月さん見て、去年は二人で一緒に見ていた彼女は逝ってしまった。その時、われに返って月の向こうへ行ってしまう。まあ仏教でいう彼岸へいったという。そういう一種の悟りですね。『万葉集』は当然仏教が入ってからですから、全体に仏教思想みたいなものがずっと詠み込まれていますし、入っていますね。思想の背景としてね。そういうこともあって、人麻呂なんかの初期の『万葉集』の歌の中に、諦めと自分との魂の別れの悲しみを乗り越えて向こうへいったという、非常に大乗的なものの考え方がみられます。
 
西橋:  今おっしゃった奥さんを亡くした柿本人麻呂の歌に添えてこの写真を撮られている。
 
井上:  秋の枯れ野の中を彷徨っていた。それを奥さんが水の中にいたというんじゃないけれども、でも悲しみは凄く綺麗ですよね。迷って迷ってどこへいったかわからない。迷って迷っていっている時の世界。凄く綺麗なんですよ、心の中は。純粋なんです。僕は、山でそういうのを見て水の中にこう浮いているのを綺麗だなあ、と。人麻呂の心に合うなあ、と。どこで撮っても一緒でしょうけど。僕としてはそれを偶然見付けてね。同じように彷徨うというか、人麻呂の気分をずっと味わいながら、何撮ったらいいかなあと思って撮っていたんです。最後はお月さん見て、一種の悟りみたいなものを、僕自身も人麻呂の気分を味合わせて生きながらにして味合わせて貰ったという。それで人麻呂は大好きで正直ですよね。ただ美辞麗句で奥さんの死まで美しく詠うのではなく、ほんとに悲しんだという人間性の発露を詠んでいるわけでしょう。奥さんの挽歌もまた短い歌も歌っています。非常に大切に歌っているから心の中の優れた人がほんとの意味で歌人として優れた人だったんだなあと思う。
 

 
ナレーター:   秋山の黄景を茂み迷ひぬる
        妹を求めむ山道知らずも
 
平城宮の跡に復元された東院庭園。「大和は国のまほろば」と言われ、奈良の都が栄えていた頃、この辺りには多くの万葉の詠み人が集ったことでしょう。
 

 
西橋:  井上さんご自身もその万葉の歌と写真とをドッキングされる作業を進めていく中で、それまで思ってもみなかった、あるいは気付かなかったことに随分気付いていくというようなことはありますか。
 
井上:  そうですね。前は奈良に来るのは、古いお寺があるし、仏像や建築物とか、そういう方から仕事上も含めて入っていったんです。年食ったかわかりませんけど、心情的にもう少しこういう自然風景の中にも、そういう心に響くようなものがあるかないかいろいろ考えた時に、そこでいろんなドラマが発生してきますよね。人麻呂ぐらいから入ってくるんですけれども、最後は家持とか旅人とか、そういうことにおいて、奈良に対する思いみたいなものがドッと増幅されていく。
 
西橋:  そういったドラマが繰り広げられた舞台でもあるんだという。
 
井上:  そうなんです。だから一度万葉集に溺れた人はずっと溺れるんじゃないですか。今も増えているし、またその人による解釈の仕方、万葉集の幅の広さ、ただ景色だとか歴史だけじゃなくて、現代にも繋がるような見方いっぱいありますね。
 

 
西橋:    あおによしならのみやこは咲く花の
         薫(にほ)ふがごとく今盛りなり
          (太宰小弐小野老朝臣(だざいのしょうにおののおゆのあそみ)
 
井上:  「今盛りなり」という言葉の中に、花が盛りじゃなくて、春が盛りになって、天平の文化というものが非常に栄えていて欲しいという願望もあるし、嘗て彼は平城京に住んでいたし、その世界を思い浮かべながら、そういう美しかった奈良の都がずっと永遠に栄えていて欲しいな、という。それ願望なんです。それを花に喩えて。別に桜ではないんでしょうけど、それで僕はただすらっと読んでいくと、みんなその裏に願望があるんですね。家持なんかでも、最後は雪が降って、万葉集が美しい都が何年もずっと栄えていて欲しいという。正月降る雪は非常にめでたい、と。いつまでも栄えて欲しい、という。「万葉集」という言葉が付いたのは、万の言葉が詰まっているというのと、千年も万年も奈良の都が栄えていて欲しいという願望がその裏にある。だからこの頃、表面を読まないで裏のことばかり考えて、そう思って写真撮っていると、撮り方も写真に使えるほうも変わってきますね。僕なんかさっきの宮滝の吉野の風景も、まさにこの、と言われるけど、最初に撮った頃の思いと違うわけです。持統さんがそこで思索した、考えた場所。よう考えたら葬送の場所でしょう。人が死んだら骨を撒く場所ですよ。僕はあそこで別荘を作って気楽に暮らしたいと最初は思っていた。確かに風光明媚だし、崖があって中国的な雰囲気ですね。ああ、良いなと思っていたんです。万葉集の裏のことを考えたり、他の方がお書きになったものを読んだりしているうちに、あの場所に立ってみると、そんなにただパッと綺麗な華やかな時代の景色ではない。その中には万感を込めた思いがあるという。そうすると、写真的には明るいものではなくて、秋の終わりの雨上がりだというふうに思われる。あそこは雨上がりはズルズル滑って恐いんですよ。いつはまるかなあと思いながら草を分け石を分けていくんですよね。もの凄く恐いです、雨が降ったら滑るしね。それでもそれを待っていて行くようになった。最近の写真はそういうふうになっている。持統さんが三十一回も行って、何も歌が書けなかったというような雰囲気を自分の写真で表現したいなと思って何回も行ったわけです。
 
西橋:  そういう意味では、万葉の人の心が今を生きる私たちの心とも相通じるものがあるという。
 
井上:  やっぱり普通の人間なんですよ、みんなね。だから万葉の歌がいつの時代でも持て囃される。名句は研究もされるし、そういう裏の中に込められている日本人のささやかな思いだとか、優しさだとか、その歌の中に込められた願いとか思いとか、そういうものをストレートに表現しないで歌の中に託して表現している。こういう読み方で万葉集を見ているともっともっと深いものになっていく。またやりたいなと思う。また最初自分の見たものと、何回も何回もこの歌を読み返して、ほんとの意味を探ってみるのには、万葉集の歌の世界は素晴らしいですね。
 

 
西橋:  写真を通して、井上さんは、長い歴史の中の人々の心と言いますか、そういうものを写真で表現していらっしゃるわけですけれども、それはどこかに人間の生と死ということも意識していらっしゃるんですか。
 
井上:  そうなんです。自分も歳を重ねて七十越しますと、お水取りをあと何回見られるかな。家内と食事何回食べられるか、と。人間は七十七にjもなると、自然界のことについても、蝉はどうしているだろうか。山のヒグラシはどうしているだろうか。カマキリはどうしているだろうか。トンボはどうしているだろうか。彼らは静かに知らんうちに消えているでしょう。喚きも何にもしないで。人間って死ぬと大変でしょう。お葬式もしないといかんし、死ぬ時まで迷惑かけているでしょう。だけど虫なんかそんなことならないし、一体亡くなる時どうしているのかなあと思って。で、山の中へ、赤とんぼ撮っていて、赤とんぼが住んでいる所は三年ほど放置してある田圃で、ちょっと湿気ていて、三年も放置しておくとお米と草といろんなものが自然返りして一緒に共生しているんです。そのうちに農薬がすっかり抜けているんですね。十一月に入るとそこで草やら稲に停まって寝ているんです。いっぱい夜露を溜めてね。羽根にね。夜が明けてから太陽があたって露がなくなるんです。太陽が出て羽根が乾いていく。見ていたら、どうするかと思ったら、最後にちょっと引っ付いた露をパラパラと振って、パッと飛んでいく。露を振り払ってね。あ、綺麗だなあと思って、次の日に写真を撮り出したんですよ。トンボって近づいたら逃げますよ。それが露がいっぱい載っている時はつまんでもじっとしているんですよ、重いから。それで接写して見ていると、それは綺麗です。あんな綺麗な棺桶があったら入りたいなと思うぐらい。露が太陽に当たって宝石のように輝いている。いやぁ、彼らはこんな中でなんという美しい世界に彼らはいるんだろうと思ってね。ある日そういうトンボをこう追って、向こうの方にもう一匹いたらいい写真になるなと思って一匹つまんだんですよ。生きている間は草を掴むんですが、どうしても草を掴まない。離したらポトッと落ちた。アッと思ったら、それで亡くなっているんですよ。いやぁ、彼らは凄いな。華厳の世界も綺麗だろうけど、騒がないで静かにあんな世界で健気に死んでいく彼らの美しさというものは、せめてトンボの爪の垢があれば煎じて飲みたいなと思うぐらい、ああいう終わり方が人生にないのかなと思いましたね。そういう世界が『万葉集』の中にもある。表面だけの歌でなくて、裏の中にそういうものがある。自分も赤とんぼのああいう姿にあやかりたいなあ、と。人間がああなれたらいいですね。まあなれないですよね。
 
西橋:  「お寺も好き、写真も好き」とおっしゃる井上さん、これからのお仕事はどんなことを今考えていますか?
 
井上:  テーマとして、『万葉集』は持ち続けております。そういう世界が自然の中にたくさんある。それがトンボの発見だったんですけど、ああいうものを通じて、「ネイチャーフォート」という世界を撮っている方が自分も気分が楽だし、自分の生き方を重ね合わすということが容易だし、『万葉集』は幸い自然の中の風景ですので、奈良にいっぱいありますから撮れます。被写体が変わっていきますね。変わっても、僕の思いは「美の脇役」や「万葉集」初めそういうものとしては変わらない。撮るものは自分自身にとっては変わらない。「撮るものが変わった」と言われているけど、僕の中では変わっていないです。
 
西橋:  全体がドキュメンタリーである。
 
井上:  今の奈良の記録でございます。それに徹してまたこれから残る人生行こうかなあと思っています。
 
西橋:  どうも有り難うございました。
 
井上:  有り難うございました。
 
 
     これは、平成二十年二月十日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである