離散者として生きる
 
                    作家・東京経済大学准教授 徐(ソ)  京植(キョンシク)
一九五一年京都市生まれ。朝鮮忠清南道(チュンチョンナムド)出身の祖父が一九二八年に来日したことから日本に住むことになった在日朝鮮人。一九七四年、早稲田大学第一文学部(フランス文学)卒業。一九七四年、韓国に「母国留学」中、朴正煕政権によって投獄された在日韓国人政治犯徐勝、徐俊植の弟。兄たちを救うため、各地で講演、支援を呼びかけた。平成三年法政大学講師。のち東京経済大学講師を経て現在同大学准教授。著書に「長くきびしい道のり」「過ぎ去らない人々」「プリーモ・レーヴィへの旅」「秤にかけてはならない」「ディアスポラ紀行」「分断を生きる」ほか
 
ナレーター:  高層ビルが林立する中に、古くからの下町の風情を残す街・ソウル・シンチョン。徐京植さんは、日本の京都に生まれ育った韓国籍の在日朝鮮人です。東京経済大学で教鞭を執る徐さんは、大学から二年間の国外研究の機会を与えられ、父祖の故郷であるここ韓国を選びました。徐さんは、作家としてもこれまで数々の作品を発表してきました。その多くは民族や共同体を分断され、生まれ故郷を追われて離散した人々がテーマです。離散した人々は、ディアスポラ(diaspora:離散者)と呼ばれます。元は祖国を追われたユダヤ人を指す言葉でした。現在では植民地支配、戦争、経済格差などさまざまな原因によって住んでいた場所から離れ生活せざるを得なくなった人々全般をさす言葉として使われています。徐さんもまた自らをディアスポラ(離散者)と呼んでいます。本来の故郷でない場所に生まれ暮らす自分は何者なのか。どのような意識を持って生きるべきなのか。徐さんは世界に広がるディアスポラの姿を、自分の人生に重ね合わせながら問い続けてきました。
 

 
徐:  ここは私の祖父、それから父が生まれた土地ですし、私にとっては祖先の出身地という意味で「祖国」ということになるわけですね。私自身は日本で生まれたんですけど、それで人生のうちのいつかはこの祖国で暮らしてみたいという気持はありました。短期間の旅行者としてではなく、暮らしてみなければ自分というものをしっかりと認識することはできないという意識は、ほんとに思春期からありましたね。で、一番最初は一九六六年、高等学校一年の時に、韓国政府が催す在日同胞のための〈母国夏季学校〉というものに参加して、人生で初めてこの祖先の地に入った。初めて祖国を訪問したわけです。古い貨客船に乗って、一晩凄く揺れて、みんな船酔いで苦しみながら夜明けに釜山(プサン)港に着きました。そうすると釜山の山の上の方まで、いわゆるバラックがぎっしりと建 っている。釜山というところは朝鮮戦争の際の避難民が集まったところですから、そういう避難民たちの集落ですね。それが朝日を受けて光って輝いているというのが、私の人生で初めて見た祖国の最初の光景です。戦争で親を亡くした子どもたちが物乞いをしていたり、あるいはもう少し増しな場合は鉛筆とかガムとかを売って、「これを買ってくれ」と。それから靴磨きですね。そして靴磨きの少年とか、あるいはガム売る少女たちがパッと取り巻いてくる。年齢がそんなに変わらないわけですね。私は十五歳で、向こうは十歳とか、十二、三歳とかそういう年齢です。そうなると、〈この靴磨きの少年が自分だ〉という気持に私はなるわけです。何故ならば、日本が敗戦した時に、私の父親が帰国していれば、私はこうなっていたんだ、と。父親が帰国しなかったのは一種の偶然に過ぎない。帰国しなかった事情について簡単にいうと、私の祖父や他の家族がまず帰って―十七年ぶりに帰るわけですから、故郷で生活できるかどうかわからないので、父親は一時的に残って日本で働きながら生活資金を送る、と。そういうふうにしてまず帰ったんだけど、とってもこっちで暮らしていけないということがわかって、父親は日本で引き続き働くということになった。ということが、私が日本で生まれることになった原因なんだけど、でもその時父親が帰っていれば、〈私が靴磨きだった、私がガム売りだった〉と思うわけですよ。私が彼らから「お金をください」と言われる側に立っているという、その自己分裂の経験。〈相手も自分ならこの自分も自分だ〉という。つまり〈祖国の地と海外にいる自分との自己分裂〉、こういう体験ですね。もう一つの自己分裂の体験は、先ほど言いました団体旅行は反共教育というのがプログラムに入っていますから、三十八度線の南北軍事境界線見学に行くんですね。そこの軍隊に行って、将校たちからいろんな演説を聞いたり、説明を聞いて、塹壕から望遠鏡で向こう側を見るわけです。そうすると、「向こうにいるのは誰なのか」ということについて将校たちは、「敵だ。あいつらが攻めて来て大変な血が流れたし、今も攻めて来ようとしているんだ」と。南側からもいつでも攻めるぞ、という軍事対立の非常に厳しい時代ですね。望遠鏡で覗きながら、そういう説明を聞いても、私には〈向こうにいるのは自分だ〉という気がしてならないんです。私たち一家がそっちに行かなかったのは一つの偶然だという気がするわけですね。私の父親はどちらかというと、共産主義が嫌いな人だったから、そういう選択をしなかったけれども、しかしもしもっと貧しかったらそうしていたかも知れない。そうすると、今私は南から北を覗いているけれども、覗かれている北側にいたかも知れない。「あいつが撃ってきたら、お前も撃ち返せ」とか、「あいつを撃て」と言われて撃つことができるかという、そういう自己分裂の体験。これは南北に引き裂かれた民族的分裂が私自身の中に走っているということです。二重の自己分裂です。つまり「朝鮮半島と日本・本国と在日」という分裂と、それから「民族の南北分裂」、そういう自己分裂というものを、その時非常に自分で痛感して、そのような自己分裂を強いられた存在。その自己分裂状態を生きていくものという自己認識ですね。そういうことを実は高校一年の時に韓国に生まれて初めて訪問した後、ちょっと詩を書いたりしたんです。高校三年になってから、『八月』という詩集にしたんです。この「あとがき」は一九六八年の九月に書いています。つまり、六十六年の夏に初めて韓国に行ってから二年後ですね。
二年前の、私の初めての韓国旅行は、「故郷(ふるさと)」の模索であった。それまでの私は、自らの存在の基盤としての「故郷」、あるいは「民族」を、リアルにイメージすることが出来なかった。私は「故郷」の実体を捕え ようとした。韓国の八月は、鈍器でなぐりつけるように暑かった。私は「目撃者」であろうとした。「目撃 者」は傍観者ではない。「目撃者」はいつの日か、証言する。
 
つまり十五歳の時に祖国・韓国を見て、十七歳の時にこういうふうに書いているわけですね。勿論大変若い稚拙なとも言える感性ですけれども、四十年経った今振り返ってみても、この時の感受性のありようというか、問題意識の枠組みがそのまま変わらないで続いているという気がします。
 

 
ナレーター:  徐京植さんは、在日一世の父徐承春(ソ・スンチュン)さんと母呉己順(オ・ギスン)の四男として、一九五一年京都で生まれました。徐さんは、年齢が近かった六歳上の兄勝(スン)さん、三歳上の俊植(ジュンシク)さんと共に育ちました。母呉己順さんは、一九二八年日本の植民地支配を受けていた朝鮮半島から幼くして渡日。十歳に満たない頃から子守奉公に出され、京都の伝統産業である西陣織などの織り子として働きました。結婚後は糸屑の販売をする夫を支え、四男一女を育てました。生活に追われ、学校にも行けず、文字の読み書きが不自由だった母。徐さんら兄弟の生き方や考え方に強い影響を与えたのがこの母の存在でした。
 

 
徐:  私が学校でクラスの友だちを殴った、と。殴るといっても小学 校の二年とか三年ですから叩くという位のことですけど、そうすると相手が泣き出して先生に告げ口する。先生が家に文句を言いに来る。そんな時も母は無条件に私を叱ったりは絶対しません。そうでなくて、「何でそういうことが起きたのか」を聞いて、結局聞いているうちに相手の子が、「朝鮮に帰れ」とか、そういうことを言ったためだということがわかると、断固として私をかばいますね。先生の前で、「この子は悪くない。そんな子に育てていない。そういうことを言われて黙っているような子になって欲しくない」というようなことを、断固として先生に言っています。だから「学校の規則を守りなさい」とか、「先生のいうことを聞きなさい」というふうな正義じゃないんです。だからそういう意味で、御上と正義というものに対する距離感があって、自分たちの正義がそこにはあったと思います。そういうことは、例えば日本の植民地時代に逃げて来る人がいると匿(かくま)うわけですね。同じ故郷の出身者とか、祖父の知り合いだとか、遠縁の親戚だとか、そういう理由で逃げてきた人を匿っている。そしてまた、どっか知り合いの伝手(つて)で逃がすというふうな、民衆的なネットワークというのがある程度機能していたようで、それは村社会が丸ごと軍国主義の体制に組み込まれて、忌避した人間を村中が告げ口するという社会とは全然違うわけですね。正反対なわけですね。それは植民地支配を受けていた民衆の中で自立的に育ってきたある種の正義の基準だと思いますね。日本敗戦直後も、いったんこの朝鮮(現在の韓国)の故郷に、祖父と私の父親の兄弟が帰国しますけれども、こちらで生活ができない。それから戦争も起こるというんで、もう一度日本に戻ろうとします。私の叔父からみれば、自分の兄である私の父が日本で暮らしているわけだから、もう生きるために伝手(つて)を求めて戻ろうとすることは自然な行動ですよ。しかも法律的にみても、一九五二年のサンフランシスコ条約までは、在日朝鮮人も日本国籍ですから、日本国籍を持っている人間が日本に入国するのですから合法的な行為な筈なんだけど、しかしそれを日本国とGHQが密入者として取り締まるわけですね。取り締まられて強制送還されるともう生きていけないから、みんな死に物狂いで密航して来ます。まさにこれがディアスポラの姿ですね。そういうふうにディアスポラ的に越境してきた人たちを匿う。これが在日朝鮮人の歴史の中であまり明らかな形で語られてはいないんです。そしてちゃんとした研究もないんだけれど、大体そういう人たちが二十万人ぐらいいたなんていう説もあります。私の家の場合は、叔父―私の父親の弟がそういう立場でしたね。そうすると、そういう人を家の中で匿うわけだから、私は小さい時から、「警察とかなんか怪しい人が家の周りをウロウロしていたら言いに来るんだよ」とか、「それから叔父さんのことを聞かされも絶対言っちゃいけないよ」という規範の中で生きるわけです。つまりそれは御上とか政府とか、警察とか学校とかという規範と違う自分たちの規範がそこにあるわけですね。だから慈善的なるものに対する距離感、道徳観というのが、別の形で養われるんだというふうに思いますね。

 
ナレーター:  徐さんが高校生になった頃、二人の兄勝さんと俊植さんは、自分たちのアイデンティティー (identity:主体性)を求め、相次いで韓国ソウル大学に留学しました。しかしそこで兄たちが見たものは、朴正煕(バクチョンヒ)大統領の軍事独裁体制の元、急激な工業化による過酷な労働に苦しむ人々であり、疲弊を窮めた農村の現実でした。独裁政治が強化され、南と北の民族の分断が推し進められる祖国、二人の兄は学友と共に民主化闘争に立ち上がりました。そして一九七一年、政治犯として逮捕投獄されました。北のスパイだとされ、厳しい拷問を受けた兄勝さんは、焼身自殺を図り、体表の約四十五パーセント、上半身全体に大火傷を負いました。第一審で死刑と長期刑を宣告された兄たちは、控訴審において、勝さんが無期懲役、俊植さんが懲役七年と確定しました。ソウルにあるソデムン刑務所に収監されました。この刑務所は日本が朝鮮半島を植民地支配していた時代、民族の独立運動を弾圧するため作られた刑務所で、今保存公開されています。ここは独裁政権下の韓国でも民主化運動の弾圧のためソウル拘置所として利用されました。徐さんの兄が最初に収監された場所です。
 

 
徐:  ここが放射状に開いた獄舎の扇の要(かなめ)に位置す る場所ですね。こういうふうにずっと獄舎が開いているわけです。ここが第十棟ですから、これの一番向こうの端の方の第十七号房に私の兄徐勝が入っていました。史跡保存のためということで、ここから先へは入れないんですけど、たしか向かって左側にドアが開いている部屋がありますね。あの部屋だと思います。私はポーランドのアウシュヴィッツ収容所とかドイツのブーヘンヴァルト収容所とか、いろいろな所をずっと訪ね歩いていたんです。兄がまだ釈放される前からそういうところにどうしても足が向くんですね。一番最初はミューヘン郊外のあるダッハゥ収容所に一九八三年に行ったのが最初ですけど、それは何かその時にまだ獄中にいた兄たちが、どういう環境にいて、どういう思いでいるんだろうか、ということを想像しようとしていたというか、「想像したかった」というとそれは嘘で、想像したくないんだけど想像せずにはいられない。しかしここには来れないから、だからドイツの強制収容所跡などに行きながら、どうしてもそういう想像を巡らすことになるわけですね。とにかく気持が挫かれますね。ありとあらゆる施設のありようが、明るさというか、暗さと言ってもいいんだけど、光の具合とか、作られ方とか、音の響きとか、一切合切がほんとに計算されたように、この人間的な気持を挫く。ほんとに意気阻喪(いきそそう)させるような仕組みになっているというふうに思っていたんですよ。ここは拘置所だったんだけど、彼らが政治犯として長期獄役した大田(テジョン)とか光州(クァンジュ)とかの矯導所(きょうどうしょ)(刑務所)にも行って見ましたけど、そこはまだ矯導所として使われているから、こういうふうに内部を見ることはできないわけです。外観しか見れない。だから内部を見ることができる唯一の場所がここなんですね。兄たちがいたという。やっぱり気が滅入るとしか言えようがないこの場所で、ここから徐勝の場合は、まだ火傷の傷痕も治っていない痛い体で手紙を書いてきて、
 
     涙を流し種を播くものは
     歓喜の声で収穫(とりいれ)をする
 
という手紙を一九七一年十一月に書いて送ってきているんです。たぶんあそこの部屋で書いたかどうかわかりませんけど、あそこにいた時に、そういうことを書いたんですよ。わずか二十歳代の半ばでね。どうしてそんなことが可能だったのかなという気持もします。人間性への驚き・畏怖、そういう気持がこういう場所に来るとくり返ししますね。それを理解したというふうには決して言えないと思いますね。理解できないということを何回も自分に言い聞かせるという経験だと思います。
 
 
ナレーター:  当局の手は、徐さん親族にも及びました。韓国に住んでいた徐さんの叔父は、甥の反政府的な思想を事前に通報しなかったという罪をきせられ逮捕されました。家族が危険な状況に置かれる中、京都から囚われの身となった二人を訪ね続けたのは妹の英実(ヨンシル)さんと母呉己順(オ・ギスン)さんでした。
 

 
徐:  叔父さんが投獄されているわけですから、父親が投獄されることもあり得る。刑務所で面会もしたいという希望を持っていましたけれども、今、韓国に行ったら危険が反復されるということですね。私が韓国に来たら叔父と同じことが起きることを想像しました。私は、私自身が日本に留まり続けていることに対するある種の強い罪責感を感じながら、複雑な思いでいました。母や妹に対しては、捜査機関が持っている一種の女性蔑視ということもありますけども、女がやっていることだからというふうに見逃すということもあるし、またか弱い女に対してまでそんなことをするのかという一種の世論の反発を気遣う部分もある。だから母と妹が兄たちと私たちとのパイプになる。母はメッセンジャですね。私はその情報の受け手であり、それを社会に向かって伝達する役割に結果的になったわけです。
 
徐:  今公園になって、こんなふうにお年寄りとか子どもがくつろいでいますけれども、ちょうどあの辺りが当時の面会場です。日本から私の母親が息子たちに会うために訪ねて来て、あの辺りで面会をしていたというわけですね。初めて兄勝の焼け焦げた姿を見た後の、家に帰って来て、「どうだった?」と聞いたら、もう随分長い間―十分か十五分か、もっとかな―とにかくただ何も言わずにオイオイ泣いていたんですね。で、やっと「火傷で耳も鼻もないし、口も塞がっているし」ということを言い始めた。その時その話を聞いていた自分の気持ちというのが、近頃また甦ってきましたね。くり返ししばしば甦ります。もう一つは、また別のことですけど、そういう状態でありつつも、韓国の当局が、私の兄徐勝を懐柔して、「日本で演説を何カ所ですれば―反共演説ですね―大韓民国への忠誠を表明する演説を何回かすれば減刑してやる。死なないですむ」という、そういう取引を持ちかけるわけですね。まだ裁判が進行中なのに、焼き肉屋に連れて行って、そこでたくさん人間たちが一緒にいる中で陸軍保安司令部の取調官と兄と母が食事をする。その中で取調官が、「そんなに意地を張っていないで、日本で大韓民国は素晴らしい≠ニいう演説を二、 三度もすれば生き延びられるんだから」と言っても、兄のほうは耳を貸さずに―喧嘩もしないんだけど―まあ聞き流している。しかし別れ際に母に、「こんな奴 の言うことを信じちゃダメだよ」というふうに言って、また連れられて行く。そんな場面の話もあって、そういう時に母は、どうしてああいうことができたのかわからないけど、彼女自身は動揺したり息子に縋り付いて「演説しなさい」とか、「この人たちのいう通りしなさい」ということは決して言わないんですね。そうじゃなくて、〈息子が正しい。こんなに汚い人々の、こんな奴らの言うことを聞かない息子が正しい〉ということは揺るがない信条でしたね。
 

 
ナレーター:  母呉己順さんは、息子二人が逮捕拘禁された直後から九年間、六十回以上韓国と日本を往き来しました。しかし息子たちの解放された姿を見ることはついにできませんでした。一九八○年五月二十日、呉己順さんは再発した子宮癌のため五十九歳の生涯を閉じました。その前年朴(パク)大統領の暗殺によって軍事独裁政権が倒れ、韓国の民主化や息子たちの釈放が実現するかも知れないというかすかな希望が差し込んでいました。しかし母呉己順が臨終の床で見たのは、民主化を求める光州(こうしゅう)の人々が軍隊によって弾圧されたことを伝えるニュースの映像でした。
 

 
徐:  兄二人のうちの一人だけでも、母が生きているうちに出獄する場面を見せてあげたいと思いましたけれども、そうならずに、それがひっくり返って、光州で市民たちが虐殺されている「光州事件」の報道をテレビで見ながら亡くなりました。ですから人間の記憶ということをよく考えるんですけど、その事件が過ぎ去って、そしてその歴史が誤った歴史だということになって、韓国でも公式に、「あれは光州民主抗争だった」ということになって、犠牲者のためには国立の墓地まで建てられた、というふうに、この二十七年間のうちに歴史が大きく変化したんですけれど、しかしそれはその時点で死んだ母にとってはその後の歴史はないんですね。やっぱりまったき暗黒ですよ。息子二人に対してまったく釈放の見込みがなくて、わずかに見えたソウルの春という期待すらも打ち砕かれて、そして軍人たちが市民を虐殺している場面を見て、その光景が心に染みつくような状態でこの世を去った。だから母の記憶の中ではそれが最後の記憶ですから、そ の後生き残った者が何を言おうと、それは虚しいと思いますよ。だからちょうど亡くなる時に―大量出血ためのショックだったけど―まあ気休めで私が、「朝ま での辛抱ですよ」という。大量に輸血しながら、そうすると体温がどんどん低下するし、血圧も低下して苦しい中で、耳元で「朝まで、朝まで、朝まで辛抱したら楽になるよ」と言ったら、「朝まで・・まだまだやないか!」と、母が言った。その言葉が最期の言葉で、「まだまだだ」と言って死んだ。「朝までまだまだだ」というのが象徴的な言葉であり、また真実の気持ですよ。だから生きている者が今となっては「草場の陰でお母さんも喜んでおられる」とか、「あの人たちの犠牲のお陰で今日がある」とか、その種のことをよく言うじゃないですか。こういったことは、私は生きている人間たちが自分たちに対して行っている気休めだと思いますね。やっぱりその瞬間に切り取られた、その瞬間に命が終わった人たちのその瞬間の記憶というのは何なんだろうか、ということをいつも心に銘じたいというふうに思います。
 

 
ナレーター:  妹の英実(ヨンシル)さんによって、母の死を知らされた兄勝(スン)さんは、終身刑の獄中から亡き母の霊前にこう記しています。
 
オモニ(お母さん)の本意は何なのでしょうか?
「人は誰であれ自分自身の力で生きていかねばならない」との言葉を心に銘じています。
そして、オモニは、今までは私たちみんなの肉となり血となって、ともに生きておられます。
 
もう一人の兄俊植(ジュンシク)さんは当局の残虐な政策に抗議し、母に追悼の意を表するためとして、命を懸けたハンガーストライキに入りました。母を通じて兄たちの言葉を受け取り伝えることが、自分という存在の意味だと考えてきた京植さんも無力感に苛(さいな)まれていました。そんな中アウシュヴィッツからの生還者が書いた一冊の本に出会います。
 

 
徐:  自分は一体何をしていけばいいのか。どういう役割を果たしていけばいいのか。つまり今までは母がもたらす情報を私が受け止めて、そしてそれからいろんな方針を出して、ジャーナリストに伝えるとか、あるいは記者会見を開くとか、そういう形の一つのパターンができていたわけだけど、そのパターンそのものが崩れたわけですね。私の年齢もちょうどその時が三十歳という年齢です。兄が逮捕された時に二十歳。その時が三十歳で、人生そのものが三十歳という年をこれといった決まった職業もなく迎えたわけです。そんな中で、これは希望とか光とか、そんなふうに表現することはできないんですけど、覚醒を促す、覚悟を促すというか、そういう厳しい本と出会ったわけですね。その本によってとにかく生き抜いて見届けて証言する。私に即していうと、〈兄たちを生き延びさせて彼らが証言するということを実現する〉。そういうことが可能だということについて、私は非常に悲観的だったんです。生き延び切れないんじゃないかというふうなほうにかなり傾いていましたけど、もしそういう場合でも〈自分が兄たちに代わって証言する〉ということを、それ以後の人生の基軸に据える。そのために生きているんだ、というふうに自分自身に言い聞かせる。そういうふうになりましたね。ここにプリーモ・レーヴィの『アウシュヴィッツは終わらない』(原題:「これが人間か」)という本がありますけれども、これは一九八○年の二月が初版なんですね。『アウシュヴィッツは終わらない―あるイタリア人生存者の考察―』。これはユダヤ系イタリア人であるプリーモ・レーヴィ(ユダヤ系イタリア人。アウシュヴィッツ第3収容所での一年間の強制労働を耐え、奇跡的に生還。戦後は平和のための証人として、アウシュヴィッツ体験を記 した数々の記録文学を執筆した:1919-1987)という人が、第二次大戦の末期にレジスタンス運動をやっていて捕まり、アウシュヴィッツに送られ、毒ガスによって即座に殺戮されるということは免れたものの、強制労働をおよそ一年にわたって経験し、そこで人間以下という待遇を受け、地獄を経験した。そして生き延びて証言したという、こういう本ですね。私はこの時に読んだプリーモ・レーヴィとの出会いが、自分にとって大変大きな事件だった。この時以前と以後というふうに分けてもいいぐらい大きな出来事だった、というふうに思っています。このかなり冒頭に近い「地獄の底で」という章は、最初に強制収容労働所に到着した場面ですね。
トラックから降ろされと、かすかに暖房の効いた、がらんとした大部屋に押しこまれた。何という喉の渇きだろうか! スチームのかすかな水音が、私たちをたけり狂わせる。四日間も水を飲んでいないのだ。だが水 道の蛇口があるではないか。その上にはり紙があり、汚水につき飲用を禁ず、と書いてある。ばかな。はり紙はいたずらにきまっている。
私は水を飲み、仲間にもそうするよう促す。だが水は生ぬるく、甘く、 どぶ臭くて、吐き出さねばならなかった。
これは地獄だ。我々の時代には、地獄とはこうなのだ。
 
という。こういう筆致です。これは私にとっては少なくとも大変リアルに、振り下ろされる鞭によって激しい痛みを感じたとか、切り付けられる傷口が痛むとか、そういうこと以上に、いわば今から起こる激しい苦痛というものを予期させ、予感させ、その予感の中に無期限に放り出された人間の描写ですよ。こういう感じというのは、韓国の現実の中に、あるいは獄中の現実の中にたしかに存在するものとして、拷問とか、無期限ハンガーストライキとか、政治暴力とか、そういう世界がある、と。それは私にとって触れればわかるような感覚だけど、私自身はそこにはいない。私が何かそこに入っていく。私がそこに引きずり込まれるかも知れないという感覚で、それまで十年間生きてきたわけですよ。これがまさにそうですね。「喉が渇いて堪らない。水が欲しい。だけど飲用を禁ず、と書いてある。飲んでみるとどぶ臭い」という。しかもこの描写ができるということは、自分たちの経験、自分が受けた、そういう言うも言われぬ嫌悪感とか、恐怖感というものを、客観的に眺めて記録している自分がいるということですよ、自分の脳裏にね。そういう人間の恐ろしいまでの強さというかな―強さという言葉があまり適切と思いませんけど―つまりそれは世の中で一般的にいう精神的に強いとか、どんな痛みにも耐え抜くとか、そういう話ではなくて、これほどの嫌悪感とか、これほどの恐怖感を脳裏に刻んで、そして生き延びた後、書き記すことのできる強さ、そういう人間の強さというものが、結局私の心を動かしたんだと思いますね。そういうふうでありたいというふうに思ったんだと思いますね。このプリーモ・レーヴィの本の中の一種のハイライトというか、もっとも中核的な部分というのは、囚人仲間にダンテの「神曲」の「オデュッセウスの歌」を思い出そうとする場面だと思うんですね。
 
     きみたちは自分の生まれを思え。
     けだもののごとく生きるのではなく、
     徳と知を求めるため、生をうけたのだ。
 
この「神曲」のこの下りを囚人仲間に語り聞かせるその言葉が、まるで自分自身に対する啓示のように聞こえる瞬間があったというのです。プリーモ・レーヴィ自身が、
 
私もこれをはじめて聞いたような気がした。ラッパの響き、神の声のようだった。一瞬、自分が誰か、どこにいるのか、忘れてしまった。
 
ということを書いています。このことをどう考えるか非常に難しい。簡単には言えないんです。私も最初にこれを読んだ時から現在まで、いろんなふうにこのことを巡って考えています。勿論人間が獣でない。知や徳を求める存在なんだ、ということは、一つのヨーロッパにおける人間精神の発達史といいますか、つまり人間というものが自らの知性とか、あるいは道徳律によって自らを律して、いわゆる人間らしく生きることができるという、その人間性という概念に関わっているわけですね。つまり人間のどっか上のほうに徳と知があって、その命令に従って人間は生きているというのではなくて、人間そのものの中にそういう要素が内在しているんだという人間観ですね。それがアウシュヴィッツという現場の中では徹底的に破壊に曝されている。しかしそれがこの瞬間に、いわば稲妻のように甦ったという場面ですよ。ですから私はこれを見た時に、人間というのは、「知や道徳を求める存在であって、獣とは違うんだ」と世の中で一般的に言われていることではなくて、その世の中で一般的に言われているその人間観が、最悪のもっとも困難な状況の中でプリーモ・レーヴィという人間によって証明されようとした。そういう話としてこれを読んだわけですね。そうだとしたら、勿論アウシュヴィッツ収容所とは比較にならないものですけれども、半ば酸素の薄い地下室に放り込まれたような状態にある私自身にとっても、人間の規正を拠り所として、徳と知というものに芯をおいて、自らを解放するということができるのではないか。できるんだという一種の非常に厳しいけれども励ましとしてこれを読むことができるのではないか、とその時は思ったわけですね。
 

 
ナレーター:  徐京植さんが、プリーモ・レーヴィの故郷、イタリア・トリノを初めて訪ねたのは、本との出会いから十六年後のことでした。プリーモ・レーヴィは、トリノ市民共同墓地のユダヤ人の区画に眠っています。アウシュヴィッツからの奇跡的な生還から四十年。プリーモ・レーヴィは、平和のための証言者として警告を発し続けてきました。しかし、その人生は悲劇的な幕切れとなりました。一九八七年、プリーモ・レーヴィは、自宅アパートのエレベーターホールに飛び降り、自ら命を絶ったのです。弾圧され、離散した人間の記憶を生き延びて証言し続ける。戦後、プリーモ・レーヴィが格闘し再建しようとした人間性そのものが破壊に曝されているのではないか。証言者としての生き方に、新たな自分の指針を見出してきた徐さんは、その死に大きな衝撃を受け、何が彼を死に追いやったのか。同じく離散者である自分は、何を引き継いでいくべきかを考え続けてきました。
 

 
徐:  プリーモ・レーヴィは私にとって一つの尺度というかな、人間的なるものがすべて破壊された場。つまり我々はごく当たり前に、「人間なら話したらわかる筈だ」とか、「人間がそこまでする筈がない」とか、あるいは逆に、「人間なのにこんなことをする」という、そういう人間というものに対して持っている通念がすべて破壊されたその場からの生還者ですよ。その場からの生還者が、それでも人間という尺度を再建しようとして、理性の導きによって、しかも対話によって平和を達成することができる、と。そのために過去を記憶し、過去の歴史をねじ曲げようとする人たちに闘いを挑み、そうした平和を求める人々の認識の広がりによって地獄の再来が防げるという、その構図がもう通用しないんだ、と。つまり人間再建のための尺度が自ら死んだんだという事件だったわけですね。だからそれは八十年代を生きて、しかも兄が獄中に、自分が獄外にいるということの一つの根拠を大きく揺り動かされた。その根拠に亀裂が入ったということになりますね。ここで結局、プリーモ・レーヴィは「何故自殺したのか」という問題を考えたわけですけれども、それにはいくつもの理由が考えられます。一つは、一九八二年にイスラエルがレバノンに侵攻して、そこでサブラ、シャティーラ難民での虐殺という出来事が起きた。プリーモ・レーヴィはその時に、イスラエルが攻 撃的なナショナリズムに進むことに対して警告を発し、イスラエル軍の撤駐を呼びかける声明に署名します。しかし収容所の囚人仲間であった筈の人たちからも、それに対して辛辣な非難の手紙を受け取る。そういうふう な経験がありました。つまり、いわば収容所という経験から生み出された避難所である筈のイスラエルが、新たな虐殺の加害者になっているという現実が、プリーモ・レーヴィの一つの普遍的な人間という基準に深刻な亀裂をもたらしたということです。もう一つは、一九八○年代はドイツにおける「証言の時代」と言えると思いますが、そういうものに対して、ドイツの国内でも反対する歴史修正主義の動きが現れます、。それが一九八六年から始まった歴史家論争だと言いますね。つまり「何故ドイツだけが非難されなければならないのか」とか、 「歴史上で見て、ナチが行った行為は特別なものじゃない」とか、ナチの犯罪を相対化し道徳的な負担感を軽減しようとするような歴史修正主義の動きですね。その翌年、八十七年にプリーモ・レーヴィが自殺していますから、おそらくこれもまた四十年間にわたって証人として活動してきた結果、しかし人類は何も学ばないという、その大変な疲労感・消耗感を彼にもたらしたと思いますね。ですから、プリーモ・レーヴィの自殺が衝撃であるのは、プリーモ・レーヴィという人が敗北したとかと いうことではなくて、彼が挑んだ課題、彼の肩に負わされた課題というのが、それぐらい重いものであり、しかしそれは我々全体が否応なく担わされている課題なんだという、そういう認識を迫られたという意味で衝撃的なんだと思うんです。だから希望に満ちて、人間性という一つの概念を与えられた一つの信仰のようにして、それにすがるということはもうできない。しかし私たちはその廃墟の中から破片を拾い集めるようにしながら、それを再建しなければならないという課題の前に立っているというのが、今の私の感じていることなんです。だから私の根本の中に、人間性への信頼があるということは、つまり希望に満ちた人間性というものがあって、それを信頼しているというふうに いうと、それは間違い。しかし人間というものが過去において暗黒や懐疑に耽ろうとする私に時々そうしたキラッと閃くような破片の形をとって、絶望することや放棄することを断念させる。絶望や放棄から呼び戻すという瞬間、そういう瞬間に対する信頼はあります。韓国の民主化闘争の過程で、到底不可能だ、しゃがみ込むしかないという時に、まさにその極限で立ち上がる人たちがいた。二十年前の「六 月抗争」の時に、私の心がほんとに動かされて、今でも忘れることのできない映像は、涙流弾に反対する学生たちがデモをしていて、それを機動隊が激しく棍棒で叩いてぶん殴って抑圧する。鎮圧している時に、おばあさんが一人、傘を持ってその機動隊を殴っているという場面ですね。それはさっきから言っている破片のような場面ですよ。そういう場面がいくつかありますね。私の母であるとか、母がおこなった見聞とか、プリーモ・レーヴィが残した作品や言葉や生きてきた痕跡そのものがそうした一つの破片だと言いますし、その破片を手掛かりにして、外部から自分たちをもう一度見る想像力をどれぐらい養えるかにかかっていると思います。別の言い方でいうと、他者への想像力というものを持てるかどうかということだと思いますね。もしも、私たちが生きているこの空間しか世界がないとすると、例えばアウシュヴィッツに放り込まれた人間に、アウシュヴィッツの外がない、というふうに想定すると、そこを生き延びるとか、証言するという発想は出てこないわけですね。そこには外がないわけだから。外があると考えるからこそ生き延びて証言しよう。外にいる誰かがこの証言を聞いてくれる筈だから、このことが再来するのを防げる筈だというその発想が可能になるわけですよ。つまりその外というのは、歴史的には、例えば民百姓にとって現世があまりにも辛い時に、この現世の外としての来世があるんだということが、この現世を生き延びるために必要だったわけです。しかしそれはまあ構想上の外ですね。その外が何もないんだ、と。現世しかなくて、それが救いようもなく辛いんだとしたら、生きていくことができないわけですね。あるいは死ぬこともできないと言ってもいいのか、アウシュヴィッツも同じだ、と。だとしたら、信仰という形ではなく、しかしこの自分たちを限定しているこの空間の外というものを考えるためには、ここの目の前にある人間たちではない人間、言ってみれば、本来の人間性を身に付けている人間たちがどこかにいる筈だということを想定しなければ外部があり得ないわけです。だから我々は、今我々が生きている現実に外部があるのかどうか。その外部を想像することができるかどうか、ということが非常に重要な問われている点だし、またプリーモ・レーヴィが我々に残した重大な問いだというふうに思うんですね。
 

 
ナレーター:  プリーモ・レーヴィの死から、一年後の一九八八年、七年の懲役刑だった兄俊植さんが解放されました。拘禁を十年延長され、獄中生活は十七年間に及んでいました。さらにその二年後の一九九○年、無期懲役を宣告されていた兄勝さんも十九年ぶりに解放されました。徐さんら兄弟の生きる指標であり、精神的支柱だった母呉己順さんの死から十年後のことでした。徐京植さんは、今韓国でプリーモ・レーヴィの著作を出版することに力を注いでいます。
 

        (トルベゲ出版社の編集者キム・ヒジンとの会話から)
 
編集者キム: 『アウシュヴィッツは終わらない』はとても売れました。3刷までゆきました。6000部も出ています。私たちは7000部用意しています。
徐:  それはいい方なんですか?
 
編集者キム: はい。最近この手の本は売れませんが、これは好調です。
 
徐:  よかったですね。
 
編集者キム: よかったです。次を引き続き出せば、もっと話題になり売れるでしょう。
 

 
ナレーター:  プリーモ・レーヴィの翻訳はかつて韓国にはありませんでした。徐さんは祖国の人々の中にプリーモ・レーヴィの破片のような言葉を受け止める者がいることを信じて、抑圧された声、離散者としての生のあり方を伝えようとしています。徐さんが足繁く通う出版社はソウルの北、北朝鮮との軍事境界線に近い場所にあります。
 

 
徐:  あれがケソン(開城)。あの山の一番向こうのぼんやりと見え ている山の稜線がありますよね。あれがケソンなんですね。だからあこが北朝鮮の都市で、この場所はむしろソウルよりも向こうのケソンの方が近い。
 
出版社社長: 妻の実家は三十八度線の向こうにあります。
 
編集者キム: 私のおばさんと叔父さんも向こうにいます。
徐:  今もですか? 連絡は?
 
編集者キム: 連絡できません。
 
徐:  まさに離散者ですね。
 

 
ナレーター: 少年の頃初めて見た故郷の地。あれから四十年が過ぎた今もなお分断された今の 祖国の姿。それは徐さんにとってこの場所からも遠く隔てられた離散者として生きる自分自身を問い続ける風景でもあります。
 
 
     これは、平成二十年四月六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである